わたしが桐乃から“その話”を聞かされたのは金曜日の放課後だった。
「え? 桐乃、今なんて言ったの?」
「だから、陸上留学のリベンジ。中学卒業したらまたアメリカに行くの」
ひどく混乱したわたしをよそに桐乃は言葉を続ける。
「もう決めたから。ごめんね、あやせ」
一度言い出した桐乃の考えを変えることなんて不可能ということは、
わたしが一番よく知っている。
どうすればいいの‥‥‥?
そうだ。お兄さんなら、きっと桐乃の決心を変えてくれるはず。
だって一度はアメリカまで行って桐乃を連れ戻してくれたのだから。
早速お兄さんをメールで呼び出した。
‥‥‥‥‥‥
「自分の部屋に呼び出すなんて、俺に会いたくて仕方ないんだな、あやせって♪」
わたしと会う時いつものように、ニヤけた表情で現れたお兄さんは
“カラ元気”って言葉がそのまま当てはまるようだった。
「ご相談があります!! 桐乃のアメリカ行きをやめさせてください」
「ああ? それは桐乃が決めたことだろ? 俺がどうこうできる話じゃないよ」
わたしから目を逸らしたお兄さんのあまりに素っ気ない返事だった。
「どうしてですか!? この前はアメリカまで行って桐乃を‥‥‥!」
「今度ばかりはダメだな。前回、途中リタイヤして迷惑掛けているし。
直前で似たようなことをもう一度やったら、桐乃の評判だって悪くなる」
「もう一回チャレンジしてくれませんか? 桐乃を止めてください!」
必死の想いでわたしに懇願されていたお兄さんが意外なことを訊いた。
「なあ、なんで
あやせはそこまでして桐乃を引き留めたいんだ?」
「そ、それは‥‥‥桐乃はわたしの親友ですし、一緒に居たいから‥‥‥」
「親友なら、桐乃の飛躍を見守ってやるって選択肢もあると思うぞ?」
確かにお兄さんの言うことは正論。だけど、だけど‥‥‥!!
「じゃあ、お兄さんは桐乃に居て欲しくないんですか?」
「居て欲しい?」
「アメリカまで行って桐乃を連れ戻したのはそれが理由じゃないんですか?」
「あれは‥‥‥つまり、その」
「桐乃から聞きましたよ。お兄さんが『俺、寂しくて死ぬ』と言ったって」
「‥‥‥桐乃のヤツ」
お兄さんは下唇を噛んでいるかのような渋い顔になった。
「もう一度訊きます。なんで桐乃をアメリカから連れ戻したのですか?」
「言わないとダメか?」
「言ってください!」
「‥‥‥桐乃が言った通り、寂しかったんだよな、俺」
お兄さんが桐乃のことでこんなに弱気な表情になるなんて信じられない。
お兄さんは、なんだかんだ言っても桐乃のことを支えていられるのに、
なんでそんなに弱気になっちゃうんだろう。
「そんな寂しい思いをするくらいなら今度も止めればいいじゃないですか!」
「あやせ‥‥‥」
「それに! わたしは桐乃の親友だという自負がありました。
でも、桐乃はわたしより先にお兄さんに留学のことを言ったんですよね?」
「それは、家族だからだろ?」
「ううん、それだけじゃありません! この前の留学の時なんか、
わたし、何も‥‥‥教えてもらえなかった!」
「‥‥‥」
「桐乃は、わたしよりもお兄さんとの接点の方がずっと大事なんですよ!
その接点を大事にしないお兄さんなんて大嫌いです!」
お兄さんがわたしの叫びに身を縮こまらせている。
いやだ。わたし、一体何を言っているんだろ?
「わかった‥‥‥」
お兄さんは携帯を取りだし、誰かに電話をかけ始めた。
「桐乃。話があるから来てくれ。場所はあやせの家だ!」
‥‥‥‥‥‥
「桐乃。オマエに話がある」
「その前に! アンタ、なんであやせの部屋であやせと一緒に居んの?」
やって来た桐乃は不機嫌そうな顔でお兄さんと私を見た。
「桐乃、それは―――「そんなことはどうでもいい。オマエに話があるんだ」」
お兄さんが私の言葉を制した。
「ハァ? なんでそんなに偉そうなワケ?」
「あやせは何も関係ない!」
「一緒の部屋に居て関係ないこと無いでしょ! ムカつく!」
私たちに背を向けてこの場を去ろうとした桐乃の腕をお兄さんが掴む。
「待てよ! 話はこれからだ!!」
「そこまで言うのなら聞いてあげるケド。その代わり話が終わったらブン殴る」
「ああ、構わねえよ。好きにしろ」
「んで? 話ってナニよ?」
「桐乃。オマエの留学を止めるつもりはない」
「「えっ!?」」
桐乃とわたしの声が重なった。お兄さん? 桐乃の留学を止めるはずじゃ?
「そ、そんなことを言うためにアタシを呼び出したワケ?」
「まだ続きがある。だがその前に教えてくれ」
「ナニよ?」
「この前、俺がアメリカから連れ戻したとき、俺のことをどう思った?」
「え!? どう思ったって‥‥‥」
「バカ兄貴を殴りたかった?」
「いや‥‥‥」
「シスコン兄貴を殺したかった?」
「ナ、ナニ言ってんのよ!」
「じゃあ一体、どう思ったんだ?」
桐乃、ウソはダメよ! わたしにあれだけ言ったじゃないの。
学校や仕事の帰りで一緒に歩いているときに、お兄さんをバカにした言葉で、
でもとても嬉しそうな顔で私に話してくれたじゃないの!
ウソはダメ! わたしがウソ吐かれるの大っ嫌いだって知っているよね!?
「‥‥‥話はソレで終わり?」
「まだ答えを聞いてない!」
「じゃあ、アンタが訊きたいことは終わったってワケね?」
「ああ」
ぱぁ――――ん
桐乃はお兄さんの頬を張った。何てことを! ダメじゃない!
「ははは、やっぱりそれが返事だよな‥‥‥」
「
勘違いしないでよね。さっき言ったでしょ?『話が終わったらブン殴る』って」
「え?」
「んで、コレが答えだから」
桐乃がお兄さんの胸に顔を埋めた。
「ウザかったケド‥‥‥正直、嬉しかった!」
「桐乃‥‥‥!」
お兄さんが桐乃を抱きしめると、桐乃はそれにほんの少しだけ抗った。
「ダメ‥‥‥あやせが見てる」
お兄さんと目が合ったわたしは部屋を出て行った。
“兄妹’を、いや、“お兄さんと桐乃“をふたりきりにしてあげたかったから。
‥‥‥‥‥‥
暫くして部屋に戻ると、お兄さんと桐乃は憑き物が取れたかのように
晴れやかな顔になっていた。
わたしが部屋のドアを開けた瞬間、桐乃が服を整えているように見えたのは
きっと気のせい! わたしの部屋でそんなことあるはず無い。
「お兄さん、桐乃と話はできましたか?」
「ああ、答えを出したぞ。なあ、桐乃!」
「うん‥‥‥ごめんね、あやせ。心配かけちゃって」
「よかった。わたしも安心しました。で? どうするんですか?」
「俺は―――」
うふふふ。
やっぱりお兄さんはそうするんですね。わかっていましたよ。
ふたりがどんな答えを出してもわたしはそれに反対なんてしない。
むしろ応援する。頑張って!
「ところで、お兄さん?」
「なんだ?」
「この部屋には隠しカメラがあるって知ってました?」
「「なッ!!!」」
お兄さんと桐乃が揃って叫び声を上げた。
「なあんてね♪ 冗談ですよ、いやだなぁ♪ うふふふ」
“ジト目”って言うのかな? お兄さんと桐乃はそんな目でわたしを見ていた。
―――それからのお兄さんは、ご両親にふたりの考えを伝え、
合格したばかりの大学に休学届を出した。
そう―――お兄さんは桐乃と一緒にアメリカに行くことにした。
‥‥‥‥‥‥
わたしは今、成田の空港ロビーに居る。
今日はお兄さんと桐乃がアメリカに出発する日だ。
「良かったね桐乃。お兄さんと一緒に居られるし」
「いやだ、あやせ。コイツは、あ、あくまでもアタシの用心棒としてだから!
勘違い‥‥‥は困るし」
どう見ても強がりとしか思えないことを言う桐乃の顔は真っ赤だった。
「ありがとな。わざわざ見送りに来てくれて」
「ふたりがアメリカに発つ日なんですから、来るのは当然ですよ」
「あやせ、毎日メールするからね」
「そんな必要ないわよ」
「え?」
「あ、いや、そんな無理してまでメールしてくれなくてもいいから」
「そ、そう? でもいっぱいメールするからね!」
桐乃‥‥‥そう言ってくれると嬉しい。
あ、そうだ。桐乃から頼まれていたモノ。
「はい、頼まれていた搭乗券」
「ありがと。55Aの席ね」
「俺は55Bか。隣同士だな」
「もちろんですよ。その程度の気くらい利きます。バカにしないで下さい」
「ねえ、アンタ。そろそろ、時間じゃない?」
「そうだな。じゃあ行くか、桐乃」
「うん!」
お兄さんと桐乃はふたり並んで、つかず離れずの間を保って歩いて行く。
桐乃がいつもわたしに話してくれた、自慢としか思えないお兄さんの話。
それを思い出しながら、ふたりの姿を見送った。
頑張ってね、桐乃。わたしもそばで応援するからね。
さてと―――そろそろ行こうかな。
わたしはポケットから搭乗券を取り出し、ゲートに向けて歩み始めた。
えーっと、座席番号は‥‥‥55Cね。
ウフフフ。
わたしの部屋で“あんなこと”をしちゃうお兄さんと桐乃をふたりきりになんて
絶対にさせないんだから。
『海と空を越えて』 【了】
最終更新:2011年04月18日 17:17