現在、時刻は夜中の二時過ぎ。
俺は自分の部屋で、桐乃と並んでパソコンに向かっていた。
なんで深夜にこんな事をやっているのかというと……。
『願いを叶えてくれる心霊サイトが見たいから、ちょっと手伝って』
との事だ。
いやもうどこから突っ込めば良いんだ。
「心霊サイトと願い事に何の関係があんだよ」
出てくるのは幽霊とかそういうのじゃないのか。どこをどうやったら願い事と繋がるんだ。
「そんなの知んない。ネットで見つけたんだけど、そーいう都市伝説があんのよ」
そのガセネタを流した奴のおかげで、俺は今寝不足覚悟で妹に付き合わされてるわけね。
「噂によると、丑三つ時にアクセスする必要があるんだって。もう何人か願いを叶えてもらった子がいるって言うし」
何が嬉しいのか桐乃は上機嫌で解説している。
こういうの好きな女って居るよなあ……俺は全く興味ないんだが。
まぁコイツも本気で信じてるわけでもないんだろう。こんなのはただの遊びだ。
それは良い。それは良いんだが――
「なんで666回もクリックしなきゃいけないんだよ」
カチカチカチカチカチカチ
そう。さっきから妹の言いつけでひたすらマウスと格闘中なのだ。
もう指がガタガタだ……。
「それが条件だからに決まってんじゃん。最初に言ったでしょ?」
「なら自分でやりゃ良いだろ」
「それが面倒だからアンタを呼んだに決まってるでしょ? ほらさっさとする!」
こ、こいつは……兄をなんだと思ってんだ。
「なに? その反抗的な目は。可愛い妹の頼みが聞けないっての?」
不機嫌そうに睨み付けてくる桐乃。
何が悲しくてこんな深夜に、指がつりそうな勢いでクリック連打せにゃいかんのだ。
兄貴だからか? 兄貴だからなのか?
もういっそのこと一人っ子に生まれたかったぜ……。
そんな事を考えたちょうどその時、
『お前の望みを叶えてやろう――』
突然、聞いた事もないような声が響いた。
「はっ?」
「え? 嘘――」
モニターから突然強い光が溢れ出す。とても目を開けていられない。
「うわっ!」
「きゃっ!」
まるで爆発したかのような閃光が視界を白く染め上げ、一瞬意識が飛ぶ。
……どのくらい時間が経ったろうか。おそるおそる目を開けると――
すぐそばに居たはずの妹の姿が、忽然と消えていた。
慌てて周囲を見回すが、どこにも居ない。
自分の部屋に戻ったんだろうか? 全然気付かなかったが……。
それにしてもさっきの光は何だったんだろうな。モニターの故障か何かだろうか。
妙な幻聴も聞こえた気がするし、眠気が限界で疲れてるのかもしれない。
桐乃が勝手に部屋に帰った事は腹が立つが、まぁ良い。もういい加減眠かったし、今日はこのまま寝ちまおう。
この時の俺はまだ、事態を軽く考えていた。
翌朝の食卓、何故か桐乃の姿が見えなかった。
それどころか食器も並べられていない。
「なあ、桐乃は朝練かなんか?」
何気なく聞いてみただけなのだが、
「え? あんた何言ってるの?」
心底呆れたようなお袋の声が返ってきた。
なんで妹の事を聞いただけで呆れられなきゃならんのだ。
「いや、何って……妹の事聞くのがそんなにおかしいのかよ」
するとお袋は、ますます呆れたような顔をして、
「なに寝ぼけてるの。あんたは一人っ子でしょ」
……は?
いやいや、何を言ってんだよこの母親は。
ふと見ると、親父までが怪訝な顔を俺に向けていた。
「京介、朝から妙な事を言うな」
とても、嘘や冗談を言っているような様子じゃなかった。
二人はそのまま何事もなかったかのように食事を進めていく。
どういう、事だ?
ガタン!
慌てて席を立つ。
「どうした?」
「いや、ちょっとトイレ」
そう言い繕って、真っ直ぐ桐乃の部屋へ向かう。
一体何の冗談だよ。両親揃って息子をからかって……。
桐乃の部屋のドアノブに手をかける。幸い鍵は掛かっていなかった。
ノックもせず、そのまま一気にドアを開ける。
いつもの甘ったるい匂いのする、妹の部屋があるのを期待して。
だが、そこは、
「……どうなってんだ?」
埃の臭いのする、薄暗い空き部屋だった。
それからの数日は、まるで悪夢の中に居るようだった。
誰も妹の事を覚えていないのだ。
桐乃の部屋は今や完全に物置になってしまっているし、靴も、食器も、洗面用具も何もない。
親に聞いても友人に聞いても、俺は一人っ子だという事になってしまっていた。
まるで、桐乃の存在がこの世から消えてしまったかのように。
俺は自分でも驚くほどの喪失感を味わっていた。
あいつはもう居ないのだと考えるだけで、心がギュッと引き絞られるようだ。
つい数日前まで、この部屋で二人で並んで遊んでいたっていうのに。
くそ、夢なら早く醒めてくれ……。
と、その時、
「京介~、従妹の桐乃ちゃんが遊びにきたわよ~」
桐乃!?
バン!
部屋のドアを蹴破る勢いで開け、階段を転がるように駆け下りる。
玄関には、見慣れたライトブラウンの髪の少女。
その瞳がちょうど俺の方を向く。
「桐乃!!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
だがそんなの今はどうだって良い。俺は必死に目の前の存在を目に焼き付ける。
そんな俺の剣幕に驚いたのか、少女はしばらく硬直していたが、
「……うん、久しぶり」
どこか安心したような声音で呟く、俺の妹がそこに居た。
とりあえず桐乃を部屋に通して、今は向かい合って話をしている。
俺はどうしても聞いておきたい、いや確かめておきたい事があった。
「なあ、お前は桐乃……だよな?」
「はあ? 他の誰に見えるっての?」
いつもの桐乃だ。特に違和感は感じない。
「その……俺の従妹の?」
「……そうだけど?」
無表情で答えが返ってきた。
「そうか……」
やっぱりここでは、桐乃は従妹という事になっているようだ。
なんだろうな、この感覚。胸がモヤモヤとするような……。
「なに? 従妹じゃなんかマズイわけ?」
「いや、なんでもないんだ」
色々と思うところはあるが、少なくとも消えて居なくなったわけではない。
それだけでも随分とマシだ。やっぱ居なくなると寂しいもんだしな。
俺は自分でも不思議に思うほどの安堵感に包まれていた。
「ね、そんな事よりシスカリやろうよ。ノーパソ持ってきたからさ」
「おう、良いぞ」
どうやら趣味も変わってないみたいだな。
その後もいくつか質問してみたが、全て淀みなく答える。
俺の知ってる桐乃と何も変わらないようだ。
せいぜい違うところがあるとすれば、
「そろそろ帰るね」
「あ……それもそうか」
住んでる家が違うんだもんな、当たり前か。
桐乃を玄関まで見送る。なんか妙な気分だな。
なんだか妹が遠くへ行ってしまうような気がして……。
「その、なんだ。また来るんだよな?」
自分でも分かるくらい情けない声が出た。
「なぁにぃ~? あたしが居ないと寂しいんだ?」
ニヤニヤしながら俺をコケにする桐乃。くそっ、言わなきゃ良かった。
「別にそんなんじゃねぇっての」
「またまた、無理しちゃって」
こんな風に俺をおちょくるところも、本当に変わらない。俺の知ってる桐乃だ。
「それじゃ、また明日ね」
そう言って、上機嫌で帰っていった。
言葉通り、それから桐乃はほとんど毎日遊びに来た。どうやら家が近所のようだ。
やってる事も、エロゲーしたり対戦ゲームしたり、買い物に付き合わされたり。
つまりは、以前と一緒って事だ。
考えてみれば従妹なんて、半分妹みたいなもんだよな。
だったら俺は桐乃の兄貴分だ。これまでと変わらない。
少なくとも俺はそう思っていた。
その日も桐乃は遊びに来ていて、今はリビングで雑誌片手にくつろいでいる。
まるで自宅に居るかのようにリラックスしているが、この方が俺にとっては見慣れた光景だ。
「ねえ、おと……叔父さんと叔母さんは?」
「法事で明日まで帰ってこないぞ。今夜は俺一人で留守番ってわけだ」
「ふぅん……そっか」
そのまま何か考え込むような様子の桐乃。まぁそれよりもだ。
「もうそろそろ夜だろ? 時間大丈夫か?」
「ん、まだ大丈夫」
「なら飯食ってくか」
「そだね。もうすぐ7時だし」
向こうの家でも食事の時間は同じなのかね。
適当に買ってきた惣菜の夕食を終え、時刻は8時をとうに過ぎている。
さすがにそろそろマズイだろう。
「桐乃、もう遅いし家まで送るよ」
声をかけるも、いまいち反応が鈍い。
「桐乃? どうした?」
「……帰りたくない」
「なに子供みたいな事言ってんだ。ほら上着を――」
「今日ここに泊まるから」
急になんて事を言い出すんだ。
「さっき家にも電話した。友達の家に泊まるって言っといたから大丈夫」
「いや大丈夫じゃねえって。さすがにマズイだろ?」
「……どうして?」
「さっきも言ったが、今夜は親父達も居ないんだよ。俺たちだけになっちまうんだから――」
「別に良いじゃん」
良くないっての。なんで今日に限って、こんな物分かりが悪いんだ。
「あのな。年頃の娘なんだから、男一人のところに泊まるのはマズイだろうが」
言っていて少し妙な感覚になる。
元々俺たちはこの家で寝食を共にしていたのだ。
いまさらマズイ事なんてないはずなのだが……なんだろうな、この感覚。
「ふ~ん。女の子扱いしてくれてるんだ?」
なんだかニヤニヤしながら、近寄ってくる。
甘い匂いが漂ってきて、少しだけドキリとした。
「と、とにかく。間違いがあったら困るだろ? ほら送るからさ」
「別に困らない」
少しずつ桐乃が距離を詰めてくる。
「お前な、からかうのもいい加減に――」
「からかってなんかない。あたしは構わないから」
「……俺だって一応男なんだぞ。あまり
勘違いさせるような事を言うなよ」
「女のあたしが良いって言ってるの。言ってる意味、分かるよね?」
いつの間にか桐乃の顔が目の前にあった。少し潤んだような瞳と視線が絡み合う。
「バカ、お前は妹みたいなもんだっての」
たまらず目をそらした。さっきから心臓がバクバクいってやがる。
「……今は従妹でしょ?」
そりゃそうだけどな。でも妹だと思っていないと俺は……。
俺は……? そのあとに続く言葉が、すぐには出てこなかった。
「まだあたしを妹扱いするの?」
見ると、桐乃は唇をきゅっと引き結び、何かを堪えるような顔をしている。
「そりゃ、前は兄妹みたいな関係だったかもしれない。あんたがあたしを妹としか見てなかったのも知ってる」
そうだ。お前は俺の妹だ。……そのはずだ。
「でも、今は違う」
桐乃は顔を上げ、きっぱりと言い切った。
「ちゃんとあたしを見て。今のあたしを見て」
訴えかけるような視線と声。思わずその目に吸い寄せられる。
なんだか胸がモヤモヤとする。ずっと以前からあった感覚だ。
兄貴として妹が心配だから? 以前ならそう考えていただろう。
だが、はたして本当にそうなのだろうか。
「従妹のあたしなら、あんたの……京介の恋人にもなれる。結婚だって出来る」
確かに今の俺たちなら、そういった関係にもなれる。
一拍置いて息を整える桐乃。そして、
「ずっとあたしのそばに居て欲しい。あたしだけの京介でいて欲しい」
これって……。
「あたしと、付き合って」
俺を真っ直ぐ見据えて、確かにそう言った。
あまりの事に、少しくらりとする。
桐乃が、俺に?
見ると桐乃は、じっと黙って答えを待っている。
そうだ、俺は答えなくちゃいけない。
俺はどうしたら……いや、どうしたいんだろうな。
それに対する答えなんて前から決まってる。
俺は今まで通りにずっと桐乃と一緒に居たい。大事にしたい。
でも妹だから。
いつかは俺の元から離れていってしまうからと、その先を考えてこなかった。
じゃあ、今は?
さっきから胸のモヤモヤがどんどん大きくなっている。口から飛び出ていきそうだ。
俺はずっとこの気持ちに、妹だからと蓋をしてきたのかもしれない。
だが今は、その蓋はない。
だったらもう、口から出してしまえば良い。
今の俺が言いたい言葉を言うだけだ。
「いいよ」
「……ほんとに?」
「ああ、本当だ」
驚いたような顔の桐乃。
本当に受け入れられるとは思っていなかった、そんな顔だ。
そんなに自信が無かったのに踏み切るあたりは大したものだと思う。
俺ももう一歩踏み込むべきかもしれない。
桐乃が居なくなってしまったと思い込み、喪失感に苛まれていた数日を思い出す。
もうあんな思いは二度とごめんだ。
ずっと桐乃のそばに居たい。二度と手放したくない。
俺はきっと、ずっと前から――
「好きだ、桐乃」
目を見開いた桐乃が、ひゅっと息を呑むのが分かる。
「好きだ」
桐乃の震えている両肩にそっと手を置き、もう一度力を込めて言った。
「あ、あたしも、あたしもっ……!」
目に涙を浮かべて、何度も繰り返す桐乃。
上手く言葉に出来ずにもどかしそうにしている頬を、涙が一筋こぼれ落ちる。
嗚咽を漏らすその背中に手を回して抱き締めた。
「ぐすっ……夢じゃない、よね。夢じゃないよねこれ……」
「ああ」
安心させてやりたくて、ゆっくりと頭を撫でる。
俺の胸に顔を埋めたままの桐乃がそっと呟いた。
「……ずっと、ずっと、好きだったよ」
俺たちが正式に付き合う事になって、数ヶ月が経過した。
従妹と交際するというので最初は周囲も驚いたようだったが、特に大きな反対はなかった。
正直言って俺は、まだ桐乃を妹として見ている部分もある。そこだけはどうしても拭い切れていない。
桐乃はそんな俺の様子にも気付いているようだったが、別に構わないようだ。
きちんと恋人としても見てくれているならそれで良い。そう言っていた。
その代わり時々妹みたいに甘えるから、というオマケつきで。
「京介っ、早く早く!」
今日は前から約束だったデートの日。
桐乃は嬉しそうに俺の腕を引っ張ってくる。
「おいおい、そんな慌てるなって」
何の問題もない平穏な日々。
だが俺はずっと前から、ある疑問を抱くようになっていた。
いや、本当は最初から心のどこかで気付いていたのかもしれない。
全ての発端となった、あの言葉だ。
『お前の望みを叶えてやろう――』
……望みを叶えてもらったのは、本当に俺だったのだろうか?
あの場には俺の他に、もう一人居た。
「どしたの? 京介」
ひょいっと桐乃が覗き込んでくる。
「あぁ……いや、なんでもねえよ」
だがそんなのは、どうでも良い事かもしれない。
桐乃はいつも幸せそうな顔を見せてくれて、そんな顔を間近で見られる俺にも不満なんてない。
俺は桐乃に幸せでいて欲しい。俺の目の届くところで幸せでいて欲しい。
たとえ真実がどうであれ、俺はずっと桐乃のそばに居ると決めたのだ。
「ほら、早くしないと映画の時間に遅れちゃうでしょ?」
「んじゃ少し急ぐか」
「うんっ」
そう言って俺を見上げてくる桐乃の顔は、本当に眩しくて――
――まるで、夢が叶ったかのような笑顔だった。
最終更新:2011年01月15日 13:01