「はあっ、はあっ、はあっ!!」
飲み会で使っていた部屋から飛び出て、夜の学生街を走る。…もうどこに向かっているのかわからない。
「はあ、はあっ、はあっ!!」
…視界が涙で霞む。前が見えない。あっ!!
ドサッ!
「い…痛ったぁい…」
痛い。アスファルトの上を派手に転げてしまった。したたかに膝を打つ。
「ぅうう…」
打った箇所を見れば両方の膝の皮が黒のストッキングともども破れており、血が出ている。ロングスカートを履いているから傷は目立たないけれど…。
「何で…何であたしがこんな目に…うう…」
思えば今日は散々な一日だった。いつも通りの平凡な一日…それもやっと居場所ともいえる場所が出来て、楽しく過ごしていたのに…。なのに…。
「ばか…」
そう、あの人のせいで…。なんであたしがあんなことをあれだけ言われなきゃならないの?8年前のあの日からあたしが一体どんな気持ちで…。
「…」
街灯樹の灯りに照らされたあたしの影にもう一人の影が重なる。見ると…。
「桐乃」
…おにいちゃんだった。8年前まであたしの家によく来ていた幼馴染みの男の子。そして今はあたしをこんな風にした張本人。
「な、なんなんですか…!」
ぐす。
一体なんなのもう!なんなのこの人?!あんな酷いこと言ってあたしを追い出したと思ったら追いかけてきて…!一体…!
「一体なんなのよ?!もう!!」
あたしはおにいちゃんに向かって激怒していた。
おにいちゃんはあたしの罵声を受けても相も変わらずの無表情。昔見せていたあの喜怒哀楽の激しい人懐っこさは微塵もなかった。
それが…それが二人にどうしようもない時の流れを感じさせるようで…二人の間に届かない距離が出来ているようで…。
「桐乃。落ち着け。まずは足の手当てを」
「離して!!」
あたしの腕と肩を掴むおにいちゃんの手を振りほどこうとする。それでも男の人の大きな手をあたしの、女の子の力じゃ振りほどけなかった。それが余計にあたしの神経を逆撫でして…。
「本当になんなの?!久しぶりに会ったと思ったらいきなりあんな事!!そんなにあたしの事が嫌いなの?!あたしの事を追い出したいの?!」
「…」
おにいちゃんは眉を少し下げる。たぶんあたしの駄々に困っているのだろう。…こういうところだけは昔からちっとも変わっていない。
「そうですよね?!それにあたし知ってるんだから!あやせにいつもいつもついて回ってもらってること!!有名モデルであ~んな綺麗で可愛い子に言い寄られたらさすがの「槇島先輩」も台無しですね?!
「…」
「あ~あ、みっともない。デレデレしちゃって!!あたしが…あたしが…貴方のこと何も知らないとでも思ってるんですか?!」
「…」
勢いに任せてそのままあたしはおにいちゃんの胸を全力でぽかぽか殴る。それでも顔の表情一つ歪めない。
「あたし、あたし…あたしのほうが…おにいちゃんのこと…全然知ってるんだから…。ぅう…」
情けない。悔しい。何で、何でなの?何でこんなこと…。あたしのこと拒絶して罵倒したと思ったらいきなり追いかけてきて…。あたしのこと何だと思って…。
「桐乃」
ビクッとあたしの身体が震える。おにいちゃんの大きな手が迫る。
「ぁ…」
あたしのこと、抱きしめてくれるんだろうか…。淡い気持ちが沸き起こる。
しかし…。
「手当てをする。今から香織さんに治療セットを持ってきてもらうから。傷が残ってはいけない」
「…」
おにいちゃんはあたしのことを何とも思ってないかのように、淡々とした口調で。
「それとも桐乃。途中まで歩けるか?それだったら」
「…歩けない」
「そうか…。だったらとりあえず立てるか?こんな場所でいつまでも座っていたら、」
「立てない」
「…」
あたしは徹底抗戦の構えに出ることにした。
こうなったら意地でも言うことなんか聞いてやるもんか。どうせあたしが何を言ったってあたしの頭じゃ言い返されるに決まってるんだ。
だけどあたしにもプライド(?)がある。こうなったら意地でも…。
「だったら…」
「…」
ふん。何を言ったって何をしたって全部無視して困らせてやるんだから…。…え?
「乗れ」
「え…?」
おにいちゃんは背中を見せておんぶの姿勢をしていた。あたしに乗れということなのだろうか。
「今から香織さんに連絡する。それまでこんなところでいつまでも居たら風邪引くだろう。はやく移動しよう」
「あ、あたしは…。あたしは貴方のおんぶになんか…」
「桐乃」
「ッ」
怒られる…。目をぎゅっと瞑る。昔の記憶が蘇る。あたしがダダをこねたら決まって…。
でも、目を恐る恐る開くとそこには…。
「桐乃…さっきは俺が悪かった。だからあまり困らせないでくれ」
「ぁ…」
手を頭に置かれて優しく撫でられる。あたしを見つめるその瞳はありし日の彼を思い出させた。同時に成長した大人の部分の彼も見え隠れしていた。
優しく、柔らかく撫でられる。そういえば、そうだった。いつもあたしがわがままを言うと最後にはこうやって…。
「その足じゃ歩けないだろう?途中まで俺がおぶって行くから一緒に帰ろう?」
「…うん」
~~~
人の多い明るい大学の学生街を通らずに人の比較的少ない横道を通る。さすがにひと目の多い道をおぶさっていくのは目立つからだろうか。
おにいちゃんはあたしを背中に乗せながら器用に香織さんに電話をかけていた。
香織さんはおにいちゃんに怒るでもなく、今からそっちに行くから、と言って合流先だけ伝えて通話を切った。
「ねえ…」
「うん?」
「久しぶり、だね…」
「ああ…そうだな」
街灯の電管がパツンパツンと小さな火花を散らしている。上を見ると月がとても綺麗な円を描いていた。今日は満月だった。
「あの…」
「うん?」
「…」
あたしのこと、忘れないでいてくれた?
…その言葉は聞くのを躊躇われた。さっきみたいに拒絶されることに異常に怖がっている自分がいる。もし覚えていたのはあたしだけで、おにいちゃんの方は再会した時に言われた通りすっかり忘れていたのだとすると…。
ぎゅ
あたしは唇を噛み締めて、次の言葉を口にした。
「あれから…元気だった?」
「…」
「あの時…突然いなくなったから…。あたし達も探したんだけど、どうしようもなくて…だから…」
「…そうか」
おにいちゃんの表情が暗くなる。暗いのは夜の暗闇のせいだけでないことは明白だった。
…あたしはなんて残酷なことを聞いてしまったのだろう。
あの事件で、おにいちゃんのお父さんは、おじさんは植物人間のような状態でずっと病院のベッドに医療器具でつながれていたのだ。そしてその治療の甲斐なくあの世へ行ってしまった。その後、母親も血縁の親戚も誰一人身寄りがいないおにいちゃんがどのような人生を送っていたのか…。
…それはあたしの貧困な想像力では補えきれない程の辛い現実だったに違いない。
「…」
かつての彼と今の彼がうまく重ね合わない。あの頃の屈託のない元気一杯の「彼」と今のどこか擦り切れて世を儚んだ感さえする「彼」と似ても似つかないからだ。
そんな彼を見て少しだけ怖くて…。だけどそれよりも今の「彼」になってしまうまでこの8年間何もしてあげられなかったことが一番悲しくって…。
「…」
「…」
とぼとぼと静かな夜の静寂に包まれた道を歩く。体重の軽いあたしとはいえ、背中に人一人おぶっているにもかかわらずおにいちゃんは息切れ一つしていなかった。どうやら見た目より身体はかなり頑丈のようだった。あたしの胸に当たるその背中はとても広くてすっかり男の人の肉体になっていた。
…なぜか下半身が歩きにくそうなんだけど、大丈夫かな?
「…思い出すな」
「え?」
ぽつり、とおにいちゃんは口を開けた。
「小さな頃…まだ小さかったお前をこうしてよくおぶって帰ったっけな」
「…」
それは今でも覚えている。こうしてもらったことは数え切れない。一緒に近所の公園にも遊びに出かけたことも。
子供のころ運動神経のいいおにいちゃんは公園の、小さい子供たちのヒーローだった。足が速くてジャンプが高くて、何でも知ってて…。運動でも勉強でも何をしても一番で…。それは小学校でも変わらなかった。
それに比べてあたしはといえば、昔から何をするにもどんくさかった。足も遅くて同い年の男の子はおろか、女の子の誰にもついていけない始末。それにいつも内向的でおどおどしてて…。
そんなあたしは子供達のからかいの絶好の対象だったのかもしれない。いつもいつも皆から馬鹿にされていた。いじめられるその度によく泣いたものだった。でもそんなあたしをおにいちゃんはどこからともなくやってきては守ってくれたんだった。
あんまりにもあたしを庇うものだから、おにいちゃん自身がからかわれることも何度もあった。京介は女をいつも連れている、らぶらぶだー新婚だーって。
おにいちゃんは顔を真っ赤にしてからかった男の子達を追い掛け回していたけれど…決してあたしのことを置いて行ってりはしなかった。あたしがいる時はいつもその歩調を併せてくれたんだ。
…今考えればあの頃からだ。あたしが過剰なまでの「おにいちゃんっ子」になったのは。どれだけあたしが甘えても決して嫌がらなかった。
子供社会はあれはあれで残酷な世界だ。弱肉強食が簡単にまかり通る。その中でも一番弱いあたしはおにいちゃんにとっても足かせで重荷以外の何ものでもなかったはずだ。
それでも彼は決してあたしを置いて行きはしなかった。
…時々思うことがある。もし彼があたしを置きざりにして行ってしまったら…。弱いあたしはどうなったのだろうか?…考えるだけ栓のない話だとは思うが、考えずにはいられない。もしかしたら違った「高坂桐乃」が誕生していたのだろうか?
「なつかしいな…三人で…麻奈実もよく一緒にいたな…」
「…」
「どうだ?あれから麻奈実とは…」
「…」
「おまえ小さい頃まなちゃんまなちゃんって呼んで姉みたいに慕ってたじゃないか。あれからあいつは…」
「ごめんね…。あんまりまなちゃんと連絡取ってないの…」
「…そうか。まあ、幼い頃の友人なんて大体はそんなものなのかもしれないな…」
「…」
彼女…まなちゃんとは京介くんが8年前のあの事件の時、あたしの前から消えてしまってからますます疎遠になった。
本当はその前の仲たがいに起因するんだけど…。
そうして思い出話をしながら歩いていると…。
「あ、香織さんだ」
黒いライダージャケットを着た香織さんが道の真ん中で待っていた。おぶられたあたしの姿を見て少し心配そうな顔をしている。
「桐乃ちゃん…大丈夫か?」
「え、ええ。何とか…」
「仲直りは…一通り終わったみたいだな」
そう言ってあたしとおにいちゃんの顔を交互に見比べる。そして。
「なあ京介…。おまえ一体どうしたんだよ」
「…」
「おまえはあんなこといきなり言う子じゃなかっただろ?ましてや昔からあれだけ会いたがってた桐乃ちゃんに、」
「香織さん」
ぴしゃり、とおにいちゃんは香織さんの言葉を遮る。
「すみませんでした。久しぶりに幼馴染に再会したものだから、つい興奮してしまいました。もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
「…本当にそうなのか?」
「…」
香織さんは心配そうにおにいちゃんを見つめつつ、
「本当に久しぶりに会って興奮したとか、そんな理由なのか?おまえがそんな理由でこの子のこと…」
「香織さん、早く手当てをしましょう。桐乃の傷に障ります」
「…」
香織さんはその左右整った切れ長の目を少し細めて、じ、っとおにいちゃんの顔を見た後、
「わかった…。ごめんな桐乃ちゃん。近くに知り合いのバーがあってな。そこに手当て用具一式揃ってるって確認取れたからさ。あたしの仲のいい信用できるマスターだし、ほんとすぐ近くだから…」
「あ、ありがとうございます…」
そうしてそのバーまで案内してもらった。
~~~
「よっし、これでお仕舞いっと!よく痛いの我慢したな!桐乃ちゃん!」
「あ、ありがとうございます…」
今あたし達は香織さん行き着けの地下にあるバーにいる。
そこであらかじめ用意されていた救急箱に入っている手当て道具一式で香織さんに手当てしてもらった。香織さんはこういう荒事に手馴れているのか、実に手際よく包帯までしてくれた。そういえば彼女は昔色んなスポーツとか武道とかしていた、と言っていたんだっけ。
身体も締まっててすっごくスタイルもいいし、何でもできて…。本当になんて凄い人なんだろうといつも思う。何にもないあたしなんかとは大違い…。本当に憧れちゃうな…。
思えばあたしがこのサークルに入る決心をしたのは彼女の人柄によるところが大きい。
あたしなんかとは比べ物にならない、外に出ればいつも人に囲まれている彼女の太陽のようなまばゆさに目がチカチカして…。どうしても一緒にいたくなったからだ。
そしてそんなあたしを香織さんは「桐乃ちゃんは目に入れても痛くないくらい可愛いよ」とも言ってくれた。…正直とてもうれしかった。
「あの…今日はせっかくの飲み会、本当にごめんなさい…」
「ん?ああ!いいってことよ!あいつらも適当にその辺で飲みに行くって言ってたしな!桐乃ちゃんが気にすることじゃないって!気にするべきは…」
そう言っておにいちゃんの頭を腕で絡めて、
「おまえだ、おまえ!京介!おまえが此度のA級戦犯だ!全くどうしてくれる!」
「か、香織さん…ヘッドロックはさすがに…」
じたばたとするおにいちゃんと楽しそうにヘッドロック(?)をかける香織さん。プロレスか何かの技かな?
「じゃあ…今日は飲むの手伝ってもらうからな!」
「え?まだ飲むんですか?」
「バーに来てやることなんて飲むしかないだろうが!今日はお前も付き合えよ!」
「で、でも俺はアルコールが…」
「やかましい!お前そんなんでうちの社員を統括出来ると思ってんのか!次期社長だろうが!酒が飲めない男は小さく見られるんだよ!」
「どこの大工の現場ですか…」
香織さんは嫌がるおにいちゃんを無理矢理カウンターの席に着かせた。おにいちゃん、あたし、香織さんの席順だ。周りを見るとあたし達以外誰もいない。暗い店内に静かなBGMが古いのレコード機から流れていた。結構高そうな店だった。
「あーマスター。あたしはいつものカルーアミルクで!この子は未成年だから何かアルコール以外の飲み物を」
「相変わらずビール好きの辛党の癖に甘いカルーアが好きなんですね…」
「何か言ったか?あたしはいいんだよ、女だから。女は皆甘いものが大好きなんだよ。酒も恋も何だってな」
「そうだったんですか…てっきりいつも男みたいなことばっかりするから女だってこと忘れてましたよ」
「こいつ…殴りたい…。桐乃ちゃん、ここからだとあたしの拳が届かないから、あたしの代わりにこいつをぶん殴ってくれ!」
「え、ええ?!」
「この人の言う事を真に受けるなよ…」
「うるさい!おまえはあたしが直々に鍛えなおす必要がある!久々に顔見せても相変わらず生意気ばっかり言いやがって。あたしはおまえの憧れの沙織お嬢様ほどお優しくないぞ!マスター、こいつにうんとキツイやつ!何でもいいから!」
「すみません、マスター。この人のいうことは話半分適当に聞いてあげて下さい。さっきの店からハシゴしてるんです」
まだ若そうなこの店のマスターはこくりとしずかにうなずくとカクテルをつくり始めた。そして…
「よっしゃ飲むか!んじゃ改めて…乾杯!」
カラン♪とグラスの音が鳴る。あたしはミルクで割った飲み物が入っていた。飲めばお酒が全く入っていなくてすごく美味しかった。
「…」
おにいちゃんはあたしの左側で注がれたお酒と幾分にらめっこした後、一気にあおった。すると…。
「う、う~ん…」
そのままカウンターのテーブルに突っ伏して寝入ってしまった。
「え、え?い、いいんですか?香織さん?!」
「いいのいいの。いつものことだから。量も飲んでないし急性中毒なんて間違ってもなりはしない」
「で、でも…」
「京介のそれは体質でね。ちょっとでも酒が入ると眠くなんの。甘酒でもそうなる。…あの時は驚いたなあ…」
かかか、と美味しそうにカルーアミルクを空ける。ピッチが速く、すぐにお代わりを頼んでいた。香織さんは相当な酒豪なのかもしれない。
「まあこの店に来てもこいつはいつも飲まずにオムライスだけ食って帰ってるようだけどな…。この店さ、昼のランチタイムもしてるから。また一緒に来ようよ。すっごく美味しいから」
「は、はい」
「それより…今日は色々悪かったね」
「え」
香織さんが急に申し訳なさそうにする。
「完全にあたしの計算違いだ。今日みたいに無理矢理合わせたらドラマみたいにハッピーエンドやっほー!…ってなると思ってたから…。この馬鹿、何であんなこと」
「…」
何故隣で寝息をたてる彼にあそこまで拒絶されたのか…未だにわからない。
「まったく…どうしちゃったんだろうね、うちの弟くんは」
「あ、あの!」
「ん?」
「聞いても…いいですか?」
「応。いいよ、なんでも聞いてよ」
あたしは今日感じていた疑問を口にした。
「おにい、…京介君は香織さんの弟なんですよね?これは一体どういう…」
さすがにこの年であの呼び方は恥ずかしいから…。
「ん?ああ!あたしの家の養子なんだよこいつ。こいつが二十歳の時にうちの父親がこいつと養子縁組したの」
「そうだったん、ですか…」
香織さんは女のあたしから見てもなまやかしい仕草で口元を指先で拭いながら、
「桐乃ちゃん…こいつのことどこまで聞いてる?」
「…いえ。今から8年前のことから全然…」
「…そっか。なら、それからのこと話さないといけないな」
「え?」
「桐乃ちゃんには聞く権利があるとあたしは思う。それに今日この事を話したくてここに呼んだんだし」
にやり、といつものいたずらっ子のような笑みを浮かべる。小さな企みに成功して喜ぶ少年のようね顔だった。
「それじゃ「邪魔者」もいない事だし…どこから話しますかねぇ」
香織さん…隣で寝てるおにいちゃんを「邪魔者」って…。思いっきり当事者じゃないですか…。言いたいことはわかるけど。
あたしは隈が出来ている顔をあたしの方に向けて眠るおにいちゃんを少し不憫な気持ちで見つめた。香織さんはどこ吹く風だ。
「こいつと…京介との出会いは孤児院でだ」
「え?」
「あたしの家、槇島家では慈善事業の一環として多額の福祉支援をしていてね…。まあ悪いことばっかりすっと社会の皆様から袋叩きに合うからね。京介が居た孤児院はそんなあたしの父親の「道楽」の一つだった」
「…」
「あたしには血の繋がった妹が一人…こいつは沙織っていうんだけど、今は海外の大学に通ってる。だけど小さい頃あたしも沙織も身体が弱くってね~」
「え?香織さんが?」
この凄いスーパーマンみたいな人が?嘘でしょう?
「応。マジもマジ。大マジよ。特にあたしの方が酷かった。妹の沙織とは比べ物にならなかったからな。成人まで生きられないだろうとまでいわれてたんだからよ。あの時はさすがにあせったよ」
「そうだったん、ですか…」
まあ今はこの通り五体満足なんだけどな!と、からからと何事もなかったようにそう言って笑顔でグラスを傾ける。
でもその瞳にはこの太陽の様な人には似つかわしくない暗い光が宿っていた。
…いつも思っていた。この太陽の様な光はどこからくるのだろう、って。
彼女は皆が思っているような生まれながらのスーパースターなんかでは決してなかった。今の光輝く生き様に追うような、誰よりも深い覗けば底の見えない闇を抱えていたのだ。
それが彼女にとっては病という名の爆弾だったのだ。
人生は決して平等なんかじゃない。神様は誰にでも等しく残酷なもの…。それはこの太陽の様な人にも例外ではなかった。
「まあそんなあたしらを父親と母親は見かねてな。外で満足に遊べない可愛い娘を不憫に思ったんだろうな。あの人今でも親ばかだから。で、一緒に遊べるそれなりに年の合う子供のいる場所に連れてってくれたのさ。それが、」
「京介君のいる孤児院…」
隣ですやすやと寝息をたてるおにいちゃんこと京介君。
「その孤児院のやつらは全員周りからも社会からも見捨てられたようなやつらばかりだった。あたしみたいな身体以外何不自由ない生活をしてきた人間でも思った。…日本にもまだまだ闇が存在するって。高度経済成長を遂げて不況だ何だとマスコミは言うだろ?それでも食うにはまだまだ困らない世界だ。だけど世界は明るいだけじゃない。必ず影の部分が存在する。その孤児院はそんな「影」のうちの一つなのさ」
「…」
「それでも、こいつは一人違ったがな」
「え?」
「孤児院のやつらはその日その日を如何に暮らすか…覇気のない連中ばかりだった。でもそれは無理もない。早くから親を亡くしたり捨てられたりしていたんだ。後は卒院の、仕事が出来るその日までじっと耐える。それは一つの小さな地獄といってもよかったのかもしれないな。…だけどこいつだけは違った」
「…」
「いつもどこかの図書館で借りてきた本ばっかり見てるの。来る日も来る日もいつも勉強していた。そんなこいつにまずは沙織が懐いたね」
「香織さんの…妹さんが?」
「応。その時沙織は小学生でな。あたしは高校生だった。とはいっても親の力でねじ込んでもらった名ばかりの女子高生だったけどな。身体が病気で学校になんか一日たりとも行けやしない…。すまん、話がそれたね。まああんまりにも一生懸命本に噛り付いてるもんだからよ、沙織が何でそんなに本ばっかり読んでるの?って聞いたんだよ」
「…」
「そしたら、こいつはこう言ったんだ。「大事な妹が待っている。どうしても力が欲しいんだ」って」
「…」
…おにいちゃん…。
「あたしも沙織も首を傾げたよ。だってここは身寄りのない天涯孤独の子ばかりが集まる孤児院だ。父親に尋ねてもそんな子はいないはずだと言う。それでもこいつ…京介は決して妹の存在を言うのをやめなかった」
「…」
「ある時、こいつの持ち物から写真が出てきてな。こいつが小さな女の子を抱えて笑顔で写ってる写真だった。こいつと初めて会った時からこいつの笑顔なんて一度たりとも見たことがなかったからびっくりしたが、それよりもこいつにこんな顔をさせている女の子のことが気になった」
「…」
「それから京介のやつ、その女の子の事をことある度に話てな。桐乃がああしただのこうしただの。あんまりその女の子の話ばかりするもんだからよ、こいつに懐いてた沙織がとうとう泣き出したこともあったな」
そう言って香織さんは懐かしそうに目を細める。
「その孤児院は中学まででな。そっから先は義務教育外だ。だから皆出て行かざるを得なくなる。でもうちの槇島家は男子がいなくてね。あたしら二人もいつ倒れるかわからない有様だ。後継者に苦心した父親は一人の子供に白羽の矢を立てたんだ」
「それが…」
「そうこいつ、京介だった。以前から京介の勤勉さと物覚えのよさに目をつけていた親父はこいつが16歳になる前に呼び出して養子の話を持ち出したんだ」
「そうだったんですか…」
それで今の名字が「槇島」って。
「それでもその時一度断ったんだ」
「え?」
なんで?どうして?
「死んだ父親の医療費の負担がある。それを俺は自分で働いて誰の力も借りず自分で返したい、ってな。こいつの父親の事件は桐乃ちゃん知ってるよな?」
「…はい」
「すまん、桐乃ちゃんのお父さんも被害者だもんな…。知ってるも何もないよな。逆恨みした犯人に襲われた日は非番だったらしいね。だから京介の父親の治療費が一切出なかったらしい」
「…」
それはあたしのお父さんもそうだった。足が不自由になっても警察からは一切の補償金もなし。そんな事はあんまりだと、お母さんが県警に直談判しに行ったり弁護士先生に相談に行った事さえある。だけど、補償はおろか国家賠償も難しいといわれてしまった。
その時からだろうか…あたしは国家権力というものが弱い人達を涼しい顔で踏みつける、如何に薄汚れたものなのかまざまざと見せ付けられた気がした。
テレビの前で小難しいことばかり言う政治家や官僚出身の批評家達が如何に空理空論なのか…。お父さんの歩きにくそうな弱った足腰を見る度に怒りが込み上げて来る。
そんなあたしを香織さんは黙って見つめつづけ…。
「…そんなことがあってな。京介はそれから治療費を高校に行かずにがむしゃらに働いて返し始めた。「大事な父さんをあんなやつらの好きにさせてたまるか」って。毎日毎日一日中働いていたな…。三年で返済し終えたよ。その時に高校卒業認定も取った」
「…」
「初めは奨学金を借りて大学に通っていたんだがな…国立のそれも名の通った大学だから結構なお金が借りれたらしい。そんな折だ、あたしの父親がもう一度京介に養子の件を持ち出したんだ」
「…そうだったんですか…」
香織さんはうう~んと背中で大きく伸びをして、
「あたしの話はここまでだ。後はこの馬鹿と仲良い姉弟関係を続けさせてもらってるよ。事情が事情とはいえ…な~んでこんなになるまでひねくれたのかね?もう少し可愛くなりゃせんかね?」
「ははは…」
聞けば聞くほどすさまじい人生だったと思い知らされた。
あの事件の後片足が不自由になったお父さんの就職活動と家計の為に働きに出たお母さん。
あたし達も当時は今より大変だったけど…京介君のそれはそれを遥かに凌いでいた。
「まったくよ…いつまでたっても世話の焼ける」
「香織さん…」
その時の京介君を見つめる香織さんの目があんまりにも温かいものだったから、あたしは、
「もしかして…香織さんって京介君のこと…」
「ふぇ?!…。ないないない!こんなやつ全然タイプじゃないから!大体あたし愛する旦那がいるし!」
「…」
「嫌嫌ほんとほんと!ほんとだって!こんなんザコだから!5点以下!もちろん一億点満点でな!」
「香織さん…」
さすがにそこまで言われると腹が立つんですけど…。
「それに…もう忘れちまったよ、そんな気持ち」
カラン、としたグラスの音の紛らわせて最後に聞こえるか聞こえないかの小さな声で香織さんはそう口にした。
最終更新:2013年03月15日 18:22