「なあ、前から気になっていたんだが」
リビングで、足を組みながらファッション雑誌を見ている桐乃に対し、俺はそう切り出した。
今日は、両親共に家を留守しており、俺と桐乃の二人で留守番をしている。
無論、桐乃と二人で留守番なんて望んでいるわけでも無く、どこかに出かけても良かったんだが、残念ながら赤城も麻奈実も捕まらず、
別段何か買いたいものがある訳でもなし、家で留守番するという選択肢を選ばざるを得なかっただけだ。
目の前で、ファッション雑誌を真剣に吟味している桐乃もまた、同様だろう。黒猫や沙織、あやせとかが今日偶々皆忙しくて、仕方なしに家で留守番しているのだろう。
だから渋々、まるで仲の良い兄妹のように、二人で留守番をしているという訳だろう。
特に二人、会話をする訳でもなく、リビングで各々雑誌を読みふけっていたのだが、少し会話をしてやってもいいかという気分にもなったので、気になってた事を切り出したのが今だ。
「…………」
そして相も変わらず無視を決め込んでくれている妹様。ったく、会話もする気がないんだったらリビングじゃなくて自分の部屋に篭ってりゃいいのにな。俺の部屋と違って、
自分の部屋にエアコンあるんだからさ。俺は当然、扇風機を回しても生暖かい空気が循環しかしないサウナのような自分の部屋から逃げるという理由があってリビングに居るだけだがな。
「おまえって、本当に妹が好きなわけ?」
相手が無視していても、敢えて会話を続けてやる。確実に聞こえている筈なので、このセリフで間違いなく、食いつく事が分かっていたからだ。
「今更、何いってんの、あんた」
ほらな?
「なに、なになに、あたしの妹に対する講釈を聞きたいってワケ? 仕方ないな、特別に教えてあげる。いい? 妹はね――」
「すとーーーっぷ! 聞きたくねえから! つかまだ俺の話終わってねえからっ!」
俺が慌てて桐乃の話を止めると、明らかに不満気に眉を潜める。余程講釈をしたかったと見受けられる。だが、勘弁してくれ。前に無理やり講釈を聞かされて気付いたら
2時間以上経っていた俺からすれば、もううんざりだという感想しか持てない。
しかも桐乃に言わせれば、まだ導入編、序章しか話してなかったというんだから俺のうんざり感が分かるだろう?
「ちっ……なによ、言いなさいよ」
それだけで舌打ち。いらっと来るが、これでいちいち文句を言っていたら話が終わらないので、驚異的な自制心を発揮しながら、俺は本題を切り出した。
「前に、おまえが黒猫の妹に対し、色々と暴走してたのを見て思ったんだけどよ」
暴走なんてしてないし、と言いたげな桐乃の視線を感じたが、無視する。あれが暴走じゃなかったらおまえの真の暴走はどんだけなのかと想像するだけでも恐ろしい。あれで暴走だと思わせてくれ。
「別に、兄と妹、という組み合わせじゃなくても、姉と妹でも、そのなんだ、おまえにとって妹扱いになるわけだよな?」
「当然っしょ。妹は妹だし」
心の底から当たり前の事を言っているという表情で、桐乃が断言する。
「じゃあさ、沙織はどうなん?」
沙織も確かちゃんと姉が居た筈だ。つまり、彼女は妹という事になるよな。
「……あ、あー、沙織はその、別っしょ。その、知り合った時は妹だと思ってなかったし、それに未だにお姉さんに会った事無いし、なんて言うか妹だという実感が無いっていうか」
ふむ、なるほど。
「じゃあ、瀬奈は? あれは初めから赤城の妹だって認識はあったんじゃないのか?」
いつの間に仲良くなってたから具体的な経緯は知らないが、赤城の妹だって事は知っているよな。お兄ちゃん連呼してたりする事もあるし、実感は嫌という程沸くはずだ。
「せなちーは……その、友達だから?」
「じゃあ日向や珠希ちゃんは友達じゃないと?」
「そりゃその……友達、だけどさ」
良かったぜ。妹だから友達もクソもないとかそういう宣言をされたりしたらどうしようかと思ったぜ。逆にそれ、妹に対して失礼だからな。
「それとさ、俺が知らないだけかも知らないけど、ブリジットにもおまえ、その、萌えてたよな? あいつ、別に妹じゃないだろ」
「…………」
「この事から推測するに、おまえは妹キャラが好きなんじゃなくて、同性に対するロリコ」
「すとーーーーっぷ! それ以上続けんなっ! 何言っちゃってんの! あたしは、妹が好きなの、ただそれだけなんだから変な事考えんな!」
俺の言葉を遮り、凄い勢いで捲し立ててくる妹。いや、なんでこいつがこんなに怒ってるのかが分からないんだが、これは俺が鈍いからなのか、普通の人は分かんのか?
つか自分の妹が「妹が好き」なんて事を考える方が余程変な事じゃねえか?
「…………なあ?」
「…………何よ?」
なんで顔を赤らめて顔を背けてるんだ、こいつは。何か恥ずかしがる要素が今の会話にあったのか?
「なんで、そこまで、妹が好き、という事に拘るんだ?」
「…………」
そこで黙りこんでしまう。まるで何か言い難い事があるような、それでそれが言えないようなそういう態度。前に何故妹が好きなのかと聞いた時は分からないと言っていたが、
今回はそもそも妹が好き以外の可能性が提示されている。それなのに、何故、妹が好きという選択肢に縋るのか。つか、自分より年上の妹とかが居ても本当にこいつは悶えるのだろうか。
まあ、エロゲーのヒロインは全員18歳以上だがな。
「……き、聞きたい?」
「いや、そこまで凄い聞きたい訳じゃないんだが」
なんでそんな恥ずかしがってる顔で、ちらっとこちらを見てるんだ、こいつは。
なに、なんのイベント始まってるの? 妹に「妹が好きな事に何故拘るのか」と聞いたらなんかイベントが始まるのが高坂京介の人生なのか? イベント発生条件複雑過ぎだろ。
「そ、そう」
あれ? いつもの桐乃ならここで俺の意見など聞かずに一気に捲し立てる筈なんだが。あっさりと引き下がったな。
……こうあっさりと引き下がれるとなんだか、気になってくるよな。俺だけじゃないよな?
「……やっぱ聞かせてくれ」
別に妹が「妹が好きな事に何故拘るのか」が気になっている訳じゃないからな、マジで。
桐乃は背けていた顔をこちらに戻し、俺を真っ直ぐと見つめた。瞳が心なしか潤んでるように思える。それに顔も赤く見える。え、なに、なにがはじまんの?
俺の中の警鐘が、危険という悲鳴を上げている。嫌な汗が背中に滲んでいる。え、え、何、ちょっと完全に先行きが予想不能なだけに、どうすればいいのかすら分からない。
き、聞かねえ方がいいんかな。でも、聞くって決めたしな、今更こう引くのは……。
そんな俺の心境を知ってか知らずか、桐乃は俺をしっかりと見据えて、少しコクリと喉を鳴らして、徐ろに切り出した。
「……あたしが、――妹だから、よ」
「…………」
いや、そうだよな? 妹だよな? え、なに、実は妹じゃない設定だったのか?
で、なんでこいつは言っちゃったみたいな顔してんの?
ここで安易な台詞なんか不味い気がする。しかし、他に選択肢なんて無くないか?
ゴクリ、し、仕方ない。頭に浮かんだ台詞をそのまま返すしかない。
「そ、そうか。確かにおまえは俺の妹だもんな。で、だから、妹が好きな事に拘りたい、んだな。そうか、わ、分かった」
全く分かってないが、このまま話を終わらせる事にする。なんか空気が危険だ。
「…………」
桐乃はこちらをじっと見つめている。潤んだ瞳に、俺の顔が写っている。頬が赤く、息づいかいも何だか艶かしい。ソファの端と端で座っていた俺と桐乃。だが、
桐乃が距離を詰めてきている事に気付く。二人の距離は、今、近付いていた。
不味い。何が不味いのかまるっきり分からないが、不味いという状況だけは分かる。この空気はぶち壊したいが、壊し方を誤ると、とんでもない事に成りうる。そういう危うさ。
か、考えろ高坂京介。ヒントは、妹が好きな事に拘るのは、桐乃が妹だから。
ん、待てよ? 何かに気付いた。そう、些細な違和感を感じる。待てよ。そうだ。
俺は、桐乃が妹ゲーをしていて、妹の可愛さを語っていて、その妹キャラと桐乃がまるで違っていて、自分で自分のダメ出しをしてんのか、
或いは妹という自覚が妹ゲーをしている時はないのだろうと考えていた。何故なら、自分が妹だという自覚をしていて、妹ゲーが出来るとも思えなかったからだ。俺が、
兄という自覚あって妹ゲーを攻略するのに精神的に疲れるのだから、ああやってゲームを楽しめるという事は、ゲームと現実を、2次元と3次元を別に考えていて――。
「な、何黙ってんのよ、な、なんか言いなさいよ」
思考に耽っていた俺を、黙りこんでると判断したのだろう。桐乃が、不安げに俺に話しかけてくる。待ってろ。今、頭がフル回転しておまえの事を分かろうとしてんだから。
2次元と3次元は違う。ゲームと現実は違う。だが、桐乃は現実でも妹が好きで、日向とか珠希に悶えていて。現実でも妹が好きで。ゲームで妹が好きだから、
現実の妹が好きになったのか? それとも現実の妹が好きで、いや、自身が妹だから、妹が好きで……待て、待て。
「自分が妹だという自覚があって、妹が好きで、妹ゲーに嵌って、そして、それを俺に――」
――エロゲーは、俺と妹の愛の絆。
――禁断の愛を集めていて。
――全てが兄妹の恋愛を描いた作品。
可愛さを求めているのであれば、年下の女性が好きである、でも問題はない筈だ。
だが彼女は妹である事を求めた。年下の幼馴染が居る作品とかじゃ駄目だった。妹である事。つまり可愛さじゃなく、その設定にこそ重きをおいた。兄と妹が結ばれる関係。妹ゲーとは妹を攻略するゲーム。いや、
自身が妹の立場だと想定すると、妹が兄に攻略されるゲーム。それも、兄の選択肢を、自分が望む選択肢を答えさせる事が出来る。つまり、それは――。
「ば、馬鹿じゃん」
俺の思考が結論に向けて収束しつつあったのを止めたのは、桐乃の短い言葉だった。
「な、何か変な
勘違いしてんじゃないの? べ、別に深い意味なんてないっての」
――――。
その言葉を聞いた瞬間、全身からどっと汗が吹き出した。変な事を考えてしまっていた自身に対する羞恥だろうか。それか、緊張が溶けて安心した為か。決して、
何か残念の様なそういう気持ちは無い。だって、そんなの、気持ち悪いじゃねえか。そうだろう?
「だ、だよな? 悪い、悪い。ははっ、ふう、冷や汗かいたぜ」
「…………」
明らかに安心した態度の俺に、桐乃が何か複雑な表情を向けている。
「桐乃?」
その時の俺は完全に油断をしていた。桐乃が直ぐ近くに座っている事。潤んだ瞳。赤くなった顔。そういう全てが頭から完全に消えていた。
「やっぱ、嘘」
桐乃が俺の肩に手を掛ける。油断していた俺は、その動作に反応が出来なかった。そのままその手に体重を掛けられる。たかが女子中学生の、
しかもモデルをやるような細身の体重などとたかが知れていた。それでも、油断をしていたからだろうか、あっさりと押し切られる。
「え?」
ソファの肘掛けの部分に背を付けるような形になる。そのまま、体重を掛けられ続けたら、俺はソファから落ちてしまう。だから、自然ふんばろうとして顔を持ち上げる事になる。
そこには妹の顔。……避ける暇なんて無かった。
「……ん」「……!」
唇に感触。柔らかく、しっとりとした感触。蕩けるような甘美な感覚。だが精神を支配したのはそんな甘いモノでは無かった。
慌てて、桐乃の肩を押し戻す。そして言葉を続ける。
「わ、悪い! 避けられなくて、た、他意は無かった、すまん、本当に悪かった!」
俺の頭の中は真っ白だった。そこにあったのは罪悪感。妹のキスを奪ってしまったという行為。まるで自分に非はないのだが、
男と女ではキスの価値が違うだろう。俺にとってこれはファースト・キスになる訳だが、もし桐乃にとってもこれがファーストキスになるのであれば、
俺はとんでもない事をしてしまった。事故であったとして、まるで非がなかったとしても、妹のファーストキスを自分が奪ってしまったというその事実が、余りに重い罪悪感を生んだ。
殴られても、蹴られても、甘んじて受けてやろう。妹の気が済むまで、とそこまで覚悟をしていた。
「馬鹿じゃん」
俺の言葉を全て聞いた桐乃は、ただそうと呟いた。顔を伏せているので表情は見えない。今の桐乃の中では俺に対する怒りで渦巻いているのだろう。
「くっ……すまない」
俺は悪くない、被害者だ、と言っても良かった。だがそれは出来なかった。例え、それが理不尽であっても、兄としての自分の心が、
それを許さなかった。妹の始めてを兄が奪うだって? このクソ野郎が、死に晒せ、と俺の兄の部分が全力で俺を罵倒する。
そんな俺を、
「馬鹿! 本当にあんたは馬鹿! 馬鹿、馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿! いっぺん死んだらどうなの!
分かってない、どうせあたしが怒っている理由だって分かってない、それがムカツクの! あたしの気持ちを、勝手に決めんな!
分かる? あたしが怒ってんのは、悲しいから! 悲しいから怒ってんの……!」
桐乃は、涙を流しながら罵倒する。
悲しい、から? 俺にファースト・キスを奪われて?
「やっぱり、分かってない! 兄妹だから分かる、あんたが何を考えてるのか、今ははっきり分かる! でもね、それがあたしを傷つけるの! 分かんないの? なんで分かってくれないの?
あんたが分かってくれるなら、それで、全てを許せるのにっ!」
言葉の本気さが、ひしひしと伝わってくる。どれも掛け値なしの本音で、想いだった。
でも俺には分からない。桐乃が何を言っているのか分からない。いや、分かろうと、してないのか。
「あんたが……、あんたさえ……っ!」
俺は桐乃を抱き寄せた。
「……!」
そして、出来る限り優しい声で、俺は伝えた。
「悪い、……悪い。分からねえ。確かに、おまえがなんで泣いているのか。きっと俺は全然分かっちゃいない。
でも、駄目なんだ。嫌なんだ、おまえが泣いているのか。だから、ほら、泣き止んでくれ」
頭を撫でてやる。小さな頃、よくこうやって妹を泣き止ませた。その事をふと思い出す。
「……死ね。ホント、あんたはなんで、……こうなの?」
言葉は刺々しい。しかし、態度として嫌がる素振りを見せなくて。俺の胸に顔を押し付けながら、桐乃は大人しく頭を撫でられていた。
「本当にな……。どうして、俺達は、こうなんだろうな」
すれ違っているような、そういう感覚。もしかすると俺のこういう行動さえ、妹にとっては酷い行いなのかも知れない。けど、俺はこうするしか出来ない。
でもさ、信じてくれよ。俺は決して、おまえを傷つけたい訳じゃない。
おまえが、大事なんだよ。
そういう想いを込めて、優しく、妹の綺麗な髪を撫でてやる。
「……フン、今は……別にいい」
想いが通じたのか、桐乃の言葉から刺々しさがなくなったように思える。
「今は、あんたの妹で居てあげる。でもね、いつまでも続くと思わないでよね」
それは、いつかの別れを示唆しているのか、それとも。
まあ、いい。今、この時間が俺は嫌いじゃない。
だから、暫くてもいい。俺を、おまえの兄で居させてくれ。
いつか、その関係が終わってしまうその時までは。
最終更新:2012年06月24日 12:41