香織さんが弟さんに電話をした後、あたし達はサークル棟の前で待ち合わせをすることとなった。10月の夜だからか、少し肌寒い。
あやせはその弟さんがこちらに今向かっているというのを聞いて迎えに行ってしまった。
最近のあやせは少し変だ。普段は誰にでも優しい穏やかな性格なのに、件の「お兄さん」の話になるとその人のことばかりを熱っぽく話す。
この前大学の喫茶店で会った時大きなバッグを抱えていたから、どこに行くのと尋ねると、「今からお兄さんのおうちにお泊りするの♪」と嬉しそうに言っていた。緩みきった有名モデルのその顔は…うん、見ていられなかった。
(その後あやせに会ってその話をすると何故か話を逸らそうとするし、がっくりと肩を落として暗い表情になっていたけど…)
「桐乃ちゃん」
香織さんに話しかけられる。相変わらず美しい妙齢の美女の顔にいたずら小僧が同居しているような表情をしていて、今日のいたずらは何か大きなプレゼントを隠しています、といったような顔だ。知らないけど。
「桐乃ちゃんさ…あたしと初めてあの部屋で出会った時に言ってたそのヘアピンのこと…」
「ええ、これの事ですか」
「ああ。そのヘアピンある人からもらったって言ってたじゃん。そのある人って今どうしてんの?」
「それは…」
その事を思い出せば胸が苦しくなる。あたしのお父さんの身体が不自由になったことに大きく起因するからだ。
あたしのお父さんはあたしが生まれる3年前に刑事の試験に合格したんだけど、配属先の事件で殺人の疑いのある男の捜査が密行されていたらしい。その時まだ新米刑事のお父さんの指導役になっていた先輩刑事と共に容疑者の男の身辺を確認し、任意での同行を求めようとしたのだが、お父さんが「犯罪の嫌疑が十分固まっているので強制でいきませんか」とその先輩刑事に進言。
それを受けた先輩刑事は上役の警視の許可の下、逮捕状を裁判所に請求。通常逮捕に踏み切ったという。
容疑は殺人と死体遺棄、さらに公務執行妨害の現行犯で逮捕。司法による13年の実刑判決を下された男は刑務所に収監された。しかし事件は終わりではなかった。
その事件から13年がたった…。
あたしが10歳の小学4年生のころだった。日々の生活と仕事に追われ、その事件のこと
も過去のこととして忘れかけた頃だった。
しかし犯人は執念深く復讐の機会をうかがっていた。その犯人は刑務所から出所するとその先輩刑事とお父さんのオフの日を狙って拳銃でそれぞれ狙撃…、結果その先輩もお父さんも病院で意識不明の植物人間のような重体になった。
お父さんは奇跡的な回復を遂げたんだけれど、その先輩刑事はそのまま帰らぬ人に…。お父さんも片足に自由が利かなくなり刑事を辞めざるを得なくなった。
「…」
その先輩(あたしはおじさんと呼んでいた)と高坂家はとても仲がよく、よく息子さんを連れてうちに遊びに来ていた。
その息子さん…少年はあたしのお兄ちゃんみたいな存在だった。あたしが生まれた頃からの付き合いだから10年になる。おじさんは妻をはやくに亡くし独り身だったので子育てが大変だったし、あたしのお父さんもお母さんもその少年のことをわが子のようにとても可愛がっていた。その矢先の事件だったのだ。
あの少年は今どこで何をしているのだろう。あの屈託のない笑顔、いたずら好きでいつも笑っていた。出来ないことなんて何もなくって、いつもくだらないことを企んでて…。
それが誰よりも眩しく見えた。
お父さん達はその少年のことをいつも気にしていた。おそらくどこかの孤児院にでも送られたのかもしれない、とお父さんがお母さんと二人で話しているのを盗み聞いてしまったことがあったけど…あたし達3人で食べていくだけでも当時は精一杯だったから。
最後のお別れも言うことが出来なかった、あの少年。あたしより3つも年上だからもし生きていたらもしかしたら働いているのかもしれない。彼には身寄りがなかったし、とても普通の子のように大学まで通わせてはもらえないだろうから。
香織さんはどこか切なそうな顔でこちらを見ている。そんな彼女に対し、
「…さあ。今はどこで何をしているんでしょうか…」
あたしは嘘偽りのない、けれど自分の気持ちに蓋をした事務的な回答をした。
「…そっか」
香織さんはこりこりと頭を1,2回その綺麗な指先で掻いた後、
「そっかそっか。そっかそっかそっかそっかぁ~♪」
何故かとても楽しそうに、破顔した。
「え?」
「うんうん。桐乃ちゃんにも色々あったんだね~。でも大丈夫!そんな暗く戸惑いの日々も今日で終わりだ!このあたしが終止符を打つから!」
「え?え?それってどういう…」
「お待たせしました~♪」
あやせの声が後ろから聞こえた。その声の方に振り返る。
「おう、久しぶりじゃねえか。相変わらず暗いな槇島」
「久しぶりだな、赤城。お前も相変わらずだな。就職活動はいいのか?」
「ばっか、今そんなこと言うなよ。そんなもん何とかなるに決まってんだろ。…たぶん」
「何かあっても助けられんぞ」
「槇島さん家のお力で何とか!」
「俺みたいな若造にそんな力、あるわけないだろう」
「槇島先輩、お久しぶりです」
「瀬菜か…。どうだ?このシスコン野郎に邪魔されても真壁と上手くいってるか?」
「も、もう!真壁先輩とはそんなんじゃないですから!///」
「あ、赤城さん…そんなにはっきりと…」
「何か言ったか小僧?」(ギロリ)
「ひ…」
噂の「槇島先輩」が今到着したみたいだ。隣であやせがにこにこしている。
サークルの皆が言う前評判通り、背が高くてあまり表情を見せないクールな切れ者。だけれども皆から慕われているといった印象だった。ってあれ…?この人どこかで…。
「京介!」
え?
隣で笑顔の香織さんが、
「京介!こっちだこっち!こっちに!桐乃ちゃん!」
香織さんがあたしの隣から「槇島先輩」に声をあげる。その「槇島先輩」もこちらを見て何か信じられないものをみたかのように顔が凝固していた。
…その瞬間、あたしの中のあの思い出の少年と目の前の彼とがぴったり符号するまでにしばし時間がかかった。それほどまでに目の前の「彼」と思い出の「あの少年」の実像が違っていたからだ。いつもあたしの手を引いて笑顔でかけていた、あの少年…。
「お、おにいちゃん…?」
「桐乃…か?」
すべての時間が止まった気がした。
「おにいちゃん…」
会いたかった。この8年間どれほど願ったかわからない…。どれほど神様にお願いしたかわからない…。それほどにあたしの中で彼の存在は大きなものだったから。
「…」
ああ…。やっぱり神様っていたんだ。運命って本当にあったんだ。
「お、おにいちゃ、」
運命の神様に感謝しつつ、彼に駆け寄りそうになったその時、
「…久しぶりだな、高坂」
……え?
何故か、目の前の京介おにいちゃんは、あたしのことを拒絶するように、あたしの名字をよんだ。
「あ、あの?お、おにいちゃ」
「…お前がこっちの大学に来ているとは思ってなかったよ。元気そうで何よりだ。どうだ?麻奈実も元気にしているか」
え?え?え?
「ああ、覚えてないのか。俺と同い年の田村麻奈実だよ。田村屋っていったかな…和菓子屋の娘の。とはいっても小さな頃の話だからな。覚えてないのも無理はない」
どうして…
「俺も今の今までおまえのことはすっかり忘れていたくらいだからな。まあ、小さなころの記憶なんて人生の1割も時間にして占めないものだからな。その程度のものなんだろうな」
どうして、そんなこと言うの…。
目が熱くなる。涙が溢れそうになるのをあたしはぐっと我慢して目の前の「男の人」を上目遣いに睨み付けた。
そうするとおにいちゃんは少し悲しそうな顔をした。眉をやや下げる癖…まだ直ってないみたいだった。それでも何事もなかったかのようにすぐに仏頂顔に戻った。
「おい、京介てめえ…」
香織さんが憤怒の形相でおにいちゃんを睨んでいる。それを見ておにいちゃんは、
「なんですか香織さん」
「なんですか、じゃねえよこの野郎…。てめえ一体どういうつもりだよ」
「それはこちらの台詞ですよ。いきなり呼び出されたかと思えば…こういうことですか」
「ああ?!」
「香織さん。確かにあなたは俺の義姉だし、槇島の家には感謝もしている。しかしあまり余計なことをしないでもらいたい」
「余計なことだあ?!てめえ、どの口が言ってんだこらあ!!昔からてめえがあれだけ言ってた事だろうが!!」
香織さんの目が据わっている。その姿は覇気に溢れていてものすごく怖かった。どうしよう…あ、あたし達のせいで…。
激怒する香織さんを前にしてもおにいちゃんは全くたじろかず、淡々としている。
「余計な事でしょう。これは俺のプライバシーに関わることです。それにもう終わったことでしょう。所詮過去の話です」
プツン
何かの線が切れたのがあたしでもすぐにわかった。線の切れた先は当然…。
「てめ!」
そこに赤城先輩や真壁先輩が香織さんを止めに入る。隣にいるあやせもおにいちゃんの腕を無表情でぎゅっと掴んでいた。
「離せ!この馬鹿は一回鉄拳制裁しないと!」
「まあまあまあ!抑えてくださいよ、香織さん!」
「そうですよ!多分虫の居所が悪かったんですよ!そうでないとあの槇島先輩があんな事…」
「虫の居所?!そんな問題じゃねえんだよ!!」
暴れる香織さんを横目にあたしはおにいちゃんを見た。その瞬間どきっとした。
「…」
何の表情もなく、でも何かの感情を抑えているかのようにあたしのことをじっと見ていたからだ。
何故彼があたしを拒絶するような事を言うのか…。あたしには何も心当たりがなく、何もわからなかった…。
最終更新:2013年03月14日 16:32