「「「カンパーイ!!」」」
私達は今大学近くの飲み屋の一室を貸切で集まっている。香織さんがここのオーナーと知り合いらしく、行けば部屋が既に用意されていた。
先ほどお兄さんと香織さんが一触即発の空気だったが、皆が止めたので何とか事なきを得、今は全員この飲み会に出席している。…とはいっても香織さんとお兄さんは席が対称に離れているけれど。
香織さんは先ほどから浴びるようにビールを飲んで周りの男の子に絡んでいる(特に赤城先輩)。周りも始めは気を使っていたが、だんだんと飲むにつれアルコールとその楽しい雰囲気に酔いしれていった。もっとも、私と桐乃は未成年だから当然のようにアルコールは飲めず、私はウーロン茶、桐乃はオレンジジュース。そういえば…
ちら、と私の隣に座って静かに食事しているお兄さんに目線を向ける。(そういえば先程から全くお酒を飲んでいない)
「…」
…さっきどうやら桐乃と知り合いのようだった。桐乃はお兄さんのことを確か「おにいちゃん」とも呼んでいた。一体どういった関係だろう。
私はこの4月からの半年間お兄さんのアパートに通い続け、学校やアルバイト先やその帰りにも押しかけたが、女の気配は微塵もなかったといってもいい。
確かに彼の私生活全てに目を行き巡らせるなんて不可能だ。だけれども女には女独自の勘があり、同種の女、つまりお兄さんのことが好きな女が現れればどんなに取り繕っても感知できてしまう。それほど恋する女は鋭いのだ。
…まあ学校や仕事帰りにまで彼に気づかれないようにこっそりついていったのは行き過ぎかな、と少しだけ反省しているけれど。
私ってもしかしたらストーカーの気が少しだけあるのかもしれない。それもこれもお兄さんに悪い女がついてだまされないようにするための妻(未来の///)の大事な務めなのよ!
…とはいえあの鋭いお兄さんがだまされることなどそうそうありえる筈もなく…自分で言ってて空しくなった。
「おい」
「え?!は、はい、何ですかお兄さん」
「ちらちらこちらを見るな。何か言いたいことでもあるのか」
「え。え~と…」
ないです、なんてとてもじゃないけど言えない。彼に聞きたいことが山ほどあった。特に…
「あいつとの関係、だろ」
「え。は、はい…」
「さっきの事を考えれば、自然気にもなるだろうしな」
「…」
お兄さんは焼き鳥の串を串入れに放り込み、
「まあいわゆる幼馴染、ってやつだよ」
「そうなん、ですか」
知らなかった…。あの子とお兄さんがそんな関係だなんて…。そういえばお兄さんの事もだけど、あの子の、桐乃の事も私は何も知らない。事実お兄さんに小さい頃の幼馴染なんていたことすら知らなかったし、その他に何を聞いても核心を隠されているような気がする答えばかりを私にするからだ。
ぎゅ…。
私は自分でも気づかずのまま唇を噛み締めていた。
「そ、そういえば!」
「ん?」
「先程田村麻奈実さんって言いましたよね。和菓子屋と言っていましたし、もしかして…」
「ああ。なんだおまえ麻奈実とも知り合いなのか」
「ええ、まあ」
お姉さん…田村麻奈実さんとは中学時代からの知り合いでもある。私が中学2年生、彼女が高校2年生だった。
その日モデルの仕事で思うようなポーズがとれずカメラ写りが悪く仕事に失敗して落ち込んでいた公園のベンチに一人で座っていた時、声をかけられたのだ。
――ねえ、大丈夫?
その時に私の話を聞いてくれて優しい言葉をかけてもらった。それ以来度々彼女の家の和菓子を買いに行ったり(甘くても洋菓子に比べて低カロリーだし♪)、図書館で一緒に勉強してわからない箇所を教えてもらったりしていた。
そんな彼女は今、遠い国ニュージーランドでホームステイをしている。苦手な英語を一生懸命勉強しているうちに逆に好きになってしまったからだ。本当に人生何がどう幸いするのかわからない。
「まあ俺と桐乃…高坂と田村麻奈実は3人でよく遊んだ仲でな。俺の死んだ父親がよく高坂家に入り浸っててな。その時に田村麻奈実とも出会った」
「死んだお父さんって…」
「養子なんだよ、俺」
「え?」
びっくりする私を見ようともせず2つ目の串を串入れに入れ、注いでいた水を飲む。
「養子なんだ、槇島の家のな。20の時に籍を入れてもらった。中学からそれまでは身寄りがなかったが…。槇島の家には香織さんとあと一人、俺から見ると妹に当たる沙織お嬢様しかいなくてな。男子がいないから跡継ぎがいないんだよ。まあ今の時代にもこういう考え方をする人間はいるんだろうがな。それは大きな組織や家柄を抱えているほど多い」
「そうだったん、ですか…」
実のお父さんが死んで二十歳まで一人だったなんて…。
彼の一種触れがたい雰囲気と現実主義的な思考を持つに至る一端を垣間見た気がした。そしてこの時私は初めて会ったときのお兄さんに言われた簡単に人を信用するな、というあの言葉を思い出した。
あれはお兄さんの今までの経験の、生きた処世術だったのだ。身寄りのない幼い子供が生きていくための。
「そんな顔をするな」
「え」
お兄さんは努めて淡々と。しかしいつものような彼によって巧妙に隠された優しさで。
「そんな顔をするな。これは俺の問題だし。おまえには関係ない話だ。それに今はこうして槇島の家に入れてもらえて大学まで通わせてもらっているんだ。…幸せなことだよ」
「お兄さん…」
「だから新垣、おまえがそんな顔をすることはない」
ちくり
お兄さんが私に気を使ってくれているのは嬉しい。すごく嬉しい。この寡黙なお兄さんが饒舌になる時は決まって人に対する何らかの彼なりの優しさが入っているからだ。なのに…。
(私って、嫌な女だ…)
新垣。
半年経っても変わることがないお兄さんの「新垣」という呼び方。そしてさっき言い直したが咄嗟に出た「桐乃」という呼び方。
だめだ、私…。完全に女の嫌な部分が出てる。あの子は、桐乃は関係ないのに。
最近モデルの撮影でもよく美咲さんに「女が出てる」って言われていた。
びっくりして、まだ処女です、って言ったら、
――肉体関係を持ったくらいで簡単に「女」に変われるなら誰も苦労しないわ。貴女、誰かに心を女にされたんじゃない?
とまあ実際にこの通りで…。その時はぐうの音も出なかったわけだけど…。
…この時私はこの後自分がどのようになるのか気づかなかったし、気づいたとしてもまともな恋の経験なんてなかった私にはすべてが初めてでどうしようもなかった。
「お兄さんって…」
「ん?」
「桐乃のこと、下の名前で呼び捨てにしてたんですね…」
「…」
「私のことも、「あやせ」って呼んでくれたらいいのに…」
私のその言葉には明らかに桐乃に対する「嫉妬」という名の墨汁のような黒い感情が混じっていた。
~~~
瀬菜先輩が私の事を褒めちぎる。今は席を移って女の子4人で固まって女子会みたいになっている。とはいってもすぐ近くに男の子達がいるけれど…。
「雑誌の表紙とかいつも出てて…今月号のenenには数ページの特集も組まれてたんですよ~?!本当に憧れちゃいます!」
「あ、ありがとうございます…」
こう褒めちぎられるとさすがに照れるのだけど…。
「ははは!さすがは天下のモデル様だな!」
「か、香織さんこそ、ものすごく綺麗じゃないですか…。何か出会いとかは…」
「おいおい、あやせ。おまえそれはあたしに不倫しろって言うのかよ。既婚者だよ?あたしは」
そう言えばそうでした。彼女の左手の薬指がきらりと光る。確か幼馴染の医者の人と結婚したんだっけ?それで4年前までその旦那さんについて行っていたとか。
なにより一番驚いたのは彼女が大学の非常勤講師をしていたことだ。いきなりスーツを着て講師として壇上に立つから凄く驚いた。その時香織さんは私にしかわからないようにその犬歯を剥いてにやりと笑っていたけど…。
「そいや…桐乃ちゃんはどうなんだ?浮いた話とか聞かないよな?」
「ええ…あたしは別に…」
「なんだなんだ?!この学校の奴らはこんないい女を一人放ってるってのか?!…こりゃあ今度の授業は野郎共に特別講義だな…」
「いえいえ、香織さん。桐乃ちゃんって凄い人気なんですよ~。工学部の上の学年のわたしの知り合いの男子も噂してましたし、この前なんか他大学の医学部の人達に校門で…」
「そりゃすげえな…。そういうことだ!おい!聞いてるのか?!おまえだよ、そこの根暗野郎!!」
お兄さんは一人で静かにジンジャーエールを飲んで赤城先輩と三浦先輩の話に耳を傾けていたらしい。
「…なんですか。聞こえていますよ」
「なんだよ聞こえてたのか。そういうことだよ。このままじゃ桐乃ちゃんわけわかんない男に取られちゃうぞ~?それでもいいのかお兄ちゃん?」
「…別に俺は桐乃が誰と付き合おうと興味なんてありませんよ」
その言葉を聞いて桐乃は目をキッをさせた。(丸めの小顔が焼きリンゴみたいでちょっと可愛いなんて思ってしまった)
…驚いた。この子のこんな気の強そうな顔なんて初めて見たからだ。
「…そうですよね。あたしが誰と付き合って誰とけ、結婚しようと…「槇島さん」には関係ない話ですよね」
「…どういう意味だよ」
「どういう意味って…それはそっちが一番わかってる話でしょう?!あたしにだって言い寄ってくれる男の人がいるんです!…どこがいいのかわかんないけど。べ、別に「槇島さん」だけがあたしにとっての男の人じゃないんですから!」
「意味がわからない。もっとわかるように説明しろ」
「う、自惚れないで下さいって、そう言ってるんです!あ、あたしは別にあ、貴方のことなんか…」
「だったらいいだろう」
「え?」
「好きにすればいい。俺もお前とは関わらない。お前も俺に関わらない。関係は平行線だ。何もなくてよかったじゃないか」
「…」
桐乃の顔がみるみる蒼白になる。
「初めから俺はお前に興味なんてない。もし興味があるのならあの後の8年の間にいくらでも会いに行っている筈だろう。それがないということはその程度の存在なんだよおまえは」
「ぅ…うう…」
桐乃の大きな目に涙の粒がみるみる溜まっていく。そしてそれが滂沱のように流れ出す。そして…
バチン!
桐乃は持っていたバッグをお兄さんの顔に投げつけた。お兄さんは身動き一つせず桐乃のバッグを顔面で受け止めていた。
桐乃は真っ赤な顔をして泣きながら、
「おにいちゃんなんて、おにいちゃんなんて…大ッ嫌いッッ!!」
そう言って席を立ち、部屋の外に出て行った。
皆その一連の出来事をただ黙ってみていた。誰にも口を挟めない妙な空気があったからだ。
そうすると香織さんが、
「おい、京介!今すぐ追いかけろ!」
「…」
「何ぼさっとしてるんだ!女泣かしてすかした顔してる奴なんてあたしの弟じゃねえよ!おまえそれでも金○ついてんのか!!」
か、香織さん、それは放送禁止用語…。
「でも、でも俺は、こうでもしないと…」
そうするとお兄さんはどこか苦しそうな顔をする。それは私も見たことのない、どこか思いつめたような顔だった。
「いいから行け!」
しかし香織さんに無理矢理立ち上がらせられ、そのままバンッ!と肩を叩かれ、お兄さんは桐乃を追いかけるため部屋から追い出されてしまった。
「…」
後に残った私達は凛とした香織さんの背中のその先にある二人が出て行った部屋のドアを黙って見ていた。
最終更新:2013年03月14日 22:12