俺と桐乃は雨を伝って

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俺と桐乃は雨を伝って



やっぱり傘を持ってくれば良かった。
俺は夕方の街中、書店の軒先で一人うなだれていた。
天気予報で降るのは分かっていたんだけど、部屋の窓から曇天を仰ぎ見るに、さっさと戻ってくれば大丈夫だろうとタカをくくって油断しちまったんだよなー。
ちょいとマンガ雑誌を買いに家を出てから書店へと向かい、購入してから他の雑誌を立ち読みしていたのが致命となったのか。
店を出ようとしたら、
「……これだよ」
ザーと空から落ちてくる無数の雨粒。
どうみてもすぐにやむ気配は無く、逆にこれから終日降りしきる勢いを感じさせる。
ついてねえな。走って帰っても絶対ズブ濡れになんぞこれ?
「しゃあねえ、近くのコンビニにでも走ってビニ傘買うか」
それでも辿り着くまでにだいぶ濡れちまうことになるだろうが、傘無しで家に戻るよりはマシだ。
俺が意を決して店先から走りだそうとした矢先、目の端に見慣れたヤツがひっかかった。
テクテクと、こちらへと近づいてきているそいつは傘の中に頭が隠れてしまっているが、ライトブラウンに染め上げられた髪は長く背中へと伸びており、両肩から前にも、金糸の帯のように胸元へと下りている。
艶やかでストレートな髪だが、ちょいとハネてるところが本人の性格を表している特徴とも言えるだろう。
また、スレンダー気味ではあるが均整のとれた体とスラッと伸びている足は雨煙で遮られている中でもはっきりと存在感を保っている。
すぐに誰かは理解出来た。
ほぼ毎日顔を突き合わせているんだから間違えたくても間違えねえよ。
どうやらソイツもどこかへ出かけていたらしく、今から家に帰ろうとしているんだろう。
ちょうどいいね。これでビニ傘を買うお金も浮いて、雨にも濡れずに俺も家へと帰れることになったぜ。なんせ俺はソイツと同じ家に住んでいるからな。
おっと。こっちには気付いてねえみたいだ、通り過ぎようとしてるよ。
俺は声をかけた。
そいつ――すなわち、俺の妹に。

「おーい桐乃」
ピタリと足が止まって、傘の中から俺の顔を覗いてくる。
うん、気付いたみたいだ。帰りでかち合うなんて珍しいが、おかげで助かったぜ。
俺はにっこりと笑いかけ片手をあげて桐乃に手招きをした。
桐乃はにっこりと笑わずに無表情のまま俺を無視して歩き出した。
「おい!?」
華麗にスルーしようとしてんじゃねえよ、コラ!
俺は更に大声で桐乃を呼ばわる。
「桐乃ー。お~い!」
「………………」
てくてくてく。
「桐乃さーん! こっちこっち、ここにお兄ちゃんがいるよ?」
「………………」
桐乃は俺の声が聞こえていないのかガン無視で通りすぎていく。
いや聞こえてないわけねーだろこのやろう! 足だって急に速くなってるしよ! なんだって呼びかけに答えてくれないわけよ!?
人が困ってんのにこの態度。こいつ小学校で道徳教育受けてないんじゃないのか?
「こーら桐乃、人が呼んでんの無視ってんじゃねえ!」
置いていかれたらたまったもんじゃないので、俺は駆け出して桐乃の傘へと入る。
「うげ。許可なく入ってくんな!」
第一声が『うげ』ってなんだよ、相変わらず口が悪いなオマエ。
「呼んでもオマエが反応しねえからだろ。てゆーか聞こえてんのにどうして俺を無視する!? 傘忘れて困ってたんだから助けてくれたっていいだろ? 足早に通り過ぎて行くなよな」
「うっさいなあ、アンタがこんな往来で大声出すからじゃん。恥ずかしい」
「だったら最初から俺を傘に入れてくれればよかったんだよ。そしたら大声出す必要も無いんだし」
「あ~ウザ。フン、ずっと濡れて帰れば」
桐乃は突如方向転換して俺を雨の中へと置いてけぼりにする。
あわてて追いすがり、
「分かった! もう文句言わないから、傘に入れてくれよ。な?」
「もう入ってるじゃん。……なんでアンタと相合傘しなきゃいけないわけよ。誰かに見られたら超イヤなんですけどォ~」
そっぽを向いて髪をいじくっている妹様は、どうやら俺と相合傘するのがご不満のようだ。
たかが一緒の傘に入って帰るだけだろ。それによく見りゃ周りに人通りもほとんどねえんだから自意識過剰だっつの!
だがそんなことを愚かにも口にはしない。置いてかれてずぶ濡れになっちまいたくねえからな。
なわけで俺はもう一度手を合わせて桐乃に頼み込んだ。
「頼むよ桐乃、このとおり! 家までいいだろ?」
「へ~、そんなに妹のアタシと相合傘したいんだアンタ。……シスコン」
…………ぐ。怒っちゃダメ、怒っちゃダメよ俺。
「ま、まあタマにはな」
「はぁ~あ、ど変態の兄貴を持つと苦労するわぁ。――ま、そこまで泣いて頼んでんなら仕方無い。特別に入れてあげる、感謝しなさい?」
泣いて頼んではいないけどな。
「ほらぁ、ボサっとしていないで傘持ってよね」
「へいへい分かったよ」
からかいつつも、どうやら一緒の傘に入るのは了承したようだ。桐乃から傘を受け取って、俺たちは家路へと歩き始める。
天空から落っこちてくる雨はさっきよりも勢いを増して土砂降りだ。
こりゃマジで助かったわ。良いタイミングで現われてくれたことには隣を歩いている妹に素直に感謝を捧げよう。
その妹は「濡らさないでよ」とかぶつくさ言いながら、肩が触れるくらいの距離で俺と歩を共にしている。
淡く香水の良い匂いが漂ってきて、背中がどうにもこそばゆい。
う~~、相合傘か……。――――って!? 桐乃と同じように自意識過剰になってどうするよ? ええい、落ち着け俺!

にしても。
香水もそうだが桐乃のヤツはあいかわらずキメた格好をしている。オシャレしてどこへ行ってたんだか。
そぅっと横目に流し見ていると、
「なにチラチラ見てんのよ。キモ」
「見てねーよ」
「ウソ。見てたじゃん」
くっ……。こういうことに関しては女ってめちゃくちゃ鋭いよな。
「別に。ただ、雨の日なのにどこ行ってたのかと思ってな」
「気になるんだ?」
なんだそのまるで俺が妹の行動を逐一気にして仕方が無いって感じに受け止めたようなイントネーションの『気になるんだ?』は。
おまえのことなんか知るか! ちょっとだけ、なんとなく興味をひかれただけだっつの。
「あんたこそ傘も持っていかずに何やってたのよ?」
「しょうがねえだろ、買ってすぐ戻ろうと思ってたのに降りだしちまったんだからさ。ったくツイてねえよ」
「ドジィ~」
ニカァと俺の横やや下から白い歯を見せてくる桐乃は、俺が傘を忘れて困っていたことが嬉しいらしい。イヤなやつだ。
うるっさいよ、ばーか。オマエだってけっこうドジなとこあるくせによぉ。ぺっぺ!
――とは、傘を借りてその身を保護してもらっている俺としては言えないので、代わりに口を尖がらせるだけに留めておいてやった。大人の対応というヤツだな、うん。
「で。どんな本買ったの? マンガ?」
「ああ。ただの週間雑誌だよ。読み終わったら貸してやろうか?」
「うん、読むけど。――アンタ先々週号とか買ってないじゃん。たまに買わないとかやめてよね、話分かんなくなっちゃうじゃん」
「だってたまたま別のとこで読んじまってたし」
「だってじゃない。ちゃんと買うの! 分かった?」
「わーったわった」
基本的には買っているんだけど、俺って数タイトルくらいしか読まないから、たまたまコンビニ立ち寄ったときとかにパラパラ立ち読みってこともあんだよな。
桐乃はそれが気にいらないらしい。
読みたければ自分で買えと言いたいとこだが、女の子が少年漫画の雑誌を手にするのはちょいと抵抗感あんのかもな。
エロゲーやらアニメは買っているくせに、こういうとこは変に女の子らしい。
そういえば、コイツって買うには色んな方法があるって言っていたけどどうやってんだろね? 未だに謎である。店で普通に買ってるんだとは思うけど?
まぁ知らないままでいよう。聞いちまって恐ろしいことだったりしたら俺の神経がやられちまう。触らぬ妹の秘密にタタリ無しだ。
俺と桐乃はそれからも、とりとめのない会話をして帰り道を歩いていく。
「明日も降るのかな? 雨」
「ん~、最近天気崩れやすいかんな。降るんじゃねえの? なんだよ、明日もまた出掛けんのか?」
「気になるんだ?」
なんだそのまるで俺がオマエに付いて行きたがってると勘違いしてそうなイントネーションの『気になるんだ?』は。
「普通に聞いただけだろが!」
「はいはい。……別にどこも行かないわよ。雨の中とか歩くの超ヤダしぃ。髪だってまとまらなくてイラつくもん」
ふぅん。
にしては普段と変わらねえくらい綺麗な髪してると思うけど、俺には分からんようなレベルで気にしてんだろうな。
「今日だってアタシが家に帰るまで降りださないで欲しかったのに、降っちゃうとかありえなくない?」
いくらなんでもお天気様にまでオマエの都合に合わせろなんて、ありえなくない?
「そりゃ災難だったな」
適当に同意を入れつつ。
そういや逆に質問を返されちまって聞けなかったけど、
「けっきょくオマエこんな遅くまで、どこ遊び歩いてたんだよ?」
季節がら日が沈むのが早く、雨も手伝ってか歩いているうちに周囲はかなり薄暗くなってきていた。
「ププッ。なぁ~にぃ? やっぱ気になってんだ」
「んなわけねぇだろ。オマエが喋りたそうにしてっから話振ってやったんだよ」
「は? 勝手に捏造しないでくれる? ――まあいいや、そんなに知りたいなら教えてあげる」
目元をゆるませ、桐乃はとても楽しそうな笑みを浮かべて残りの言葉を口にした。

「アタシ、今日デートしてきたから」
「あ?」
デ、デートだ!? 誰と……だよ?
「街で買いものしててぇ~、カラオケとかも行って超楽しかったし」
今日一日のことを思い返しているのか、目を細めてエヘヘーなんてしまりの無い声を出して笑んでいる。
桐乃の交友関係は広い。俺の知らないところでも多くの友人がいて、猫をかぶりまくって外面の良いコイツには言い寄ってくる野郎もそれなりにいるらしいことは、桐乃の親友である、あやせからも聞いている。
彼氏なんていねえのは分かっているが、ちょっと会って遊ぶくらいの相手はいても不思議ではない。
「誰とデートしてたか知りたい?」
俺の知っているやつってことかソレは?
「………………誰だよ?」
俺はぶっきらぼうに聞き返した。
「え~~教えて欲しいんだ? めっちゃ可愛い妹のデート相手が誰なのか」
「チッ。てめえが聞いてきたんだろ」
「そーゆー態度じゃ教えてあげない」
ご機嫌良さそうに答えをはぐらかしている桐乃に俺はだんだんとイラついてくる。
こいつがどこの誰となんていちいち気にしたって仕方ねえだろ。コイツ自身のことなんだからよ。そう普段は心底思っているはずなんだが、どうやら今の俺は違うらしい。
「いいから。早く言えって」
ムキになってやんのーと口に手を当ててほざく妹の仕草が、どうにもムカつく。
押し黙ったまま促すとようやく桐乃は誰なのかを口にした。
「……あやせ」
「あ、あやせ?」
「そだよん。ここんとこ忙しかったから、たまにはデートしよってあやせとは約束してたもん。だから今日は二人だけでずっと一緒に遊んでたんだー」
「…………」
……んなこったろうと思ったよ。ケッ、あーあつまんねえオチだったぜ。
俺はひとり悪態をつきながらも、このつまんねえ話の締めくくりに安堵しかけた。
が、
「あんたアタシが男とデートしてるとことか想像しちゃったんだぁ」
ムスッとした俺の顔が気に入ったのか桐乃はなおも指差して俺のことをからかう。
「……普通そう思うのが当然だろ」
「ま、そだけどね~。――だって超カンペキなあたしに吊り合うような人ってなかなかいないじゃん? 友達と遊んでる方が楽しいし」
面白くもねえ話を吐き続ける桐乃は楽しそうだ。
俺は「ああそう」と素っ気なく興味ないと答えながら雨の音に集中するが、それでも桐乃は話すのをやめない。
どうやら俺に自分がいかにモテるか、どういう男じゃなければ相手にしないか語りたいらしい。
「でもぉ~アタシだったら超セレブとかでも引く手あまた? あやせんとこのパーティに呼ばれた時とかなんて、若くてかっこいいのにすっごい大きな会社の役員やってる人とかもいてさ。
 そういう人たちからも色々名刺も貰ったりして? 正直困るくらいなんだよねぇ」
ピチャリと濡れたアスファルトから靴に水が染みこんできて嫌な感触を伝えてくるが、俺は強く足を踏み込み、ボソリと妹の名を呼ばう。
「桐乃」
「お金あればいいってわけじゃないけど、人並み以上の甲斐性くらいは無くちゃ男は駄目よね」
「桐乃」
「あとなんといっても優しくなきゃ完全アウト。冷たい男とかマジありえないし暴力とか論外。そうそう、この前なんか街で、」
妹が口を動かして更に言葉を続けようとしたとき、
「黙れって。……るせえよ」
「……ッ……!?」
歩みを止めて、俺は低い声で唸るように桐乃の言葉を遮断した。
桐乃はビクリと固まって、笑みが消えた口は少し開いたままに、目を見開いて不安そうに俺を見つめている。
「…………俺にそういうつまんねえこと、話してくんな」
それだけ言って、俺はふいっと視線を桐乃の顔から外したが。
即座に後悔が胸の内から襲ってきた。
な、なに俺は、妹相手に凄んでんだよ? こいつは別に俺を罵倒して貶しているわけでもなく、ただ単におしゃべりしてただけじゃねえか。
それでも言い様の無い不快感が沸きあがって乱暴な言葉を吐いたことには変わりは無い。
「な、何よ。……怖い顔して。ば、ばっかじゃん……」
こわごわと俺への文句を紡ぐ桐乃へ向き直り、俺は素直に頭を下げて謝った。
「……わりい。いきなりキツい言い方してすまなかったよ」
「う、うん」

謝ったあと、また二人で雨の中を歩き出すが、気分は天気と同じ色に変わっちまっていた。
ぐっぎゃああああああああ! 桐乃の言うとおりだ。バカじゃねえの俺?
意味も無く空気悪くして息苦しくさせてんじゃねえっつうの!
居心地の悪さに包まれてしまっているが、桐乃も俺もお互いが居ない場所へ立ち去ることが出来ない。
俺と桐乃は二人、一つの傘に入って、まるで閉ざされている空間に縛り付けられているみたいだ。
なわけで、ここで取れる俺の選択肢は一つしかないってことだな。
「なあ桐乃よ」
「…………なに?」
「ゴメン! マジ悪かった! 許して、ね!?」
この気まずさを直すために取った俺の行動は、妹への全力平謝りだ。
情けないなんて思わないね、立ち直りの早さっつうか気持ちの切り替えやすさは俺の美点だ。現状取りあえず出来うる、最大限の努力をしてると自負しよう。
まぁ、自分でやっちゃたことへの尻拭いってだけの話なんだけどさ。
「超怖かったし。サイテー。バカ」
桐乃は半目で俺の方を睨んでくる。
「反省してる」
「……分かってんなら別に、いいけど。あんたの今の姿、なんか女の子傷つけてホイホイ謝っちゃうとことか、マンガとかにも良く出てくる最低DV男じゃん?」
痛いところついてきやがるな。
俺の心境もまさにそんな感じだから、後悔して素直に謝っているんだよ。
しかしそれを面と向かって言われてしまえば、悪いのは俺かもしんねえけど、けっこ傷つくんだぞ?
「どうせ俺はオマエがさっき言ってたようなのとは違うしな。セレブでもなきゃ優しくもねえよ。……ほっとけ」
少しふて腐れながら言い放つと桐乃はケラケラ笑いだした。
「ップハハ! あんたが怒ったのって――やっぱり嫉妬しちゃってたんだ! やだぁ、シスコンきんもぉ~~! ククク」
「は!? なわけねーだろ!」
「じゃ、どうして怒ってたってのよ?」
「そ、それは――」
自分でもなんであそこまで機嫌悪くなっちまったかなんて分からねえのに答えようが無かった。
「クスクスクス。正直に吐いちゃえば? 妹がデートしてると思って嫉妬したんでしょぉ~? んでアタシがモテんのが気に入らなかったんだ? 自分はモテないしねー。あ~かわいそ」
……答えようが無いと思ったけど、見つかったぜ。
なぜならクソ妹様が嘲弄する姿にと~ってもムカついたからだ。
「へっ、知るか。おまえが至近距離でやかましく、くっちゃべってたからじゃねーのぉ!」
「な! あんたの方がそばにいるんでしょ! 傘忘れて、捨てられたみたいに憐れにつっ立ってたのを拾ってあげた恩を忘れたの!? ありえないんですケドー!?」
「勝手に話作ってんじゃねえよ。オマエ俺が声かけたのにスタスタ歩いて行っちまいやがったくせに」
「え? アンタに声かけられたら誰だってそうするでしょ?」
「おい、やめろ! なに人を『常識知らないバカ人間』みたいに見てんの? 泣くぞ俺!?」
「泣けば?」
「…………グス。う゛わぁ~~~~~~ん、桐乃がいじめるよぉぉぉ!」
「ちょっ!? こ、このバカ兄貴! 大きい声出さないでよ! 本気で泣く、普通!?」
「ひぃぃぃぃん。乱暴で生意気で性格ブスなうえマル顔のクソ妹がいじめるぅぅぅ!」
「ぶっとばすわよクソ兄貴ぃぃぃぃぃッ!」
ドゴスッ! (←全力のニーキックがわき腹にヒットした)
「おぐぅぅ……。オ、オーケー妹よ、調子乗りすぎてた。もう大丈夫だから二発目を構えるのやめて!?」
「たくアンタはもう。フン! 次言ったらマジで殺すから! バーカ」
「はぁ~~。……あいよ」
殺されるのは勘弁だからな。
いつのまにか、さっきのような重い空気は霧散して消えて無くなって、代わりに俺と桐乃は自然に軽口を叩き合っていた。
そんなやりとりを続けながら、すっかり暗くなった雨が振り続ける道を、俺たちは歩く。そろそろ家も近い。
と、そのとき前方から一台の車が走ってくるのが見えた。かなり早いスピードだ。
桐乃は気に留めていないのか、俺に顔を向けて八重歯をのぞかせながら、ばーかばーかとまだ言っている。あぁうぜえ。
「だいたいアンタはさー。もっとアタシに優し――――、きゃッ!?」
桐乃の方が車に近かったので俺は腕を取って桐乃を引っ張り、体を入れ替える。
スピードが乗った車はそのまま真横を走り抜けていき、水溜りから大きく飛沫を俺たちに降りかけていった。
とっさに傘を突き出したが、俺の膝辺りから下はベショリと濡れてしまう。
「この大雨ん中、スピード出しすぎだっつうの。電柱にでもぶつかっちまえ」
くそ、ハイドロプレーニング現象なめんなよ? あ~あズボンが濡れちまったよ。

「あ……」
「ん? 桐乃、オマエもどっか濡れたか?」
「ふ、ふぇ!? え、あ……う、う、」
桐乃は目をぱちくりさせて何やらもごもごと唇を動かしている。
よく聞き取れないので顔を近づけてみると、
「ッ!? か、格好つけんな、ばぁか! キ、キモいのッ!」
「んな!?  Σ(゚Д゚;)」
突然耳元で桐乃が大声で叫んだので俺は思わずたたらを踏む。
「い、い――いつまで腕掴んでんのよ、変態! 放せっ!」
「おわっとと!? おま、落ち着け桐乃」
「は、放してよ! このバカ! スケベ! ――――ッ!?」
とまあ俺の体勢が崩れかけているところへ桐乃が両手で俺を押すもんだから? そのまま重心は屹立姿勢を維持する制御を失って、俺は今さっき雨中を飛ばしていた馬鹿が水を跳ね上げた水溜り方向へと腰から落ちていった。
泡を食ってしまっていたので、掴んでいた桐乃を放す信号を脳から送ることも出来ず、そのまま二人で一緒に……、
バシャ――――ン!
背中と腰から、じわぁと水が染み込んでくる嫌な感触。
とっさに傘を持っていた手で桐乃を支えたが、桐乃は俺の上で「あたた」と呻いている。
「お、おい。大丈夫か?」
「う、うん」
「なら、早くどいてくれ!」
今も服が水を吸ってどんどん重くなっていっているんだよ! めちゃくちゃ冷たくて寒いってッ!?
ようやく立ち上がったが、時既に遅しで俺はほぼズブ濡れ状態。
桐乃も雨に打たれてしまい俺ほどではないが悲惨な状況だ。まとまらないとクサしていた髪は雨でコーティングされて外灯の光に輝いて、ぽたぽたと水滴を落とす。
一瞬、艶やかな印象を受けて思わずドキリとしたが、直ぐに恨みがましく俺は桐乃に非難の声をあげた。
「おまえなー。いきなり押してくんなよな。見ろよこれぇ!」
うっええええええ! 背中から水を含んだ服がぴたぴた肌にひっついてきて、超気持ち悪いぃぃぃ!
「そっちこそ! あ、アンタが放さなかったから濡れちゃったじゃん。もーう、最悪!」
「だーから支えてやったじゃん。んだよ自分のことばっか」
「う、うるさい! アタシもう帰る!」
桐乃はそう言うと俺の手から離れていた傘を拾い上げ、さっさと歩き出した。
俺を置いてね。ひどくね!?
「チッ。待てって。ナチュラルに俺を置いていくんじゃねえ!」
「もう! 入ってくんな!」
「ヤダね。もしこれで風邪引いたらオマエのせいだかんな。はぁ~あ、買った雑誌も濡れちまったしよぉ」
へこむ。こんなことなら買いに行くんじゃ無かったぜ。
うなだれながら俺は水分を含んで重くなった服をなんとかしようと絞ってみるが、余り効果はなさそうだ。
「………………あの。ご、」
「桐乃、悪いんだけど俺やっぱ先に走って帰るわ」
家はもう近いし、走れば数分もかからない。妹の足に合わせているより、もういっそのこといち早く家にたどり着いて着替えた方が得策だと俺は決断した。
「んじゃな。オマエも早く帰って来ねえと風邪引いちまうかもしんねえぞ」
ぞわわと悪寒が走る体を腕で抱きながら桐乃にそう言いつけ、俺は傘を抜けダッシュで家へと戻っていった。
背後で小さく「……ばか」と呟き声が聞こえた気もするが、どうせ文句が言い足りないってダケだろうぜ。
その後、家に帰った俺はお袋に呆れられつつ、さっさと着替えを済ます。
数分後に帰ってきた桐乃も、風呂場に直行して、出てきたらさっぱりしてるようだった。
なんか雨に濡れちまったことをギャーギャー言ってくるかなぁと思っていたが、そんなことはなく食事中もいたって普通の態度。
ま、うるさくないから良いんだけどよ。
それから、寝ようと階段を上がる俺に「ねえ」と声をかけて来た。
「………………」なかなか次の言葉が出てこないが黙って待っていると、
「……マンガ、読んだら持って来て」
それだけ言って桐乃はリビングの方へ戻っていった。
へーいへい。
俺は心の中で適当に相槌を打って部屋に戻る。
寝る前に水に濡れてよれよれになってしまったマンガを少し読んでから、ベッドに入ってその日は終わりを迎え。
そして翌日、俺と桐乃は仲良く風邪を引いた――。

目が覚めた瞬間から妙に頭も体も重たかったんだよな。熱を測ってみたら、三十八度二分まで体温が上がっていてびっくりだぜ。
やっぱ昨日の雨に濡れちまったのが原因だと思われる。
あ~~~~~ぐぞぉぉ! 頭イデェよぉぉ。
病院に行こうかと思ったが、外は昨日から未明まで降っていた雨のせいで気温は大きく下がっている。
無理して病院へ行くより、風邪薬を飲んで静かに寝ていた方が良さそうだ。
お袋に風邪薬を持ってきてもらい、そこで桐乃も風邪を引いていることを聞いた。
なんだよ、あいつも結局風邪引いちまったのかよ、だらしねぇなぁ。
「あんたは傘忘れてったおバカさんだからしょうがないけど、あの子までねぇ」
うっせババア。
事情は話していなかったので、お袋は俺がうっかりと傘を忘れて、やむなく一人走って帰ってきたと思っている。まあ半分以上はその通りなんだが。
細かい経緯を説明したところで風邪を引いてんのに変わりは無いし、言葉を出す気力も無いので俺はゲホゲホと咳きを吐きつつ、再び眠りについた。
それからひとしきり時間が経って、次に目が覚めたのは、数時間後。
熱を測りなおしていないから正確には分からんが、朝よりはだいぶ下がったようで楽な感じを受ける。
俺はのそのそとベッドから起きだして、階段を下り、リビングへ向かった。
カチャリと扉を開けて中に入っていくと、桐乃を発見する。
パジャマ姿。おでこには冷却シートを貼り、部屋から持ってきたのか毛布に包まって、ソファに座りテレビを観ている。
観ているのは当然、アニメな。
「あれ? お袋は?」
「お昼くらいに出かけた。今日、お稽古事の集まりがあるって言ってた」
画面から目を離さずに桐乃が答える。
ふーん、だからオマエ堂々とここでアニメを観てられるってわけね。
「つーか。熱ある子供放っておいて出かけるか? 愛情ねえなー」
「違うって。アタシが行かせたの。子供じゃないんだし大丈夫だから行ってきてって。――楽しみにしてたっぽかったのに、自分の都合じゃないのに行けなくなっちゃうとか、可哀想じゃん」
「……あっそ」
お優しいこって。どーせ俺は親のことも考えてあげられない子供ですよっと。
「体調の方も、もう良くなってきてるしね」
あんま大丈夫そうな格好には見えねえが、アニメ鑑賞するくらいには良いんだろう。
「なぁ、飯とか食ったか?」
少し腹が減ってるから、何か食いてぇんだけどなー。
問いかけながら俺は椅子に座って、食事をするテーブルに倒れこむようにして上半身をくっつける。
う~~、冷た気持ちいい。
「……お粥あるから、それ食べた」
なんだあんのか。顔をずらしてコンロの方を向くと鍋があったのでそれだろう。
俺が立ち上がってコンロの方に行こうとすると、
「あっためてあげる。……待ってて」桐乃はリビングからキッチンに入ってきながら予想だにしなかった言葉を口にした。
「ぅぇぁ?」
思わず意味不明な声をあげてしまう。
「何よ? ……食べたくないの?」
「いや、食うけど……」
「じゃあ、大人しくそこに座ってなさいよ」
桐乃はすげなく言いながら、コンロの火をつけてお粥の入った鍋を温めだす。
おかしい。桐乃のやつがおかしい。どういうつもりだコイツ?
妙に優しい態度に俺はとまどうが、頭の痛さとダルさから、桐乃の行動に納得いく答えを見出せないまま、言うとおり席につく。
コトコトと音を立ててお粥が温まっていく間、俺は手持ち無沙汰に、キッチンに立つ桐乃の後姿を眺めることにした。
髪は整えておらず、若干寝癖がついて、いつものハネッ毛がさらにハネていた。まあこれは……、俺もだが。
いつもは身だしなみをきっちりとしているコイツの油断した姿を見ているようで、どこか微笑ましい。
あと、料理をあまりしない桐乃がキッチンに立っている姿は、新鮮味と不思議な気持ちがない交ぜになって、風邪で機能がダウンしている俺の頭に心地よく響いた。
なんかこういうのも、割と良いもんだな。
思わず、にへらぁと口元が緩む。

「不気味に笑って見られんの、キモいんだけど……」
ふいに俺の方へと顔を向けた桐乃が冷めた目で言ってきた。
「ッ!」
おまえが似合わんことするからじゃねえかよ、ケッ。
バツの悪さに顔をそらす。
ただ、やっぱせっかくの妹の珍しい光景だし? もうちっとは見ておいても良いかもしれない。と、顔を戻して再び桐乃をすがめ見ると、
「……っ? お、おい。大丈夫か」
両手をカウンターのふちについて桐乃は頭を下げてうなだれていた。
「平気だって。ずっと横になってて起き上がっちゃったから、ちょっと立ち眩みしただけだし。――お粥、もう温めなおしたから、座って待ってて」
ふぅと軽い息を吐いて俺を制すが、どうにも弱々しい雰囲気だ。鍋を持つ手も震えていて、見ているこっちがはらはらしてしまう。
「おま、もういいから休んで寝てろって。俺が食うもんなんだしよ」
桐乃に近づいて、後は俺がすると手を伸ばそうとしたが、また「あたしがやるからッ」と制された。
何をこいつはムキになってんだよ。ワケがわかんねえぞ? 普段はぞんざいに俺をアゴで使って自分はお姫様然としているくせによ。
おまえも風邪引いてんだろうが。
体力落ちてんだったら危なっかしいことはよせってえの。
「ほら、さっさと座っててよ! 持っていくから」
なかばキレ気味な声で桐乃は俺をブンブンと手振りで追いやる。
「分かった分かった。なんでもいいから早くしてくれ」
「なにそれ、ムカつく」
どうして素直に言うこと聞いてるのにムカつかれなきゃならないんでしょうかねぇ?
ああ頭イテ~~、ぼうっとする。
熱を出した体じゃ突っ込みを入れる元気も起きてこねえよ。
肩をすくめて席に座りなおすと、桐乃は棚から俺の茶碗を取り出して鍋と一緒に持ってきた。
どういう気かは知らねえけど、食事の世話をしたらしい桐乃に内心どこか高揚する俺。
へっ。
なんか魂胆でもあんのかもだが、ぶっちゃけ悪い気はしねえからな。
ダルい体を椅子にもたれさせて桐乃が用意してくれるのを待つ。だが、桐乃の次の行動で俺はまた椅子から体を起こすハメになった。
「おいおいおい。あ、アブねえぞ!?」
「だ、大丈夫だから!」
どうしてこんなことやってんのか、桐乃もやっぱ熱で頭が働いてないんじゃねえのか?
鍋の中の粥を茶碗へそのままダイレクトに移そうとしてるよこのバカ妹!
片手で茶碗を支えて、もう片方で鍋を持っているが、それが重いのか明らかにプルプルと腕が震えている。
イヤな予感しかしなかったね。んで妹へ感じた予感ってやつは大抵の場合、高確率で当たっちまう。
「桐乃! お、おタマ使え――、」
俺が発した言葉を言い終わらぬうちに桐乃は鍋を持つ手の力がユルんだのか、傾き加減を間違えたのか。
今々、コンロで温め直されたばかりのお粥がどばぁっとテーブルへとこぼれ、
「――熱ッ!?」
反射的に伸ばしていた俺の手にかかっちまった。
「…………あ、あ。……あんた……」
俺がとっさに払った手を押さえながら、桐乃は気が抜けたような声をだしている。
何か言ってやりたいと思ったが台詞が出てこず、俺はとりあえず火傷になるといかんので、水道の蛇口をひねって手を冷やした。
冷水が手を覆って流れていくと、熱もそれに委ねられて一緒にシンクへと落ちていく。
そこまでたいした熱さじゃなかったから火傷にはなりそうにないな。
もうちょいだけ冷やしときゃ大丈夫だろう。やれやれだぜ。
「……だいじょう…ぶ、なの……?」
呟くような声が背中からかかる。
「ああ、どうにかな。おまえの方は?」
「ん。……どこも」
火傷を負ったところは無かったらしい。
安心と同時に軽い怒りが沸いたが俺は黙って手を水に当て続け、その後ろで桐乃はテーブルにこぼれたお粥を拭いて、後始末をもくもくとやっているようだった。

そろそろ良いだろ。と蛇口を閉めて手を確認したら、うっすらと赤色に変色している。
ちぃとだけジンと痛みがあっけど、気にしなきゃ知覚しねえ程度のもんだ。
こっちより頭の痛みの方がよっぽど早く治ってほしいね。
シンクから顔をあげてテーブルの様子を見ると、すっかり片付け終わって、茶碗にはお粥が新しく盛られている。桐乃が用意したものだ。
席について、
「これ、食べていいのか?」
桐乃はコクンと頷いて「手、見せて」と言う。
手の色を見てから少し眉をしかめて、冷蔵庫から保冷剤(あの中身がジュルジュルしてるやつ)を持ってきて隣の席へ座る。
次いで、俺の手を引っ張って、持ってきたそれを静かに当てた。
「痛くない?」短い問い。
「――――え? ん……あ、ああ。あんまり当てられ続けっと、逆に、冷たすぎるくらい……っす」
「そ」短い応答。
保冷剤で冷やし過ぎないようにと、優しい手つきで火傷しかけた箇所を丁寧に撫ぜる桐乃は、何か溢れてきそうなものを必死に我慢しているようにも見える。
食事は用意するわ、こんな介護みたいなことをするわ。それに、なんだかすげえ哀しそうにも見える。
――ど、どうしたんだコイツ!? 変なものでも食ったのか? このお粥に怪しい薬物でも混入していたとか?
スプーンですくって口に運ぶが、味はたいして分からない。塩をもうちょっと入れて欲しいくらいで、見るからに変哲もないお粥だが、俺は半ば本気で変なモンが入ってんのかと疑った。
「おまえ、風邪で頭どうかしたんじゃねえのか?」
だってこんな俺の乱暴な問いに対しても、
「……バカじゃん」
覇気の無い、か細い声を口にするだけ。
思わぬ献身的な対応を俺は信じられないもののように見ていた。
やがて俺は粥を食い終わるが、桐乃はまだ俺の手を熱心に保冷剤で冷やしたり撫でたりしている。
「もういいって」
ぶんぶんぶん。
まるで駄々っ子のように頭を振って俺の言うことなど聞かない。
つか、充分冷やしてくれたんで既に痛みなんて無いってーのにさ。
それでも桐乃は必死で、真剣で、それを俺は止める術が無いかのように、しばし桐乃の行為に身を任せた。
いつ雨が降るのか降らないのか、昨日ちょうど家を出る前に仰いだ空のような微妙な空気の中、俺たちは会話をする。
「桐乃。オマエやっぱりまだ熱があんだろ?」
「無いし」
「嘘つくなよ。さっきだって少しフラついてたからこぼしちまったんじゃねーのかよ」
「………………ちょっと前に測ったら……七度一分だったし」
微妙なラインだな。
微熱と言えそうも無いくらいの微熱だが、
「風邪は風邪じゃねえか。治りかけなんだから慣れねえことしてねえでソファで寝ッ転がってろよ」
暗に俺はもういいからってことを含めたつもりなんだが、桐乃にはうまく伝わることがなく。
「るさい、シスコン。……可愛い妹が手当てしてやってんのに、なにが不満なわけ?」
ぼそぼそとしゃべって顔をさっきよりも俯かせてしまった。
ほとほと困り果てる俺。
だってそうだろ? 普通だったらもっとこう元気があるというか、噛み付いてくるというか俺の意思なんて蹴っ飛ばすくらいの勢いなのに……。
俺は桐乃の顔を見つめた。
こっちの方が罵倒する言葉を辛辣に吐いてくることも無く、普段より全然可愛い。だが俺はどこかで、こんな桐乃は可愛くねーよとも思っている。
チッ。未だにガンガン不快な音が頭の中で鳴り響いていて俺の風邪は治っていない。
きっとそのせいで意味の分かんねえこと考えちまってんだろうぜ。
じゃねえと俺は普段から桐乃のことを――。

「………………」
少し会話が途切れたタイミングで、俺は手を引いた。
「おかげで痛くなくなったよ。ありがとな」
「ん」
「粥も美味かった」
「アタシが作ったんじゃ……ないけど」
いじけてしまっているような桐乃のすげない台詞。表情も相変わらず暗いままだ。
少し溶けて、柔らかくなった保冷剤を指の腹なんかで陰気にツツいてやがる。
……ほ~~う、桐乃。テメェいつまでそんな態度してるつもりだ? お、こら?
だんだんと我慢がならなくなってきたぜ。
妹がどうしてこんな落ち込んでいるのか分からないが、それを黙っているような性格を俺はしていないからな。
今までもそうだった。世話を焼いたり、メチャクチャな要求に涙を飲んできたのは――、〝そういう顔〟をさせるためじゃねえんだよ!
ベシッ!
「あイタッ!?」
いつもとは逆だ。
桐乃が怒って俺に手を出すんじゃなく、俺が怒って桐乃へ手を出した。
俯いちまっている頭にチョップを叩き込んだら桐乃は驚いたように俺を見てくる。
「似あわねー真似してんじゃねえよ桐乃。いつもいつもクソ生意気な態度見せてやがんのに、なんだその体たらくは?」
「な? ……は、はぁ!?」
「はあ? じゃねえよ。さっきからその態度はどうなんだって言ってんだよ! おまえが落ち込むのなんざしょっちゅうだけどなあ、だが俺を目の前にしてそんな顔されてっと我慢がならねえんだよ!
 風邪で弱っちまったからかどうか知んねえけど、なんだってそんな風になっちまってるんだ!? おら、聞いてやっからさっさと俺に話してみやがれ! そんなんなっちまってる原因をよ!」
俺はそれだけ一気にまくし立てて最後に――「ケッ、シスコンなめんな!」――とふんぞり返った。
ケホケホッと蛇足で咳きが出て、いまいちシマらなかったのが俺らしい。
そんな俺の顔を桐乃は呆けたようにのぞき込んでいる。
そして次に表情を変えたときは、さっきまでの消沈しているような気配は無くなって……、
「キモ! キモキモ! このシスコン! 妹に手をあげるとかマジさいてーッ!」
「あー、そりゃ悪うござんしたね~え」
「こ、こんのぉぉぉ――ッ! ムカつくムカつく、……ムカつくッ!」
俺に叩かれた頭をさすりながら対兄貴用に特化してるんじゃねえかみたいな感のあるお決まりの常套句を連呼して。
桐乃はいつもの可愛げない、クソ生意気な妹様へと戻っていた。
俺が望んだように……。

――十数分後。
俺たちはリビングのソファに座って話を続けていた。
「おー痛て。――おまえなぁ、百回も叩き返すとかありえなくね!? しかもきっかり回数かぞえて。どんだけ執念深いんだよ」
「るさい! かよわい女の子に手を出したアンタが悪いんだかんね。これで勘弁してあげてんのをむしろ感謝しなさい」
「手を出すって……。そんなエロいことした憶えねーよ。……かよわくねえし」
「あ゛あ゛? なんか言ったアンタ!」
「なんでもないから噛み付こうと八重歯見せてくんな!? 怖いから!」
ったく元気になったかと思えばこの勢いだよ。やっぱもう少し大人しい方が可愛いげがあって良いんじゃねえの?
自分のしたことに、ほんのちょっとだけ後悔。
苦笑を漏らしつつ、俺は桐乃に聞きそびれていた本題を切り出した。
「で? 桐乃、どうなんだよ?」
「何が?」
「だからさ、おまえが落ち込んでたのって、どうしてなんだ?」
「む……」
理由を聞くとクッションを胸に抱いて口ごもり、恨めしそうに桐乃は俺の顔を睨んできた。
「話してみろよ。さっきも言ったが聞くまではそばを離れねえかんな。俺に解決できる悩みかは知んねえけど、それでも、」
「一度っ……だけだからね!」
桐乃が言葉を遮った。
俺の方を見据えて下唇を押し上げてとても複雑な顔をしている。
「一度、だけ言うから……。ちゃんと聞かなきゃ……殺すから」
「あ、ああ」
緊張しているのか、決意を秘めた目は潤んで顔も若干赤い。
それが熱の為だけじゃないのはなんとなく理解できた。伝染するように俺へも緊張は伝わり、胸がドキドキする。
桐乃は何を言う気なのだろう。
すーはーすーはー。
深い息を二度ほどついて、桐乃は口を開いた。
「ご、ごめんなさい! 昨日、突き飛ばして風邪引かせちゃって!」
「!」
クッションを抱え持ったまま俺に頭をさげる桐乃。
桐乃の言葉が瞬間豪雨のように降り注ぎ、心臓が一瞬止まったかのような錯覚を覚える俺。
「そのこと気にしていたのか、おまえ」
あんま凄いことが起こると逆に流暢に口が動くモンなんだな。
「だってアンタ、『風邪引いたらオマエのせいだ』って言ってたし、あたしもそうだと思ったから……」
「にしたってあそこまで落ち込むなんてよ」
「そ、そんな落ち込んでないけどッ! …………でも反省はしてる。お粥こぼしちゃったのも、風邪ほとんど治ってたから油断してたせいだし。それで……火傷させちゃったし」
「………………」
だからか。
俺が風邪引いたのも火傷を負いかけたのも自分のせいだと考えて。
その通りと言えなくも無いのかも知れねえけど、そうなるように行動しちまったのは俺の選択だ。
なのにコイツは誰よりも責任感が強いから。
風邪で弱った心と体に、その二つが強く圧し掛かったように感じちまったんだろうか?

……バカ桐乃め。
俺はさとすように桐乃に言ってやった。
「いいって。誰のせいってもんでもないだろ。さかのぼれば俺が傘忘れなかったらよ、オマエだって風邪引いちまうこともねえんだから。俺の責任って言えなくもないだろ?」
「そうだね」
肯定しやがった!?
そこは『ううん、違うのアタシが悪いの』とか言うもんじゃねえの――!?
しょぼくれてても、こんな殊勝な態度に出ててもやっぱ桐乃は桐乃だなぁ、なんか安心したよチクショー!
「でも、今回は。アタシの責任ってことで、いい」
再度自分に非があると告げて、それから桐乃は拗ねたように、
「…………謝ったからね? もう言わないから!」とクッションに口を隠しながら言い終えた。
最初は耳朶に響いた桐乃の言葉に心底驚いたが…………、そっか。オマエ俺のこと、心配してくれてたんだな。
俺は力なく「分かったよ」と答えて、なんとなく口の端を緩めてしまう。
後から考えるに、きっと桐乃の言葉というか俺に対する気持ちに、こそばゆく感じちまってたんだろうぜ。
「なにニヤけてんの? キモ」
「うっせ」
風邪はまだ治っていないはずだが、妙に心地良く。
俺は妹としばらく雑談を交わすことにした。
「そういやオマエ、薬はちゃんと飲んだのか? 熱も七度一分とか言っていたけど、ベッド抜け出してずっとここにいたんじゃねえだろうな?」
「子供扱いしないでよね。ちゃんと飲んだもん。――そういうあんたこそどうなのよ?」
「……そういや、俺どうなんだろ?」
朝よりは良くなってはいると思うんだけどなー。熱測ってないから分かんねえや。
「は~。自己管理出来て無いのはどっちよ。ちょっと待ってて」
桐乃はそう言うと戸棚から体温計を持ってきて「はい」と手渡してくる。受け取って耳に当てて測る。ピピッと音が鳴って液晶の数字を確認してみると、
「七度四分か。まぁまぁ下がってきたな」
「アンタ最初はどれくらいだったの?」
「八度くらいだっけかな? おまえは?」
「七度八分……」
「へっ。勝ったな」
「どうして勝ち負けになっちゃうのよ、熱で頭が沸いちゃって変になっちゃってんじゃん?」
桐乃はおかしそうに笑んで、俺から体温計を受け取り元の場所に戻した。
ついでに冷蔵庫からヨーグルトを二つ持ってくる。
「はい」とフタまで開けてくれて俺に差し出す。
「サンキュー」礼を言って受け取る俺。
なんだろうねコレ。
本当に熱のせいで変になっちまってんのか、俺と桐乃はいつもよりもずっと、なんというか、素直に会話をしていた。
と、テーブルに置かれていたBlu-rayのパッケージが目に入った。
「ところでオマエさ、なんのアニメ観てたんだ?」
「今年の夏公開だったやつ。昨日買ってきたから」
「ふぅん。…………おもしれえの?」
「なに? 観たいの?」
頬を掻きながら首肯した。
「へー、珍しい。んじゃあ途中まで観たけどアタシももう一回観たいし、最初っから再生してあげる。ふふん~、言っとくけど作画チョー良いから!」
桐乃は俺が興味を示したのがご満悦なのか、ニヤっと得意そうに口角をあげて、リモコンを操作してアニメ上映を開始する。
風邪を治すにゃあ、そろそろ自分の部屋へ戻って布団被って、もう一眠りするのが良いのだろうが。
もう少し、このアニメが終わるくらいまでは……、ここで妹とだべっててもいいんじゃねえかな?
だってよ、なんか、なんとなく、もったいない気がするんだよ。
「ほらぁ。いつまでもヨーグルト食べてないで。始まるよ? オープニングもカッワイイしカッコいんだからねっ」
「わーったよ」
そして俺たちはリビングで二人、ソファに座ってアニメ鑑賞を始めた。

テレビ画面に展開されていく物語を追いつつ、時折、途切れ途切れに短い会話を挟んでいたが、時間が経つにつれてそれも減っていき。
そして俺は、いつの間にか眠っていたらしい――。
「…………ん、んん」
目が覚めて薄ぼんやりとした視界がひらける。
窓の外から夕陽の茜色が陽炎のように差し込んで部屋を染めていた。
えっ…と……。ここって?
見慣れたどうってことのないリビングのはずだが、どこか穏やかで暖かい静謐を湛えている場所に迷い込んだような錯誤を覚える。
長いこと寝ちまったようで感覚がブレてんのかも。
と。
カチ、カチと音がしているのに気がつく。
顔は動かさないまま目だけを向けると、桐乃がソファに座ってノーパソをいじっているのが見えた。
俺が起きたことに気付いたようで、チラリとこっちを見、そしてまたディスプレイに視線を戻す。
「あれ? アニメ、もう、終わっちまったのか……」
「とっくだって。あんた半分も観終わらないうちに眠ってんだもん」
時計を見ると確かに映画一本余裕で観終わるくらいに針が進んでいた。
「……そか、悪い。また今度、観せてくれ」
「別に気にしてないし」
すげなく答えながらマウスをクリックしている桐乃。
言葉の額面通り本当に気にしていないのか、それともやっぱり途中で寝ちまった俺に怒っているのか、どっちなんだろうな。
小さくあくびのような息を吐きながら俺はまた目をつむりそうになった。
やけに気持ち良く。そこで初めて、肩までしっかりと布団がかけられて全身が暖かく包まれていることに気がついた。
リビングも暖房が保たれており部屋全体が暖かい。
まだ覚めきらないぼうっとした頭をかかえたまま、俺はぽつりと桐乃に問うた。
「これ、おまえが?」
注意深くなければ気付かないほどの仕草で桐乃は頷く。
更になんとなく額に手をやり、「ん?」貼っついていたもの取って見ると、熱冷まし用の冷却シートだった。
「えっと、これも?」
「……こんなとこで寝てたんじゃ、また風邪悪くするじゃん。それでアタシにうつされたって困るんだけど」
抑揚の無い声で相変わらず俺の方を見ないで興味なさげにしているが。
………………そっか。………………そっか。一度、二度と俺は静かに頷いた。
目が覚めたときに暖かいと感じた原因は布団や暖房だけじゃ無かったようだ。
寝ている俺に布団を持ってきてかけるのも、熱冷ましのシートを貼るのも、……そんでアニメ観終わっても部屋に戻らず、ここにノーパソ持ってきてんのも。
桐乃がそんなことする理由は。
いや、どうしてだなんていちいち考えんのはもういいだろ。
似合わない行動なんてのは十分承知してんだ。俺も……桐乃も……。
それでもというなら、全部風邪のせいにでもしといてくれよ。なんなら昨日の雨に濡れちまったせいでも、俺が傘を忘れたせいでも。
理由付けなんてどうでもいいさ。
とにかく俺は手を差し伸べる。逆光となっている夕陽を介したままじゃ、桐乃の顔は見づらいから。

「桐乃。ちょっと、こっち来い」
呼ぶと桐乃は「偉そうに命令すんな」と呟いたが、ノーパソのディスプレイから目を離して、俺のそばへきてくれた。
ゆっくりと伸ばした手で桐乃の頭に触れる。
柔らかい髪の毛の感触が手に伝わった。
「……っ!? な、な。……や、やめてよ……、あたしのこと……バカにしてんの?」
「するわけねえだろ」
頭を撫でると、指と指の間から髪の毛がクシャリクシャリとゆるやかな音を出す。
「おかげでだいぶ楽になったよ」
俺は桐乃の顔を見つめて言った。
自然と口をついて出たのは感謝の言葉だった。
桐乃もイヤそうなことを口にしたが手を払い落すこともなく、俺の目を見て。やがて静かに、「…………うん」と囁いた。
少し嬉しそうに微笑んで、首肯する桐乃。
髪留めをしていないので、前髪が垂れていつもより大人しい印象を受ける。
「オマエの方は。熱、ちゃんと下がったのか?」
俺は頭を撫でていた手を滑らして、そんな桐乃の前髪をかきあげ、額に手を置いた。
すると桐乃も俺の額に手を伸ばしてきて、
「そっちこそ。まだ残ってるんじゃない?」
お互いがお互いの額に手を当てて、なにか大切な約束事を交わして誓いを立てているように相手の熱を感じる。
正確にどれくらいの時間かは分からないが、俺たちはしばらくそのままの姿勢でいた。
「昨日、傘入れてくれてありがとな」
もっと何か話すべきことがあるように思えたが、俺は昨日のちょっとしたことに対して桐乃に礼を述べた。
「おかげで、風邪引いちゃったじゃん。……ばか」
「はは、そうだな」
しかも兄妹仲良く二人してだ。
仲の悪い兄妹である俺と桐乃はつまらないことに関してはずいぶんと相性が合うんじゃねえの?
そう、今の俺と桐乃もきっとそのつまらないことの延長なんだろう。
なんて変なことを考えていると、桐乃が心を読んだように言う。
「変なこと考えてんじゃないっつの」
「すまん」
「……ばか」
どうバカなんだろうな俺って。
二つの音をつないだ罵倒の言葉だが、桐乃が俺に言うに限って、それは様々な意味を持つ。この先も、その意味を言い当てることに俺は苦労すんのかね? それでもいいと、俺は〝ばか〟なことを考える。
一人苦笑していると、桐乃が「ねえ」と幽かな声で俺を呼んだ。
少しの沈黙があって。
あのね、と桐乃は言葉を紡いだ。
「さっき、ね。言いそびれたんだけど。昨日、車から護ってくれたの……ちゃんと分かってるから。あと、お粥こぼしたときもかばってくれて。……兄貴が、優しくしてくれてんの、けっこう……その、いつも――」
たどたどしく言葉を紡ぎ、薄藍が混じる瞳を揺らめくように彷徨わせてはいても、それでも最後は俺をしっかりと見て、

――「いつも。う、嬉しかったり……してる、から」

……桐乃の顔を、俺はどんな顔で見ているんだろうな。
また沈黙が俺と桐乃の間に横たわりかけたが、かろうじて「そか」となんとかそれだけを口にした。
「じゃ、じゃあ。アタシ、もう部屋に戻るね」
桐乃は照れくさそうに顔を赤らめて俺の額から手を放し、ソファを立ってリビングを出ていく。
なんか言わねえと。
そう思ったが結局俺は桐乃の後姿を黙って見送り、階段をトントンと小気味良く上がっていく音を聴きながら、胸へと響いた桐乃の言葉を反芻していた――。

桐乃がリビングから去って少ししてから、俺もそろそろ部屋に戻ることにした。
頭痛も発汗も収まり、風邪はほぼ治っていると言える。
はは、気持ちよく寝れたおかげかもな。
布団を持って戻ろうとすると、テーブルの上にノーパソが残っていることに気がつく。
「桐乃のヤツ忘れていきやがったのか」
まぁあとで取りに来るつもりだったのかもしんねえけど。しょうがねえ、届けてやるか。
今日は色々と世話をしてもらったことだしな。
手にノーパソを抱えて階段を上がり、妹の部屋の前までやってくる。
そこで、さっきまでのやりとりが脳裏をよぎって俺はなんだか気恥ずかしくなった。
あらためて考えると……、かなり恥ずかしいことをしてたんじゃねえの!? お互いにおでこに手を当てあってさ。
白昼夢でも見ているような時間だった。
ただ、それでも桐乃と交わした言葉は、幻でもなんでもなく確かに俺の胸へと残っている。
だからってわけでもねえけどノーパソを届けるついでに、ややタイミングを逃してこっ恥ずかしいが、さっき桐乃がリビングを出て行ったときに言えなかった言葉を、俺は言おう思う。
カァっと頬が熱くなってくる。胸がドキドキもして落ち着かない。
ハ、緊張とかじゃねえって!
きっとまだ完璧に治ってなくて、体調も頭の働きも本調子じゃないんだと思うぜ?
だってさ……、

ガチャリ

ノックすんの忘れてたくらいなんだもん。
「へ?」「え?」
目の前に桐乃が居た。まーいるよね。部屋戻るって言ってたんだから。
ただ事態はそれだけじゃ無かったわけだ。
いや、俺がノックを忘れたのも悪いんだけどさー、桐乃だって鍵かけ忘れてたわけなんだよな? 見られたくねえなら鍵をちゃんとかけとけばいいんだよ。そう思うだろ?
今さら言ってもしゃあねえかもだけど。
桐乃のやつは風邪で汗かいたんで、下着を替えようとでもしたんだろう。俺も実はけっこう汗掻いててノーパソ届けた後に体でも拭こうと思ってたし。
で、桐乃が腕を交差させて服を脱いでいるまさにその瞬間、俺がドアを開けたんだな。
あ~~。ん。まぁ、簡単に言うとだな…………。
妹の着替えシーン、ばっちり覗いちゃったゼ?(キラッ☆)
「あ、あああ、アンタ………あ、アンタ…………」
ヒクヒクと口の端を持ち上げつつ俺を呼ぶ桐乃は、風邪でもここまでならんだろうってくらい顔を紅潮させていく。
目尻からは早くも兄が妹に課した羞恥に対して涙が溢れつつある。
や、やべえええええ!? こ、こここれはヤバイ!?
どうしよう! どうすればいい?
動転してしまって混乱しかけたが、俺はここに来た目的を思い出した。
ノーパソを届ける。
それと……、それと桐乃が俺へ示してくれた気持ちに対する返答を聞かせるために、俺は妹の部屋へ来たんだと。
そ、そうだよ。それを言わなきゃ! 言わなきゃいけねえだろ!?
聞け、桐乃! これが俺の気持ちだ! 嬉しいって言ってくれたことへの飾ることが無い返事だ! 聞いてくれ、俺の素直な言葉をよ――――――ッ!
俺は親指を立てて桐乃に言い放った。

「あ、あの。――俺も嬉しいぜ。桐乃?」

………………………………なんか違くね!?
これだと俺は桐乃のハ、ハダカ覗いちゃって喜んじゃってるみたいじゃね!?
マズイ、非情にマズイ。
俺はこれまでの経験則から危険信号を感じ取り、とにかく一刻も早くこの場を離れることにした。
もう手遅れかもしんねえけど。
「き、桐乃ちゃん。ノーパソ。ここに置いとくからね? そ、それじゃあね?」
ノーパソを床にそっと置いてから俺はドアをパタンと静かに閉めた。
ガタガタガタガタガタガタガタガタ。
震える全身をなんとか動かして逃避行が始まる。
自分の部屋はダメだ! カギかからねえから直ぐに処刑される。
一階へ降りていき、どこへ逃げこむか考えようとした矢先、ドガン! と二階から轟音。
たぶん俺の部屋のドアが昇天っちまったんだと思う。さらば、オマエのことは忘れない。
って、んなことよりも!? やべー、やべーよ俺。まだ死にたくねえよ~~!?
すぐにドンドンドンと階段を下りてくる恐ろしい存在を感じ、俺は脱兎のごとくその場を離れ。
逃げ込んだ先は、風呂場だった。
お湯がたまっていない浴槽へ逃げ込みフタをして、恐怖から逃れるように耳を塞ぐ。
ドキドキ、ドキドキ。
一分、三分、五分………………。
「に、逃げ切ったか?」
外へと逃げたと勘違いでもしてくれたんだろうか?
俺はおそるおそる浴槽のフタを静かに開け、
「……なんでそういっつもいっつもアンタは、アンタはぁぁぁ~~~~………!」
阿修羅と目が合った。
真っ赤に染まりきって憤怒の形相で俺を見下ろし、手にハンドシャワーを持っている。
「待て! 桐乃! おま、それをどうする気だ!? 病み上がりの人間に何を!?」
答えが返ってくることは無く。
俺は自らの袋小路となってしまった浴槽の中で煩悶しながら、あのリビングでのやり取りはやっぱり夢か幻だったんじゃねえの? と考えていた。
シャワーはもちろん、冷水だったよ……。

――数日後。
図書館で勉強をした帰り。
俺は家路の途中、コンビニに寄って買い物をしていた。
レジで会計を済ませてからドアをくぐると、そこで空の様子に気がつく。
「あーあ、またかよ」
鈍色の空からはパラパラとした時雨が落ちてきていた。
ここんとこ雨が多くねえ? 寒いんだから、勘弁してほしいぜ。
白い色のため息をつきながら、コンビニで買ったペットボトルをバッグの中に放りこんで、がさがさしていると、
「……?」
目の前に傘が差し出される。
ゆっくりと顔を上げる俺。
綺麗で長く伸びた足と均整のとれた体つき、そして遠目でもわかるライトブラウンの明るい髪と、ちょいと気が強そうに俺を睨んでくる整った顔立ち。
俺は傘を差し出しているそいつの名を呼ぶ。そいつ――すなわち俺の妹の名を。
「桐乃」
……おまえ、なんでここにいんの?
いきなり妹の桐乃が目の前に現われたことに少し戸惑うが、すぐに理由をしゃべってくれた。
「あんたまた傘忘れたの? たく。帰ってたらな~んか冴えない顔があると思ったら。朝からテレビでも降るっつってたじゃん」
「え? あ、ああ。――そう、だな」
「はぁ~~~~、ほんと世話を焼かせないでよね」
なるほど。この前と同じように、どうやら桐乃もどこかへ出かけていた帰りらしいぜ。
ただ、そんときと違うのは俺を見つけて、んで雨も降っているから……、
「ほら。帰るよ」
桐乃は照れているのか怒っているの分からない表情で俺を上目づかいで見上げ、くるりと振り返って歩き出す。
「あ、えと」
「なにやってんの? 置いてくよ」
…………へっ。置いていかれたらたまらんな。
「おう。待ってくれって」
駆け寄り、傘の中へと入る。
「いや~~助かった。さすが俺の妹」
「うわぁ~~なんかそれヤダ。せめてさすが俺のご主人様じゃないとぉ」
「俺はオマエの召使いになった憶えはねぇよ!」
「ん~。じゃあさー、」
「じゃあもなんもねえ――ッ!」
「もぉ、文句言ってないでさっさと傘持って。入れたげんだからそれくらいしなさい」
「……へいへい。了解しました」
ほんと可愛くねえ妹だこと。
笑いながら傘を受け取り、そして俺と桐乃は、雨の中を歩き出す。

そうそう、この前と違うことがもう一つあったわ。
傘は忘れたわけじゃ無く、
俺はバッグの中の折り畳み傘を使う気がなくなったってことだ――。



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最終更新:2010年11月19日 23:26
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