| モノローグ | 空が白み始めた頃、急かすほどではないがゆったりもしていない調子でドアを叩く音が響いた。 |
| 鬼灯(男) | もう少し寝かせて……5分……いや、10分……。 |
| モノローグ | 鬼灯は布団に潜りこんだが、音を完全にシャットアウトすることはできない。重々しく、粘り強く、諦めそうにないその音は、自分が起きないかぎり、天地が荒れすさむまで続くのではと思えた。 |
| 鬼灯(男) | ……はいはいはいはい、いったい誰だよ――君まだここにいたの!? |
| モノローグ | 部屋の外に立っていたのは落ち着いた様子のヤクだ。いらだっている鬼灯とはまるで対象的である。 |
| ヤク | この宿屋に泊まったんだから、ここにいるのは当然だろ。 |
| ヤク | お前も目が覚めたんだから、始めるぞ。 |
| 鬼灯(男) | 始める?始めるって、何を……。 |
| ヤク | 昨日の夜、言ったろ?寝たら問題と向き合うって。 |
| ヤク | オイラが思うに、宿主さんはきっとどこかに閉じ込められてるんだ。だから幻でオイラたちにメッセージを送るしかできなかったんだよ。 |
| ヤク | 宿主さんはお前に、宿屋をしっかり経営するようにって言ったろ?あと、お金が必要だって……もしかしたら、それが宿主さんが帰って来るための鍵なのかも! |
| 鬼灯(男) | どこかに……閉じ込められてる? |
| ヤク | 何か思いつくとこない? |
| 鬼灯(男) | ない。この宿屋以外に姉貴を閉じ込めるところがあるなんて、想像もできないよ。 |
| ヤク | 他に手掛かりがないなら、宿主さんの指示通りに動くしかないぞ。まずはこの宿屋をしっかり経営しよう。春節の前に大きな損失が出ないように。 |
| ヤク | オイラが手伝えること、特に力仕事の類があったら、言ってくれよ。 |
| 鬼灯(男) | なんでそんなに熱心なんだ?変なやつだな……。 |
| ヤク | 変か?宿主さんが戻ってこなきゃ、お前を宿主さんの前に連れてきたことにならないだろ。だから宿主さんを取り戻せるように協力して、自分の仕事をきちんと終わらせなきゃ。 |
| 鬼灯(男) | ……「やりたかろうがやりたくなかろうが、やらなきゃいけない」、そんな顔だな。 |
| 鬼灯(男) | いいさ、わかった。こんな面倒に巻き込まれたくないけど、小遣いを死守するためだ……。 |
| モノローグ | 鬼灯は屈辱的な気持ちに歯噛みしつつも、ついには首を縦に振った。 |
| ヤク | それじゃ、急がないな。さっさと始めるぞ。 |
| 鬼灯(男) | 待て待て、扉を開ける気か? |
| ヤク | 扉を開けないでどう営業するんだ? |
| 鬼灯(男) | まずはこの状況をよーく見ろ。姉貴はいつから失踪したか分からないし、従業員たちもいない。宿屋はしばらくの間、完全にほったらかしだったんだぞ。 |
| 鬼灯(男) | 宿を開けるにしても、まずもてなす準備をしなくちゃ。 |
| ヤク | じゃあ、どうするんだ? |
| 鬼灯(男) | ああ、なんて面倒なんだ……ちょっと待て、姉貴は何て言ってたかな?住……食……そうだ、食事、休む……つまり住む場所、そして交通だ! |
| 鬼灯(男) | 宿屋を経営するのに一番大切なのは食事について。それから体を休める場所と交通関係だ。旅行者のために、まず宿泊環境を改善しないとな。 |
| 鬼灯(男) | この宿屋は、人がまだ妖精と共存していた時から存在した。人間と妖精を同時に迎えるから、人間に合わせて建てて、そこに妖精が休むのに適した部屋を配置したんだ。 |
| 鬼灯(男) | 妖精は魔力環境にとても敏感だ。だから妖精用の部屋は、特定の魔力環境が保たれるように定期的にケアしないといけない。 |
| 鬼灯(男) | 姉貴がいない間に、そういう部屋がほうっておかれたわけだから、宿屋全体の魔力の流れが滞ってしまってる。 |
| ヤク | つまり、まずは急いでそういう魔力が不安定な部屋を調えなくちゃいけない? |
| 鬼灯(男) | そういうこと。 |
| ヤク | なら、座ってないで早くやろう。 |
| 鬼灯(男) | 君、できるのか? |
| ヤク | 何が? |
| 鬼灯(男) | 魔力が不安定な部屋を整えることだよ。 |
| ヤク | そりゃあ、オイラには無理だよ。オイラはただの配達屋で、これは配達屋の仕事じゃないし。 |
| 鬼灯(男) | そうだな。僕にもできない。僕はただの画家で、これは画家の仕事じゃないから。 |
| ヤク | え……お前、この宿屋の妖精だろ?なんでできないんだ? |
| 鬼灯(男) | できないからできないんだ!この宿屋を継ぐ前に僕は家を出たんだから。だからそんなこと分かるはずがない。 |
| ヤク | それって……。 |
| モノローグ | どうすればいいのかわからず、ヤクは頭を抱えて鬼灯と顔を見合わせるしかなかった。 |
| モノローグ | どれほど気まずい空気が流れていただろうか。その時、不意に入り口の扉がノックされた。返事をするより早く、鍵のかかっていなかったドアを押し開け中をのぞき込んできたのは、一人の人間だ。 |
| 魔法使い | こんにちは……鬼灯はいますか? |
| 鬼灯(男) | ええっと?どちらさま? |
| 魔法使い | 私はリリエから来た魔法使いです。あなたの依頼を受けてきました。これが依頼書です。 |
| 鬼灯(男) | 僕の依頼?ああ……君、姉貴が言ってたお客さんでしょ。 |
| 鬼灯(男) | 君を呼んだのはもう一人の鬼灯。僕はその弟なんだ。姉貴は今いないから……悪いけど、無駄足だったな。 |
| ヤク | この人が宿主さんの言ってたお客さんなら、丁寧におもてなしするように言われただろ? |
| 鬼灯(男) | おもてなし……なんて面倒な……本当に姉貴は僕をいたぶるようなことしかしないな。 |
| 鬼灯(男) | でも、お客さんがかわいい女の子とくれば、ちょっと真面目になっちゃうなあ~。 |
| 鬼灯(男) | 姉貴の依頼書、僕にも見せてくれる? |
| 鬼灯(男) | なになに……ロンユエ城の魔法使いは諸事情で魔法学院に戻りました……妖精に提供する部屋は定期的に調整する必要があります……うんうん……ちょうど縁あってリリエに優秀な魔法使いがいると聞き、ここに来てほしいと……。 |
| 鬼灯(男) | ふむふむ、分かったぞ、姉貴が「おもてなし」って言ったのはこういうことか。 |
| 鬼灯(男) | 万が一ってことがあるから確認するけど、姉貴はもう報酬を支払ってるんだよね? |
| 魔法使い | はい、そうです。 |
| 鬼灯(男) | そりゃよかった!急を要するから、魔法使いの姉ちゃん、さっそく始めてもらえるかな~。 |
| ヤク | 魔法使い?ということは、やっぱりこの人が、宿主さんの呼んだ人なんだな? |
| 鬼灯(男) | その通り。この魔法使いの姉ちゃんは箱庭魔法に通じているんだ。今ある客室の魔力環境を整えてくれるだけじゃない、お客の求めに応じてフェアリースフィアをカスタマイズし、特別室にしてくれるってわけだ。 |
| 鬼灯(男) | 魔法使いの姉ちゃんがいれば、客室の準備は解決したも同然~。どうりで、姉貴が容赦なく搾って――いや、温かくおもてなしするようにって言ったわけだ。 |
| ヤク | じゃあ、客室が準備できたら、宿屋を開けられるね。 |
| 鬼灯(男) | その通り。だから、可愛い魔法使いの姉ちゃんをしっかりおもてなしするように。ずいぶん忙しかったから疲れた。僕は休むよ~。 |
| ヤク | ? |
| 魔法使い | ? |
| 鬼灯(男) | 目が覚めたら、新しく生まれ変わった宿屋が見られるかな~。 |
| モノローグ | 鬼灯は鼻歌を歌いながら上へあがり、部屋に入ってドアを閉める、という一連の動作を流れるように終えた。 |
| 魔法使い | こ、これでいいの? |
| ヤク | 宿主さんの代理なのに、お客さんをほったらかして寝ちゃうなんて、いいわけないだろ。 |
| ヤク | でも、宿屋は部屋が多いんだ。早く宿屋が開けられるように、しっかり休んだらすぐに仕事を始めてくれない? |
| 魔法使い | 分かった……。 |
| モノローグ | ヤクの熱い視線の中、遠路はるばるやってきた魔法使いは早々にこき使われ始めた。 |