http://yomi.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1291723688/434-514

『よう、久しぶり、生きてたか?』

「赤城、久しぶりだな。まぁ、なんとか生きてるよ」

電話の相手が、聞きようによっては嗚咽とも受け取れそうな、くぐもった湿っぽい笑いを漏らしていた。

『変わんねぇな、そうした素直じゃねぇところ……。ま、お前らしいちゃ、お前らしいよな』

「ほっとけ!」

口が悪いのはお互い様だ。

『でよ、どうよ? そっちは』

そいつはこっちも聞きたいところだった。生まれ育った街を離れて、この地に落ち着いて間もなく一月になろうとしていた。
何かも勝手が違って、戸惑うことばかりだったが、何とか、やってこれている。

「ぼちぼち……だな。首都圏と違って、こっちは、何もかも流れがゆったりとしている。平凡が一番な俺には、案外性に
合っている街なのかも知れねぇな」

『爺くせぇなぁ……』

「あらためて言われると、なんかムカつくな」

でも、まぁ、当たっているわな。なんせ、幼馴染が、あの麻奈実だ。十代にして『お婆ちゃん』といった風情のあいつと
長年付き合っていれば、そりゃ爺むさくもなるさ。

『おっと、怒るなって。別にお前と口論したくて電話したわけじゃねぇからな。でさ、ぶちゃけ、どうよ、そっちの大学は? 
可愛い子とか居るか?』

何だ? いきなり。赤城って、こんなに軽薄な奴だったか? いや、軽薄か……。
アキバで自分の妹に似たエロい等身大の人形を買うか否かを本気で悩んでいた大馬鹿野郎だ。
もっとも、その軽薄な赤城と一緒になって、件のラブドールに興味津々だったのは、俺もなんだけどさ。

「居ねぇこたぁねぇけどさ……」

『何だよ、その奥歯に物がはさまったような言い方は』

俺が入学した大学の法学部には、結構、可愛らしい女子が居る。居るには居るのだが、極めて取っつきづらいのだ。

「ジモティのお嬢さんが圧倒的に多いのよ、女子は……」

『ああ~ん?』

赤城が、『なんじゃ、そりゃ?』と言いたげに、語尾を尻上がりに引き伸ばした。無理もねぇか、説明不足だったわな。

「こっちはさ、首都圏に対する対抗意識がすげぇんだよ。かつて、文化の中心だったっていう自負もあるから、
ことあるごとに『東京がなんや!』って感じだな。東京から来た奴だって、こっちじゃ田舎者扱いだぜ。
ましてや、千葉出身の俺なんか、こっちのお嬢さん方にしてみれば、ゴミみたいなもんだ」


受話器からは、赤城の『うへぇ……』という、絶句のような嘆息が聞こえてきた。

『要するに、そっちの大学の女子は、ジモティの箱入り娘だから、関東の田舎もんはアウト・オブ・眼中ってことか?』

「ああ、そういうこった……。すげぇ可愛い娘とかも居るけど、眺めるだけの、高嶺の花だな」

大学の同級生の女子は、お高くとまったお嬢様気取りの連中ばかりだから、付き合いにくいことこの上ない。
まぁ、実際に、何百年も続く名家の本物のお嬢様がごろごろ居るらしいから、それも仕方がないのだろう。彼女らは、
俺なんかとは住む世界が違うんだ。

『そいつぁ、つれぇなぁ……』

「いや、別に、彼女作りたくて大学に入ったわけじゃないからな」

『強がってんじゃねぇよ。彼女も出来ねぇようじゃ、不毛な青春だぜ』

強がり……、か。
たしかに、そうかもな。黒猫とも、麻奈実とも、あやせとも、沙織とも、そして桐乃とも、何の挨拶もなしに、ある日突然、
彼女らの前から姿を消した俺は、今や女っ気ゼロの不毛な青春を送っているに他ならない。

「まぁ、今んところは、不毛だわな。否定しねぇよ。なんせ、女どころか、野郎だって気心の知れそうな奴はいそうもねぇ
からなぁ……。男のジモティは、キモいし、虫が好かねぇ。露骨に、関東の人間を見下してんだよ」

これじゃ、男の友達もしばらくは出来そうもないだろう。キモい奴等なんざぁ、こっちから願い下げだ。
しかし、電話で吐き捨てるような口調で言ったのはまずかったな。

『……、何か、大変そうだな……』

磊落であるはずの赤城が、気まずそうに言い淀んでいる。
俺のことを『うわ、こいつ、うぜぇ~』ぐらいには思っているのかも知れない。

「すまん、ちと、言い過ぎだったか……。でも、見知らぬ土地での初めての独り暮らしがこたえていないというと、それも
嘘になる。何にせよ、知り合いが一人も居ないってのは、ツライところではあるわな」

『ならさ……、こうしろよ』

「どうしろと?」

『お前以外にも、関東から来た奴が居るんじゃねぇの?』

「居るこたぁ居るみてぇだけどよ……」

『なら、そいつらとつるんでさ、ジモティに対抗すればいいんじゃねぇの? 一番いいのは、お前と同じように千葉から
出てきている奴を探して、そいつと仲良くなるってところかな』

「陳腐だなぁ……。そんなのは俺も考えてはいるけどさ、思ったほど簡単じゃねぇのよ」

『どうして簡単じゃないんだよ?』


「関東とか、東北とかから来ている奴は、みんな萎縮っつうか、なんつうか、ジモティにバカにされるのを恐れて、出身を
明かさないんだ。だから、誰が千葉出身かなんて分からねぇよ」

『う~ん、そうか……』

結局、俺は、この街では“お上りさん”なんだ。
片田舎から、アキバ辺りに初めてやって来た奴の心境ってこんなもんかな? いや、アキバはよそ者に排他的じゃ
ないから、だいぶ違うか。
それに、俺が憂鬱になっている主な原因は、ジモティの排他性なんかじゃない。

「……こっちに気心の知れた奴が居ねぇことだけじゃなくて、いつになったら帰れるか……。そいつが大問題だな」

受話器から、赤城の『ふぅ~む……』という、くぐもった呟きが聞こえてきた。

『たしかにな……。お前がそっちに行った、いや、行かされた、か? その経緯は、俺も知ってるけどよ……』

「ああ……。桐乃が実家に居る限り、夏休みも帰ってくるな、ってお袋に言われたよ」

『ひでぇー話だ……。なんで、お前だけがそんな扱いなんだよ』

「しょうがねぇさ。損な役回りは、いつものこった……。親にしてみりゃ、桐乃の方が大事だろうし、俺だって、桐乃との
ことを考えれば、こうした島流し同然の扱いも、理解は出来るさ」

俺自身も、捨て身の覚悟で、桐乃を護ったことがあったしな。その結果、親父にぶん殴られ、あやせからはビンタを
喰らった上に、変態扱いされている。

『でも、お前は、それでいいの?』

「妹のために、自ら汚れ役を引き受ける、お前なら分かるんじゃねぇの?」

電話の向こうの赤城はしばし沈黙していたが、俺と同じく妹が居て、その妹のために、ホモゲーすら買ってやったこと
がある赤城は、俺の今の扱いを理不尽だとは思いながらも、理解はしてくれたようだ。

『だな……』

そうとも、悪友。兄貴ってのは、損な立場なんだよ。
俺としては、今の扱いに納得はしてねぇけどな……。

「まぁ、こっちの状況はこんなもんさ。ざまぁ、ねぇけどな……。代わりに、そっちはどうだ?」

話の出だしは、バカ話だったのに、状況が洒落にならないから、柄にもなくシリアス路線になっちまった。
だが、鬱な話は、これくらいにしておこう。正直、身がもたねぇや。

『お前の妹が、俺たちの高校に入学してきた』

「それは、島流しの俺だって知ってるよ」

『それと、お前の妹の親友とかいう子も一緒に入学してきたようだな』

「ほぉ……」


俺の妹の親友ってのは、新垣あやせのことだろう。あいつも桐乃と一緒に俺が卒業した高校に入学したのか。
初耳だったが、想定内だな。あやせは桐乃に執着しているから、どこへでもついていくだろうさ。
しかし、桐乃は何をやってんだ? あいつの学力だったら、もっと上の高校へ行けただろうに。

『会ったことはないけど、結構可愛らしいって評判みたいだな。何でも新垣議員の娘とかで、その上、モデルもやってんだな』

やっぱり、あやせか。加奈子は、どうやら一緒じゃないようだ。あいつはアホだから、俺らの高校すら合格は覚束ないだろう。
まぁ、それはともかく、見た目だけは、エンジェルなあやせたんが、俺の後輩ってわけか。

「うん、うん、会ってみれば分かるけど、桐乃の親友だけあって、かなり可愛いな」

中身はアレだけどね……。しかし、あのキチ▲イかと訝りたくなる変なところも、今となっちゃあ、チャームポイントに思
えてくるから、不思議なもんだ。

『ほぉ~っ、お前がそこまで言うとはな。お前、その新垣って子が結構タイプだな』

俺は、度肝を抜かれて、吹きそうになるのを辛うじてこらえた。ぶっちゃけ、俺にとっては、最も好みのタイプなんだが、
いかんせん、向こうは俺のことを毛嫌いしている。

「妙なことをいきなり言うな! まぁ、概ねはその通りだけどよ、今となっちゃどうにもならんだろ? 桐乃から隔離する
ために、俺は、こんな遠くまで追いやられたんだ。その桐乃の友達と会うなんてこたぁ、もうあり得ねぇよ」

それに、あやせには、『ごめんなさい。生理的に無理です』とか言われたんだぜ。悲しすぎるだろ。

『……俺たちの高校の話はそれくらいにしておくとして……』

雰囲気を察したのか、赤城の奴は、高校がらみの話題を打ち切ってくれた。

「うん……」

だが、触れられたくない因縁が、俺とあやせの間にあるらしいことを奴にカミングアウトしちまったも同然だな。
まぁ、いいさ。こいつは、今の俺にとって、心を許せる数少ない相手だからな。

『とにかく、俺も、奇跡的に第一志望の大学に進学出来た』

赤城の口調が、いくぶんだが誇らしげに感じられた。第一志望に合格したんだから、当然か。

「おぅ、そうだったな。たしか国文だよな」

赤城は、ぱっと見、ただのサッカー馬鹿かと思いきや、これで結構頭がいい。それに、奴も、受験勉強の終盤は、必死
の追い込みで頑張っていたからな。そのおかげで、麻奈実と同じ大学、学部、学科に進学している。
正直、ちょっとうらやましいぜ。

『おうよ。だけどよ、大学の講義は進度がはぇえな。びっくりだぜ』

「そっちもそうか。俺は法学だが、学生の理解の程度なんかお構いなしにガンガンいきやがる」


『理系の奴等なんか泣いてたぞ。特に、大学での数学と高校数学とじゃ、"越えられない壁”があるとかで、みんな猛烈
にショックを受けてるよ』

高校数学は“ゆとり教育”(ゆるみ教育か?)の弊害で、昔に比べると本当に程度が低いらしいから、どこの大学に
行った奴でも苦労するだろうな。俺は文系でよかった……。これは、赤城も同意見だろう。

「そういや、麻奈実はどうしてる? 元気か」

『おぅ?! お、おう、田村さんなら元気だぜ。相変わらず天然入っているけどな」

むぅ? なんだ、赤城の野郎、麻奈実の話を振ると、しゃっくりみたいな素っ頓狂な声を出しやがって、気色悪いな。
まぁ、いいか……。ラブドールの購入を本気で検討する大馬鹿野郎だから、いい奴なんだが、多少は頭のおかしい
ところがあるんだろう。
あ、それは、俺も同様かな。

「麻奈実には宜しく言っといてくれや。なんせ、こっちは、桐乃との接点がある人物とは、男であれ女であれ、こっちから
自主的に連絡することは禁じられているんだよ」

桐乃と接点がある人物からの電話やメールに応答することまでは禁じられてはいないが、今の居場所を探られる訳
にはいかないから、返事もおざなりなものになってしまう。
黒猫からは1回、沙織からは2回メールが来たが、その都度、返信は、時候の挨拶程度のものでお茶を濁してきた。
そんなこったから、連中にも愛想を尽かされたのか、ここしばらくは、電話もメールも、とんとご無沙汰だ。
特に、黒猫の場合は、告白されてから、恋愛めいた関係になったものの、結局は、俺の受験とかが影響して、うやむや
に終わった。
“邪気眼電波女”な黒猫のことだ。恨んでいるだろうなぁ。
それに麻奈実との仲もなぁ……。

『おぅ、田村さんには、高坂は元気そうだったって伝えておくよ』

赤城が多少なりともフォローしてくれることを、期待せざるを得ない気分だ。

「すまねぇな。宜しく頼むわ」

そうはいっても、麻奈美とは疎遠にはなるだろうな。面と向かって話が出来ねぇってのは、かなり痛い。
くそ、こんなところに独りで居ると、何でもかんでも、考えることがネガティブになっちまう。

『だがな、高坂……』

「何だよ?」

『だがな』ってのは、何か嫌な言い方だな。
麻奈実のこととかで、補足することでもあるんだろうか。

『あ、い、いやぁ、何でもねぇよ』

何だ? こいつの狼狽ぶりは。らしくねぇなぁ。

「何でもないってのは、かえって何か怪しいな」

『お、おぅ……、何か話さなきゃいけないことがあったみたいなんだが、すまねぇ、ど忘れした……』


「お前、その若さで認知症かよ」

『そりゃ、ご挨拶だな。何せ、大学生活に完全に馴染んでねぇから、俺も頭の中が混乱してんだよ。入学した直後は、
大学でもサッカーやろうかと思ったが、とてもそんな余裕はなさそうだ』

「そっか……」

大学はサボろうと思えばいくらでもサボれるが、そうなると、就活とかで後々苦しくなる。赤城の奴、それを早くも自覚
しているんだろう。

『俺さぁ、高校の国語の教員になれたらいいなぁ、って思ってんだ』

「教員試験って、昔はともかく、今は難しいんだろ?」

『そうなんだ。だから、大学じゃ、ちょっくら真面目にやっていこうかと思ってさ。サッカーをやるにしても、部じゃなくて、
同好会とかのゆるいところじゃないと、学業との両立は難しいだろうな』

「しっかりしてんなぁ、お前」

『世の中、色々と厳しいからな。俺っちも現実的なことを考えねぇとまずいのさ。俺らだって、いずれは結婚して家庭を
持つだろ?』

「ああ……」

今んとこ、俺には、相手になってくれそうな女は皆無だけどな。

『そうなると、嫁さんや、ガキを食わしていかにゃならん。それ以前に、俺本人が、この社会で生き残っていかなくちゃ
なんねぇ。だから、今のうちに、この社会で生きていける力っつうか、基盤みたいなもんを造っておきたくてな』

「お前、すげぇなぁ……」

翻って、俺はどうだ? 大学に合格したってだけで、将来設計は皆無だ。

『何をご謙遜を。お前の大学の方がレベル高いんだぜ? その気になれば、“国I”とかも楽勝だろうが』

“国I”とは、国家公務員採用I種試験のことで、いわゆるキャリア官僚になるための試験だ。難しい試験であることは、
いまさら説明不要だろう。

「楽勝じゃねぇよ。冗談じゃねぇ、今は講義についていくのが精一杯だ。今しばらくは、将来どころか、目先のことで
手一杯だぜ」

『そっか……、そうだな。国Iを楽勝とか言ったのは許してくれ』

「いいってことよ。俺たちゃ、毒舌を言い合える仲じゃねぇか」

『それもそうだったな』

電話の向こうで、赤城が苦笑している。バカな話が出来る男友達ってのは貴重だな。


「よかったら、夏休みにでもこっちに来てくれよ。この街は、寺とか神社とか辛気臭いのばっかだが、一応は観光地だからな」

『おう、考えとくよ。高坂も、早くこっちに帰ってこいや。また、アキバとかでつるもうじゃねぇか』

「ああ、そうしよう。いつか必ず、帰ってやるさ」

『その意気だ。頑張れよ、高坂。また、気が向いたら連絡するわ』

「ああ、俺も、久しぶりに声を聞けて嬉しかったぜ。じゃぁな……」

通話終了のボタンを押して、携帯電話機を折りたたんだ俺は、開け放たれていた窓から外にぼんやりと目をやった。

「いらかの波と、雲の波だな……」

白雲がたなびく空の下、鼠色をした瓦葺きの古い木造家屋が並んでいた。
麻奈実の実家である田村屋のような家がびっしりと集まっているような感じだ。

「日本にも、まだ、こんなところがあったんだな……」

かくいう俺が居るところも、瓦屋根の古くさい木造の下宿屋だ。
なんで、そんなところに居るのかって?
そりゃ、桐乃との仲を案じた親父とお袋に実家から追放されたからなんだよ。
特にお袋の嫌悪感はすさまじかった。

『京介は変態だから、年頃の娘と同じ屋根の下に住まわせるわけにはいかない』んだとさ。

けっ! 悪かったな、こんな変態でも、俺はあんたの実子なんだぜ。

実家を追い出された経緯は色々とムカつくこともあるが、故郷から遠く離れた街にあるとはいえ、本来なら、
合格しそうもない難関大学にパスしたんだからよしとするか。
合格したのは、奇跡といっていい。
何せ、首都圏の大学はダメで、俺が遠隔地で下宿することを考慮すると、財政上の理由から私立はダメ。
とにかく親父とお袋が言う条件は厳しかった。
その上、浪人は認めないってんだから必死にもなるわな。不合格でも実家を追い出されるとか言われた日にゃ、怠惰
な俺だって発奮するぜ。
そんな実家に居られないっていう危機感とか焦燥感とかが、いい意味で作用したのかも知れない。高校三年秋から
の追い込みは、我ながらよくやったと思う。

「だが、そのせいで、麻奈美とは疎遠になっちまったな……」

志望校が違うから、結局、俺は独りで頑張らざるを得なかった。もちろん、冬期講習とかも積極的に利用したけどね。
長らく継続してきた麻奈実とのお勉強も、夏休み以降は、全くなかったな。

「必死こいて今の大学に合格したが、失ったものも少なくない……」

だけどよ、こうせざるを得なかったんだよ。もし、大学に合格しなくて、高卒でどっかに住み込みで働かされるなんて、
ぞっとするだろ?
学歴で人間の値打ちが決まる訳じゃないとか偉そうに言う奴がいるけど、現実は、そうじゃねぇからなぁ。
俺は、机に向き直ると、民法の専門書を開き、パソコンを起動した。連休明けの明後日に提出しなきゃならない

レポートを書くためだ。
鬱になってる余裕なんか、ありゃしないのさ。

「高坂さん、お客さんですよ~」

レポート執筆のために、インターネットで判例を調べていた俺に、下宿屋のお婆さんが階下から呼ばわった。
はて、この街に知り合いは居ないし、入学して一箇月にもならないから、大学での友人と呼べる者だって皆無と言っ
てよい。

「すいませーん、誰ですか?」

「はい、妹さんですよ~」

俺は自分の耳を疑った。
桐乃が来たのか? 冗談じゃない、ここの住所は、親父とお袋しか知らないはずだ。
とにかく俺は、押っ取り刀で階段を駆け下り、下宿屋の玄関に向かった。桐乃がここに来る? 
どう考えてもあり得ないことだった。
玄関では、下宿屋のお婆さんと、ロングヘアの美少女が談笑していた。
その少女は、薄いクリーム色のブラウスに、ブラウスと共生地の膝丈よりちょっと短めのスカート、それに、空色の
薄手のカーディガンを羽織っていた。
襟元は、リボンタイっていうのだろうか、細い平紐状の青いタイが蝶結びにされている。
右手を大きなキャリーバッグのハンドルに副え、屈託のない笑顔で下宿屋のお婆さんと向き合っているその姿は、
連休を利用して、兄の下宿先を訪ねてきた妹そのまんまの雰囲気である。

「お、お前……」

その姿を認めて、言葉を詰まらせた俺に、その少女は、にっこりと微笑んだ。

「あら、高坂さん。妹さんがいらっしゃることは、ご両親から窺ってましたけど、こんなに可愛らしい方だったんですね。
それも、ご両親に代わって、下宿先のお兄さんを見舞うなんて、しっかりしたお嬢さんですこと」

「あ、い、いや……。こ、この子はですね……」

そう言いかけた俺に、件の少女は、すぅ~っ、と虹彩が消え入った眼を向けてくる。
こ、こぇええよ……。

「お久しぶりですね、お兄さん」

少女は、そう言って、物憂げに、肩に掛かっていた黒髪を払いのけた。石鹸のような清潔そうな香りが、俺の方にも
漂ってくる。
桐乃の親友で、この春、俺が卒業した高校に入学したという、新垣あやせが、そこに居た。


*  *  *
「まぁ、まぁ、遠路はるばる、ご苦労様です」

下宿屋のお婆さんは、あやせを一階の居間兼食堂に通し、茶と菓子を振る舞った。
食堂といっても、八畳ほどの和室なんだけどね。そこに大きめのちゃぶ台があって、そこに湯気を立てている茶碗と、
菓子を載せた漆塗りの皿が銘々分置かれていた。


「あの、お気遣いなく。それどころか、何もお知らせせずに、突然、お邪魔して申し訳ありませんでした」

そう言って、正座したあやせは、三つ指ついて、お婆さんに恭しく挨拶した。
うひゃ~、何、この外面のよさ。ぱっと見、あやせの奴は、清楚な女子高生だからな。中身がアレだと、初見で見抜ける
奴は居ないだろう。
かく言う俺だって、そうだったし……。

「いえ、いえ、そんなことはいいんですよ」

案の定、下宿屋のお婆さんは、コロッと丸め込まれちまったらしい。新垣あやせ、恐るべし。

「恐れ入ります。実は、母から、抜き打ちで兄の様子を見てくるように言われまして、それで、何のご連絡も出来なかった
んです」

もっともらしい理屈まで付けてきやがる。恐ろしい女だな。こいつは。
それに、お前のかーちゃんは、PTAの会長様だろうが。嘘吐かれるのが大嫌いとか言ってるくせに、お前は、平気で
嘘を吐くんだな。

「で、兄ですが……」

あやせは、虹彩の失せた冷たい瞳を、一瞬だが、俺に向けてきた。やっべー。こいつは、俺の考えなんて、お見通し
なんだろうな。
厄介な女だぜ。

「実家を出て、父や母の目がないのをいいことに、あ、あの……、エッチな漫画とか、ゲームとかにうつつを抜かして居る
んじゃないかって、家族のみんな心配してまして、それで、わたしが遣わされたんです」

『エッチな』の台詞を言いながら、あやせは頬を朱に染めていた。
途中で言葉を淀ませたのも含めて、演技なんだろうな。そういや、こいつもモデルなんだった。こんな芝居はお手の物
なのかも知れない。

「高坂さんも、お年頃ですからねぇ……」

つか、お婆さん。いい加減に同意しないでください。俺は、こっちに来てから、エロゲとかやってないっすよ。
エロ本だって、買ってないです。
……エロサイトは見ますけどね……。

「でも、兄は、ちょっと要注意なんです。恥ずかしい話ですが、い、妹といかがわしいことをするような、そんなアブナイ
漫画やゲームに耽っていまして……。それも、ただ、それに入れ込むだけならまだしも、妹の親友に、そんな漫画を
見せようとするんですから、どうしようもない変態です」

「んなぁこたぁ、ねぇよ!! お前、デタラメ言ってんじゃねぇ!!」

たまりかねて俺は絶叫したが、痛い所を突かれて逆ギレしたようにしか見えなかったかもな。実際、妹の親友である、
あやせに、メルルのエロ同人を見せたのは本当だったし。
『でも、あれは、お前と桐乃を仲直りさせるための、俺なりの捨て身の特攻だったんだ』、と抗弁したかったが、
思いとどまった。その抗弁で、さらなる墓穴を掘ることは明白だからね。

「まぁ……。妹さんに手を出すような漫画とかはいけませんよ、高坂さん」


あああああ……、お婆さんが、哀れみと軽蔑が入り混じった、冷やかな視線を向けてくるじゃぁねぇか! 
お婆さん、これは嘘っぱちです。誤解ですよ。勘弁してください。
焦りまくる俺を尻目に、あやせは、『してやったり』とばかりにほくそ笑んでいやがる。

「見ての通りです。うろたえているのが、何よりの証拠ですね」

うわぁ、こいつ、本当に悪魔だ。
今まで、お婆さんは、俺のことを品行方正な大学生だと思ってくれていたのに、何もかも台無しじゃねぇか。
と、とにかく反論だ。このまま、あやせのいいように俺の品格が貶められるのを座視しているわけにゃいかねぇ。

「証拠、証拠というが、俺は、いかがわしい漫画とか、ゲームの類は一切持っていない。どうせ、お前のことだろうから、
俺の部屋を家捜しする魂胆なんだろ? それで白黒つけようじゃねぇか」

実際、エロ漫画とか、エロ同人とか、エロゲとか、元々あれは桐乃の趣味だ。俺は、そういった類のものに桐乃みたい
な執着はないから、全部実家に置いてきた。
俺が実家を旅立ったのは、桐乃の奴が卒業旅行とかで、モデル仲間と海外に行っている時で、何の挨拶も出来な
かったから、せめて、自分のブツをあいつにくれてやったんだ。喜んでくれたかどうかは知らんけどな。

そんな物思いに一瞬耽っていた俺を、あやせが、半眼のじっとりとした目で睨んでいる。
お婆さん、こいつのヤバそうな目を見てくださいよ。
しかし、あいにくと、あやせはお婆さんには顔を向けていない。
こうしたところも考えた上で、この態度や表情なんだろうな。たちが悪すぎる。

「いいでしょう。一休みしたら、お兄さんのお部屋を捜索します。それで、何かいかがわしいものが出てきたら、
通報しますよ」

通報って、どこに? お前の本当の母親であるPTA会長様か? それとも、父親である新垣議員か? 
もう、どうでもいいよ。
だが、そっちがそうなら、こっちも相応の要求をさせてもらおうか。

「もし、何も出てこなかったら、さっきお前が言った、『どうしようもない変態』云々の発言は、全面的に撤回しろ」

「撤回? お兄さんが変態なのは、紛う事なき事実です。この下宿にそういった類のものがなかったとしても、
実家に置いてきただけですから、お兄さんが変態である事実を全面的に撤回することは出来ません!」

「お、お前なぁ……」

畜生、いかがわしいブツを桐乃にくれてやったことを知っていやがるらしい。
可愛い顔して、本当にきっつい性格だな。ていうか、こいつにしろ、桐乃にしろ、黒猫にしろ、美人ってのは、どうして
こうも性格に問題がある奴が多いんだ。頭がクラクラしてきたぜ。
その点、麻奈実は、フツーで、こいつらに比べれば、人格的には、はるかにまともだったな。

「何ですか、その反抗的な目は。でも、まぁ、いいでしょう。今回、お邪魔したのは、お兄さんを監視するためだけじゃない
んです」

「何だって?」

今、さらっとだけど、監視って言わなかったか?! 何すか、俺は、その一挙手一投足どころか、下手をすれば、箸の上
げ下ろしまで、文句を付けられるんすか? あやせさん。
あやせは、俺の詰るような口調は意に介さず、キャリーバッグを開けて、一通の封筒を取り出し、俺に差し出した。



「お姉さんから言付かってきました」

なるほど、封筒には、『高坂京介さまへ 田村麻奈実』とだけ記してある。

「読んでいいのか?」

あやせが、無言で頷いたのを認めて、俺は、封筒の端を破り、便箋を取り出した。
その便箋には、一緒に勉強していた頃にノートとかで見慣れた、麻奈実のものに間違いない筆跡で、以下の文言が
したためられていた。

『きょうちゃんへ
ご無沙汰しています。
そちらでの生活はいかがでしょうか。
ただ、とっても残念なことを、きょうちゃんにお伝えしなければなりません。
わたし、今は、きょうちゃんとは別の人とお付き合いしています。
ごめんね、きょうちゃん。
でも、きょうちゃんも悪いんだよ。
きょうちゃんの、ばか』

「な、なんだとぉ……」

便箋を持った両手が、アル中患者のそれのように、小刻みに痙攣していた。
麻奈実特有のか細い筆跡で綴られた文字が、じわっと滲んで見えてきたと思ったら、不覚にも、俺は大粒の涙をこぼ
していた。その涙は、両の頬を伝って、ぽたぽたと、膝の上に滴っている。
畜生、普段のあいつの口調そのままで綴られているから、余計にこたえるじゃねぇか。
まるで、面と向かってあいつに言われているような感じだ。

「ふん、ふん……。ご愁傷様ですけど、自業自得ですね。お兄さん」

肩越しに麻奈実からの手紙を読んでいた、あやせは、すまし顔で平然と抜かしやがった。

「あら、あら、高坂さん。どうしたんですか……」

下宿屋のお婆さんが、心持ち眉をひそめた心配そうな表情で、俺を見ている。
そりゃそうだ、俺はというと、涙を流しながら、茫然自失の態だったんだろうから。

だが、あやせは、お婆さんにとんでもないデマを吹き込みやがった。

「兄は、幼馴染だった人に振られたんです。その人、お兄さんの彼女だったんで、私も“お姉さん”って呼んでいたんです
けど、お兄さんが、エッチな、それも妹を陵辱するような破廉恥な漫画やゲームに入り浸っていたんで、愛想を尽かされ
たんですね」

信じられますか、皆さん。こいつ、笑いながら、こんなこと言ってるんですぜ。俺をどんだけ貶めれば気が済むんですかね。

「お、おい! いい加減なことばっか抜かすな」

俺のささやかな抗議にも、あやせの奴は、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべてやがる。しかも、なお悪いことに、


「まぁ……。それは高坂さんがいけませんねぇ」

「お、お婆さん、こいつの言うことを真に受けないでください! 俺は、無実なんです。あやせの言っていることは
事実無根なんですよ」

そうは言っても、説得力ないわな。お婆さんの中では、俺は、エロゲ、エロアニメ、エロ漫画で脳味噌がピンクに
染まった重症患者だっていうバイアスが完全に固定されてしまったみたいだ。
それに……、

「なぁ、麻奈美の言う、“別の人”って誰なんだ? 麻奈美と親しくしていた、お前なら知ってるよな……」

「……知りません……。知っていても、お話出来ません」

このアマ、つーんとした、すまし顔で鼻を天井の方へ向けやがった。

「その様子じゃ、知ってるな……」

俺は、あやせの態度にムカつき、ぷるぷると小刻みに震える手を、あやせの方へ、のろのろと伸ばしていった。

「何ですか、その手は。ブチ殺しますよ!」

こいつの決め台詞、久しぶりに聞いたな。

「まぁ、まぁ……、ブチ殺すなんて物騒な。高坂さんも、妹さんも、落ち着いて……。特に高坂さん、あなたはお兄さん
なんですから、妹さんにはもっと寛容でいなくちゃいけませんよ」

剣呑な雰囲気に、お婆さんが、おろおろしている。

「見ていてください、兄は、こんな時でも、実の妹にセクハラをするんですよ」

「また、デタラメこいてんじゃねぇ!」

とはいえ、実はその通りだよ。本当に、お前は、俺の思っていることを何でもお見通しなんだな。
何なら、リクエストどおりに、その貧相な乳でも揉んでやるぜ。

俺が左手で、あやせの右胸を、むんずとばかりに掴もうとした刹那、緊張感を打ち破るように、俺のジーンズの
ポケットから着信音が鳴り響いた。

「お兄さん、電話だか、メールだかが届いていますよ」

すんでのところで手を止めた俺を、むっとした膨れっ面で、あやせが睨んでいる。
言われなくたって、分かってるよ。ムカつくが、セクハラはひとまず中断だ。
お婆さんは、着信音で俺とあやせの諍いが水入りになったことを安堵したのか、ほっと、大きなため息を吐いた。

「赤城からじゃねぇか……」

さっき、電話で長話したばかりだが、ささくれた俺の心を癒してくれるのは、やっぱり遠慮なくものが言える男友達だぜ。
俺は、早速、赤城からのメールを開き、読み始めた。


「……………!!」

だが、先ほど以上に、手がどうしようもなく痙攣し、手にしていた携帯電話機を畳の上に落としてしまった。おまけに、
あやせがそれを、ひょいとばかりに拾っていきやがる。

「えーと……、『高坂、すまない。俺、田村さんと付き合っているんだ。さっきの電話で、そのことも伝えるつもりだったけど、
お前に彼女が居ないと聞いて、言いそびれてしまった。お前の分まで俺と田村さんは幸せになるから、悪く思わないで
くれ』、だそうです……」

「うわぁああああああああああああああっ~~~~っ!!」

俺は、頭を抱えて、畳の上をのたうち回った。
何て残酷なんだ。これじゃぁ、傷口を開いて、塩をすり込むようなもんじゃねぇか。

「田村さんっていうのは、もしかしたら……」

「ええ、お姉さんのことです。で、兄にメールを送ってきた赤城さんっていうのは、兄の友人で、兄やお姉さんと同じ高校
出身の人です」

「まぁ……、お友達に彼女を寝取られちゃったんですね」

お、お婆さんまで、肺腑をえぐるようなことを、さらっと言わないでください。
そんなもんなんだけどさ……。

「お兄さん、いい加減に転げまわるのはやめてください。みっともないでしょう」

あやせに冷たく罵られても、俺はひとしきり悶絶し、いじけ切って、壁際にうずくまった。
麻奈美を粗末にしたばちが当たったんだろう。
よりにもよって、一番親しい友人に取られるなんて、悪夢としか言いようがない。

「妹さん……、え~と……」

「申し遅れました。わたし、高坂あやせ、といいます。あやせと呼んでください」

こんなときに、笑顔で自己紹介っすか、あやせさん。それに、偽名使うなんて大嘘吐きもいいところじゃないすか。

「じゃぁ、あやせさん。お兄さんは、かなり精神的なショックを受けているようですから、そっとしといてあげましょう。いくら
なんでも、彼女だった人が、友人に寝取られるのはつらい事ですからね」

お婆さん、あなたはどうしても麻奈美が赤城に寝取られたことにしたいんですか? あなたも何げに残酷っすね。

「大丈夫です。兄は変態だけど、打たれ強いですから。しばらくほうっておけば、勝手に立ち直ります」

畜生、人を何だと思っているんだ。毎度毎度、ひでぇ扱いだなぁ。

「……、そうですか。じゃぁ、夕餉のための買い物がありますから、あやせさんは、高坂さんの様子を見ててくださいな。
でも……」

「ああ、兄がわたしに襲いかかるかも知れませんが、防犯ブザーがありますから」


そう言って、あやせは、カーディガンのポケットから、いつぞや俺をビビらせたブツを取り出した。

「まぁ、用意がよろしいこと。じゃぁ、安心でしょうね」

「ええ、これがあれば、いくら変態で鬼畜な兄でも、私には手が出せません」

俺は、二人の会話を聞いて、さめざめと泣いた。
このほんの一時間ほどで、実に多くのものを失った。
麻奈美の件は、正直なところ、どうしようもなかったのかも知れない。去年の春以降、すれ違いが目立っていたから、
麻奈美が俺を振ったのも当然の帰結なんだろう。
しかし、相手が、最も気心の知れた赤城であったのは、ショックだった。

「お兄さん、いつまで泣いているんですか」

「うるへー!」

時が経ち、気持ちの整理がつけば、麻奈美と赤城のことを祝福してやれるようになるかも知れない。今はそんな心境
には到底なれねぇけどな。
それよりも、失った信用は元には戻らないだろう。
お婆さんは、あやせの口からでまかせを完全に信じ込み、俺を稀代の変態野郎だと思い込んでしまっている。
暮らし始めて一箇月弱。この下宿は居心地がいいんだが、別の下宿屋に引っ越したくなったよ。いや、マジで……。
しかし、下宿屋のお婆さんに変態と思われているから、別の下宿に引っ越したいなんて、親には言えないから無理
だけどな。

「顔が涙と汗と鼻水で、どろどろですよ」

「お前……、誰のせいでこうなったと思ってんの?」

こんな抗議、あやせ様に効き目がないことは百も承知なのだが、つい反射的に口をついて出てしまった。
どうせ、反応は、『全部、お兄さんが悪いんじゃないですか、ブチ殺しますよ!』が関の山だろう。
だが……、

「そうですね、わたしもちょっとやり過ぎました。手紙の内容は、わたしも薄々は勘付いていましたが、まさか赤城さんから
最悪のタイミングでメールが来るとは思いませんでしたから……」

「ちょ、ちょっと……?!」

しかも、驚いたことに、あやせの奴は、カーディガンの、防犯ベルを入れているのとは別のポケットから、空色の
ハンカチを取り出して、ぐしょ濡れの俺の顔を拭おうとするのだ。

「じっとしてくれないと、お兄さんの顔を拭けないじゃないですか」

「え? な、何だってぇ!」

俺は、眼前に突き出された、あやせのハンカチを避けるべく、のけぞりながら首を左右に振った。

「何ですか、逃げようとするなんて、駄々っ子みたいで、みっともないですね」

「いや、だから…… あやせって、俺のことが大嫌いなはずだよな。そんな大嫌いな奴の、涙や汗や鼻水を自分の
きれいなハンカチで拭っていいのか? 気持ち悪くねぇの?」



あやせは、俺のコメントに一瞬、柳眉を逆立て、目を剥いたが、すぐに『うふふ』という謎めいた笑みを浮かべた。

「当たり前じゃないですか、大嫌いなお兄さんの体液が染み付いたハンカチなんて、気持ち悪くて、もう使えませんから、
多分、捨てちゃうでしょうね……」

「そうかい……」

想定内の返事だが、実際に聞かされると、胸が痛いよな。しかし、そのハンカチだって、何かのブランド品みたいだが、
捨てちまうのか……。
俺って、あやせに、どんだけ嫌われているんだろう。これも、セクハラしてきたことのばちが当たったんだな。

「気持ちが悪いですけど、さすがに肩越しにお姉さんからの手紙を盗み見たり、お兄さんの携帯電話機を拾って、勝手
にメールを読んだのはやり過ぎでしたから、せめてもの罪滅ぼしみたいなものと思ってください」

そう言いながら、あやせは俺に向かって屈み込み、空色のハンカチで俺の顔を優しく拭い始めた。
うわ、やべぇ。あやせの顔と胸が目の前にありやがる。こ、こうして間近で見ると、決して大きくはないけど、出るところ
は出てんだな。股間のハイパー兵器をなだめるのに苦労するぜ。

「で、でも、妹陵辱ものが大好きな鬼畜ド変態ってのは否定してくれないんだな」

気を紛らわすつもりもあって、嫌味っぽく言ってしまった。

「お兄さんが、その手の本を私に見せたのは事実ですから、それは無理ですね。それに、お兄さんはそういう人なん
だって、他の女の人に思ってもらった方が、好都合なんです」

「好都合?!」

意外な反応だった。てっきり、『ブチ殺しますよ!!』の常套句が出るもんだと思っていたんだがな。

「あ、いえ、今、好都合と言ったのは、説明不足でした。お兄さんが変態であることを、他の女の人に知ってもらった方が、
お兄さんの毒牙にかかる人を未然に防ぐことが出来ますから、そうした意味で好都合なんです」

ひでぇ……。ここまで言われると、もう、人類の敵みたいなもんだな。いっそ、ブチ殺してくれよ。
あまりの言われように、俺は仏頂面だったろうが、そんなことをあやせは全く意に介さず、

「はい、きれいになりました……」

と呟いて、件のハンカチを元通り、ポケットの中に仕舞った。
あれ? いいんですか、あやせさん。大嫌いなおいらの体液が染み付いたハンカチをカーディガンのポケットに突っ
込んだら、カーディガンまで、おいらの体液で穢れてしまいますぜ。しかし、“体液”って、なんかいやらしい響きだな。

「まぁ、顔を拭いてくれたことには、礼を言うぜ。ありがとうよ」

「どういたしまして」

最後の方のハンカチの扱いは不可解だったが、追及するのも面倒くさい。
それに意に反して、ご機嫌な笑顔を浮かべているあやせを見るのは、やっぱいいわ。
こいつは、こんな風に笑ってくれていれば、本当に俺好みの美少女なんだけどね。
そんなことを思いながら、俺は、ちゃぶ台前に座り直した。せっかく、お婆さんがお茶を淹れてくれている。多少冷めて

はいるが、ありがたく頂戴しておこう。それに、お婆さんが居ない今、確認しておかねばならないことがあった。

「なんで、ここが分かった……」

ちゃぶ台で俺と差し向かいで座っているあやせは、頬をぽっと赤らめて、恥ずかしそうにうつむいた。

「だって、お兄さんは、性犯罪者予備軍ですから、野放しには出来ません。ですので、父の顧問弁護士さんにお願いして、
合法・非合法の手段を問わずに、お兄さんの住所を調べてもらったんですよ」

「何だよそりゃ?! 俺って、とんでもない変態扱いじゃねぇか!!」

「でも、さっき“好都合”って言ったように、お兄さんが鬼畜ド変態だっていう方が、わたしにとっては、何かと都合がいい
んですよ」

「お前はよくても、こっちには最悪だよ」

「あら、そうですか」

あやせの奴、面相を歪めて、にやりとしてやがる。
性格が相当に悪い桐乃の親友だけあって、このあやせも相当に食えない女だな。
しかし、父親の顧問弁護士に相談か……、それなら証拠調べにかこつけて、住民票を調べることも出来るだろうな。
あやせは未成年だから、何の面識もない弁護士に依頼しても、民法五条一項に規定の未成年者の法律行為に該当
するから、絶対に請け負ってはもらえない。だが、面識のありそうな、父親の顧問弁護士なら話は違ってくる。

「さっき、顧問弁護士とかって言ったよな?」

「ええ、それが何か?」

「だとすると、その顧問弁護士には、どうやって俺の居場所を調べるように依頼したんだ? お前が父親を通さずに、
その顧問弁護士に直接依頼したのか? それとも、父親を通じて、その顧問弁護士に依頼したのか?」

「もちろん、父を通じて依頼しました。父にも、お兄さんはとんでもない鬼畜ド変態だから、わたしの貞操が危険です、
って訴えたら、すぐに弁護士さんに頼んでくれました」

「おいっ! そりゃねぇだろぉ」

そうじゃないかと思ったが、やっぱりね……。これで、あやせの親父さんにも、俺が変態だって認識されちまったな。
でも、もう、怒る気力も湧かねぇや。
俺は、茶を飲み終え、自分の茶碗を持ち、やおら立ち上がった。

「どこへ行くんです?」

すかさず、あやせの鋭い声が飛んでくる。本当に、一挙手一投足を監視されているんだな、俺……。

「自分の茶碗を台所に持って行くんだよ。この下宿屋は、おばあさん一人が切り盛りしているから、世話になっている
俺も、少しでも手伝っておこうと思ってさ……」

「意外に殊勝なんですね」

皮肉っぽく聞こえたが、まぁ、いいか。


俺は、茶碗を洗って、食器類を伏せておく網棚に載せた。
誰に命じられたわけでもないが、お婆さんの負荷は少しでも軽くしてやりたいからな。
そのまま、あやせの前を素通りし、二階の自分の部屋に向かった。そういや、俺、レポート書きかけだったんだよな。

「お兄さん、勝手に、わたしから離れないでください!」

俺を詰る声が背後で聞こえたが、無視した。
ほっとけば、俺の後をついて来るだろう。何せ、俺を監視しているんだろうからな。
案の定、梯子みたいに急な階段を上る俺の後ろから、ことことという可愛らしい足音が聞こえてきた。

「ここが、お兄さんの部屋ですか……」

「まぁな……」

階段を上ると、二階を縦に貫く廊下の端に出る。その廊下の端から数えて三番目、二階の一番奥まった部屋で俺は
寝起きをしている。間取りは六畳。だが、畳が、この地方特有の『京間』とか言うやつで、関東のものよりも大きいから、
六畳間にしては思ったよりも広い。

「殺風景ですね」

「開口一番それかよ。たしかに、パソコンを載せた座り机と、本棚と小さな箪笥しかねぇからな」

俺は、背後に居るであろうあやせには構わず、自分の部屋に上がり込み、座り机の前に座った。
不意打ちのような、あやせの来訪で、レポートを書く予定がだいぶ狂っていた。

「さてと……。判例のPDFをダウンロードしといたんだよな」

俺は、マウスを左右に軽く動かした。画面がブラックアウトしていたパソコンが息を吹き返す。

「お兄さん、このパソコンでいやらしいゲームをやっているんですね? 通報しますよ」

「はぁ? 画面見ろよ。これのどこがエロゲなんだよ」

画面には、レポートを書きかけているワープロソフトのウィンドゥと、判例検索用の裁判所のホームページが表示され
ている。

「たしかに、今は勉強で使っているようですが、いつもそうじゃないでしょ? 夜になれば、はぁはぁしながら、エッチな
ゲームをしているに決まっています」

「そうかい……」

あやせの思い込みって、ここまでくると病的だな。

俺は、机に向かうと、書きかけだったレポートの執筆に再び取りかかった。
ゴールデンウィークだっていうのに、こんなものを書かされるとは、可愛くないぜ、法学部のタコ教授は……。
しかし、こんなときはパソコンが役に立つ。判例だって、簡単に検索で見つかるし、法律の条文だって、インターネット
で公開されている。
それらを適当にコピペして、専門書に書いてある法解釈をコメントしておけば万全だ。
沙織からもらったパソコンは、ようやくエロゲ以外の本来の用途で使われている。


あやせが来る前に、コピペすべきデータはダウンロード済みだったので、作業は思ったよりもはかどりそうだ。
だが、俺は、背後でなにやら不穏な気配を感じて、振り返った。

「あっ! お前、何やってんだ」

「性犯罪者予備軍宅の家宅捜索です」

あやせは、俺の箪笥を勝手に開けて、その中身をあらためていた。
そして……。

「こ、これは?!」

あやせは、顔を真っ赤にしながらも、手にした布切れを俺に向かって広げて見せた。

「バカ、俺のパンツに何しやがる!」

「なんか、一部分が黄色くなっているんですね。いやらしい……」

「返せっ! この変態」

俺は、あやせから白いブリーフを奪い取った。

「変態は、お兄さんでしょ? 何ですか、さっきの黄色い部分は」

「洗濯しても落ちなかったシミだよ!」

「そんなシミが着くのは、お兄さんが、いつもいやらしい妄想に浸っているから、何かの変な体液が、そ、その、あ、あそこ
か……ら、にじみ出て、それでパンツを汚しているんでしょう。きっと、そうに違いありません」

うわぁ、ここまでおかしいとは思わなかったな。

「あそこってどこだよ? 言ってみな」

あやせの顔が、ゆでだこのように真っ赤になった。

「言える訳ないじゃないですかぁ、この変態! ブチ殺しますよ」

「言えないようなら、最初っから、俺のパンツなんかいじくるんじゃねぇ! 第一、下着が黄色くなるなんてのは、男も女も
同じだろうが。お前のパンツだって、古くなれば黄色くなるんじゃねぇの? 第一、仕送りもケチられている俺じゃ、局部
が黄色くなった程度じゃ、下着は捨てられないんだよ。それぐらい察しろ」

「うるさい変態! しゃべるな変態! わたしのパンツは、こんな風にはなりません。いい加減なことを言わないでください」

あやせは、耳の先まで真っ赤にして、目には涙を浮かべながら、畳の上に仁王立ちし、全身をぷるぷると震わせて
いる。清純なんだか、変態なんだか、よく分からん女だな。それはさておき……。

「ところで、俺の箪笥に何かあった? いやらしい漫画とか、ゲームとか」

「……今のところ、ないです……」



あったりまえだ。いかがわしいブツは、全部桐乃に預けてきたからな。あやせだって、その辺のことは桐乃から聞いて
いそうだけどね。

「だったら、俺がどうしようもない変態だってのを、お婆さんの前で撤回してもらおうか。俺が変態だっていう証拠が出て
こないんだからな」

「そ、それは……」

あやせは、目に涙をためて、悔しそうに眉をひそめている。やったね。我が軍の勝利だ。
だが、あやせは、レポートを書くために起動させている俺のデスクトップパソコンに目を留めた。

「あれ……、あれをまだ捜索していません!」

やべぇ! 使っちゃいないが、エロゲをインストールしたままだったことを思い出した。
エロサイトを見るときは、勉強用のアカウントとは別のでログオンしているから問題ねぇが、エロゲは、どのアカウント
からでも起動出来るからな。

「うわぁ、やめろ! 今は大事なレポートを書いている最中なんだ。下手にいじられたら、ダメになっちまう!!」

それがパソコンをいじってほしくない主な理由だが、エロゲがインストールされたままっていうのもあるわな。

「なんだか怪しいですね。ちょっと、見せてください」

無駄に勘が鋭いんだよな、こいつは。だが、ここでパソコンの中身を知られるわけにはいかねぇ。

「何しやがる! レポートを書きかけだってのは、見りゃ分かるだろ?!」

俺は、座り机の上に覆いかぶさるようにしてパソコンを護った。

「そこをどきなさい! 間違いありません、そのパソコンに何かを隠しているんですね」

その俺の背中にあやせがしがみついて、俺を机から引き剥がそうとしている。
うへぇ、ドサクサだけど、あやせの胸が俺の背中に押し付けられているじゃねぇか。小さいけれど、マシュマロみたいな、
ぷよん、とした感触がいい。
は? 何、喜んでんだ俺……。そんな場合じゃねぇだろ。

「あ、あやせっ! そんなに押すな、パソコンがひっくり返っちまう」

「そんなこと言って、ごまかすつもりなんでしょ? そこをどかないと、ブチ殺しますよ」

「うわぁ、本当に危ないんだって!」

「危ないものが入っているんですね! もう、これは通報ですよ、通報!」

あやせの胸が、さらに強く俺の背中に押し付けられている。もう、パソコンさえ護れれば、変態でも何でもいいや。

「あ、あやせ。お前って、結構、おっぱいあるんだな」

半ばやけくそになって、俺は、思ったことを口にした。


「な、ななななななっ~~~~~~~!!」

効果てきめんだった。あやせは、俺の背中から飛び退るように離れると、両手で自分の胸を押さえて、羞恥と怒りから、
これまでにないほど赤面していた。
次の刹那、俺の左頬には、強烈な平手打ちが見舞われた。

「いってぇ~~」

「この、変態! 死ねェエエエエエェエエエエエエエエエエェ------!!」

あやせは俺ににじり寄り、さらに二発、三発目の平手打ちを俺の頬に喰らわせた。いわゆる、往復ビンタだ。

「も、もう、いい加減にしろ! そんだけ俺をひっぱたけば十分だろうがぁ!」

たまりかねた俺は、さらに四発目を喰らわそうと、バックスイングしたあやせの右の手首をつかまえた。

「な、何をするんですか!」

とっさに、あやせが俺につかまれた腕を引きながらのけぞったから、たまらない。
俺とあやせはバランスを崩し、畳の上に、ひっくり返った。
いてぇ……。

「こ、これって、デジャブ?!」

一昨年の夏に、桐乃ともみ合って転倒した時のように、俺はあやせの身体を下敷きにしていた。それも、右手は、
あやせの左の乳房を、むんずとばかりに押さえていて、もっとヤバイことに、俺の股間は、スカートがめくれて、薄い
布切れ一枚だけで護られている、あやせの大事な部分にぴったりと合わさっていたのだ。
あまりの状況に、俺もあやせも、思考力が麻痺したのか、ほんの一、二秒だったろうが、身じろぎすら出来ずに、
固まってしまっていた。
右掌には、先ほど背中で感じていた、ふっくらとした乳房がすっぽりと収まっていて、布切れで遮られてはいたものの、
カチカチに固くなっていた俺のイチモツが、あやせの秘密の花園の柔らかな感触を捉えていた。
右掌には、ドクドクという、あやせの鼓動が伝わってくる。

「うわぁ!! すまねぇ、こ、これは事故なんだ、不可抗力なんだよぉ!!」

俺は、慌てて、あやせの身体から、飛び退くようにして、離れた。その際に、不本意だが、右手に力がこもってしまい、
それがあやせに、苦悶の表情を浮かべさせ、大粒の涙を双眸からあふれさせた。

「う、うううっ、お兄さん、あんまりですぅ!」

「な、泣くなよ。事故だけど、俺も悪かった、こ、このとおり、謝るから」

畳の上に仰向けになって泣いているあやせに、俺は土下座した。
しかし、あやせは、身体を海老のように縮こませ、そっぽを向いてしまった。
俺みたいな大嫌いな奴に、レイプ寸前の体勢でのしかかられたんだ。ショックだろうなぁ。

「お、お兄さんに、襲われちゃいました……」

俺に背を向けたあやせは、左手に持ったハンカチで口元を押さえ、もう一方の手を下腹部あたりにあてがいながら、

幽霊のように恨みがましく俺を呪っている。
俺は、そんなあやせに返す言葉はなかった。事故とはいえ、乳房をわしづかみにして、カチカチになったイチモツを、
秘密の花園にご対面させてしまったんだから、もう、どうしようもない変態で確定だ。

ん? あやせが口元を押さえているハンカチは、さっき俺の顔を拭ったやつじゃねぇか。だが、
『そのハンカチって、俺の涙と汗と鼻水が染み込んでいますぜ、あやせさん』というツッコミは、とてもじゃないが、口に
出来なかった。

あやせは、おろおろする俺をよそに、ひとしきり涙を流した後、ゆっくりと上半身を持ち上げた。
俺は、マジで恐怖したね。いよいよ、ブチ殺される時が来たんだと覚悟したよ。
だが、あやせは、俺に背を向けたままで、呟くように言った。

「……お兄さん、お手洗いはどこですか……」

「お、おぅ、か、階段を下りて、右に行った突き当たりだ。そ、そこにあるから……」

それを聞いたあやせは、ゆらゆらと立ち上がり、口元を例のハンカチで押さえたまま、階下のトイレに向かった。
時間にして、十五分以上も経った頃だろうか。トイレの水を流す音が聞こえてきた。
あやせの奴、相当に気持ちが悪かったんだな……。

あやせがトイレに行っている間に、俺は意を決して、パソコンからエロゲを全てアンインストールした。
こんなものをインストールしていたから、さっきみたいな事故が起きたんだ。それに、こっちに来てからというものの、
一度も使っていないのだから、今後も使うことはないだろう。

「正直、もったいねぇけどな……」

それでも、全てアンインストールした後は、妙にさばさばした、よく言えば清々しいような気持ちになった。
元々、エロゲには桐乃ほど執着していなかったからかも知れない。

エロゲを全てアンインストールし終えて間もなく、階段を上る足音がした。

「来たか……」

俺は、再び覚悟した。不可抗力とはいえ、あやせの上にのしかかって、その乳房をわしづかみにし、あまっさえ、乙女
の大事な部分に、彼女の下着と俺のズボン越しとはいえ、怒張したハイパー兵器を突撃させてしまったのだ。
ブチ殺されても文句は言えそうもない。

だが、部屋に入ってきたあやせは、いくぶん頬を上気させてはいたが、さっぱりとした、むしろ心地よさげな表情だった。
目元は心なしか潤んではいたが、口元にはかすかな笑みさえ浮かべている。そして、左手には、例のハンカチがしっかり
と握られていた。

「お、おぃ?」

襖を開けて部屋に入ってきたあやせは、困惑する俺には構わず、そのまましずしずと畳の上を進み、窓際の座り机に
向かっていた俺のすぐ傍に腰を下ろし、ひざを崩して横座りになった。

「だ、大丈夫か? 何か顔、赤いぞ……」

「お兄さん…」


小首を傾げたままあやせ俺をじっと見つめ、「ふぅ~」と、深く息を吐き出した。その吐息には、甘い香りと、男を惑わす
妖しさが漂っているような気がした。

「な、何だよ?!」

「さっきは、パソコンを調べようとして、ちょっと無茶をして申し訳ありませんでした」

「お、おぅ?」

「お兄さんにしてみれば、そのパソコンは、勉強のための大事な道具なんですよね。それを、パソコンに詳しくないわたし
が、乱暴に扱っていいわけがありません」

なんだ、この態度の豹変ぶりは。てっきりブチ殺されるかと思っていたのに、どういうこった。

「でも、そのパソコンに何が入っているかを知っておきたいんです。わたしも落ち着きましたから、お兄さんの操作で、
そのパソコンの中身を見せて下さい」

「あ、ああ…、そ、それなら、お易い御用だ」

俺がそう言う前に、あやせは、おれの左隣に正座し直して、画面とマウスを操作する俺の手元を交互に見ていた。

「このとおり、あるのは大学に提出するレポートとか、裁判とか法律関係の文献とかが大半だ。インストールしている
アプリケーションだって、執筆用のワープロソフトと、表計算ソフト、ブラウザ、メールソフトぐらいだな」

『マイドキュメント』にも『マイコンピュータ』にも、怪しいフィルがなく、『プログラム(P)』のリストにもエロゲらしいものがないことを確認すると、あやせは、瞑目して、軽くため息を吐いた。

「分かりました。どうやら、お兄さんが下宿先で、いかがわしいゲームや漫画やアニメに入り浸っているというのは、
わたしの誤解だったかも知れませんね」

「わ、分かってくれたか……」

そうは言っても冷や汗ものだよな。あやせがトイレにこもっている隙に、エロゲをアンインストールしたばっかなんだから。
もし、アンインストールが完了しないうちに、あやせが戻ってきていたら、どうなっていたことか。

「ただ、押入れの中はまだ見ていません。よろしかったら、見せていただけますか?」

「ああ、そいつは、構わねぇよ」

俺は努めて鷹揚に頷いた。
さすが、あやせ、執念深いぜ。だが、押入れには、布団と座布団ぐらいしか入ってないから、中を見られてもどうって
ことはない。

「布団が二組あるんですね」

「予備のつもりなんだか、何だか知らねぇけど、とにかく、俺がここに来たときには、既にこうだったよ」

この下宿屋は、基本的に一人部屋だが、まれには二人部屋として使うことがあるのかも知れない。
例えば、同郷の仲のよい者同士で同じ部屋を共有するとか、あるいは、兄弟で共有するとかだ。



「この布団があれば……」

「この布団がどうかしたのか?」

「いえ、何でもありません。気にしないでください」

そう、すげなく言ったあやせは、不機嫌そうに眉をひそめ、押入れの襖を閉めた。
結局、彼女が見つけたかった、いかがわしいブツが、押入れにもなかったのが気に入らないのだろう。
逆に、俺はほっとして、レポートの執筆に取り組んだ。

階下では、いつの間にか帰ってきていたお婆さんが夕餉の支度を始めたらしい。台所から、トントンと、まな板の上で
何かを切るような音が聞こえてきた。
言い忘れていたが、この下宿屋は、今やこの街でも希少な、賄い付きだ。台所に立ったことすらない愚息の身を、
お袋も多少は案じてくれたということか。俺をお婆さんに監視させるという狙いがあるのかも知れないが、それはそれ
でいいと思う。俺はお婆さんの手料理は旨いと思うし、ワンルームのマンションか何かに独りっきりっていうのは、実家
を追放されたも同然で、この街に知り合いが全く居ないという状況下では、多分、精神的にもたないだろう。

「お兄さん……」

「何だよ」

「さっきお兄さんは、お婆さんの負荷を軽くするために、出来ることをやっている、とかって言いましたよね?」

「まぁ、茶碗を台所に運んで、洗ったりとかする程度だけどな」

「だとしたら、わたしも出来ることをしたいと思っています。ですので、ちょっと、お婆さんの台所仕事をお手伝いして
きますから」

あやせは、すっくと立ち上がり、先ほどトイレに向かった時とは、まるで違う軽やかな足取りで、俺の部屋から出て行った。
どうやら、晩飯まで食っていくつもりらしい。参ったね……。

「でも、やっぱり、マジで可愛いな」

お婆さんを自発的に手伝うとか、根は素直な娘なんだろうな。
ラブリーマイエンジェルあやせたん。しかし、向こうは俺のことをえらく嫌っている。
あやせが忌み嫌うエロゲが好きだという桐乃をかばうために、俺が近親相姦上等の鬼畜ド変態で、桐乃に悪影響を
及ぼした諸悪の根源だという散々な汚れ役を買って出たからなのだが、そのために、あやせに振られるとは、もったい
ないことをしたもんだ。

「だがよ、過ぎたことだ。今さら、どうしようもないわな」

俺は、T大の内田先生が書いた『民法I』から通説を引用し自分なりの考察も書き添えて、レポートの執筆を終えた。
さらに、書き上がったレポートのデータをUSBメモリにコピーする。

「これでよし……」

明日は、大学近くにある『フェデックス・キンコーズ』でプリントアウトしてもらうことにしよう。

「プリンタがあればなぁ……」



仕送りは、生活費とか、必要な書籍を買うだけで精一杯の額だから、プリンタは当分買えそうもない。

「高坂さん。夕飯ですよ」

階下から俺を呼ばわるお婆さんの声がした。さて、今晩は、あやせたんと、差し向かいで晩飯をいただくことにしようか。

「お?」

階段を下りて、居間兼食堂の八畳間に赴くと、あやせが夕餉の配膳をしていた。

「あ、お兄さん。お勉強お疲れ様です。こっちのお野菜って、関東のとはだいぶ違うんですね。ニンジンなんか、こんなに
長いんでびっくりしました」

あやせが、にこにこしながら両手を一メートルほど広げた。

「京人参っていうやつらしいぜ。この地方は、外来のものじゃなくて、伝統的な農産物を大事にしているらしいからな」

とはいえ、学食とか、外食で出てくるのは、そうじゃねぇけどな。多分、コスト最優先で輸入野菜とかを使っているん
だろう。

「純粋な和食のお夕飯なんて、うちじゃあんまりやらないけど、いいもんですね。薄い味付けも上品だし……」

お婆さんから借りたらしい割烹着姿が意外とさまになっている。
こいつは何を着ても似合うが、エプロンとか、割烹着のようなものも似合うな。料理の腕前は未知数だが、案外、いい
嫁さんになるのかも知れねぇ。
『ブチ殺します』の常套句には辟易だけどね……。

「今日は、焼き魚に、野菜と鶏肉の煮物、それにほうれん草の胡麻和えとか、なんだな……」

あやせが味噌汁の入った椀をちゃぶ台に載せた。この地方独特の、甘みの強い白味噌を使っている。

「お味噌汁とかも、関東とはぜんぜん違うんですね」

あやせは、いい意味で軽いカルチャーショックを味わっているのだろうか。口調が、ちょっと上ずっている。
ああ、そう言えば、あやせがこんなに嬉しそうに俺に話しかけてくるのは、一昨年の夏以来だよな。
その後は、『変態』とか、『死ね』とか、『ブチ殺します』とか、『大嫌いです』とか、見るも無残なひどい有様だけどよ。

「さぁ、さぁ、夕餉にしましょうかね」

割烹着を脱いだ下宿の女主人が、ご飯を入れたおひつをちゃぶ台のすぐ脇に置いた。
この下宿は、主と、世話になっている学生とが、一緒に食事をする。もっとも、ここに下宿している学生は、俺だけなん
だけどね。

「アットホームって言うんですか? 下宿屋って感じがしませんね」

下宿生も家族のように扱い、正座して、ちゃぶ台で食事をする。
NHKが朝にやっている、昭和三十年代あたりを舞台にしたドラマそのまんまの暮らしが、ここにはあるのだ。


「もう一品、付いてきた小鉢は、がんもどきと茸かな……」

「ここでは、飛ぶ龍の頭と書いて、『ひりょうず』って呼んでいるんですよ」

お婆さんの指摘に、なるほどねと納得した。『がんもどき』よりもこっちのほうが語感が絶対にいい。古臭くて閉鎖的
な感じはするが、風雅な雰囲気が健在な、この街では、関東と同じものであっても、呼び名の語感がより耳に心地よい
場合が少なくない。

「では、いただきましょう」

お婆さんの一言を皮切りに、俺とあやせは、配膳された夕食を口にした。実家で、お袋は、カレーとか、ハンバーグとか、
味付けが明確、悪く言えばドギツイものばっか作っていて、こんな風に、上品な和食はこしらえたことがなかったな。

「お兄さん、ほのかな薄味で、美味しいです」

あやせが煮物を一口食べて、悦に入っている。

「味だけじゃなく、見た目も、こっちの方がきれいだよな」

この地方の煮物は、薄口しょうゆと昆布だしで味付けしているから、関東の煮物のように、どす黒くない。

「和食って、低カロリーなんですよね。体重が気になる、わたしみたいな女の子には、こうした食事が一番なんでしょうね」

「あら、あやせさんは、ほっそりしていて、それ以上、やせる必要はなさそうですよ」

「いえ、わたし、結構太りやすい体質なんで、食べるものには気を遣っているんですよ」

あやせのスレンダーな肢体を見ていると、とてもそうは思えないのだが、そういえば、こいつが食事をしているの見る
のは初めてかも知れないな。
桐乃の奴は、暴食しても太らないが、あいつは運動やってるからな。あやせのような、特にスポーツをしていないよう
な子は、食べる物にも相当気を遣っているんだろう。それに、こいつはモデルだから、太ることは絶対に許されない。

「だから、実家でも、和食中心のご飯にしようかって、思っています。
ですから、今日、ここで、晩御飯の支度のお手伝いが出来たのは、ものすごく勉強になりました」

「へぇ……」

「何ですか、お兄さん、その無気力な返事は。わたしは、わたしなりに、ちゃんと、お手伝いをしたんですからね」

「いや、別に……、悪意があって『へぇ』とか言ったわけじゃねぇから」

「高坂さん、あやせさんは、この年頃のお嬢さんにしては、しっかりしてますよ。お料理のお手伝いも、ちゃんとやってくれ
ました」

「まぁ、兄は、わたしに対しては、いつもこんなふうに無愛想ですから、いいんですよ。むしろ、私が兄に謝らなければなら
ないことを忘れていました」

「?」



怪訝に思いつつ、俺は、あやせの言動に注目していたが、そのあやせが、俺に向かって、いきなり土下座した。

「お、おぃ!」

俺の専売特許を奪いやがった。

「お兄さんの部屋やパソコンの中身を調べましたが、いかがわしい漫画やゲーム、アニメの類は見つかりませんでした。
ですから、『どうしようもない変態』と言ったことは、撤回します。すみませんでした」

俺は、予想外の事態に混乱したね、マジで。だって、俺のことが大嫌いだっていう、あのあやせが土下座だぜ。
俺は狐か何かに化かされてるんじゃないかって思ったくらいだ。

「わ、分かったから、土下座なんて、もうやめろ!」

それでも、あやせは、額を畳に擦り付けるようにして、時間にして五、六秒ほど土下座を続け、やおら姿勢を元通りにした。

「はぁ~」

起き上がって、深呼吸するように大きくため息をついたあやせは、バラ色の頬に悪意のなさそうな笑顔を浮かべていた。
それを認め、あっけにとられていた俺は、ちょっと安堵した。お婆さんも同様だろう。
いきなりの土下座ってのは、驚かされるもんなんだな。やられてみて初めて分かったよ。

「まぁ、まぁ、とにかく、お夕飯を早く食べちゃいましょう。せっかく、あやせさんが手伝ってくださった料理が冷めてしまいますから」

仕切り直しをするような、お婆さんの一言で、俺たちは、食事を再開した。
あやせの奴、俺を散々に貶めておいて、それを謝罪するとはどういう風の吹き回しだろう。とにかく、この女の考える
ことは、桐乃や黒猫以上によく分からない。
ただ、俺としては、お婆さんに変態と決め付けられずに済んだことで、正直ほっとした。居心地のよいこの下宿屋を
出て行くのは、ちょっと辛いからな。

夕食後は、自室に戻って、インターネットでニュースを見たり、動画サイトを見た。
いつもなら、エロサイトも鑑賞するところだが、今日はあやせが居るから、それはさすがに手控えた。
今は、階下でお婆さんと談笑しているようだが、いつ何時、俺の部屋にやって来るか分かったものではない。
もし、むき出しのリヴァイアサンをしごきながら、エロ動画を睨み倒しているのを見られたら、今日が俺の命日になっちまう。

「しかし、ロクなニュースがなかったな……」

事業仕分けで、国立大学への補助を減額するとか抜かしていやがった。これ以上、学費を上げられたら、たまった
もんじゃない。

「なんだかんだで、八時近いのか」

そろそろ風呂に入るか。浴槽は朝方洗っておいたから、後は湯を張るだけでいい。
しかし、あやせの奴、まだ、帰らないんだな。まさか、このままここに泊まるんじゃないだろうか。空き部屋はあるから、
泊まれないことはないものの……、だが、いいのか? いろんな意味で。


俺は、ネットサーフィンを切り上げると、階下に向かった。

「それで、兄ったら、友達をかばう為に、その友達のお父さんに土下座して許しを乞うたんです。その友達のお父さんは、
とてもおっかない人だったんですが、いきなりの土下座に毒気を抜かれて、結局、友達を許してくれたんですよ」

む? 何の話だろう。
どうやら、これは、桐乃のオタク趣味を許してもらうために、俺が犠牲になった事件のことらしい。
元の話は、桐乃からでも聞いたのだろうか。

「その友達のお父さんは警察官で、融通のきかない人なんですが、兄の『諸悪の根源はこの俺です』という、捨て身の
謝罪で、その友達を許すことにしたそうです」

事件を相当に脚色しているが、俺のことを悪く言っているわけじゃないから、まぁ、いいか……。
しかし、女二人が、ああも楽しそうに談笑していると、あやせに「帰れ」とは言いにくいよな。俺は、二人の脇をそっと
抜けて、脱衣所に向かい、そこで、お婆さんに聞こえるように、「そろそろ風呂にしますけど、いいですかぁ?!」と問うた。
遠回しに、あやせが帰るように促したつもりだった。だが、

「あらあら、もうこんな時間だわ。妹さんも今晩はお風呂に入って、泊まっていきなさい」

何だとぉ!!

「ちょ、ちょっと待ってください! いくら家族でも、ここに泊めるのは、いろいろと問題があるでしょうに。俺は反対です」

そう叫ぶように抗議しながら、俺は、大慌てで八畳間に取って返した。

「いいじゃありませんか、高坂さん。あやせさんは、ご両親にもここに泊まることの了解を得ていらしたそうですから、
それを無下にすることは出来ません。今晩一晩くらいなら、泊めてあげましょうよ」

下宿のお婆さんの申し出に、あやせは、頬を染めて、頷いている。

大嫌いな奴と同じ屋根の下で寝るなんて、やはりあやせはキチ▲イか? とにかく、こいつの考えることは、よく分からん。

「でも、終電には、まだ間に合いますよ」

今の時間なら、余裕で間に合うだろう。

「いえ、いえ、最終の新幹線は、ものすごく混みますからね。それに、お酒を飲んで酔っ払っている人も居るし、
あやせさんのようなか弱いお嬢さんを独りっきりで帰らせるのは酷というものです」

「そうすかねぇ……」

どうにも納得はいかなかったが、家主であるお婆さんが泊めるというのなら、店子に過ぎない俺に反論の余地はない。
観念した俺は、浴室に行き、浴槽に湯を張った。
古臭い木造家屋だが、トイレは当然水洗だし、浴槽は琺瑯引きのバスタブだ。
そのバスタブにヒートポンプ方式のエコ給湯器で沸かした湯を張っていく。
ここへ来た当初は、建物がこれだけ古いんだから、木の風呂桶だろうと思ったのだが、万事がクラシックなこの街
でも、さすがに木の浴槽は使ってはいなかった。

エコ給湯器は大型の外部タンクを持っているので、蛇口をひねると、勢いよく湯がほとばしり出る。



「それにしても、急に訪ねてきたり、俺を変態扱いしたことを謝罪したり、挙句の果てには、この下宿に泊まっていくなん
て、あやせの振る舞いには不可解な点が多過ぎる」

一瞬、本当は、あやせは俺のことを嫌ってはおらず、嫌いだというのは、好意の裏返しかと思った。だが、俺は、それが
俺自身の妄想に過ぎないことに気付き、その妄想を脳内から振り払うつもりで、かぶりを強く左右に振った。

「あり得ねぇことを考えるもんじゃねぇな……」

勢いよくほとばしり出る湯は、そんなくだらないことを思っているうちに、浴槽を満たしていく。
俺は、浴槽の七分目くらいまで湯を入れると、蛇口をひねって湯を止めた。

「湯加減はこんなもんだろうか?」

手を入れると、毛穴が広がって、そこから暖かさが、じわっとしみ込んでくるような感じがした。
やや温めだが、ここの浴槽は、必要に応じて追い炊き出来るから、この程度でいいだろう。
俺は、浴槽に蓋をして、八畳間に戻ることにした。

八畳間では、先ほどと同様に、あやせとお婆さんがおしゃべりをしている。世代が違っても、女同士のおしゃべりという
のは、長くなるものらしい。

「あの~、風呂が沸きましたけど……」

その一言で、お婆さんは、はっとしたように俺のほうを向いた。

「そうですね、お客さんである、あやせさんから、お風呂に入ってください」

俺も、そうした方がいいような気がした。もし、俺の方が先に入ったりしたら、俺の汗とか、何とか……が混じったお湯
に浸かることになるから、あやせは絶対に嫌がるはずだ。
だが、あやせの言い分は、その斜め上を行っていた。

「お、お兄さんは、わ、わたしが入浴した後の、わたしが浸かったお湯で、劣情してしまいますから、それは出来ません。
ですから、お兄さんが先に入ってください」

「お前、なんつー言い草だ!」

さっき、俺を変態扱いしたことを土下座して詫びたばっかだってのに、何なんですか? これ……。
頭が痛くなってきたよ。マジで……。

「じゃ、じゃあ、高坂さんが先に入りなさい。あやせさんは、その後ということで……」

何だか、お婆さんが、再びおれを疑惑のまなざしで見ているような気がする。
いくら何でも、風呂の湯で性的に興奮なんかしません、って!

あやせの言い草にムカつきながらも、俺は一番風呂を浴びた。まぁ、これはこれで爽快だわな。
湯から上がり、寝間着代わりにしているスウェットの上下を着て、八畳間に戻ると、あやせが入れ替わりに入浴しよう
と、キャリーバックから着替えを取り出そうとしているところだった。
こいつ、最初っから、ここに泊まるつもりだったんだな。道理で、でかいバッグを引きずって来たわけだ。

あやせが入浴している間に、俺はテレビでニュース番組を眺めていた。今日は、あやせが闖入したおかげで、色々と


予定が狂ってしまったし、何かと疲れた。もう、とっとと眠ってしまいたかったが、あやせより先に寝るのははばかられた。
俺は、ここでは、あやせの兄ということになっているから、その兄が、初めて兄の下宿先を訪れた妹を放置して、勝手
に寝るというのは、いかにも不自然な感じがする。

「ああ、いい湯でした……」

待つこと、三十分ほどで、あやせは、頬を上気させたご満悦の態で八畳間に戻ってきた。洗いたての髪が艶やかで、
まさに烏の濡れ羽色といった感じだ。
どうやら、俺のエキスがしみ出た湯は、彼女にとって不快なものではなかったらしい。何なんだろうね、本当に。

「お兄さん、何、変な顔してるんですか。また、エッチなことを考えていたんでしょ!」

俺の怪訝そうな表情を鋭く読み取ったあやせが、突っ込みを入れてきた。

「いや、別に、エッチなことなんか考えてねぇよ。それよか、用意がいいんだな」

あやせの寝間着は、空色のパジャマだった。桐乃は、年不相応に、ネグリジェみたいな寝間着を着ているから、目の
やり場に困るが、こうした普通のパジャマだったら、そういった気遣いはない。
それにしても、あやせって、本当に青系統の色が好きだな。本人には言えないが、ひっくり返った時に見た下着も、
青い水玉模様だった。

「さすがにここは千葉からは遠いですから、もしかしたら泊まることになるかも知れないと思ってパジャマとか着替えも
持ってきたんです」

「それにしても、外泊なんかして大丈夫なのか? お前のお母さん、PTAの会長が許すとは思えないけどな」

「それなら、大丈夫です。モデルの仕事でこの街に来ているってことにしていますから。先ほど、母にも電話をしておき
ましたし……」

「そうかい……」

あやせは嘘を吐かれるのは嫌いなくせに、自身は結構嘘吐きなんだよな。まぁ、いいけど。
しかし、モデルの仕事でこの街に来ている? そんなもん、事務所に電話すれば一発で嘘がばれちまう。
本当に大丈夫なのかね?

「それよりも、お婆さんはどうされたんですか? いらっしゃらないようですけど」

「あ、ああ、何でも、不意なお客さんの登場とかで、いろいろあって疲れたんで、今日は風呂に入らずに寝るんだとさ」

俺の方が、もっと疲れていますけどね。

「わたしも、ちょっと疲れました。そろそろ寝ることにします。何でも、わたし用の布団は、二階に敷いてあるそうです」

何で、自分の布団が敷いてある場所を、わざわざ確認するように言うんだろ。
こいつ、さっきからおかしいな。いや、こいつがおかしいのは前からか。

「俺も寝ることにするか……」

立ち上がって階段に向かう俺に、あやせもついてきた。八畳間の明かりを消して、梯子のように急な階段を俺が先頭
に立って上った。



「なぁ、布団が敷いてある部屋ってのは、どの部屋なんだ?」

「それが、お婆さんは何もおっしゃらなかったんです。多分、お兄さんの隣の部屋なんじゃないでしょうか、気持ち悪い
ですけど」

一言多いんだよ……。気持ち悪ければ、こんなところに泊まらなけりゃいいだろうに。

「ここが、お前の部屋なのか?」

そう言いながら、俺の隣部屋の襖を開けたが、部屋は空っぽで布団は敷いていなかった。その隣の部屋も同様だった。

「変ですね。二階に布団が敷いてあるはずなんですが……」

「お婆さんも年だから、忘れたのかも知れねぇな」

「仕方がありませんね。では、お兄さんの部屋にもう一組あった布団をこっちに敷くことにしますが、いいですか?」

「おぅ……、それでもいいとは思うけど、こっちの押入れに入っているかも知れねぇ布団じゃダメなのか?」

俺のもっともな指摘に、あやせは、不満そうに頬を膨らませたような気がした。気のせいかな……。

「こっちの部屋の押入れには何が入っているか分かりません。それに、今は人に貸していない部屋の押入れのものを、
家主の許可なく勝手に使うのは、よくないでしょ?」

上目遣いに、そう言われちゃねぇ。俺は、うかつにも頷いてしまった。こんな小娘でも、俺という男を弄んでいるだな。
女って、ずるいし、怖いよ。

「しょうがねぇなぁ……」

俺は、自室に行って、もう一組の布団を持ってくることにした。その俺の背後に、張り付くように、あやせが付き従って
いる。

「別に、ついてこなくていいよ……」

「いいえ、自分の布団は自分で敷きますから。変態なお兄さんの手を煩わすつもりはありません」

「そうかい……」

ムカつく一言だが、今に始まったことじゃない。
俺は、あやせには構わず、自室の襖を開けた、

「な、何なんだ、こりゃ!!」

「ふ、ふ、ふ、布団がお兄さんの部屋に二つ並んで敷いてあります。は、は、は、破廉恥な!」

どうなってるんだ? あの婆さん、まさかボケが出たんじゃないか? 
俺とあやせを、同室で寝泊りさせるなんて、正気の沙汰じゃない。



大体が、こんな風に布団を並べて寝たりする前に、俺があやせにブチ殺されてしまうじゃねぇか。
俺は、恐る恐る、あやせの顔色を窺った。

案の定、あやせは、怒りと羞恥からか、顔を真っ赤にしてうつむいている。
だが、何か口元がにやけているような気がしたが、まさかね。

「しょうがねぇから、お前の分の布団は、あっちの部屋に持っていくから、それならいいだろ?」

俺だって、本音は、あやせと一緒に寝たいけどな。だけど、まだ、お陀仏にはなりたくねぇ。
よっこらせ、と手前に敷いてある布団を掛け布団ごと一式持ち上げようとした。
こっちの布団は、俺が使ったことがない奴だから、あやせも気を悪くしないだろう。
だが、あやせは、俺のスウェットの脇を引っ張り、いやいやをするように首を左右に振った。

「何だよ。お前だって、気持ちが悪いだろ、大嫌いな俺と同じ部屋で寝るなんて」

「せっかく、お婆さんが敷いてくれたんですから、それを無にするのは失礼というものです。わたしは、お兄さんと一緒で
も我慢しますから、このままで結構です」

言うなり、奥の方に敷いてある布団の中に、もぐり込んじまった。
おい、おい、そっちの布団は、俺が毎日使っている奴だぞ。
指摘しようかと思ったが、今あやせが寝ている布団が、俺が普段使っている布団だと知ったら、あやせの奴、
『け、けがらわしい。ブチ殺しますよ!!』とか絶叫して、大騒ぎするに違いない。
寝る前のドタバタは勘弁してもらいたいし、下宿の主にも近所にも迷惑だからな。

「お兄さん、いつまで入り口近くに突っ立っているんですか。もう、夜も遅いんですから、さっさと寝てください」

「へい、へい……」

難詰するようなキツイ口調で言われた俺は、渋々とあてがわれた布団にもぐり込んだ。
隣の布団を横目で窺うと、あやせは目を閉じて仰向けになっていた。

「とにかく、無事に朝が来ればいいけどな……」

女子と、同じ部屋で、布団を並べて眠るってのは、高校2年の秋、麻奈実と一緒の時以来だ。
あの時も、寝付けなかったが、今晩は、あの時とは比較にならないほどスリリングだな。
何か間違いをしでかしたら、俺は明日の朝には冷たい骸になっているかも知れねぇ。
俺、明日の朝生きてるだろうか……。


*  *  *
どれぐらいの時間が経ったのか、俺は、じわっとのしかかるような不自然な重圧感で目を覚ました。

「な、何だ、妙に寝苦しいな……」

窓から漏れる月明かりが微かに差し込む薄闇の中、
眼前には、俺にキスをねだるように、おちょぼ口をしたあやせの寝顔が横たわっていた。

『ひぃ!』

俺は、絶叫しそうになったが、辛うじてこらえた。


なんて寝相が悪い女なんだ。
あやせの甘い吐息が俺の顔面をそよ風のように撫でていく。
いかん、股間のハイパー兵器にエネルギーがチャージされちまうじゃないか。

「し、しかし、す、据え膳食わぬは、男の恥か?」

手前勝手な理屈をつけて、このまま、あやせの唇を奪おうかとも思ったが、その最中に、あやせが目を覚ましたら、
俺は確実にブチ殺されるだろう。

「で、でも、何で、こんなに色っぽいだ」

普段のあやせは、“可憐な”という形容がぴったりだが、今は、“妖艶”と形容すべき色香が漂っていた。

「ほ、ほんのちょっと、だけなら……」

軽く触れるだけなら、あやせも目を覚まさないかも知れねぇ。あくまで、軽く、だけどね。

ちょこんと突き出たあやせの口唇に、俺も自身の口唇を近付けた。
多分、そのざまは、ひょっとこのように唇を突き出した無様なものだったに違いない。
それでも、俺は、一~二センチほど、自分の顔をあやせの面相に接近させた。

月明かりと、街灯の光で、青白く光るあやせの頬が、微かに朱に染まっている。
だが俺は、閉ざされた瞳に、うっすらと涙が浮かんでいるのを認め、はっとした。
彼女は、触れてはいけない、月下の花なのかも知れない。

「だ、だめだ……」

あやせのバラのような口唇を奪いたいという欲求は、臨界点突破寸前だったが、すんでのところで、俺の理性が
それを抑制した。
ブチ殺されるのが怖かったからじゃない。
あやせの気持ちを無視して、彼女を抱いたりしたら、ひどく惨めな気分に襲われて、絶対に後悔するだろう。
微かに涙を浮かべた女子を、欲しいままにするというのは、少なくとも俺の趣味じゃない。

「と、とにかく、この状態から、脱しねぇと……」

俺は、あやせが目を覚まさないように、ゆっくりと布団から這い出すことにした。さながら、芋虫のように、もぞもぞと
身をよじりながら、あやせが転がってきたのとは反対側の布団の端から、何とか這い出ることが出来た。

「どうにか抜け出られたか……」

ほっとして壁際にへたり込んだ俺は、あらためて布団の上のあやせを見た。
奴め、パジャマ一つで、俺の布団の上にうつ伏せになってやがる。

「このままじゃ、風邪をひいちまう」

この地方は内陸なので、日中の寒暖の差が大きい。深夜から明け方にかけては、ゴールデンウイークの頃であっても、
早春の千葉並みに冷えるのだ。
俺は、寝ているあやせの身体に、彼女が本来使うべきだった布団を掛けてやった。

「俺自身も、何か着ないと、もたねぇな……」



箪笥を静かに開けて、何か羽織るものはないか物色した。手近にあったウールのPコートをハンガーから外し、
それに袖を通して、壁際にうずくまった。

「う~~~ん……」

艶かしいため息とともに、あやせは、ばんざいをするように、伸びをしがら寝返りをした。
あやせが目を覚ますのかと思い、俺はドキッとしたが、あやせは、そのまますやすやと寝息をたて始めた。
しかし、

「うわ、こいつ、パジャマの前をはだけてやがる」

ばんざいをしたことで、あやせの胸元が布団からはみ出していた。その胸元のボタンは全て外れており、胸の谷間が、
見え隠れしている。

「ノ、ノーブラなんじゃね?」

控えめではあるが、ぷっくりと盛り上がった乳房が艶かしい。よく見ると、汗ばんだ肌に張り付いたパジャマのせいで、
乳首の形さえも把握出来た。

「し、しんぼ、たまらん……」

『バストのサイズが、戦力の決定的な差でないことを教えてやる』ってところか。
今、目の前に寝ているあやせは、俺を惑わすエロス全開の妖しい魅力に満ちていた。
あのパジャマの前をちょっと左右に引っ張るだけで、あやせの乳房が、ぽろんと丸出しになるだろう。
その乳房に顔を埋め、先端に花開く乳首をすすりたい、そんな衝動的な欲求が、下腹部からマグマのようにたぎってくる。

「だが、やったら最後、本当にブチ殺されるな……」

俺は居たたまれなくなって、部屋の外にそっと出た。足音を立てないように階段を下りて、トイレに向かう。

「暴発寸前だった……」

下着を下ろすと、はちきれんばかりに怒張した俺のハイパー兵器が屹立していた。
俺は、先ほどのあやせの痴態を思い浮かべながら、その先端をひたすらしごき、摩擦した。
バラ色の口唇、小さいけれど、丸く盛り上がった乳房、それとパジャマ越しでもその存在を主張していた乳首……。
それを思うだけで、俺の劣情はピークに達しようとしていた。

「う、うっ……」

陰茎から脳髄にまで、電撃を食らったような痺れとも、車酔いのような眩暈とも表現出来そうな快感が走り抜け、俺は、
トイレの床と壁に、白濁した精液をぶちまけていた。
俺は、はぁ、はぁ、と荒い息遣いで、べっとりと精液にまみれた自分の手を見た。

「何やってんだ、俺って……」

射精後の快楽が潮のように引いていくと、ひどく惨めな気分になった。
俺は、トイレットペーパーを長めに引き出すと、白く汚れた自分の陰部と両手を拭い、もう一度、長めにトイレット
ペーパーを引き出し、それで床や壁に飛び散った白い汚れを拭い取った。



それらを流して、両手を洗い、俺は、よろよろと階段を上って行った。
そして、本来なら、あやせが寝るべきだった部屋に入ると、布団も何も敷かずに、そのまま壁にもたれて、瞑目した。

「あやせを襲っていたら、あいつにブチ殺される前に、死ぬほど惨めな気分になったかもな……」

冷たく、苦々しい思いを噛み締めながら、俺はいつしか眠りに落ちていった。


*  *  *

「つ! い、いてぇじゃねぇか」

何者かが俺の鼻を摘んでいる。いや、誰であろうかは、察しはついているんだけどさ。
この下宿屋には、お婆さんと俺とあやせしか居ないっていう状況から言っても、こんな非常識な起こし方をする点か
らしても、あやせ以外に考えられないよな。

「キモ……、なんでこんな壁際にうずくまっていたんです。ちゃんと布団で寝ないとダメじゃないですか」

「ダメって……。おい、おい……」

誰のせいだよ……。お前が、ゴロゴロと転がってきて、俺の方にのしかかって来たから、おれは布団から出て、ここに
避難したんだろうが。
そんな思いで、あやせと目を合わせた俺は、寝起きということもあって、相当に目つきが悪かったのだろう。

「何ですか、その恨みがましい反抗的な態度は。それに目つきが悪いこと……。本当に性犯罪者予備軍ですね」

「悪かったな、どうせ、俺の面相は不細工だよ」

汚物を見るような、あやせの冷たい視線が辛くて、俺は、不貞腐れたようにそっぽを向いた。

「大人げないですね、お兄さん。それに、お兄さんの顔は不細工なんかじゃないじゃないですか。初めて見たとき、結構
いいなぁって、思ってたんですけど」

「そうかい……」

去年の夏だったか、あやせの部屋で、そんなことを言われたっけ。でも……、

「今は、大嫌いなんじゃねぇの? 俺、お前のあのコメントが未だにこたえているんだけどよ」

「そうですね。今のままでは、私、お兄さんを好きにはなれません。でも、お兄さんは、私と結婚したいんでしょう? 
だったら、私に構わず、腕ずくでものにするとか、考えないんですか」

「はぁ?」

何を言ってるんだ、こいつは。
散々、大嫌いだとか、死ねとか、ブチ殺しますとか言っていたのと同じ口が、妙な言葉を紡いでやがる。
理解不能とばかりに、眉間にシワを寄せていた俺の顔を覗き込むように、あやせは、すぅ~っと色白の面相を俺の顔
に近づけてきた。


「お、おい、あやせ……」

そのままキス寸前という間合いまで白い面相を近づけたが、それも束の間、あやせは顔をちょっと右に傾け、
俺に耳打ちするように囁いた。

「夕べは、どうして襲ってくれなかったんですか?……」

「な、な、なんだって?」

マジかよ?!
だとしたら、このアマ、寝相が悪いってのはフリだったのか。こいつは、わざと、おれの上に転がってきて、顔をぴったり
くっ付けてきやがったんだ。その時の、こいつの顔が、キスをねだるようにおちょぼ口だったのは、そのせいか。
それに、パジャマの前ボタンは外れていたんじゃない。外していたんだ。くそ……。

「お兄さんの顔色って、信号機みたいに、青から赤へ変わるんですね」

「ぐぬぬ……」

再びキス寸前の状態で俺と向き直ったあやせは、それだけ言うと、すぅ~っと立ち上がり、上から目線で、冷笑とも、
嘲笑とも、はたまた微笑ともつかない笑みを俺に、投げかけている。

「お兄さんは変態のくせに、寝ている女の子にキスも出来ないんですね。何かの悪い病気ですか?」

こいつの脳内では、俺は近親相姦上等! の鬼畜ド変態ということらしいから、あやせにしてみれば、肩透かし喰らっ
たというところか。
悪いが、俺は、あやせが期待するような変態じゃないから、一応は理性ってもんを多少なりとも持ち合わせている。
それに……、

「逆に訊きたいんだけどよ。もしも、俺が、あやせにキスをしていたらどうなっていた?」

あやせの瞳から虹彩が、すぅ~っと、消えた。
うぇ、やべぇ……。こういうの、薮蛇っていうんだな。

「聞きたいですか?」

「い、いや……、べ、別に……」

俺は全力で首を左右に振りながら、それだけを呟くように力なく言った。
キスしていたら、俺がどうなっていたかは、わざわざ訊くまでもないことだった。

「そうですか……。それなら、この話はこれでお仕舞いにしましょう。だから、お兄さん……」

「な、なんだよ……」

「そんな壁際に貼り付いていないで、ちゃんと着替えて、さっさと顔を洗って来てください。間もなく朝食の時間ですから、
遅れないようにしてくださいね」

口元に妖しい笑みを浮かべて、俺にそう告げたあやせは、舞うような優雅な足取りで部屋を出て、階下へと向かって
行った。
でもね、目が全然笑ってないんだよ。



「ふぅ……」

錯乱しそうな頭を抱えながら、俺はのろのろと起き上がり、自室に戻ってPコートと寝間着代わりのスウェットを脱いだ。
布団は既にあやせが畳んで仕舞っておいてくれたらしい。

「しかし、あいつは、俺が大嫌いだったんじゃねぇの?」

そんな女が、寝相が悪い振りをして、俺の上に転がってくるだろうか? 普通に考えれば、それはないだろう。
あやせが普通の女の子なら、俺に脈ありと考えるのが自然だ。

だが……、

「あいつは、桐乃に対しても、擬似的な恋愛感情を持っていそうだからな……」

桐乃に想い人が居て、それがこともあろうに、桐乃の実兄である俺だというのが、心底気に食わないのかも知れない。
一番の親友である桐乃の心を奪った、憎い相手。それが俺か……。

「朝から鬱な気分だよな……」

俺は、ダンガリーのシャツに袖を通し、ジーンズをはいた。
典型的な貧乏学生のファッションだが、着やすいし、動きやすいから、これで十分だ。
そういえば、さっきのあやせも、下はベージュのコットンパンツで、上は、黒っぽいタイトな感じのブラウスか何か
だったな。
あいつのパンツルックは、あまり見ないから、新鮮だった。それに、桐乃同様、脚が長いから、すごく似合っていた。
おっと、いけねぇ、いけねぇ……。あいつにとって俺は敵。俺も、安易に心を許しちゃいけねぇな。

「顔でも洗ってくるか……」

冷水で顔でも洗えば、少しは気持ちも引き締まるだろう。
敢えて湯を使わずに、朝方の冷たい水で洗顔し、顔を拭きつつ八畳間に行くと、昨夜と同じように、あやせが配膳を
していた。

「あら、お兄さん。顔は洗いましたか? 何だか、寝ぼけたようなすっきりしない表情ですね」

誰のせいだと思っているんだ? と詰ってやりたかったが、やめておいた。
ちゃぶ台の上には、料理が全て配膳されており、お婆さんが飯茶碗にご飯をよそるところだった。

「あら、あら、ちょうどいいところに高坂さんが来てくれました」

「おはようございます。ちょっと、寝過ごしてすいません」

ご高齢だってのに、律儀に賄いをしてくれている下宿の主には頭が下がる。
もちろん、下宿代を払っているからなのだろうが、地場の食材をふんだんに使った食事の内容とか、その手間を考え
ると、これで採算が取れているのか、こっちが心配になるくらいだ。

「これ、鰆ってお魚を白味噌に漬けておいて、それを焼いたものなんですって。こんなお料理、初めて知りました」

先にちゃぶ台の前に座っていたあやせが目を輝かせて、皿の上の料理を指差した。いわゆる西京焼きのことだろう。


たしかに、白味噌自体が千葉の方じゃポピュラーじゃねぇからな。

「まぁ、まぁ、西京焼きは、この地方じゃ、ありふれたものなんですけど、喜んでもらえると、うれしいですね」

そのお婆さんに、あやせは、この地方の料理について、あれこれ訊いている。黒猫もそうだが、あやせも意外に家庭
的なんだな。家事全般が嫌いで、料理もダメダメな桐乃とは大違いだ。
食事中も、あやせはお婆さんの作った料理に興味津々で、お婆さんを質問攻めにしていた。あやせって、思い込みが
激しいから、興味深いものがあると、とことん食らいつくんだな。お婆さんは、いい迷惑なんだろうけどさ。

「ここでは、米麹をたくさん使ったお味噌が普通なんですよ。少し甘味があるのは、米麹のせいですね」

「そうなんですか~」

あやせとお婆さんの会話は、料理にうとい男の俺にはよく分からない。
まぁ、俺のことを話題にしている訳じゃねぇからな。適当に聞き流しておこう。
俺は、湯気を立てている味噌汁をすすった。
たしかに関東のものよりも甘いが、白味噌と昆布出汁のコンビネーションが絶妙で、これはこれで旨い。

「そういえば、お兄さん」

「な、何だよいきなり」

あやせが、半眼の恨みがましい視線を俺に向けている。

「さっきから何ですか。私がお料理のことで話し掛けても、生返事だけで、一言もしゃべらずに……。だから、お姉さんに
も愛想を尽かされたんです」

「お、おい! 麻奈実のことは関係ねぇだろ。それに、俺は料理ことなんか分からねぇから、お前の話にはついていけ
ねぇよ」

「それだから、お兄さんはダメなんです。分からなくても、相手を立てるつもりで、話を合わせるって出来ないんですか?」

「そいつは、話題によるだろ? お前だって、お前がいかがわしいと思っているゲームや漫画の話だったらどうなんだよ。
妹物とかさぁ……。そんな話題でも適当に相槌打って、会話を笑顔で続けられるのか?」

『妹物』というのがNGワードだったらしく、あやせの顔が怒りと羞恥で真っ赤に染まった。

「け、穢らわしい! あんないかがわしいものと、お料理の話を一緒にしないでください。ブチ殺しますよ」

「それ見ろ。お前だって、苦手な会話にはついていけねぇだろうが。それに、お前の料理に関する話は、
お婆さんが応答してくれたんだ。俺なんかが、出る幕じゃねぇよ」

「そうですよ、あやせさん。お料理の話は、男性である高坂さんには難しいでしょうね。それに、朝っぱらから
『殺す』だなんて物騒な。あなたのようなお嬢さんが使っていい言葉じゃありませんよ」

俺ばかりか、味方だと思っていたお婆さんにまで、たしなめられるとは思っていなかったのだろう。

「……分かりました。兄に対して粗野な言葉を使ったのは反省します。ただ、わたしは、兄と……」

「俺と何だって?」



「い、いえ、何でもありません……」

それだけを呟くように言うと、あやせは無言のままうつむいて食事を続けた。
その後は気まずい雰囲気が支配し、会話らしい会話もないまま、朝食が終わってしまった。
後味が悪いな。いや、朝飯は旨かったんだけどさ。

そして、場の雰囲気を壊したことを反省してか、あやせはお婆さんに代わって、食器を洗っている。こうした責任感が
強そうなのは結構なことなんだが、そういう奴ってのは往々にして思い込みが激しいからな。あやせもご多分に漏れずだ。

「あ、それは漆器だから、丁寧に洗ってくださいね」

あやせの傍らには、お婆さんがつきっきりで、時折、あやせに対して注意を与えている。
会話だけだと、男の俺にはよく分からねぇが、あやせの家事のスキルは、それほど高くはなさそうだ。ただ、思い込み
の激しさで、熱意だけはあるというところか。

「その熱意が、うまく作用すれば、いいんだけどな……」

モデルとして今も頑張っているのは、その現れなんだろう。

「その熱意の源である、思い込みで、他人を拘束するのは勘弁してほしいが……」

俺は、俺で、ちゃぶ台の上を布巾で拭ってきれいにした。
店子である俺も、高齢である主を少しでも手助けするつもりで、こんなことをやっている。

「俺だって、あやせが話題にしていた料理のことも、少しは対応出来るようにしとくべきかもな」

あやせの朝食時の言動には、たしかに問題があったが、俺にだって少なからず非はあるのだ。
俺は、ため息一つを吐くと、汚れた布巾を洗面所で軽く洗い、それを台所へ持って行った。
目が合った下宿の主には、自室で一休みの後、昨日書いたレポートを印刷するために、大学近くにある
『フェデックス・キンコーズ』に行くことだけを告げ、自室に引っ込むことにした。

あやせは、そんな俺とお婆さんには目もくれず、ひたすら皿洗いを続けていた。

「頑固な奴だ……」

黒猫も強情だったが、あやせも強情さでは同レベルか、その上を行きそうだ。
黒髪ロングの美少女ってのは、おしなべてこうなのか?
だとしたら、俺も女性の好みを考え直す必要があるかも知れねぇ。
誰だか知らんが、あやせと結婚する奴は、色々と苦労することだろう。

「とは言え、多少は機嫌をとってやらねぇと……」

あやせのことだ。この後も監視目的で俺をつけ回すことだろう。
であれば、レポートを印刷するためだけに出歩くのでは、面白くない。
俺はパソコンを起動し、ブラウザを立ち上げ、検索エンジンで『禅寺 抹茶 庭園 拝観』のキーワードで検索した。

「これだな……」


画面には、大学近くにある禅寺で、庭園を鑑賞しながら、抹茶を楽しめるという旨の記事の概略が表示されている。
以前、この下宿の主が教えてくれた寺に違いない。
何でも、寺の内部を拝観出来、拝観後は、抹茶を飲みながら見事な庭園を鑑賞出来るというものだ。
爺むさいとか言われそうだが、こうした体験は、千葉では絶対に無理だし、何よりも、歴史ある寺社が数多く存在する、
この地方らしいレクリエーションと言えた。

「場所も、『フェデックス』のすぐ近くだ」

店からは歩いて十分ほどの距離だろうか。印刷に、待ち時間も含めて、どれだけの時間がかかるか分からないが、
うまくすれば、十時前には、抹茶をたしなみながら、見事だということで定評のある寺の庭園を鑑賞出来そうだ。

「キモ……。何をニヤニヤしているんですか」

いつもの毒のあるコメントがしたので振り返ると、食器洗いを終えたらしく、双眸を恨めしげに半眼にしたあやせが
俺の背後に佇んでいた。

「……お前なぁ、俺には、もうちょっと優しい言葉を掛けてくれたって、ばちは当たらねぇだろうに」

「見たまんまを言ったまでです。パソコンの画面に釘付けになっていて、わたしが部屋に入って来たことも気付かない
のは異常です。きっと、エッチなサイトでも見ていたんでしょう。これは、もう通報、通報ですよ!」

「そうかい……」

『通報』の常套句にも飽きてきた俺は、あやせの言葉にはそれ以上突込みを入れずにパソコンの画面を指差した。

「何です、このお寺は?」

俺は、これからレポートの印刷のために大学近くの『フェデックス』まで行くこと、印刷が終わったら、画面に表示され
ている禅寺で、庭園を鑑賞しながら抹茶でもたしなむことを手短に伝えた。

「変態なお兄さんには不似合いなシチュエーションですね」

「その悪態は聞き飽きた。で、お前はどうなんだ? 俺と一緒に行くのは嫌か?」

あやせは、瞑目して、ふっ、ふっ、ふっ……、と微かな含み笑いをしてやがる。この笑い方、黒猫なんかもよくやるな。

「お兄さんと行くのは嫌に決まっているじゃないですか。でも、このお寺の庭園は、見てみたいし、お庭を見ながら、
お抹茶もいただきたいですね。それに、変態なお兄さんを監視しなければいけまんせんから」

「そうくると思ったぜ。何にせよ、行き先に興味を持ってくれるんなら、それでいいや」

「それだけでいいんですか?」

「どういう意味だ? 何が言いたい」

「分かりませんか? わたしがお兄さんと二人きりで……」

あやせは、謎めいた含み笑いをやめ、そっぽを向いて、不機嫌そうに頬を膨らませていた。

「俺みたいな嫌な相手とでも、行ってみたくなるような場所だってのか?」



言い淀んでいるあやせの心情を代弁したつもりだった。
しかし、あやせは、眉を露骨にひそめて、いっそう不機嫌そうになってしまった。

「もう、いいです……。だから、お兄いさんは嫌いです」

なんで、そんなにツンツンしてるんだろう。こいつの本心って、本当に分からねぇな。

「なぁ、もしかして、俺とのデートだとかって、変に意識してねぇか?」

「そ、そんなこと、あ、あ、ある訳ないじゃないですかっーーーー!!」

こいつ、赤鬼さながらの形相で、俺のデコをグーで殴りやがった。

「いってぇ……」

目から火花が出るってのは本当だったんだな。俺は、自分の額を右手で押さえながら、机に突っ伏して痛みが引くのを待った。

「気持ち悪いことを言わないでください。やっぱり、お兄さんは変態じゃないですか。通報、通報しますよ、もう!」

「人を殴るってのは立派な犯罪なんだぞ。暴行罪って言ってな……。警察に通報したければ、勝手にしろ。ただし、
とっ捕まるのは、お前だがな」

「つ、捕まるだなんて、そ、そんな……」

法律を盾に正論で反撃されるとは思わなかったのか、あやせは、目を大きく見開いて、身を震わせている。
法学部の学生に、通報なんて連呼するからだ。バカたれが。しかし、こいつの態度は何なんだ。

「お前さぁ、何か意地張ってるみたいな感じなんだよ。とにかく素直じゃねぇんだな。疲れるだろ? そういうの」

「わ、わたしは、別に意地なんか張っていません」

「なら、俺と行きたけりゃ一緒に行く、俺のことが大嫌いだったら、無理に一緒に行く必要はない。それだけのことだ」

「そ、それは……、そうですが……。さ、さっきも言ったように、わたしはお兄さんを監視する必要があるから一緒に行くんです。
それ以上でも、それ以下でもありません!」

頑固な奴だなぁ。桐乃や黒猫も相当に頑固だったが、こいつは筋金入りだ。

「お前の建前は、どうでもいいや。選択肢は、二つ。一緒に行くか、行かないか、それだけだ。そのどちらを選ぶかは、お前の勝手だ」

「そうですか……。なら、勝手にさせていただきます」

俺は、あやせを努めて無視して、机から上体を起こし、額をさすりながらパソコンの時刻表示を確認した。時刻は午前
七時半過ぎだ。レポートを印刷してくれる『フェデックス・キンコーズ』は、サイトで確認したところ、祝日の今日は、八時
開店ということらしいから、そろそろ出掛けてもいいだろう。

USBメモリをパソコンに挿して、ちゃんとレポートのデータが入っていることを確認してから、それを通学で使っている


ショルダーバッグに入れた。

「何か、羽織った方がいいかもな……」

この地方は、この時期、寒暖の差が大きいから、伊達の薄着は禁物だ。俺は、箪笥から、先日インターネットの通販で
購入した戦車兵用のジャケットを取り出した。
緑灰色のブルゾンといった感じだが、徹底的に機能的なデザインで、下手な市販品よりも格好がいいと思う。生地は、
消防服にも使われている燃えにくい特殊なものらしく、裏地には『HIGH TEMPERATURE RESISTANT』と記され
たラベルが縫い付けられていた。

「……そのジャケット、似合いますね」

むくれていたあやせが、俺のジャケット姿に目を留めて、ぼそりと呟くように言った。

「まあな……」

さすがにモデルだけあって、服のデザインには敏感だな。
このジャケットは、タイトなシルエットで、軍用にありがちな野暮ったさが全くない。

「け、結構作りがよさそうな感じですけど、どこのブランドですか?」

あやせにしては珍しく、おずおずとしたためらいがちな口調だった。さっきの俺への狼藉を悔いているのかも知れない。
おっと、肝心の質問に対する答えだが、軍の放出品で、新品のくせに五千円程度で買えたってのは黙っておこう。
ブランドについても、「分からない」とだけ答えておいた。

「それはそうと、俺はそろそろ出るぞ。お前は、ご機嫌斜めのようだが、どうする? ここに留守番か? それともとっとと
帰るか、単独行動か……、まぁ、好きにしろ」

突き放すように言っったつもりではなかったが、あやせは、鼻白むように、下唇を噛んで、そっぽを向いたが、すぐに、
「きっ!」とした表情で俺を睨み返してきた。

「留守番も、このまま帰るのも、単独行動もしません! わたしはお兄さんの監視役なんですから、その責務を果たす
までです」

「そうかい……。なら、一緒に来るんだな?」

「行きますとも! お兄さんは、危なっかしいから、わたしが見ていなくちゃいけないんです」

「はぁ?」

微かに頬を染めながらも、きっぱりと言い放つあやせ。俺は本当にこの女の本心が理解出来ない。
以前にも、頬を染めて、微笑みながら、俺を手錠で拘束したことがあったっけ。
照れたような態度で、手錠を掛けたり、殴ったり、いやこれは純粋に暴力か……、『ブチ殺します』とか『変態』とかを
俺に対して吐き散らすのは、こいつの歪んだ愛情表現か? まさかね……。

「わたしも、上に何か羽織ります」

あやせは、黒いタイトな感じのブラウスの上に、丈の短い上着みたいなものを羽織った。たしか、チュニックとかいう
奴だったかな。



「お兄さんのジャケットと、色がちょっと似てますね」

あやせの服も、オリーブ色というか、緑灰色というか、ミリタリー調の雰囲気だ。
最近は、ミリタリー調のデザインが流行ってのは本当らしいな。
しかしながら、さっきまでご機嫌斜めだったというのに、俺と同じような色合いの服を着ることを、今は喜んでさえいる
ようだ。
ファッションのことになると、あやせは、態度や気分を変えるのか? これは、あやせがモデルだからだろうか、それと
も女子全般に言えることなんだろうか。沙織あたりに訊いてみたいところだが、あいにくと、俺の方から桐乃の友人に
連絡することは、お袋から厳禁されている。

「さてと……、出掛けるか」

だが、沙織にも黒猫にも連絡すること禁じられた今の状況で、桐乃の親友であるという新垣あやせが来たという
のは、何と言ってよいのだろうか。
要は、俺の行動を封じたところで、問題は解決しないってことなんだ。
桐乃だって、その気になれば、俺の居場所を突き止めて、やって来ることは十分に可能だろう。

「そのお店には、どうやって行くんですか?」

下宿屋を出て、狭い路地を並んで歩くあやせに、路地のきわから見えたバスの停留所のようなものを指差した。

「あの停留所から、路面電車に乗るんだ」

本当は、『チンチン電車』と言いたかったが、そんなことを言ったら、またぞろ『変態、ブチ殺しますよ!!』とくるに
決まっているからな。

「停留所は、道路のど真ん中にあるんですね」

「そうなんだ、だから、すぐ隣の横断歩道の信号が青になって、クルマの往来が途絶えたその隙に一気に渡るぞ」

「結構、危なそうですね……」

関東だったら、こんな危険な停留所は、絶対に許されないだろう。
だが、この地方は、間延びしているような雰囲気の中に、こうしたスリリングな部分もある。そこが面白いところだ。

「ちょうど信号が変わるところだ、あのクルマが通り過ぎたら、駆け足で行こう」

不意に、あやせが、無防備に下げていた俺の右手をつかんできた。
驚く俺に、あやせは、頬を微かに染めて、上目遣いで俺の顔を見詰めている。

「こ、怖いから、お兄さんと一緒に、渡りたいんです。い、いいですか」

「上等だ! よし、今だ、走るぞ」

あやせの手を引いて、俺は駆け出した。車道を渡り終えた頃、信号は早くも変わり、安全地帯に居る俺たちをかすめ
て、大きなトラックが疾走して行った。言い忘れていたが、ここの信号は、無慈悲なほど早く変わるんだ。

「きゃっ!」


轟音と共に走り去ったトラックが巻き上げた風圧で、あやせの長い髪がかき乱された。
それを元通りにまとめようと、コームを使わず手だけで四苦八苦している姿には、年相応のあどけなさがあった。

「電車が来たな……」

西の方から、くすんだ緑色の電車が一両だけ、ゴロゴロという重苦しい音を立ててやって来た。昭和の中期頃に作ら
れたんだろう。古臭い感じは否めないが、今の電車にはない重厚な雰囲気があって、俺は好きだ。

「床とか、本物の木で出来ているんですね」

乗車したあやせが、間髪入れず指摘した。なかなか目ざといな。今の電車は、耐火性をクリアする必要があるから、
燃えやすい木材はご法度だ。関東じゃ床が木で出来ている電車なんか走っちゃいない。

「東京にも路面電車はあるけど、どれも車両が新しいからな……。ところが、こっちの電車は、どれもこれも博物館入り
してもおかしくないくらいの骨董品ばかりさ」

車内は、俺たち以外には五、六人ほどしか乗客が居なかった。
休日の朝だから、いつものラッシュアワーとはだいぶ勝手が違う。
俺は、運転台に近い席に座り、あやせも俺のすぐ隣に腰掛けた。
俺たちが座ったのを見届けるためだったのか、運転手が肩越しに一度こちらを見て、それから「発車オーライ」の声と
共に、ベルをチンチンと鳴らした。

「あ……、わたし、チンチン電車に乗るのって、これが初めてです!」

「今、何て言った?」

ちょっと意地悪く突っ込んでみた。

「え? あの、チンチン……、あ、あああっ!」

あやせは、自分が言ったことを思い出し、両手で顔を覆って赤面した。

「は、恥ずかしいです……」

「別に恥じることはないんじゃねぇの? 放送禁止用語でもないんだしさ」

「で、でも……、チ、チン…って、言っちゃいました……」

「お前が潔癖なのは分かるけどよ、もうちょっと気楽に行こうぜ。見るもの、聞くもの、自分が言ったことを一々気にして
たんじゃ、身がもたねぇだろうが」

こいつは、社交的なようでいて、実は自分の殻に閉じこもっているのかも知れねぇな。何となく、そんな感じがしてきた
んだ。
むくれていたのに、俺の服に興味を示して、機嫌がよくなったのも、
さっき、車道を渡るのが怖くて、俺の手をつかんだのも、
そして、今、自分の言ったことに気が付いて赤面しているのも、
あやせの心を覆っている硬い殻が、剥がれ落ちた瞬間だったような気がする。

「で、でも、わたし……、わ、わたしは……」


ただ、殻の中にある、こいつの本心が何なのか、俺にはさっぱり分からないけどな。

電車は、俺のそんな物思いをよそに、ガタゴトと古びた街並みを走り続け、いくつかの停留所に止まった後、終点に
たどり着いた。

「ここからは降りて歩くんだ」

未だ赤面の余韻を両の頬に残しているあやせに、俺は右手を差し出した。
あやせは、一瞬、ためらうようにうつむいたが、おずおずと自分の手を伸ばし、俺の右手につかまった。

この街の繁華街でもある路面電車の終点付近は、連休中ということもあって、ごった返していた。
俺は、あやせの手を引いて、人込みの中を縫うように進んで行った。

目指す『フェデックス・キンコーズ』は、繁華街の中、仏具屋と老舗の呉服屋に挟まれて存在していた。

「ここですか? 立地条件が何かシュールですね……」

「たしかにな……。純和風な老舗の間に、こんな外資系の店があるんだから、変、ちゃ、変だよな」

古臭いものの中にも、突然変異的に最新のものが出現し、違和感がありつつも、いつの間にか馴染んでしまう。
そんな奇妙な街、それがここなんだ。

「まだ八時過ぎだからですか? 意外に空いていますよ」

ガラス張りで内部が丸見えの店内には、黒っぽいシャツを着た店員以外の人影がまばらだ。
やったね。これなら、速攻でプリントも終わるだろう。

店に入り、店内のカウンターの上に持参したUSBメモリを置き、店員に「これの中に入っているファイルをA4の
普通紙に出力してください」とお願いした。

「どのファイルをプリントアウトすれば宜しいのですか?」

店員のもっともな指摘に、俺はプリントしてもらうファイル名をメモに書いて差し出し、件のUSBメモリには当該
ファイルしか記録されていない旨を告げた。

「五分ほどお待ちください……」

開店早々に来たのは正解だったようだ。これなら、あやせもイライラしないだろう。

「お店で一々印刷してもらうのは大変でしょ? プリンタは買わないんですか」

俺は苦笑した。仕送りが生活するのにギリギリで、かつ、落ちこぼれないように毎日必死で勉強しているから
アルバイトも出来そうにない。そんな状況で、プリンタを買うのは、どう考えても無理がある。

「あのさ……、パンツが黄色くなっても捨てられない俺の懐具合を察してくれよ」

あやせの顔が、かぁ~と、擬音で表現出来そうなほど赤くなった。
昨日、俺の箪笥から局部が黄変した下着を引っ張り出したことを思い出したんだろう。

「な、何てことを言い出すんですか、へ、変態……」



場所柄をわきまえたのか、ささやく様な小声だったが、あやせは目に涙を溜めて、両の手を震わせながら握り締めた。

「変態は、俺のパンツを勝手に箪笥から出して、しげしげと見ていた、お前だろうが」

「くぅ……」

どうだ、ぐうの音も出まい。
今まで、そして今朝も、あやせに殴られてきた俺だが、さすがに、こいつのあしらい方が分かってきたような気がする。

「プリントが終わりました……」

そう呼ばわれて、俺はカウンターに戻り、印刷されたレポートを店員から受け取って、ざっとあらためた。
ページとかの欠落はないことを確かめて、俺は代金を支払った。

「さてと……、いよいよ、お寺でデートと洒落込むか?」

鞄の中にプリントアウトされたレポートを仕舞いながら、そう言ったが、あやせは頬を染めたまま何も言わなかった。
そのあやせの手を引いて店を出ると、繁華街を左手に折れ、臨済宗の寺社、つまりは禅寺が密集している路地に
入って行った。

「ろ、路地に入ると、雰囲気ががらっと変わるんですね!?」

数百年前からほとんど変わっていないであろう、古色蒼然とした仏閣が続く景観に、あやせが面食らっている。
無理もない、表通りには、風俗とかのいかがわしい店もあったのに、一歩路地に入ると、全く別の世界が広がって
いたんだから。

「たしかここだったはずだ……」

ひときわ大きな門が印象的な臨済宗の寺院だった。一応は観光の対象ではあるようなのだが、路地裏にあるためか、
一般の知名度はそれほどでもないらしい。むしろ、地元の人が訪れることが多いようだ。
門のきわには、『拝観料は、お一人三百円』という札が掛けられた小屋掛けがあり、初老の婦人の姿が、ガラス越し
に認められた。

「わたしが払っておきましょうか?」

チュニックのポケットから財布を取り出そうとしたあやせを押しとどめ、俺は、財布から五百円玉と百円玉をそれぞれ
一枚、その初老の婦人に手渡した。

「デート相手の女の子におごられるってのは、男として屈辱なんだよ」

「これって、デートなんですかぁ?」

俺は、『そういうことにしておけ』というつもりで、あやせにむかって、にやりとし、反応を窺った。
あやせはあやせで、「うふふ……」という、含み笑いをしてやがる。まぁ、いいか……。

寺の拝観は、墨染めの作務衣を着た若い僧が(と言っても、俺よりもずっと年上だが)、境内、それに本堂やその他の
建物の中を説明しながら案内してくれた。

修学旅行で回る、奈良とかの名刹に比べれば、大きな仏像や派手で見栄えのする仏具等もなく、全体の居住まいは


地味そのものだ。元々は、この地方の武士階級が、座禅等の修練や、儒学などの講義を受けるために利用した寺院だ
というから、質実剛健を旨とし、余計な飾りなどとは無縁なのだろう。

「でも、建物は、がっしりとしていて、重厚な感じですね……」

あやせが、頭上の太い梁を見上げている。モデルなんかやっているから、こうした地味なものは毛嫌いするかと思っ
たが、こいつは桐乃なんかとはちょっと違うらしい。

一通り拝観した後、畳敷きの大広間に通された。案内役の僧侶に促されるまま、その大広間に座ると、板張りの廊下
を挟んで、池と築山で構成された日本庭園が見渡せるようになっていた。

「そんなに広くはないですけど、築山の石と、石と石の間に生えている苔の緑と、何だが複雑な形をした池とが、
いい感じです」

「そうだな……」

池は『心字池』という形式らしい。『心』の字をかたどった池だという。そのため、入り組んだ複雑な形状をしている。

「池の水が、きれいに澄んでいるんですね」

何らかの人工の浄化設備があるのか、湧き水を絶えず導入しているのか、そのいずれかだろう。
さざなみ一つない鏡のような水面には、五月の青空がくっきりと映っていた。

「爺むさいとか言われそうだけど、俺はこんな風に、静かな雰囲気が嫌いじゃない」

「でも……、あ、あんな漫画とかゲームとかの趣味もあるじゃないですか」

俺は苦笑した。エロゲとかは本来俺の好みじゃねぇ。
そのことに本当はあやせだって気付いているような気がしたからだ。
それに、桐乃のために自ら被った、鬼畜ド変態の汚名をそろそろ返上してもいい頃合だろう。

「本当は知ってるんだろ?」

「何をですか?」

「桐乃のあの趣味が、実は俺から影響を受けたものじゃなくて……、それどころか、俺の方が、桐乃に言われて、あいつ
の趣味に付き合ってやっていたってことさ」

「あら、そうなんですか?」

そっけなく言ったが、あやせは半眼で含み笑いをし始めた。

「何だ、やっぱり知ってやがったか……。そういうことだから、俺が変態だっていう汚名は、そろそろ返上させてくれ」

「そうですね……、考えておきます。昨夜も、寝ているわたしに何もしなかったようですし……」

「そうだろ? 俺は本当は品行方正な真面目人間だからな」

「品行方正ですか? 何かいろいろとセクハラをされたような記憶があるんですけどぉ……」



「正直、お前のことが好きだったから、俺も過剰に反応したってのはあるけどな。お前も分かっているように、セクハラ
まがいのほとんどは桐乃のためにやってきたことなんだ」

「そうですね……、一昨年、公園でエッチな漫画をわたしに見せて、挙句に桐乃に抱きついて、『俺は妹が大好きだぁ』
なんて叫んでいたのは、桐乃とわたしの関係を元通りにするための捨て身の行動だったんですね」

「何だ、やっぱり知っていたのか」

「ええ、桐乃がお兄さんのことを好きなのは分かってましたけど、お兄さんの桐乃への気持ちはそうじゃありません
でしたから。それに、エッチな漫画やゲームには、桐乃の方が入れ込んでいるのは、何となく分かりますしね」

「鋭いな……」

「お兄さんが鈍すぎるだけです」

ぴしゃりと言いやがった。やっぱり、こういうところは可愛くねぇな。

「だとすりゃ、俺を変態扱いするのは、もうお仕舞いにしてくれねぇか。そもそも、俺が桐乃のたに自ら汚れ役を演じて
いたってのを知っていたのなら、わざわざこんなところまで来て、性犯罪者予備軍宅の家宅捜索だなんて、強調する
必要もなかったよな」

俺のことを『大嫌い』ってのも撤回して欲しいけど、それは無理だろうな。

「残念ですが、お兄さんは性犯罪者予備軍のレッテルを貼っていてもらった方がいいんです。
ですから、今後も変態扱いはさせていただきます」

「おい、どういうこった! 俺をコケにするにもほどがあるぞ」

静かな寺院内ということで、控えめな口調を心掛けたが、場の雰囲気にそぐわなかったのは確実だ。
案内役だった僧侶が、眉をひそめて俺の方を見ている。

「あ、あ、すいません。え、え~と、ここでは、お茶をいただけるんでしたよね? だったら、お茶とお茶菓子を二人分
よろしくお願いします」

最初からお茶とお茶菓子はお願いするつもりだったから、これでよし。ついでに剣呑そうな話もごまかせたようだ。
しかし、茶菓子付きとは言え、一人前が八百円か……、高いのか安いのか、悩むところだな。

「で、話の続きだが、何で、俺が変態である方がいいんだよ」

案内役の僧がお茶を点てるために奥へ引っ込んだのを確かめて、あやせへの抗議を再開である。

「……、少しヒントをあげましょう。お兄さんは、危なっかしいから、変態だと他の女の人に思い込んでもらった方が
いいんです。これだけ言えば、いい加減分かってくれますよね?」

なんじゃそりゃ?

「すまんが、言ってる意味がよく分からない。仮にものすごく悪く捉えると、俺はやっぱり世の女性に害をなす存在だから、
鬼畜ド変態ということにしておいて、他の女性を俺の手から予め護っておくというようにしか聞こえねぇぞ」

あやせが、呆れたような、それでいて悲しそうな、何とも表現しがたい面持ちで俺を眺め、目を閉じて、大きなため息を

ついた。

「そう思うのなら、そういうことで結構です。でも、そんな風にしか考えられないお兄さんは、やっぱり嫌いです」

「んじゃ、嫌いな奴に、どうしてついてくるんだ。俺を監視するためか? 桐乃にちょっかいを出しそうな危険な存在だからか?」

「監視というのは、正しいかも知れませんね。今は好ましい状態ではなくても、何かの弾みで変わるかも知れない。
それを多少なりとも期待している、と考えてください」

それは、今は嫌いだけど、俺の変わりようによっては、あやせも、出会った当初のように、俺のことを好きになってくれ
るってこのとなのか? 今までの扱いを考えると、素直にそうとは受け取れねぇけどな。

「期待しているのか、俺のことを」

その一言で、あやせは、一瞬むっとしたように目を剥いて、眉をひそめた。

「言い直します。期待よりも危なっかしくて見ていられないという方が大きいですね。とにかく、今のお兄さんじゃ、
ダメなんです」

「ダメだ、ダメだって言われても、具体的にどこがダメなのか指摘してくれないと、こっちは対処のしようがねぇよ」

あやせは、半眼で俺を見据え、『ダメだ、こりゃ』と言いたげに、首を左右に軽く振った。

「わたしは、今までに散々ヒントを言っているんですけど、それでも分からないようじゃ、どうしようもありません」

「お前の言うヒントとやらが難解すぎるだよ。いい加減、答えを言ってくれたってばちは当たらねぇだろうが」

「答えを言っても、お兄さんのためにはなりません。ですから、どこがダメなのか、お兄さん自身が考えてください」

「いや、考えても分からないから答えを教えて欲しいんだがな」

「ろくに考えもしないうちから、答え、答えって言わないでください。わたしは、お兄さんに答えを教えるつもりはありま
せん。ただ、これからもお兄さんを監視して、お兄さんが答えを見つけ出してくれるまで待ちます。その時までの、わたし
の言動、一挙手一投足が、答えを導くためのヒントであると思ってください」

「お、おい……」

あやせは、それだけを一気にまくし立てると、俺が呼び掛けても何の返事もせずに、ただただ、庭を眺めるだけだった。
しかし、これからも監視だって? ということは、これからも遠路はるばる千葉からここに来るわけか。電車賃だって
新幹線を使うから、とんでもなく高額なんだけどな。それでも、現役高校生モデルの新垣あやせ様には、この程度の
電車賃なんか屁でもねぇんだろう。

少し風が出てきたのだろうか、庭園の楓の梢が微かに揺れ、池の水面がさざなみでかき乱された。
俺たちが正座している大広間にも、ひんやりとした、朝の空気が流れ込んでくる。

「おっ?!」

和服姿の女性が、大広間と庭園とを隔てるように設けられている廊下を、しずしずと、奥の庫裏の方へと向かって
行くのが目についた。

髪を結い、かすり模様とでもいうのだろうか、落ち着いた柄の着物に、紫色の風呂敷包みを大事そうに抱えている。
普段着っぽい着物を、極々自然に着こなしているのが、ファッションには疎い俺にも分かった。
和服を相当に着慣れている感じだ。

そして、何よりも……。ものすごい美人だった。年の頃は、二十歳前後という感じだろうか。
細面の整った面相に、微かな憂いをたたえた瞳があり、それが気品と知性を漂わせていた。

「あ、ど、どうも……」

不覚にも、件の女性と目が合ってしまった。不躾な話だが、ついつい見とれてしまっていたらしい。
だが、その女性は、にっこりと微笑むと、そのまま俺たちの目の前を素通りし、奥の方へと歩み去った。

「お兄さん、今の人は、お知り合いか、何かですか?!」

あやせが、おっかない顔で俺を睨んでいた。

「んな訳ないだろ。こっちに来て一箇月も経っちゃいないんだ。男の知り合いだってほとんど居ないんだぞ」

「でも、さっきの女の人は、明らかにお兄さんのことを知っている感じでしたけど……」

しつこいな……。

「たまたま俺と目が合った、だから向こうも軽く会釈をした。その程度のことだろうよ。深く考えるな」

「そうかも知れませんが、何だか嫌な感じがするんです」

「嫌な感じって……。悪意なんか微塵もなさそうな、楚々としたお嬢様だったぞ。お前の思い違いじゃねぇのか?」

「だから、お兄さんはダメなんです! もう、本当にしっかりしてください」

「何だよ……、単にダメ、ダメ、ってだけじゃ、訳が分かんねーよ」

何なんだろうね、こいつは。さっきの女の人を露骨に敵視してやがる。
美人って奴は、自分よりも上の奴が現れると、気になるものなのか? 確かに、あやせじゃ、とてもじゃないが太刀打
ち出来ないほどの美人だったな。単に顔の造作がいいっていうレベルを超えている。知性とか品格とか、内面までを
含んだ全てが、あやせとも、桐乃とも、黒猫とも違いすぎる。素顔の沙織だって敵いそうにない。しかし、何者なんだ? 
住職の住まいである庫裏に向かったところを見ると、この寺の関係者だろうか。

「お待たせして、申し訳ありませんでした……」

案内役の僧が、俺とあやせの口論に割り込むようにして、抹茶と茶菓子を持って来てくれた。

「お、おい、取り敢えず、話はお預けにして、お茶を楽しもうや」

若い僧侶には、恥ずかしいところを見せてしまったようだが、正直助かったぜ。
こんな静かな場所で、これ以上、あやせと口論なんかしたくないからな。

「わたし、お抹茶をいただくのは初めてなんです」

「それは俺も同じだよ」



出された器には、その半分辺りまで緑色のお茶が入っていた。
抹茶というものは、器の底に申し訳程度にしか入っていないものだと思っていたが、ここではそうではないらしい。

「ドロドロしてなくて、苦味もそんなになくて、結構美味しいものなんですね」

「確かに、俺は素人だからよくは分からねぇが、いくぶん薄めに点てて、その代わりに量を多めにしてるって感じだな」

その点て方が、作法とか何とかに適っているのかどうかは分からないが、抹茶を飲み慣れていない観光客も訪れる
んだろうから、こうした方が正解なんだろう。

「可愛らしいお饅頭が付いていますよ」

「これは、薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)だ」

「じょうよまんじゅう、って何ですか?」

「薯蕷ってのは、ヤマイモのことだ。米の粉に摩り下ろしたヤマイモを混ぜた生地で餡子を包んでいるから、そう呼ばれ
ている」

「お兄さん、なにげに物知りですね」

「まぁ、麻奈美の家でも作っていたからな……」

そういや、麻奈美の奴も、粉に摩り下ろしたヤマイモを混ぜた生地で餡子を包んで、それを蒸していたっけな。

「……、お姉さんのことは、残念でしたね……」

「確かに残念だったが、こっちに追いやられて、連絡一つ自由に出来ないんじゃ、いずれは、こうなっちまっただろうさ」

何だこいつ……、昨日は麻奈美を赤城に取られたことを、面白おかしくぺらぺらしゃべっていたのに、今は妙にしゅん
としちまっているな。

「でも、これでお兄さんは、お姉さんとの関係も、桐乃との関係も、あの黒猫とかいう五更先輩との関係も、その全部が
リセットされたんですよね?」

「リセットって……、う~ん、桐乃には俺のお袋が絶対に会わせないから、桐乃との関係は、完全にジ・エンドだろうな」

「五更先輩とはどうなんです?」

「黒猫からは、四月の中旬にメールが来たが、ここでの状況を桐乃に話されるのはまずいと思って、時候の挨拶程度で
お茶を濁したら、それがいけなかったのか、それっきりだ……」

「そうでしたか……」

しかし、何で、俺の女性関係をこんなにもしつこく訊くとは、俺に対して多少は脈があるのか?
そう思って、俺はあやせの顔をじっと見た。
だが、瞬きすらしそうにない、いつになく神妙な面持ちからは、あやせの本心めいたものは何ら読み取れなかった。
いや、そんなことよりも、もっと大事なことがあったっけ。



「お前も、昨日と今日、俺に会って、俺と過ごしたってことは、絶対に桐乃には内緒だ。それだけじゃない、桐乃と関係が
ある人間には、絶対に言わないでくれ。もし、俺の居場所が桐乃にばれたりしたら、俺がこの街で桐乃から隠れて暮らし
ている意味がなくなっちまう」

「そうですね……。無茶なことをする桐乃のことですから、お兄さんの居場所が分かれば、とるものも取り敢えず、訪ね
て行くことでしょう。そうなったら……」

あやせは、能面のように無表情だった面相を、心なしか、苦しげに歪めた。
彼女が毛嫌いしているエロゲそのものの展開になってしまうことを想像して嫌悪しているのかも知れない。

そんなことにはならない、と俺自身は思いたいが、俺のことを好きだということを、もはや隠し立てしない桐乃が暴発
するおそれは十分にある。

「俺と桐乃との関係は、時が解決してくれるのを待つしかない……。あいつにだって、心底好きな男が出来るかも知れ
ねぇし、そのうちに、俺とのことを忘れちまうかも知れねぇ。それに……」

「それに……って、何ですか?」

「あいつが留学することだって、まだまだ考えられる。『エタナ…』とかって言ったかな、あの化粧品メーカーの女社長……」

「『エターナルブルー』の藤真社長のことですか?」

「そう……。桐乃を欧州に連れて行きだがっている、その女社長だよ。社長は、桐乃のことを諦めた訳じゃないんだろ?」

あやせは、能面のような面持ちで、ゆっくりと頷いた。

「ええ……。藤真社長は、未だに桐乃に執着しているようで、破格の条件を桐乃のご両親に提示しているようです。でも、
桐乃は絶対に承諾しないみたいなんです」

親父も承諾しないだろう。おそらく、実家では、お袋だけが一人浮かれて、女社長のオファーに乗り気なんだろうな。

「桐乃が承諾しないのは、俺が日本に居るからか?」

「そうかも知れませんし、そうでないかも知れません。それに、ここに来てまで、桐乃、桐乃、の話はやめにしませんか」

あやせが、能面のような表情を歪め、まなじりを吊り上げていた。仰せの通りだな。
俺のことを嫌っているとはいえ、一応はデートみたいなものをやっている最中に、自分の妹の話も何もないもんだ。

俺たちは、そのまま押し黙って、出された抹茶と茶菓子を味わった。
桐乃や黒猫、麻奈美の話が出たからか、お茶の味が先刻とは打って変わって妙に苦く感じる。
俺は茶をあらかた飲み干すと、顔をしかめて茶碗を置き、代わりに、先ほどプリントアウトしてもらったレポートを
鞄から取り出した。これでも読み直せば、少しは気が紛れるかも知れない。

そんな折、奥の方から、廊下を歩く微かな足音が聞こえ、先ほど、俺に会釈してくれた美人が、折り畳んだ風呂敷を
手にして、右側から現れた。その美女は、そのまま俺たちの前を通り過ぎるかと思ったが、俺のちょうど真ん前で立ち
止まり、今度は、俺の顔をまじまじと見詰めている。な、何なんだ?!

「失礼ですけど、法学部一年の高坂さんじゃありませんか?」



「え? ええ…、そうですけど……」

「ほら、わたくしをご存知ありませんか? 同じ法学部一年の……」

「は、はぁ……」

我ながら何とも要領を得ない生返事をしながら、俺は必死に記憶の糸をたぐった。そういえば、法学部の教室に
たむろ、と言っては語感が悪いが、教室の一角で、ひときわ華やいだ雰囲気を漂わせている女子のグループが居たが、
その中の一人に、この人が居たような気がした。

「保科です。保科隆子といいます。ほら、いつも法学部の教室の前の方に座っている」

「あっ、あの、保科さん?!」

華やかな女子のグループの中で、ひときわ美人のオーラを振りまいている女子学生が居るのだが、その人が今
目の前に居るのか。俺も、彼女の名字だけは覚えていた。何でも、この地方屈指の名家の令嬢であるらしい。
いつもは艶やかな黒髪のストレートだったように記憶していたが、今日に限っては和服に合わせてまとめていたから、
全然印象が違っていた。
しかし、何で、保科さんは、俺の名前を知ってるんだろうね。そりゃ、学籍番号と名前だけが記された学籍簿は、法学
部生の全員に配布はされているけど、平凡な一学生に過ぎない俺の名前と顔を認識してるってのが、よく分からない。

「思い出していただけたようで何よりです。でも……」

そう言いかけて、保科さんは、廊下から俺たちの方に二、三歩、近づいて来た。

「でも……って、何ですか~~?!」

想定外の事態だった。ミス法学部というよりも、ミス・キャンパスと言っても過言ではない超美人が、近づいて来る
のだ。それも、理由が分からないままにである。

「気になりますね、高坂さん。お隣にそんな可愛らしい娘さんが居て、もしかしてデートでしたか?」

そ、そんなことをいきなり訊くんですか?!

「あ、い、いえ、こ、こいつは、い、妹でして……。デ、デートなんかじゃ、あ、ありませんよ……」

しどろもどろで保科さんに釈明した俺を、あやせの奴が、おっかない顔で睨んでいる。なんでだぁ?

「お兄さん! 何、いい加減なことを言っているんですか。今日は、わたしとお兄さんとのデートじゃないですか!!」

むっとした表情で、あやせが言い放った。うぇ、何だ、こいつ。

「あら、あら、せっかくの妹さんとのデートの邪魔だったかしらね……」

あやせの剣幕に辟易したのか、保科さんは、そのまま立ち去ろうとしたが、レポートを持った俺の手元に目を留め、
俺の方に軽く屈み込んできた。

「な、何か?」

「……高坂さん、それは何ですか?」



「あ、ああ、これは、休み明けに提出する民法のレポート。昨日、書き上げて、今しがた、大通りにある『キンコーズ』で
印刷してもらった訳で……」

言い終わらないうちに、保科さんが、「まぁ!」という感嘆詞を上げ、あらためて俺に近づいてきた。

「わたくしも、そのレポートには苦労していたので、よろしかったら、ちょっと読ませていただけませんか?」

「え? え、ええ……」

超絶美人に接近されて、俺はたじたじだ。

「じゃぁ、ちょっと失礼致しますね」

口ごもった俺の曖昧な返答を了解と受けとった保科さんは、たじろぐ俺にはお構いなしに、俺の右隣に座った。
こ、これで両手に花だ……。
でも、一方の花は高嶺の花だし、もう一方の花は俺に刺々しい言葉をぶつけてくる毒の花なんだけどな。

「……く、ううう……」

その毒の花も、大胆に近づいてきた高嶺の花にけおされて、歯噛みしながら声にならない呻きを上げている。
こりゃ、後がこわいな……。

しかし、保科さんは、敵意むき出しのあやせにも、にっこりと害のない笑みを向けた。
天然なのか、大物なのか、何だかよく分からない人だ。
その保科さんは、俺たちの案内役を努めてくれた若い僧侶に、

「わたくしにもお茶とお菓子をお願い致します……」

と言いかけて、俺たちの茶碗の中が空っぽに近いことに気付き、俺たちに向かって微笑んだ。

「よろしかったら、もう一杯いかがです? わたくしだけが、お抹茶をいただいているのも申し訳ありませんから」

「え、ええ……」

悪意が微塵もない笑顔なのに、何なんだろうね、イヤとは言えない強制力みたいなもんがあるんだよな。
あやせだって、ぐうの音も出せないし……。

「じゃあ、こちらのお二人にも、お代わりをお願い致します」

と、件の僧侶に付け加えた。
僧侶は、「かしこまりました、お嬢様」と言って、茶を立てるために奥へと引っ込んで行く。
しかし、坊さんに『お嬢様』と呼ばれる保科さんって、沙織とはまたタイプが違う、真性の令嬢なんだな。

「で、保科さん……。保科さんは、何でまた、このお寺に?」

「母に命じられまして、ちょっと、こちらの和尚様にお届け物をするために参ったのです」

「そうだったんですか……」



あの風呂敷包みが、お届け物だったのか。
どんなものなのか、ちょっと知りたい気もするが、それを訊くのは薮蛇なんだろうな。

「それはそうと、すみませんが高坂さんのレポートを一読させていただけないでしょうか」

「あ、ああ、じゃぁ、こ、これです……」

判例と条文をコピペして、それに個人的に気に入っている法学書の学説を根拠として、最後にそれらしく自分の意見
を添えただけだから、正直恥ずかしい。だが、提出する前に誰かに見てもらった方がいいかもな。
致命的なバグがあるかも知れねぇし。
俺から手渡されたレポートを、保科さんは、真剣な表情で読み始めた。本当に真面目に読んでくれているんだな。
その真剣そうな雰囲気に、ぶーたれているあやせも突っ込めない。
頼んだお茶と菓子が届けられても、完全に読み終えるまで、それには手をつけなかった。

「なるほど……」

読み終えた保科さんは、感心したかのように、呟いている。

「ど、どうでした?」

保科さんは、俺の一言で、我に返ったかのように、はっとし、それから、俺たちがお茶を飲まずに待っていたことに気付
いたらしい。

「あ、ご、ごめんなさい、引用されている学説と、高坂さんの見解とかが興味深くて、読み耽っちゃいました。お二人とも、
お茶には手をつけずに、待っていてくださったんですね」

「い、いや、まぁ……」

真剣に読んでくれている保科さんを蔑ろにして、勝手にお茶は飲めませんよ。何ていうか、物腰全てに、場の雰囲気
を支配するオーラがあるような感じなんだよな。

「では、まずは、せっかくお寺さんが点ててくださったお茶をいただきましょうか」

「そ、そうですね……」

保科さんが、おそらくは作法に適った優雅な所作で茶碗を口元に運んだのを見届けてから、俺も、あやせも、二杯目
の茶を一口含んだ。

「それで、高坂さんのレポートですけど……」

「どうでした?」

「T大の内田先生の学説をベースにしているんですね」

「分かりますか?」

俺の問い掛けに、保科さんは、にっこりと頷いている。
すげぇな。ということは、保科さんも内田先生の本を読んでいるってことか。

「ええ、わたくしも、内田先生の本は名著だと思うので、参考書として所有しておりますから。ただ……」



「ただ……、何です? 何かよろしくない点がありましたか?」

「わたくしたちの大学の先生方の中には、T大の先生方とは相容れない主義主張の方がおられますから、内田先生の
学説を百パーセント礼賛するのは危険でしょうね」

「じゃ、書き直しですか……」

うわぁ、しくった! あやせが帰ったら、必死で頑張らねぇといけなくなっちまったぜ。

「いえ、高坂さんのレポートは、内田説の問題点を指摘した高坂さんの見解が結語にありますから、問題ないと思い
ますよ。これなら、大丈夫でしょうね」

「そ、そうでしたか……。一時は、書き直しを覚悟しましたよ」

俺の表情の変化か何かがおもしろかったのか、保科さんが微笑している。しかし、超絶美人の笑顔ってのは、やっぱ
いいな。それが、俺の醜態を笑っているものであってもだ。

その一方で、俺と保科さんの会話についていけないあやせが、膨れっ面をしている。
そして、あろうことか、こいつは、茶碗に残った茶を、ずぅ、ずぅと露骨に音を立ててすすりやがった。

「お、おい! 何て無作法なことやってんだ」

保科さんも、そんなあやせを小首を傾げて見つめている。こりゃ、とんだ赤っ恥だ。

「う~ん、妹さんは、茶の湯にご興味がおありのようですね……」

「え?!」

俺は思わず絶句したね。どこでどう間違うと、そんなことになるんすか、保科さん。
やっぱ、この人、ド天然だわ。

「二週間後の土曜日ですが、拙宅で野点を行う予定です。よろしければ、妹さん共々、高坂さんもいかがですか?」

「い、いえ、お、俺、じゃなかった、僕も妹も、茶道の心得は、ま、まったくありませんから……」

「それなら、当日は、一時間ほど早めに拙宅にお出でいただいて、わたくしが基本的な作法を、お二人にお教え致します。
これなら、宜しいでしょう?」

保科さんが、にっこりと微笑んでいる。これをまともに見ちまうと、イヤとは言いづらいな。だが……、

「せっかくですが、兄もわたしも、週末は忙しいんです。何よりも、この街は、関東から気安く来れる場所ではありません
ので、わたしは無理です」

あやせの奴、膨れっ面のまま、きっぱりと断りやがった。
だが、保科さんは、そんな不機嫌丸出しのあやせにも、微笑みかけ、それから、俺の顔をじっと見ている。

「高坂さん……」

「な、何すか? というか、無作法な妹ですみませんでした」



憂いを帯びた瞳に屈して、思わず詫びちまったぜ。しかも、あやせをコケにしてだからな。ビンタくらいは覚悟しとくか。

「いえ、いえ、妹さんは、遠くからお出でになるのを失念しておりました。そうであれば、高坂さんお一人でお出でください」

その一言に、あやせが目を剥いた。

「じょ、冗談じゃありません! 兄一人をそちらに行かせるわけには参りません。わたしも参加します!!」

「まぁ、妹さんにもお出でいただけるんですね。大歓迎です。え~と、失礼ですが、お名前は?」

「あやせ、高坂あやせ、と申します」

保科さんは、反芻するかのように、「高坂あやせさん、あやせさん、と……」呟いた。しっかりと記憶に留めておくつもりのようだ。
保科さんに対する無作法で挑発的な振る舞いが、印象に残ってしまったのは否めない。

「野点につきましては、後日、高坂さんに正式な招待状をお渡しします。それで、当日の服装ですが……」

そう言い掛けて、保科さんは憂いを帯びた瞳を俺に向けてきた。俺は、ドキッとしたね。
間近で見れば見るほど、本当に鳥肌が立つような美人だ。

「さ、茶道のセレモニーですから、やっぱり、和服ですか?」

彼女の美しさにちょっと狼狽しているのが傍目にも分かっちまっただろうな。特に、あやせには……。
しかし、和服限定だとしたら、貸衣装か? 和服にしたって、まさか紋付袴じゃあるまいし……、と悩む俺を安心
させるつもりなのか、保科さんは、俺に艶麗な笑みを向けている。

「殿方はスーツで結構ですよ。ですけど、あやせさん……」

「な、何でしょうか?!」

保科さんへの警戒心というか、ここまでくれば敵意丸出しと言うべきか。あやせは、まなじり吊り上げ、目を剥いて、
保科さんを睨みつけている。

「ご婦人方は、出来れば和服でお出でいただくことになっております。二週間後は、もしかしたら少々暑くなるかも知れ
ませんが、よろしくお願い致します」

「考えておきます。それも天気次第ですね……」

「ええ、あやせさんの和服姿が楽しみです……」

敵意むき出しのあやせのおかげで、場の空気が、ぴーんと張り詰め、ちょっと突っ突けば、パリンと割れてしまいそう
だった。
だが、そんな息苦しい雰囲気にあっても、保科さんは、悠然と茶をたしなみ、茶碗を置いた。

「ふぅ……。ここのお庭を眺めながら、いただくお抹茶は、やはり格別です」

「そ、そうですか……」



ド天然、恐るべしだな。

「そろそろ、おいとま致しますね。ちょっと、ゆっくりし過ぎたようで、名残惜しいですけど、そろそろ帰宅しないと、
母に叱られます」

保科さんは、細い手首に巻いていた腕時計で時刻を確認している。
その黒革ベルトの腕時計は、和服に合わせたのか、妙にシックで、今どきのものではないような雰囲気だった。

「あ、どうも、お引止めして申し訳ありませんでした」

「いえ、いえ、デートを楽しんでおられる高坂さんとあやせさんのところに、このわたくしが勝手に参っただけです。
詫びなければならないのは、わたくしの方です」

そう言って、保科さんは、立ち上がると、俺たちと向き合う形で正座し直し、三つ指をついた。

「あ、あの、そこまでされると、こ、困りますよ」

だが、保科さんは、「二週間後の野点は、ぜひよろしくお願いします」とだけ、笑顔と共に付け加えて、庭園に面した
廊下をしずしずと歩み去って行った。

法学部のマドンナは、超絶美人であることは間違いなかったが、つかみどころのないド天然でもあるようだ。
だが、あやせの見解は、俺とは丸っきり違っていた。

「……、お兄さん。何を鼻の下伸ばして、でれっとしてるんですか。変態……」

「お前なぁ……、保科さんが善意で俺たちを野点に招待してくれたんだから、こっちも笑顔で応えるのが礼儀ってもんだ
ろうが、それが、お前ときたら……」

「善意って……。あ~~っ、だからもう、お兄さんはダメなんです。危なっかしくて。いいですか? さっきの、お兄さんの
同級生は、お兄さんが想像するような善人じゃないですよ」

「どうして? 保科さんは、ものすごい天然だが、特に悪意は感じられなかったぞ。それに、この地方屈指の名家の令嬢
だっていうのに、この寺へのお使いもするし、着ている着物だって、木綿か何かの質素なものじゃないか。
物腰も穏やかで、高飛車なところが全然ない。いったい、どこに問題があるんだよ」

「お寺のお使いは、おそらく使用人には任せられない大事なものなので、お兄さんの同級生が行かざるを得なかったん
でしょうね。それに、着ている物だって、質素なんかじゃありません。とんでもなく高価なものなんですよ」

「え? ただの木綿の着物みたいだったぞ」

そんなに高級品には見えなかったけどな。保科さんの着物は。
あやせは、そんな風に思っている俺の間抜け面にうんざりしているのか、瞑目して、大きなため息をついた。

「あれは、木綿なんかじゃありません。紬という絹織物です。それも、ものすごく手間隙掛けて織られたものですから、
普通の絹織物よりも格段に高額なんですよ」

「マジかい……」

「それも今のものじゃないですね。おそらく、大正か昭和かの大昔に入念に作られて、代々受け継がれてきたものなんで
しょう。今、同じものを作ろうとしたら、いったいどれだけのお金がかかるやら、見当もつきません」



「それじゃ、まるで家宝みたいなもんじゃねぇか」

「ええ、それだけ貴重なものを普段着同然に着慣れているっていうのは、贅沢の次元が、今風のセレブなんかとは段違
いですね」

ファッションには、少なくとも俺よりも格段に造詣が深いあやせが言うのだ。多分、本当なんだろう。
それに、妙に腕時計がクラシックだなと思ったが、腕時計も相当に高価なもので、紬同様に祖先から受け継がれて
きたものに違いない。

「……、そうなると、保科さんの印象は、だいぶ変わってくるな……」

「お兄さんは、保科さんを『天然』って言ってましたけど、わざとそう見せている気がするんです」

「どうして? そうすることで、保科さんに何かのメリットがあるか? 少なくとも、あまりねぇような気がするが」

「それはそうですけど……。でも、何か不自然なんです。どこが、どうって、はっきりは指摘出来ないんですけど、とにかく、
嫌な感じがするんです」

心底、不快そうに眉をひそめるあやせに、俺は困惑するしかなかった。
だって、保科さんは、高飛車なところが微塵もない、穏やかな人じゃないか。それに対して、保科さんに過剰なほどの
敵意をむき出しにするあやせの方が、余程どうかしている。

「俺たちも、そろそろ出るか……」

茶を飲み終えたというのもあるが、あやせの苛立ちに、居たたまれなくなったというのが本音だった。

ちょっと痺れたような感じがする脚をだましだまし伸ばして立ち上がり、大広間の脇で俺たちを見ていた案内役の僧
に、茶と茶菓子の代金を払おうとした。だが、件の僧は、

「いえ、いえ、保科様のご学友ということであれば、代金を頂戴する訳には参りません。本日は、このままで結構です」

と告げ、おまけに入り口で俺が払った拝観料まで戻してくれた。


「何だったんだろうな……」

寺の山門を出て、しばらくしてから、俺は呟いた。
狐につままれたようなってのは、こんな感じなのかも知れない。

「だから、あの女の人は、天然なんかじゃありません。その実体は、何でも如才なくこなす、抜け目のない人なんです。
現に、お兄さんが書いたレポートだって、ポイントを的確に見抜いていたようじゃないですか。天然な人にそんな芸当が
出来ますか?」

「……うん……」

そうかも知れない。
だが、超絶美人なのに、刺々しいところが全くない保科さんの笑顔を思い浮かべると、そうした疑念が、風を受けた霞
のように消えてしまうのだ。



「とにかく、油断のならない人なんです。ですから、二週間後の野点は、本当に要注意です。ちょっと、お兄さん、聞いて
ます?!」

ヒステリー気味のあやせには悪いが、俺には保科さんがそんなに悪い人には、どうしても思えなかった。

時計を見れば、まだ午前十一時前だった。観光施設として有名な寺社にも足を伸ばせそうだったが、俺もあやせも、
そんな気になれなかった。連休中ということで、人出がさっきの禅寺とは大違いだろうし、保科さんとの出会いが強烈
だったからだ。
もっとも、その印象は、俺とあやせとでは、正反対なようなのだが……。

「早めに飯でも食うか?」

俺の問い掛けに、あやせは首を左右に振った。

「お茶菓子を二個も食べたし、お抹茶って、カフェインが強いのか、それだけで変な満腹感みたいな感じがあって、
あまりお腹はすいてないです」

「じゃあ、ひとまずは帰るか」

正直、ほっとした。俺の懐具合じゃ、大学の学食か、ファストフードが関の山だからな。

「それに、いきなりあんな人が現れて、雰囲気がブチ壊しです。本当にもう……」

「雰囲気って、何の雰囲気なんだよ」

あやせは目を血走らせて、叫びやがった。

「ブチ殺しますよ?! ヒントどころか、答えをもろに言ってたのに」

「答えって、どういう答えなんだよ」

「もう、死ね! わたしとお兄さんのデートの雰囲気じゃないですか!」

「うわっ、そう、でかい声で言うな!」

雑踏の中、何人かが、頬を高潮させて俺を睨んでいるあやせと俺に視線を向けている。
参ったね。この中に同じ大学の奴が居ないことを祈りたいもんだ。

「と、とにかくだ……、昼食も食べたくないし、特に見たいものもないようなら、下宿に引返そうぜ。下宿に戻る頃には
空腹になってるかも知れねぇし」

来た時よりは混雑が目立つ路面電車に乗り、下宿最寄の、ちょっと剣呑な停留所で降り、出発時と同様に自動車の
流れが途絶えた隙に、あやせの手を引いて、車道を強行突破した。
もう、俺は毎朝の通学で慣れっこになってるけど、あやせは、おっかなびっくりで、そこがちょっと可愛らしい。

下宿に帰り着いたのは午前十一時半過ぎだった。下宿の女主人であるお婆さんに、昼食は外食で済まそうかと
思ったが、二人とも食欲がなかったので、食べずに帰ってきた旨を伝えた。

「あら、だったら、朝炊いたご飯がたくさん残っていますから、これでお寿司でも作りましょうか。あやせさんにも、
この地方独特の押し寿司を食べていただきたいですし」」



やったね。学食やファストフードに行かなくて大正解だったな。
押し寿司を食べさせる店は、街中にもあるけど、(俺の懐を基準にすると)概して高い。
元々は家庭料理だってのに、最近は作る人があまり居ないせいで、多少は希少性があるのかもな。

「鱧(はも)の焼物が手に入ったので、これを押し寿司にします」

鱧は、関東では、ほとんど食べられていない魚だが、この地方では別だ。夏場は最も人気のある魚であるらしい。

「ただ待っているのも何ですから……」

あやせは、外出時の服装そのままで台所に行った。お婆さんの仕事を手伝うつもりらしい。
こういうときに、男ってのは役立たずだな。
俺は、自室に行って、印刷したレポートを再度読み直すことにした。
一読したところ、タイプミスや内容に問題があるような箇所はなかったが、じっくり読んで、問題点がないことを
確認しておきたかった。

「うぇ、やっぱ、誤変換があったなぁ……」

本来は『登記の欠缺(けんけつ)』であるべき箇所が、『頭記の兼決』になっていやがる。
どうしてくれようかと思ったが、この程度なら誤変換の箇所に修正テープを貼って手書きで直せば大丈夫だろう。

「やっぱ、プリンタが欲しいよな……」

家庭教師とか、通信添削の採点とかのバイトでもやるべきなのだろうが、今は講義について行くのが精一杯で、
とてもじゃないが、バイトをする余力はない。
そんなことを思い悩んでいる時に、階下から、あやせが俺を呼ばわった。鱧の押し寿司が出来上がったのだ。
俺は、その寿司を食うべく、のそのそと立ち上がった。


その肝心の鱧の押し寿司は、小骨の多い穴子寿司といった感じだったが、美味しかった。
鱧は、関東ではほとんど食べられていない魚だが、いいもんだと思う。
お婆さん手作りの寿司を堪能し、食後のお茶を飲みつつ、ちゃぶ台の差し向かいに居るあやせに、俺は呟くように
言った。

「さてと……。これからどうする?」

「……、決めていません」

時刻は、まだ十二時半だった。今から新幹線に乗れば、明るいうちに千葉まで帰れるだろう。
だが、それでは、何か物足りなかった。それは、あやせも同じなのだろう。

「そうか、お茶を飲んだら、どっかへ行こう」

「どっかって、何かの観光スポットですか?」

俺は、かぶりを軽く振った。

「一応はガイドブックにも出ているらしいが、普通の観光客はまずやって来ない場所さ。この地区の氏神様で、小高い
丘の上にある社なんだ。上までの長い石段が大変だが、境内からは、この街が一望出来る。どうする、行くか?」」



ありきたりの観光スポットじゃなくて、行ってみてそれなりの達成感があるところ。その神社は、そんな場所だった。
長い石段で丘のてっぺんまで徒歩で登るのは大変だが、上り切ったという達成感と、境内からの眺望は、
あやせだって悪くは思わないだろう。

「……、そうですね。わたしも、お兄さんには言い足りないことがありますから、場所を変えて申し上げたいと思います」

「それって、告白か?」

「変態、そんな訳ないでしょ。ふわふわ浮ついているお兄さんに釘を刺しておく必要があるからです。大体、何ですか、
保科とかいう同級生が現れたら、でれっとしちゃって。そんなんだから、お姉さんにも愛想を尽かされて、桐乃との仲も
ご両親に警戒されて、この街で独り暮らしをする羽目になったんじゃないですか」

うひ~、こいつ相変わらずだな。可愛くねえよ。

「辛辣過ぎて耳がいてぇよ」

「でも、それが事実なんですから、仕方がないじゃありませんか。いいですか? わたしは、お兄さんのそうしたふわふわ
した危なっかしいところが、大嫌いなんです」

「そうかい……、じゃ、大嫌いな俺なんかと、ひと気のない山の中の神社に行くんだぜ、気持ち悪いだろ?」

「そうですね、普通の男の人なら、人気がないのをいいことに、いかがわしい行為に及ぶかも知れませんが、お兄さんに、
そんな度胸ありませんから」

「言いたい放題だな……」

「だって、昨晩、同じ部屋で寝たのに、お兄さんは、わたしに指一本触れませんでした。こんなへたれなお兄さんは、山奥
の神社に行っても、何も出来ないでしょうね」

「俺は品行方正なんだよ。寝ている女の子をどうにかするような外道じゃねぇ」

反論する俺を、あやせは、目を細め、口元を歪めて、冷笑した。

「お兄さんは変態です。ただ、変態行為を実行に移すだけの思い切りがないだけです」

「ということは、結果的には、品行方正だってことだよな?」

「何でも都合よく解釈されるんですね……」

あやせは、心待ちうなだれながらも、笑っていた。

「何か問題でもあるのか?」

「いいえ、特にありません」

「じゃあ、出掛けるか」

午後になり、気温がかなり高くなってきたので、俺もあやせも上着なしで行くことにした。
夕方になれば、急激に寒くなるが、手早く参拝すれば、暖かいうちに下宿にたどり着けるはずだ。



「歩いて行くんですか?」

あやせの問い掛けに、俺は無言で頷いた。
この地区の氏神様なんだ。この地区を見守るために、間近な丘の上に居る。

下宿から十五分ほど歩くと、石造りの鳥居があって、その奥に丘の上まで続く長い石段が控えていた。

「ここから上るんだ。傾斜が結構きついから気をつけてくれ」

「ええ……、でも何段ぐらいあるんですか?」

「分からねぇ。俺も、下宿のお婆さんに教えてもらって、つい先日にお参りしたのが最初で、今日が二度目のお参りだ」

「そうなんですか……」

「最初のお参りの時は、石段を上るのが精一杯で、数えている余裕なんかなかった。だから、俺も知らないんだ」

訊くところによると、概ね五百段で、下から境内までの標高差は百メートル程度らしい。
結構な規模だから、あやせには黙っていた方がいいだろう。

石段は、中ほどあたりにちょっと広くなった踊り場があり、俺たちは、ここで息を整えた。

「はぁ、はぁ、き、桐乃だったら楽勝なんでしょうけど、わたしは桐乃ほどスポーツは得意じゃないから、けっこうきついです」

そう言いながらも、あやせは笑っていた。石段の周囲は、木立の新緑が美しく、ちょっとしたピクニック気分が味わえるからな。

「さてと……、もうひと踏ん張りするか」

俺は、半ば反射的にあやせに右手を差し出していた。
あやせは、そんな俺にちょっと驚いたようだったが、頬を紅潮させた笑顔で恥ずかしそうに自身の左手を差し出して
きた。

「でも、お兄さん、ゆっくり行ってください」

手をつなぎ合った俺たちは、再び石段を上り始めた。
右掌にあやせのぬくもりを感じる。俺たちは、互いの存在を確かめ合いながら、最後の一段を上り切ることが出来た。
石段を上り切ると、新緑の森の中に、ぽっかりと広い境内が広がっていて、その奥に、境内の広さに比べると小さめ
の古びた社殿が建てられていた。

「振り返ってみろよ」

あやせが、俺の右手を握ったまま、上半身を右に捻って、背後を見た。

「うわぁ! お兄さんが住んでいる街が、ぐるりと見渡せますよ」

新幹線が止まる中央駅が、霞のかなたに窺えた。俺の通っている大学も見える。

「あ、あそこで電車が動いていますよ」



中央駅から、盆地の縁をなぞるように単線の路線が敷設されていて、その路線を朱色の車両が走っているのが確認
出来た。

「悪いが、あれは電車じゃなくて気動車だ。あの路線は未電化だから、ディーゼルエンジンで走る気動車しか通って
ないんだよ」

「まだ、そんなのが走っているんですね」

「もう、あやせも分かっているんだろ? この地方は、文化にせよ、習慣にせよ、設備にせよ、おそろしく古いものが生き残っているのさ」

「そうですね……。首都圏では忘れられてしまった日本の風俗や暮らしが、この地方には、細々とした感じではあるけど、存続している……」

感慨深げにあやせは眼下の街並みを眺め、それから石造りの鳥居と、古びて一部分にひびが入っている狛犬を一瞥
してから、ようやく、俺と手をつないだままだったことに気が付いたらしい。

「きゃっ!」

「今頃手を離したって、それまでさんざっぱら繋いでいたんだ。もう、俺の掌には、あやせの汗が染み付いちまったし、
お前の掌にも俺の汗が染み付いているだろうぜ」

「変態! どうしてそう気色悪いことしか言えないんですか。最低です」

「事実を指摘したまでなんだけどな。でも、言い方に少々問題があったのは認めるよ」

「謝っても、お兄さんが変態であることは覆りません」

「まぁ、そう怒るなって。境内の奥の方に社があるから、ひとまず参拝しちまおう」

参拝に先立ち、俺とあやせは、御影石をくりぬいて造られた水盤の水を柄杓で汲み、その水で手を洗い、口をすすいだ。
一応は、身を清めるつもりで、水盤脇に立てられていた看板に書かれていた手順でやってみたんだ。
その看板には、小学校高学年くらいの女の子のキャラクターが、柄杓で水盤の水を汲み、その水で手を洗い、洗った
手に柄杓の水を受けて、その水で口をすすいでいる様が描かれている。

「何だか、桐乃あたりが萌えそうな女の子のキャラクターですね」

「どうかな……」

看板のキャラクターは、往年の少女漫画風だった。こうした絵柄は、桐乃の好みじゃなさそうだけどな。

「それと、参堂や鳥居は、真ん中を歩いちゃいけないらしい。真ん中は神様の通り道だからな」

俺たちは、板状の大きな御影石が敷かれた参堂の左端を、俺が前になって進み、規模は大きくはないけれど、
風雪に耐えた風格を感じさせる社殿の前に行き着いた。
社殿の真ん前には、投げ入れられてきた硬貨で、箱上部の格子の角がすっかり丸まってしまった賽銭箱が据えられ
ている。



「え~と、お賽銭、お賽銭……」

財布を探ると、硬貨は十円玉が何枚かと、百円玉が二枚、それに五百円玉が一枚だった。さすがに十円玉では失礼
だろう。百円玉でもどうかと思う。貧乏学生には痛い出費だが、ここは五百円玉を奮発することにした。

「ご利益は何なんでしょうね」

五百円玉を賽銭箱に入れながら、あやせが尋ねてきた。

「分からねぇが……、多分、五穀豊穣とか無病息災なんじゃねぇの?」

「じゃあ、わたしは、わたしの人生が実り豊かなものになるように、祈願いたします」

これも、賽銭箱の脇に立てられた看板に書かれている作法どおり、社殿奥にあるであろう御神体に向かって深々と
お辞儀をし、二拍後に瞑目して祈願した。
何を願ったかって? そいつは残念ながら内緒だな。

願い事を心の裡で唱えた後、再び深々とお辞儀をし、俺は祈願を終えた。
だが、俺の傍らでは、あやせが瞑目して、真剣な表情で何事かを願っている最中だった。
あやせの祈願は、俺がお辞儀をしてから、三十秒近くは続いていたように思う。何を願ったんだろうね。
思い込みが激しいから、とんでもないことを願ってなけりゃいいんだが。

「時間があるし、よかったら、あそこのベンチに腰掛けよう」

境内の見晴らしのよい場所に、木で出来た小さなベンチが設えてあった。そのベンチに俺が腰掛けると、あやせも、
俺の右隣に座った。

「こうして見ると、あちこちに緑があって、いい街ですね」

「寺社が多いからな。それに、俺が通う大学も、ちょっとした公園並みに緑が多い」

「大きな川が、街中を流れているんですね」

「あの川べりで、夏祭りの時は大きな花火大会があるらしい。ここからだと、下手に川べりに行くよりも、落ち着いて花火を見物出来そうだな」

あやせは、俺の通り一遍の簡単な説明を「ふぅ~ん」と呟きながら聞いている。
俺自身、この街で暮らすようになって一箇月足らずなんだから、拙い説明ではあるんだが、それでもあやせは真面目
に耳を傾けてくれていた。

「でも、これから、お兄さんはどうするつもりですか?」

「ど、どう、って?」

この街の話をしているのに、出し抜けに何を言い出すんだろう。

「お兄さんは、いつかは千葉に戻るんですか? それとも、もう、千葉には戻らず、この街で暮らしていくんですか?」

「そりゃ、いつかは故郷に帰りたいさ」



「でも、桐乃のことがあるから……、ですよね?」

「うん……、ま、まあな」

また、その話か、桐乃が実家に居る以上、俺は帰省すら許されていないんだぜ。

「わたしは、お兄さんに千葉に帰ってきて欲しいです……」

「その申し出はありがたいけど、現状では無理だな」

「だったら、こっちでずっと暮らすんですか?」

「そうだな……」

もし、大学を卒業して、こっちの方で職を見つけられたら、千葉には戻らず、こっちで暮らすことになるかも知れねぇな。
故郷に帰ることが叶わない以上、しかたがない。

「じゃ、じゃあ、お姉さんのことも、桐乃のことも、五更先輩のことも、わ、わたしのことも、何もかも忘れて、そして……、
さっき会った、保科さんとかと一緒になるんですか?」

「おい、おい……。結論を先走り過ぎだぜ。それに、保科さんは単なるクラスメートだ。それ以上でも、それ以下でもねぇよ」

本当に思い込みの激しい奴だなぁ。
今は、大学の講義について行くのが精一杯の俺に、そんな先のことまで考えられねぇよ。
何よりも、保科さんは、この地方屈指の名家の御令嬢だぜ。俺なんかを相手にするわけがない。

「お兄さんは、鈍いから、自分の身に何が起こっているのか、分かっていないんです。今日の保科さんの、あの態度、
絶対に危ないです」

「危ないって、何がどう危ないんだよ」

「これだからもう……。いいですか? お寺で会った時、保科さんは、お兄さんの顔と名前をはっきりと認識していた。
これって、お兄さんに対してかなり興味を持っているってことじゃないですか!」

「たまたまだよ。保科さんは、誰に対しても礼儀正しいし、クラスの中心とも言うべき人だからさ。それで、法学部一年の
全員の顔と名前を覚えようとしていて、実際に覚えたんじゃねぇの?」

その途端、あやせが顔を真っ赤にさせて激昂し、俺の襟首を引っつかんだ。

「お兄さんの分からず屋!!」

「ぼ、暴力はやめろ! 第一、こ、ここは神前だぞ」

「だったら、鈍くて危なっかしいお兄さんには、神様公認のおまじないが必要です!」

大きな瞳をぎらつかせたあやせが、俺の眼前に迫って来た。

「うわぁ、俺、神前でブチ殺されるのか?!」



「何を訳の分からないことを言ってるんですか。そんなことより、今からおまじないをしますから、目をつぶってください」

「目をつぶっている間に、ブ、ブチ殺すのか?」

「え~い、もう、さっさと目をつぶってください。そうしないと、本当にブチ殺しますよ!」

俺は観念して瞑目した。何がどうあってもブチ殺されるらしい。これも、運命か……。

「?」

しかし、鼻腔に芳しい香りが感じられたと思った次の刹那、俺の唇は、甘く、瑞々しく、ふんわりとした弾力あるもので塞がれていた。
驚いて目を開ければ、あやせが目を閉じたまま、俺の唇を貪るように吸い続けているじゃねぇか!

「う、あ、あひゃひぇ……」

口を塞がれているから、声にならなかった。
しかも、あやせは、接吻から逃れようとする俺を、両の腕でがっちりと掴んできたのだ。
うわぁ、あやせの舌が、俺の口の中に入ってきやがった!!
あやせの舌が、あやせとは別の生き物のように俺の舌に絡みついてくる。い、いきなりディープ・キスかよ!
い、息が出来ねぇ……。
だが、それは、あやせも同じだったんだろう。

「ぷはぁ~~っ!」

あやせは、俺との接吻を中断し、素潜りしていた海女みたいに息を吐き出した。
そして、呼吸を整えながら、俺の顔を妖しい目つきで見詰めている。

「な、何だよ?!」

俺は、あやせの両腕で押さえ込まれたままだ。
その上、あやせの瞳には、『逃さない』といった威迫があって、俺をたじろがせた。

「うふ……、もう一回……」

再び、あやせのふっくらした口唇が俺の口元に押し付けられ、彼女の舌が、俺の中に入り込んできた。
もう、ままよ! 俺も、あやせに倣って、自分の舌を彼女の口中に忍ばせた。
俺とあやせの舌は、艶かしく絡み合い、互いの歯を、歯茎を、口蓋を、舐め回し、翻弄している。

俺たち以外に誰もいない神社の境内で、俺とあやせは、我を忘れて、貪るように互いを求め合っていた。


*  *  *
「お見送り、ありがとうございます」

新幹線のデッキで、俺とあやせは向き合っていた。

「いや、これぐらいは当然だ。俺は、お前の『兄貴』なんだからな」

ことさら『兄貴』の部分を強調して言ったことで、あやせは不満げに頬を膨らませたが、目は悪戯っぽく笑っていた。



「『兄貴』なんて言うようじゃ、『おまじない』が足りなかったんでしょうか?」

「い、いや、そいつは十分だよ」

他の乗客もいるこんなところでキスなんかしたら、ちょっとしたスキャンダルだ。

「でも、勘違いしないでください。わたしは、まだ、お兄さんのことが嫌いです」

「……、そうなんだ。でも、何で嫌いな俺に、あんな『おまじない』をかけたんだ?」

「それは、わたしも、お兄さんを本当に好きになるかも知れない、そのための予行演習です。
それと……、保科さんみたいな人にフラフラなびかないように釘を刺しておくためでもありますね」

「予行演習は分かるが、釘を刺すってのは何だい、そりゃ……」

あやせが、嫣然とした笑みを浮かべている。

「鈍くて危なっかしいお兄さんを、保科さんのような人から護るための予防接種のようなものと思ってください」

「予防接種ね……」

俺は苦笑した。あやせには、とことん鈍い奴だって思われているんだな。
そんな折、発車を告げるベルが、ホームに鳴り響いた。

「そろそろ電車が出ます。次は二週間後、保科さんの野点で、お兄さんを護るために来ますから」

「お、おう、そんなに大げさに考えなくたって大丈夫だろうに……」

「何言ってるんですか! だからダメなんです」

大急ぎでデッキから出ようとする俺の背中に、あやせの罵声が浴びせられた。
俺とあやせの関係って、結局はこんなもんだよな。

デッキからホームに飛び出すと、間一髪で新幹線のドアが閉まった。
そのドアのガラス越しに、あやせは俺に笑顔を向けてくれている。

「ま、また、来いよ!」

二週間後にやって来ることが決まっているのに、思わず言ってしまった。我ながら陳腐だぜ。

あやせを乗せた新幹線が動き出し、それは見る見るうちに加速してホームから走り去って行った。

「しかし、『まだ、お兄さんのことが嫌いです』、か……」

そんな言葉を呟きながら、俺は自身の口唇を人差し指でなぞり、先刻の狂おしいほどの接吻を思い返していた。
『嫌い』という言葉が真実か否か、そんなことはどうでもいいのかも知れない。口唇に記憶された艶かしい感触は、 
紛れもない事実なのだから。
駅舎を出て、ふと、見上げれば、茜色の夕焼け空に、二つの星が競うように瞬いていた。
(終わり)


 

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最終更新:2011年07月26日 22:54
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