兄貴の消えた日 02


翌朝。
 結局、あれからあたしはほとんど寝ることが出来なかった。
 一人で寂しかったとかそういうわけじゃない。
 あいつがいつ帰ってきてもすぐに文句を言えるように待っていたらそうなってしまっただけだ。
 だからあたしは悪くない。
 おかげでかなりの寝不足。さっき鏡を見てみたら少しクマができててもう最悪。昨日からこんなことばっかりだ。
 ホントは寝ていたいところだけど、そうもいかない。携帯を新調しにいかないと。
 もし壊れてる間に仕事の電話とかあったら不味いし。

 だるい体にムチを打って出かける準備をする。
 あんまりしたくはないけど、クマを隠すためにいつものより少しだけ濃い目の化粧をしないといけない。
 あたしは手早く準備を済ませて、バッグと壊れた携帯を持って家を出る。
 カチャン、という音と共に鍵が閉まったのを確認して、あたしは目的地に向かって歩き出した。


「桐乃ーーー!」
「え、あやせ?」

 目的の携帯ショップまでもう少し、というところで後ろから声をかけられた。
 あやせだ。こんな所で会うのは珍しい。

「こんにちは。桐乃」
「うん。こんにちは。あやせ」
「こんなところで偶然だね。今日はお買い物? たしかお休みだーって言ってたよね?」
「うん、そんな感じ。昨日携帯壊しちゃってさ。買い換えなくちゃいけなくなっちゃって」
「あ、そうなんだ? 災難だったね」

 たわいない会話。たったそれだけのことだけど、肩から力が抜けたのがわかった。
 自分でも気付かないうちに相当気が張り詰めていたみたいだ。
 こういうときは本当に友達の、親友のありがたみを感じる。やっぱり持つべきものは、だよね。
 あやせと話しているうちに、さっきまでの沈んだ気分は大分晴れていた。
 そうやって歩いてると目的のお店が見えてくる。
 あやせもこれから用事があるみたいだから今日はここでお別れかな。

「じゃあ桐乃、わたしこっちだから」
「うん。あ、そうだあやせ」
「うん? 何、桐乃?」

 きっとあたしは安心しきっていたんだと思う。それまでがあまりにもいつも通りで。
 だから聞いてしまった。聞くつもりはなかったあいつのことを。

「兄貴、どっかで見なかった?」
「―――」
「昨日から帰ってなくてさ。連絡もよこさないし、あいつどこほっつき歩いてるんだか」
「…………」
「あやせ?」

 どうしたんだろ? なんか様子がおかしいけど……
 そんなことを思っていると、あやせはくるっとこっちを向いた。
 表面上は変わりがないように見える。でも、目が恐ろしいほどに、暗い。

「知らないよ」
「あ、え」

 あやせの目には虹彩がまったく見えない。一体何が起きているんだろう。
 なんでそんな目をしてるの、あやせ? その目はまるで『あの時』みたいな……。
 それに、知らないって? それはどういう意味で? 居場所を知らないだけ? それとも――

「そんな人、どこにもいないでしょ? 桐乃」
「――――」
「ごめんね桐乃。あたし急がないと。
 ちょっと急用も出来ちゃったから。バイバイ桐乃。また学校でね」

 そう言って駆け出すあやせを、あたしは呆然と見送っていた。
 頭から血の気が引いていくのがわかる。喉が枯れる。ヒューヒューと浅い息が口から抜けていく。
 ドサッと持っていたバッグが落ちる音がした。手に、力が入らない。

『そんな人、どこにもいないでしょ?』

 その言葉が頭の中を何度もリフレインする。
 言い方は違っても、それは昨日、黒猫から聞いたあの科白と同じコトバ。
 それは京介の存在を、あの二人に続いてあやせにも否定されたということになる。

「あ、はは。あはは………うっ、ぐ」

 乾いた笑いが漏れるのと、目から何かが流れるのはほぼ同時だった。

 なんでよ。なんで、みんなあいつがいないなんて言うのよ。まるでこれじゃあ、あいつが、あたしの―――。

 グイッっと腕の裾で頬を濡らすそれを拭って、地面に落としてしまったバッグを持ち直し、あたしはどこへともなくフラフラと足を踏み出した。

 それからどこをどう歩いてきたのかはよく覚えていない。
 顔を上げてみれば、どこか見覚えがあるような、懐かしいような、そんな場所へと辿り着いていた。

「ここは……?」

 あたりを見回せば、不思議な感覚が自分を包む。
 まるでこの場所をよく知っているような。それに、さっきちらっと目に入ったあの家は――

「桐乃ちゃん?」

 その声を聞いた瞬間、なんであたしがこんなところにいるのか理解した。
 背後からかけられる声は、多分あたしがこの世で一番ムカつくやつであろう女の声だ。
 そして――あいつに関しては、誰よりも信用できるだろう相手。
 振り向けばそこにはやっぱり、そいつはそこにいた。
 田村、麻奈実。

「あんた……」
「どうしたの? こんなところまで来るのは珍しいよね? ロックに用事?」

 なんの不安もなさそうな、のほほんとした態度。
 「京介に大事にされている」。その事実から普段から気に障るその態度は、余裕のない今は殺意さえ覚えてしまう。

 ロックって言うのが誰のことかはわかんないけど、そんなものはどうでもいい。
 あたしはあんたに聞かなくちゃいけないことがある。

「違う。あたしは……あんたに聞きたいことがあるの」
「桐乃ちゃんが? あたしに?」

 バクバクと心臓の音がうるさい。足が震えて今にも崩れ落ちそうだ。

 ――わかってる。もし、こいつに京介のとこを否定されれば、それはもう、認めるしかないんだってことを。
 もう、京介が、存在しないんだって。それがたまらなく、怖い。それでも、それでもあたしは――

「桐乃ちゃん?」
「あんたさ、兄貴、どこ行ったか、知らない?」
「え?」
「…………」

 首をかしげて、う~んと悩む地味子。
 イライラする。何をもったいぶってんのよ。知ってるんでしょ? だから早く、あいつの居場所を言ってよ。
 早く。…はやクはヤクハやく、早く!! あいつが、京介がいるって言ってよ!!
 どこまでも焦燥感だけが加速する。1秒1秒が凄まじく長く感じられた。
 そして、そんな時間が過ぎ去り、地味子の口から発せられた現実は――

「桐乃ちゃん」
「…………」
「あのね、一度おうちに帰ったほうがいいんじゃないかな?」

 ――あたしを、暗闇のどん底へと突き落とした

 ああ、そっか。そうなんだ。やっぱり―――キョウスケハモウドコニモイナイノカ。

「そうすれば多分――」
「うるさい……」
「え?」
「うるさいって言ってんのよ! もう…もうしゃべんな!」
「き、桐乃ちゃん? 泣いて……?」
「あんたの言うことなんかもう何も聞きたくないっ! あんたなら、あんただけはって……そう、思ってたのに――っ!」
「え、えと…… 何を言って――」
「あんたなんか……まなちゃんなんかっ!――――大っっっ嫌い!!!!」
「!? き、桐乃ちゃん!?」

 京介。京介、きょうすけキョウスケ京介きょうすけ―――っ!

 ただがむしゃらに、地味子の前から逃げ出すように走りだしたあたしの頭の中は京介のことだけで一杯だ。
 視界が滲む。足がもつれる。足をとられて転んだのは一度や二度じゃなかった。
 家に辿り着き、ガチャガチャと鍵を開ける。手が震えているせいか鍵が鍵穴になかなか入らない。
 ガチャン!と鍵が開いたのを聞くか聞かないかのタイミングで扉を開け放ち、後ろ手にバン!と叩きつけるように閉じた。

 ハァ、ハァ、と荒い息をつく音だけが家に響く。
 あたしは扉に寄りかかるようにしてその場にへたり込んでしまった。

「ハァ、ハァ……ぅぐっ、ぐすっ。うぅあぁぁ……なん、で。なんでよ……は、ぁ、ひっく、あい、つはぁ。絶対に、いたのにぃ……」

 嗚咽と一緒に溢れてくるのは、京介と一緒に過ごした日々の思い出。
 あたしの趣味がお父さんに取り上げられそうになった時に言ってくれた、あの力強い言葉も

 『俺に任せろ』

 あやせと絶交しそうなった時に、抱きしめられたあの温もりも

 『俺はなあ――妹が、大ッッ……好きだーーーーっ!』

 肩を寄せ合って過ごしたあの日々も

 『――ありがとよ、桐乃』

 そして、アメリカで潰れかけたあたしを迎えに来てくれたあの嬉しさも

 『……一緒に帰ろうぜ。じゃないと俺、死ぬかもしれない』

 それが全部、あたしの妄想だったというんだろうか。だとすれば、なんて滑稽なことだろう。


 無理矢理足に力を入れて立ち上がった。
 靴は脱ぎ散らし、ヨロヨロとリビングの戸をくぐってソファに深く座り込む。
 部屋に帰れるほどの余力は今のあたしには残っていなかった。

(そういえば、あいつと久しぶりに話した日も、こうしてたっけ。)

 昨日の寝不足のせいか、さっきまで走ってたせいか、瞼が重い。

(京介があたしの妄想なら、このまま眠れば、また、夢の中だけでも、会えるのかな?)

 少しづつ降りてくる瞼と、傾いていく体、そして落ちていく意識の中で

(きょう、すけ……)

 あたしは

「……いま……りの?い……か?」

京介の声を聞いた気がした。





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最終更新:2011年04月20日 09:55
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