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5巻4章 桐乃視点 アメリカにて その1



「……はぁ」
机に突っ伏してあたしはため息をついた。これで今日何度目だろう。
今朝からずっとこんな調子だ。
練習出来ないならと、せめて他の出来ることしようってテキストとノートをひろげて勉強してたわけだけど、全然はかどらないじゃん。
「こんなの……あたしじゃない」
休憩しよう、そう思ってイスから立ちあがり、ベッドに横になると、途端に体から力が抜け落ちていくような感覚を覚えた。
ダラッと弛緩してしまった体を横たえて、窓の外を見つめる。青空に雲が流れていく様子が見えた。
「なにしてんのよあたし。みんな練習行ってんのに……」
一人ごちてみたところでなにも変わらず、あたしもただ空を見続けていた。
朝のトレーニングに出る前に、コーチから今日は練習禁止と言われたことが思い返される。

『キリノ、あなたは今日はトレーニング禁止です』
『何で!? あたしやれますっ!』
『いいえ、あなたは最近特に調子が崩れています。今日はトレーニングせず体を休めなさい』
『そんな! 少しくらい大丈夫です、練習させて下さい!』
『駄目です。無理に体を動かしたところで調子は改善されませんし、トレーニングの効果が上がるわけでもありません。それと、明日も同じ様子なら同様に禁止にしますからね。分かりましたか?』
『……ぐ……、っく。……分かり……ました』

くそっ! なんでよ、あたしは出来るって言ってんじゃん。ううん、出来なきゃいけないのにっ!
午後からの練習にも出たいと食い下がったけど、冷徹に一蹴された。
コーチの言うことに大人しく引き下がることしか出来なかった自分が悔しくて仕方無い。
しかも、苛立ちが隠しきれずに午後トレに向かうリアに八つ当たりなんかしてさ、

『あはー、キリノ調子崩してんならちゃんと休みなよー。あたし練習してくっからねー』
『うっさい! さっさと行ってくればいいでしょ!』
『コワーイ。ほんじゃ行ってきまーす』

明るい声で聞いてきたリアに、年下の子に嫉妬して当り散らしちゃって、ほんとショボすぎ、情けない。
こっち来て、一ヶ月、二ヶ月と経っても全然勝ててないし。一勝するまで誰にも連絡しないって縛りまでしてたのに、その一勝さえ出来てない。
ほんと……情けない、惨めで、ぶざまで……。ハッ、なにこれ。
サイドテーブルに置いていた携帯を取り、履歴画面を開いてみた。
そこにはみんなからたくさん着信があったリストが展開されている。
メールの受信フォルダにも、あやせをはじめ、いろんな人から、あたしに『心配ないか?』とか『元気なら連絡して』と呼びかけるメールがたくさん入っている。
だけど、あたしはそのどれにも返信しなかった。自分で縛っておいて、何も成果が無いのに、連絡なんて……出来るわけないし。
「ごめん、みんな……。あたしが情けないせいで、心配かけちゃって」
ただ、昨日の夜に、一度だけメールした。着信もメールも一番少なかった相手……、兄貴に。

勝てないのは、まだ自分の中に甘さが残っているから。後ろ振り向いて、未練たらしく陸上とは関係ない方向向いているから勝てないんだと、そう思ったから。
だから兄貴にメールした。『あたしのコレクション、ぜんぶ捨てろ』って、ただそれだけ書いて送った――。
すぐに電話がかかってきた。多分『どういうこったよ?』って聞くために電話したんだろう。
うるさい! いいからあんたは黙ってあたしの言うとおりのことしてくれればいいんだっつの! そうしないとあたしは勝てないんだもん、勝てなきゃみんなとも話せないままなんだからっ!
それに兄貴なんかにあたしが陸上やってきた気持ちなんか分かるわけない。だから電話にも出なかったしメールも必要なことだけ書いた。それともうこれ以上、勝つまでは誰とも連絡しないと決めたから。
そうすれば兄貴も、こうやって無視ってたらさ……、そのうち諦めて……、数日かそこらしたら……、たぶん……、返信して来るはず。

――『全部捨てた』って…………。

「……ぎ、……っふ……く……ひっ…ぇぅ……っく…………」
見ていた空が、滲んで溶けていった。
ちょっと、何で涙なんて……、くそっ。出てくんのよぉ~。
ぐっ……、このっ……泣き止め! 泣いてどうすんのよ! あたしが、あたしが全部自分で決めたことなのに、泣くなバカッ!
あたしは歯を食いしばって涙を必死に止めようとしながら、自分の弱さを叩きのめすように心の中で必死に吠えた。
大丈夫――あたしは大丈夫。やれる、絶対やってみせる!
情けないのなんて慣れてんだっつの! これまでも、自分に負荷をかけてそれをエネルギーに変換してやってきた、やってこれた!
これからだってそう。絶対にやってやるっ! 絶対、絶対、絶対ッ……


――いつのまにか窓から見える空は薄赤く染まっていた。
どれくらい時間が経ったろうか。寝転がったままぼんやりと見ていたはずだけど、気付かなかった。もう、夕方なんだ。
あたしは『ああ夕方なんだ』って、ただそれだけ思って、またしばらく雲が流れていくのを見てた。
リアが帰ってきたら、さっきのこと謝っとこ。それと、明日は練習、絶対……出なきゃ……。
そんなことも考えていたんだと思う。自分でもよく分かんない。
それからまた少し空の赤が濃くなってきたとき、寮の玄関からインターホンが鳴る音がした。
…………誰だろ?
リアたちはまだ練習してるだろうし。なんか忘れ物でもして取りに戻ってきたとか? 億劫だけど仕方無い、出なきゃね。
ベッドからノソノソ起き出して部屋を出ようとしたとき、ふいに、テレビのザッピングのように映像が頭の中を流れた。
…………。
「ハッ、なわけないでしょ。ここ日本じゃないんだから」
一人呟きながら玄関先まで行くと、ドアに備え付けられた小窓から相手の姿が見える。
レースのちょっとしたカーテンが引いてあるから、ドアの前まで行かないと誰かまでは分からないけど。
背かっこうから見て寮生の子たちじゃない――男の人? なんで? 少し警戒して眉をひそめながらドアに近寄っていってたら、
「……プッ」
なにやってんのコイツ。ドア向こうにいる相手が可笑しくてつい苦笑してしまった。
だってほら、ソワソワ体を揺すったり、頭キョロキョロさせたりしてさ、なんかきょどってんし。
うぇ~キモぉ~。
ジ……ジジッ……と、再び頭の中に映像がザッピングのように流れていく。コンマ一秒にも満たない映像の中に映った顔が、今、玄関の先にいる相手とリンクしていった。
「……ッ……」
だれよ……、コイツ。……そんなの、……あるわけ……ない。

ドアを開ける。
きょどってて、キモくて、うぇ~って感じたその人は、あたしを見て、少し息を吐いてから、ぎこちなくゆっくりと口角を上げて、笑って言った。
「よ、久しぶり」





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最終更新:2010年08月16日 11:20
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