メニュー13: 波動原理・ゼロ点効果の纏めサイト - 放射能除去法纏めサイト

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波動原理・ゼロ点効果の纏めサイト - 放射能除去法纏めサイト
無数の除去事例や超常的現象、量子の共鳴効果による意識・社会・環境の改善
万物における波動情報の原理・作用・効果・影響・意味合いと形成・発展・永続化

量子(電子・陽子・中性子・光子・ニュートリノ)=波動(気)・ゼロ点(Zero Point Field)・電磁波・プラズマ・幾何学的形態・物質(珪素・量子水・酵素)・微生物・コイル・波動器具・波動農法や意識・言葉・パワースポットなど、波動原理の各種効果(超科学・超能力・元素変換・健康・意識覚醒・自然環境の浄化・森羅万象の好転)

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項目6⑦:波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い
森羅万象の形成・発展・永続化、意識・社会・環境の浄化・改善

【霊魂の所作と活性化、日本の基層と神事、精神性・芸術性の淵源】

アイヌと沖縄について
  • アイヌ・ニブフ・ウィルタ民族の概略
  • アイヌ民族の文化と信仰
  • 蝦夷の歴史
  • 日本の体制がアイヌ民族に強いた不当な境遇
  • ソ連と国際的体制がアイヌ・ニブフ・ウィルタ民族に強いた理不尽な追放・放置
  • 日本におけるアイヌ問題の認識状況
  • 沖縄・琉球の歴史
  • 琉球神道について
  • 南西諸島の伝統歌謡に見える古層とヤマトとの交流
  • 南洋産貝製品の古代社会における重要性
  • 沖縄的事物と女性祭祀と海人族が示唆する、古代社会の在り方と平和の希求と大規模な変化
  • 日本の辺縁部に残る古代の日本語と祭祀形態
  • 沖縄・琉球の位置付けについて
  • 辺野古と大浦湾の類稀な環境・霊場・遺跡と、日米による破壊の危機
  • 沖縄に対する国内外からの歴史的な抑圧
  • 沖縄問題への誤った対処
  • アイヌ・沖縄問題に見える国内外の自己優位思想と従属思考
  • ヤマト・アイヌ・沖縄などの和合


  「アイヌ民族」は「北海道・千島列島・樺太の先住民族」、「琉球民族」は「沖縄県などの先住民族」です。民族や言語という概念に決まった定義はないですが、便宜上ここでは「琉球民族」を一民族とします。

「ヤマト民族(又は本土人)」「アイヌ民族」「琉球民族(沖縄人)」は、共に「縄文人」を祖としています。「日本の最も底部の基層」は「縄文文化」にあり、「アイヌ民族と琉球民族は、縄文人のDNA系統を色濃く残す民族集団」であり、即ち「原日本人の特色を濃く継承している」と言えます。「沖縄人」は、主に「縄文人」「10世紀から12世紀頃の南九州の農耕民の移住者」を祖とします。DNAは「本土日本人は朝鮮民族(韓民族)と近い、中国人全般とはそれよりも離れ、中国遼寧省(東北部・満州)・山東省(北京南方)の人とはやや近い」「アイヌ民族・ニブフ民族・ウィルタ民族は互いへの流入が見られる」「本土日本人の約2割は朝鮮民族固有の、2割は中国人固有の遺伝特性を持つ」「ニブフ・ウィルタ以外の日本人は、多くの民族の遺伝的要素があり、東アジアの人種の坩堝となっている」と示します。世界的にも珍しい「YハプロタイプD型」の保有者は「本土日本人:40%~50%」「アイヌ民族:90%」「沖縄本島:70%」、これは「縄文人のDNAの一つ」であり、非常に古いタイプのDNAです。他には「チベット民族」「ヤオ族(湖南省・雲南省・東南アジア北部)」に高頻度で見られ、「タイ人」は「D*(恐らくハプロDの別の単一系の分枝)」を10%の人が保有、ハプロDは「アラビア→南アジア→東南アジア→北方」と渡ったと見られます。

「日本人の起源・成立」としては、形質人類学の立場から「二重構造モデル」がよく言われます。「東南アジア起源の縄文人という基層集団の上に、弥生時代以降、北東アジア起源の渡来系集団が覆いかぶさるように分布して混血することにより現代日本人が形成された」としています。しかし「二重構造モデル」は大方の支持があるものの、「基層集団の起源は北東アジア」とする説は強いです。また縄文時代はある種鎖国的で、海外からあまり人・物が流入せず、これが日本の文化・風土の独自性を形成しました。

大まかに、次のように説明される
・北方のシベリア方面の「アルタイ諸語」を話す「新モンゴロイド」、
 南方の東南アジア方面の「オーストロネシア語」を話す「古モンゴロイド」が合わさり、
 「原日本人・縄文人」が形成された。
・「縄文人」多数と、「渡来人」少数の混血により、「弥生人(≠倭人)」が形成されていった。
・後に「渡来人」が少しずつ流入、日本国内でも渡来系の子孫が増えて、「縄文系と渡来系の混血」で「ヤマト民族」が形成された。
・縄文系の系統を色濃く残す北方南方の集団が「アイヌ民族」「琉球民族」となった。

旧石器時代の原日本人の伝播ルート
・「シベリア」→「バイカル地方」→」中国東北部」→(朝鮮半島)→「日本列島(九州や日本海側)」 
・「バイカル湖」→「東進」→「樺太」→「北海道」
・「長江中下流域」→「九州」
・「東南アジア」「中国広東地方」→(「台湾」)→「琉球諸島」→「九州」

主な渡来人のルート(弥生時代又は縄文時代後期以降)
・「中国中南部の長江文明を築いた南方系民族(越・呉など/長江下流域)」→「東シナ海」→「日本」「朝鮮半島」
・「中国中北部の黄河文明を築いた北方系民族(山東省など)」→「朝鮮半島」→「対馬海峡周辺」→「日本」
・「中国北東部の満州の北方系民族」→「朝鮮半島」→「対馬海峡周辺」→「日本」

「日本語は孤立言語」であり、基本的には非常に古い言語と見られる
・「日本語の文法」は「北アジアおよび中央アジア」の「アルタイ諸語」との類似性が高いが、「母音の強い音韻体系」は「オーストロネシア語族」との類似性が高い
(ただしオーストロネシア語族では元来あった語尾の子音が脱落して開音節化した言語が多いと考えられ、いっぽう北方でも満州語などのように母音の多い言語もある)。
・「語を重ねる複数形の表現方法」や「一部の単語」に関して「オーストロネシア起源」も指摘されている。

「日本語の起源・成立」は未だ定説はなく、諸説がある
・オーストロネシア語とツングース諸語の混合言語説。
  ・日本は北方で、満州~シベリア南部に分布する「ツングース諸語圏」、
   南方で、東南アジアから太平洋諸島などに分布する「オーストロネシア語圏」と接し、両方が入った。
・オーストロネシア語族説
  ・話者は、元々は「中国中南部」の「長江文明」いたが、後に「中国南部山岳地帯(雲南省など)」「東南アジア」「太平洋諸島」に進出した。
・アルタイ語族説
  ・アルタイ語族には「ツングース諸語」「朝鮮語(古代朝鮮語)」「モンゴル語」「テュルク諸語」他がある。
・日本語・朝鮮語同系説
・高句麗語同系説
・タミル語起源説(インド南部のドラヴィダ語族)
・アイヌ語との系統関係 
・中国語(古典中国語)との関係

「古事記や風土記のような口伝による伝承はアイヌ語で解釈可能」だと判明しています。これは「縄文語はアイヌ語である」と示唆します。しかし「日本語とアイヌ語は、非常に異なった言語」です。「縄文語」について、言語という物の特性から、東日本の東端と西日本の西端では、非常に語彙は異なっていただろうとも推測され、現代で言えば別の言語と看做されていたかもしれません。そして弥生時代(又は縄文時代後期)以降に「オーストロネシア語族」「ツングース語族」の話者集団が日本に渡来して、「上古日本語」が形成されたとみられ、これが直接的な「日本語の祖語」です。そして「日本語はオーストロネシア語とツングース諸語の混合言語」であり、故に「日本語の起源・成立の仮説の欄の言語群と共通性が見られる」と言えます。

「日本でシャーマンの活動(祭祀)が盛んな地域」は「北海道」「南西諸島」とされます。沖縄県の「沖縄諸島」「先島諸島」「大東諸島」、鹿児島県の「奄美諸島」「トカラ列島」「大隈諸島」を総称した「薩南諸島」、これらが「南西諸島」に属します。

  • アイヌ・ニブフ・ウィルタ民族の概略
  歴史的にアイヌ民族は「北海道のアイヌ」の他に、「千島アイヌ」「樺太アイヌ」と、「東北地方・関東地方などのアイヌ」などが存在しました。

アイヌ民族は、元々は「アイヌ語」を言語としています。アイヌ語は「孤立言語」で、アイヌ民族とヤマト民族と近接して在住しながら、しかし語彙の借用を除き、言語的な共通点はあまり見られません。「古事記や風土記のような口伝による伝承がアイヌ語で解釈可能であることから、縄文時代の日本語がアイヌ語と同系統の言語であるとする」という説があります。人口は23782人(2006年・調査に応じた人口・北海道内のみ、推計200000人で、混血も含めると実際はもっと多いと言います。

「北海道」は「律令制時代の五畿七道の東海道・南海道・西海道の呼称に倣った名称」、歴史的に「蝦夷地(えぞち)」「蝦夷が島」「日の本(北海道の太平洋側と千島列島・14世紀頃)」「東蝦夷(北海道の太平洋側と千島列島・近世)」「唐子(北海道の日本海側と樺太・14世紀頃)」「西蝦夷(北海道の日本海側と樺太・近世)」「北州」「十州島」などと呼ばれてきました。北海道は世界の島で第21位の面積で、最高峰は「大雪山 旭岳(2291m)」、道内には湖沼が沢山あり、美しい風景を有しています。西岸海洋性気候や温暖湿潤気候が見られる「道南の一部沿岸地域」を除くと、ほぼ全域が亜寒帯湿潤気候で、寒暖差が大きく、豪雪地帯です。一般的に「道南地方:渡島・檜山の2振興局管内」「道央地方:石狩・後志・空知・胆振・日高の5振興局管内」「道北地方:上川・留萌・宗谷の3振興局管内」「道東地方:オホーツク・十勝・釧路・根室の4振興局管内」に区分されます。

「樺太」は北緯50度を境に「北樺太」「南樺太」に分かれ、南の北海道とは「宗谷海峡」、西の「ユーラシア大陸」とは「間宮海峡」で隔てられ、最北端は「鵞小門岬(ガオト岬)=エリザベス岬」ています。亜寒帯モンスーン気候に属し、夏季は湿度が高く、霧が多く発生、夏と冬の寒暖差が大きいです。「からふと」の名は、一説にアイヌ語の「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ(神が河口に造った島)」に由来するとされ、「黒竜江(アムール川)」河口から見てその先に位置することからこのように呼ばれたとされます。樺太アイヌ語の西海岸方言では「カバフト」と呼ばれます。正保三年(1646)に成立した松前藩の歴史書「新羅之記録」に「唐渡之嶋」と見え、歴史的に「唐子(北海道の日本海側と樺太・14世紀頃)」「西蝦夷(北海道の日本海側と樺太・近世)」「唐渡之嶋(からとの嶋・からと嶋・からとのしま)」「からふと(からふとの島・からふと嶋・からふとふしま)」「唐ふとう嶋」「サカリイン」「北蝦夷地」と呼ばれてきました。ロシア名は「サハリン」です。

「千島列島」は、歴史的には「日の本(北海道の太平洋側と千島列島・14世紀頃)」「東蝦夷(北海道の太平洋側と千島列島・近世)」と呼ばれました。領域は「国後島(くなしり)」「択捉島(えとろふ)」で構成される「南千島」、「得撫島(うるっぷ)」「知理保以島(ちりほい)」「羅処和島(らしょわ)」「松輪島(まつわ)」「温禰古丹島(おんねこたん)」などからなる「中部千島」、「幌筵島(ぱらむしる)」「占守島(しゅむしゅ)」などからなる「北千島」で構成されます。「色丹島」「歯舞群島」は、千島列島に属さないとされます。最北端は「阿頼度島(あらいど)」、その北方は「カムチャツカ半島」です。気候は厳しく、風が強く非常に寒い冬が長く続き、短い夏には霧がしばしば発生、降雪量が多いです。ロシア名は「クリル諸島」です。

《北海道の年代・文化の区分》
旧石器時代
縄文時代
続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)
・「恵山文化」「恵山時代」とも呼ぶ。
・紀元前3世紀頃から紀元後7世紀(弥生時代から古墳時代)にあった文化。
・本州では水田耕作がされたが、北海道では耕作できず、縄文文化が受け継がれた。
・採集活動や若干の雑穀農耕も行っているが、多数の漁労具と解体用石器の出土と   砂丘上の集落が多いことから、漁労の割合が多くなったとされる。
擦文時代(さつもんじだい)
・7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にあった文化。
・本州の土師器の影響を受けた「擦文式土器」を特徴とする。
・後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いる「アイヌ文化」にとってかわられた。
オホーツク文化
・3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化。
・この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから名付けられた。
・このうち、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定されている。
・今日の「ニヴフ」に連なる集団によって担われたと推定されている
・海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていた。
・ヒグマを特別視する世界観があった。
これが、今日のアイヌの重要な祭祀「イオマンテ(熊送り)」に繋がっているともいう。
・骨や歯を素材として、動物像や、婦人像「オホーツクヴィーナス」を作った。
 「常呂川河口遺跡(北海道常呂町)のラッコ像は、胸部で手を組み、腹のシワの表現がある。
・オホーツク文化の代表的遺跡「モヨロ貝塚(北海道網走市)」は、縄文時代晩期・続縄文時代から継続された集落・貝塚の遺跡である。
 多数の「骨角器・土器・石器」や「鉄刀・鉾」「大陸から持ち込まれた鈴」、土器・骨・牙で象られた「クジラ・イルカ・クマ」「婦人(オホーツクヴィーナス)」の像などが出土した。
トビニタイ文化
・直接の源流はオホーツク文化である。
・オホーツク文化に属する人々は以前から北海道に南下していたが、7世紀から8世紀にかけては道北・道東に広く進出していた。
・その後、9世紀になって擦文文化に属する人々が道北に進出すると、道東地域のオホーツク文化圏は中心地である樺太から切り離されてしまった。
・その後この地域のオホーツク文化は擦文文化の影響を強く受けるようになり、独自の文化様式に移行、トビニタイ文化が形成された。
・その後、擦文文化に同化し、13世紀初め頃には姿を消した。

アイヌ文化
・アイヌが、13世紀(鎌倉時代後半)ころから現在までに至る歴史の中で生み出してきた文化である。
・擦文文化からアイヌ文化の生活体系に移るに伴い、「土器の製作や使用」が廃れ、
 その代わりに本州から移入された「鉄器・漆器」が生活用具として定着した。
・この点からは、アイヌ文化を生んだ契機に日本との交渉の増大があると考えられている。
・住居がそれまでのかまどを備えた竪穴式住居から、
 囲炉裏のみで、竈(かまど)が排除された掘立柱建物「チセ」へと変貌していった。
・アイヌ文化には地域によって差異が存在していたことが知られている。
・考古学的な意味でのアイヌ文化は、「鉄製鍋」「漆器の椀」「捧酒箸(ほうしゅばし)」
 「骨角器の狩猟具」「鮭漁用の鉤銛」「伸展式の土葬」など物質文化面での特徴を目印としている。
・農耕民族の和人と狩猟採集民族のアイヌは、
 それぞれの生活様式によって確保した生産物を交易で交換した。
 アイヌは「魚や毛皮」を輸出品目とし、
 和人の生産する道具「鉄器や漆器」や嗜好品「米、茶、酒」と交換した。
・続縄文時代や擦文時代の北海道では、粟、稗、黍などの雑穀が小規模ながら栽培されていた。
 しかしアイヌ文化の成立とともに、農耕は縮小する傾向にあった。
 これは寒冷な気候ゆえに耕作を諦めたというより、
 本州との交易用の毛皮や干魚を確保するため、狩猟や漁労を重視した結果らしい。
・「樺太アイヌ」は北方のツングース系などの諸民族とも交流があり、
 それを介して大陸の中華王朝とも関係を持った。
・1264年 には樺太に侵入した「アイヌ(元朝の文献では「骨嵬」と書かれている)」と
 「ニヴフ(同じく「吉烈迷」)」との間に紛争が勃発した。
 この戦いにはモンゴル帝国軍が介入し、アイヌからの朝貢を取り付けた。
・その後もアイヌは大陸との交易を続けていて、この交易は「山丹交易」と呼ばれ、
 江戸時代にはアイヌが交易によって清朝などから入手した絹織物や官服が、
 「蝦夷錦」と呼ばれて日本国内にも流通していった。

千島アイヌ
・千島列島には先史時代から居住者がいたが、
 文字記録が残されるようになるのはロシアが東シベリアまで勢力を拡大した18世紀からである。
・千島アイヌは千島列島を南北に移動して交易していたが、
 この頃、日本の北進と東シベリアを版図に入れたロシアの南進によって、
 彼らは生産・交易活動を両国に依存することが多くなっていった。
・1799年、「エトロフ(択捉島)」までを支配下に収めた江戸幕府は、
 1803年、「エトロフ-ウルップ(得撫島)間のアイヌの移動を禁止」した。
 これにより「ウルップ島」以北のアイヌは日本との交易が困難になり、
 ロシアの影響を強く受けるようになった。
・1854年の「日露和親条約」によって千島列島は日露両国が南北を分断して統治することになったが、
 1875年には「樺太・千島交換条約」に基づき千島列島が全て日本の領土になった。
 その際居住者は日本国籍を得て残るか、ロシア国籍を得て去るか選択させられ、
 大部分は日本国籍を得た。
・1884年には若干の千島アイヌが日本領北端の「シュムシュ(占守島)」に残っており、
 北の国境に民間人を置いておくよりも南の地で撫育した方が良いと考えた日本政府は、
 97名を半ば強制的に色丹島へ移住させ、牧畜・農業に従事させた。
 しかし先祖代々続いた漁撈を離れ、新しい土地で暮らすことに馴染めず、健康を害するものも現れた。
 望郷の念を募らせる千島アイヌに対し、日本政府は1898年以降、
 軍艦に彼らを乗せ北千島に向かわせ、臨時に従来の漁撈に従事させる等の措置をとった。
・1923年には人口は半減しており、更に第二次世界大戦における日本の敗戦に乗じた
 ソ連による千島・北方領土の占領に伴い、千島アイヌを含んだ日本側居住者は
 全て強制的に本土に移住させられ、各地に離散した。
・1970年代に最後の一人が死去した時点で千島アイヌの文化を継承する者は消滅したと思われている。

樺太アイヌ
・樺太アイヌたちの自称は「エンヂウ(エンチウ)」。
・神々のうちには「善神」と「悪神」とがあり,善神でもとくに重視される神と、あまり重要視されない神とがある。
・間宮林蔵の「北夷分界余話」によると、「樺太アイヌ」は「犬橇やスキー」を使用するなど、
 オホーツク文化からの影響を伺わせる文化要素を取り入れていた他、
 近世に入っても「土器の製作」「竪穴式住居の使用」という、
 北海道では中世アイヌ文化に限られる文化要素を保持していた。
・「鎧の形状」も北海道アイヌとは異なり、胸甲と腰部の装甲が一体となった独特のものであった。
・樺太アイヌは「ミイラ製作」を行うという点でも注目を集めている。
 ミイラ製作はオホーツク文化圏でも北海道のアイヌ文化でも行われない。
・樺太のアイヌも国際情勢の変化の影響を強く受けた。
・「樺太・千島交換条約」に伴って樺太がロシア領になることから、
 同条約発効に先立つ1875年10月、もともと樺太南部の「亜庭湾周辺」に居住し
 日本国籍を選択した108戸841名が「宗谷」に移住させられ、翌年6月には「対雁(現江別市)」に移された。
・生活環境の変化に加え、運の悪いことに1886年のコレラ、
 さらには天然痘の流行が追い討ちをかけ、300名以上が死去したという。
・1905年の日露戦勝によって南樺太が日本領になると、
 1906年、漸く樺太アイヌは再び故郷の地を踏むことができるようになった。
・ところが第二次世界大戦後に樺太全域がまたもロシア(当時はソ連)の占領下となり、
 同国政府によって樺太アイヌの殆どが北海道へ強制送還された。
・しかしながらアイヌは現在も樺太に少数ながら住んでいる。

  「ニヴフ」民族は「樺太中部以北及び対岸のアムール川下流域に住むモンゴロイド系少数民族」、古くは「ギリヤーク」と呼ばれました。「樺太アイヌ」「ウィルタ」と隣り合って居住、人口は約5300人ですが、この調査には未調査・未回答が多数あります。ウィルタ語やアイヌ語と系統を異にする固有の言語「ニヴフ語」を持ち、「古シベリア諸語(古アジア系)」に便宜上分類され、アムール川流域のニヴフ語と樺太のニヴフ語は大きく異なっています。宗教は「シャーマニズム」「ロシア正教」です。樺太の他の先住民と同じく、古くは「狩猟・漁猟」を行い、また近世には日本と清の貿易の仲介もしていました。「ニブフは5世紀から9世紀の北海道のオホーツク文化の担い手であった」とされ、ニブフ民族の祖先は北海道に居住していました。

日本書紀には「粛慎(みしはせ・あしはせ)」の記録が載り、大きく分けると「欽明天皇の時に佐渡島へ粛慎が来たこと」「斉明天皇の時の将軍・阿倍比羅夫(あべのひらふ)の粛慎討伐」「天武天皇・持統天皇の時の粛慎の来訪と官位を与えたこと」という内容です。この「粛慎」とは「樺太のニヴフ」だとする説があり、一般に「ツングース系民族」とされる、古代中国の文献の「粛慎(しゅくしん)」「挹婁(ゆうろう)」とは異なるとされます。アムール川下流域から樺太の「吉里迷(ギレミ・吉烈滅)」は、元王朝(モンゴル)建国の功臣「ムカリ(木華黎)」の子孫「シデ(碩徳)」の遠征により1263年に服従、1264年に吉里迷の民は、「骨嵬(クイ)」や「亦里于(イリウ)」が毎年のように侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告しました。吉里迷は「ニヴフ」、骨嵬(苦夷・蝦夷)は「アイヌ」を指し、この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃しました。これは、日本への元寇の(文永の役/至元十一年・1274年)の10年前です。「間宮林蔵」が樺太西岸のニヴフ集落を訪れたのは文化五年(1808)と文化六年(1809)、アムール川下流部に入ったの文化六年(1809)で、ニブフ・ウィルタほか少数民族の習俗を報告しています。

「ウィルタ」民族は「樺太中部・北部の、モンゴロイド系のツングース系の少数民族」、アイヌからは「オロッコ」と呼ばれました。本来の言語は「ツングース諸語」の「ウィルタ語」、人口は平成十四年(2002)調査で346人です。宗教は「シャーマニズム」「ロシア正教」です。生業は元来、「トナカイ牧畜」「狩猟」「漁労」でした。シベリアのツングース系諸族と交流をもったほか、樺太中部のニヴフ、南部のアイヌとも交易をしていたとされます。成14年)の国勢調査によると、346人がオホーツク海沿岸の樺太北部および南部のポロナイスク(旧敷香町)近郊に居住しています。南樺太の日本国籍を持っていたウィルタは、日本の敗戦後に北海道(網走市など)へ移住したりしました。昭和五十年(1975)、ウィルタ民族の人権や戦後補償の問題を解決する趣旨により「オロッコの人権と文化を守る会」が設立、翌年12月に「ウィルタ協会」が設立されました。

「千島列島」は古くからの「アイヌなどの少数民族の先住地域」でした。彼らは主に「南千島」、中部の「得撫島」「羅処和島」、北部の「幌筵島」「占守島」などに居住していました。江戸時代以前の「樺太」では、中北部に「ウィルタ」「ニヴフ」、南部に「アイヌ」の3民族が棲み分けていました。時に小さな争いはあっても、概ね平和的に交易を行っていました。間宮林蔵の住民への調査により「江戸時代のウィルタ・ニヴフはロシア民族と関わった事がない」「樺太はモンゴロイド系少数民族の先住地域である」ことが判明していて、ロシア民族は後から樺太に入植して来ました。千島列島・南樺太に居住していたアイヌ・ニブフ・ウィルタは、日本の第二次世界大戦敗戦後に北海道(網走市など)へ強制移送されたり、進んで移住しました。

  • アイヌ民族の文化と信仰
  「アイヌ文化」という時、「現代のアイヌ文化」と「考古学的見地からの過去のアイヌ文化」の、何れかを指します。近現代の「アイヌ文化」の形成には、歴史的に「ヤマト文化」の影響を受けてきて、また道内北方の「オホーツク文化」の影響も大きく受けています。また「蝦夷」という言葉も、「北海道」「東北地方」「関東地方」というように、その対象は文によって異なります。

アイヌ文化は文字を持たない口承文化ゆえに、「同一の神話や文化」でも、地域・集団ごとに細部が大きく異なることが多く、一部のものは定説が無かったりもします。更に「千島アイヌ」「樺太アイヌ」では、大きく文化が異なります。アイヌ民族は、歴史的には生活手段は「漁労採取」を主として、「植物栽培」も行い、「和人や北方の地域との交易」を行っていました。アイヌには「自然と一体的な生活体系」があり、美しい大自然の中で暮らしてきました。

「アイヌ文学」は、「口承文芸」の中の「叙事文学」に属し、「うたわれるもの」「語られるもの」に大別できます。「アイヌ音楽」は「伝統的祭儀や土俗的信仰に直接結びつくもの」「日常の喜怒哀楽を歌う抒情歌」に大別され、前者には以下の二つがあります。

ウポポ(座り歌)
・祭りの中でや、儀式、労働の際に歌われる。
・中央に置かれた「行器(ほかい)」の蓋を軽く叩いて拍子をとりながら歌う。
・主に円座を組んで歌う、又は立って円陣をつくり手拍子をとりながら左回りして踊り歌う。
・旋律を輪唱のように1拍ずつずらして歌い継いでゆく「ウコウク」という歌い方に特徴がある。
・数が多い。

リムセ(踊り歌)
・悪魔払いの呪術的踏舞「ニウェン・ホリッパ」や「タプカル」に由来する。
・数が多い。

ユーカラ(ユカラ)
・アイヌに口承されてきた叙事詩。
・棒で拍子をとり、節をつけて、韻文・サケヘ(リフレイン)を用いて語られる。
・用いる楽器は「パラライキ(バラライカ)」「トンコリ」「ウマトンコリ(馬頭琴)」「カチョー(太鼓)」「ムックリ(口琴)」など。
・原意は「まねる」、託宣の言葉が巫謡「tusu‐sinotcha」となり、「体験を物語る」意味になり、「詞曲(アイヌの口承文芸のうちの"うたわれるもの")」」に転じた。
・狭義には「少年ポイヤウンペの武勲・遍歴を物語る長編の英雄叙事詩」をいう。
・広義には「自然神・人文神が来歴などを語る形式のカムイユーカラ」=「人間のユーカラ」「神々のユーカラ」を含む。
・英雄詞曲を「ユーカラ・サコロペ・ヤイエラプ・ハウ・ハウキ」などと、「神謡」を「カムイ-ユーカラ・オイナ」などと呼んでいる。
 「カムイ-ユーカラ・オイナ」は別ジャンルとも言う。
・神の託宣が母体で、本来は「私は……私は……」というように,一人称で語られる。
・日常語と少し違う「アトムテ・イタク(かざられた言葉)」を使い、すべて口伝えで伝承されるが、伝承者の人柄や巧拙などの影響で、筋立てと常套句以外の細かい部分は回を重ねるごとに変わっていく。

また「縄文時代・・・」の項にあるように、縄文時代の中心地は東日本の、特に「東北地方北部(青森県・秋田県・岩手県)」でした。「東北地方北部」「北海道南部」には、縄文時代の代表的な祭祀遺構「環状列石(ストーンサークル)」が多数存在します。最も高度な縄文文化「亀ヶ岡文化・亀ヶ岡式土器」は、「青森県・岩手県」で最も栄えた、際立った造形美を特徴とする文化です。これらはアイヌ民族の源流に当たる人々が築いた文化です。

  アイヌ民像は「アイヌ神話」を中核とした「アイヌ信仰(アイヌ神道)」を、歴史的に信仰してきました。「神道」「アイヌ神道」「琉球神道」は共に「汎神論」で、「自然崇拝(アニミズム)」を基本としていて、原初の姿は同一の信仰形態であったと考えられます。

「神」は「カムイ」と呼ばれ、漢字で「神威・神居」とも記されます。カムイとは「自分達に恵みを与える物、害を与える物、畏怖の念を起こさせる物」、この全てを指します。カムイには「遠くにいる伝統的なカムイ」「身近で近づきやすく、頼りになるカムイ」「動物のカムイ」「補助的なカムイ」「疫病神的なカムイ」・・・など幾つかに分類されます。また、神聖とされる「東窓」の外の「幣場」に祀られるカムイも居ます。

「カムイと、日本語のカミは、共通の語源」だとする説もあり、そのニュアンスは類似していて、しかし「カムイ」は更に広い概念となっています。日本語では「カ・カム(神):万物の裏にある根源的な力」「ミ(実・身):具体的に現れる事。形になる事」「イ(居・位):そこにある事」と解釈できます。

「イナウ(木幣)」は、神道の「御幣(ごへい)」にあたる祭祀具、木を削りだして作り、「カムイへの捧げ物」「カムイの御神体」「言葉をカムイへ伝える代弁者」「守護神」「先祖と人間の間を取り持つもの」などの性質を持ちます。誰の物か分かるように印や記号が記され、カムイにより用いる木も異なります。

「アイヌ文様」は、一筆書きのように繋がった文様で、衣服に多用されています。「モレウ」は「渦巻き文様」で、そこから様々な文様が派生、「縄文」の名残ともいわれます。アイヌ文様の基本は、「モレウ」「アイウシ(棘のある文様)」「ラムラムノカ(鱗文・うろこもん)」です。また「角やモレウ中心部など、端から魔物が入らないように、必ずオホヤンケ(角突起)をする」という規則があります。アイヌ文様では「直線:心の正しさや正直さ・真心」「曲線:平和・円満・豊かさ」などの意味が含まれているとも言われています。

アイヌの信仰の特色(Wikipedia、アイヌ民族博物館HPほか)
・「動植物」「生活道具」「自然現象(津波や地震など)」「疫病」など、
 人間を取り巻く全ての物が、それぞれ霊性を備えていると考えており、
 これらの事物には「ラマッ(ラマット)」と呼ばれる霊が宿っていると考えた。
・「ラマッは全てに行き渡り、死ぬ時や破壊された時に、どこかに去る。しかし決してなくならない。
 このため、死者と共に葬られる武具や道具は、しばしな死者の伴をしていけるようにと壊される」という。
・なかでも、とりわけ人間に多くの恵みをもたらしてくれるもの、
 人間がかなわないような強大な力を持つもの、恐ろしいものなどを、「カムイ」として敬った。
・世界を自らの住む現世「アイヌモシリ」と、ラマッの住む世界「カムイモシリ」に分けて理解し、
 「ラマッは様々な事物に宿り、何らかの役割を持ってアイヌモシリにやって来ている」と解釈した。
・ラマッはその役割を果たすと、再びカムイモシリに戻るとされた。
・再びアイヌモシリに恵みを持ってきてもらう為に、
 カムイを歓待して、丁重にカムイモシリへ送り返す。
・アイヌの神々は絶対的な超越者ではなく、
 カムイが不当な行いをした際にはアイヌ側から抗議を行うということもあった。
・アイヌの神事は「カムイノミ」と呼ばれ、茅葺の伝統家屋「チセ」の中で、様々な神に対して行われる。
  ・カムイノミを開始する際には必ず、火の神「アペチフカムイ(カムイフッチ)」への祈りを捧げることになっている。
   アペチフカムイは最も重要で尊い神とされ、日常的に祈りが捧げられた。
  ・家の守り神「チセコロカムイ」などに祈る。
  ・食べ物による拝礼「ハルエオンカミ」や、酒かすを使った拝礼「シラリエオンカミ」などを行う。
  ・先祖供養を意味する「シンヌラッパ」では、それぞれの先祖に果物やお菓子、飲み物などの供物をささげる。
  ・カムイノミでは、白木を加工した「イナウ」と呼ばれる木幣が使用される。
・動物神の中では、「クマ」「オオカミ」「シマフクロウ」
 「シャチ」などが位の高い神として尊ばれた。
・そのほか「水の神」「大陽の神」「月の神」「雷の神」「湖の神」などの自然神、
 「鍋」「臼」「舟」などの物神など、多くの神々によって世界が構成されている。
・カムイはカムイモシリでは、人間と同じ姿で同じような生活し、常に人間を見守っている。
 アイヌモシリに下りてくる時には、それぞれの衣装を身にまとい、
 クマの神はクマの姿に、キツネの神はキツネに、樹木の神は樹木に変身する。
・神々の中には悪神や魔神も存在するとされ、それらを祓いの儀礼を行い、
 穏やかに通り過ぎることを願って、祈りが捧げた。
・このような世界観に基づき、家を新築する際の儀礼、
 サケやシシャモの初漁に際しての儀礼など、数多くの儀礼が行われた。
・日用道具が古くなったり破損したりすると、それらを捨てる前に、
 感謝の言葉とともに道具の霊を神の国に送り返す儀式が行った。
 これを「イワクテ」という。
・動物を捕った場合にも、その霊を送り返す儀式を行う。

アイヌのシャーマン
・「巫術」「憑依現象」を「ツス・トゥス」と呼び、「ツスを行う人」「降霊能力者」を「トゥスクル・ツスクル・シスクル・」と呼ぶ。
 男女ともにいて、「病気の治療」「精神的苦痛の癒し」「吉凶の占い」などを行う。
 現存するシスクルは非常に少く、「日高地方」「樺太」に限られる。
・樺太アイヌにおける「ツス」は、「カチョ(太鼓)」「ばち」「けずりかけ製の巫帽」「イナウ(払子や装身具として使用)」
 「ヌフチャチャ(ツス中にシャマンが飲むイソツツジを入れた飲料)」「木偶(守護霊や病霊の依代)」「供犠用の犬」などが用いられる。
 ツスの形式は、シスクルの「セアンス(心霊術の会)」として整っていて、「太鼓の連打による忘我状態への誘導」
 「守護霊の招致」「激しい舞踏様の動きと様々な精霊のしぐさや音の模倣」「託宣」「守護霊の帰還」などの要素がある。
・北海道のツスは、青森県の「イタコ」などの影響が見られる。
・また、アイヌのシャーマンの治療行為は次のようにも分類される。
ウェインカラ(透視・千里眼)
・霊的障害(サイキック・アタックなど)、心的要因、具体的要因を透視して呪術を施したり、その障害の具体的な治療方法で対応するもの。
・「空」の境地に入るといわれる。
・ウェインカラの能力保持者を「ウェインカラクル」と呼ぶ。
トゥス
・治療師の「トレンカムイ(憑き神)」や患者の先祖などを降ろし、「トゥスクル」の肉体をそれらに支配させ、病因や治療の方法を託宣いただくもの。
・いわゆる「トランス状態」に持っていくため、トゥスクルの神憑りの間の記憶はない。
ウェポタラ
・祈祷師による呪術に準すると考えられる。魔実的要素が濃い。
フッサラ
・悪霊の嫌う薬草や植物などをを用いて祈りと共に病人に憑く悪霊を追い払うもの、 「ウェンカムイ(悪霊)払い」とも呼ぶ。
・薬物療法(単品・複数のアレンジの治療法)
・多くは、民間伝承によるが、霊的なアドバイスにより薬草は個別性に応じて配合する。
・筋骨格系、神経系に働きかけ、歪みの矯正、身体のバランス保持やリラクセーションをはかる。
・カイロ、整体、指圧、マッサージなどのボディワークの概念を含むとされる。
テクマウ(手当て療法)
・カムイへ祈り、行う手当て療法。外気功に対応する。

人々が住む地は「アイヌモシリ」、「人間の静かなる大地、を意味する言葉」「本来、特定の地域を指すものではないが、今日では北海道を指す場合や、樺太、千島列島など古くからのアイヌ居住地を指すことがある」を意味します。「カムイコタン」は「神の住む場所:カムイ(神)+コタン(村・居住地)」を意味、北海道および周辺島嶼で見られ、「神居古潭(古丹)・神威古潭」などと漢字表記されます。地形の面や神聖な場所であるとして、人が近寄りがたい場所にしばしばこの名が付けられます。また「カムイ・ミンタラ」という「カムイ達が遊ぶ場所」を意味する言葉があり、「神よりも自然を表すような表現(人間に穢されていない場所)」を指します。「ウタリ」は「親族・同胞・仲間」の意、「アイヌの自民族の呼称」としても用いられます。「長老」を「エカシ」と呼びます。

アイヌ神話「カムイ・ユーカラ」などから
・まだ地上に人間も植物も何一つ出来上がっていなかった大昔、天上界で神々が会議を続けていた。
・重要な神様たちが毎日のように集まって、下界に有能な神々をおくって国土を造り、そこに動物や植物なども造って、平和な大地にしようという相談をしていた。
・そして、国造りの神「モシリ・カラ・カムイ(山・平野・川の流れなどを造る)」、お供に犬の神「レエプ・カムイ」と、
 シマフクロウの神「コタン・コロ・カムイ(集落を守る神)」別名「カムイ・チカプ(神の鳥)」、
 ついで造化の女神「イカッ・カラ・カムイ(木・草・花を造る)」が下界に下った。
・「アイヌラックル」「オイナカムイ」「オキクルミ」は、同一神と看做されたり、看做されなかったりもする。
 またアイヌ神話の多くの例のように、地方ごとに内容が異なり、定説は無い。
・(同一神として、類型を基に記述) 「オキクルミ」は「地上で誕生した初めての神」「地上と人間の平和を守る神」である。
 新しい国土の主として人間界に降り立ち、「魔神」を撃退して、
 天上から選ばれた許婚の「白鳥姫」を、「暗黒界の魔女」から奪い返して、人間たちを平和に暮らした。
 そこで持参した「稗(ひえ)」で耕作を教え、「大船の造り方」「角鮫捕りの銛」「ヤスの用法」
 「狩猟の際の毒矢や仕掛弓」や、「イナウを削って神を崇めること」など「神事」を教えた。
 しかし、次第に人間たちは次第に堕落、遂にオキクルミはいずこかに去った。
 それ以来、地上の悪事や災害は増す一方であり、人間たちはアイヌラックルを失ったことを激しく悔やんだ。
 しかしアイヌラックルは去り際に、決して人間すべてを見捨てたわけではなく、時おり雷鳴と共に人間たちを見舞うと告げていた。
 それゆえに人間たちは、雷鳴が轟くと、アイヌラックルの来訪といって拝むようになった。

アイヌ文化には土地の私有という概念は無く、その代わりに「コタン(集落)」が入会権を持つ「イオル(入会地」や「漁場」が存在、イオルは「伝統的生活空間」と訳され、コタンで必要な生物資源は基本的にそのコタンの入会地から調達されていました。和人文化における入会地とは異なり、イオルは「生物資源調達の場」であると同時に、「祭祀などアイヌの精神文化とも密接に関わっている場所」である点に特色があります。しかし明治時代以降、イオルを基盤としたアイヌの生活様式や文化は破壊されました。そこで近年、問題となっているのが「イオルの再生」です。

和人ともアイヌ系とも言う「渡党(わたりとう)」によって、中世には「神社」が創建されています。これらの神社の多くは「道南の漁業拠点」に集中し、神道や密教が混淆して「山岳信仰」や「岬信仰」が主体的でした。これらの神社は「松前神楽」などに象徴される独自の文化を擁し、後の北海道開拓時代に新たに創建された神社とは一線を画します。北海道に逃れたという伝説がある「源義経」の伝承地や、祀る神社も複数存在します。・江戸時代の儒学者「新井白石」は著書『蝦夷志』で、アイヌ民族が「オキクルミを源義経であるといい伝えている」と記しています。

北海道には、元々は「アイヌの神を祀っていた祭祀場」に建てられた神社が多いと言われ、アイヌの神と神道の神が混合して祀られている様相もあります。「意冨比神社(おおひ・おおい・北海道北斗氏)」には、平安時代の康平三歳(1060)銘が入る鰐口を有し、これが創建の年だとすると北海道最古の神社になります。「北海道神宮(北海道札幌市中央区)」は、明治二年(1869年)の創建、全国一の宮会より「蝦夷国新一の宮」に認定されています。

  • 蝦夷の歴史
  縄文時代の次の時代は、本州では弥生時代ですが、北海道では「続縄文時代」で、「恵山時代」との呼称もあります。縄文時代以来、東北地方北部と北海道南部は関係が密接でした。

「遠賀川式土器(おんが)」は、福岡県遠賀川流域を発祥として、西日本に広く分布する、弥生時代前期の土器の総称です。遠賀川式土器は早期に青森県まで伝播、東北地方の日本海側の遺跡には、この系統の土器が広く分布しています。「砂沢遺跡(青森県弘前市)」は、縄文晩期終末の「砂沢式土器」の標識遺跡で、続く時代には、弥生時代前期の東北地方最古の水田跡と、遠賀川式土器が発見されています。ここから弥生文化は、かなり早期に本州のほぼ北端まで到達した事が分かります。

北海道の続縄文時代では、「土器型式」「碧玉製管玉の墓への副葬」などに共通性があります。北海道の続縄文時代の遺跡で発掘された、本州以南から持ち込まれた物・文化としては、「新潟県佐渡島産の碧玉製管玉」「南洋産貝製品(イモガイ・マクラガイ・ホタルガイなど)」「鉄製品」「弥生式土器」「土製紡錘車」などがあります。しかしこの時代以降、「東北地方と北海道の縄文人(アイヌ)」は、異なった道を歩んでゆく事になります。

  アイヌ民族は嘗ては「東日本の広域」に居住していました。「アイヌ語由来の地名」は「東北地方・関東地方」に多数存在、また「中部地方・西日本」にも散見されると言われます。「蝦夷(えみし・えぞ・えびす)」は、中央政権からみた異端視の呼称ですが、これ以外にも多くの名称がアイヌに関連します。「日高見国(ひたかみのくに)」は「古代日本で、大和または蝦夷の地を美化して用いた語」「特定の地域ではない」、蝦夷の地を指す場合、「常陸國(茨城県)」「陸奥國の岩手県付近」に充てられる事が多く、神世である「常世」と見做されたりもします。また、古くからの伝承が色濃い「遠野地方(岩手県)」の説話を集めた「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」を、アイヌ民族とする説もあります。

アイヌが治める支配領域は、「ヤマト王権(中央政権)」の東進と共に北方へ徐々に移動、「和人(ヤマト民族)」との同化が進んでいきました。「4世紀末から5世紀初めの古墳時代中期」には、「おおよそ仙台市と山形市以南にあたる地域で前方後円墳が築造された」「宮城県と山形県が朝廷支配の北限」でした。最北端の古墳としては「角塚古墳(岩手県奥州市)」「鷺畑山古墳(山形県鶴岡市)」があります。

古墳時代から奈良時代、和人は「多賀城(宮城県多賀城市)」「秋田城(秋田県秋田市)」「出羽柵(山形県・秋田県)」など「城」「柵(さく)」を築き、多賀城には陸奥国に置かれた古代日本における軍政を司る役所「鎮守府(ちんじゅふ)」が置かれ、地域統治の要としたり、北への攻撃と防御としています。大和朝廷は飛鳥時代(7世紀)ごろ、蝦夷について南方から、毎年に朝貢する大人しい「熟蝦夷(にぎえびす)」、荒々しい「麁蝦夷 (あらえびす)」、その北方を「都加留(つがる)」と呼んでいました。

「阿倍比羅夫(あべのひらふ)」は、「越国(こしのくに・新潟県と富山県など)」「北陸道」に居住した「阿倍氏」一族で、7世紀中期・飛鳥時代の将軍です。日本書紀に「斉明天皇四年(658)に水軍一八〇隻を率いて蝦夷(北海道)を討ち、さらに粛慎(樺太)を平らげた」とあり、また「蝦夷や粛慎を饗応した(もてなした)」との記述が複数見られます。この「粛慎(しゅくしん)」は「中国の文献上の満州東部に住むツングース系民族」とは異なるとされ、「蝦夷以外のオホーツク文化人」「樺太中部以北に住むニヴフは粛慎の末裔」とも言われます。「新潟県・山形県・秋田県」を中心に「北陸地方・東北地方」の各地に「こしおう神社(胡四王・古四王・越王・巨四王・高志王・腰王・小四王・小姓等)」が多数分布、これは「越国を中心に北方に広がった阿倍氏の祖神と蝦夷の土着の神が同一視されたものとして、かなり古くから信仰された神」とされます。その本社「古四王神社(秋田県秋田市)」は、移転後の出羽柵近隣に鎮座、御祭神は、阿倍比羅夫の租神で、古墳時代初期の「四道将軍(よんどうしょうぐん)」として北陸道を抑えたとされる「大彦命(おおびこのみこと)」、東国鎮守の「鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)」の神「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」です。

平安時代に朝廷は征夷大将軍「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」の大軍を派遣、「坂上田村麻呂が創建した・参拝した・修復した」という伝承がある社寺は、東北地方~東関東の各地に見られます。田村麻呂は「胆沢城(岩手県奥州市)」が築造、後三年の役のあたりまで約150年間、「鎮守府」が置かれました。蝦夷の指導者「阿弖流為(アテルイ)」「母礼(モレ)」は、以前から朝廷の派遣軍にに対して奮戦していましたが、延暦二十一年(802)に遂に屈しました。その後、平安時代前期(9世紀)に、朝廷は蝦夷に対する直接の征服活動を諦め、岩手県と秋田県の中部付近が北限となりました。後に徐々にヤマト王権の北限が北方へ移動、平安末期に蝦夷との血縁的・系譜的関係を主張する「奥州藤原氏」が、東北地方北端までを領域として、鎌倉幕府以降に引き継がれました。

平安時代前期の延長五年(927)にまとめられた律令「延喜式」の巻九・十に、当時の「官社(毎年二月の祈年祭に神祇官から幣帛を受ける神社)」であった全国の神社一覧の記載があります。この神社を「式内社」と呼び、神社の格式の「社格」の一種で、「編纂当時の地域の古社や、崇敬の篤かった神社が選ばれた」という状況がありました。式内社の北端は、太平洋側が「志賀理和気神社(岩手県紫波郡紫波町)」、日本海側が「嶽六所神社(秋田県大仙市)」です。ここから中央政権の支配領域と、ヤマト文化の領域が伺われます。

末期古墳(まっきこふん)
・「蝦夷系墳墓」や、北海道のものは「北海道式古墳」とも呼ぶ。
・円形を基本とし、土盛りが余り高くなく、周濠を伴う墳墓。
・「青森県」「岩手県」「秋田県」「北海道道央の石狩低地帯」に分布する。
・7世紀初頭~10世紀前半に造られた。
・末期古墳が古墳であるかどうかについては確定していない。     
・蝦夷と呼ばれた人々によって造られたものと推定されている。
・律令政府と関わりのあった人が被葬者と考えられている。
・形は基本的に「円形」で、「楕円形」「方形に近いもの」も少数見られる。
・墳丘の周囲には周溝があるのが基本である。
・墳丘の規模は直径5m~10mが殆どで、最大でも17m程度である。
・現在まで墳丘が残っている例は少ないが、墳丘が良好に残っている末期古墳の例から、
 墳丘の高さは1m前後、高くても2m未満であったとされる。
・末期古墳の「主体部」は大きく分けて「土壙に木棺をじかに葬る形式」と、  
 古墳の横穴式石室から派生したと考えられる「石室を備えた形式」とに分けられる。
・末期古墳の造営が始まる前、東北地方北部~北海道では「続縄文文化」に伴う墳墓が造られていた。
 墳形は楕円形で、周溝のような墳墓と周囲を隔てる区画はなく、墳丘もはっきりとは確認できなく、
 墓壙の規模から遺体を折り曲げて葬る屈葬であったとされる。
 ある程度の規模の墳丘・周溝を伴い、遺体を曲げずに葬った末期古墳とは明白に異なる。
・7世紀前半、「北上川中・上流域」「馬淵川流域」で末期古墳の造営が始まった。
・8世紀~9世紀、「東北地方北部」「北海道の石狩低地帯」へと分布範囲が広がった。
 北海道の末期古墳は「江別古墳群(北海道江別市)」
 「茂漁古墳群(柏木東遺跡/北海道恵庭市)」などが知られる。
・北海道では石狩低地帯で末期古墳が造られている間も、
 続縄文文化の時代と変わらぬ墳墓が造られ続けていた。
・多くの墳墓が密集して造られる群集墳のような形で造られる。
 「阿光坊古墳群(青森県)」のように、多い場合で100基以上で構成されることもある。
・同じ地域で長い期間、末期古墳が造られ続けた例がある。
 「丹後平古墳群(青森県)」では、7世紀後半~9世紀後半までの約200年間造り続けられた。
 「阿光坊古墳群(青森県おいらせ町)」では110基余りの墳と剣・腕輪などが出土、
 7世紀前半~9世紀末まで300年近くにわたり造られ続けた物で、蝦夷の有力者の陵とされる。
・副葬品は「刀類(直刀・蕨手刀など武器」「鉄斧・鉄鎌・銙帯・金具・馬具・帯金具」
 「玉・勾玉など装飾品」「須恵器・土師器」「和銅開珎」などが多い。
 副葬品の質量とも、個人が使用したと見られる範囲に留まり、大量の豪華な品の副葬はなかった。
・墳丘の規模に比較的差が少ない点などとともに、
 末期古墳を造営した集団は均質性が高く、格差が少なかったことがわかる。
・末期古墳の副葬品は8世紀前半を境に変化が見られ、それ以前は関東地方など
 東国の影響が強いとされる馬具や須恵器などの副葬品が中心であったが、
 8世紀前半以降は「蕨手刀」、律令制の位階を示す「帯金具」などに変わった。
・「丹後平古墳群」「茂漁古墳群(柏木東遺跡)」などからは和同開珎も発見された。
 これらは城柵の整備などに伴い発展した交流や朝貢等の結果、齎されたとの説がある。
・古墳時代に広まった「竈付きの隅丸方形の竪穴式住居」が、
 7世紀以降の北上川流域で見られるようになり、8世紀以降、北東北全体や北海道に広がっていった。
 ここから蝦夷社会がヤマト王権・ヤマト国家との交流で、社会を変化させていったことがわかる。
・副葬品の内容からも律令国家との交流が見られ、末期古墳は蝦夷社会の独自性の現れであると共に、
 ヤマト王権や律令国家と蝦夷社会の交流を示すものでもある。
・国指定史跡の「江別古墳群(北海道)」「阿光坊古墳群(青森県)」「丹後平古墳群(青森県)」
 「江釣子古墳群(岩手県)」は、7世紀~10世紀の蝦夷社会の在り方を示す遺跡となっている。

室町時代に「北海道・渡島半島南部」で、「渡党」の「蠣崎氏」が領主となっています。康正三年・長禄元年(1457)の「コシャマインの戦い」では、アイヌが蜂起するも、最終的に蝦夷管領安東氏の代官「武田信広」に平定され、後の「松前藩」形成の元になりました。

農耕民族の和人と狩猟採集民族のアイヌは、それぞれの生活様式によって確保した生産物を交易で交換しました。アイヌは「魚・毛皮」を輸出品目とし、和人の生産する道具「鉄器や漆器」や嗜好品「米・茶・酒」と交換しました。アイヌは、和人地や本州まで出かけて交易する事が多かったとされます。

江戸時代、「松前藩(北海道松前町)」を基点に、江戸幕府の支配領域が北海道で拡大していきました。藩は交易独占権を持ち、その取り締まり強化で、アイヌは苦しくなっていきました。後に場所請負制により、本土の商人などが多数進出しています。アイヌは自治権を望むも、寛文九年(1669)の「シャクシャインの戦い」、寛政元年(1789)の「クナシリ・メナシの戦い」により、幕府体制に組み込まれていきました。

樺太には、元王朝滅亡後は他地域からの干渉は無くなりました。文明十七年(1485)、「樺太アイヌの首長」が「武田信広」に銅雀台を献じ。配下となりました。安土桃山山時代と江戸時代、樺太についての各種の記述が残されています。天正二十年・文禄元年(1593)、豊臣秀吉は「松前慶広」に先住民のアイヌ保護を行うとともに、諸国から集まる人々を取り締まり、従来どおりこれらから税を取り立てる権利を認めました。慶長八年(1603)、 松前藩が「宗谷(北海道北部)」に「利尻島・礼文島・樺太」を司さどる役宅が置きました。貞享二年(1685)、 樺太は松前藩家臣の知行地として開かれた「ソウヤ場所」に含まれ、宝暦二年(1752)にソウヤ場所から「樺太場所」が分立しました。

元禄十三年(1700)、松前藩は千島列島を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成して幕府に提出、北海道本島からカムチャツカ半島までが記載されています。正徳五年(1715)、幕府に対し、松前藩主は「十州島(北海道)、樺太、千島列島、勘察加(カムチャツカ半島)は松前藩領」と報告しています。享保十六年(1731)、「国後島・択捉島の首長」らが松前藩主のもとを訪れ献上品を贈りました。宝暦四年(1754)、松前藩は「国後・択捉・得撫」を版図とする国後場所を開きました。寛政十年(1798)、幕府による北方視察が大規模に実施され、「近藤重蔵」によって「択捉島」に「大日本恵登呂府」の標柱が建てられました。享和元年(1801)、「富山元十郎」「深山宇平太」を「得撫島」に派遣、日本領であることを示す「天長地久大日本属島」の標柱が建てられました。

「山丹交易(さんたんこうえき)」は、江戸時代に「山丹人(山旦・山靼)」と呼ばれた「主にウィルタ族の他、ニブヒ族、オロチョン族など沿海州の民族」と、「アイヌ」との間で、主として樺太を中継地として行われた交易です。広義には「清朝が黒竜江(アムール川)下流域に設けた役所との朝貢交易から、山丹人、さらにアイヌを介して蝦夷地の松前藩にもたらされた交易」を指します。文化五年(1808)、江戸幕府が「最上徳内」「松田伝十郎」「間宮林蔵」を相次いで派遣、松田伝十郎は樺太最西端「ラッカ岬(北緯52度)」に「大日本国国境」の国境標を建てました。文化六年(1809)、 間宮林蔵は樺太が島であることを確認、呼称を「北蝦夷地」と正式に定めました。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献しました。山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱いました。

江戸時代にはロシアによる千島列島と樺太への進出が相次ぎ、これは明治維新へと影響しました。安政元年(1855)、「日露和親条約」が締結され、「択捉島以南」が日本領として画定しました。幕末頃、ロシアが樺太の領有権を主張し始めました。明治八年(1875)、「樺太・千島交換条約」によって樺太の一部と北千島が交換され、「千島列島全域」が日本領になりました。明治三十八年(1905)、日露戦争の講和条約「ポーツマス条約条約」で「南樺太」が日本領となりました。第二次世界大戦後の昭和二十六年(1951、「のサンフランシスコ平和条約」で日本は「千島列島」「南樺太」を放棄、しかし条約にソ連は調印せず、「千島列島」「南樺太」はどの国にも帰属していません。

明治時代、政府はそれまでの「蝦夷」から「北海道」に、「北蝦夷地」から「樺太」に改称し、「北海道開拓使」後の「北海道庁」が置かれました。「松浦武四郎」は、弘化元年(1844)以後に蝦夷地・択捉島・樺太を探査、明治二(1869)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名を与えたほか、アイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定しました。

北海道・樺太・千島列島は「アイヌ民族(など)の共有地」でしたが、明治政府は「無主地」として国有地としました。土地は「屯田兵」など入植者に払い下げられ、開拓政策の大きな理由に北方への国防があります。日本政府は国策として、国防を理由に「千島アイヌ」を「色丹島」に強制移住させ、慣れない生活と風土のため、アイヌの人口は激減しました。また、樺太・千島交換条約の際には「樺太アイヌ」を北海道に移住させました。

明治三十二年(1899)に「北海道旧土人保護法」が施行され、アイヌへの日本語教育など、和人への同化政策が推進されました。学校ではアイヌ語やアイヌ文化は教えられることが無く、またアイヌ文化については否定的に表象されるなど、近世アイヌ文化の破壊は進みました。他にも幾つもの法律や、道内の慣行により、アイヌ民族は厳しい状況に晒され続けました。こういった経緯により「アイヌ民族の理不尽な境遇と、ヤマト民族・日本国の体制との間の、著しく不当な格差と」が生み出しました。

  • 日本の体制がアイヌ民族に強いた不当な境遇
  アイヌ民族は「日本の体制により、長年酷い環境に置かれ、土地を収奪され、その上で放置され続けた」という状況に置かれてきました。

「二風谷(ニブタニ・北海道平取町)」には「二風谷遺跡」があり、「中世から近世の北海道の最重要の遺跡の一つ」であり、この時代を「ニブタニ文化」と呼ぶ事も提唱されています。しかしアイヌ民族などの必死の抗議を無視して、「沙流川」に「二風谷ダム」を造成、この聖地を破壊しました。このダムは建設前から「治水効果が低い」「大量の土砂が溜まり使えなくなる」「土木利権の無駄な工事」と言われましたが、予想を超える速度で湖底に大量の土砂が溜まっています。上流の「額平川の峡谷」もアイヌの聖地ですが、ここにも「平取ダム(ビラトリ・平取町」を建設しようとしています。

アイヌ民族が伝統漁法や儀式の復活に取り組んでいる「モベツ川支流の水源地帯(北海道紋別市)」では、に、「産業廃棄物最終処分場建設」が計画されています。「モエレ沼公園(北海道札幌市)」は市民の憩いの場ですが、ここは嘗ては「市のゴミ捨て場」で、それ以前はアイヌの聖地でした。こういった件は多数あって、多くのアイヌの聖地が邪険に扱われて、破壊されてきました。

  「日本本土」では「聖地たる場所」は「社寺保有・宮内庁所管・国有地など」となっていて、「無闇な開発は許されなく、重要な整地とされる多数の場所を開発しようとしてば、徹底的に弾劾・攻撃される」という状況です。「有名な○○神社・○○陵・著名な霊山・著名な遺跡」などの域内・境内・隣接地に、ダムなどの環境破壊を招く施設や、産廃処理場など汚染を招く、大規模施設が建設される事は、当然ながら決してありません。

翻って「アイヌの地」では、本来「アイヌモシリ(北海道)」は「イオル(入会地)」のような「アイヌ民族の共有地」であるにも拘らず、体制側により勝手に国有化されました。これにより「アイヌには民族の共有地・共有資産が、非常に僅かしかない」「アイヌ民族の資産保持者や、運営する大企業などが、ヤマト民族の物に比べて非常に少ない」という状況にあります。この前提上の事象として、長年にわたり「日本の体制側の施策によって、アイヌ民族は重要な聖地が多数破壊され、荒らされてきた」という、過酷な歴史に遭ってきました。これらは「アイヌ民族自身の能動的な選択の為」ではなくて、「日本政府・体制側の歴史的政策の為」であり、この点は「日本の体制側の歴史的責任の証左」以外の何物でもありません。

そもそも「どの民族の文化・重要遺産も、大切に保護しなくてはならない」「どの民族も、他民族の聖域・大事な事象を、非常に敬意を払わなくてはならない」はずですし、加えて「自己側の歴史的政策により、共有地・共有資産が僅かしかないという状況を招いたならば、その聖域や大事な事象の保護には、より重大な対処をしなくてはならない義務がある」はずです。しかしこんな当然な道義上の問題は、全く無視されてきたも同然です。

「大和民族の聖地(宮殿・陵墓・祭祀場)」ならば「絶対に有り得なく、不可能で、徹底的に弾劾される」のが、しかし「アイヌの聖地」の場合ならば「破壊され、汚され、そういう事が行われてしまい、しかも公的権力が主導、国家的に行う」のです。本来どの集団の物に対しても、特に外部(属していない)の人達は最大の敬意を払わなくてはいけないですが、然しながら「ヤマト民族の聖地だと犯罪」「アイヌの聖地だと犯罪でない」という事で、これが「日本の暗黙の掟」です。この著しい差別と不正義は何なのでしょうか。

そして「大学・研究機関等」「マスコミ」などを経由した物も含めて、、「ヤマト民族の各種文化は、公的・準公的な物により、にかなり保護されている」という状況があります。例えば「国語・歴史・伝統研究など、非常に多数の当然視される文化政策・活動」「メディア報道」も、これに含まれます。当然、多くの組織は歴史的に所在地の土地を所有しています。これは「祭祀施設(宗教団体)」「文化団体」なども含まれます。

しかしアイヌ民族は、歴史的経緯から「嘗ての接収により土地保有面積が狭い」「境遇により資本力が低い」「反対派の影響もあり各種公金支出も限定的で、公的保護は僅かしかない」という状況に置かれています。

  このような経緯によって、「アイヌ語を流暢に話せる母語話者は10数人にまで減少している」「信仰や伝統文化が継承困難」という、危機的状況にあります。然しながら、今に至るまで「殆ど無視され、偏狭な民族主義・全体主義にも阻害され、権利擁護されずにいる」という状況です。アイヌの言語・伝統文化・信仰はまだどうにか廃絶は免れ、これから復興可能な状況ではありますが、現状は非常に深刻です。

「アイヌがアイヌだと公表するのには困難さが伴う」という状況があり、「自分の民族名を、しかも先住民族でありながらも、公表するのに障害がある」など、どのように考えても著しく異常です。更に「外国の○○国系の有名人は非常に多いが、アイヌ系の有名人はごく僅か」であり、これも日本の異常な社会状況を表しています。しかし、実際にこんな状況が、そして「そんな事は無い・題ない」などという強弁が罷り通るのが、現代の日本の実像です。

「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」、通称「アイヌ文化振興法」は「アイヌの民族としての誇りを尊重し、アイヌ語、その音楽・舞踊・文学・工芸などの振興を図り、かつそれらについての調査研究、知識の普及を目的とする法律」です。悪名高かった「北海道旧土人保護法」が廃止され、平成九年(1997)に成立しました。平成二十年(2008)、「アイヌを先住民族として認めるよう政府に促す国会決議」が衆参両院とも全会一致で可決されました。「民族共生の象徴となる空間(北海道白老町)」は、アイヌ文化振興のナショナルセンターとして政府が整備したもので、ポロト湖畔にあります。しかしこういった動きはあるにしても、「アイヌ民族の全体の事象・問題」に比べればごく僅かである事は言うまでも無く、全体状況の改善はありません。

  • ソ連と国際的体制がアイヌ・ニブフ・ウィルタ民族に強いた理不尽な追放・放置
  旧ソ連は第二次世界大戦後に、究極的に理不尽にも「アイヌ・ニブフ・ウィルタ民族のモンゴロイド系少数民族を含めた、多くの日本人を、先住地域の千島列島・樺太から北海道へと強制送還(追放)した」という暴挙を行いました。

1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告して「千島列島・南樺太」「満州・北朝鮮」で開戦、第二次大戦終戦(ポツダム宣言受諾)の8月15日以降もソ連の攻撃・占領は続き、この後「全域の占領」と、日本人に対しての「戦闘での戦死など」「正当事由のない民間人への虐殺・暴行など」「拉致・捕虜とシベリア開発での抑留」「日本への追放」が行われました。この戦闘では「占守島の戦い」を始め、多くの地域で日本軍が勝利するも、玉音放送と停戦交渉により戦闘停止や武装解除をしました。しかしこの間、ソ連側の「一方的攻撃」「停戦交渉の拒否」「停戦交渉成立と停戦・武装解除後の一方的攻撃」が行われ、9月2日の日本との降伏文書調印もも無視して攻撃継続、全域を支配下に置いた9月5日に、ソ連軍は一方的戦闘を終了しました。

当時、南樺太では日本人居留民41万人(少数民族も含む)のうち約10万人が脱出、千島列島にも多くの居留民・軍人がいました。この「日本人の日本への追放の過程」で、ソ連による「樺太・千島列島からの先住民族であるアイヌ・ニブフ・ウィルタ民族の日本への追放」も行われました。「樺太アイヌ」は日本国籍を持ってませんでしたが、アイヌは日本人とされ、追放されました。また残っていた樺太アイヌも、「カムチャツカ半島」に強制移住させられた人達がいます。現在、千島列島は「元々はモンゴロイドのアイヌ民族が住んでいたが、強制追放されて、元々ウラル山脈以西(ヨーロッパ)にいた、ソ連・ロシアの統治階層の白人が住人の大多数を占める」という状態です。

また一般論として、主張・論述に際しての前提として「主張という物は、自分達に有利だろうが不利だろうが、高い論理的一貫性が必要である」「自分達に有利だから不利だからという基準で、主張・持論の論拠を二転三転するのは誤りであり、その論拠の無意味さを示す」という点があります。「自分の属する国・民族・集団に有利不利に関わらず、事実は事実であり、事実に基づき出来得る限り妥当な認識を持ち、誤った状況は改善すべき」です。

  「アイヌ・ニブフ・ウィルタ民族の追放」の理由には「敵国の日本に協力した民族への罰」がありました。しかし、そもそもからして「千島列島・樺太は少数民族は先住地であり、当然の権利の下に、日常生活をしていただけ」であり、彼らにはソ連・ロシアから非難される謂れは微塵もなく、他の何者も「彼らの根源的権利権利」を侵害する権利はありません。「日本人の追放」も「日ソ中立条約の破棄と戦争・占領・暴虐行為を行ったのはソ連」であって、非難されるべきはソ連であり、千島列島と樺太の少数民族と日本人を非難するこのような主張は、論理性が一切存在しません。

現在もロシアは「第二次世界大戦の戦勝国の権利として、千島列島と南樺太を領有している」「戦争の結果として合法的な領土権を保有する」と主張しています。更には国際的体制も、これを事実上追認しています。しかしこの主張は、それ自体の誤りだけでなく、その前提の認識も誤っています。そもそも「当時のソ連は、日本を断罪できるような資格のある国ではなかった」のであり、ロシア帝国・ソ連は歴史的に版図・勢力圏拡大の為に南下政策と西方への侵攻を行い、各地を戦争の脅威を晒してきました。特にスターリン政権は「覇権主義的な領土拡張政策」をとり、「カチンの森事件」などの数々の虐殺・迫害を起こし、多くの集団の強制移住とロシア人入植を行いました。ソ連時代にそういう秘密を話せば、強制収容所に送られました。「北海道の東半分」も占領するつもりで、占守島侵攻で時間を費やさなかったら北海道本島も侵略されていたとも言われます。ソ連による千島列島・南樺太の占領・領土主張と、アイヌ・ニブフ・ウィルタ民族の追放」は、第二次大戦中の「大西洋憲章」の「戦争による領土不拡大」「領土不変更」「民族自決」の原則、「カイロ宣言」の「戦争による領土不拡大」の原則、「ポツダム宣言」の「カイロ宣言の条項は、履行せらるべく」との条項に反する物であり、何らの正当事由も存在しません。そしてロシア・ソ連は、他国・他民族との紛争に際して「自国・自民族に都合の良い二重基準」を頻繁に用いています。
(然しそれら紛争においては、その多くは相手側にも問題がある。「片方の側は誤っていて、もう片方の側がより誤っている」という事例はあっても、「片方の側が正義」というのは先ず無い。 是非は簡単に区分けはできない事柄が多い。そして背後で操る勢力もいる)

一体「戦勝国の権利」とは何なのでしょうか?「第二次大戦は領土分捕り合戦をしてよい戦争だった」「少数民族の古来の先住権は否定し、近年に政策的に入植した民族に、千島列島・樺太の根源的権利・領土権がある」「自分達の利益になるならば、何をしても良い」「中立条約破棄しても、終戦間際に開戦しても、終戦後の一方的攻撃で占領しても、勝てば良い」とでも言うのでしょうか。「戦争の結果として権利がある、現状がこうだから権利がある」というならば、「現代の世界中のあらゆる構造は、それが如何に誤った物でも肯定される」ようになります。そしてそう主張するならば、何故「近年ロシアは第二次大戦後に決まった各国の国境・領土を無視して、自国の衛星国を広げる行為を取り続ける」のでしょうか。

北方領土交渉では、ソ連・ロシアは常に「第二次大戦の結果を認めよ」と日本に言ってきました。これは「これが千島列島・南樺太の領有の最大の根拠である」からそう主張しているのであり、この論法の背景には「ソ連が属した連合国は道義的優位性を持つ」→「だから連合国とソ連には第二次大戦の戦争責任と、それを受けた領土を規定する権限がある」→「だから従え」→「従わないなら第二次大戦の戦争責任を否定した事になる」という認識があります。では「戦争責任を規定する権限」もそうですが、況してや「連合国の第二次大戦後の領土を規定する権限」などという物が、どこに存在しているのでしょう。そもそもが「本来的に帝国主義のソ連に大戦後の領土を規定する権限も、戦争責任を規定する権限も無い」のであり、前提からして「道義的優位が齎す規定の権限」などという物は一切存在しません。では「ソ連の道義的優位が一切存在しない」ならば、「何を根拠に戦争責任や領土を規定する」というのでしょう。このように、主張の根源を遡っていくほど、そこには「主張の根源的根拠」という物が存在しなく、「循環論法(詭弁)をひたすら繰り返しているのみ」「力を以って正義とする」という状況が顕わになります。

ここに「第二次大戦の戦勝国の道義的優位と、それに基づく戦後処理を規定する権利」の、一体何が存在してるのでしょう。本より「第二次大戦の戦勝国の道義的優位」などという物は、全く存在しなく、最初から「勝てば官軍」なだけでありますが。「第二次大戦の結果の直接的な肯定的意味」とは、国際関係から見ると「(中国など)植民地支配された国が戦勝した事」だけです。「連合国の戦勝」は別に正義では無く、「枢軸国が勝つより良かった」という事です。そして「ソ連の第二次大戦と戦後処理における、対日本と対少数民族などの行為は、極端な独善性と苛烈な非人道的・非正義の行為その物」です。

仮定の歴史を考えたとして、若し「ソ連が北海道を占領していた」ならば、「北海道を占領し続ける歴史的正当性はない」にも拘らず、ソ連・ロシアは日本に返還しなかったでしょう。若し立場が逆で、「日本が連合国に属してソ連に勝利して、ソ連領土を日本領としたら、ソ連・ロシアは納得した」でしょうか。する筈がなく、徹底的に返還を要求し続けるでしょうし、ここに「論理的一貫性」は全くありません。これは「ソ連の領土占領は、全く道義・道理・妥当性に基づいた物でなく、単に戦争に勝利したから」という事を示します。更には「アジア・黄色人種の何れかの国が、ウラル山脈以西(又はそのロシア領土)のコーカソイド(白人)の先住地域を占領し、自国領と主張した」「先住していた白人層を追放した」として、これをロシアやヨーロッパや国際社会が許すでしょうか。それは絶対に有り得なく、「徹底的な弾劾」「国連軍などの武力で原状回復させる」「後代まで徹底して非難され続ける」のは間違いありません。これは「第二次大戦後のソ連の占領は、歴史的正当性や権利に基く物ではなく、強大な力と格差構造の下で、不当に行使された」という事と、「ソ連の強制移住政策は白人・黄色人種など各人種民族に行われたが、この問題には人種格差構造も大きく影響している」という事を示します。

元々「千島列島」「樺太」は「アイヌ・ニブフ・ウィルタ民族の先住地」であり、「先住民族の少数民族の下に、千島列島・樺太が国家として独立する」を選択するならば、その意向は尊重されます。しかしこれを除いて、「何れかの国の領有」という観点のみで考えた場合、以下の事が言えます。「千島列島」「樺太」を国として最初に領有したのは「室町時代~江戸時代の日本」です。当時、少数民族がロシア人と会った事があるという記録はなく、ロシアが進出したの後代です。各国間で「領土不変更」が何度も確認された第二次大戦の前、「千島列島」「南樺太」を領有していたのは日本です。拠って「千島列島・樺太は、ロシアの領有には正当な根拠はないが、日本にはある」と言えます。また、ロシアは沿海州の「ウラジオストク」が「東方を征服せよ」という意味であるように、元々「ウラル山脈以東に居住していたロシア民族(コーカソイド))」は、全くの異民族の「モンゴロイド系少数民族」の住む「シベリア」を支配して、帝国主義的に東方へ領域拡大、根本的にはここに問題があります。このように「千島列島・南樺太問題」は、その背景となる事象を様々に鑑みると、あまりに多くのことが、論拠に欠け、矛盾に満ちて、自己本位さばかりが目立ちます。

それ故に「ロシアが千島列島と樺太からアイヌ・ニブフ・ウィルタ民族などを強制追放した根拠は全くない」「現在も千島列島や樺太(南樺太)の土地の根源的権利は、アイヌ・ニブフ・ウィルタなどが有する」「千島列島と南樺太を占領する権利はロシアには存在しない」「ロシアは追放して多大な悲劇を与えた少数民族に謝罪すべき」「ロシアは第二次大戦前の状況に原状回復すべき」「ロシアは千島列島や南樺太を日本に返還すべき」です。

勿論、「日本政府が樺太・千島列島のアイヌ民族に歴史的に行ってきた行為(強制移住を含む)は、人道上の苛烈な犯罪」であり、この責任から微塵も逃れる事はできません。故に「日本政府は北海道・樺太・千島列島のアイヌ・ニブフ・ウィルタ民族に、歴史的行為の非人道性を認めて、正式に謝罪すべき」「千島列島・樺太を、少数民族の自治区とすべき」「少数民族の権利(聖地・入会地ほか)を高度に・広範に認めて、文化復興への多大な支援を行うべき」「千島列島・南樺太に居住している全人種の人々に、自由に日本とロシアのどちらの国籍も選択でき、両国の何れかに平和のうちに居住できるようにすべき」です。

  しかし、このような歴史的状況がありながらも、「北方領土問題」の報道・議論においては「日本とロシアの政府間・政治体制間の問題だとされる」「アイヌ・ニブフ・ウィルタという先住民族に関する要素・観点・歴史は先ず出ない」「千島列島と樺太の話題・議題は少ない」「北方四島や、日本の戦争とソ連の対日攻撃ばかりに焦点が当たる」という状況にあり、非常に単一な視点に終始しています。然しながらこれは完全に間違っていて「千島列島・樺太の問題は根源的には、アイヌ・ニブフ・ウィルタほか少数民族の問題である」のです。

この状況の原因は「アイヌ問題軽視と蒸し返しになるので、日本の体制側が無視している」が理由です。北方領土問題は、国家という視点のみで語られますが、「大和民族伝来の土地でない事は、問題への認識レベルを大きく下げている」のが現実です。

  「先住民族であるアイヌなどが、後に来た遥か遠方の民族により、先祖伝来の土地から追放された」「これは数十年前の事件である(遠い歴史的過去ではない)」「日本もロシアもこの事実を事実上無視している」、この過去から現在の行為は「人道上の甚大な大罪」です。

しかし、過去~現在の世界的構造の要因により、この問題は国際的に完全に無視されていて、そもそもが問題の認知度自体がほぼ皆無です。「アジア地域の問題である事」「欧米‐アジアの地位格差」という要因は、これは「黄色人種が白人の先住地域で同様の行為をして、長年是認・放置される事は決して有り得ない」というをいう事と対を成していて、「世界の統治構造の犯罪性」が如実に現れています。現代世界は、常にこの構造の統治下にあります。

「第二次世界大戦や戦後処理の認識論の見直しになる」という要因について、「第二次世界大戦の戦前~戦後の事実関係は、戦後の国際社会の一般的認識と異なる部分が多い」「都合主義の恣意的認識が多くの国で見られる」という点と密接に関係しています。要するに「戦後処理と、事実関係の妥当性や正義の間には、大きな隔たりがあるが、国・民族の利益と相反するので、その見直しは行わない」という事です。これは非正義以外の何物でもないですが、当事者達は正当化したり、口を噤むのみです。

「日本の問題である事」という点について、これは「第二次世界大戦における開戦・諸地域での戦争・諸々の問題は、日本に関わる物は、その原因の大多数が日本に帰せられている(実際は原因は、日本に問題も他国の問題も、同様に多い)」「そこから日本は何事でも封殺し易い国と見做されている」というのが原因です。「第二次世界大戦の開戦や諸地域での戦争の原因と、戦後処理問題」については、「その国際的通念は、事実関係に概ね沿った物と、異なった物がない交ぜとなっている」「多くの当事者国では、自国を有利にする為の恣意的解釈の論説が飛び交っている」という状況が続いてきました。

いずれにしても「アイヌ・ニブフ・ウィルタほか少数民族は、国際的関係による完全な被害者でしかない」のであって、彼らに非は全くないのですが、強者達は穢れたパワーゲームを繰り広げるのみで、正義などどうでも良いというのが現状です。

また「米大陸・オセアニアなど、過去に先住民弾圧があった地域」では、日本より非常に過酷で、完全な異民族・異文化との点はありながらも、しかし近年は公的・民間の権利擁護が高まり、報道・政官・教育等の取り上げ量や社会的関心度も日本より高いです。

  • 日本におけるアイヌ問題の認識状況
  翻って日本では、これらの国に比べて明示的な人種格差は低い物の、しかし未だに差別と格差の構造が厳然とあります。「日本の体制側が行った歴史的経緯の修復」による活動は、ごくごく僅かな程度です。先述の先進諸国の近年の事例は、何事も「臭い物に蓋」ばかりする日本の体制側と、更に体制側の力ばかりが強いという日本の社会状況と、対比される状況です。

そして一般の認識は「ヤマト民族と基は同じ、又は非常に近い民族であるにも拘らず、あまり語られる事もなく、僅かな知識しか持たれていなく、存在や問題が無いかのような、透明人間的な状況にされている」という境遇にあります。

当然これらは「政策・教育・報道その他、社会が過去~現状のレベルであったから、この程度の全体状況になっている」のであって、「日本社会が作り上げた状況」に他なりません。こういった諸々の事態は、これは、現代の日本では当然のようになっているのでしょうが、「客観的に考えれば、非常に異常であり、真理から極端に外れた事態」です。

  「アイヌ民族についての、メディア報道や学校教育の量は、ごく僅かしかない」のが現状です。メディア報道の中で、アイヌについて触れられているのは、非常に限られた物しか存在していません。例えば「新聞サイトなどの記事の検索」をしても、アイヌという語句がある記事が、月に10~20記事しか存在せず、その殆どが北海道のメディア・地方版です。これが日本国内の様々な分野の記事であれば、又は各県の記事であれば、その記事数は多数に上ります。諸外国の事象についての記事も、政治から文化まで、毎日非常に多くの記事があがってきます。そして特に、エンターテイメント関連の番組・報道では、アイヌ文化を取り上げる事は、ほぼ皆無です。

学校の教育制度での「アイヌ民族の存在・歴史・文化の教育」は、そもそもが文部科学省など政界・官界は無視に等しいので、殆ど実質的な物が存在しません。「沖縄の民族・歴史・文化の教育」を教える時間も限られていますが、更にそれよりもずっと少ない時間数です。高校では世界史は必修ですが、日本史・地理は選択授業であり、「欧米の歴史体系・文化・事物は、小学校・中学校・高校の授業自体全体で、相当の時間数が教えられているが、アイヌについては殆ど教えられていない」という逆転した状況があります。

こういった状況により「子供達は、日本の事であるのに、アイヌ・ニブフ・ウィルタなどの民族や千島列島・樺太について、殆ど知る機会を持たない、殆ど何も知らない(或いは聞いた事もない)」「特定の幾らかの国についての知識量や、有象無象の物事の知識量の豊富さに比べて、全くと言っていいほど何も知らない」という、異常な状態が常態化しています。大人達についても同様であり、アンケート結果でもそういった状況が現れています。

最近、内閣府が行った「アイヌ政策に関する世論調査」では、「重要だと思うアイヌ関連の施策(複数回答)」について、「アイヌの歴史・文化の知識を深めるための学校教育:51.3%」「アイヌの人々への理解を深めるための啓発・広報活動:43.4%」「文化継承のための人材育成:31.1%」いう回答でした。しかしこういった政策は全く行われていないに等しく、過去の流れから言えば、アンケートも単に「対策を行ったというポーズ作りのルーティンワーク」に過ぎません。

更には「どのような事象でも、アイヌの歴史的被害と、その修復が語られると、それを徹底的に攻撃したり否定する狭量な人達」というのが、ネットを中心にかなり存在します。そのような主張では、歴史的事実を認めなく、アイヌ民族はもう殆ど居ないものとして、アイヌ民族側の声や擁護する論について「取り上げるな・認めるな」「捏造」「カネのたかり・利権」などと言っています。

  これらは「近現代の日本の体制が行ってきた行為による結果その物」であり、更には「体制側が徹底した不作為を重ねながら、能動的な方向・行動は殆ど示さない」「アイヌなどの間での諦めと同化を待つ」「年代経過による民族消滅を待つような未必の故意」さえも感じられます。そして、日本にしてもロシアにしても、「歴史的責任を修復する行為」を行わないのであれば、究極的には「アイヌ民族自身に、北海道、千島列島、樺太(の一部)を返還すべき」です。

アイヌとは明確に「歴史的権利と被害度の総合的度合い」に対して「最も何の保障もされてなく、無視されている民族の一つ」です。こういった「アイヌ⇔日本・体制側・大和民族・欧米・白人・支配者」の格差は著しく卑怯で、その支配者・加害者側の論説は矛盾と非正義に満ち、現在の世界が如何なる物かを、象徴的に表して現しています。

  • 沖縄・琉球・南西諸島の歴史
  「沖縄県」は、地域区分として「沖縄諸島(北部)」「先島諸島(西部)」「大東諸島(東部)」に別れ、先島諸島は東から「宮古列島」「八重山列島」に別れます。「琉球諸島」は「沖縄諸島」「先島諸島」を含み、「奄美群島」を含めたり、「大東諸島」を含めない場合があります。また奄美群島の南方に沖縄諸島があります。

「鹿児島県」の南部島嶼部は「薩南諸島」と呼ばれ、北から「大隈諸島」「トカラ列島」「奄美群島」と別れています。これら日本の南西部の島嶼部を総称して「南西諸島」「南島(なんとう)」「琉球弧」と呼びます。

「沖縄県」は、嘗ては「琉球」と呼ばれ、「琉球王国」がありました。「沖縄県」「奄美諸島」では「琉球方言(琉球語)」が言語です。「琉球民族」の定義は「旧琉球王国の領域であった沖縄県の沖縄諸島と先島諸島、鹿児島県奄美群島に住む人々の言語、生活習慣、歴史的経緯から、独自の一民族であると定義した場合、それを指していう」となっています。

「琉球方言(琉球語)」は「日本語の一方言」「独立言語」とする二説があり、「日本語と沖縄方言の起源は同一」です。琉球方言を方言とする場合、「日本語族に日本語派と琉球語派が属する」「日本語族は孤立言語」となります。「琉球方言」は、弥生時代を上限とし古墳時代までに、本土の「日本語」と分岐しました。「上古日本語」を伝える言葉が多く残っていて、言葉の語源が琉球方言から判明する事もあります。琉球方言は、その地域ごとに大きく言葉が異なります。「日本語と琉球方言の相違」は「ヨーロッパ諸語のうちの、ドイツ語とノルウェー語、イタリア語とスペイン語の相違より大きい」などとも言われます。

琉球方言を分類すると、北から「奄美方言(奄美語)」「国頭方言(国頭語・沖縄本島北部)」「沖縄方言(中央沖縄語・沖縄本島南部)」「宮古方言(宮古語)」「八重山方言(八重山語)」「与那国方言(与那国語)」に分けられ、沖縄方言以北の「北琉球方言」と、宮古方言以南の「南琉球方言」の2グループに大別できます。

沖縄では「沖縄」を「ウチナー」と呼びます。古来よりの沖縄島住民による「沖縄島」の呼称は「うるま」、八重山方言では「ろーま」です。「沖縄本島周辺の方言」を「ウチナーグチ(沖縄口)」と呼び、沖縄の言葉を「シマクトゥバ(島言葉)」と呼ぶ事も多いです。近年は純粋な方言は衰退しつつあるので、本土の言葉を併せた「ウチナーヤマトグチ」が用いられています。「八重山」は八重山方言では「やいま」、沖縄方言では「えーま」と発音されます。鹿児島県の「薩隅方言(さつぐう)」のうち、島嶼部の方言は「甑島方言」「種子島方言」「屋久島方言」「トカラ方言」です。

「沖縄・琉球・南西諸島の地理的定義」は、概念ごとに、どの諸島が属しているかが異なります。「琉球方言(琉球語)と琉球民族の定義は、琉球王国の版図内の言語・集団である」と言えます。

  南西諸島の先史時代は、「北部文化圏:薩南諸島」「中部文化圏:奄美諸島・沖縄諸島」「南部文化圏:宮古列島・八重山列島」の3つの文化圏が設定されています。北部文化圏は、本土文化の強い影響下にあります。「中部文化圏」では、九州の縄文文化が縄文時代前期ごろに定着、ここから独自の発展をしました。「南部文化圏」では、少なくとも3500年前より以前に、「台湾」「フィリピン」からの渡来人が定住し、その系統が強い文化を築いたとされます。以下は主に「中部文化圏」について記述、「北部文化圏」「南部文化圏」については、後段で記述します。

《沖縄地方の時代区分》
旧石器時代
貝塚時代
・時期的には縄文時代から平安時代までの期間を指し、「早期(~中期)」「後期」に区分する。
・早期から中期が縄文時代、後期が弥生時代から平安時代にあたる
・本州の縄文時代や弥生時代と比較して、狩猟・採取経済が生活が中心であったことや、水田が未だ見つかっていないことなどからこの呼称が用いられた。
古琉球
・沖縄県における農耕の痕跡のうち最古のものは紀元前8世紀頃のものだが、本格的な農耕社会が成立したのは12世紀頃だとされている。
・農耕社会が成立してから、島津氏の侵攻(1609)までを指す。
グスク時代
・平安時代終末の12世紀から15・16世紀にかけて
・「グスク(城)」を築き始めるのは11世紀後葉。
・貝塚時代の後続の時代の、沖縄では初めての農耕文化。
三山時代
・沖縄本島に君臨した3カ国「北山」「中山」「南山」があった時代。
・1322年ごろから1429年まで。
琉球王国
・1429年頃、南山の初代琉球国王「尚巴志」王が沖縄本島と統一、「首里城」を王都とした。
{島津氏の侵攻
・慶長十四年(1609)、第二尚氏第七代「尚寧」の時代、薩摩の島津氏が侵攻、首里城を接収した。
・慶長十五年(1610)、尚寧は、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。
 途上の駿府にて大御所徳川家康に、8月28日に江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見した。
 忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地とした。
・慶長十六年(1611)、尚寧と三司官は「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べた起請文を提出した。
 また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。
 こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、琉球を間接支配するようになる。
・琉球王朝は、清にも朝貢を続けていた。
琉球処分
・明治五年(1872)から明治十二年(1879)にかけての琉球処分で、琉球王国が廃止された。
 日本国の統治下に入り、「琉球藩」から「沖縄県」となった。

縄文時代、「縄文文化」が「沖縄諸島」にも影響を与えていてました。「沖縄諸島の各地に縄文遺跡があり、縄文土器が出土する」「沖縄諸島・奄美諸島・トカラ列島・大隈諸島で産する、南方産貝製品が日本本土で交易に用いられ、北海道でも発掘された」「縄文時代後期は、海岸砂丘上に遺跡立地が移動し、主に漁撈を中心とした生業と考えられている」「沖縄諸島・奄美諸島・トカラ列島に共有の土器文化があった」といった状況があります。「この時代の沖縄諸島は狩猟採集経済で、縄文土器に類似する波状口縁の土器をもつ」「これらから"縄文時代"の名称を使用する場合もあるが、縄文時代・縄文文化とするかは意見が分かれる」とされます。

縄文時代前期、「轟式土器」は「九州島」を中心として、「種子島」「屋久島」「朝鮮半島南部」にも分布しています。続いて登場した「曽畑式土器」も九州島を中心に分布、「高又遺跡(鹿児島県奄美市)」「渡具知東原遺跡(沖縄島読谷村)」「朝鮮半島釜山市」などで発見されています。縄文人が黒潮本流を越えた例は、この曽畑式土器を持った集団による縄文前期の九州島・奄美大島間の航海が最も古く、関東における三宅島・八丈島間の航海よりおよそ800年早いものであるとされています。長崎産滑石を含んだ、縄文時代前期(5500-5000年前)の「曽畑式土器」が「伊礼原C遺跡(沖縄県北谷町)」から出土、この時代には長崎との交易があったことが判明しています。

「伊波式土器」は、3500年前(縄文後期)の在地の土器で、「山形の口縁部」という縄文土器の主要な特徴が見られます。「荻堂貝塚(沖縄県北中城村)」は沖縄本島東海岸にあり、沖縄県では最古級の琉球縄文土器時代前期(本土では繩文時代後期)の貝塚です。「各種の南島産貝類」「魚骨・獣骨」「石器」「土器」「貝製品」が出土しています。土器では「先が二又になったヘラで描く平行線文・山形文・爪形文などの文様」を描いた「伊波・荻堂式土器」が出土、これらの文様は「曽畑式土器」や「興津貝塚(千葉県栄町)」の土器と類似性があります。

貝塚時代後期前半~後期前半末(弥生時代~古墳時代の6世紀前半?)の沖縄諸島の遺跡には、南島の「尖底土器」、「弥生土器」、後述の「南方製貝瀬品のストックや半製品」という類型があります。また「弥生時代の遺物」が多数発掘されますが、同時に、沖縄諸島では文化の独自色が顕在化し始めました。この時代の遺跡では「銅鏡」「銅剣」などが、他県に遜色が無いほど発掘されていて、「鉄製品」は畿内の出土量を凌駕するものがあります。しかしこの時代の編年(土器形式などによる時代区分の細分化)は、まだ進んでいません。この時代は海浜砂丘地に立地した集落が増え、貝塚を形成、狩猟採集社会でした。古墳時代前期(4世紀)までは、巻貝の「ゴホウラ」「イモガイ」「スイジガイ」を採取・交易、これは本土日本で非常に珍重され、大きな影響を本土と沖縄で与えました。そして「勾玉など玉類」や、一部は「鉄器(斧用など)」などを受け取っていたと見られます。また大陸の影響を伺わせる出土物もあり、本土の弥生中期頃頃の遺跡と同様に、「中国の古銭」の出土例も複数あります。

貝塚時代後期後半(6世紀中盤?)から10世紀頃までは、南島の「くびれ平底土器群(11世紀終わり頃まで)」、交易用の「貝札(小型化し文様は略化した上層タイプ)」と中国の「開元通宝(621年~10世紀)」という類型が多いです。この時代は螺鈿細工用の「ヤコウガイ」などが交易され、奄美で特に多く見られます。奄美では「鉄器」が輸入されましたが、沖縄では「鉄器・金属器」は殆どなく(輸入されず)、「開元通宝(13世紀の遺跡まで)」がより多く発掘されています。また「本土産須恵器」などの出土例があります。この時代は台地上に集落が移り、一部は砂丘上にもあります。農耕が徐々に始まったと見られ、畑跡が幾つかの遺跡から見つかっています。この時代も前代に続き、漁労も主だった生業と見られます。

一説に「魏志倭人伝の邪馬台国は沖縄にあった」という説があります。「倭地温暖で冬夏常に野菜有り、皆裸足」とあり、南方系・海洋民の習俗が記載されていて、場所について「文の通りに読むと、九州の南方海上に至る」「会稽・東冶(中国浙江省・福建省の地名)の東方にある」「有無する所、朱崖・儋耳(中国・海南島の地名)と同じ」という記述との符合があります。

「弥生時代・古墳時代前期において、多くの文化・言語や祭祀の面で、沖縄(沖縄諸島)と日本本土の関係性は一体的であった」と考えられ、沖縄諸島の各地では「弥生時代・古墳時代の、本土との一体性や交流を示す遺跡・出土物」が出土しています。ヤマト王権の直接の支配領域になったのは、薩南諸島が古墳時代末期、沖縄には後も直接支配は及びませんでした。

  古墳時代の何れかの時期(7世紀以前)、沖縄と日本の一体的な関係性が次第に薄れていきました。奈良時代、幾つかの正史・古典には、朝廷と沖縄の関係の記事が載っています。

日本で宝亀十年(779)に成立した「西暦唐大和上東征伝」には「阿児奈波島(沖縄島)」とあり、これが「沖縄」に類する名称の初出です。この記事には「鑑真など遣唐使一行が漂着した」とあります。享保四年(1719)、「新井白石」が「平家物語」に見える「おきなは」に「沖縄」の字を宛てしました。「阿児奈波島」の読みは「あこなは」「あじなは」の二説があり、「沖縄」の語源を「おき:沖」「なは(なわ):なば:魚場・漁場」で「沖合の漁場」とする説があります。

「琉球」という名称は、中国の正史「隋書」の607年・608年の「東夷傳 流求國」の記事が初出、その後「瑠求(元書)」などと様々に表記され、「琉球」に落ち着いたのは明時代以降です。しかし「琉球」とは「沖縄」「台湾」「フィリピン」に用いられた又は自称した名称で、これにより昔から混同がありました。またこれらの内容には、時期や背景により、ほぼ正確な物tと、又聞き・誤り・脚色も多い物とがあると考えられます。

古来よりの沖縄島住民による沖縄島の呼称は「うるま」で、これは雅称であり、漢字の当て字は「宇流麻」です。意味は「ウル:珊瑚、珊瑚の海石(花石・笠石)、海石の砕けた砂礫」「マ:しま(島)」で「珊瑚で出来た島」だと言われます。現在は「沖縄県うるま市」が遺称地です。

「八重山」の名称の由来には諸説があります。享保四年(1719)の『中山伝信録』には、「八重山、一名北木山、土名彜師加紀(いしかき)、又名爺馬(やま)」との記載があります。この記載では、現在の「石垣島」と「八重山列島」とが必ずしも区別されていません。

  古代日本の辺縁部には、弥生時代の渡来人流入や、古墳時代のヤマト王権の成立・拡大以後も、縄文人の系統を色濃く残す集団が存在し続けました。「薩摩・大隅(鹿児島県)」に居住した「隼人(はやと)」は、「渦巻紋」「鋸歯紋(きょしもん・ギザギザの紋様)」である「隼人紋」など、独特な呪術・祭祀・葬制の文化を持ち、「隼人語」を話し、畿内集団とは通訳を介して会話しました。類似系統とも言われる「熊襲(くまそ)」は「肥後国南部(熊本県南部)・大隈国北部(鹿児島県北部)」にいた集団で、2世紀前半の第十二代「景行天皇(けいこう)」と皇子「日本武尊(やまとたけるのみこと)」による征討伝承が、記紀に載っています。隼人は6世紀末~7世紀末に朝廷に服従したとされます。

「日本書紀」には「推古天皇二十四年(616):掖久・夜勾・掖玖の人三十人がやってきて、日本に永住した」「舒明天皇元年(629):大和朝廷から掖玖に使が派遣された」「天武天皇六年(677):多禰島人を饗した」「天武天皇八年(679):朝廷から使を多禰島に遣わした」という記事などが見られます。7世紀末以前までは「ヤク」とは「九州以南の地域」を指す言葉として用いていたとされ、天武天皇六年の記事は「多禰島:種子島」の初見です。「天武天皇十一年(682):朝廷から多禰人・掖玖人・阿麻彌人(奄美)それぞれに禄を賜る」という記事があり、ここで「掖玖(やく)」を初めて、特定の「屋久島」を指す言葉として用いています。

「続日本紀」には、文武天皇二年(698)に朝廷の命により「務広弐文忌寸博士が南島(なんとう・南西諸島)に派遣された」とあり、任務は「屋久島・種子島・奄美大島の朝貢関係を確認すること」です。文武天皇三年(699)に「多褹(種子島)・掖玖(屋久島)・菴美・度感(トカラ列島)から朝廷に来貢があり位階を授けた」と記載があります。大宝二年条(702)には「薩摩と多褹が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり(薩摩と種子島・屋久島が服属しなったので征討した)」とあり、これは「隼人」の征討とも言われます。

「多禰国(たねのくに)」は令制国の一つで、領域は「種子島・屋久島・口永良部島」であり、種子島北部に「能満郡」、南部に「熊毛郡」、屋久島の広域と口永良部島に「馭謨郡」、屋久島の一部に「益救郡」が置かれました。大宝二年(702)から天長元年(824)まで122年間存続、「大隅国(鹿児島県東部)」に編入されました。続日本紀には「多褹国」との表記も見られ、「西海道」に位置しました。

続日本紀和銅七年(714)条に「太朝臣遠建治(おおのあそみおけじ)が奄美、信覚(しがき=いしがき)、球美(くみ=西表島か久米島?)の島人五十二人を率いて太宰府に入貢した」とあります。これが古書における「八重山列島」の初見で、後に朝廷は「久米島」「石垣島」に服属を求める使者を派遣しています。また、朝廷は「多褹国(種子島)」に国司を派遣しました。元明天皇和銅八年(715)には「南島の奄美・夜久・度感・信覚・球美の島民が来朝し貢上した」「蝦夷の人々とともに南島の人々に位階を授けた」とあり、養老四年(720)に「南島人二百三十二人に位を授けた」、神亀四年(727)に「南島人百三十二人に位階を授けた」などの記載があります。これらのことから、九州以南の島々をこう呼んでいたとともに、南西諸島の島々が朝廷に貢献していたことを示しています。

近年、大宰府(福岡県)で8紀前半の「掩美鴫(奄美)」「伊藍鴫(伊良部島?宮古諸島)」と墨書された土器が発見され、朝廷の南島経営を表す遺物とされます。

これらを見ると、この時代の前期は「奄美諸島」までが朝廷の版図内で、「沖縄諸島」との交流は無かったと考えられます。しかし和銅七年(714)以降、「沖縄諸島」「八重山諸島」とも多少の交流の証拠が見えます。ここから「本土と沖縄諸島の関係性の変遷」は「弥生時代・古墳時代前期までは濃厚」「古墳時代中期(4世紀初頭)に途絶」「和銅七年(714)ごろから多少の交流が起きる」「後に朝廷や幕府レベルでは交流が途絶えた」「しかし一般レベルでは、幾らかの交流が続いた」と考えられます。

  沖縄ではグスク時代の12世紀、日本本土や中国大陸との交流が盛んになりました。これらで力をつけた有力者は地元の農民を束ねて豪族「按司(あじ)」となり、11世紀後葉から築かれ始めた石垣で囲まれた「城(グスク)」を拠点に、周辺の集落を傘下に入れ小国家へと発展しました。初代琉球王「舜天(しゅんてぃん)」や、実在した可能性が高い「英祖王統」の初代「英祖(えいそ・1259年? - 1299年?)」といった王朝初期の王も、この頃の有力な按司だとされます。「按司」は「主(あるじ)」が原義で、強力な按司は「世の主(よのぬし)」と呼ばれました。また豪族は、「奄美群島」では「大親(うふぬし・うふや)」、宮古諸島では豊見親(とぅゆみゃ)」と呼ばれました。

この辺りの時代には、日本本土から「平仮名」が導入され、また文永二年(1265)に日本僧禅鑑が伝えたとも言われます。平仮名は表音文字として文書全般に利用され、後に「漢字ひらがな交じり文」になりました。中国や東南アジアとの交流もあり、これらが融合してその後の琉球文化の基となりました。そして近年の研究結果では、10世紀前後に九州南部から多くの人が沖縄に渡ったとされています。「カムィヤキ古窯跡群(鹿児島県伊仙町・徳之島)」で生産された「カムィヤキ(類須恵器)」は、琉球弧全体で流通しています。集落はほぼ台地上になり、穀類を中心とした農耕に移行しました。

沖縄本島では14世紀に入ると、各地でグスクを構えていた按司を束ねる強力な王が現れました。南部の糸満(いとまん)を中心とした「南山(なんざん・山南)」、中部の那覇・浦添を中心とした「中山(ちゅうざん)」、北部の今帰仁(なきじん)を中心とした「北山(ほくざん・山北)」の三国に纏まり、これを「三山」と呼び、三王統が並立する「三山時代」が約100年続きました。三山の其々の領地は、1896年の郡制施行により「国頭郡」「中頭郡」「島尻郡」の三郡となりました。郡の範囲は現在ではかなり変わりましたが、地域区分「国頭」「中頭」「島尻」として残り、「北部」「中部」「南部」の広域市町村圏も、若干の違いはあるがこれらとほぼ一致しています。また「北山王国」の領域であった「沖縄島北部・伊江島・伊是名島・伊平屋島・古宇利島・屋我地島・瀬底島・水納島」「鹿児島県与論島・沖永良部島」では、「沖永良部与論沖縄北部諸方言」が話されてます。

中山国初代国王「察度(さっと)」の時代の文中元年(1372)、明王朝初代皇帝「朱元璋」が「楊載」を招諭使として琉球に送り、それに応じ、察度は弟の泰期を朝貢の使者として送り、表を奉り臣を称し、貢物を献上しています。二代目国王「武寧(ぶねい)」の時代の応永十一年(1404)、明の「永楽帝」が冊封使を派遣し、武寧を中山王に冊封しました。このいずれかが、琉球による歴代中国王朝との初の朝貢・冊封とされ、後に「北山国」「南山国」も朝貢、後代には「琉球王国」も朝貢を続けました。

「与那覇勢頭 豊見親(よなはせど とぅゆみゃ)」は、14世紀末から15世紀に「宮古島平良」を拠点としていた豪族です。元中七年(1390)、島内統一の際の後見を期待して、宮古島の首長として中山王「察度」に初めて朝貢、宮古島の首長として任ぜられ帰島しました。与那覇勢頭豊見親は元中五年(1388)に中山国に至るも、同国の言葉を解さなかったため、足掛け3年間言葉を学んだ後、朝貢したとされます。そして「八重山列島」にも琉球へ朝貢するよう促しました。

室町幕府四代将軍「足利義持」の時代、琉球王国から3~4年に一度の割合で使節が派遣されました。嘉吉元年(1441)、第六代将軍「足利義教」は、薩摩・大隅・日向守護(鹿児島県・宮崎県)の「島津忠国」に、恩賞として「琉球国」を与えています。文正元年(1466)、琉球使節が第八代将軍「足利義政」に謁見しました。「琉球国王と室町将軍」「王将軍(琉球の重臣)と管領(将軍に次ぐ役職)」は文書を交換、幕府側は上意下達文書、琉球側は上申書の形式とされます。これらを室町幕府ではこれを朝貢と理解していたとも言います。「応仁の乱」の後の15世紀末、室町幕府は島津氏に商人の往来の統制を命じ、琉球へは交易船の派遣を要請しました。天正十年(1582)、「豊臣秀吉」は、因幡国(鳥取県)の「亀井茲矩(これのり)」の「琉球国を賜りたい」との求めに応じて、「亀井琉球守殿」と書いた扇を授けました。これらの時期は、琉球王国は「日本と中国との中継貿易」を盛んに行っています。

琉球王国は、鎖国をしていた日本の江戸幕府と、海禁政策をとっていた中国の明・清との中継貿易で、大きな役割を果たしました。東南アジアとも交易も行っていて、マレー半島の「マラッカ王国」と密な関係にありました。この時代、ポルトガル人は「琉球:レキオ」「琉球人:レキオス」と呼び、16世紀初頭の東南アジア情勢を表した「東方諸国記」にも載っています。南蛮貿易時代に東南アジアで交易していた「ゴーレス人」は「琉球人」に比定する説が多いです。

「日本・沖縄・中国・朝鮮半島の漂流民が、母国へ帰った送り届けられた」という例は、古くから史書に見えます。「沖縄⇔朝鮮半島」は、古くは長元二年(1029)にあり、15世紀中盤以降は度々史書に見えます。特に第一尚氏第七代「尚泰久王(後述)」の時代の記述は、『朝鮮世祖実録 琉球見聞録』に詳しく載っていて、正確性が高いと考えられています。享徳二年(1453)と寛正三年(1462)の漂流民は、首里城内部の様相を伝えました。成化元年(1465)、宮古島に漂着した全羅道の漂流民三人を、沖縄島から李氏朝鮮時代の母国へ送り届け、「普須古(ふすこ・うふぐすくか)」「蔡ケイ(王へん+景/さいけい)」らの使節を遣わせました。使節は、第七代李氏朝鮮王「世祖(セジョ)」に「景福宮(韓国ソウル市)」で謁見しました。「普須古」は、朝鮮側の役人「李継孫」から、誤情報ばかりの1317年編纂の中国書物『文献通考』をもとにした質問を、中国語の通訳を介して受けました。文明九年~十一年(1477~1479)、済州島の10人ほどの漂流民が、「西表島・波照間島・新城島・黒島島・多良間島・伊良部島・宮古島・沖縄島・薩摩・長崎・対馬・ソウル」を経由して帰郷しました。以下はその一部です。

与那国島について(漂流民の体験記)
・酋長はいない。
・高齢の女性が「村の親」。
・苧麻(チョマ)で織った布の服を着ている。
・婦人は耳に穴を開け、青い珠を5~6センチ下げ、首には同様の珠を30センチほど垂らし、みな裸足。
・男は髪をひもで結び、女は短くても膝までの長髪。
・稲の収穫前になると、人々はみな謹慎して大声を出さない
・米飯を主に食べ、握って拳大の丸い形にする。
・女性に噛ませて濁り酒をつくる(口噛み酒)。
・田で使う牛や鶏と猫を飼うが、牛も鶏も食べずに死んだら埋葬する。
・部屋は区切りが無く、奥座敷や格子窓などがない。
・死人は棺に座置して崖の下などに葬る
・島民は文字を解さない。

八重山列島について(漂流民の体験記)
・相手を罵倒したり、喧嘩したりすることがない。
・子どもをたいへんかわいがり、泣いても叩いたりせず、ほっておく。

宮古島などについて(漂流民の体験記)
・婦人は鼻の両側に穴を開け、小さな黒木をさしている(西表島)。
・飯を炊くのに鉄製の釜に似たものを用いる。
・米麹を使って酒を作る。

沖縄本島などについて(普須古らとの問答)
・男性は色彩豊かできらびやかな服を着ている。
・冠は竹笠のような物、当時の朝鮮の僧の被り物に似ている。
・女性は上下のパーツに分かれた服、当時の中国の女性服に似ている。
 色彩豊かで、(着物を?)頭にかぶって垂らし、男の笠よりも大きい物を被る。
・『文献通考』に昔の人の言葉として、「琉球の男は鳥の羽を冠、宝貝を装飾具にして、赤毛で飾っている」
 「女は薄絹の綾模様の白布を帽子にして、色んな鳥の羽で服を作る」とあるが、普須古は「昔の事は知らないが、今は違う」と答えた。
・武器・武具の形は日本のものと同じ。
・鉄は多い(輸入物)。
・人民は酒桶を官に納め、牛馬皮を官に納め甲(鎧)を造る。
・婦人をして(王の)命を伝えしむ。
 およそ王の挙動するに、女官剣を杖して侍衛す。
・国に神堂有り。人、之を畏れ、近づきてこれを視るを得ず(御嶽があるが、畏れて、近付いたり見る事はできない)。
・若し婦人有らば、則ち巫に憑り、人、神に祝る(婦人は憑依されてノロとなり、人々は神を崇める)。
・悪人がいたら、巫が神託を受けて、神歌を歌いだし、すると悪人の家が燃えだす。
 隣の家には燃え移らないが、みんな畏れている。
・夫が暴力を振るうと、妻は神堂に逃げ込む、そこに旦那は入れない。
 女性が逃げ込むようなことがあったら、国家はその旦那を死刑にしないといけない、もしくは島流し。
 そうしないと大きな台風で国が滅茶苦茶になる、だから普通の男は妻を怖がっている。
・法律は中国の法律を参考にしてる。
・泥棒はいない(琉球諸島全域?)。
 泥棒は即刻死刑なので、だから落し物を誰も拾わない。
・一般に死を軽んじている、 進むを知って退く事を知らない、戦えば勝てない事はない。
 (後年のポルトガル人の書に、アラビア人・中国人から聞いた話として
 「レキオ人は正義を貫き、不正に対しては剣を抜いて立ち向かう 商品代金を踏み倒したりしたら、刀を突き立てて返済を迫る」とある)
・酒の色は黄で、味は焼酎に似て、非常にきつい。数杯かたむけると大いに酔う(輸入物)。

沖縄本島について(漂流民の体験記)
・那覇には東洋各地の舶来物を商う市がたっている。
・通りは中国人・日本人・南蛮人が闊歩し、それぞれ壮麗な規模の商館を開き、往来が絶えなかった。
・王城(首里城)は凡そ三重にして、外城に倉庫及び厩(うまや)有り。
 中城は侍衛の軍二百余、之に居る。
・内城に二十三の層閣有り。…其の王、吉日を択んで往来して之に居す。
・(層閣の)上層に珍宝を蔵し、下層に酒食を置く。
・尚泰久王の葬儀に伴う、王后と、後の第八代「尚真王」らの葬列に遭遇した。
  ・母后の乗り物は四面にすだれが垂れた漆塗りの駕籠で、これをかつぐのは二十人ほど。
   その後ろを長剣や弓矢をもった百人あまりの兵士が護衛し、道々、楽器を鳴らし、大砲を放ちながらやってくる。
  ・漂流民が母后に拝謁すると、彼女は行列をとめ、瓶を獲りだして酒をふるまった。
  ・少し遅れて、容貌の美しい少年がついてきたが、当時十二歳の「尚真王」であった。

  三山の中から「中山国」の「尚氏」が勢力を増しました。応永十三年(1406)、「尚巴志」は中山王「武寧」を滅ぼして、父「尚思紹」を中山王位に即け、「第一尚氏」が始まりました。応永二十三年(1416)に「北山」、「尚巴志」の中山王即位後の永享元年(1429)に「南山」を滅ぼして琉球を統一、これにより「琉球王国」が発足しました。当時は一般的に「琉球國(るーちゅーくく)」と呼ばれ、正式な国号は「中山王国」といいます。

成化六年(1469)、第一尚氏の「尚泰久王(しょうたいきゅうおう)」の重臣「金丸」は、尚泰久王の子「尚徳王」にかわって王位に就き、「尚円王(しょうえんおう)」と名乗りました。これが「第二尚氏」の興りで、第十九代「尚泰王(しょうたいおう)」の光緒五年(1879)の、四百十年間続きました。第三代「尚真王(しょうしんおう)」の時代、地方の按司らを首里に集居させ中央集権化を図りました。国中の武器が集められ、王府で厳重jに管理され、また後の薩摩藩の政策も併せて「禁武政策」とも呼ばれます。交易も増加、五十年続いた「尚真王」の治世に、王国は隆盛を迎えました。

奄美群島について、文永三年(1266)、奄美群島から中山王「英祖王」に入貢したと『中山世鑑』などの琉球正史に記されているが、当時の群雄割拠の状況から後に創作された伝承とも考えられています。応永二十三年(1216)、第一尚氏は北山王国を滅ぼし、その領土であった「与論島」「沖永良部島」「徳之島」が中山王国の領土に組み込まれました。15世紀中盤、琉球王国は奄美群島に相次いで派兵、全域を領土に組み込みました(奄美諸島の項で詳述)。

「先島諸島」は、琉球王国による海上交易の中継地として次第にその影響圏に置かれました。明応九年(1500)、石垣島の按司「オヤケアカハチ(オヤケ赤蜂)」が反旗を翻すと、「尚真王」は征討軍を編成するが、宮古島の豪族「仲宗根 豊見親(なかそね とぅゆみゃ)」が先鋒となって石垣島に上陸し、オヤケアカハチを討ちとりました。与那国島では、女首長「サンアイイソバ(サカイイソバ)」と、「鬼虎(うにとら)」による独立状態がしばらく続いたとも、オヤケアカハチの乱後に王府が侵攻して、撃退したとも滅ぼされたとも言われ、又は実在しないとも言われます。この時代の琉球王国の先島諸島の統治は、緩やかなものでした。慶長十六年(1611)、薩摩藩が与那国島で測量を行い検地帳を作製、これで尖閣諸島を除く先島諸島全域が琉球王国の支配下に入りました。島津氏(江戸幕府)は琉球王を徴税代理人として年貢を徴収、この為に、琉球王府は先島諸島に対して、重い「人頭税」を導入しました。

第五代「尚元王(しょうげんおう)」の元亀二年(1571)、王が自ら乗り込み進軍して、奄美群島北部の「奄美王島」まで勢力下におさめ、琉球王国の最大版図を築きました。こういった版図拡大の背景には、王府のの威光を背景に勢力拡大を図る、在地豪族の意向もありました。

慶長八年(1603))に江戸幕府が開府、幕府は中国の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主「島津忠恒」に「琉球王国」に進出して明と通じることを許可しました。慶長十四年の旧三月四日(1609年4月8日)、島津軍三千名余りを乗せた軍船が薩摩の山川港を出帆、三月八日(4月12日)に「奄美大島」へ上陸して制圧、三月二十二日(4月26日)に「徳之島」、三月二十四日(4月28日)に「沖永良部島」を攻略、三月二十六日(4月30日)には「沖縄本島北部の運天港」に上陸、「今帰仁城」を落として「首里城」へ迫りました。第七代「尚寧王(しょうねいおう)」は止む無く和睦を申し入れ開城、島津軍は四月五日(5月8日)に首里城を接収し、五月半ばには薩摩に凱旋帰国しました。以後、琉球は日本(薩摩藩)と明の二ヶ国に両属することになりました。「尚寧王」は薩摩藩によって「江戸」に連行され、征夷大将軍「徳川秀忠」に謁見、後に琉球に戻りました。

慶長十八年(1613)、「奄美群島」は薩摩藩直轄地となり分離されましたが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人が派遣されました。琉球王国は薩摩藩への貢納を義務付けられ、「江戸上り」で江戸幕府に使節を派遣しました。琉球王国時代、沖縄と日本本土の関係性は深まっていきました。

  琉球国王の王統は、神話時代を含めて「天孫氏王統」「舜天王統(1187~1259)」「英祖王統(1260~1349)」「察度王統(中山王国:1350~1405?)」「怕尼芝王統(北山王国:1322?~1416)」「大里王統(南山王国1337?~1413)」「第一尚氏王統(琉球王国:1406~1469)」「第二尚氏王統(琉球王国:1469~1872)」です。

琉球王国の身分制度は、「御主加那志前(ウシュガナシメー)」など複数の呼称があった「国王」を頂点に、「御殿(ウドゥン)」と呼ばれた「王子」、「按司」などの「王族」、「殿内(トゥンチ)」と呼ばれた「親方(地頭)」・・・などとなっていました。「御殿」は「王族の邸宅」、「殿内」は「親方の邸宅」も指し、「御嶽」などの聖地の名にもなっています。

琉球王国は、都を「首里城(しゅりじょう・すいぐすく)」に構えました。琉球王国の第二尚氏王統の歴代国王の多くは、「玉陵(たまうどぅん・玉御殿・霊御殿)」に眠っています。「浦添(うらそえ)」は琉球王朝発祥の地であり、意味は「津々浦々をおそう(諸国を支配する)」、それが「浦襲(うらおそい)」「うらしい」「浦添」と転じていったとされます。歴史は古く、13世紀ごろに登場する「英祖王統」の中心地として栄え、14世紀末に察度王統が尚巴志王に滅ぼされるまで中山王国の首都でした。琉球王国の陵墓「浦添ようどれ(英祖王陵と尚寧王陵)」や、王朝初期の重要拠点「浦添グスク」など、遺跡が多く残ります。これら遺跡は沖縄戦で大きな被害を受けました。

琉球王国の正史「中山世鑑」や、公選歌集「おもろさうし」と「鎮西琉球記」「椿説弓張月」では、平安時代末期に「源為朝(みなもとのためとも)」が琉球へ逃れ、その子が「舜天」になったとしています。源平合戦による「平家の落人」伝承として、「奄美群島」に「平資盛」「平行盛」「平有盛」、「沖縄本島今帰仁」に「平維盛」が落ち延びたと伝わり、「宮古島」「竹富島」「石垣島」にも伝承があります。

王朝は、琉球の神話や各地の伝承などを採録させ、「琉球国由来記」「球陽」などが表されました。これら古典には「記紀」「風土記」にあたる内容が含まれています。おもろさうしの著者「羽地朝秀」は「琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからである」としています。

明治維新後、「琉球処分」として知られる一連の政治過程で、沖縄は近代日本国家に組み込まれました。沖縄には、明治五年(1872)に「琉球藩」が設置されました。明治十二年(1879)には廃藩置県で「沖縄県」設置、これにより「琉球王国」が廃絶されました。これ以降は「沖縄に対する国内外からの歴史的な抑圧」の項で記述します。

沖縄諸島の東方の「大東諸島」は、古くは「ウフアガリの島(東の涯て)」と呼ばれ、はるか東にある無人島として古くから知られていました。明治時代に沖縄県や八丈島などの住人が、入植しています。また「ニライカナイ」伝承の一つとして、「南与那国島」「南波照間島」の伝承があります。

大東諸島を除いて、「南西諸島の全諸島・地域」にわたり、「文化・言語・祭祀の類似」が見られます。これは「地理な位置関係から、航海を通じた文化交流・交易が頻繁にあった」「日本本土からみて辺境の方に古代文化が残った」からで、「琉球王国の版図」にもよります。

  • 琉球神道について
  沖縄には「琉球神道」があり、「琉球神道と本土の神道と起源は同一」「往古の古神道の姿を色濃く残す形態」です。南西諸島においては、何れの地でも「信仰・神祀り・神事」が身近に存在しています。

琉球神道は「アニミズム」「祖霊信仰」「おなり神信仰」を基本とするものです。「ニライカナイ信仰」「御嶽信仰」とも呼ばれ、ニライカナイ信仰は「沖縄県や鹿児島県奄美群島の各地における、伝統的な民間信仰の主要な要素」です。

海の彼方の「ニライカナイ」と天空の「オボツカグラ」の他界概念を想定、これらの他界に「ティダ(太陽神)」をはじめとする、多数の神がいます。神々は、時を定めて現世を訪れて豊穣をもたらし、人々を災難から守護すると考えられています。「他界」とは「人が死亡した時、その魂が行くとされる場所」、一般的に日本本土の神道や民間信仰では「海の彼方・海の底」「山の上」「地の底」などにあるとされてきました。

「ニライ・カナイ(儀来河内)」は、「ニラーハラー」などとも呼ばれ、奄美諸島では「ネルヤカナヤ」と呼ばれます。また「ニライカナイはニライの文学的表現」であって、八重山では「ニロー」、各地域で「ニレー」「ニリヤ」「ニルヤ」「ニーラ」「ニッジャ」などと呼ばれます。

「遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる異界の理想郷」「東方信仰と混交した」「もともとは国頭地方の信仰と考えられる」とされ、一般的に「海の彼方」とする見方が多いです。「豊穣と命の根源となる異界」であり、「神界」でもあり、「年初にはニライカナイから神がやってきて豊穣をもたらし、年末にまた帰るとされる」とされます。「生者の魂も、死後にニライカナイに渡って肉親の守護神になる」とされ、このため祖霊を非常に敬い、死後の世界を「後生(グソー)」と称して、「非常に現世や生者と近しいもの」と捉えていて、ニライカナイとは「祖霊が守護神へと生まれ変わる場所」「祖霊神が生まれる場所」でもあります。このように複合的な観念です。

ニライカナイは、日本神話の「根の国」と同一だとも言われ、「二ライ:根の方」「カナイ:彼の方」という意味だとする説が有力です。根の国は「地下」又は「海の彼方・海の底」にあり、「黄泉の国(よみのくに)」と同一とされ、入り口は「黄泉平坂(よもつひらさか)」です。「根の国も元は葦原中国(とよあしはらのなかつくに・日本国土)と水平の位置にあったのが、高天原(たかあまはら)を天上に置いたため、根の国は地下にあるとされるようになった」とする説があります。柳田國男は根の国が「ニライカナイ」と同根で、「根の国は本来は生命や富の根源の地で、本来は明るいイメージの世界だった」としています。
(「根の国」の別名:「根之堅州國(ねのかたすくに)」「底根國(そこつねのくに)」「根国(ねのくに)」「根の国底の国(ねのくにそこのくに)」「底根の国(そこねのくに)」など}

ニライカナイの類似概念に「常世(常夜・とこよ)」があり、「隠世・幽世(かくりよ)」とも呼びます。日本神話の他界観の代表的概念で、記紀・万葉集・風土記など多くの古典に見え、「永久に変わらない神域」「死後の世界」「黄泉(の国)がある場所」「海の彼方・または海中にあるとされる理想郷」「永久不変・不老不死・若返りなどと結び付けられた地」です。そして「常世を沖縄に比定する説」「琉球=龍宮とする説」があり、「常世」は「豊穣・穀物をもたらす存在」「海」と結びついています。

常世に関係する神「少彦名神(すくなびこなのかみ)」「御毛沼命(みけぬのみこと)」「田道間守(たぢまもり)」「浦嶋子(うらのしまこ・浦島太郎)」は何れも「穀物神・豊穣神」の属性があり、また海人族が奉じた海神「綿津見神(わたつみのかみ)」がいる「龍宮」も常世にあります。記紀には「垂仁天皇の命を受け常世の国に遣わされた田道間守が、不老長寿の霊薬の非時香菓(ときじくのかくのみ)の実と枝を持ち帰った(中略)非時香菓とは今の橘である」とあります。これは一般的に日本原産の柑橘類「橘(たちばな)」とされますが、沖縄と台湾が原産の「シークヮーサー」とも考えられ、「柑橘類に多いフラボノイド・ノビレチンが豊富で、老化防止・高血圧改善・美肌効果がある」「抗癌作用・新陳代謝活性化作用」などの健康効果があります。

「オボツカグラ」は「天空にある異界」です。「ニライカナイ:水平線上の庶民的な他界」「オボツカグラ:垂直にある権威的な他界」で、現在ではニライカナイへの信仰が一般的です。「東方信仰」は「日の昇る方向への信仰」であり、「東方を日本本土・ヤマトと関連付ける説」もあって、西方には「魔界がある」とされます。「太陽信仰」「東方信仰」「ニライカナイ信仰」は渾然一体としていて、ニライカナイは「常世信仰」「根の国」「黄泉の国」と共通する部分があります。

県最北端の伊平屋島の「クマヤ洞窟(籠屋洞窟・沖縄県伊平屋村)」は、入り口は狭いものの、中は広い神秘的な場所であり、全国に数多ある「天岩戸(あまのいわと)」伝承地の最南端地です。天岩戸は「天照大神が隠れた地」で、「岩戸開きとチャクラの開放」の項で詳述します。江戸時代の国学者藤井貞幹は「伊平屋島にアマミ獄という天孫降臨の洞窟がある」と聞いて現地を調査、「クマヤ洞窟は高天原である」「神武天皇は伊平屋島で生まれた」と唱えています。

  沖縄では「御嶽(うたき)」「拝所(うがんじゅ・うがん)」「殿(とぅん)」「ビジュル」などの祭祀場、城を意味する「城(グスク)」、神聖視された「ガマ(洞窟)」「井(かー・がー)」などが、古来篤い信仰を受けてきました。「御嶽」は「集落祭祀の中心の場」「古代の集落の場」であり、多くは「森・杜(もり)」にあって、奥に神域の「イベ・イビ(威部)」」石があります。「城(グスク)」は丘陵上に存在しますが、「元々は御嶽であった」との説があり、「古いグスクには必ず御嶽がある」と言います。「御嶽は日本本土に見られる神社の原初的形態である、神籬(ひもろぎ)の形式を伝える」「イビは磐座(いわくら)信仰=巨岩信仰の聖域」「御嶽の嶽は山岳信仰を表す」「御嶽の森・杜は、神社の鎮守の杜と同じく、森林への信仰を表す」のであり、「御嶽とは古神道の神籬・磐座・山岳・森林の信仰を伝える聖地」です。

「拝所」は「神霊が依りつく聖域」、一般的に「森」にあって、元は「墓地」であった場所が多いです。「殿(とぅん)」は「祠」であり、「独立した祭祀場としての祠」と「御嶽の祠(社殿)」の両方の例があります。「ビジュル」は「霊石」の信仰、多くは「海に漂着した自然石」です。「井(かー・がー)」は「沖縄の伝統的な石造井泉」、聖地としての「かー」は「神泉」であり、小河川しかない沖縄では水は貴重です。隆起珊瑚礁の台地に空いた「ガマ(洞窟)」は、祭祀場となっている場が多数あります。

これら聖地を取り囲む森林域(御嶽の森)には、ヤシ科の常緑高木「クバ(日本名:ビロウ)」が、「神の依り代」として生えています。「クバの木(ビロウ)」は、古名は「阿遅摩佐・阿知末佐アヂマサ)」と言って、「古代日本で神聖視された植物」です。沖縄のこれらの聖地は「日本の祭祀場の往古の姿」を伝えます。

  「斎場御嶽(せーふぁうたき・沖縄県南城市知念)」は、琉球神話の創生神「アマミキヨ」が造ったと言われ、琉球王朝時代に王国最高の御嶽とされました。古くは「おもろそうし(後述)」に「サイハノウタキ」「サハヤノウタキ」とあり、御祭神は「君ガ嶽、主ガ嶽ノイビ(君ガ嶽主ガ嶽御イベ六御前)」です。御嶽の中には六つの「イビ」があり、中でも「大庫理(うふぐーい)」「寄満(ゆいんち)」「三庫理(さんぐーい)」は、「首里城の建物・部屋」と同じ名前です。

三庫理の地下からは「金製勾玉(3点)」「碧玉(メノウ)製勾玉(6点)」「中国製の青磁の碗・皿・盤(10点)」「寛永通宝(534点)」「金製厭勝銭(9点)ようしょうせん・祭祀用の中国私銭)」など562点が出土、国指定重要文化財となっています。勾玉は、王国最高の神女「聞得大君(きこえのおおきみ)」の祭具だったとも言われ、古銭は円状に並べられていました。更にはその下層から、福岡県を中心に分布する弥生中期の赤い土器「須玖式土器(すぐしきどき=赤椀)」と「火を炊いて神祀りをしたらしい物証」が出土、これは「斎場御嶽は弥生時代(貝塚時代後期)には磐座信仰・太陽信仰などの神祀りの場であった」と物語ると考えられます。

敷地は一万五千坪、石灰岩の巨岩が露出する岩山であり、一帯は往古からの森林に囲まれています。周囲の森林は沖縄本島南部に於けるもっとも優れた森林の一つである。本島中南部は第二次世界大戦において被害を受け、それ以前の状態を残した場所がほとんどないが、この地域は戦災を免れた。シダ植物やラン科植物などに珍しいものが多い。2000年代以降御嶽周辺が整備され、森林に荒廃の様子が見られる。

斎場御嶽東方の「久高島(くだかじま・沖縄県南城市)」は、東方信仰・太陽信仰により「島全体が聖地」「ニライカナイにつながる聖地」であり、アマミキヨは「久高島に降りてきて国づくりを始めた」とされます。北東端の「伊敷浜(イシキ)」は「ニライカナイの対岸にある」とされ、「伊敷浜に五穀の入った壷が漂着、五穀が琉球全土に広まった」と伝わります。古くは「クバ島」と呼ばれ、島最高の聖地「クボー御嶽」もクバの木に由来、島には聖域が点在しています。島では「男は海人(うみんちゅ)、女は神人(かみんちゅ)」と言われ、古くからの「女性祭司と母性原理の伝統」が息づいています。「斎場御嶽」は「久高島に巡礼する国王が立ち寄った御嶽」「久高島からの霊力(セジ)を最も集める場所」であり、神事の際には「久高島の珊瑚の白砂」で清めます。

「首里城(しゅりじょう・スイグスク・沖縄県那覇市首里)」は、グスクその物が御嶽と看做される琉球有数の聖域であり、往古からの聖地だったと考えられ、以前は城内には十か所の御嶽がありました。首里城内郭南側の大きな範囲を聖域「京の内(けおのうち)」が占め、十か所の御嶽のうちの数か所と、鬱蒼とした大木の森や岩があるだけの場所だったが、この森こそが首里城発祥の地であり、首里城を国家の聖地とさせている重要な場所でした。「聞得大君」をはじめとする神女たちは、京の内で祭祀を行っていましたが、祭祀と京の内の詳細は不明です。正殿は「百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)」と呼ばれ、琉球王朝発祥の地「浦添」に纏わる名称です。

グスクとしての首里城は、13世紀末から14世紀のグスク造営期に成立したものと考えられ、琉球王朝時代は王家の居城でした。琉球処分後は軍営や学校になりましたが、 昭和三年(1933)に正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、県社「沖縄神社」の社殿となり、「源為朝」「歴代琉球国王」が祀られました。しかし第二次世界大戦の沖縄戦で、首里城・城下の町並みと、琉球王国の宝物・文書を含む、多くの文化財が破壊され、宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪されました。戦後、首里城跡に琉球大学が置かれたことで、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、首里城の再建は戦後間もなくから多くの人々の悲願で、構内のあちこちの拝所には常に線香やウチカビ(紙銭)が供えられていました。近年、首里城の御嶽・拝所ほか各施設は徐々に再建されていて、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録されています。

琉球王国の時代から、神道形式の「神社」が幾つか建てられていき、琉球処分以後には各地域に建てられるようになりました。「第一尚氏の第四代「尚金福王」と第五代「尚泰久王」の時代、それまで島だった那覇と本島を結ぶ長虹堤の建設を国相の懐機に命じまたが、懐機はこの工事が人力の及ぶところでないところを知り、東方天照大神に向かい七日のあいだ潮が退くように祈ると、霊験があり潮が落ちて海底が見えたため工事を完成することができた」「この報恩のため、満叟和尚に請うて。宝徳三年(1451)に「天照大神」を日本本土から勧請した」とされ、これが沖縄県の最初の神社「長寿宮」の創建です。現在は「浮島神社(沖縄県那覇市)」と呼ばれ、昭和六十三年に「波上宮」境内の現在地に遷座しました。

琉球には「臨済宗」と「真言宗」の仏教が伝えられ、殊に「臨済宗」が厚遇されたが、真言宗寺院にも王府から寺禄を給された八公寺が存在しました。これら八公寺には神社が併置されていたが、これらの各社は俗に「琉球八社」と称されました。

「琉球八社」は「琉球八社(官社)の制により王府から特別の扱いを受けた神社八社」で、「波上宮(なみのうえぐう・沖縄県那覇市)」「沖宮(おきのぐう・沖縄県那覇市)」「識名宮(しきなぐう・沖縄県那覇市)」「普天満宮(ふてんまぐう・沖縄県宜野湾市)」「末吉宮(すえよしぐう・沖縄県那覇市)」「安里八幡宮(あさとはちまんぐう・沖縄県那覇市)」「天久宮(あめくぐう・沖縄県那覇市)」「金武宮(きんぐう・沖縄県国頭郡金武町)」があります。このうちの「沖宮」が沖縄最古の神社だとの説もあり、記録では薩摩の寺院・一乗院からの頼重法印の来航(正平二十二年・貞治六年・1367)が最古で、沖宮は明治期から遷座を繰り返し、現在は奥武山公園内に鎮座します。

琉球八社は安里八幡宮は「八幡神(八幡信仰)」を祀り、それ以外は「熊野神(熊野権現)」を祀っています。和歌山県南部の「熊野信仰」が、琉球では多かったと言えます。これは「熊=隅(くま・すみ)・端」という原義か、又は「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適(いでま)しぬ(日本書紀 神代巻上)」という記述から、「熊野‐常世‐沖縄」という連想が理由と思われます。琉球王朝時代はこれらの社寺は、貴族階級の信仰対象に留まっていました。「琉球八社」は明治維新後、国家の支援があった「波上宮」と、幾分民間の信仰があった「普天間宮」以外の六社は、荒廃していきました。

波上宮(なみのうえぐう・沖縄県那覇市)
・主祭神:「伊弉冊尊(いざなみのみこと)」「速玉男尊(はやたまをのみこと)」「事解男尊(ことさかをのみこと)」
 相殿神:「竈神(火神)」「産土大神」「少彦名神(薬祖神)」
・創建:不詳
・嘗ての「琉球総鎮守」「官幣小社」、現在は「沖縄総鎮守」「琉球国新一の宮」「別表神社」。
・那覇港を望む高台の景勝地に位置し、「なんみんさん」として親しまれてきた。
・『波上宮 略記』には「遥か昔、人々が海の彼方の海神の国(ニライカナイ)の神々に豊穣や平穏を祈った聖地が、当社の鎮座する波の上の崖端で、拝所として日々の祈りを捧げたのに始まる」とある。
・当地での遥拝に関して『海上の道』では、波の上の丘陵の高みにおいて、毎年、日を定めてこの付近の居留者が各々の故郷の方角に向けて香炉を置き、自身の本国に向かって遥拝する「ネグミ拝み」と言う祭りが近代まで行われていたことを紹介している。
・『おもろさうし 第十』には「国王様よ、今日の良き輝かしい日に聞得大君を敬って、国中の人々の心を集め揃え、石鎚金槌を準備して石を積み上げ、波の上、端ぐすくを造り聖地へ参詣し給えば、神も権現も喜び給う。」と言う意味の「おもろ(歌謡)」がある。
 「おもろさうし 上』はこの中に詠われる「波の上、端ぐすく」が当宮鎮座地であると解説し、『日本の神々 -神社と聖地- 13 南西諸島』では当宮創建を詠った「おもろ」ではないかと紹介している。
・『神と村」では、グスクは古代祖先達の共同葬所(風葬所)であり、納骨洞穴が拝所になった場所は「テラ」と称される場合があると述べたうえで、上記「おもろ」に記された「なみのうへ は げらへて はなぐすく げらへて ものまいり しよわちへ てらまいり しよわちへ」の「てら」が、古代「鼻(はな)ぐすく」と呼ばれた当宮鎮座地にある「波上洞穴遺跡」を指しており、この地が祖先達の葬所を根源とする「神の居所」であることが覗われると述べている。
・慶長十年(1605)に倭僧・袋中良定が著した『琉球神道記 巻第五』の「波上権現事」では当宮を琉球国第一大霊現と述べ、さらに以下のような当宮の創設伝承を記している。
 「南風原の里主という者が釣りをしていると、ある日浜辺で「光り、ものを言う」霊石を見つけた。この石に祈るたびに豊漁となるので、諸神がこの霊石を奪おうとした。そこで里主が当地へ逃れると「吾は熊野権現也、この地に社を建て祀れ、然らば国家を鎮護すべし」との神託があった。里主は琉球王府にこれを奏上し、社殿が創建された。
 上記の伝承は、琉球の固有信仰として古くからあった石体信仰と熊野信仰が結合したものであろうと『古代文学講座11 霊異記・氏文・縁起』では考察している。
 上記と同様の伝承が正徳三年(1713)に国王へ上覧された琉球王府編纂の地誌『琉球国由来記 巻11』にも記されている。

  琉球神道の最高神は太陽神「ティダ(ティーダ・テダ)」で、「天帝」「日の大神」「日神」とも記されます。またティダは、琉球方言で「太陽・天道・晴れ」も意味します。

「琉球の創生神」は、女神「アマミキヨ」と男神「シネリキヨ」です。「アマミキヨ(アマミキョ)」は「海神」「稲作を教えた神」でもあり、「アマミコ(阿麻弥姑・奄美姑・天孫)」「アマミク(阿摩美久)」「アマミチュウ(阿摩美津)」「アマンコ」とも呼ばれます。「アマミキヨ(アマミコ)」は、元々「沖縄・奄美の巫女」を意味した(であった)と言われます。「シネリキヨ(シネリキョ)」は「シレニク(志仁礼久)」「シルミチュー」とも呼ばれます。

琉球王国時代の史書「中山世鑑」「琉球神道記」に載る「琉球開闢神話(りゅうきゅうかいびゃく)」と、「日本神話の開闢神話」は酷似している
・最高神「ティダ(日の大神)」は、琉球を「神の住むべき霊所」であると認めた。
・「ティダ」に命じられた、琉球の創生神「アマミキヨ(アマミク)」「シネリキヨ(シレニク)」の二柱の神が、琉球の島づくり国づくりを命じた。
・「アマミキヨ」「シネリキヨ」は天より天下り、土地を造成して、島となり、九つの聖地(若しくは七つの森)を作った。
・聖地のうち七箇所が「琉球開闢七御嶽」になり、最も崇敬される御嶽である。
・また「二神は琉球開闢七御嶽を作った」とも言われる。
・しかしまだそれらの島々には人間が住んでいなかったので、「アマミキヨ」は「ティダ」に「人の種子」を乞い、
 「ティダ」はこの願いを聞き入れて自らの御子の男女を降臨させ、二人から三男二女の子が生まれた。
・長男は「天孫氏(琉球最初の王統とされる氏族)」の始祖、次男は「諸侯」の始祖、三男は「百姓」の始祖、
 長女は「君々(高級神女)」の始祖、次女は「ノロ(地方神女)」の始祖となったとされる。
・「天孫氏」は25代続き、17802年間統治、25代目のときに、「利勇」という家臣に滅ぼされた。
・その後、「利勇」を滅ぼして国を立て直したのが、初代琉球王「舜天」といわれている。

これは日本神話の「国生み」と対比される
・男神「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」と女神「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」は、
 天地開闢後に最初に現れた五柱の神「別天津神(ことあまつがみ)」たちに、漂っていた大地を完成させるよう命じられた。
・「天沼矛(あめのぬまぼこ)を用いて、天から海をかき混ぜて、「大八島国(おおやしまのくに・日本)」の島々を形成した(島生み)。
・二神は結婚して、御子神が生まれていった
・また太陽神「天照大神(あまてらすおおかみ)」は「高天原の最高神」である。

「アマミキヨ」は、海の彼方の理想国「ギライカナイ」から「稲」を持ち込んで、二つの泉である「受水走水(うきんじゅはいんじゅ・沖縄県南城市)」の前にある「御穂田(みーふだ)」「親田(うぇーだ)」のうちの「親田」に植えて、子孫の「アマミツ」が「御穂田」に植えました。ここは「琉球の稲作発祥地」、受水走水の神「ホリスマスカキ君ガ御水御イベ」に捧げる「神饌米(しんせんまい)」を作る「斎田(せいでん)」であり、毎年「親田御願(うぇーだうがん)」という田植え祭りを斎行、前にある「御祝毛(うゆえーもー)」と呼ばれる広場で神事を行い、神祀りの古謡「天親田のクェーナ」を四七番まで合唱します。

これは「豊受大神(とようけおおかみ)」の神格・伝承に類似します。豊受大神は「ウケ(食物)の女神・稲の霊」で、「伊勢神宮外宮(いせじんぐうげくう・三重県伊勢市)」や、「元伊勢」の一「比沼麻奈為神社(ひぬまない・京都府京丹後市峰山町)」ほか、各地で祀られています。「丹後国風土記」には「往昔豊受大神天降り、伊去奈子嶽(いさなごだけ)に真奈井を堀って水を注ぎ、田畑を作り種を植えて、五穀及び桑蚕等の種を伝えた」とあり、比沼麻奈為神社近隣の「清水戸」「月の輪田」は「豊受大神が苗代の清水戸に浸した籾を月の輪田に蒔き、とれた稲種を天照大神に奉った」という史跡で、神饌米を作る田植え式の神事が行われます。

  「君手摺り(きみてずり)」は「通説では海と太陽を司る琉球王国の守護神とされており、琉球王国の存亡の機に降臨する」「ニライカナイに住まう」とという神で、また「君手摩を行事として記載する資料もあり儀式名である」とする説もあります。「新しい琉球国王の即位の儀式中、聞得大君に憑依する」とされ、国王就任に際しては、「君手摺り」か「君真物」が「琉球開闢七御嶽」を巡り、「安須森御嶽」に現れ、五つの御嶽を順に巡り、最後に首里城内に嘗てあった「首里真玉森御嶽(すいまだむいうたき)」に現れるとされます。
(「君手摺り」の他の呼び方「君手」「君てっ」「君って」)

「君真物(きんまもん・ちんまむん)」は「琉球の人民守護の女神」「王権守護の神」「琉球の国土人民を守護の為に現れる神」「最高の精霊という意味」であり、「ニライカナイからやって来る」「海底を宮とし、毎月現れて託宣する」と言われます。「琉球神道の最高神」とも言われ、別名が「君手摺り」という説もあります。琉球神道記は「弁財天と同神」、柳田國男は「君は巫女、真物は正式な代表者の意で、いつのまにか神の名になった」としています。この神には陰陽があり、天より現れるのは「キライカナイノキンマモン」、海より現れるのは「オホツカケラクノキンマモン」と呼びます。彼方より時を定めてやって来る「客人神((マレビト神)」だとも言われます。

「安須森御嶽(あすもり・あしむり・あすむい)」は「アマミキヨが始めて降り立った地」であり、御祭神は「カンナカノ御イベ」です。沖縄島最北端の「辺戸岬(沖縄県国頭村)」や、カルスト地形・急崖・奇岩群からなる景勝地「金剛石林山」に近く、「ヤンバルの森」が広がる一帯には御嶽が点在します。国頭村史には「1世紀頃にアマミキヨ族が南西諸島を南下してきて宇佐浜遺跡に居を構えた」とあります。「宇佐浜遺跡」は辺戸岬近隣の国史跡で、貝塚時代中期末か後期(繩文時代末か弥生時代)の「貝塚・住居・土器・石器」が出土しています。
(「安須森御嶽(あすもり・あしむり・あすむい)」の別名「辺戸御嶽(へど)」「あふり嶽」)

沖縄には「御嶽」など聖地ごとに、様々な神様が居ます。一般に、祀られる神としては「水の神」が多く、また「聖地の名を冠した神名」が多いです。末尾に「御イベ」と名の付く神が多く、御嶽の神域「イベ・イビ(威部)」に纏わります。神名・人名・仇名の末尾に付ける敬称に「加那志(がなし・がなし)」があり、語源は「愛し」とも「神の子」とも言います。「神の子」の場合、「みこ(神子・御子・皇子)」「ひこ(日子・霊子)」「ひめ(日女・霊女)」に対応する言葉と考えられます。同じく末尾として、南島全体に「かん(神)」「かんがなし(神加那志)」が多く、奄美地方では「かみさま(神様)」「かみさまがなし(神様加那志)」、八重山地方では「かんまぬい(神の前)」「かみさままぬい(神様の前)」が多いです。

南西諸島では、家庭においても信仰が篤く、「火の神」「床の神」「祖霊」などを祀り、「方角」には注意して、「霊石」があったりするなどしています。そして家族の健康や発展などを祈念します。よく知られる「シーサー」は、建物の門・屋根・村落の高台などに据え付けられ、家・人・村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの意味を持ち、屋根の上に設置されるケースが多いとされます。これは「獅子」とされ、琉球方言の「獅子」の名です。最古の元禄二年(1689)のシーサーが、八重瀬町に現存します。

「キジムナー(キジムン)」は、沖縄諸島周辺で伝承されてきた伝説上の生物です。「妖怪で、樹木(一般的にガジュマルの古木であることが多い)の精霊」「多くの妖怪伝承と異なり、極めて人間らしい生活スタイルを持ち、人間と共存するタイプの妖怪として伝えられることが多いのが特徴」「沖縄の大木に宿る精霊・キーヌシを擬人化したもの」などの特徴・説があります。沖縄本島でも地域によってこの類の精霊を全く別の呼称で呼ぶことも多く、八重山諸島では伝承は確認されていません。奄美群島では「ケンムン」という妖怪がいて、「キジムナー」や「河童」に共通する外観や性質が伝えられています。近年、「キジムナー」は「自然保護の象徴(神)」として扱われる事が多いと言います。沖縄や奄美群島では、「マジムン」という悪霊(の総称)が伝わります。

  沖縄では、神道の「神職」に対応する存在は「神人(カミンチュ)」、「巫女」などに対応する存在は「ノロ(祝女)」「ユタ」と呼ばれます。「ノロ」は「祭司者」「神人の中の上位」、「ユタ」は「シャーマン」です。神人には他に「サス」「司(ツカサ)」「サスカサ」「アケシノ」がいて、「おもろそうし(後述)」では、ある種の神のような存在として登場します。このうち「ノロ」は「奄美諸島」にもいます。

「口寄せ巫女(霊と交感して意を伝える)」としての巫儀を展開している呪術宗教職能者として、古代の様相が残る東北地方北部の「青森県津軽地方・南部地方」「秋田県の一部」には、下北半島の霊山「恐山」などの「イタコ」がいて、「盲目の女性によるホトケ(死者)やカミの口寄せ」を行い、近年まで多数がいました。同地域の「ゴミソ」は「カミオロシ・祈祷・病気治療」などを行い、男性もいます。同様の職掌の人は、南西諸島では「ユタ・ホゾン・トキ(奄美群島・沖縄諸島)」「カンカカリャ・サス(宮古列島)」「ムヌチ・ニゲービー・カンピトゥ(八重山列島)」などと、「壱岐」では「イチジョウ」、他に「市子(イチコ)」「梓巫女(あずさみこ)」などと呼ばれています。「ノロ」「ユタ」「根神(ニーガン)」「おなり神信仰」などに見られるように、「琉球神道に女性による祭祀が多いのは、古代の神道の形態を色濃く残しているから」とされます。

日本の縄文時代の信仰は「縄文神道」とも言われ、この時代は「母系社会」でした。それを受け継ぎ「弥生時代・古墳時代の祭祀は、巫女が中心的立場」であり、「神託を基にした祭政一致体制」を行い、又は「"女性:祭祀者""男性:政治権力者"という二重体制」も多数存在していました。「邪馬台国」の「卑弥呼」「台与」も女性の巫女・シャーマンで、日本神話には多数の「女性神」「シャーマン的な女性」が登場します。

「勾玉(まがたま)」は「日本発祥の玉類」「縄文時代・弥生時代・古墳時代の、古神道の中心的な祭祀具・装飾具」で、沖縄諸島では「ガーラ」、宮古諸島では「マガーリャ(曲がっているもの)」と呼ばれます。本土においては古墳時代後期に製造が途絶、飛鳥時代はまだ用いられていたものの、奈良時代以降は、祭祀目的の使用も激減していきました。しかし沖縄では祭祀具として受け継がれていて、現在でもノロは「丁字型勾玉」を首から下げていて、これは「北部九州由来の、定形勾玉の頭部に数条の刻線をつけたもの」です。古墳時代、「前方後円墳」を頂点とした祭祀文化が一気に全国的に浸透、「勾玉など玉類・銅鏡・刀剣」ほか「多種多様の祭祀具の製造」が、「古墳の副葬品」「祭祀具」「装飾品(着装)」として非常に盛行しました。しかし奈良時代前後には「古墳文化の消滅」と共に衰退、これは「仏教」の興隆も一因ですが、沖縄では仏教は伝来の後も一般化しませんでした。

南西諸島は「巫女(シャーマン)による祭祀が多く残る地域」「母系社会の伝統が多く残る地域」「海洋信仰・東方信仰・太陽信仰が濃い地域」「海の彼方からの来訪神を祝う地域」という共通した特徴があり、これ以外にも「独自の祭祀形態」が多数存在します。「琉球神道・沖縄の祭祀形態」は「沖縄諸島」「先島諸島」だけでなく、特に「奄美諸島」を中心に、「トカラ列島」「大隈諸島」でも影響が見られ、「薩南諸島は本土文化と琉球文化の境界域」とも言えます。鹿児島県本土の西方の「甑島列島(こしきしま)」と、九州西北部の「対馬」「壱岐」「五島列島」、日本北方の「東北地方」なども同様に、「古代日本の辺縁部にあって、古代の祭祀形態・伝統・文化・言葉が多く残る地方」です。

琉球神道
・琉球王国時代には事実上の国教として祭政一致体制に編入されていた。
・民俗学者の折口信夫は著作「琉球の宗教」の冒頭で、
 琉球の宗教を袋中以来の慣用によつて琉球神道の名で話を進めたいと断った後、
 琉球神道は日本本土の神道の一つの分派、
 あるいはむしろ巫女教時代のおもかげを今に保存していると見る方が適当な位であると述べた。
・鳥越憲三郎は「琉球宗教史の研究」の中で、琉球宗教の二大潮流をなすものは
 「御嶽信仰」と「火神信仰」であるとし、やがて「火神(ヒヌカン)」は「日神(テダ)と同一視され、
 按司(アジ)や国王の実権の所在を表徴する役割を持つに至ったと述べている。
・宮里朝光「琉球人の思想と宗教」によれば、琉球の固有宗教は、個人的な幸福を祈願するのではなく、
 社会及びそれを支える生活や生産について祈願し祝福するもので、
 社会が平和になれば個人は幸福になれると考えたのだと言う。
・その固有信仰は、「祖霊神」「祖先崇拝」「火神」「ニライ・カナイ」「おなり神」
 「水のセジ」「万物有霊」などがあるが、拝む対象の日月星辰を通して
 現世に益をもたらす祖霊に報本反始するものであると述べている。
・琉球神道など、沖縄地方の独自の祭祀場には
 「御嶽(うたき)」「拝所(うがんじゅ・うがん)」「殿(とぅん)」「ビジュル」がある。
 他にも「井(かー)」「ガマ(洞窟)」など、聖地の場所が多い。
・沖縄一千年史 眞境名安興 初版大正十二年 昭和四十九年五版より
 「琉球神道記」に「国の風として岳岳浦浦の大石大樹皆御神に崇め奉る。
 然して拝貴即験(をがみあがめばしるし)あり」とあるが如く、琉球にては之を拝所と構へ、
 概ね石垣を繞らし、香炉を備へ、内部には大樹怪岩ありて殊に蒲葵、榕榔、「ガジマル」等鬱蒼たり。
 此の拝所は琉球全島に亘り、到る所に存在して夫々神名を有し、例へば「クバツカサ」(蒲葵司)……など称せり。
・琉球神道は、琉球で自然発生的に生まれたと考えられている。
 いつ頃発生したかは史料が皆無であるため明確ではないが、
 7世紀にはすでに原型はあったと考えられている。
 「ノロ、ユタが原始的な世襲型、召命型のシャマニズムであること」
 「御嶽は古代集落が原型と考えられ、御嶽信仰は祖霊崇拝が変化したものと考えられること」
 「おなり神信仰は、古代の母系社会や女性上位社会の変化と考えられること」
 これらのことから、専門家の間では、琉球神道は古代信仰の形式をとどめていると考えられている。
・琉球の民間社会において、民衆の宗教的機能を担う職能者は、
 女性司祭者の「ノロ等の神人(カミンチュ)」と、シャーマンとしての「ユタ等」の類に別れる。
・前者が主として「御嶽」「グスク等の聖地」「御願所」「拝所」において
 部落や村落の公的祭祀や共同体の祈願行事の司祭をするのに対し、
 後者は部落や村落の個々の家や家族に関する私的な呪術信仰的領域に関与している。
・桜井徳太郎は、この両者とも沖縄民間信仰の底辺を貫流するシャマニズムの根の上に立ち、
 沖縄の民間信仰を支える車の両輪と言えると述べている。
・沖縄では、祭祀集団は地縁や血縁で組織される。
 また「門中(むんちゅー)」あるいは「マキョ」といわれる親族集団が重要な位置を占める。
・琉球王国では、その王統が「伊平屋島」「伊是名島」に由来することから、
 「伊平屋・伊是名の神」を「王国の守護神」として王府首里に勧請した形跡が伺える。
・一例として、国王巡礼の守護神となっていた有名な「園比屋武御嶽」の神が、
 元々は伊平屋島の神であったことがあげられる。
・「聞得大君」の神名である「しませんこ あけしの」は、
 もともと国頭地方勢理客の御嶽の神名であることがわかっている。
・・沖縄独特の他界観念として「グソー(後生)」観があリ、「あの世」と言える。
 旧暦十二月二十四日にグソーへ帰って行った祖先が再び、旧暦一月十六日にこの世に戻ってくる。
 この「後生の正月」に、家族・親戚一同が食事を持って、祖先を墓前で迎え、線香をあげるなどする。
・本島とは別の生活圏として発達した各島では、それぞれ独自の宗教も存在した。
 そのいくつかは、地域が琉球王国に併合された後も排斥されることなく現在も残っており、
 地域の御嶽を中心に祭りを行っている。
・琉球学研究者・伊波普猷は「琉球の神話」の中で、
 「中山世鑑の起源神話と古事記の淤能碁呂島(おのごろしま)神話」
 「宮古島旧記の神婚説話と三輪山神話」などの類似を指摘している。
・大林太良は「記紀の神話と南西諸島の伝承」において、
 日本の古典神話と奄美や沖縄の島々に伝承されている民間説話について、
 「流れ島、天降る始祖、死体化生、海幸彦」に関する伝承神話を比較検討し、
 次のことを結論として述べている。
  ・「1:記紀に記された古典神話に親縁の諸モチーフは、
   わが国における現存あるいは比較的近い過去の伝承としては、ことに南西諸島に残存している」
  ・「2:これら南西諸島の伝承は、その基本的なモチーフ、構造においては
   記紀の神話と大幅な一致を見せるが、神名その他の細部においては一致していない。
   このことは古典神話、現存の記紀の形にまとめられてから、南西諸島に二次的に伝播した可能性よりも、
   むしろ、記紀にまとめられる前の共通の母胎から分れて、
   南西諸島において保存された可能性が大きいことを示唆している。
  ・「3:もしもこの想定が正しければ、記紀の所伝と南西諸島の伝承の比較によって、
   記紀以前の日本神話の古い形を再構成する可能性がある」
  ・「4:その際注目すべきことは、南西諸島の伝承は、国土創成、人類創造、農耕の起源の
   3つの主要問題を、一つづきのものとして取りあつかっていることで、
   構成的にも、記紀の神話よりも一貫しているのみならず、
   日本神話と深い親縁関係をもつと信ぜられるポリネシアなどの神話との比較から考えても、
   南西諸島の伝承がより古い形を保存している可能性を考慮すべきである」
  ・「5この一連の開闢神話に含まれない若干のエピソード、
   たとえばオオゲツヒメ・モチーフや海幸彦・山幸彦モチーフも南西諸島に現存している」
  ・「6:古典神話と後代あるいは現存の伝承との組織的比較はまだ極めて不十分な段階にある。
   上記およびその他の諸問題をより明確に答えるためにも、一層組織的な材料の収集と比較が必要である」

セジ
・古くは「スヂ」「シヂ」とも呼んだ。
・仲原善忠「おもろ新釈」によれば、「セジ」は霊力を意味し、セジが剣につけば霊剣に、
 石につけば霊石となり、門・港・舟・社・城等にもつき、人についた場合は超人となると述べている。
・仲松弥秀「神と村」では、「おもろ新釈」の説明を受けてさらに考察し、
 セジすなわち霊力とは「人間としては不可能なことを成し得る能力」を
 指しているであろうと述べている。
 そうであるなら「人間としては不可能なことを成し得る能力」は
 機能的に際限無く分類できるため、その能力を持つもの、
 即ち「神」は琉球において八百万も居るということになるであろうと述べている。
・琉球神道では、「魂」を「マブイ」と呼ぶ。
 「マブイ込み(グミ)」は「魂振り(たまふり)」と類似の概念だと見られる。
・神道では「フツ(経津主神に纏わる」「スヂ」「ケ(気)」「イツ(稜威・厳)」の概念にあたる。
・これらは太平洋島嶼でみられる「マナ」の概念と同じである。
 マナは「魔法や超能力といった、尋常ならざる特別な力の源・神秘的な力の源」である。

琉球の神
・仲松弥秀「神と村」では、全知全能のセジの具備者なる存在を
 古代琉球人が考えていたか否かについては研究不十分であるが、
 種々の機能を各々分担したセジの保持者は想定していたと考えられると述べ、
 人間は自己の欲するものを顕現してくれるセジを期待するのが至極当然であろうから、
 琉球における神とは「人間に善をもたらすセジの顕現者」と言う観念に
 傾斜していくことになるだろうと述べている。
・琉球の神は主に「来訪神」と「守護神」に分類でき、
 守護神や来訪神のいる異界・他界の「ニライカナイ」「オボツカグラ」に豊穣を祈り、
 特に「ティダ(太陽神)」を最高神として崇める多神信仰である。
・来訪神は異界の神であり、平時には人々の集落に存在しないか、御嶽にのみいると考えられる。
 しかし祭りの時になると異界から集落や集落の御嶽に訪れると考えられており、
 来訪神と人間の関係は極めて近しい。
・特に著名な神は、「琉球の創造神」である「アマミキヨ(アマミク)」と「シネリキヨ」や、
 「ニライカナイの最高神」である「東方大主(あがりかたうふぬし)」、
 「国王就任の際に現れる」という「君手摩(キミテズリ)」などであるが、
 この他にも多数の神がいると考えられている。
・来訪する神は世界的に島嶼民族に共通して見られ、
 一般に海を神聖視するが、これは琉球においても同様である。
 これに関連して、折口信夫は「まれびと論」を展開した。
 「まれびと(客人・稀人)」は「時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在」。
・一方、守護神はもともと地域集落の死者の魂=祖霊であり、
 ニライカナイで神となって集落に戻ってくるとされ、
 この神は平時に拝所や御嶽にいると考えられている。
・過去の偉大な功績を残したノロが神とされ、墓地が御嶽となる例が確認される。

ヲナリ神(ヲナリガミ)
・「ウナイ神(ウナイガミ)」とも呼ぶ。
・沖縄(宮古島以外)と奄美群島に存在する。
・琉球の女性一般は全て「巫女的ないし神的素質を生得的・本有的に持つもの」と信じられているが、
 その好例がヲナリ神信仰である。
・「ヲナリ」とは琉球語で「姉妹」を意味し、
 「姉妹(ヲナリ・オナリ・ウナイ)」は「兄弟(エケリ・又はイキガ・)」の守護神であると信じられている。
・中でも特に、「妹」が「兄」を霊的に守護すると考え、妹の霊力を信仰する。
・従って琉球の全女性は兄弟を持つ限りにおいてヲナリ神となるわけである。
・おなり神信仰において、兄と妹の関係性は別格とされる。
 既婚者の男性を霊的に守るのも伴侶である妻ではなく妹と考えられており、
 近世までは既婚者に大事があった場合でも、その妹が呼び出されて祈念を行うことがよくあったという。
・男が漁にいくときは、妹からもらったものをお守りとした習俗もあった。
・伊波普猷はこのことから、この概念は男女間のすべての関係性を内包するものと指摘した。
 つまり、「をなり」「えけり」には、肉親としての男女、恋人としての男女、夫婦としての男女の関係が多層的に想念され、
 その世界において、兄=男が世界を支配し、妹=女は男を守護し、神に仕える神女と位置づけられるのである。
・この観念は、俗世を支配する男性を、神に仕える女性が男と社会を霊的に守護するという観念に転化された。
 政治を男が行い、その男を守護する女が神事を司り、神託を得て霊的に指導するという祭政一致体制の基盤となった。
・この原則は集落レベルから国王にまで一貫されている。
 集落のもっとも古い宗家の主人は「根人(ニーッチュ)」と呼ばれ、その妹は集落の祭事を司る「根神(ニーガン)」となる。
 さらに領地を統治する「按司(アジ)」の妹は、その領地の祭事の司祭である「ノロ」となる。
 そして「国王」とノロの最高位の「聞得大君」もまた、完結した宇宙であるえけりとをなりの強固な関係で結ばれていた。
 これは、をなり神の持つ霊的守護力の概念が、王国において兄から家族、家族から集落、
 集落から地域、地域から王国へと拡張し、拡大解釈されていったということでもある。
・国王「尚宣威」が高級神女により罷免され、尚円王の子「尚真王」が王位を継承したという伝承もあり、
 一時期は王のおなり神であるノロの方が国王より強大な権力を持っていたと考えられている。
 しかし「尚真王」の時代に「聞得大君」職が設置され、この権力構造は国王優位に改められることとなった。
・その後、薩摩の侵入を受けて以後、近代化を進める「羽地朝秀」「祭温」らの改革によって、
 おなり神信仰を核とする古代的な神権政治の色彩は段階的に弱体化され、解体されていった。
・ヲナリ神の信仰は琉球宗教の基本概念の1つとなっており、
 「おもろさうし」の中にも「ヲナリ神」を詠ったおもろが数多く見られる。
・琉球においては、政治的実権者とその姉妹から選ばれた巫女による
 祭政一致の政教二重主権が見られるが、これは「ヲナリ神」の信仰に基礎付けられたものである。
・ヲナリ神信仰は他の民族では既に見られなくなったが、
 古くは何れの民族もかかる信仰を持っていたのではなかろうか、と鳥越憲三郎は述べている。

ユタ
・沖縄県と鹿児島県奄美群島の民間霊媒師(シャーマン)であり、
 霊的問題のアドバイス、解決を生業とする。
・殆どが女性で、男性も若干存在する。
・「ノロ」「ニーガン」「神人」は、主として「御嶽」「グスク」等の聖地や
 「御願所」「拝所」において「部落や村落の公的祭祀」や「共同体の祈願行事の司祭」をするのに対し、
 「ユタ」などは「部落や村落の個々の家や家族に関する運勢(ウンチ)」
 「吉凶の判断(ハンジ)」「禍厄の除災(ハレー)」「病気の平癒祈願(ウグヮン)」など
 「私的な呪術信仰的領域」に関与しているという役割を持つ。
・「神人」が聖地の司祭をするにあたり「死穢や婦人の血の忌み、出産の不浄を忌避する」のに対して、
 「ユタ」は全く反対に「死者儀礼や死霊供養に密着」して、
 その性格、生態、機能など多くの点で際立った対比を示しているが、
 両者とも沖縄民間信仰の底辺を貫流するシャマニズムの根の上に立ち、
 沖縄の民間信仰を支える車の両輪と言える、と桜井徳太郎は述べている。
・ユタは弾圧の歴史により、その身分を隠して自身ではユタと言う称号を用いず、
 また他人からそう呼ばれることに対し反感を抱く。
 このため「神人(カミンチュ)」「御願者(ウグヮンサー)」「御願を捧げる人(ウグヮンウサギヤー)」
 「判断(ハンジ)」など神に仕えることを表す名称を好み、
 また「祭祀・巫儀・卜占」の区別が曖昧になってきている状況を受け、
 侮蔑的語感を伴うユタと言う名称より易者を意味する「三人相(サンジンゾー)」や
 風水を判断する「風水師(フンシー)」などの称号を用いる者もいる。
・琉球史辞典では「ユタ」の語源を「おしゃべり(ユンタ)」あるいは
 神がかりのときに体が「ユタめく(揺れる)」ことから名付けられたのではないかと述べている。
・ユタと言う職業はどの様に成立したのか、諸説あり断定されていないが、
 「神人(カミンチュ)から分化した」という考えが多いようである。
・伊波普猷は、神託を宣伝するべき神人の中に、その様な力を持っていない名義ばかりの者がおり、
 これらにかわって神託を宣伝する者が民間に出て、とうとう職業とするようになったのが
 「トキ」または「ユタ」と称するものであると述べ、「ユタが神人から分化した」との考えを示した。
 また、「ユタ」という語と「ユンタ(しゃべる)」という語との間には
 内容上の関係があるかもしれないとも述べている。
・桜井徳太郎は、部落共同体のシャーマンであった「祝女」や「根神」が
 中央集権的琉球王府の官僚的祭司体制に編入される際に、
 公共祭祀以外の宗教的機能を担った呪術的宗教者が現れたとし、
 そうしたアウトローの呪術的宗教者は地域社会の民間信仰といっそう密着しながら、
 在地性を発揮して民衆の要望に応えることになった。
 そして終に官僚化した司祭者「祝女」と袂を分かったのだと述べている。
・佐々木宏幹によると、沖縄本島においては、「シマ」あるいは「マキヨ」と呼ばれる村ごとに
 総本家となる「根所(ニイドゥクル)」があり、その主人は「根人(ニンチュ・ニーッチュ)」、
 姉妹は「根神(ニーガン)」と言われ、神がかりして村落の人々に生活指針を与えた。
 やがて、8~9世紀になると「按司(アンジ)」が村々を併合し、
 郡程度の領域を統治するようになったが、彼の姉妹や妻は「祝女(ノロ)」と呼ばれ、
 やはり神がかりして領域内の人々に生活指針を与えた。
 これらシャーマニックな女性の活動なくしては根人や按司の統治も完全足りえなかったが、
 後代になると国家統一と中央集権化に伴って「根神」や「祝女」はシャーマン的性格を失って司祭化し、
 シャーマン的機能は「ユタ」に移っていた、のだという。
・ユタは、入巫や成巫の過程で創出した特殊な神を奉じ、
 それが生涯にわたる守護神として信仰の対象となる。
・ユタはこの神霊の名において精霊の世界の1分野に即応する巫儀の執行者となる。
 言い換えればユタごとに、それぞれ管掌する専門領域が限定され、
 先祖の系統を捜すのが得意なユタ、死んで間もない人についての判断(ハンジ)が得意なユタなど、
 その専門分野が分かれている。
・ユタは神の存在と力能を強調するが、その構成内容は神道の神であったり、
 十二支の神であったり、祖霊、死霊、精霊であったりする。
・ユタは自らに憑依する霊的存在が祖霊・死霊・精霊のいずれであるかは重視しないと言う
 超自然観を持つが、神観念の曖昧性がその影響度を低下させることもないようである。
・戒律はなく教義もないため、婚姻の有無や処女性なども問われない。
 ユタは公的な祭事は行わないが神に仕えており、御嶽を巡って神と交信し、霊障や病気、
 冠婚葬祭などの問題を中心に助言を行い、加えて公徳心や道徳心を説くことが多い。
・本物のユタが能力を発揮するとき、右脳が通常では考えられない異常な状態になることがわかっている。
 具体的には、論理的な言葉を話すときに活性化すると言われている左脳がほとんど活動を止め、
 逆に右脳が活性化して論理的な言葉を発している状態になる。この原因は解明されていない。

ノロ(祝女)
・「ヌール」「ヌル」とも発音される。
・沖縄県と鹿児島県奄美群島の琉球の信仰における女司祭、神官、巫(かんなぎ)、神女。
・御嶽などにおいて部落や村落の公的祭祀や共同体の祈願行事の司祭を行い、
 地域の祭祀をとりしきり、御嶽を管理する。
・民間の巫女である「ユタ」とは異なる。
・琉球王国の第二尚氏王朝の第三代国王尚真王時代に制定された神職。
・宗教概念上、ノロは海の彼方の「ニライカナイ」と
 天空の「オボツカグラ」に住む琉球の神々と、交信することのできる存在であある。
・祭祀の間はその身に神を憑依し、神そのものになる存在とされている。
・ノロは、しばしば「巫女」と訳されるが、現在の本土の神道の巫女の職掌と異なり、
 「司祭」そのものである(本土の巫女も元々はノロと同様の存在であったと考えられている)。
・民俗学では「祝女」の当て字がされるが、
 これは男の巫を意味する「祝(はふり)」の女という表意になる。
・これはノロの性格が本土でいう巫女よりも男性神職に近いためであろう。
・神と交信し、神を憑依させることができるのは女性に限定されているため、
 神官であるノロはすべて女性である。
・現在、ノロのほとんどすべてが年配の女性もしくは老女であるが、
 王国時代にはノロの婚礼といった記録もある。
・ノロは原則として世襲制で、「ノロ殿地(どぅんち)」と呼ばれる家系から出る。
 これらの多くは、琉球王国時代に王府より任命されたもので、
 元々は各地域の有力「按司(あじ)」の肉親(姉、妹、妻など)と考えられている。
 これは、琉球の信仰の背景にある「おなり神信仰」に由来すると考えられる。
・新たなノロの就任に当たっては、それぞれの地域で認証儀礼が設けられているケースが確認できる。
 「久高島」の「イザイホー」に代表され、12年に一度行われる就任儀礼である。
 久高島で生まれ育った三十歳以上の既婚女性は神女となり、基本的にその要件を満たす全ての女性がこの儀礼を通過する。
 「ニルヤカナヤ(ニライカナイ)」からの「来訪神」を迎え、新しい神女をその神々に認証してもらい、島から去る来訪神を送る。
 史料に記録される限り八百年以上の歴史を持ち、「来訪神信仰の儀礼」として日本の祭祀の原型を留めているとされる。
・ユタのように、「カンダーリィ(神垂れ)」と呼ばれる原因不明の体調不良といった
 巫病、夢の啓示などにより、ノロに選ばれる例もみられる。
・王国時代には、ノロの任命継承が不予などにより順当に行われなかった場合に、
 そうした形で近親者から後継者が選ばれた例がある。
・現在の「久高島」では、こうした霊感の強い人物「サーダカ・サーダカウマリ」を
 断絶したノロの後継者として選ぶということが行われている。
・ノロは原則として終生職であるが、現在の「久高島」では、
 久高ノロと外間ノロ以外の神人には引退儀礼がある(08年現在、両ノロは存在しない)。
・三代後(祖母から孫娘)に霊格である「霊威(セジ)」が引き継がれると考えられている。
・ノロは豊穣を願い、災厄を払い、祖先を迎え、豊穣を祝うといった時期ごとにある
 数多くの祭祀を行うことと、その祭祀において神を憑依させる依代となることが存在意義である。
 これといった戒律や教典はなく、大衆に啓蒙すべき神の教えといったものもない。
・偶像崇拝はしない。
・ノロに決まった服装はないが、「琉装もしくは和装の着流しの白装束」であることが多い。
・また「草の冠(神カムリ)などの草装」も見られ、
 そうした異形の装束は神が憑依していることを意味している。
 これは世界の各地のアニミズムで共通してみられる特徴である。
・装身具として「勾玉」を身に着けることも多く、霊力を持つとされる。
・特に処女性は問われないが、既婚か独身か、年齢要件などは現在も確認される。
・王国最高位のノロである「聞得大君」の2代目までが生涯独身であったことや、
 聞得大君以前からの由緒あるノロである阿応理屋恵職が生涯独身だったという記録もあり、
 原始的には処女性が要求されたと考える説もある。
・琉球では、村落は守護神となる氏祖が祀られた御嶽を中心に形成されたが、
 その最も近き血縁者にして神の代弁者である家が「根所(ニードゥクル)」と呼ばれ、
 村を支配指導する実権を掌握した。
・根所は御嶽の神の代弁者として実権を代行する機関となったため、
 神託を受ける者と、その神託によって村を治める者が必要になった。
・この時、神託を受けたのは根所の女子から選ばれた「根神(ニーガン)」で、
 神託をもとに政治的実権を行使したのは
 根神の兄弟であり根所の戸主である「根人(ニーチュ)」であった。
 ここに「妹・姉」の神託をもとに「兄・弟」が治める政教二重主権が生まれた。
 この政教二重主権はヲナリ神信仰を基定として成立したと考えられる。
・やがて村々を併合した「按司」と呼ばれる地方的実権者が現れるようになるが、
 按司もまた彼の姉妹から宗教的実権者たる巫女を選出、これが「ノロ」である。
 あるいは尊称を付して「ノロクモイ」と呼ばれた。
・さらに時代が進むと地方実権者の1つである「中山国」により琉球統一がおこなわれ、
 その中央集権化政策によって、ノロは「聞得大君」を頂点とした
 官僚的神官組織に組み込まれることとなる。
・琉球王国は、第一尚氏王統のときにすでに、首里の「佐司笠・差笠(さすかさ)」という祭司と、
 国頭地方由来の「阿応理屋恵(煽りやへ・オーレー)」という祭司を最高位とする
 祭政一致を行ってはいたが、当時はまだ各地域の神女体制は階層化されていなかったとされる。
・第二尚氏王朝の尚真王の治世に、全国の神女体制を整理し、
 琉球の信仰と統治機構を一体化した全国的な祭政一致体制を確立した。
・「ノロ」という呼称はそのときに神職の正式名称として制定されたものだが、
 祭祀制度そのものはそのとき初めて制定されたものではなく、
 以前から各地域に女司祭がおり、各地域の祭祀を司っていたと考えられている。
・尚真王はすでにあったこれらを整備し、中央集権的に階層化したのである。
・ノロにあたる女司祭を、八重山では「ツカサ(司・神と同義)」と呼称する。
・これら神職者は総称として便宜上「神女」と通称される。
・「聞得大君(きこえおおぎみ・きこえのおおきみ・チフィジン)」は、琉球神道における最高神女(ノロ)である。
 尚真王代に「高級神女三十三君」と「全国のノロ」の頂点として制定され、ノロへの命令権限を持った。
・「聞得」は大君の美称辞で、「君」は「カミ」の意で、従って「大君」は「君の最高者」という意味であるという説がある。 
 琉球方言で「聞得大君加那志(チフィウフジンガナシ)」と称し、「とよむせだかこ(名高き霊力溢れる君)」の異名を持つ。
 宗教上の固有名詞となる神名は「しませんこ あけしの」「てだしろ(太陽の依代)」である。
・聞得大君は 主に「王家の女性(先代王の妻であることが多かった)」から選ばれ、原則として生涯職である。
 琉球国王を守護する国王の「おなり神」であり、国王と王国全土を霊的に守護し、豊穣をもたらす神とされた。
 初代の聞得大君は尚真王の妹である。
・それまで、国王に仕える神女の権威は国王を上回るようになっており、尚真王の即位についても、
 母オギヤカが高級神女と結託して謀略を巡らしただめだったという逸話も残っている。
・国王と神官の権力関係は尚真王の時代に改められ、聞得大君職は権力として国王の下位に置かれている。
・聞得大君は、王族の邸宅「御殿(うどぅん・おどん)」の神体である「御スジノ御前」「御火鉢ノ御前」
 「金之美御スジノ御前」に仕え、「国家安泰」「海路安全」「五穀豊穣」などを祈願した。
・首里には「聞得大君御殿(きこえおおきみうどぅん・沖縄県那覇市首里汀志良次町)」
 「首里殿内(しゅりどぅんち)」「真壁殿内(まかべどぅんち)」「儀保殿内(ぎぼどぅんち)」の一本社三末社があった。
 聞得大君御殿は、琉球各地にある「祝女殿内(ぬんどぅんち)」と呼ばれる末社を支配した。 
・聞得大君は 首里城内の十箇所の御嶽と斎場御嶽を掌管し、儀式を司った。
 全国のノロたちを支配していたが、ノロへの任命辞令は国王から発せられていた。
 これは制度的にはあくまで国王が神女組織を支配していたことを示すものと考えられている。
・聞得大君の就任儀式は、斎場御嶽において「御新下り」が行われ、
 この本質は「琉球の創造神との契りである聖婚(神婚)儀礼」と考えられている。
 宗教観念上は、この聖婚により君手摩神の加護を得て、聞得大君としての霊力を身に宿すのである。
・聞得大君の神名「しませんこ あけしの」は、国頭地方勢理客の御嶽の神名で、既存の祝女職と同じであることが判明している。
 聞得大君職の元になった宗教概念が以前から存在したと考えられるが、その詳細については不明な点がある。
 また「てだしろ」はそれまで「馬天祝女の神名」であったが、聞得大君職の制定とともに馬天祝女から剥奪された。
・それまでの琉球王国における祝女の最高位は、「佐司笠(差笠・さすかさ)」職と、
 国頭地方由来の「阿応理屋恵(あおりやへ/ 又は"煽りやへ・オーレー)」職であり、
 これらは聞得大君職制定のあと、全祝女の中で聞得大君に継ぐ第二位の格付けと降格されている。
・聞得大君の下には、「阿応理屋恵」「佐司笠」などの「君」や、
 首里の「三間切(三平等・みふぃら)」をそれぞれ掌管する、三人の「大阿母志良礼(おおあもしられ)」がいた。
 その下に各地方を統括する「大阿母」たち、
 更にその下に各地域の祭祀を管轄する「祝女」を配するヒエラルキーを形成していた。
・高級神女たちを総じて「三十三君」と呼んでいた
 (三十三君については、三十三人ではなく「三十三」は「百」のように「大勢」ほどの意味とする説が有力)。
 そのほとんどは首里に在住し、王家となんらかの血縁関係にあったと考えられている。
・当時のノロは領地を認められた一種の地方大名だった。
 また、犯罪などの問題があった場合に、一種の神聖裁判を行った記録もあり、
 信仰を背景に地域自治にも大きな権能を有していたことが推察される。
・琉球王国は戦闘の際に神女を派遣して、呪詛を行わせた。
 これには「航海安全」「必勝祈願」「戦闘前に呪詛で敵方の戦意をくじく」という目的があった。
 沖縄には「女は戦いの先駆け(イナグヤ イクサヌ サチバイ)」という言葉がある。
 明応九年(1500)の石垣島での「オヤケアカハチの乱」では、各島から神女を集め兵隊と共に派遣した。
 オヤケアカハチ側にも神女は多数いて、王府の船団を前にして木の枝などを振り回して呪詛した。
・この神女体制は17世紀中ごろ形骸化し、ほとんどの高級神女職は1600年間に廃職された
 ちなみに、この時期に残った三十三君は今帰仁の阿応理屋恵(一度廃職後18世紀に復活。現在廃職)、
 伊平屋の大阿母(昭和6年廃職)、久米島の君南風の三職のみで、
 いずれも首里に上がらない地方在住のノロである。
・後も各地域のノロ職は存続を続け、多くが現在まで各地域に残っている。
・聞得大君職は王国滅亡後も長く存続し、太平洋戦争中の1944年に就任した
 第18代・思戸金翁主を最後に、大戦後に廃職となっている。
・現在、三十三君にあたる高級神女では、久米島の「君南風(チンペー)」職が
 久米島最高位の祝女として存続している。
・嘗て日本本土に「呪師(ノロンジ)」と呼ばれる職能の人々がいて、
 社寺に帰属、祀りや芸能に携わり、「猿楽」「田楽」の起源に関わっているという。
 一説に、ノロとノロンジは類似の起源だという。

御嶽(うたき)
・琉球王国(第二尚氏王朝)が制定した琉球の信仰における聖域の総称で、
 それ以前はさまざまな呼び名が各地方にあった。
・「うたき」の呼称は、主に沖縄本島とその周辺の島々で発声される。
 沖縄諸島では「御嶽(うたき・うがん)」「腰当森(くさてむい)」「拝み山」「城(ぐすく)」、
 宮古地方では「御嶽(うたき・おたけ・すく)」、
 八重山地方では「御嶽(おん・おたき)」「山(やま)」「嶽(たき)」「杜(むる)」、
 奄美地方では「拝み山」と呼称するが、近年では「うたき」への傾倒がみられる。
・御嶽は「琉球の神話の神が存在、あるいは来訪する場所」、また「祖先神を祀る場」でもある。
・「地域の祭祀においては中心となる施設」であり、「聖林」となっていて、
 琉球の村落に必ず存在、地域を守護する聖域として現在も多くの信仰を集めている。
・琉球王国時代の古い集落については、おおむね集落ごとに1箇所以上の御嶽があると考えてよい。
 当時から現在にわたって存在する集落の場合は、御嶽もまた残っていると考えられる。
・「腰当森」の意は「腰当のように、孫を抱いている場」だという。
・御嶽に祀られる御祭神は、「村落の祖霊神」「英雄神」「ニライカナイの神」「竜宮神」などであったりする。
・御祭神が「村落の構成員と血縁関係を持つ氏祖」の場合、
 村落構成員に対し絶対的守護の義務を負っている。
・琉球の信仰では神に仕えるのは女性とされるため、琉球王国時代は完全に男子禁制だった。
 現在でも、その多くが一定区域までしか男性の進入を認めていない。
 氏子にあたる「山人数(やまにんじゅ)」という祭祀集団は中に入れるが、
 「イベ・イビ(威部)」までには入れない。
・多くの御嶽は、古代において「集団墓地」であったとする有力説がある。
 御嶽には「葬所」がある場所が多く、祖霊を祀る場である事が多いことによる。
 沖縄の葬法は、遺体を腐らせて骨にして、骨を納骨器に入れて墓に納める「二重葬」が一般的で、
 「遺体を骨化させる風葬所」「骨を納める墓」の双方を「葬所」と呼ぶ。
・御嶽の多くは「森の空間」や「泉」や「川」などで、「島そのもの」であることもある。
・御嶽は「山(嶽・嶺)の頂上」「丘陵の頂上」にある事も多い。
・本来、御嶽には「社(やしろ)」などの人工物はなく、「自然物(岩石・植物など」を礼拝していた。
・御嶽の域内で枯れ木を採ったりするのはタブーの場所もあるという。
・御嶽の構造は、次のようになっている。
  ・神域は森に囲まれていて、「御嶽林」とも呼ぶ。
  ・「神の依り代」である「クバ」や、
   「天からの梯子」と言われるヤシ科の「マーニ・マニン(クロツグ)」などの木が生い茂っている。
  ・入り口に「鳥居」がある御嶽と、無い御嶽がある。
  ・その先に、神を迎え入れ祭祀を行う「殿(とぅん)」や、
   奉納芸能を行う広場「神あしゃぎ」がある。
  ・大きな御嶽では「神あしゃぎ(神あさぎ・神あしあげ・神軒)」や「神庭(みやあ)」と呼ばれる
   「前庭や建物」といった空間が設けられていることがある。
    ・これは「御嶽の神を歓待して歌ったり踊ったりするための空間」「神が一休みする場」である。
    ・八重山では「バンク」と呼ばれる、神あしゃぎの一角にしつらえられた桟敷がある。
    ・旧暦八月十日前後の「豊年祭」で、「村芝居」と「八月遊び」などを行う。
    元は木造茅葺だったが、現在は殆どが木造鉄板葺やコンクリートブロック造りである。
  ・その奥に「御嶽家(おんやー)」、又は「拝殿」と呼ばれる「拝殿」がある。
  ここからは裏側へ抜けられるようになっている。
  ・裏側には小さな庭があり、その奥に「威部の前(いびまぬい・いぶぬめー)」と呼ばれる門がある。 
  ・一番奥に、「石碑」「石祠」「石組みの構造物」などの形状の
      「イベ・イビ・ウブ(威部)」石がある所があり、
      又はその神域の空間を「イベ・イビ・ウブ(威部)」と呼ぶ。
    ・周囲は「岩盤」「塚状の場所」となっている所もある。
    ・神が降臨する「依代」であり、厳密な意味での「御神体」ではないが、
      「御神体」として扱われている所も多い。
    ・イベには「自然物」、大抵「自然石」「大木(クロツグやクバ)」が置かれていて、
    「古墓」があったりして、根本か手前に「香炉」が置かれている。
    ・ここは、特にイビの入り口の「いびぬまい」から先は、
     祭祀を行う中心となる神人以外立ち入り禁止となっている。
・「イベ」は、一般に「イベ(石)」「イビ(石)」と呼ばれる。
 「琉球国由来記」などの表記では「イベ」、沖縄では「イビ」、八重山では「ウブ」と呼ぶ村が多い。
 宮古では「イビ」が通例で、「イビシ」の例もある。
 沖縄本島で「イビガナシ」と呼ばれる例もあり、「奄美群島」でも類似の物が「イビガナシ(イビガナス)」と呼ばれる。
・「イビ」の語源について仲原善忠は「忌み避ける場所」の意と解釈している。
・沖縄本島の「五月ウマチー(稲の初穂祭り)」には、「イビヌメーから御嶽の裾まわりに帯綱を張り巡らす」例がある。
・宮古では「御嶽の一角に立てられた神石」や「屋敷神を祀る石」を、「イビ(イビシ)」という。
  ・奄美群島の徳之島には、「寄り石」と伝えられている石を
  「イビガナシ(イビガナス)」として祀っている例がある。
  ・奄美群島の瀬戸内町(加計呂麻島・与路島・請島)には、
  「イビガナシ」と呼ばれる「神石」を祀る例がある。
・「神あしゃぎ(神あさぎ・神あしあげ」は、奄美諸島・トカラ列島では「あしゃげ」と呼ぶ。
  ・沖縄本島南部では、民家に「アシャギ」があり、客人をもてなす所である。
  ・語源は、「神あしあげ(神が足をあげる場=腰を下ろす場)」や、
   折口信夫や伊波普猷は、古事記に見える
  「足一騰宮(一柱騰宮・あしひとつあがりのみや)」としている。
  ・「足一騰宮」は、初代「神武天皇(じんむ)」が天皇即位前の
   「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと」という名のの時代に、
   日向(宮崎県)の「高千穂」から東征へ向かう経路において、最初に寄った場所である。
  ・舟軍を率いて筑紫(福岡県)へ向かい、
   豊国の宇沙(うさ・大分県宇佐市)に着くと、
  「菟狭国造(うさくにのみやつこ)」の祖
  「宇沙都比古(うさつひこ)」「宇沙都比賣(うさつひめ)」が
  「行宮(あんぐう・仮宮)」の「足一騰宮」を作って、
  「大御饗(おおみあえ・大宴会)」でもてなした。
  ・「宇佐」は「海人族の重要拠点」であり、
  「宇佐神宮(大分県宇佐市)」は「八幡信仰の総本宮」として、
  古代に朝廷から最も崇敬された神社の一社である。
・宮古・八重山地方にも、宗家に「神あしゃげ」があったという。
 類似した物に、「アサイ」という前の屋、
 神祝い(カンヨイ)という神事に造られる「苫屋(トウマヤー)」がある。
・宮古や八重山地方では「過去に実在したノロの墓」を御嶽とし、
 そのノロ「を地域の守護神」として祭っていることが多く見られる。
・御嶽は、日本本土に見られる「神社の原初的形態」である
 「神籬(ひもろぎ)」の形式を伝えるものである。
・折口信夫は「御嶽は元々、天の遥拝所であり、後に神の降誕地という姿をとるようになった」としている。
・鳥居が設置されている御嶽が散見されるが、これは明治維新から
 琉球処分以降の「皇民化政策」による神道施設化の結果であり、本来のものではない。
・沖縄本島では戦後、鳥居が撤去された御嶽も多いが、
 宮古や八重山地方の御嶽の多くには戦後もそのまま鳥居が残されている。
・御嶽はもともと「古代社会において集落があった場所」
 「御嶽を中心に集落が形成された」と考える説が有力である。
 その証左として、御嶽の近くから遺骨が見つかる例が少なくない。
 これは「祖先崇拝であること」に強く関係していると考えられる。
・「多くの川や泉」が「御嶽もしくはそれと同格の扱い」をされているが、
 これは保水力の乏しい琉球石灰岩からなる沖縄県周辺の土地性などから、
 古代社会では水源が神聖視されたためと考えられる。
・鳥越憲三郎は、琉球の村落成立の重要な因子として、
 生活資料が確保できるかの経済的条件、気候や住環境の良し悪しの自然的条件、
 御嶽を創立する場所が選定できるか否かの宗教的条件の3つをあげ、
 村落成立にはこの3つが満たされる必要があったと述べている。
・仲松弥秀は、御嶽の神と村人の関係は、祖霊神とその後裔の血縁関係であり、
 御嶽の神が村人を守る形で村落が形成されているとする「オソイ(愛護)とクサティ(腰当)」の理論を展開した。
・琉球では偶像崇拝はせず、集落ごとに祖霊神や来訪神が訪れる自然の聖域である
 御嶽を拝所として設け、神の来訪を祝う神事としての祭りを行い、安全や豊作を祈願したり感謝する。
・「城(しろ)」を意味する「城(グスク・グシク)」は、三山時代に築かれ、「王や按司の居城」となっていた。
・グスクには「御嶽・拝所が存在するもの」も多く、「古いグスクには必ず御嶽がある」と言い、
 「首里城」「玉城城」など、グスクそのものが御嶽とみなされていたグスクもある。
 政治的な意味合いが強く、軍事目的に利用されなかったグスクもある。
・このことから「グスクは、御嶽を中心にした集落であったものが発展し、城砦化した」というのが有力説である。
・グスクは丘陵頂上に築かれたが、頂上の岩を「イベ・イビ(威部)」としていたり、
 頂上部が聖域として、御嶽となっている物が多い。
 ここから「御嶽は元々、山岳信仰・磐座祭祀・自然信仰の場であった」とする見方がある。
・著名な「斎場御嶽」「園比屋武御嶽」のように観光資源化している御嶽もあるが、
 それはどちらかといえば稀な例であり、多くの御嶽は、
 現在も地域の人々(女性)や、そこを管理するノロによって管理されている。
・御嶽はほぼ年間を通してたびたび行われる地域の様々な祭事の中心となるばかりでなく、
 「東御廻り(あがりうまーい)」や「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」などの巡礼地として崇められているものもある。
・「東御廻り(あがりうまーい)」は、琉球民族の祖「アマミキヨ族が渡来し、住みついたと伝えられる
 「知念・玉城の聖地を巡拝する神拝の行事」で、後に「琉球国王や聞得大君の聖地巡拝の行事」となり、これを今に伝える。
 「首里城」を中心に、「大里・佐敷・知念・玉城の各間切」を「東四間切」または「東方(あがりか)」ということから、
 「知念・玉城の拝所巡礼」を「〈東廻り」と称した
・戦争、米軍による土地接収、発掘調査や開発にともない、立入が禁止または制限されたり、破壊された御嶽もある。
・一例として、首里城敷地内にあった十御嶽のいくつかは、
 かつては現在の首里城再建以前には信仰者が来訪することができたが、
 同城の再建などの整備にともない立入の制限または有料観覧区域となったり、埋め立てられるなどした地域がある。

拝所(うがんじゅ・うがん・をがん)
・「御願所(ウガンジュ・ウグヮンジョ)」ともいう。
・「ウガミ(沖縄北部)」「ウガミヤマ(拝み山・奄美)」より転化した語。
・八重山では「オガミ」が「オン(ワン・ワー)」ともなる。
・民間では「ウガン」「森(ムイ)」「ヤマ」が普通使われる。
・沖縄地方で「神霊が依りつく聖域」で、その前で人は拝む。
・御嶽より小さく、拝む人の範囲も限られる。
・拝む場所で種々の場合がある。
 一般的には「森」などにあり、「高い樹木の下」の場合や
 「石(サンゴなどの)」が置かれている場合も、「コンクリートの構造物」を作っている場合もある。
・「神がたどり着いたとされる岬」なども指す。
・元は「墓地」であった場所が多く、「ガマ(洞窟)や崖の古墓」が拝所である事例が多い。
・神聖な場所で、神社も拝所にはいる。
・共同で拝む場所として、色々な施設、小学校や中学校、高校にも拝所がある場合があるが、
 文科省では、それを宗教施設とは考えていない。
・宮古島では個人の神様即ち、個人の守護神の場合がある。
 「まうがん」といい、拝所も一人一人異なる。

ビジュル信仰
・ビジュルは「主に沖縄本島でみられる霊石・石神信仰」である。
・「豊年祈願・五穀豊穣」「豊漁祈願」「雨乞い」「子宝祈願・子孫繁栄」「子供の成長」
 「健康祈願」「航海安全」「天災回避」「夫婦円満・家内安全」「商売繁盛」「良縁成就」など、
 各種の祈願がされる。
・十六羅漢の一つの賓頭盧(びんずる)がなまった言い方。
 「ビジュル」のほかに、古語としての「ビンジル」はじめ、
 「ビンジリ」「ビジリ」「ビンジュル」「ビジュン」とも呼称されている。
・多くは「人の形(ダルマ形)をした自然石」で、
 大きさはさまざまで15センチほどのものから、1メートルくらいである。
・「ティラ」と呼ばれる「洞穴・石祠・神殿」などで祀られている。 
・しかし近年は、集落はずれの林にポツンと残されたビジュルもある。
・ビジュル信仰は各地にあって、確認されているだけでも120個体は下らないとされている。
・ビジュルの由来憚は、場所により多少の差はあるが、大抵は漂着に由来する。
 「海岸に漂着した石に神が乗り移っている」として祀られるようになったという伝説が多く、   
 ニライカナイ信仰とも結びついている。
 土の上から出現したとする伝承もある。

ビロウ(沖縄名:クバ)
・漢字表記は「枇榔」「檳榔」、別名「蒲葵(ホキ)」、
 沖縄名は「クバ」で、「コバ」「クボウ」「フボウ」「コボウ」などとも呼ぶ。
 古名は「阿遅摩佐・阿知末佐(アヂマサ)」。
・ビロウの名は「ビンロウ(檳榔)」と混同されたものと思われるが、ビンロウとは別種である。
・ヤシ科の常緑高木。
・幹は通常が高さ3~10m、高いもので15mほどに成長、「シュロ」よりも太く直立する。
・葉は掌状に広がり、2mほどにもなり、丈夫である。
 ワシントンヤシにも似るが、葉先が細かく裂けて垂れ下がるのが特徴である。
・沖縄などでの用途
  ・庭木・街路樹
  ・葉や幹は工芸品や民具などに使用されることが多い。
   葉は扇や笠、柄杓、屋根に葺くなど、嘗ては「サバニ(舟)」の帆に使われた。
   幹は床材になる。
  ・若芽を食用にする、クバ餅など。
・沖縄市の市の木である。
・東アジアの亜熱帯の「南西諸島」「九州と四国南部」「小笠原諸島」
 「中国南部」「台湾」の海岸付近に自生し、北限は「沖ノ島(福岡県宗像市)」。
・ビロウにちなむ地名として、「枇榔島(びろうじま・宮崎県門川町・鹿児島県志布志市・南大隅町)」
 「蒲葵島(びろうじま・高知県大月町)」、「大築島(熊本県八代市)」の別名「檳榔島(ビロウジマ・ビンロウジマ)」などがある。
・青島神社(宮崎県宮崎市)
  ・全島が境内地の「青島」を霊域と崇める、海洋信仰の神社。
  ・青島には熱帯・亜熱帯植物や、北半球最北のヤシ科植物の群生地が広がり、ビロウの木が生い茂る。
   島周囲の海岸に名勝「鬼の洗濯板」が広がる。
  ・御祭神は「天津日高彦火火出見命(あまつひだかひこほほでみのみこと)」、
   妃神「豊玉姫命(とよたまひめのみこと)」、「塩筒大神(しおづつのおおかみ)」。
  ・社伝によれば、「山幸海幸」神話で、「彦火火出見命(山幸彦)」が「海神宮(わたつみのみや)」から
   帰還した際に、青島に上陸して宮を営んだため、その宮跡に命と上記二柱の神を祀ったと伝わる。
  ・近隣の「松添貝塚」は、縄文時代後期から晩期にかけての貝塚で。
   「加工されたクジラの骨」「多種の魚骨・貝殻」などが出土、「装飾を施した骨針」は海の信仰を伺わせる。
  ・日向国(宮崎県)は「山幸海幸」神話が濃厚に伝わる(後述)。
・日本神話で、第十一代「垂仁天皇(すいにん)」の皇子「本牟智和気命(ほむちわけのみこと)」は、
 唖を治す為に出雲に行き「檳榔長穂宮(出雲にゆき「檳榔長穂宮(あぢまさながほのみや)」に住んだ。
 その地は、出雲国二宮「佐太神社(さだ・島根県松江市)」とも、「富能加神社(ほのか・島根県出雲市)」とも言う。
・「淡島 自凝(おのごろ)島 檳榔(あぢまさ)の島も見ゆ 放(さき)つ島も見ゆ(古事記・仁徳天皇御製)」
・古代天皇制においては松竹梅よりも、何よりも神聖視された植物で、
 公卿(上級貴族)に許された「檳榔毛(びろうげ)の車(=牛車)」の屋根材にも用いられた。
 「檳榔毛の車」は、平安時代では貴族の一般的な乗り物であった。
 移動のための機能性よりも、使用者の権威を示すことが求められ、重厚な造りや華やかな装飾性が優先された。
 金銀の装飾を施すなど華麗という以上に奢侈に流れる弊害のために、寛平六年(894に、一時乗車が禁止されたこともある。
・天皇の代替わり式の性質を持つ「大嘗祭」においては、
 現在でも天皇が行う「百子帳(ひゃくしちょう・禊祓の為に籠る仮屋)」の屋根材として用いられている。
「百子帳」は「ビロウの別名」とも言い、また「蒲葵の葉」が用いられも下。
・「笠」にもビロウが使われ、また「弓・矢」に用いる事もあった。
・平安時代の宮廷ではビロウの葉で作られた「扇」が珍重され、また、祭りの時にビロウの「扇」が用いられた。
・後に、本土ではクバの木や葉の入手が困難なため、
 模造として「桧扇」が作られ、「紙扇」となって、祭具などに用いた。
・「修験道(神道と仏教が習合した山岳信仰)」の「修験者」が、峰入りの際に蛇や災厄よけとして腰にさし、
 護摩焚きの際に用いる「簠簋扇(ほきせん)」も、原型は「蒲葵扇(ほきせん)」だったと考えられている。 
・民俗学の折口信夫はビロウに「扇の原型」を見ており、その文化的意味は大きい。
 扇は風に関する「呪具」であったからである。
 折口は、クバを念頭に置きながら、琉球諸島を巡っている。
・九州に多い「コバ(古場・古庭・木場・木庭・木葉・小場)」という地名と関連付ける見方がある。
・沖縄では「クバの木」は「神の依り代」であり、「御嶽などの聖地」を取り囲む森林域に生えている。
 その理由は、クバの木は樹高が高いので、神が「あふり(天降り・降り立つ)」するのだと言う。
・沖縄では「世の始まり」を「クバヌファユー(クバの葉世)」と言って、
 そこでは男も女もクバの葉で作った衣を腰にまとっていたと伝わる。
・御嶽・拝所の御祭神として、「クバツカサ(蒲葵司)」という神名があったりする。
・「琉球開闢七御嶽」のうちの、久高島の最高の聖地「クボー御嶽(フボー御嶽・沖縄県南城市知念)」と
 「クボウ御嶽(沖縄県今帰仁村今帰仁グスク内)」は、「クバの木に由来する名称」である。
・「久高島」は、嘗ては「クバ島」と呼ばれ、「神がクバの木を伝って降りてくる」という伝承があった。
・「浜比嘉島(はまひがじま・沖縄県うるま市)」には「クバ島」と呼ばれる属島の小島があり、クバの木が生い茂る。
 クバ島には貝塚時代後期末の祭祀遺跡とも言われる「比嘉クバ島遺跡」があり、土器や石器が出土した。
 浜比嘉島には次のような伝承が伝わる。
  ・「久高島」に降り立った「アマミチュー(アマミキヨ)」は、洞穴がなかったので「津堅島(つけんじま・沖縄県うるま市)」に渡った。
  ・津堅島には水がなかった。
  ・両方を求めて探してたら「浜比嘉島」の「シルミチュー(シネリキヨ)」に水と洞穴のある場所見つけた。
  ・そこに住んだ「シルミチュー」は、近くの「クバ島」で「ウミチルー」という女の子を生んだ。
  ・「ウミチルー」は十歳の頃、クバ島から海に投げ捨てられた(日本神話の「蛭子神(ひるこのかみ)」の伝承に類似)。
  ・浜比嘉島には「アマミチュー・シルミチューが居住した洞窟・墓」と伝わる聖域がある。
・「久場島(くばじま・沖縄県座間味村)」は、古書に「こはしま」「古場島」とある。
 無人島だが、島内最高峰の「久場島の岳」には、古来「航海を司る神を祀る御嶽」があり、
 現在でも「阿嘉島(あかじま・沖縄県座間味村)」の住民は久場島に度々訪れる。
・「宮古島」には「クバの葉がイキイキと育っていれば島は安泰」という伝承がある。

沖縄・奄美群島の墓葬制
・沖縄・奄美群島の墓葬制として、嘗ては「風葬」の特徴があった。
 嘗ての本土日本では、一般民衆は墓を設けずに遺体は遺棄されたが(はふる)、これと共通するとも言う。
・「琉球地方の風葬」には大きく分けて二通りの方法があった。
 「特定の洞窟・山林に遺体を安置してそのまま共同の墓所とする方法(グソーに通じる)」
 「亀甲墓や破風墓の中に棺を一定期間安置し、風化して白骨化した後に親族が洗骨を行い、改めて厨子甕に納める方法」である。
・沖縄県では埋葬がなく本土の墓制との議論は難しい。
 現在でも沖縄県の一部では、墓はただの納骨所として、祭祀の対象としていないところも存在する。
・沖縄では、古来天然の「ガマ(洞窟)」や「岩陰」に遺体を運んで「風葬」にする習慣があった。
・「掘込墓(ほりこみばか)」や「フィンチャー」と呼ばれる墓が、後に現れた。
 斜面や岩盤に人工的に横穴を掘り、その入口を石積みや漆喰で塞ぐ形式の墓である。
 これを古代「隼人」の墓とも言われる、宮崎県・鹿児島県の「地下式横穴墓」に由来するとの説がある。
・「地下式横穴墓(ちかしきよこあなぼ)」は、地面に竪穴を掘り、そこから更に横穴を掘って地中に墓壙(玄室)をつくり、その中に被葬者を葬る墳墓である。
 地上には何らの標示物もなく、田畑耕作や農地改良の際の偶然の発見が多かったが、最近では地中レーダー探査で発見されることもある。
 日本最大級の古墳群「西都原古墳群(さいとばる・宮崎県西都市)」の十二基を北限に、一ツ瀬川、大淀川、川内川の各流域地帯や、
 宮崎県中央内陸部から霧島山麓の諸県盆地にかけて分布しており、「宮崎県」側に約六百基、「鹿児島県」側で約百基が確認されている。
 特に、県最西端の市「宮崎県えびの市」地域において、三百基以上が確認されている。
 副葬品として、武具類が主に出土するが、ここから「地下式横穴墓=隼人の墓」というイメージが形成されたと思われる。
 しかし、「地下式横穴墓の築造時期(5世紀前半後葉 - 7世紀初頭)」と「隼人の出現時期(7世紀末)」は一致せず、
 現在では地下式横穴墓と隼人とは関係ないとする考え方が一般的である。
・「破風墓(はふばか)」は沖縄特有の墓の形式の一種で、家屋同様の屋根があるもののうち、屋根が破風形のもの。
 16世紀に現れ、「掘込墓」の正面を切石で装飾していて、通常三角形の屋根を持つ。
 沖縄で最初の破風墓は「玉陵」である。
 琉球王国時代を通じて王室以外の造成は許されなかった墓の形式だが、明治十二年(1879)以降に解禁され、一般に普及した。
 家屋状墓のうち、破風墓でないものは「屋形墓」という。
・「亀甲墓(かめこうばか・きっこうばか・カーミナクーバカ)」は、墓室の屋根が亀甲形をした沖縄県に多く見られる墓様式。
 「掘込墓」の正面屋根を亀甲型に装飾した墓のことで、破風墓と外観は異なるが構造的にはよく似ている。
 亀甲墓はこの墓の前部に祭祀を行うための「墓庭」を設けてその周りを「石牆(石垣)」で囲み、
 墓庭の正面奥には複数の「蔵骨器(厨子甕)」を収めることができる墓室を設ける。
 琉球王国時代は破風墓とともに士族のみに許された墓であったが、廃藩置県以後は庶民の間でも急速に普及した。
 起源は中国南部から伝わった「唐墓(とうばか)」であると言われ、福建省や台湾には、亀甲形をした、亀甲墓によく似た形式の墓がある。
 中国のそれは個人墓が主流である。
 亀の甲羅状の屋根が覆う部分は、一説には「母の胎内」、そこから人が生まれてきた出生以前の胎内を意味していると言われる。
 中国の易経の世界観では、人の一生が、誕生以前の漆黒の闇を黒冬とし、青春(青年期)、朱夏(壮年期前期)、
 白秋(壮年期後期)を経て、老い衰えて目も見えず、耳も聞こえなくなると、再び死の闇に戻る。
 これで一生の円環が閉じるのだが、この四つの季節に方位の東西南北が当てられ、それぞれを四聖獣が守護するといわれ、
 北の玄冬(老年期)に充てられているのが、伝説上の亀の一種、玄武であることから、母体の中の闇の世界を亀の甲羅で覆ったのではないか、と考えられる。
・宮古島・石垣島には「崖下墓」があり、宮古島市島尻には3つの郭がある
 石組み、グスクで囲った大きな墓(長墓)があり多数の骨があるが、祭祀が行われたかは不明である。
・宮古島地方では、沖縄本島から伝わる以前から「巨石墓(ミャーカ)」があり、風葬の代表的な例とされている。
 屋根のない石囲いの中に遺体を葬るものであったが、後世風葬を嫌う考えが起こって屋根をかぶせるようになった。
 「仲宗根豊見親」の墓のように、本島の横穴墓形式との折衷も見られる。
 沖縄本島島尻地区、大神島にも風葬があり、昭和時代には洞窟などから遺骨が多数発見されたことがある。
・久高島の「グソー(後生)」観は、墓地の入口を「新後生(ミーグソー)」と称して、そこを「生界と死界との境界」とする。
 嘗て行われていた風葬では、風葬の行われる場所を「ティラバンタ(葬所)」といい、
 「ティラ」は「ティダ」と同義で「太陽」の事、「バンタ」は「断崖絶壁」という意味である。
 7年後の洗骨が終わると、死者は真の後生へ赴いて神へ昇化すると久しく観念していた。
・「新後生」においては、死者は生前と同じ生活様式をとると考えられているため、
 新後生の墓廓は現世の家屋と同じ形態を備えている。
・沖縄では伝統的に個人墓はまれで、「門中墓」「家族墓」が主流である。
・戦後は火葬の普及とともに、より小型の「家形墓」に人気が移っている。
 沖縄では、本土にあるような「塔式墓(四角柱形の石の墓)」はあまり見られない。

先島諸島の祭祀
・先島諸島は「オーストロネシア文化圏の北端にある」という解釈もされる。
 「土着文化」「沖縄文化(琉球文化)」「本土日本文化」「オーストロネシア文化」「中国文化」の混在が見られる。
・少なくとも4200年前より以前に、「台湾」「フィリピン」からの渡来人が定住したとされる。
 しかしこの年代以降は、両地域の人種的な移動の形跡は見られない。
・先史時代の「先島諸島(南部文化圏)」では、「石斧」「貝器」「土器」など、
 「台湾」「フィリピン」との共通点が指摘される遺物が多く見つかっている。
・「縄文文化」「弥生文化」の影響は殆ど見られない。
 「日本本土」や「中国」との交易による物が出土しているが、それらの文化圏の影響は基本的になかったとされる。
・先島諸島の先史時代は、「前期(~BC800)」「後期(BC800~AC1000)」に分かれる。
 この間の年代には数百年の空白があり、後に「ポリネシア系」の人々がわたってきたとの説もある。
・集落は、前期後期を通して、殆どが海岸に近い台地か海浜砂丘地にある。
・前期は「下田原式土器(しもたばる)」が少量出土し、「半磨製石斧」が盛んに用いられた。
・後期は、「土器」を用いず、「半磨製石斧」がやや大型化する。
 「シャコガイ製貝斧」が使われ、これは太平洋諸島で見られる。
・前期・後期ともに、「スイジガイの突起部の加工品」「サメの歯の骨角器」が共通する。
・料理には、同様に無土器文化を持つ「ポリネシア」と同じく、石焼を多く用いたと考えられている。
・「後期文化は別の文化集団が新たに渡来して展開した」「同一系統の集団によるもの」という二説がある。
・記録としては、「続日本紀 和銅七年条(714)」に「信覚」「球美」などの人々が来朝したと記されており、
 「信覚:石垣島」「球美:西表島か久米島?」とされる。
・12~13世紀から集落が大規模化、「農耕」「鉄器」を基盤として、沖縄本島さらには北方との関係がみられるようになる。
 「カムイヤキ(類須恵器)」「鍋形土器」「外耳の付いた深鍋形や壺形の土器」
 「鉄鍋」「中国陶磁器」が出土する「集落やグスク」が、台地や丘の上に展開された。
・この時代は、基本的に平和だったと見られている。
・14世紀から15世紀に沖縄本島に興った琉球王国による海上交易の中継地として、次第にその影響圏に置かれた。
・明応九年(1500)、石垣島の按司「オヤケアカハチ(オヤケ赤蜂)」が反旗を翻すと、
 「尚真王」は征討軍を編成するが、宮古島の豪族「仲宗根豊見親」が先鋒となって
 石垣島に上陸し、オヤケアカハチを討ち取った。
・これによって先島のほぼ全域が琉球王国の支配下に入ったが、
 与那国島では女首長「サンアイイソバ(サカイイソバ)」による独立状態がしばらく続いた。
・この時代の琉球王国の先島諸島の統治は、緩やかなものであった。
・慶長十四年(1609)、徳川幕府の了解を得た薩摩藩の島津氏による琉球王国に侵攻し、
 服属した琉球王を徴税代理人として年貢を徴収した。
 この為に、琉球王府は先島諸島に対して、重い「人頭税」を導入した。
・琉球王国は「先島諸島」を勢力下に収めるたびに、この信仰をその地に広め、
 現地に「ノロ」や「司(つかさ・八重山のノロ職名)」を置いている。
 しかし基本的に間接統治であったため、現地の信仰の多くもそのままに残され、
 御嶽のような形式がその地域の信仰に取り込まれていくこととなった。
・ただし、王国と敵対した「オヤケアカハチ」が信仰していた
 八重山地方の「イリキヤアマリ神信仰」のように、滅ぼされた信仰も存在する。
・18世紀初頭、宮古の伝説をまとめた「御嶽由来記」において、下記が記された。
 これは本土の日本神話と共通する物がある。
 「宮古島」が島の形もなしていない太古、「天帝(あめのてだ)」が「天岩戸柱」の端を折り、
 「弥久美神(やぐみのかみ)」に授け、「下界の風よからんところに島を造りなせ」と命じ、
 「天の夜虹橋(あめのゆのづはず)」から下界の大海原に岩柱を投げさせ、固まったのが今の宮古島となった。
 天帝は次いで赤土を下し、「古意角(こいつの)」神に「下界に降りて人の世を建てて守護神となれ」と命じたが、
 古意角が「我に足らざる片つからだを賜え」、天帝「汝六根五躰を備う、また何の不足かあらん」、
 古意角「すべて陽あれば陰あり、陰あれば必ず陽あり」との問答を経て、天帝はようやく古意角の願いを入れ、
 女神の「姑依玉(こいたま)」の共を認めた。
 古意角・姑依玉の両神は、豪勇の「盛加神(もりかのかみ)」を始めとした「八十神百神(やそかむももかむ)を連れて
 天の夜虹橋を渡り、彼らは「漲水天久崎(ぴゃるみずあめくざき)」に宮居を定め、
 「宗達(むにだる)」「嘉玉(かだま)」の男女児が生まれた。
 また、島は赤土ばかりであったので、天帝が再度黒土を下し、宮古島は五穀が実るようになった。
 十幾年かが過ぎ、宗達・嘉玉が大きくなった頃、天帝は葉を身にまとった「木装神(きそうのかみ)」という男神、
 青草を身にまとった「草装神(ふさそうのかみ)なる女神を下した(後略)。
 (「漲水天久崎」は岬だが、埋め立てられている。
 西側に、琉球王国以前から信仰を集める「漲水御嶽(ぴゃるみず・沖縄県宮古島市平良)」が鎮座する)
・先島諸島における主な祭りとしては、
 「大神御嶽(宮古島大神島)」を中心に行われる「祖神祭(ウヤガン)」、
 「宮古島平良島尻」の「「パーントゥ・プナハ」と「宮古島上野野原」の「パーントゥ」、
 「八重山全域」でみられる「アカマタ・クロマタ」、
 「八重山地方」の「アンガマ」「ミルク(弥勒)」「フサマラー」
 「石垣島群星御嶽(沖縄県石垣市川平)」で行われる「マユンガナシ」などがあげられる。
・いずれも秘祭として部外者禁制を敷いているものが多い。
・特に「ウヤガン」をのぞく祭りは、いずれも「異形の来訪神を迎える祭り」であり、
 祭事には「来訪神に扮した(あるいは来訪神そのものとして)仮装で、集落を徘徊する」というような儀式がみられる。
・これら異形の神々も、「ニライカナイと同じ概念の異界」から訪れるものと考えられている。
・類似した祭礼は、「南西諸島」「東北地方北部」に多い。
 「ナマハゲ(秋田)」「アマメハギ(能登)」「ナモミ(三陸)」「ヒガタタクリ(三陸)」「トシドン(鹿児島県甑島)」「ボセ(トカラ列島悪石島)」
・宮古島狩俣(かりまた)の「ウヤガン」では、神女の「ツカサ」が、集落の中庭で何時間も神歌を歌う。
 木の葉で作った冠をかぶり、白い麻の着物を着て、足元は裸足、祭りの前に何度も山篭りをする。
 歌われる内容は「狩俣の地がどう造られたか」という創世神話である。
・「マユンガナシ」は「精霊」で、旧暦九月の「節祭(せちえ)」に登場する。
 クバの蓑を着て、手ぬぐいでほうかむりし、笠を被り、大きな杖を持ち、夜中中、村の家を回っていく。
 「ムトゥ(本神)」と「トウム(供神)」が、「カンフツ(神口)」という神の言葉・祝言を唱え、繁栄・健康を祝福、家人は接待をする。
 「マユ:豊かな真の世」「ガナシ:敬称」で、「真世の神様」というような意になる。
 石垣島ではマユンガナシの登場を境にして「節」が改まるとされ、これを「初正月」と呼び、本土の研究者は「南島正月」と呼ぶ。
 これは「古代日本の一年の区切りに合致する」という。
・「アカマタ・クロマタ」や「収穫祭」にして秘祭で、「厄落とし」であるという。
 仮面を付け、草木で体を覆い、「ナマハゲ」「トシドン(鹿児島県甑島)の年神」に似た扮装をする。
 これは「中国の広西の融水の苗族」の「マンガオ」に類似、「貴州省」の少数民族には「大歳神のような来訪神の祭礼」が見られる。
・「パーントゥ(島尻と上野野原)」は、仮面をつけ、草をまとった異形の神が登場、漂着した仮面に由来するという。
 「パーントゥ・サトゥプナハ」は「里願い」とも呼ばれ、「ンマリガー(産まれ泉)」の泥を全身に塗る。
 5人の女性神役「ミズマイ」に「ウパッタヌシバラ(拝所)」で祈願をしてから、村落内を巡り歩いて災厄払いをする。
 厄払いは誰彼かまわず人や新築家屋に泥を塗りつけて回るというもので、泥を塗ると悪霊を連れ去るとされている。
・八重山諸島では雨乞いの儀式の時、水を入れた瓶を神人が取り囲んで、
 「クロツグ(マーニ・マニン)」」の葉先に水を浸し、周囲に水を撒き謡いながら祈る。

奄美諸島の祭祀
・鹿児島県の「奄美大島」「喜界島」「加計呂麻島」
 「与路島」「請島」「徳之島」「沖永良部島」「与論島」などが含まれる。
・奄美群島の文化・言語・祭祀は、鹿児島県の大隅諸島以北に比べると、沖縄県に近く、「琉球文化圏」にも属している。
 「奄美大島」から「与論島」に、南下するに従って琉球文化の色彩が濃くなっていく。
 ただし、奄美群島に伝わる風習の中には、沖縄県とも本土とも異なる奄美独自のものや
 沖縄県より本土に近いものも少なからずあり、方言にも昔の大和言葉の発音などが残っている。
・奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定される徳之島の「アマングスク遺跡(鹿児島県伊仙町)」で、
 南西諸島最古級の遺跡と言われている。
・日本本土や沖縄諸島地方とは、縄文時代・弥生時代・古墳時代などを通じて活発な交流が行われていた。
 北方と南方の文化が混在し、それらの影響を受けたもの、さらに独自に発展した。
・「宇宿貝塚(鹿児島県笠利町・奄美大島)」は、縄文時代中期から中世の複合遺跡である。
 縄文後期~弥生後期の在地系の「宇宿上層式土器」「宇宿下層式土器」「嘉徳式土器」
 「面縄式土器」に加え、九州本土の縄文後期の「市来式土器」が一緒に発見された。
 遺構としては集石遺構、縄文時代晩期の石組み住居跡、宇宿上層式土器時代の土坑などが確認され、
 土坑の中には推定年齢20~25歳の女性骨1体と嬰児骨1体が検出され、母子合葬であったことがわかる。
 土坑からは「礫(れき)」「小型磨製石器」「ガラス玉」「骨製管玉」が出土した。
・「市来貝塚(鹿児島県いちき串木野市)」からは、地元の「市来式土器」と共に、
 「奄美大島の嘉徳II式によく似た土器」と「オオツタノハガイ製貝輪」が出土しており、薩摩半島への伝播も確認されている。
・「宇宿貝塚」「住吉貝塚(鹿児島県知名町・沖永良部島)」などの住居跡は方形状に並べたもので、九州とは形態が異なる。
・4-5世紀には地元産の「スセン當式土器(沖永良部島)」が、6世紀には「兼久式土器が出現した。
 同時に「金属製品」も出土しているため、この年代に「鉄器の製造」が開始されていた可能性が指摘されている。
・「ヤコウガイ」などは「螺鈿」や「杯」の原料として、重要な交易品であった。
・奄美大島の「マツノト遺跡(鹿児島県笠利町)」「小湊フワガネク遺跡(鹿児島県奄美市)」など螺鈿原料の加工跡が確認される。
 「開元通宝」は奄美群島から八重山列島まで出土、商人の広範な活動の証拠とされている。
・初めて文献上に現れた「日本書紀 斉明天皇三年条(657)」に、「海見嶋」とある。
・682年に「阿麻弥人」、714年には『続日本紀』に「奄美」との表記がある。
・天平五年(733)の第十回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。
 天平七年(735)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。
 『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込まれ、
 奄美群島の各島々にこの牌が建てられたとしているが、未だ発見はされていない。
 遣唐使の中に、奄美語の通訳を置くことも記されている。
・長徳三年(997)、大宰府管内へ「奄美島」の者が武装して乱入、放火や掠奪をしたという(『小右記』)。
 翌年、大宰府からの追捕命令が「貴駕島」に発せられている(『日本紀略』)。
 貴駕島は「喜界島」とされ、「城久遺跡」が発見されたことにもより、これが大宰府の出先機関と推定されている。
 ただし、同時期に「新羅の入寇」も起こっており、新羅と取違えたのではないかという指摘もある。
・この時代までを「奄美世(あまんゆ)」とも呼ぶ。
・この時代の奄美群島は遺跡や伝承、そして群島外の歴史書によって様子をうかがうことはできる。
 『漂到琉球国記』や『元亨釈書』などにより、奄美は「貴海国」とされ域内であり、「琉球国」は異域とみなされていた。
 『平家物語』によっても、奄美地域と沖縄地域は違うと捉えられていた。
・奄美群島では、「按司」や「グスク」という名称自体が史料上確認されていないが、支配層を語る上で便宜上用いられる。
 便宜上「グスク」と呼ばれる遺跡の多くが、「ヒラ」「ハラ」「モリ」などグスクとは違う地名が付いている。
・11世紀頃、グスクの構築が始まる。
 奄美群島のグスクは集落ごとに複数築かれたが、規模はそれほど広くなく住民の共有の施設でもあった。
 浜を見下ろす立地も多いが、集落背後の山の中腹や山頂などにも築かれ、複数(3〜4個)のグスクで有機的な防衛網を構築していた。
 交易の利便性と、海からの襲撃に対応するためである。
・その後、「グスク」は「按司」により采配されるようになり、そこに拠って互いに抗争していた。
 また海賊や島外勢力の襲撃に対して、住民を率い戦い、英雄と讃えられるものも出現した。
・「カムィヤキ古窯跡群(鹿児島県伊仙町・徳之島)」で生産された「カムィヤキ(類須恵器)」は琉球弧全体に
 流通の広がりを見せており、それを生産販売する勢力の存在が考えられるが、判明していない。
・12世紀には中尊寺金色堂で奄美産の蝶細がみられるなど、本土との交易も盛んであった。
・「倉木崎海底遺跡(鹿児島県宇検村・奄美大島)」などで12世紀後半 - 13世紀頃の
 中国産陶磁器が大量に引き揚げられており、中国などとの交易を行ったことも確認されている。
・鎌倉時代に入り「北条得宗領」とされ、得宗被官「千竈氏」の采配地となった。
 『千竈時家処分状』(千竈文書)によって明らかにされており、また
『金沢文庫』中の日本地図に「雨見嶋、私領郡」と記載されている。
 『六波羅御教書』では海上運輸と流通の権益を握り、在地勢力と主従関係を構築して支配していたものと考えられている。
 北方の得宗被官「安東氏」の動向との比較検討が行われている。
・琉球王国の成立した15世紀半ば以降、奄美地域をめぐって琉球勢と本土勢とが何回も合戦した。
 奄美群島は両者の交易などの往来が盛んになる一方、利害がぶつかる土地となり、軍事衝突も多数発生したものと考えられる。
 島津氏の記録には当時の様子が余り語られていないが、鎌倉幕府滅亡時、
 薩摩に残留した千竈氏一族を家臣団に組み込んでおり、交易の利益と相まって興味は十分持っていたと考えられている。
・按司が登場してからを「按司世(あじんゆ)」とも呼ぶこともあるが、この時代までを「奄美世(あまんゆ)」と呼ぶこともある。
・文永三年(1266)、奄美群島から中山王「英祖王」に入貢したと『中山世鑑』などの琉球正史に記されているが、
 当時の群雄割拠の状況から後に創作された伝承とも考えられる。
 宗主国の明に倣った、琉球版冊封体制であったとも考えられている。
・琉球王国成立前後の状況は、沖縄本島からの距離もあって各島々で異なっている。
・応永二十三年(1216)、第一尚氏は北山王国を滅ぼし、その領土であった「与論島」と「沖永良部島」に服従を打診。
 「沖永良部島」では「島之主一族」とその重臣が侵攻と誤認して自刃、応永二十三年(1429)、王国の領土に組み込まれた。
 「徳之島」も服属し、「島之主西世之主恩太良金」が「徳之島大親」に任命されている。
・奄美群島の地元領主階級は、琉球王国側の記録によれば「大親」と呼称されることが多い。
・文安四年(1447)、「尚思達王」が「奄美大島」を従わせた。
・宝徳二年(1450)から寛正三年(1462)まで、「喜界島」を攻略するためほぼ毎年攻撃を仕掛けていた(『李朝実録』)。
・文正元年(1466)、「尚徳王」が三千の兵をもって「喜界島」を制圧した。
・天文六年(1537)、「尚清王」が「奄美大島」の「与湾大親」に反抗の気配ありとの報告を受けこれを討つが、
 後に讒言であると判明したためその子孫を採り立てている。
・元亀二年(1571)、「尚元王」が再び反抗を始めた「奄美大島」の大親達を制圧している。
 「与湾大親」の子孫は、1571年(宝徳2年)の戦いには琉球王国側として参加して武勲を挙げ、
 のちに首里に移り、「琉球王国五大姓」の一つである「馬氏」となり繁栄した。
・琉球王国の領土となった「奄美群島」では、文正元年(1466)に「泊地頭」が置かれ、
 群島各地から年貢の納付が強要され、そのための蔵を「天久寺(那覇市)」に設け「大島御蔵」と呼んだ。
・首里在勤として「奥渡より上の捌理」と言う役職も置かれた。
・元亀三年(1572)には「蘇憲宜」を「大島奉行」に任じ、統治に努めさせている。
・16世紀後半、本格的な琉球王国の地方行政制度が敷かれ、「間切」の名称が文書に見え始める。
 間切ごとに「首里大屋子」が置かれ、その下に集落名を冠した大屋子を、さらに「与人」「目差」「掟」「里主」などを置いた。
・祭政一致政策(琉球神道)の一環として「ノロ」も置かれた。
 役人やノロの所領はそれまでの世襲を廃止して、一定期間ごとに転出するよう制度が改められ、在地住民との関係切り離しが行われている。
・現在ノロ制度は、「与湾大親」の根拠地であった「奄美大島西部」に多く残っている。
・室町幕府以降15世紀に入ると、本土の統治機関における奄美群島への関心は徐々に失われていった。
・その中でも薩摩と大隅の守護「島津氏」だけが、交易などを通じて奄美への関心を持ち続けた。
 16世紀半ば、島津氏は交易の利益独占のため本土から琉球へ渡る船を統制しようとし、「嘉吉付庸説」「為朝始祖説」を持出し琉球を従わせようとした。
・天正十五年(1587)、「豊臣秀吉」に降った「島津氏」は、課された琉球軍役を肩代りすることで琉球への圧力を更に強めていった。
 秀吉は当初、島津氏を滅ぼし琉球への侵攻も計画していた[要出典]。
・琉球王国の統治時代を「那覇世(なはんゆ)」とも呼ぶ。
・琉球王国への薩摩藩の支配後、奄美群島が薩摩藩の直轄地となった。
 慶長十八年(1613)、多数の代官所や奉行所を設置された。
 中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。
 この頃の奄美群島は、薩摩からは「道之島」と呼ばれた。
・13世紀頃に琉球に国が誕生するまでの古代~中世初期は、
 南西諸島全体が「阿摩弥」と呼ばれていた。
・名称の由来については、今なお不明な点が多い。
・伝承では琉球王国の創世神話に登場する「アマミキヨ(アマミコ・阿麻弥姑)」神に由来するとされる。
 アマミキヨは最初に奄美大島の「アマンデー(奄美嶽・海見嶽・鹿児島県笠利町)」に降り立ち、
 奄美の島々を創造、後に沖縄諸島を造ったと古書に記されている。
 アマンデーの山上には史跡があり、また「湯湾岳」にも降臨神話がある。
・ただし琉球王国の神話や、「アマミキヨ」の起源は、文献上10世紀から13世紀の間までしか遡れず、
 7世紀には日本列島の中央政権にその名称と存在が知られていたこととは時間的な開きが生じている。
・また「アマミキヨ」の名称使用自体、
 奄美群島では「テルクミ」の名称で伝わっている(沖縄本島に隣接する与論島では「アマミキヨ」)。
・これらの事を含めて「アマミキヨ」とは奄美そのものを指し、
 「琉球王国の成立には奄美勢力の南下、
 又は奄美を経由した本土勢力が深く関わっていたのではないか」と指摘する研究者もいる[誰?]。
・「テルコ・ナルコ」は、はるか海の彼方にあってこの世に豊じょうをもたらす理想郷のこと。
 祭祀の来訪神はそこからやってくる。
 沖縄の「ニライ・カナイ」信仰とほぼ一致する観念で、奄美の各地にその信仰を示す伝承がある。
・地域により「ネリヤ・カナヤ」「テルコ・ナルコ」与路島では「ニッリャテルコ」と呼ぶ。
・「テルクミ・ナルクミ」という名前の「奄美諸島の創生神」ともされる。
・「おもろそうし」には、ニライ・カナイのことを「にるや・かなや」と記されている。
・奄美大島では、毎年二月に「ナルコ」「テルコ」という神を迎えて、
 四月に御送り申す厳粛なお祭りがある。
 同地では、「集落の三方を山に囲まれ目の前に広がる海に対して、
 海は豊かさをもたらすと信じられていた」というのが信仰の淵源だとも言う。  
・「奄美群島」では琉球王国時代に「ノロ」制度が導入され、現在でも「ノロ」「ユタ」が僅かに残る。
 ノロを中心に、ニライカナイからの来訪神を迎える豊穣祈願などが行われている。
・奄美大島では、ノロ祭祀組織は「神人衆(カミニンジュウ)」と呼ばれる。
 「親ノロ」を頂点として、成員はそれぞれ神役として名を持っている。
 必ずしも全てのシマ(集落)に共通しているわけではないが、「イガミ」「スドゥガミ」といった名となっている。
 全て女性で構成され、唯一、男性で参加する役を「グジ(宮司か郡司が原義)」と呼ぶ。
・有名な祭礼に、龍郷町秋名の「平瀬マンカイ」「ショチョガマ」がある。
 「稲霊(いなだま)」を招いて五穀豊穣に感謝、来年の豊作を祈願する祭りで、
 「ショチョガマ」は「夜明けと共に片屋根を揺り倒して豊作を祈る」、
 「平瀬マンカイ」は「ノロ神様と呼ばれる祭司五人と宮司七人により、
 神(カミ)ヒラセと女童(メラベ)ヒラセと呼ぶ二つの岩で、山の神と海の神に豊作を祈る」。
・祖霊を迎える三八月(ミハチガツ)と呼ばれる旧暦八月中旬の三日間のお盆祭りでも、
 ノロが祭祀を取り仕切る地域がいくつもみられる。
・奄美大島では各集落ごとに複数の神社が見られる。
 ただし神社のほとんどは、江戸時代(薩摩藩政時代)頃に土着の信仰から移行し設立された比較的新しいものである。
 最も古い伝承を神社は、「平家の落人」伝承を持つ一群である。
・奄美大島では、現在の多くの墓形式は本土と同じであり、沖縄県の亀甲墓は見られない。
 ただし「城間トフル墓群」に代表される「トフルやムヤ」と呼ばれる
 亀甲墓の前時代形式の墓所が存在し、「南西諸島の墓制の北限」と言われる。
 これは隆起サンゴ礁が形成する崖に横穴を掘り、風葬したり厨子甕などに遺骨を入れて保管するものである。
 隆起した砂丘に十数基の横穴墓があり、400年以上前に構築されて以来そのすべてがほぼ完全な形で残り、うち九基が現役の墓として使われている。
・奄美諸島には「御嶽」は確認されない。
 しかし「アマミキヨ」降臨の地とされる「アマンデー(奄美嶽・海見嶽)」も、
 その立地条件や、奄美群島北部には希少な「御嶽的存在」であり、
 それらが琉球王国の聖地とされる「斎場御嶽」と酷似しているため
 琉球領時代に持ち込まれた伝承とも言われている。
・奄美の「シマ(集落)」の多くは、山を背に海に面している。
 シマの背後には、神聖な「カミヤマ(神山)」と呼ばれる山があり、
 ここにシマを守る神「テルコの神(山幸の神)」「ナルコの神(海幸の神)」が降り立つ。
 生活道路以外に、断片的にも「カミミチ(神道)」があったりする。
 はるか彼方の海には、神が住む豊穣の国「ネリヤカナヤ」があり、
 目の前の海には、このネリヤカナヤから神が渡ってくる小さな島「立神」がある。
・奄美大島には、「シマ」の中心部に「ミャー(宮)」と呼ばれる、聖地性を持った空き地がある。
 ミャーには「カミミチ(神道)」が続いていることが多く、「カミヤマ(神山)」と海とを結ぶ線上にある。
・「ミャー」には、祭祀芸能を奉納する「あしゃげ」や、祠の「トネヤ」が建っていることがある。
 そこには「ガジュマル」「アホギ(アコウ)」などの御神木が立っている。
 「トネヤ」は「刀禰屋=村長・シマの宗家の屋敷」で、嘗てはノロが神事をしていた。
 「ミャー」や「トネヤ」では、中世の青磁片・類須恵器片が見つかることが多い。
・奄美諸島の他の聖地として、下記の物以外に、「立神」と呼ばれるものがある。
 「森とも山ともつかぬ地方的な聖地聖地」として「拝み山(ウガミヤマ)」
 「モリヤマ(森山)」「カミヤマ(神山)」「テラヤマ(ティラ山)」がある。
イビガナシ
・奄美大島で村の聖地に立てられた自然石。
・一般には無名の場合が多い。
・ミャーにあるアシャゲの傍らの御神木の根元に、数基の自然石「イビガナシ」が建っている。
・常時集落にいて、集落を守ってくれる神様で、在住神と呼ぶ。
・イビガナシは、村を開拓した遠祖の墓ともいう。
・同種の聖地の別名に、「シマタテガナシ」「グジ墓」「ウジガミ」がある。
グンギン(権現)について
・奄美諸島にある祠である。
・「グンギン」は「権現」の奄美方言である。
・森の中腹など、高く険しい位置にある。
・入り口に「鳥居」がある事が多く、「神社」のような役割を担っている。
・奄美では、ほとんど「自然石」をご神体とする。
 加計呂麻島では「ソテツ」をご神体としている例もある。
・「イビガナシ」が集落の中の平地にあってシマを見守るのに対し、
 グンギンは集落の外の高台にあって、航海安全や火伏せ(防火)などを祈願する場合が多い。
・旧暦9月9日に祭りがある。
オボツヤマ(オボツ山)とカクラ山
・奄美大島中南部や加計路麻島には「オボツ山」「カクラ山」という聖地がある。
 オボツ山は山上にある物と、平野の森にある物に二分される。
・山上に「オボツ」と呼ばれる石積みがあったりして、嘗てはノロが集まった。
・琉球神道における「天空にある異界」である「オボツカグラ」に由来するとされる。
・琉球王国の歌謡集「おもろそうし」の歌に、
「オボツの山に神が降りたまう」という一説がある。

トカラ列島(吐噶喇列島)の祭祀
・鹿児島県の「中之島」「口之島」「小宝島」「諏訪之瀬島」「平島」「宝島」「悪石島」などから成る。
・悪石島とその南西の小宝島の間には「渡瀬線」または「トカラ構造海峡」とよばれる、生物の分布境界がある。
 悪石島は本州・四国・九州の動物相の南限となっている。
・地名の由来については諸説あるものの、「沖の海原」を指す「トハラ」から転訛したという説が有力。
・「続日本紀 文武天皇三年七月辛未条(699)」に、
 「多褹(種子島)、夜久(屋久島)、菴美(奄美大島)、度感(トカラ列島)の人が物を貢いだ」とある。
 同書によればこれが「度感」が日本と通じた始まりで、また「度感」は「徳之島」だとの説もある。
・「宝島」では、多くの土器が出土しており、下層部からは縄文後期の頃のものとみられる「宇宿下層式土器」や「八重山式土器」、
 上層部からは弥生中期の頃と見られる「須玖式土器」が出土している。
・トカラ列島には、独特な風習や伝統文化が多く、ノロによる祭祀が残る。
・トカラ列島には「ネーシ(内侍)」とよばれる、巫女による祭祀が残る。
 宝島では「ヌーシ」と呼び、これは「内侍(ないし)」と関係があるとさる。
 内侍は「古代~中世、天皇や特定神社の斎宮・斎王の近侍を勤めた女官」などの名称である。
・トカラ列島周辺には、「異形の来訪神=客神(まれび)」を祀る伝統が多い。
 悪石島の「ボゼ」や、甑島列島の下甑島の「トシドン」、
 大隈諸島近辺の硫黄島の「メンドン」などが代表的である(先述)。
・「ボゼ」は、「ヒチゲー」と呼ばれる冬の節替りの夜に登場する「異形な仮面を付けた来訪神」で、
 トカラの各島に現れたとされており、その名残が悪石島にのみ残ったとされる。
 現在は悪石島の伝統行事として旧暦7月16日のお盆最終日翌日に登場する。
・「悪石島」には、いたるところに聖地があり、ボゼのみならず、
 一年間を通じて、小さな祭祀や儀礼が非常に多い島である。
・「悪石島」にある「鳥居の笠木に刻まれた三角の紋様」は、
 タイやラオスの「アカ族」の習俗と重なる。
・トカラ列島全体で以前使われていた「シタミ」と呼ばれる「背負い籠」は、
 東南アジア大陸部のタイ族系の人々が使用するものと共通しているという。
・「森とも山ともつかぬ地方的な聖地」として、「根神山」などの名称の山がある。
 「根神山」の名称が多く、悪石島では「根神山(ネガミヤマ)」、宝島では「女神山」、
 中之島では「エガミダケ」、小宝島では「ウネガミ」と呼ぶ。
 「山」をそのように呼び、また「石碑」と「石積み」があり、森林に覆われた「神域」が存在する。
 宝島では、女神がいるとされ、「女神権現跡」と記された石碑が建つ。

大隅諸島の祭祀
・鹿児島県の「種子島」「屋久島」「口永良部島」「馬毛島」などから成る。
 「黒島」「硫黄島」「竹島」の上三島については、
 大隅諸島に含まれるとする説と含まれないとする説がある。
・「種子島」で最古の遺跡は、「横峯遺跡(鹿児島県南種子町)」「立切遺跡(鹿児島県中種子町)」
 「大津保畑遺跡(鹿児島県中種子町)」で、約3万5千年前の遺跡、鹿児島県最古の遺跡でもある。
・「銭亀遺跡(鹿児島県南種子町)」は、旧石器時代の「細石器文化」が確認された日本列島最南端の遺跡である。
・縄文時代の「種子島」では、九州島南部の縄文文化とほぼ同一の土器様式が確認されている。
・弥生時代後期から7世紀にかけての「種子島」では、独自の貝文化が展開した。
 代表遺跡として「広田遺跡(鹿児島県南種子町)」が著名、貝製品など出土品は、国の重要文化財に指定されている。
・「隋書」 大業三年(607)煬帝の代の「夷邪久国」は「屋久島」と推定される、これが「屋久島」の初見とされる。
・「日本書紀」には「推古天皇二十四年(616):掖久・夜勾・掖玖の人三十人がやってきて、日本に永住した」
 「舒明天皇元年(629):大和朝廷から掖玖に使が派遣された」「天武天皇六年(677):多禰島人を饗した」
 「天武天皇八年(679):朝廷から使を多禰島に遣わした」という記事などが見られる。
・7世紀末以前までは「ヤク」とは「九州以南の地域」を指す言葉として用いていたとされ、
 天武天皇六年の記事は「多禰島:種子島」の初見である。
・「天武天皇十一年(682):朝廷から多禰人・掖玖人・阿麻彌人(奄美)それぞれに禄を賜る」という記事があり、
 ここで「掖玖(やく)」を初めて、特定の「屋久島」を指す言葉として用いている。
・「続日本紀」には、文武天皇二年(698)に朝廷の命により「務広弐文忌寸博士が南島(なんとう・南西諸島)に派遣された」とあり、
 任務は「屋久島・種子島・奄美大島の朝貢関係を確認すること」である。
・文武天皇三年(699)に「多褹(種子島)・掖玖(屋久島)・菴美・度感(トカラ列島)から朝廷に来貢があり位階を授けた」とある。
・大宝二年条(702)には「薩摩と多褹が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり
 (薩摩と種子島・屋久島が服属しなったので征討した)」とあり、これは「隼人」の征討とも言われる。
・「多禰国(たねのくに)」は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。
 大宝二年(702)から天長元年(824)まで122年間存続、続日本紀には「多褹国」との表記も見られる。
 「西海道」に位置、領域は「種子島・屋久島・口永良部島」、種子島北部に「能満郡」、
 南部に「熊毛郡」、屋久島の広域と口永良部島に「馭謨郡」、屋久島の一部に「益救郡」が置かれた。
・『続日本紀』大宝二年(702)八月一日条に「薩摩と多褹が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、
 戸を校して吏を置けり」という記事があり、これが多禰の征服と多禰国建置を示すと考えられている。
 実際に多禰国の公印が与えられたのは和銅七年(714)とされている。
・多禰の場合、国のかわりに島(嶋)の字を用いて、多禰国を多禰島、その国司を島司と表すこともあった。
 国を島とも呼ぶのは、対馬・壱岐と共通する。
・国の格付けは、「南島(奄美・沖縄方面)」との交流や「遣唐使」の派遣、「隼人」対策などの点から重要視されて中国とされていた。
 天平勝宝五年(753)、「鑑真」「大伴古麻呂」「吉備真備」らを乗せた遣唐使船第二船、第三船が「屋久島」に寄港している。
 しかし実際には小国をはるかに下回る規模の税収しかなく、行政的な運営経費の不足分は「大宰府」が他の国から補填していた。
・しかし隼人の対策が一段落し、遣唐使の派遣経路が変わると多禰島の重要性は薄れてきた。
 大宰府管内の飢饉に対処するために、多禰島の運営経費に当てていた税収が減少することになったため、
 財政の見直しの観点から天長元年(824)十月一日に多禰島司を廃止し、四郡を「熊毛郡」「馭謨郡」の二郡に再編して「大隅国」に編入した。
・「種子島」は、鎌倉時代には「見和氏」「肥後氏」が支配した。
 鎌倉時代の建仁三年(1203)年以降は「種子島氏」が支配、応永十五年(1408)以降は「屋久島」も支配した。
 両島は16世紀末に「島津氏」の支配に移った。
・多禰国一宮は「益救神社(やくじんじゃ・鹿児島県熊毛郡屋久島町)」である。
 式内社の南端として鎮座している。
 元々は屋久島中央部の屋久島三岳「宮之浦岳」「永田岳」「栗生岳」の神を祀ったものと考えられ、
 かつては島内各地に三岳の遥拝所があった。
 明治維新までは、旧村18ヶ所に村落名を冠した益救神社があったが、現在は二社のみである。
・「宮之浦岳(1936m)」は九州地方最高峰、「永田岳」「栗生岳」ほか
 屋久島中央部の標高1800m以上の高峰は「奥岳」と呼ばれ、「永田岳」を除き海岸部の人里から望むことはできない。
 『三國名勝図會』の記す栗生嶽は位置的に現在の「黒味岳」に相当するとする説もある。
 海岸部から間近に聳え、沿岸村落から見上げられる山々は「前岳」と呼ばれ、「本富岳」「国割岳」「愛子岳」などがある。
・屋久島には「岳参り」という風習がある。
 春秋の彼岸になると、村落ごとに若者を中心とした一団が御岳に登山し、
 シャクナゲの枝を土産として里に持って帰る。
 村落ごとに登る山は違うが、いずれにせよ「奥岳」へ行くには2~3日を要するため、代表者が山へ登った。
 留守の者達は「前岳」まで登って代表者たちを出迎えるか、「詣所(もいしょ)」という「揺拝所(ようはいしょ)」に出迎え、
 そこで神霊ののったシャクナゲの枝を貰い、各家の床の間に飾った。
 しかし昭和も終わり頃になると、自然保護の観点からシャクナゲを持ち帰ることは廃れていった。
・「森とも山ともつかぬ地方的な聖地」として、
 種子島に「ガローヤマ(ガロー・ガロー山)」があり、「伽藍(がらん)山」の転訛だという。
 これは「樹木が生い茂った森」で、みだりに入ると祟られるという。 
 「ガロー」は「水の神、山の神、田の神、池の神、荒神などの総称」である。
 「ガロー田」という神田を持つ所もあり、不浄を避けて、神饌米が作られる。
 全島内に百五十箇所はあり、東海岸に特に多く、西海岸には無く、南部の南種子町に多い。


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