ガタンゴトンガタンゴトン…。
「…」
「…」
朝からあたしと京介君は電車に乗って千葉に向かっている。あたしにとっては久方ぶりの故郷への帰郷であり、京介君もそのはずだ。
「…」
「…」
あやせがあたしと京介君の目の前から去って数日間…。彼女はあたし達の前に現れなかった。サークルにも来ていないらしい。激情のすべてをぶつけて来たあの日以来…彼女は一体どうしているのだろうか。
(…)
あたしだってあれから心の整理が全く出来ていない。一体何を信じて何を疑えばいいのかまったくわからない。
あやせとのあの後、京介君からあやせの言っていたことを聞いた。あたし達がただの幼馴染みではなく本当は血の繋がった兄妹であるということが、彼女の言っていたことが正しいのかどうかを。
京介君は答えなかった。その代わり一回だけこくり、と首を縦に振っただけだった。
「…」
今日も長い一日が始まりそうだった。
~~~
「懐かしいね…」
「…ああ」
あたし達は今地元千葉にいる。そして今いるここはいつもあたし達がよく遊んでいた公園だ。時代が時代なのか、平日の昼間なのに今は誰もいない。いつも賑やかだった昔のこの公園を考えると少し寂しい感じがした。
たくさん遊んだなあ…。鬼ごっこにかくれんぼ、追いかけっこ。ジャングルジムの中に入っての捕まえっこ。それから…。
「ふふ…ここであの時京介君あたしの体におもちゃの聴診器当てて…」
「…やめろ」
そしてお医者さんごっこ。京介君は自分の行った過去の行動に恥ずかしくて耐えられないとばかりに顔を真っ赤にしてそっぽを向く。
「あの時あたしの体って他の子達より発育が良かったから…。ふふ、あの頃の京介君可愛かったなあ。あたしの体を触りながらお股をもじもじさせて…」
「からかうなよ…」
「でも…あの頃からあたしのこと女の子として見ててくれたってことだよね?」
「…」
――俺は将来桐乃をお嫁さんにする!
子供だった当時。あたし達は何も知らない子供だった。何にも出来なくって、けれど何でも出来る気がして…。
彼の真剣なあたしへの告白。今でも大切に使い続けているこの彼からのプレゼント(ヘアピン)。
それをあたしはお姉さんとまで思っていたあの人を除いて大好きだったお父さんにもお母さんにも話さず、あたしの胸の中で温め続けていたのだった。
時を経るごとに無限と思われた世界が有限のものへと変質していき、すべての可能性に薄い闇の膜が覆われていった。自分に出来ること出来ないこと、自分に向いていること向いていないこと。そうやって自分に見切りをつけて夢という可能性に区別を入れて人は大人になる。
だけど…。
「ふふ…」
「…どうした?桐乃」
あたしの淡い初恋の思い出になる筈だった気持ち。初恋は絶対に実らないというけれど、それを考えれば神様の粋な計らいだとしか思えない。
「どうした?何を考えてる?」
「ふふ…。教えてあ~げない」
あたしは笑顔で京介君の顔を下から覗き込む。小さい頃もよくこうして上目遣いで彼の顔を覗いたものだった。
いつも笑顔だったおにいちゃん。今は無愛想な京介君。あの頃は子供特有の丸みを帯びた頬をしていたおにいちゃん。そして今は頬がこけ男性のシンボルであるひげを剃った後がある京介君。
「この…教えろ、桐乃!」
「きゃあ~~!!」
京介君はあたしの体を後ろから抱きつく。あたしは笑顔で彼から逃げようとする。
彼はあたしを後ろから優しく抱きしめ、そして…。
「ぁ…」
「…」
見つめ合う二人。彼の真っ黒な鋭い目の中の瞳孔が優しさに満ちていた。
「桐乃…」
「おにいちゃん…」
口づけへ…。彼の吐息があたしの唇にかかる。あたしは体をすべて彼に預け目を閉じた。そこへ…。
ぷにゅ
「ふぇ?!」
「く…ははははは!」
あたしの唇に京介君は指を当てていた。キスへの期待を裏切られたそんなあたしを見て…。
「ははははは!!」
「も、もう!」
京介君はおかしそうに笑う。そういえばそうだった。小さい頃も彼はこうしてあたしに期待させては罠を仕掛けて、罠に掛かったあたしを見て楽しそうに喜んでいたのだった。
「もう…!知らない!」
「はは…ごめんごめん。桐乃があんまりにも可愛いものだから…」
「ッ!」
おそらくあたしの顔はほっぺが焼けたように真っ赤に染まっていることだろう。そういえば彼はこうやっていつもからかって楽しんではこうしてあたしを可愛がってくれたんっけ…。
…そういえば彼は自分があたしをからかうのはいいけれど、他の男の子があたしを京介君と同じようにからかうといつもむすっと怒っていたんだっけ。話しかけても口を開いてくれない。それが怖くて悲しくてあたしが泣くとあたふたとして謝りながら慰めてくれたものだった。
「桐乃…」
「…」
そうして京介君はあたしの体を抱きしめながらあたしの耳元で、
「やっぱりおまえはいつまでたっても俺の妹だよ」
そう、後ろから愛おしそうにささやいた。
~~~
「ここが、今のあたし達の家なの」
「…」
今あたし達はアパートの前にいる。安い家賃で入れるぼろぼろのアパート。3人で生活するのでやっとの間取りだ。
「…」
…8年前のあの事件で意識を失い回復しても片足が不自由になったお父さん。当時あたし達はローンの組んだ一軒家に住んでいた。だけど生活に困窮し、その家と借りていた土地の借地権を家の抵当権ごと売り渡さなければならなくなったのだ。
「…ごめんね。こんなぼろぼろの家で…」
「…いや」
京介君に緊張の色があった。
それも当然だ。だって…。
ここまで話が進めば如何にあたしの頭でも大体の憶測がついた。
ピンポーン
ドアホンを押す。旧型の、昭和の頃の古いものだ。そして、
「…久しぶりね。京介君」
中からお母さんが。そして奥にお父さんが不自由な片足を地面に置いて座りながらもこちらを見ていた。
「…お久しぶりです。佳乃おばさん、大介おじさん」
~~~
「ごめんねぇ。突然京介君も来るって桐乃から聞いたものだから用意が出来てなくって」
「…いえ」
お母さんは急須に緑茶を入れながら、
「大きくなったわね~?桐乃から聞いた時はまさか、と思ったけど…。こんな立派な青年に育って…」
「…」
お母さんは急須にお湯を注ぎながらも京介君を見ようとしない。だけど、それは見ないのではなく見ることがないのだ。だって今にもその目から涙がこぼれそうになっていたから。まともに見たらもう耐えられないのだろう。
「東京の工業大学に通っているんですって?立派になって…。将来は研究者か技術者にでもなるの?」
「いえ…。院には行かずに学部で卒業して家の家業を継ごうと思っています」
「まあ!」
「まだ何の権限もない若造ですから、最初は傘下の子会社の食品開発の現場まわりからですけど…いずれは…」
「あらあらまあまあ!立派になって!!…本当に…本当に立派になって…」
お母さんの肩が震えだす。
「げ、元気で…今も…元気で…い、いて…いてくれて…。あ、あたしは…あたしはそれだけで…」
持っていた急須からお湯がわずかにこぼれだす。体の震えが手まで伝わってきたから。
「…佳乃おばさん」
「ごめんね?こんなおばさんに泣かれたって迷惑なだけよね…。や~ね、年取るとどうも湿っぽくなって…」
「…」
京介君はそんなお母さんをじっと見つめていた。そこへ、
「母さん」
不自由な片足地面に置いて座っているお父さんが口を開いた。
「すまないが後で美味しい手料理も出してやってくれないか。せっかく久方ぶりに京介君が会いに来てくれたんだ。」
「ええ…そうね…あなた」
そうしてお父さんは京介君に向き直り、
「久しぶりだな、京介君。…こんなに背丈の大きな青年に成長して…」
「大介おじさん…」
「ふふ…なつかしいなその呼ばれ方。そうか…あんなに小さな少年だった京介君がなぁ…。時の流れというのは速いものだ…」
「…」
「それと、すまないな。大事な、それも久方ぶりに会う桐乃の幼馴染みを迎えるのにこんな無礼な格好で。どうか許して欲しい」
「いえ…こちらこそ…」
京介君は用意されていた座布団に正座で座る。
「それで…」
お父さんが口を開く。
「今日は私達に何か話があるのだろう?」
「…はい」
お父さんは不具合な足を投げ出し、背もたれにもたれながら京介君にそう聞いた。
「何かな?これまでの私達の、とりわけ桐乃の話かな?ふふ…うちの娘は親から見ても可愛らしい娘だが、少しそそっかしくてな…。そういえば京介君、君はもう彼女でもいるのか?広い東京なんだ、色々な出会いがあるだろうに」
「…」
京介君は答えない。目に暗い、しかし何かの決意の光が宿っていた。
そして…。
「大介おじさん。佳乃おばさん。いえ…」
京介君は居住まいを正し、
「お父さん、お母さん。今日は貴方達にお話を伺いたくてやってまいりました」
本当の両親に向けてそう呼んだ。
~~~
「…どこでその事を…」
何故知るはずのないことを…?お父さんとお母さんはそう口に出した。
「特別養子縁組、でしょう?」
お父さんは目を開いてびっくりしている。お母さんもだ。何故その事実を知っているのか?という疑問が寡黙なお父さんの顔に出ていた。
――特別養子縁組 民法第817条の2――
日本民法では817条の2を総則的規定として817条の3から817条の11までを法律上の要件、効果として定めている。
それは世界でも珍しい、成人してからの養子をも認める日本の養子制度においてもさらに特異な制度。
近大民法の知恵。
この法律を全く知らなかったあたしはこの後この事を詳しく調べたんだけど…。次のような概要らしい。
通常の世間一般で言う養子とは実の父母とは別の血の繋がっていない他人と親子の縁を結ぶことで親子関係が発生する。それは法律によって擬制される親子関係だが、当然法律上の扱いは実親子とほぼ同一である。血で繋がった親子関係か法で繋がった親子関係かの違いではあるが…これを普通養子縁組という。
しかし、この特別養子縁組は違う。これは実父母とは別にいる赤の他人である親と法律上も「実社会上」も血の繋がった親子とするものである。従って、養子縁組のスタートの日から赤の他人との「実親子関係」が始まり、本当の血の繋がった親とは親子の縁が終了する。
この特別養子縁組の立法趣旨は広く子供の福祉の為にあるという。よって、養子とされた子供は本来なら赤の他人である親を実の親であると思って育つし、本当の血の繋がった実の親の事を血の繋がらない他人だと思って育つ。当然、養子とされた子供にはこの事実は知らされない。そう、本来なら知ることなどないのだが…。
「そうか…槇島さんだな?」
「…はい」
お父さんはふう、と一つため息をついた。
「…槇島の義父に俺が16の孤児院を出る時に養子の話を持ち出されました。その時は俺の死んだ父さんの治療費の借金をどうしても自分の力だけで返したかったから、一度断りました」
「…」
「しかし俺が大学に入って20の頃…もう一度槇島の義父に呼び出されたんです。話はまた養子の件でした。しかし…」
お父さんとお母さんは京介君の顔をじっと見つめている。
「…俺の本当の父親は死んだ父さんではなく高坂大介という人だ、とその場で聞かされました」
「…」
「これは槇島の義父の温情でした。二十歳当時の俺は槇島との養子縁組に乗り気だったからです。これでもっと力が手に入ると思って…。だけど、義父は最後に俺に選択権をくれたんです」
「…」
「義父から16歳の俺に断られた後もずっと俺のことを養子にしたがっていたと聞きました。そして普通なら調べることの不可能な、俺の特別養子の戸籍を調べたんです。義父にすれば思いもよらなかったそうです。知り合いに裁判所に勤める裁判所書記官がいるそうなんですが、本当に軽い気持ちで念のために頼んだそうです。その人も試しに、と自分の官としての権限を使って裁判所のデータベースを開いて調べてくれたそうです。そしたら…」
「…おまえの養子縁組に対する家庭裁判所の裁判官による審判の記録が残っていた、ということか…」
「ええ。びっくりしたと言っていました。養親が二人とも死んだとはいえ、この子は実の父母がまだ千葉県に生きているのに孤児院に送られたのか、と」
「…」
お父さんもお母さんも目を伏せる。足が不自由でも決して気の弱いところだけは見せなかったお父さん。そのお父さんが本当に意気消沈として申し訳なさそうにしている。
「当時の俺は頭の中がもう無茶苦茶に混乱していました。どうしたらいいのかわからなかった。子供の頃いつも遊びに出かけていたあの高坂のおじさんとおばさんが俺の本当の父さんと母さんで、そして…」
桐乃と俺が、血の繋がった実の兄妹だったなんて。
そう、京介君は唇を噛み締めて呟いた。
「…」
「大介おじさん。佳乃おばさん。聞きたいことが二点あります。何故です?何故俺を特別養子として死んだ父さんに出したんですか?そして、そして何故俺のことを、」
身寄りがなくなったあの時に名乗り出て…もう一度家族として迎えてくれなかったんですか…?
「京介…」
それまで沈黙を守っていたお母さんが重苦しそうに口を開く。そこへ、
「いい。母さん。俺が話す」
「あなた…」
「これは俺に話させてくれ。元はといえば全て俺が悪いといってもいいことなんだ。それに…」
「…」
「それに京介には、今まで辛い思いをさせてきた…。京介には聞く権利がある」
「あなた…」
そう言ってお父さんは姿勢を正し、
「まず一つ目の質問から答えよう。おまえの死んだ父親におまえを養子とした件だ。当時俺は千葉県警で刑事をしていたのは知っているな?」
「…」
こく、と京介君は頷く。
「その時おまえの死んだ父親…先輩とは職場の同僚だったのだが、公私ともに仲良くさせてもらっていた。その時は彼の妻、おまえの死んだ義理の母に当たる人もまだ生きていた。おまえは知らないだろうな。その時おまえはまだ生まれていなかったから」
「…」
「この先輩刑事の夫婦には本当によくしてもらった。右も左もわからない若造だった俺はこの先輩に厳しい警察という巨大組織の中で、国民の生命と安全を守るという本当の意味での正義を教えてもらったものだ」
「…」
「しかしこの先輩夫婦には一つ悩みがあってな。…子供が出来なかったんだ」
「え?」
「子供に恵まれない二人は大いに悩んだそうだ。どうやら両方に共に生殖器に何らかの異常があったらしい」
「…」
「そうしている間に俺と佳乃さんとの間で子供が生まれたんだよ。それが…」
「俺、ですか…」
「そう。おまえだよ、京介。あの頃のおまえは手のかかる赤ん坊だった。ふふふ…懐かしいものだ。まるで昨日の事のようだ。仕事から帰ると真っ先にお前の顔を見に行ったものだ。当時余り普及していなかった育休なども使ったな。民間では使いにくいからな…。まあこれも公務員の特権というやつだな」
「…」
そこでお父さんはふう、と一度大きく鼻から息を吐いた。
「しかし、ある日子供に恵まれない先輩達から言われてな。京介くんを下さいませんか、とな」
「…」
「あのいつもお世話になっている先輩が深々と地面に頭を下げてだ。彼の奥さんも一緒だった。夫婦で揃って頭を下げられたよ」
「…」
「俺達だって彼らの気持ちは痛いほどわかった。俺も子供が出来た時の喜びを思えばおまえがいない時のことなどもはや考える事もできなかったからな。それだけ先輩達の熱意も我が事のようにわかったよ」
「…」
「俺と母さんは大いに悩んだ。何しろ初めてのわが子、一人息子だ。簡単に引き渡せるか。しかし先輩達も簡単には引き下がらなかった。そこで…」
「…」
「そこで仲介人として引き受けてくれたのが、田村さんの家の人達だった。もっとも、仲介人といってもそこまで仰々しいものではなく相談人といったところだが。田村さん達とは俺も佳乃も個人的に仲がよかったし、京介と当時一人娘だった麻奈実ちゃんが同じ年に生まれたとあって親近感もあった。田村さん達は麻奈実ちゃんを連れてよく我が家にも遊びに来てくれてな。その時に先輩達とも出会った」
「…」
「先輩達の京介を養子として引き取りたい、それも自分の「本当の息子」として、という話をすべて田村さんに話してな…。そこで色々なアドバイスをもらったよ。その相談の席は田村屋でしていたんだが、その時に田村さんの娘さんもいつもあそこに座っていたな。そしてその話し合いの結果…」
…まなちゃんが…。だからこの事を知って…。それであの時…。
「俺を…父さんの養子に?」
「ああ…。苦渋の選択だった。6ヶ月の試験期間の後、家庭裁判所から審判が下ってな。高坂京介の実子関係を終了しここに特別養子縁組の発生を認める、とな」
「…」
「その養子縁組の後に先輩の奥さん、おまえの義理の母になる人が事故で死んだ。病気でな。乳癌だった。当時まだ20台で若いから進行も早くてな…。すぐに帰らぬ人になったよ」
「そう、ですか…」
京介君は目線をじっと床に集めている。京介君…。
「もともとその先輩には身寄りがなかった。しかしまだ幼い子供のおまえがいる。これから一人で育てなくてはならない。そこで俺と佳乃さんが度々おまえの世話をしていたんだ」
「…」
「裁判所に見つかれば色々煩かったのだろうがな…。しかし養子として出したのにまた我が家に戻ってくるなんてな…。親子の縁は法律上は切れてはいるが血の縁は誰にも切ることはできない。先輩には悪いが嬉しいと言えば正直嬉しかったものだ」
「…」
「3年後桐乃も生まれ俺と佳乃さんは幸福の絶頂だったよ。先輩も幸せそうで京介も近くにいる。この日常がずっと続けばと…。だが…」
「8年前のあの事件…」
「…」
皆が皆、沈黙する。
あたしのお父さんは片足が不具になり京介君のお父さんは死に、そして何より彼のその後の運命そのものを大きく変えた事件だからだ。そしてそれに追い討ちをかける様な国家からの補償金の拒否。…もう何もかも星の巡り会わせが悪いとしか思えない。
「これが一つ目の質問の答えだ…」
「…そうですか」
京介君は軽く目を閉じた。今までの疑問に対する答えを整理しているのだろうか?彼の頭には様々な思いが反芻しているに違いなかった。
「では…二つ目の…何故俺の父さんが死んだあの時…」
「…」
京介君は悲壮感漂う顔で、
「何故あの時、もう一度親子としてやり直してくれなかったんですか?」
「…」
沈黙。お父さんは目を閉じている。お母さんもお父さんに寄り添っている。そして、
「…俺達に、お前を養えるだけのお金がなかったからだ」
「…え?」
京介君はお父さんを見つめる。
「本来ならお前に身寄りがなくなったその時点で特別養子縁組の解消が行われる。公益代表の検察官がな…家庭裁判所に取消を請求するんだ。だが…」
「…」
「だが俺達には資産がなくてな。あの事件による警察の補償金もない。桐乃もまだ小さい。そして俺は当時寝たり起きたりを繰り返していて今の状態に回復するまで相当のリハビリと時間を要した。おまえに全てを打ち明けると共倒れになる。…高坂家には何もなかったんだよ」
「…」
「家裁に請求する検事もさすがに無理だと判断してな…。民法817条の10の一項2号の「実父母が相当の監護をすることができること」に該当しないと判断された。検事もぎりぎりの解釈だったのだろう」
「そう、だったん…ですか」
「…すまない。それも今になっては全ては言い訳だな。俺達の経済的な困窮がおまえへの免罪符になるわけもない」
「…いえ。気持ちはわかります。だって…」
俺もそうでしたから…。
京介君は静かにそう口を開いた。今までの思いが再び去来しているのだろうか。
あの事件の後、孤児院へ送られた。その苦労はあたしには想像することすら憚られる。
お父さんも足の状態が今になるまで随分苦労した。京介君のお父さんであるおじさんと違って一命は取り留めたものの、それとこれとは話が別だ。不具の苦しみ、というのはなまじ生かされているだけ生き地獄にも感じるのだろう。
それをお父さんは生来の剛健な精神で持ち直し、愚痴一つあたし達に言わなかった。世間から見ればお父さんは単なる身体障害者で一社会的弱者なのだろう。だけどあたしにとっては、誰よりも強い、世界一自慢の父親だった。
「そうだったんですか…」
その日京介君は目を閉じたまま日が暮れるまで動かなかった。
~~~
ガタンゴトン…ガタンゴトン…。
「…」
「…」
帰りの電車。あたし達は黙って電車の席に座っている。京介君はあたしの右隣で腕を組んで静かに目を閉じている。…冬だからか日が暮れるのは早く、辺りはすっかり暗くなっていた。
お父さん達の話を聞いたあたし達はあの後お母さんの作ってくれた料理を食べて部屋を出た。その時お父さんはビールを京介君に注ごうとしたが、あたしが京介君がアルコールが飲めない体質だと言うと残念そうにしていた。そして今は東京への帰りの電車の中。
久しぶりの実家とはいえ明日は大学の講義がある。彼との蜜月の日々に没頭するあまり学生の本分を随分おろそかにしてしまった。泊まっていくわけにはいかない。
「…」
京介君はあの後何も喋らなかった。実の父と母と思っていた人が実は赤の他人で、幼馴染の親と思っていた人が実の親で…。
彼の中では前から知っていたこととはいえ、こうして改めてその事実を突きつけられると忸怩たる思いがするのは当然だった。
(…)
彼の中ではどういう風に思っているのだろう?死んだおじさんのこと、お父さんのこと、お母さんのこと、それから…。
(あたしとの、こと…)
もうどうしたらいいのかわからない。ずっと、ずっと好きだった彼が。あたしの存在のすべてといってもいいはずの幼馴染みの彼が。本当は…。
「ごめんな」
「え?」
静かに目を閉じていた京介君がそっと静かに呟いた。
「…」
彼はその後の言葉を告げない。あたしも聞き返せない。
そうしてあたし達を乗せた電車は光と人の溢れる東京へと運んでいった。
~~~
「…送ってくれてありがとう」
「…ああ」
ここはあたしのアパートの前。あの後東京についたあたし達はどこに寄るでもなくここまで無言で歩いてきた。
「…」
「…」
もう、何も交わせない。もう、二度と交わらない。
京介君が…大好きなおにいちゃんが…。本当は血の繋がったお兄ちゃんだったなんて…。
「…」
「…」
あたし達はもう二度と以前の関係に戻れないのだろう。
あたしは彼のことが今でも好きだ。愛しているといってもいい。けれどそんなことは世界が許さない。この健全な道徳と社会的良心に縛られた世界が、兄妹で愛し合うことを絶対に許さない。
「…ぅう…」
「…」
あれから色々なことがあった。ありすぎた。あやせにこの真実を告げられ、お父さん達にその真相を確かめ、そして…。
「うぐっ…うぇえ…」
「…」
涙がとまらない。どうしてなの。どうしてあたし達がこんな目に。
せっかく、せっかくあたしの生まれた時から育んできた初恋が、絶対に実らないと思っていた初恋が実ったと思ったのに。こんなのって…。
「うぐっ…えぇぇ…!」
「…ッ!」
涙を我慢しきれないあたしはおにいちゃんに強引に引き寄せられる。そして…
「ん…ふぁ…」
キス。涙と鼻水でぐちゃぐちゃのあたしの口の中に無理矢理舌をねじ込んでくる。
「桐乃」
おにいちゃんは抱きしめながらあたしの目を見つめて、
「最後に、一日だけ時間をくれ」
「…え?」
「俺達はこれ以上この関係を進めることが許されない存在だ。でも、でも…」
「…」
「…俺はおまえを手放したくない」
「…おにいちゃん」
真剣な目。真摯な表情。彼のあたしへの思いの丈のすべてが肌の温もりから、繋がった唾液から、その熱い吐息から、彼のすべてが伝わってくる。
「桐乃」
「…」
じっと二人は見つめあう。
「…最後に一日、おまえの時間を俺にくれ。そのうえで俺達の未来のことを真剣に考えよう」
「…おにいちゃん」
「いいな?」
「…はい」
彼にもう一度強引に舌をねじ込まれる。あたしは黙ってそれを受け入れ口内を彼の舌に蹂躙される。
胸に溢れる切ないあたしの思いでは裏腹に、どうしようもなくあたしの若い肉体は彼に発情していた。
…もう「妹」じゃいられない。
…そしてあたしとおにいちゃんの「最期」が始まったのだった。
最終更新:2013年03月20日 15:04