さすがに家事をあやせに全部任せるのは気がひけたので、風呂掃除をすることにした。
浴槽に上半身を突っ込みスポンジで擦っていると、背後から声がかかった。
「おにいちゃん、なにしてるの~?」
振り返ると、桐乃が興味津々という顔で俺を見ていた。俺は掃除を再開しながら答えた。
「お風呂を綺麗にしているんだよ。綺麗なお風呂でサッパリした方が気持ちいいだろ?」
「うん!そうだね!」
「…っと、後は洗剤を水で流して終了だな」
桐乃に悪気はなかったのだろう。俺の手伝いがしたかったにすぎない。ただ不幸だったのは、桐乃はシャワーノズルをフックから外さないで蛇口を捻った事、そしてノズルが俺の方を向いていた事だった…。
「あ……あぅ………」
桐乃は自分のしでかした事に狼狽していた。
「…桐乃」
「ひぅっ…」
恐らく叱られると思ったのだろう、桐乃はギュッと目をつぶり首を竦めていた。俺は桐乃に尋ねた。
「濡れなかったか?」
桐乃は恐る恐る目を開き俺の様子を伺ってきた。
「うん…大丈夫…。おにいちゃん、怒ってないの?」
「なんでだよ。桐乃は俺を手伝おうとしたんだろ?」
桐乃はコクリと頷く。
「だったら怒る理由はないな。ちょっと失敗しちゃったけど、次からはどうすればいいかわかるよな?」
「うん!」
桐乃は元気一杯に頷いた。
「ここはもういいからテレビでも見てろよ。俺もここを片付けてから行くから」
「うん。でも…、そうだ!」
そう叫ぶなり桐乃は風呂場を飛び出していった。この間に掃除をさっさと済ませる事にする。シャワーを使い洗剤を流して終了、っと。
さて…この濡れネズミな有様をどうしようか。さすがに服を脱いで、バスタオルを腰に巻いて部屋に着替えに行くのはマズイよな…。万が一
あやせに見られた日には…俺の身が危険だ。
途方に暮れていると、パタパタという足音共に桐乃が駆け込んできた。
「おにいちゃん、これ!」桐乃は、俺のTシャツとパンツ、それにズボンを抱えていた。ナイス桐乃!
「サンキュー!助かったよ」
俺はごく自然に桐乃の頭を撫でていた。桐乃は、まるで飼い猫が撫でられているときのように、気持ちよさそうに目を細めている。そして
「えへへ~、どーいたしまして」
そう言うと、俺に着替えを渡し、またパタパタとスリッパの音を鳴らしながら脱衣所から出ていった。
足音が遠ざかるのを確認して、俺はさっさと着替える事にした。
ところでズボンはベッドの上に脱ぎっぱなしだったが、あいつシャツとパンツ仕舞ってる場所、何で知ってるんだ?
着替えを済ませ脱衣所を出ると、廊下にはカレーの匂いが漂っていた。今日は桐乃のリクエストで夕飯はカレーだった。
リビングからキッチンを覗くと、あやせの後ろ姿と、それに纏わり付く桐乃の姿が見えた。桐乃は嬉しげになにかをあやせにしゃべっている。
あやせは俺に気付くと声をかけてきた。
「すみませんお兄さん、少し桐乃を見ていてくれますか?今包丁を使っているので…」
お安い御用だ。テレビをつけながら桐乃に声をかける。
「桐乃、こっちおいで。あやせの邪魔をしちゃ駄目だろ」
「は~い!」
うむ、素直で宜しい。
「すぐに出来るからもうちょっと待っててね」
それにしても…、ソファーに座りながら思う。エプロン姿のあやせも悪くない。むしろ悪くない所か新妻っぽくて……凄くいい!
バフッ!
ニヤついていると突如両膝に重みが…。
「へへ~、来ったよ~」
あろう事か桐乃が俺の膝に飛び乗ってきた。
「ちょっ!!桐乃!?降りろって!」
「や~だ、だっておにいちゃんが来いって言ったんじゃない~」
「いや確かに言ったがそういう意味じゃなくて…」
「えっへへ~、おにいちゃんのお膝~」
そう言いながら、俺の上で足をバタバタさせながらはしゃぐ桐乃。そうすると重心は必然的に腰にくるわけで…具体的には桐乃が足をバタつかせるたびに尻がふにふにと俺の腰の上で揺れているわけだ。
そんな風に刺激されたら…くっ!頑張れ理性!目覚めるな俺のリヴアイアサン!これが親の心子役知らずって奴か!
「き、桐乃!判った、座っていていいからもう少し大人しくしてくれ!でないと俺……足痛くなるから」
「うん!分かった~!」
ようやく大人しくなった桐乃にホッとしていると、後頭部に強い視線を感じた。恐る恐る振り向くと、キッチンからあやせが光彩の消えた瞳で見つめていた。
こえぇぇぇぇぇ~!
右手に握られた包丁が鈍い光を放ってるのは気のせいだろうか。あやせはゆっくりと口を開き、声を出さずに呟いた。
ソ レ イ ジ ョ ウ ナ ニ カ シ タ ラ ブ チ コ ロ シ マ ス ヨ ?
俺はただひたすら頷いた。ええもちろんですとも、妹にナニかするなんてあるわけないじゃないですか!ほら俺のリヴアイアサンも冬眠してますよ~?
あやせは、そのままの表情でスーッとキッチンに向き直り、作業を再開した。
ホッとして向き直ると、俺とあやせの息詰まる寸劇に気がつきもせず、桐乃はテレビに映し出されるアニメに夢中だった。
しかし今のあやせは怖かったな…。見るともなしにテレビに視線を向けながらそう思った。あれはもうガチの殺人者の風格だよ。マーダーライセンス持ってるよ、ブラックエンジェルズか闇狩人に即就職可能だよ!
けど納得してくれてよかった…。してくれたよね?うん、したに違いない。だから背後から聞こえる包丁の音が荒々しいのも気のせいに違いない…。
「いっただきま~す」
桐乃の元気な声が食卓に響き渡った。テーブルの上にはカレーライスとそれぞれに小分けされたサラダが並んでいる。
「はい、召し上がれ」
二人のやり取りを微笑ましく見ながら、俺もスプーンを口に運んだ。
「うまい!」
思わず呟いた。程よい辛さが食欲を増進させる。昼飯抜きだった事もあり夢中でスプーンを運ぶ。
桐乃も同様だったようで、あっという間に皿を空にした。
「おかわり~」
そう言いながら、皿をあやせに突き出した。
しかし、俺にはちょうどいい辛さだが、桐乃は辛くないんだろうか?そんな事を考えながらガス台を見ると、カレーの入った鍋の横に小鍋があることに気付いた。あやせは、その小鍋からカレーを掬うと桐乃の皿にかけていた。
「ああこれですか?桐乃の分は小分けしてから牛乳を入れて、辛さ控え目にしたんですよ」
細かい気遣い、さすが女の子だ。多少形が崩れたトマトを食べながらそんな事を考えていた。
「ねえ桐乃」
「なぁに?あやせお姉ちゃん」
忙しく口を動かしながら桐乃が答える。
「桐乃は人参が嫌いなんだよね?」
「キラ~イ」
「実はこのカレーに人参さんが入ってるんだよ」
その一言に桐乃の手が止まった。顔をしかめ、あやせを見た。そんな桐乃にあやせは言葉を続ける。
「でも桐乃はカレーを美味しいって食べたでしょう。それって人参も美味しかったって事じゃないかな」
「そう…なのかな…」
「桐乃は人参が美味しくないから嫌いだったんでしょ。でもこの人参の入ったカレー、美味しくなかった?」
「おいしい…」
「じゃあそれって人参が嫌いじゃなくなったって事じゃないかな。好き嫌い無くして、桐乃は一つお利口さんになったって事だね」
「お利口さん?」
あやせの言葉に桐乃は目を輝かせた。そして俺に顔を向けてきたので答えてやる。
「ああ、人参を食べれるようになったお利口さんだ。偉いぞ桐乃」
「えっへん」
自慢げに胸を張る桐乃に、俺とあやせは思わず吹き出してしまった。
「ふぅ~サッパリした」
お客さんであるあやせに、先に入って貰おうと思ったのに
「桐乃の面倒を見ながら入らないといけないし、時間がかかるからお兄さん、先に入っちゃって下さい」
そう言われちゃ仕方がない。途中桐乃が一緒に入ると乱入未遂を起こしたり(もちろんあやせが防いだが)多少のトラブルもあったが、無事入浴を済ませ今は入れ代わりに二人が入っている。
麦茶を注いだコップを手にソファーに座った。普段ならさっさと部屋に引っ込む所だが、あやせの湯上がり姿を見るチャンスを逃すわけにはいかない!
しばらくボケーっとテレビ見ていると
「おにいちゃん!」
パジャマ姿の桐乃が飛び込んで来た。続いてあやせが入ってきた。う~ん、湯上がりで蒸気して頬が紅くなっている。さらに髪がしっとりと濡れて色っぽいぜ!
「お兄さん、なんだか目がやらしいんですけど」
「そんな事ないぜ。あやせの湯上がり姿に見とれていただけだ!」(キリッ)
「なっ…またそうやって、すぐにセクハラを!」
「わ~い!おにいちゃんセクハラ~」
さすがのあやせも、桐乃の前で俺を張り倒すわけにはいかないようで
「まったく…お兄さんときたら…」
等と言いながら軽く頬を膨らませるだけに留まった。ナイス桐乃。
それから三人でテレビを見た。桐乃は当然のように俺の膝に座ってきた。横目であやせの様子を伺うと、じっとりとした半目でいかにも「私不機嫌です」という表情でこっちを見ていた。
テレビでは野生生物の親子の生態について特集していた。クマさんだ、ライオンだとはしゃいでいた桐乃だが、次第に大人しくなってきた。様子を伺うと、どうやらもうおねむのようだ。
「桐乃、そろそろ寝ようか?」
あやせも桐乃の様子に気付いていたようで、そう促した。
「う~、でもぉ…」
桐乃は目をしょぼつかせながら、拒否の態度をとる。やれやれ、俺の膝の何がお気に召したのかね。こっちはそろそろ足が限界なんだが…。
「いい子はそろそろ寝る時間だろ。それとも桐乃は悪い子なのか?」
「そ…そんな事ないよ!桐乃いい子だもん」
「じゃあもうおやすみだ、いいな?」
「…うん、わかった……」桐乃はようやく俺の膝から立ち上がり、リビングから出ていこうとする直前くるっと振り向いた。そして、おずおずと声をかけてきた。
「…また明日も遊んでくれる?」
「ああ、もちろんだ。だから昼間眠くならないようにもう寝ろ」
そう答えると、桐乃の表情はパァッと明るくなった。
「うんっ!」
頷いてパタパタとリビングを飛び出して行った…と思うと、入口からヒョコッと顔を出し満面の笑顔でこう言った。
「おやすみおにいちゃん!」
こうして桐乃が眠り、パジャマ姿のあやせと二人っきりになれたわけだが、俺は今正座をさせられあやせに説教されている。
「まったくお兄さんときたら…あんな言い方をしたら桐乃がかわいそうでしょう」
「ごめんなさい…」
俺はひたすら低姿勢に務めた。あやせは腰に手を当てたポーズで俺を見下ろし、俺を睨んでいた。
「それにしても、あいつがあんなにベタベタしてくるとは意外だったな。あれでいて結構淋しがり屋だったりして」
俺はいい加減あやせの説教から逃れるために、とっさに頭に浮かんだ事を呟いた。するとあやせは呆れた口調で言った。
「何を言ってるんですか今更…」
首を振りながら俺の前に座ると続ける。
「桐乃はね、元々淋しがり屋です。ただ同時に頑張りやさんでもあるから、そういう所を隠しちゃうんです。今の桐乃は子供だからストレートに感情を出しているだけで、本質は何も変わりませんよ。まぁ…」
一つため息をついてから呟いた。
「あそこまで、お兄さんの事を大好きだとは予想外でしたけど…」
それは俺も驚いていた。普段からあれぐらい可愛いげがあればいいのにな。まぁベタベタ引っ付くのはもう少し遠慮してもらいたいけど…。
「俺ってさ…嫌な兄貴だよな…」
なにがきっかけになったのか、つい口にしてしまった。あやせが不審そうに見ている。
「俺さ…、最近の桐乃について考えてたんだよ。あいつ以前は例の『趣味』を一人で抱え込んでいただろ?けど今は気の合う友人がいる。その『趣味』のせいであやせとも一時は険悪になりかけたが、今はあやせも一定の理解を示してくれて上手くやってるだろ」
あやせは黙って聞いていた。
「自画自賛するようだが、そのどちらの件にも俺は関わって解決にする事に貢献できたと思ってる。けど最近は対した問題も起きてない。だからこう思ったんだ、俺はもういちいち桐乃の面倒見なくてもいいんじゃないかって…けど」
一息入れて俺は続ける。
「桐乃があんな風になっちまい困惑したと同時に、俺はうれしいと思っちまった…。最初はなんでなのか分からなかった。けど今は分かる。ああ、俺はまだあいつに何かしてやる事ができる。それが嬉しかったんだって…」
俺はあやせの顔が見れなくて、いつしか視線を膝の上に置いた手をみていた。
「妹が大変な事になったって言うのに喜ぶとか…ヒデェ兄貴だよ俺は」
最後にそう言うとリビングは静かになった。俺はもう何も言えず、ただ自分の拳を見つめるだけだった。
突然、あやせの手が伸びてきて俺の拳に重ねなれた。
「本当にお兄さんはどうしようもない人ですね…」
ああ、まったくだ。
「私やその…『趣味』のお友達と桐乃が上手くいっていても、お兄さんが桐乃のお兄さんである事に変わりはないんです。妹のために兄が何かしようとすることのどこがおかしいんですか」
ひんやりとしたあやせの手が優しく、それでいて力付けるように俺の拳を握る。視線を上げると、あやせは、これまで見せた事のない優しい表情を浮かべていた。
「私や『趣味』のお友達を気にして、桐乃から離れなくてもいいんです。私もその、お兄さんを嫌ってるわけではないですから…。も、もちろん好きってわけでもないですけど!」
あやせ…頬が赤いぞ。
「な、何ニヤニヤしてるんですか、また何かイヤらしい事考えてるんでしょう、この変態!」
さらに頬を赤くして、罵ってくる。
「それと!今の桐乃が素直だからって、調子に乗って桐乃に何かしようとしたら許しませんよ!?」
「するか!俺をなんだと思ってるんだよ!」
「変態です。重度のシスコンな上に、中学生相手にプ、プロポーズするような変態です!」
あれ?さっきまでの優しいあやせはどこ行ったの。幻?あれは幻?
「それに…」
急にあやせの瞳から光彩が消えた。
「さっき桐乃を膝に乗せて随分と嬉しそうにニヤついてましたよね?」
「あ~、明日も桐乃と遊んでやらなきゃいけないし、そろそろ寝ようかな~」
立てない…。いつしかあやせの手はがっちりと俺の手首を掴んでいた。
「お兄さん?話はまだ終わってませんよ?」
桐乃…お兄ちゃん明日お前と遊んでやれないかもしれん……
ここで簡単に後日談に触れておく。
桐乃はこの二日後無事元に戻った。まぁそれまでの間、様々な騒動を起こしてくれたわけだが、それについてはまた機会があれば語りたいと思う。
ちなみにあの後俺は二時間かけて、懇願、泣き落としとあらゆる手段を講じ、あやせに〇されるのをなんとか回避した事を付け加えておく。
終
最終更新:2010年12月11日 00:18