瑠璃と別れてアパートにつく頃にはちょうど日も暮れかかっていた。カラスが鳴く声が寂しさを感じさせる。
部屋の前に着き鍵を差し込むと異変に気づいた。
(鍵がかかってない?…誰か、いるのか?)
そっとドアノブをあけ、そろりそろりと部屋を覗く。
見ればベッドに小さな山が出来ていた。近づいてみると…。
「…なんだ桐乃か。はあ…空巣かと思ったぜ。」
ぼろくは決してないがオートロックも何もなくちょっとピッキングの器具や技術があれば簡単に開錠できてしまうだろう学生用のアパートだ。だから桐乃には決して一人では部屋にいないようにさせていた。でも今の桐乃には…。
「それにしても、こいつが一人でここに来るなんてな…。」
あのぎこちなさだ。お袋や親父と来るってんな解るんだが…。本当に一人で来たのか?
「…。」
すやすやと寝息一つ漏らさず枕を抱きしめながら寝ている。って、こいつ記憶がなくなっても寝方がまるで変わってねえな!
「こいつの寝顔だけは昔っから何にも変わらねえな。」
艶の入った黒髪に指を入れる。さらさら指からこぼれ落ちていく感触が愛おしい。
ふと、自然な流れで寝顔にキスしそうになった。それをすんでのところで自制する。
「いけねえ。前はこれが普通でも今は…。」
キスした瞬間起きられてみろ。今の桐乃なら完璧に嫌われちまう。『知らないけれど一応お兄さんと皆がいう人』から『寝込みを襲う強姦魔』にクラスチェンジだ。赤城辺りに事情込みで話したら爆笑必至だろうよ。
「はあ…。」
自分のなかの感情を押し込め(普段何気なくしていたことがこんなに大切だったのか!)、時計を見る。もういい夕飯時だ。全国のお母さん達なら料理をつくり終わる頃合いだろう。
「よし、飯でも作るか。出来た頃に桐乃を起こすか。びっくりするぞ~。」
妹のうれしそうな顔を頭の中で想像しながらわくわくし、俺は台所に向かった。
☆
☆★
☆★☆
ーーー夢を見る。
体がふわふわしている感じ。どこか足りない現実感。
だからきっとこれは夢だ。
気がつくとあたしは白い砂場のような場所にちょこんとへたり込むように座っていた。
周りを見渡すと暗闇。だけどキラキラと輝く記憶の欠片が流れる砂のようにさらさらと存在を示しては消えていく。
ーーー学校でテストでいい点を取って褒められてる記憶。歓声の中、凛々しく走っている姿。京介さんとの冷え切った関係。黒猫さんやぐるぐる眼鏡の人達とゲームをしている姿。見知らぬ外国の地でうつむいて歩く姿。むっつりしながらも京介さんに見えない角度で笑顔を含ませて飛行機に乗る姿ーーー。
ーーーどれも全く記憶にない。
だからこれはきっと『あたし』の記憶だ。『あたし』の想い出なんだーーー。
本当の記憶を取り戻したいという理性と、それ以上踏み込むなという罪悪感のような得体の知れない感情がお互いに首をもたげ合う。
ーーー気がつくと白い一筋の道が出来ていた。
流れるように煌いていく記憶達に導かれるようにその道を歩く。
その先にはーーー。
☆★☆
☆★
☆
「う、う~ん…。」
気がつくと見知らぬ部屋。あれここどこだっけ?
トントントン♪
奥からリズムのいい包丁の音が美味しそうな味噌汁の匂いを連れてやってくる。
えーと、ここは…あ!
「よう、起きたのか。」
「あ、あの、ご、ごめんなさい、あの、あたし、」
「ん?なにがだ?」
「あの、か、勝手に部屋に入って、ベッドで寝ちゃって、その!」
あああどうしよう!絶対寝顔見られちゃってるよね!呆れちゃってるよね!?
京介さんは何も答えず奥に消えた。
…ど、どうしよう…もしかして怒ってる?あたしが勝手にベッドで寝たから。枕をくんかくんかしたから!
すると京介さんは食事をトレイに乗せて持って来た。
「飯、食おうぜ。」
「え?」
「腹減っただろ?もうこんな時間だしよ。すこし遅い夕飯だけど一緒に食べよう。」
あ、あれ?お、怒ってない?
「で、でもあたし…。」
きゅるる~♪
その時あたしのおなかの中から小さな虫が鳴きだした。
「あ、あの、これはそのぅ。」
「決まりだな。」
愛おしそうな目であたしを見つめた後、食事をテーブルに載せていく。
…まただ。この目に見つめられるとどこか暖かな気持ちになる。くすぐったくて、目をそらしたくて、けれどとどまっていたくて…。
「じゃ、じゃあ、い、いただきます…。」
「おう。」
二人で同時に手を合わせた。小さな紅鮭に菜の花のおひたしにしょうがをかけたお豆腐に白米。比較的ヘルシーメニューだった。
「おまえはさ。」
「え?」
紅鮭を箸で切り分けながら京介さんが話す。
「食事のバランスに本当に気を使う奴なんだよな。低カロリーなだけじゃだめだ、炭水化物よりたんぱく質のほうを多めにしろ、肉類と油物は控えめにしろ、とかさ。俺が料理覚えたての頃はすっげえ注文つけられた。作ってはダメだし作ってはダメだし…ってな。」
「そ、そうなんですか?」
「そのくせ自分じゃ壊滅的に料理できねえの、ははっ。でも…どんだけ文句いっても俺の作った食事は絶対残したことがないんだよな。」
京介さんはなつかしそうに料理を見つめながらとつとつと話す。…そんな顔をさせてしまったことに、あたしは申し訳なくなる。
「あ、あの、」
「ん?」
あたしは姿勢を正してぎゅっとスカートの裾を握り締めながら、
「ご、ごめんなさい!」
頭を京介さんに向かって下げた。
「おいおい、いきなりなんだよ。どうしたんだ桐乃。顔を上げろよ。」
顔を上げるときょとんとしていた。
「なんでいきなり頭なんか下げるんだ。ってあ~あ、味噌汁に髪が入ってるじゃねえか。」
「あ!あ、その!」
あたふたしてふきんを取ろうとするあたしを見ながら京介さんはくすりと笑いながら、
「じっとしてろよ。拭いてやるから。」
ティッシュを4,5枚箱から取り出し、丁寧にぬぐってくれた。
「せっかくの綺麗な髪なんだからよ…。大事にしないとな。」
「あ、ありがとうございます…。」
あたしの声は最後の方は小声に近かったに違いない。まともに京介さんの顔を見ることが出来ず、うつむき続けた。
「これでよし。つーかさ、おまえ黒髪に染め直したんだな。」
「え?あ、は、はい…。」
本当はそうじゃないんだけど…。余計なことは言わないでおこう…。
「ま、俺は黒い方が正直好みだよ。にしても…おまえは何しても本当によく似合うな~。」
「あ、ありがとうございます…。」
うう~。て、照れる…。
「で、桐乃。さっきは何を謝ったんだ?」
「え?」
「いやほらさ、何かわかんねえけど謝ってきたじゃねえか。いったいどうしたんだ?つーか俺謝られるようなこと身に覚えないんだけど。」
話が途中で飛んでしまっていた。
「あ、あの、ですね…。」
「うん。」
あたしは再び姿勢を正しうつむきながら答えた。…握り締めたスカートの裾がしわくちゃだ。
「その…あたしって以前のあたしの記憶がないわけじゃないですか。」
「…一部ね。」
「だからその…色んな人に迷惑をお掛けして…とても申し訳なくって…それでその、」
「そんなこと気にすんなよ。」
「え?」
顔を上げると、優しそうな顔で京介さんがあたしを見つめていた。
「元を正せばあの事故は桐乃が悪いわけじゃない。本当に運が悪かったんだ。それに俺がもっとしっかりしていたらあんなことには…。」
くやしそうに唇を噛む。
「すまねえ。あの時おまえ一人でも何とか助けられたら…すまねえ、この通りだ。」
今度は逆に京介さんが頭を下げてきた。
「そ、そんな、や、やめてください。」
「い~や、そんなわけにはいかねえ。俺がもう少し的確な行動を取ってりゃ…そもそもちゃんと道路の前後を確認してりゃあんなことには…。」
「で、でも…元はといえば飲酒運転してたトラックが原因だったんでしょ?だったら…。」
そこまで言い合って真顔で顔を見合わせる。するとどちらともつかず、ぷっ、とお互い破顔した。
「ははは…確かにな。これ以上言い合ってもしょうがねえよな。」
「そうですね。ふふふ…。」
すると京介さんはあの優しい目をしながらあたしの顔を見つめてきた。
「な、なにか?」
「いやさ~、やっぱ桐乃は笑顔が似合うな、って思ってな。」
「か、からかわないで下さい///。」
「やっぱさ、おまえは桐乃だよ。記憶を失っても俺のたった一人の可愛い妹だよ。」
「…。」
まただ…。頭が少しずきずきする…。心の中の誰かが叫んでるような…。そういえばさっき見た夢ってなんだったんだろう。思い出せない。あの夢と似た感じがする…。するのに…。
「お、おい、桐乃?」
「ふぇ?」
「大丈夫かよ?頭、痛いのか?」
「だ、大丈夫です。大丈夫…。うう…。」
「病院にいくか?今だったら…。」
「大丈夫です。そんなに大事じゃないんで…心配しないで下さい。あの、…少しだけ横になってもいいですか?」
少しまずいかも…。急激に睡魔が…。
「ああ、ベッドで寝ろよ。連れて行くから。」
あたしは京介さんに抱きかかえられ、ふわっとベッドに寝かせられた。そのまま布団をかけられる。
「おやすみ…桐乃。」
頬を指で撫でられる感触を感じながら、あたしは眠りについた。
最終更新:2012年10月18日 14:20