じめじめと鬱陶しい梅雨のある日、庭の木の葉に当たる雨音をBGMに、あたしは机に向かってシャーペンを動かす。
やっているのは数学の練習問題。数学というのは、一定の解法さえ覚えてしまえば、あとは簡単なパズルのようなものだ。もう中学でやる範囲は一通り済ませてしまっているから、今あたしがやっているのは、そのパズル部分を延々と繰り返す作業だと言って良い。
これだから、あたしはあんまり数学が好きじゃない。こういうのが好きな人もいるんだろうけど、正直もう飽きてきた。
ただ、だからといってやらないでいると、簡単に公式や解法を忘れてしまって、すぐに問題が解けなくなってしまう。何事も、身につけようと思うなら、繰り返し繰り返し練習することが必要だ。少なくともあたしには。
「ふう」
一つため息をついて、肩をほぐす。そして、目の前の壁をみる。正確には、壁に目を向け、その向こう側にいるヤツのことを考える。
アイツは、普段はほとんど勉強なんてしてないみたいだ。それで、いつもテストの直前になって、あの女と詰め込み勉強をしている。
それなのに、お母さんから聞いた話では、成績は結構良いそうだ。そりゃ学年で一番とかいうレベルじゃないけど、今の時点でも地元の国立大を狙えるくらいの位置にはいるらしい。
今行っている高校だって、特別な名門校とか進学校とかいうんじゃないけど、このあたりじゃそれなりにレベルの高いところだ。そこに、特にこれといった勉強をした様子もないのに、入ってしまっている。
もっとまともにやれば、学校の勉強なんてきっと簡単だろうに。…そうすれば、あの女と一緒に勉強する必要も無くなる、のに。
「はあ」
あたしが二度目のため息をついた時、携帯が鳴り出した。着メロはマスケラの主題歌。黒猫だ。
「-もしもし?」
『私よ。今ちょっといいかしら?』
「いいけど、何?」
少しトゲのある声を出してしまった気がする。こういうのは良くないと分かっているけど。
『マスケラの劇場版が公開されているのは知っているわね?』
「あー、なんかそんな話どっかで見たような気もするわ」
『まだ鑑ていないのね?』
「見てない。つーか、もともと見る気もないし」
『私は当然公開初日に鑑に行ったけれど、今回の劇場版は、総集編の枠に留まらない出色の出来だったわ。それで、もう一度鑑に行こうと思っているのだけれど、その時はあなたも付いてきて良いわよ。』
は? 何言ってんのコイツ?
「だから、見る気無いって言ってんじゃん。なんであたしがあんなもの…」
『あら? 鑑もしないものを「あんなもの」と言えるなんて、さすが理乃先生は見識が深いわね?』
「くっ」
このパターンでコイツにやりこめられるのって、何回目だろう? コイツも、いい加減別の切り口を考えなさいよ。仮にも創作を志す人間なら、ワンパターンは避けるべきじゃない?
まあ、コイツが言いたいのは、要するにマスケラの映画を一緒に見に行こう、ってことよね。にしても、もう少しまともに誘えないのかしらね。あんな言い方じゃ行きたいものも行きたく無くなるでしょうに。
『鑑に行くのなら休日がいいと思うわ。沙織にも都合を聞いて鑑に行く日を決めるから、今後数週間の休日のうち、都合の悪い日を教えてくれるかしら』
なんて強引なヤツ。
「まだ行くって言ってないってーの」
とはいえ、既にあたしはOKするつもりでいるんだけどね。
それは、別にマスケラ劇場版が見たいからではない。実のところ、あたしにはマスケラはどうにも性が合わないみたいで、多分今度の劇場版とやらでもそれは変わらないだろう。
ただ、コイツがこんな風に絶望的に不器用ながらも、自分から誘ってくれたから。だから、あたしは断っちゃダメだと思った。
普段三人で遊んだりする時は、スケジュール調整なんかは大抵沙織がする。こいつがこんなに積極的に段取りを組もうとするなんて、初めてかもしれない。こいつがそんな慣れないことをするのは、ここのところあたしとの関係がぎくしゃくしてるのを、なんとかしようとしてのことだろう。悪いのは、全部あたしなのに。
「ったく、しょうがないわね。えーと、とりあえず、再来週の日曜はモデルの仕事が入っているからダメね。それ以外の日なら、今のところ平気よ」
最近は出来るだけ休日は空けるようにしているからね。…それで何か出来たわけではないんだけど。
『そのモデルの仕事の日は、朝から出かけるの?』
あれ? 変なところに食いついてきたわね。
「そうね、しかもその日は夜までかかりそう」
『モデルの仕事というのは、いつも一日がかりなのかしら?』
「別にそういうわけじゃないわ。あたしもまだ中学生だから、スタッフの人も考えてくれるし。結構短時間で終わることもあるよ」
なんか色々聞いてくるわね。こいつは他の女の子と違って、あんまりモデルの仕事とかに興味ないと思ってたけど。
…そういえば、こいつたまにバイトしてるとか言ってたわね。ひょっとしたら、割の良いバイト先として、モデルの仕事に興味が出てきたのかも。
うーん。こいつの場合、確かに見た目だけなら、モデルとしても合格水準にあるといっていい。ただ、モデルの仕事というのは、見た目は勿論重要だけど、それ以上に撮影スタッフの人たちと円滑にコミュニケーションがとれることが重要だったりする。そこらへんに関しては、こいつは間違いなく落第点だろう。
それに、撮影以外でも、時にはスポンサーやらなんやら、わけのわからない人たちにおべんちゃらを言わなきゃいけなかったりもするわけで、ある程度人とのコミュニケーションを楽しめる人じゃないと、やってても辛いだけだと思う。
…でもまあ、もしこいつがやってみたいと言うのであれば、誰かに紹介してみてもいいかな。最初のうちはあたしと同じ現場にしてもらうようにすれば、フォローもしてやれるだろうし。それに、あたしがあんまり向かないと考えて誘わなかった加奈子も、今では結構楽しそうにやってるみたいだから、ひょっとしたら黒猫も意外とハマったりするかも。
「なにあんた、モデルの仕事に興味あるわけ? やってみたい?」
『いいえ、全く無いわ』
はいそうですか、全くないですか。あたしの考えすぎってわけね。
「あっそ。じゃ、さっき言った通り、あたしの駄目な日は再来週の日曜だから、あとは沙織の予定を聞いて適当に決めといて」
あ、でも、ひょっとしたら、こいつ、あたしのためにあえて自分に興味のない話を振ってきたのかな? …ううん、こいつはそこまで殊勝なヤツじゃないわ。だけど…
「…そういやさ、こないだテレ東で始まった…」
あたしは、黒猫が気に入りそうな、厨二アニメの話題を振ってみた。
「うん、じゃ、またね」
そう言って電話を切る。ちなみに、あたしが話題を振った例の厨二アニメは、微妙に黒猫の趣味に合わないものだったようで、あいつの語彙の許す限りの多彩な表現で貶し尽くされた。その後、あたしと黒猫は、それ以外で今放映中のアニメのことや、最近面白かったゲームのことや、冬に始まるか来年かそれともハルヒみたいに数年後かというメルル三期の開始時期のことなんかを話した。
そんなこんなで、随分話し込んじゃったかな。あいつとこんな風に話したのは、結構久しぶりかもしれない。
ぱたん、と携帯を閉じて、机の上に置く。そうして、ついさっきまで話していた女のことを考える。最初会ったときは、まさかあいつがあたしの人生にこんな風に関わってくるなんて思いもしなかった。
そう、あたしの人生は、黒猫のせいで変わってしまった。ある意味では、そう言っても良いと思う。
本来であれば、今あたしはここに居ないはずだった。今頃は、選抜の強化合宿で会ったアメリカ人トレーナーの誘いを受けて、アメリカに渡ってトレーニングを受けているはずだ。
あたしは、そのためにモデルの仕事を増やし、ケータイ小説も書いてお金を貯めた。可能性があるのなら、どこまで行けるのか、最大限チャレンジしてみたかったから。
それなのに、今、あたしはここにいる。その原因を作ったのが、黒猫だった。
最終更新:2009年08月24日 04:31