「ここは…」
ぼやけた視界が鮮明になっていく…。確か俺達はあの時非常階段を転げ落ちて、って。
「桐乃?!桐乃?!」
桐乃はどこだ?!無事なのか?!あたりを見回すと桐乃が仰向けになっていた。黒髪がバサッと地面に花のように拡がっている。
「桐乃?!おい、桐乃?!」
妹の頬をぱちぱちと叩く。そうすると、
「う、う~ん」
桐乃は瞼を眉をしかめて苦しそうに顔をしかめた。
「お、お兄ちゃん?」
「桐乃?!大丈夫か?怪我はないか?!」
「は、はい…。痛いところはないです…」
「よかった…」
病院の非常階段から落ちたんだ。大怪我をしてもおかしくはなかった。俺は桐乃が、妹がとりあえず無事でほっと胸をなでおろした。そういえば、
(俺も全く痛まないな)
桐乃を庇うようにして俺も階段を転げ落ちたはずだ。なのに目立った怪我どころか痛む箇所すら全くない。これはどういうことなのか。たまたま運よく二人とも無傷だったのだろうか。…そこで俺は周囲の異変に気づいた。
「なんだよ、ここ…」
さっきまでいた瑠璃が運び込まれた病院ではない。辺りは一面夜の暗闇のようでその中を砂のような「映像」がさらさらと舞っている。そして俺達は白い砂場のような場所に座っていた。この「映像」って…。
「あれは…桐乃?」
今となってはなつかしい?髪をライトブラウンに染めた桐乃の姿だ。髪をサイドに結びながら麻奈実にお菓子作りを教わる姿。沙織や瑠璃と皆で一緒にテニスコートで遊ぶ姿。カメラのフラッシュライトを浴びながらモデルの仕事をこなす姿。秋葉原で沙織にガンダムのフィギュアを懇切丁寧に説明され俺や瑠璃に助けを求める姿。そして…本を見ている俺に後ろから首に腕をまわし幸せそうに抱きつく姿。この四年間の俺達の恋人としての半同棲生活、そして兄妹としての暮らしが流れている。どれも欠くことの出来ない大切な思い出だ。
「お兄ちゃん…」
桐乃は俺の背中の服の生地を指で掴み不安そうな顔で俺を見る。その姿を見て俺は、
「大丈夫だ。何も心配はないよ」
桐乃の頭の髪をくしゃっと撫でた。
「それにしても…。ここは一体どこなんだ?まるで見覚えがないな。確かさっきまで俺達は病院にいてそれから…」
「…」
桐乃は唇をきゅっとかみ締めている。その顔は何かを知っているようだった。
「桐乃?」
「あ、あの。お兄ちゃん」
周りを見渡せば向こう側へと続く道が出来ていた。「記憶の砂」はそちら側に舞っていっているようにも見える。
「桐乃」
「は、はい」
「あっちに何かあるかもしれない。一緒に行ってみよう」
「で、でもあっちには…」
「動かないことにはどうしようもねえよ。一回行くだけ行ってみようぜ。どこかへ出られるかもしれない」
「ぁ…」
そう言って俺は桐乃の手を決して離れないように強く握り締めて向こう側へと続くその道を歩いた。歩けば歩くほど「俺達の記憶」が流れ込んでゆく。あの記憶は…はは、懐かしいな。中学時代の桐乃だ。あの時はいつもキモいキモい言われていたんだっけ?嫉妬と怒りに狂った桐乃に御鏡が持ってきたケーキを顔面に投げつけられるところもある。今考えるとあの頃の桐乃は本当に直情的で素直じゃなくて可愛いな~。
道を進むとその先には大きな鉄製の扉が俺達の行く手を阻んでいた。取っ手にはいかにも頑丈な鋼鉄製の南京錠ががっちりかけられている。
「こいつは…難儀な…」
力いっぱい引いてもとてもじゃないけれど無理だ。こんな頑丈な南京錠、人間の素手の力じゃとても外せないし壊せない。どこかに鍵は…。
「お兄ちゃん…その鍵は…」
「うん?」
「あの…。え…。ッ!」
桐乃はビクッと体をすくめ俺の後ろ側を見た。そこには…
「え…、き、桐乃?!」
「…」
ありえない。信じられない。あろうことか桐乃が「もう一人」とても静かな覚めた目をこちらに向けてそこに佇んでいた。これだけ目の前にいるのに気配が全く感じられないのが少し不気味だった。
「え?え?!なんで?!」
わけがわからない。こっちに桐乃がいてもう一人目の前に桐乃がいる。すると目の前の「桐乃」は全く生命を感じさせない所作で、
「その扉の向こうに、貴方の妹がいるわ」
と声を発した。
「え?」
「だから、その鍵をはずした扉の先に貴方の妹がいるって言っているのよ」
あくまでも、そう強い口調ではっきりと言った。
「何を言って…」
「だから、貴方は貴方の妹の桐乃を取り戻したいんでしょう?この世界で私に嘘はつけない。桐乃ならその先にいるわ。貴方達のことは一部始終全て見ている」
「…」
抑揚のない声。冷たい声。こいつは…一体誰なんだ?こいつは…、
「おまえ…誰なんだ?」
「誰って…「桐乃」よ。貴方の妹になるわね。とはいっても貴方が知っている桐乃ではないけれど…。魂の座、とでも言えばいいのかしらね。面倒ね、本来ならこんなこと、予定になかったし、そもそも規則違反だから」
「違う…おまえは桐乃じゃない。俺の妹はここに…」
「それを言うなら、そこにいる女も貴方の妹じゃないわ」
「え…」
なにを言ってるんだ?こいつ?
「何を、言って、」
「二度言わせる気?だから、そこにいる女も貴方が知る「高坂桐乃」じゃないわ」
「…え」
「…」
嘘だ。嘘だ嘘だ。じゃあここにいる「俺の妹」は一体どこの誰で…。
「ああ、ごめんなさい。混乱を招く発言だったわね。正確には…この世界における高坂桐乃ではないのよ」
「な?!そ、そんな…!?」
それまで怯えるように服をつまんで俺の後ろにいた桐乃が声を上げる。
「あ、あたしはあたしです!高坂桐乃です!これまでだってずっとそうでしたしこれからも…!」
「…」
「そ、それに、皆、皆あたしのこと認めてくれて…ここにいていいんだって、ずっとそばにいてもいいんだって!こ、ここにいるお兄ちゃんだって!!」
「…」
桐乃の抗議の声を受けながら目の前の「桐乃」は、はあと一つため息をついた。
「貴女がどう思おうと勝手だけどね…もう時間がないのよ。これは貴女の為に言ってるのよ?いつまで我侭を続ける気なの」
「な、なんの時間…!」
「…ああ。納得したわ。貴女、記憶を抜け落ちているのね。それもここ何年か分の記憶が。まあ確かに貴女は「あの時」そう願ったものね。ふふ、それじゃあ願い通りというやつね」
納得したように「桐乃」は小さく笑む。
「な、なにを、」
「だから、貴女があの時「そう」願ったんでしょう?このままじゃ終わりたくない、もう一度やり直したいって」
そう言いつつ「桐乃」は近づいてくる。
「ッ!?」
「安心しなさい。少し乱暴なやり方だけどこうするのが貴女のためだから。一番手っ取り早いしね」
桐乃は身動きが固まったみたいに動けない。俺も金縛りにでもあっているようだ。目の前の「桐乃」を名乗る女は俺達の額に手を当てた。
「別に体に支障はないから。まあこの世界はもともと精神しか存在しないけれど。こうすると「兄貴」にも面倒な説明が要らないしね。我慢しなさいな」
そういった直後、俺達に電流のように誰かの記憶が流れる――。
ああああああああああ!!!!
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!
記憶が蘇る。あたしの「本当の」記憶が。何にもなかった空っぽの部分を侵食するように記憶という名の「異物」が脳漿に無理矢理流し込まれる。
お父さんがいてお母さんがいて…。何もなかった平凡な中学生活。近くの公立高校に桜の舞い散る道を歩いた入学式の日。大変だった初めての大学受験。あの事件で不自由になったお父さんの体。それなのに、あたしの学費のために一生懸命働いてくれたお父さんとお母さん。そして離れ離れになってしまった、あの少年。
それからというもの誰かとの関わりを拒んだ、閉ざされたあたしの世界。誰も入ってこない、優しい世界。
その中でもひと際鮮明に映し出される、「思い出すべき」記憶
――もしかしたら桐乃ちゃん誰よりも凄い作家になれるかも
――あの時すぐにわかったよ。××がいつも言っていた…あの女の子のことだ、って
――どうして桐乃なんですか?!ほんの少し、ほんの少し出会うのが先だっただけじゃないですかっ?!
――やっぱりおまえはいつまでたっても俺の妹だよ
そして「最期」になってしまった彼と終ぞ果たせなかったあの約束。
「あああああああああああああ!!!!」
痛みの灼熱の中、あたしは自分の失っていたはずの記憶の海の中へと落ちた。
<一部・了>
最終更新:2013年03月01日 08:59