ふたば系ゆっくりいじめ 974 都会派な、君へ。(前編)

都会派な、君へ。(前編) 45KB


愛で 飼いゆ 現代 ガチ愛で注意


『都会派な、君へ。(前編)』





序、

 僕は逃げた。

 両親。故郷。将来の夢。

 高校を卒業してすぐに、その全てを投げ捨てて都会という海の中に。

 潮騒の代わりに、絶え間なく耳をくすぐる都会の喧騒が全てを忘れさせてくれる。

 そびえたつ高層ビルの隙間から見上げる青空は、まるで遥か彼方に揺らめく水面のようだ。

 望んで飛び込んだ海の底で、僕は何を考え、何を求めて過ごしているのだろう。

 寄せては返す波のように行き交う人々。その流れに身を任せてただ時間だけが過ぎて行く日々。

 一人で暮らしてはいるけれど、僕が務めている働き先の給料では満足な生活を送ることはできない。

 結局、故郷の両親から仕送りを受け取っている時点で、僕の世界はあの頃から何も変わっていないのだろう。

 都会に行けば何かが変わる。そんな気がする。そんなことはあり得ない。

 まだ二十一年しか生きていない僕の出した結論だ。…笑いが込み上げてくる。

 僕にはもう、引き返す場所はない。今いる場所から、逃げ出す勇気もない。

 僕は…どうすればいい?どうすれば良かった…?

 わからない。何もわからないまま、今日も東の空から陽が昇る。

 僕を、あざ笑うかのように。




一、

 今日の仕事は早く終わった。いつもよりちょっと人が少ない電車の窓から、次々と変わりゆく街の景色をぼーっと眺める。

 今、街は空前のゆっくりブームだ。電車の中にぶら下がった広告にも、線路沿いに設置された看板にも、ゆっくりという不
思議な生き物の中でもスタンダードな二匹の絵が印刷されており、吹き出しに「ゆっくりしていってね!!!」という文字が
写植されている。

(…なにが、ゆっくりしていってね…だよ…)

 こいつらはいいよな。「ゆっくりしていってね!!!」って言うだけで、人間に飼われて何不自由ない生活ができて。

 そんなことを考えながら電車を降りる。

 ふと、視線を前に向けると駅のホームの一画で、女子高生たちが携帯電話を片手に写メールを撮りながらはしゃいでいる。

「かわいー!」

「ゆ? ゆゆゆ?」

「“ゆー”だって。連れて帰りたいなぁ」

「や…やめてねっ! れいむのかわいいおちびちゃん、つれていかないでねっ!!!」

 女子高生たちが囲んでいるのは、野良のゆっくりのようだ。さっきの広告にも印刷されてた、テレビのCMでも良く見かけ
る黒髪に赤いリボンのついたヤツ。名前は確か、“れいむ”。

 大体バスケットボールくらいのサイズのれいむの周りでは、その子供と思われるテニスボールほどの大きさのれいむがぴょ
んぴょん飛び跳ねて、大きなれいむの後ろに次々と隠れて行く。

 親れいむが、自分の後ろに子れいむが隠れたのを確認すると、口の中に空気を溜めて、

「ぷくーーーーーっ!!!」

 なんとも情けない顔で情けない声を上げた。ゆっくり特集の番組で見たことがあるだけだから詳しくは知らないが、あれが
ゆっくりという生き物にとっての威嚇らしい。表情こそ必死ではあるが、元々の顔がギャグみたいな生き物なので滑稽にしか
映らない。

「きゃーーーっ!!“ぷくーー”だってぇ!!!」

「かっわいいい!!!」

 もてはやされる生き物というのは、何をやっても可愛く見えるものだ。カシャカシャと携帯電話のシャッターボタンを押す
音が聞こえてくる。

「ゆ…ゆぅぅぅぅ…っ」

 自分たちの前からちっとも離れてくれない女子高生たちに、れいむ親子はいい加減困った表情を浮かべていた。まぁ、彼女
たちにとってはそんな顔も可愛くて仕方がないのだろうが。

「ねぇねぇ、これ食べる?」

 女子高生のうちの一人がカバンの中からクッキーを取り出した。目の前の張り紙に「ゆっくりに餌を与えないでください」
と書いてあるのが見えないのだろうか。

 案の定、れいむ親子は表情を輝かせて、

「ゆゆっ?! ちょうだいねっ! ちょうだいねっ!! れいむたち、おなかすいたよっ!!!」
「ちょーらいにぇっ!!! ちょーらいにぇっ!!!」

 舌を出して女子高生が持っているクッキーを凝視している。子ゆっくりも親ゆっくりの後ろから飛び出して、届きもしない
のに必死にジャンプを繰り返していた。

 女子高生がしゃがみ込む。れいむ親子の目の前には素晴らしい光景が広がっているのだろうが、クッキーにしか視線が向い
ていないようだ。

 クッキーを置くと、れいむ親子は揃ってそれを口の中に入れた。

「むーしゃ、むーしゃ、しあわせーーーっ!!!」

 女子高生たちが歓喜の声を上げる。ホームを行き交う人々は怪訝そうな顔でその様子を見ていたが、僕は不思議と気になら
なかった。

(…ペットショップにでも、行ってみようかな…)

 今までゆっくりという生き物についてまったく興味が湧かなかったが、世間でこれだけ騒がれていると気になってくるもの
である。

 僕は家にまっすぐ帰らずに、ペットショップを探しながら街を歩き始めた。

横断歩道で信号待ちをしていると、道の反対側で泣き叫んでいる黒い帽子をかぶった金髪の子ゆっくりがいた。…名前は…
正直思い出せない。

「おきゃああああしゃあああああん!!! ゆんやあああああああ!!!!」

 何事かと子ゆっくりの視線が向けられた場所を見てみると、そこにはその子ゆっくりの親と思われるゆっくりがぐちゃぐち
ゃに潰れて横たわっていた。横断歩道を渡ろうとして、車に轢かれて死んだのだろう。周りの人間もバツの悪そうな表情を浮
かべている。なまじ、人間と同じ言葉で泣き叫ぶから、余計にいたたまれない気分になる。

 親子愛が強いのか、自分一匹では生きていけないのを理解しているのか、その子ゆっくりは信号が青に変わって僕が横断歩
道を渡り終えた後も、その場でずっと泣き続けていた。怖くて横断歩道を渡ることができないのだろう。僕が足早にその場を
立ち去ろうとする間も、子ゆっくりの泣き声が響いていた。

「あ」

 ようやく見つけた。そのペットショップのショーウィンドウには、犬や猫、そしてゆっくりがいた。店の張り紙には、「ゆ
っくり入荷!!!」という文字がでかでかと書いてある。

 よくよく考えてみれば、僕は間近でゆっくりというものを見たことがない。今みたいに街で偶然見かけたり、テレビやイン
ターネットの画像で見たことがある程度だ。ゆっくりに関する知識もゼロに等しい。知っているのは、「ゆっくりしていって
ね!!!」が口癖であることだけだ。

「いらっしゃいませー」

 店員の声に迎えられて、店の中に足を踏み入れる。ケージの中に入れられて水を飲んでいる仔犬や、ショーケースの中で眠
っている猫の姿がある。目的はゆっくりを見てみることだったが、ついでだ。犬や猫を見て癒されるのもたまには悪くない。

 決して明るいとは言えない表情の犬や猫をガラス越しに順番に見て行く。僕に気付いたのか、とことこと寄ってくる仔犬も
いた。可愛いな、とは思うが値段を見ると諦めるしかない。大体、両親から仕送りを受けて生活している時点で、ペットを買
うための金など持っていないのだが。

 そのとき。

「ゆっくりしていってね!!!」

「うわあっ!!」

 耳元で突然叫ばれて、僕は思わず声を上げてしまった。慌てて声のする方に視線を向けると、そこには身なりを小奇麗に整
えられた、先ほど女子高生たちに囲まれていたゆっくりと同じ種類の…。れいむがいた。

「ゆゆっ! れいむはれいむだよっ! おにいさん、ゆっくりしていってね!!!」

「あ、ああ…」

 初めてゆっくりに話しかけられた僕は、ちょっとたじろぎながらも、まじまじとれいむを観察していた。れいむの方は見ら
れ慣れているのか、特にうろたえもせずショーケースの中でくつろいでいる。

「なぁ」

 思わず声をかけてしまった。れいむが振り返り、どういう仕組みで動いているのかは分からないが、這うように僕の元へと
やってきた。

「ゆゆ? どうしたの?」

「いや…なんでもない…」

 いざ、目の前に来られると言葉に詰まる。当たり前だ。最近になって現れたばかりの未知の生物を相手にどう会話していい
かなんて分かるわけがない。

「れいむ種をお求めですか?」

 後ろから店員に声をかけられる。その店員と二、三の会話を交わしたあとに、ショーケースの下に表示された価格を見て、
僕は思わず絶句した。

【ゆっくり れいむ種 6か月 37800円】

 いや。いやいやいや。犬や猫よりも圧倒的にお求めやすい価格なのは理解できるが、ゆっくり一匹でこんな値段が張るのか。
そこらで野良のゆっくりを捕まえて飼ったほうがはるかに経済的ではなかろうか。

 そんなことを考えているのを店員が察したのか、

「こちらのれいむ種は、当店で十分に躾をさせていただいてますのでお値段はご覧のとおりですが…」

 店員に案内されて後ろをついていく。

「こちらのゆっくりでしたら、安価でご購入いただけますよ」

【ゆっくり 各種 一匹 200円】

 思わず目を疑った。二百円。さっきの約四万円のゆっくりとこいつらの何が違うんだ。僕にはそれがさっぱりわからなかっ
た。ショーケースの中にも入れてもらえず、お世辞にも広いとは言えないケージの中に約三十匹ほどのゆっくりが入っている。
ケージに張られた紙には、イラスト付きで各種ゆっくりの名前が書かれていた。

 それによると、さっき横断歩道で泣き叫んでいた名前を思い出せない黒帽子のゆっくりは、まりさという種類らしい。ああ、
確かそんな名前だった。他にも、ありす。ぱちゅりー。この辺りはあまり馴染みのない名前だ。少なくとも、僕の中では。

「ゆゆ!!! にんげんさん!!! まりさをかってね!!!」
「れいむのほうがかわいいよっ!! れいむをにんげんさんの“かいゆっくり”にしてねっ!! いますぐでいいよ!!!」
「むきゅっ!! かうならかしこいぱちゅがいいにきまってるわ!!」
「このいなかもの!! ぼーっとしてないではやくあまあまさんをもってきてね!!!」

 店員が苦笑する。思わず顔をひくつかせる。なるほど。こいつらが二百円でしかないのはすぐに理解することができた。先
程のショーケースれいむと比べれば、態度が雲泥の差だ。良く見たら、ケージから飛び出したポップには“処分用ゆっくり!
犬の餌やストレス解消に最適!!!”などと書かれてある。

 つまり、このケージの中に入れられたゆっくりは、店側にとって価値がないのだろう。

 そんなことを考えている間も、その価値の乏しいゆっくりたちは僕に声をかけてくる。なんというか、必死だ。

「売れ残ったら、このゆっくりたちはどうなるんですか?」

「処分します」

 僕の質問に淡々と答える店員。まぁ、そうなるだろうが。処分用、って書いてあるし。だからこそ、ここまで必死になって
自分のことをアピールしようとしているのだろう。

「ぐずぐずするななのぜ!! はやくまりささまをかうのぜ!!!」
「むきゅう…ばかなにんげんさんには、ぱちゅのみりょくがわからないようね…っ!!!」
「かわいくってごめんねっ!!!」

 アピールの仕方としては最低最悪だが、正直このケージの中に入ったゆっくりを買うような人間はいないように思う。する
と、僕の心を読んだかのように、

「お客様の中には、虐待目的でこれらのゆっくりを購入される方もいらっしゃいます」

「え…?」

 今、この店員。爽やかな笑顔でなんと言った…。虐待目的…。聞き間違いでなければ、そう聞こえたが。まさか、ポップに
書かれた“ストレス解消”というのはそういう意味なのだろうか。

 途端に、さっきから“ゆーゆー”うるさいゆっくり達が哀れに思えてきた。売れ残れば処分されて、買われたとしても虐待
される可能性がある。このケージの中に入れられた時点で、こいつらの一生は詰んでしまっているのだ。

「買われたら、飼いゆっくりとして幸せに暮らせるんだ、って思いこんでますからね…この子たちは」

 聞くと、この中のゆっくりを買って行く人間の目的の八割は虐待するためらしい。僕には理解することができなかった。こ
いつらも生きてて、人間と同じような感情を持ってて、泣き叫んだりするのに虐待なんてできるのだろうか。

 虫の羽根や足をちぎって遊ぶのとは訳が違う。子供が残酷になれるのは、虫が悲鳴を上げないからだ。

「ゆー!!! むしするななのぜっ!! くそじじいっ!!!!」

 一番口の悪いまりさが、僕と店員を罵倒し始める。店員は、やれやれ…と言った表情を浮かべてそのまりさの左頬を平手で
思いっきり叩いた。乾いた音が店内に響く。頬を打たれたまりさは眉をひそめて、ぼろぼろと泣き始めた。

「い…いたいよぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」

「ちょっと…そこまでしなくても…」

「ゆっくりはですね。これぐらいやらないと躾にならないんですよ。先ほどご覧になったれいむ種も、ここに来たばかりの頃
は毎日のように叩かれて泣いてましたから」

「そう…なんですか…」

 僕がゆんゆん泣き続けるまりさを心配そうに見ていたら、一匹のゆっくりとふとした拍子に目が合った。

 ショートの金髪に赤いカチューシャをつけており、碧眼の視線をまっすぐに僕にぶつけてくる。イラストを覗きこむ。あり
す、という種類のゆっくりらしい。僕の興味に店員が気付いたのか、そのありすをひょいと持ち上げると、

「ありす種に関心がおありですか?」

 質問を投げかけてくる。僕は答えずに、ありすのことを見続けていた。ありすは、まるで僕を睨みつけているかのようだ。

「ありすは…べつに…にんげんさんにかってほしいなんて、おもってないんだからねっ!!!」

 思わず呆けてしまった。このありすはどんな手を使って僕に自分を買うように仕向けてくるかとばかり思っていたから、意
表をつかれた。ありすは、店員に持ち上げられたまま、目を閉じてそっぽを向いてしまった。

「ありす種はプライドが高いゆっくりなんです。このありすは、特にそれが強いですね。飼いゆっくりには向かないかと思い
ます」

 ありすは僕のほうを見ようとはしない。

「おねえさん! ありすをおろしてねっ!!!」

 店員はクスリと笑うと、そのありすをケージの中に戻した。ありすはずりずりとケージの隅に移動し、背中…後頭部?を向
けて黙り込んでしまった。

 僕は、ケージの反対側に回り込み、そんなありすがどんな表情を浮かべているのかと覗きこんでみることにした。

「ゆぅっ?!!」

 目の前に現れた僕の顔に、驚きの声を上げるありす。突然の出来事に思考回路が停止してしまったのか、少しだけ震えなが
ら、視線を宙に泳がす。

 やがて。

「こ……このいなかものっ!! とかいはなありすをびっくりさせるなんて、ちっともゆっくりしてないわ!!!」

 口調が幼稚なせいか、必死に僕を責めるありすの姿はちょっとだけ微笑ましかった。そんな僕の心情を察したのか、ありす
は顔を真っ赤にして、

「い…いいかげんにしてねっ!!」

 ありすがケージの反対側に移動を始める。そういえば、このありすは他のゆっくりのように飛び跳ねて移動しようとはしな
い。どうしてだろうか。そんな疑問を店員に投げかけてみると、

「別にあんよ…ああ、ゆっくりの底部のことで人間の足に当たる部分ですが。そこをケガしているというわけでもないんです
けどね」

「そうなんですか…」

 質問しておいなんだが、僕にはわかってしまった。ありすの周りを気にする仕草や、移動ルートなどを見ていると。

 ケージの中にはありすよりも一回りも二回りも小さな赤ちゃんゆっくりがいる。恐らく…あくまで予想だが、このありす。
自分よりも小さなゆっくりを踏み潰してしまわないように気をつけているのではないだろうか。

「このありすも、やはり処分されてしまうんですか?」

 ありすに聞こえないように、小さな声で尋ねる。店員も同様に小声で、

「明日、保健所が引き取りに来ます」

 ありすは何も知らないのだろう。自分が明日処分されてしまうことを。それでも、人間に飼われたくないと思っているのだ
ろうか。…まぁ、飼われたとしても虐待されてしまう可能性もあるわけだが。

 一瞬だけ、このありすが虐待されている姿を想像してしまった。餌を与えてもらえず、毎日のように殴られて…強気なあり
すが少しずつ弱っていく光景…。

 胸が、少しだけ締め付けられるような気がした。

 衝動買い。そうだ。きっと、そう。僕は財布から百円玉を二枚取り出すと、

「すみません。このありすをください」

 店員とありすが、目を丸くして僕を見る。ありすが、“信じられない…”というような顔をしている。

「…虐待目的…ではないんですよね…?」

 小声で僕に尋ねてくる店員。僕が頷くと、店員は再度確認をしてきたが、再び頷いた僕を見て納得したのか、少し大きめの
紙袋を持って来た。

「ありす…?このお兄さんの言うこと、ちゃんと聞くのよ?」

「なんでそんなゆっくりをかうのぜっ?! ありすなんかより、まりさのほうがいいのぜっ!!!」
「れいむのほうがかわいくてゆっくりしてるよっ! そんなこともわからないの? ばかなの? しぬの?」

 当のありすは、僕を見上げたまま動かない。店員がありすを持ち上げる。抵抗するかな?と思いながら見ていると、そんな
素振りは見せない。…本当は誰かに飼ってほしかったんじゃなかったのだろうか。

「…っあ…」

 ありすが何か言いかける。店員もそれに気付いたのか、紙袋の中に入れようとしていた手を止めた。僕が首をかしげて、

「何?」

 尋ねると、ありすは顔を真っ赤にしてそっぽを向きながら、

「ど…どうしても、というなら…かわれてあげてもいいのよっ!?」

 ちらちらと僕の顔を見ながら、返事を待っているようだ。僕は苦笑しながら、

「じゃあ、どうしてもだよ」

 一瞬だけ、ありすの表情が輝いたように見えた。しかし、すぐに表情を戻すと僕に向かって凛とした声で言った。

「…あ、ありすはありすよっ!! ゆっくりしていってね!!!」

「ゆっくりしていってね」

 挨拶を返すという行為は後から知ったが、この時、僕は初めてゆっくりと挨拶を交わした。



二、

 部屋に戻り、ありすを紙袋の中からそっと取り出す。店員がやっていたのを見よう見まねで抱きかかえてみると、意外と重
くはなかった。

 ありすはきょろきょろと部屋の中を見回している。ぴょんぴょん飛び跳ねて、部屋の隅々まで探索を始めた。僕はその様子
を眺めていた。

 これまでの殺風景な部屋の中に、生き物(?)が一匹加わるだけで、こんなにも違う場所のように見えるものなのか。僕の
部屋ではるが、僕の部屋ではないような…ちょっとだけ不思議な感覚を覚えた。

 ちなみに僕はあまり部屋に物を置かないタイプだ。だから、同年代の同性と比べれば部屋の中は割に片付いているようにも
見える。

 探索を終えたありすが、ぴょんぴょんと飛び跳ねて僕の足元まで戻ってきた。

「とかいはなありすにはちょっとせまいけれど…なかなかきれいなおうちだわっ!!」

 褒められた。狭いとは言うが、ケージの中のほうがよっぽど狭かっただろうに。一つは文句を言わないと気が済まないタイ
プなのだろうか。ありすに見られないように、僕は小さく笑った。

「その…おにいさん………、で…いいのかしら…?」

 僕のことをなんと呼ぶべきなのか、わからないのだろう。そういえば自己紹介はしていない。僕はありすに自分の名前を告
げると、ありすはなぜか得意気な表情を浮かべて、

「ゆっ! おにいさんは、おにいさんよっ!!」

 まぁ、いいか。

 それにしても、さすがにお腹が空いた。いつもなら、職場から帰る途中にコンビニで晩御飯を買ってきたりするのだが、あ
りすを連れていたこともあり、寄ることができなかった。

 そういえば、ゆっくりは何を食べるのだろう。それとなく、ありすに尋ねてみると、

「そうね…。 ありすはいもむしさんがいちばんすきよ! つぎにちょうちょさん…おはなさん…。 くささんはすこしにが
くて、あまりすきじゃないわ」

 どれも揃えるのは無理そうだ。というより、僕自身すっかり忘れていた。ゆっくりを飼うのにゆっくりの食べ物を把握して
いなかったとか笑い話にもほどがある。衝動買いだったから仕方ないと言えば仕方ないのだが…。

「おにいさん…? ありすにもごはんさん…むーしゃむーしゃさせてもらえるのかしら…?」

 当然、そのつもりではある。しかし、先ほどのありすのリクエスト…。芋虫、蝶々、花。都会で手に入れるのはどれも難し
い。芋虫は触りたくないな。蝶々を素手で捕まえるのも無理そうだ。公園の花壇を荒らして逮捕されるのもよろしくない。さ
て、どうしたものか。

 ありすが少しそわそわし始めた。お腹が空いてきたのかも知れない。推測だが、ペットショップでも今ぐらいの時間に食事
を与えられていたはずだ。

 あまり気は進まなかったが、僕は冷蔵庫のドアを開けると中に入っていた蕎麦を取り出した。ありすに袋に入った蕎麦を見
せながら、

「これ…見たことあるかい?」

 尋ねてみると、ありすは顔を横に振った。ま、そうだろうな。

 僕は鍋に市販の蕎麦つゆを注ぐと、それに火をかけた。ありすは、ボッ!という音と共にゆらゆらと揺らめく火に視線を釘
づけにしていた。火、というものを初めて見たのだろう。ずりずりと僕の足元に寄ってくる。そして、僕のズボンの裾を咥え
て引っ張ると、

「おにいさん…ありすをもちあげてくれてもいいのよ…?」

 火が見たいなら、素直にそう言えばいいものを。僕はありすをひょいと抱えると、火が見える高さまで持ち上げた。ありす
は火を見つめながら、

「とかいはだわ…すごく、きれい…」

 動物は火を恐れるのではなかったかとも思ったが、もしかしたらゆっくりは動物の範疇に入っていないのかも知れない。あ
るいは、火という存在を知らないからこそ湧きあがった感情だろうか。

 そういえば、僕も子供の頃に仏壇の前でローソクについた火を綺麗だと思い、手で掬い取ろうとして火傷をしたことがある。
両親にこっぴどく叱られたっけ…。

 僕はありすに火がどういうものをかを教えた。ありすは半信半疑なのか、火をぼんやりと眺めたままに、

「あつくて…ゆっくりできない……。 こんなに…きれいなのに」

 呟く。

 そうこうしているうちに、鍋の中のつゆが沸騰を始めた。僕はありすを足下に降ろすと、蕎麦の入った袋の口を包丁で切っ
た。その中身をぽちゃぽちゃと鍋に入れて行く。ありすは僕の行動を不思議そうに見上げていた。

 狭い台所にありすがいるとさすがに邪魔なので、部屋の奥へと行ってもらうことにした。不服そうな表情を浮かべたが、あ
んよをずりずりと這わせて退散するありす。

 まず、自分用の食器に蕎麦を注いでいく。次にありすの分だが…。やはり浅い皿に入れなければ口が届かないだろう…。ゆ
っくり用の餌皿みたいなものも売っているのかも知れない。…もしかして、実はゆっくりフードなんてものもあるのではない
だろうか。今度の終末に探してみよう…。

「ありす…ご飯だよ」

 僕の声に部屋の中をうろうろしていたありすが、ゆっくりとこちらに向かってくる。ありすのあんよが止まった位置に、手
にしていた皿を降ろす。ありすは皿の中の蕎麦を不思議そうに見つめていた。

「これを…むーしゃむーしゃしても…いいのかしら?」

 僕が頷くと、ありすは皿の中に顔を突っ込んだ。のも束の間。

「ゆ゛う゛う゛っっ??!!!」

 すぐに皿から顔を出し、苦悶の表情を浮かべた。…しまった。出来たての蕎麦だ。熱くないわけがない。ありすが顔を真っ
赤にしながら僕のことを睨みつけている。

「…こ、このいなかものっ!!!! こんなのあつくてたべられないわっ!! ゆっくりりかいしてねっ!!!」

「ご…ごめん!本当にごめん!!そこまで考えてなかった…」

 最初に謝罪をしたのが効いたのか、ありすはそれ以上僕のことを怒りはしなかった。床に置かれた皿を持ち上げる。

「ちょ…ちょっとまってね!! だれもたべないなんて…いってないのよっ?!」

 食事を持って行かれるのかと勘違いしたありすが、慌てて僕に非難の声を飛ばす。僕は苦笑しながら、

「大丈夫だよ。少し冷ましてから…それから食べさせてあげるよ」

「…ゆっくり…りかいしたわ」

 半信半疑なのだろうか。ありすの口調が少しどもっている。

 僕はそんなありすをよそに、皿の中の蕎麦を箸で掬いながら満遍なく息を吹きかけた。ありすが僕を見上げて、

「おにいさん…? さっきから、ふーふー…って。 いったいなにをしているのかしら?」

 冷まし終わった蕎麦を食べさせてからありすの疑問に答えようと思っていたために、何も返事をしなかったら少しだけあり
すがふくれっ面になってしまった。

 再びありすの前に蕎麦の入った皿を置く。

「今度は大丈夫。食べてごらん」

 促されるままに、ありすがもう一度皿の中に顔を突っ込む。口の周りに蕎麦つゆがついているが、これは仕方ないだろう。
蕎麦つゆの中に浮かぶ麺を一本、口に咥える。

「ゆ…? …ゆぅ……?」

 麺を口の中に入れようとするが、すぐに切れてしまい思うように食べることができない。ようやく口にした蕎麦を咀嚼する
ありす。飲み込んだのを確認すると、

「どうだい?」

「むーしゃ、むーしゃ…。 …っ! …し、しあわせ…!!」

 ありすのオーバーリアクションに口元を緩める僕だったが、余程美味しかったのだろうか。蕎麦を食べるコツでも掴んだの
か、皿の中の蕎麦をぱくぱくと食べて行く。意外と器用なのか蕎麦の麺をずるずるとすすっている姿を見ると、人間と大差な
い生き物のように思えた。…顔しかない、っていうだけで明らかに別の生き物なのはわかるが。

「ちゅーるちゅーる…! むーしゃ、むーしゃ…しあわせえぇぇぇぇっ!!!」

 さっきから“むしゃむしゃ、しあわせ”って言ってるのはゆっくりにとっての定型句か何かなのだろうか。

 あっという間に蕎麦を食べ終えたありすは、嬉しそうな表情を必死に隠すような仕草をしながら、

「とってもとかいはなごはんさんねっ!! さいしょから、“ふーふー”してくれていたら、もっとよかったわ!!!」

 思わず苦笑した。

 やはり、何か一つは文句を言わないと気が済まないらしいな。まぁ、あれは正直僕が悪かったから何も言えないけど。

 それでも、満足げな表情を浮かべるありすに、僕の分の蕎麦も食べるかどうかを尋ねてみる。答えは意外なもので、ノーだ
った。遠慮でもしているのだろうか。訳を聞いてみると、

「あんまりいちどにたくさん、むーしゃむーしゃすると…その……」

 ありすが恥ずかしそうにもじもじし始める。僕が首をかしげているのに、気づくとありすは僕から視線を外して、

「その…ぅ……。 ぅんぅん…したくなっちゃうから…」

 小声で答える。

「うんうん、って何?」

 ありすから答えを教えてもらった後、僕はこういうところでデリカシーに欠け、それが彼女いない歴=年齢という負の遺産
を生み出しているのだろうなと理解した。

 ありすは、床の上でゆっくりしていた。床は冷たいだろうと、座布団を与えるとそれが気に入ったのか得意気な表情でそこ
から動こうとはしなかった。

 冷え切ってしまった蕎麦をすすり、食器の片付けを始める。それが終わったら、風呂に入らなくてはいけない。明日は休日
だから、ゆっくりを飼うための道具を揃えよう。どんなものがあるかはインターネットで調べればグーグル先生が答えてくれ
るさ。

 風呂から上がった僕は、テーブルの上のノートパソコンの電源を入れてネットの海に飛び込んだ。

 ありすはというと、例の場所から動かずテレビに映し出された映像を食い入るように見つめている。時折、首をかしげては
テレビの前に移動して画面に頬を押しあてたりしている。頬に伝う感触が固いテレビのモニターしかないため、怪訝そうな顔
をしている。

 僕はそんなありすの行動を眺めながら、検索をかけ始めた。

 さすが空前のゆっくりブーム…。ブームにあやかった商品が次々とヒットしていく。

 おうち。犬小屋のようなものらしい。ゆっくりは自分の巣のことを“おうち”というようだ。…まぁ、喋らないだけで他の
動物だって巣穴のことをそんな風に考えているかも知れないが。

 餌皿。まぁ、いつまでも僕の食器を使って食べさせるわけにもいかないしな。飼い主と飼いゆっくりの関係くらいはちゃん
としとかないと。

 ゆっくりフード。やはり、あったか。説明を読む限りではゆっくりはかなりの雑食だが、美味しい物を食べさせ続けると、
舌が肥えてしまい市販のフードを口にしなくなってしまうとの記述があった。

 あのありすに限ってそれはないように思ったが、“飼い主と飼いゆっくりの間に起こるトラブルナンバーワン”が、餌に関
係することらしい。フードを拒否し始めたゆっくりは、一度与えられた美味しいものをひたすら要求するようになる。飼いゆ
っくりとしての立場も理解せずに、飼い主に暴言を連発するようになる…とのことだ。

 代表的なセリフとしては、“はやくあまあまよこせ、くそじじい!!!”などが挙げられるようだ。

 確かに、ペットショップで見かけた連中はこのくらいのセリフは平気で口にするだろう。

 とにかく、購入すべきものは把握した。ありすを長い間、家の中で一人…一匹置いていくわけにはいかないから、迅速に行
動する必要がありそうだ。

 パソコンの電源を落とし、ベッドの中にもぐりこむ。ありすも眠そうな表情を浮かべていた。テレビを消すと、一瞬だけび
くっとしたが、すぐに僕のほうに振り向いた。

「暗いのは平気?」

「とかいはなありすは、そんなことぐらいじゃこわがったりしないわ」

 考えてみればペットショップにいた頃も電気は消されていたはずだしな。僕が電灯のスイッチに手を伸ばす。

「…おにいさんのかおがみえなくなってしまうのは…すこしさびしいけれど…」

「え?何か言ったかい?」

「な、なんでもないわっ!!!」

 部屋の中が真っ暗になった。目を閉じる。ありすが家に来たことですっかり忘れていたが、仕事でたまった疲れが一気に襲
ってきたのだろう。いつのまにか僕は深い眠りに落ちていた。

「…おにいさん…ありすをかってくれて…ほんとうにありがとう」



三、

 朝からありすは不機嫌そうな顔をしていた。理由はわからない。聞いても答えようとはしない。低血圧なのかも知れないな。
血液とかは流れてないみたいだけど。昨日の一件もあることだし、無闇やたらに質問するのはデリカシーに欠ける可能性があ
る。…多分。

「じゃあ、ありす。僕はこれから出かけてくるから…いい子にしとくんだよ?」

 玄関先から届いた僕の声に、ありすは表情から驚きと焦りを隠せないままにぴょんぴょん飛び跳ねてきた。

「お…おにいさ…」

「すぐ帰ってくるよ」

 ありすが何か言いたそうに口をぱくぱく動かしている。うーん。一匹でお留守番…っていうのは好きじゃないのかもな。実
家で飼っていた犬も、家族で出かけたりする時などはなんとも寂しそうな表情を浮かべるし。

 ありすの頭を撫でる。意識していなかったが、なかなか綺麗な髪だ。ペットショップで手入れでもしてもらっていたのだろ
うか。

「ゆ…ゆぅん…」

 頭を撫でられるのが心地よいのか、気持ちよさそうな表情を浮かべるありす。手を離すと、僕を少しだけ不満そうな顔で見
上げてきた。

「ありすもいっしょに、おでかけしたいわ…」

「ごめん。今回は諦めてくれ。今日はありすのご飯や“おうち”を買いに行くんだ。だから待ってて…ね?」

 小さな子供を諭すかのような口調でありすをなだめる。ありすはしばらく考え込んだあと、どうあっても一緒に行くことは
できないのだろうと理解したのか、僕をまっすぐ見つめながら、

「…ゆっくりしないで、はやくかえってきてね…っ!!」

「了解」

 僕はもう一度だけ、ありすの頭にぽんと手を置くと部屋の外に出た。玄関の扉を閉めるときも、最後の最後までありすは僕
を見続けていた。寂しがり屋なんだろうな、あのありすは。

「さて。寂しがり屋のお姫様を長い間放置しているわけにもいかないし、早く用事を済ませないとな」


 僕は足早に最寄のデパートへと歩き始めた。二月だというのに、今日は暖かい。ゆっくりに散歩をさせる必要があるのかは
分からないが、今度広い公園にでも連れて行ってみようか。…でも、ありすを抱えて歩くのは少し恥ずかしいかな。持ち運び
用のケージとか売ってないのだろうか。…ダメだダメだ。金銭的にそんな余裕はないはずだ。落ち着こう、僕。

 デパートに向かう途中でも何匹かの野良ゆっくりを見かけた。そんなに数は多くないが、やはりゆっくりの飼育に飽きた飼
い主が捨てているのだろうか。中にはペットショップから逃げ出してきた猛者もいるかも知れないが。

 ゆっくり飼育に関連するコーナーは、ペット用品コーナーの一画に存在していた。先ほど、考えていた持ち運び用のケージ
に入れられた、飼いゆっくりのまりさとその飼い主がおうち選びをしている。

「ゆゆっ! まりさはこのおうちがいいんだぜっ!! すごくゆっくりしてるのぜっ!!」

「でも、ちょっと高いわ。こっちにしない?」

「ゆぅ…」

「しょうがないわね…。これがいいのね?」

「おねえさん、だいすきなのぜっ!!!」

「はいはい。その代わり、ご飯の味は落ちるわよ。予算オーバーだからいつものゆっくりフードが買えないし」

「…ゆっくりりかいしたのぜ…」

 …なるほど、確かに。意思疎通ができるからこういうことも可能なわけだ。嬉しそうな顔のまりさを見ているとなんだかこ
っちまで楽しくなってくる。ありすをここに連れてきたら、あんな顔を見せてくれただろうか。

 いや、予算の都合上、ありすの希望を聞いてやれない可能性のほうが高いから連れてこなくて正解だったか。

 既に購入予定のものは、ネットで調査済みだったので買い物カゴにぽんぽんと投げ込んでいく。“おうち”は組み立て式の
簡単なものを選んだ。本来なら室内飼いなので、小屋はいらないかも知れないのだが…なんとなくだ。

 ゆっくりはなぜか自分だけの場所にこだわる…というのも聞いたことがある。テレビの受け売りだが、そういう場所の事を
“ゆっくりぷれいす”と呼び、他者の侵入を拒むらしい。…縄張り、みたいなものなのだろう。ゆっくりたちにとっての。

 そういう意味では、うちのありすにとってのゆっくりぷれいすは、あの座布団の上だろうか。今も、ありすが座布団の上で
動かずに僕を待っていると考えると、何故だか急にありすをかまってやりたくなった。

 会計を終わらせて、歩いてきた道を引き返す。自然と、歩調が速くなる。こんな感覚は久しぶりだ。少なくとも、都会に出
てきてからは、一度もこんな楽しい感情が湧いたことはない。

 ゆっくりも意外と馬鹿にできたもんじゃないのかも知れないな。アニマルセラピー…じゃなくて、ゆっくりセラピーとでも
言うべきか。

 途中、本屋に立ち寄り“ゆっくりの飼い方”という本を買った。暇を見て、読んでみよう。僕はまだゆっくりについてあま
りにも知らないことが多すぎる。


「ゆっくりおかえりなさいっ!!!」

 玄関の扉を開けると、ありすが出迎えてくれた。家を出てから二時間ほどが経過しているが、ありすの表情に疲れなどは見
えない。何故だか得意気な表情を浮かべている。それは僕も同じだった。早くありすに買ってきてものを見せてやりたい。

 荷物を両手に持ったまま、部屋の奥へと進む。

 思わず荷物を落としてしまった。絶句して一歩も動けないでいる僕に、ありすは嬉しそうに言葉を発した。

「おにいさんのおうちを、ありすがとかいはに“こーでぃねいと”してあげたわっ!!!」

 部屋の中を見回す。床中に散乱したティッシュペーパー。本棚に並べていた本も全て床にぶちまけられていた。ゴミ箱もひ
っくり返されて、中身が散らばっている。

「何を…やってんだよ…」

「なにって…おうちをとかいはに…」

「コーディネイトしたって言うのか!?部屋を散らかしただけじゃないかっ!!」

 ありすに向かって怒鳴りつける。おろおろしながら、ありすがぴょんぴょんと飛び跳ね寄ってくる。

「ありすはおへやをちらかしてなんかいないわっ!!」

「周りを見てみろ!!なんでこんなことをしたんだ!!」

 少しだけショックだった。ありすはいいゆっくりだ、って思っていたから。決めつけていたから。こんな悪戯はしないはず
と…そう考えていたから。昨日ここに来たばかりで、何を言ってるんだ…と思われるかも知れないが、僕はありすのことを信
頼していた。だから…裏切られたような気分になったのだ。裏切りという言葉を使うほど、同じ時間を過ごしていたわけでは
ないのを十分に承知の上で。

 ありすは涙目で僕を睨みつけていた。

「今すぐ片付けるんだ」

「…いやよ」

「理由を言ってみろ」

「…ありすは、なにもわるいことなんてしてないもの…っ!」

 ありすが小刻みに震えている。涙を流すまいと必死に堪えているのか、唇を噛み締めている。

「部屋を散らかすのは、悪いことだ。こんなのはコーディネイトなんて言わない」

「……っ!!!」

 無言のまま、その場を意地でも動こうとしないありす。既に溢れて流れ出した涙が頬を伝っている。泣いているつもりなど
ありすにはないのだろう。僕から視線を外したりしない。その瞳には、“絶対に自分は悪くない”という強い意思が見え隠れ
している。

 ありすは、折れる気はなさそうだ。だからと言って、僕も折れるわけにはいかない。ここでありすを許してしまったら、ま
た同じことを繰り返すかも知れない。

 僕と、ありすの視線が宙でぶつかる。

「……………」

「……………」

 僕は、ありすの頬を打った。ありすは、一瞬“信じられない”とでも言うような表情を浮かべたが、それでも僕から視線を
外そうとはしなかった。打たれた頬がほんのり赤く染まっている。少しだけ痛々しい。

 睨みつけたまま動かないありすの横を通り抜け、部屋の片づけを始めた。部屋の中に重苦しい空気が漂う。

 ゴミ箱を起こし、その中にゴミを入れて行く。

 ありすは、無言で僕の行動を見ていた。

 床に散らばったティッシュをかき集め、用意した大きなゴミ袋に入れていく。

「………っ!」

 ありすが、一瞬だけあんよを動かしたが、僕の所まではこない。ため息をついて、片づけの続きを始める。ベッド付近に集
中して集まっている本に手をかけようとすると、ありすが僕の目の前までやってきた。

「ま、まって…っ!!」

「…何だよ…」

「それをうごかさないで…」

「どうしてだよ?」

 ありすは、一呼吸置くと、僕をまっすぐに見上げて言った。

「ありすは……ここにはのぼれないから…っ!! それだと、おにいさんといっしょにすーやすーやできないから…っ!」

 手を止める。ここ…っていうのは、ベッドのことだろう。もしかして、この本は…ベッドに上がるための階段の役割をする
予定だったのだろうか。

 涙で濡れたありすの瞳を見つめる。嘘はついていないようだ。

「ありす…にんげんさんにつれてこられるまでは、おかあさんやいもうとたちといっしょにすーやすーやして…それで…っ!」

「…………」

 今度は僕が“信じられない”とでも言うような表情を浮かべる。改めて、部屋の中を見渡す。片付けてしまったから今はな
いが、床を埋めるように散らばっていたティッシュ。本はベッドの傍にしか置かれていない。ゴミ箱は、座布団のすぐ横に置
いてあった。

 もしかして、ありすにとっては意味のある“配置”だったのだろうか。

 ありすがぼろぼろ涙をこぼしながら、それでも凛とした表情と口調で、

「ありすの…あんよが…つめたかったから…。 おにいさんのあんよも、つめたいだろうとおもって…!」

 …そうだ。だから、僕は座布団を与えた。ありすはその場所から動かなかった。夜の床は、確かに冷たい。ありすは、同じ
感覚を僕が抱いていると考えて…“僕のために”、僕の足が冷たくならないように…ティッシュを“敷き詰めた”とでも言う
のだろうか。

「…じゃあ、これは…?」

 ゴミ箱を指さして僕が尋ねる。ありすは、

「……もし…どうしても、うんうんがしたくなったとき…おにいさんのおへやをよごすわけにはいかないから…っ!!!」

 僕は思わず、ありすを抱き上げて抱きしめた。

「お…おにいさ…っ!!!」

「ごめん」

「ゆっ?」

「ごめん…ありす。本当にごめん」

 僕の腕を、ありすの温かい涙が伝って行く。

 僕は、何も理解しようとはしていなかった。ありすの取った行動を、勝手に意味がないと決めつけて…怒鳴りつけて、あま
つさえ手まで上げてしまった。最初から、“散らかしてなどいない”と主張していたのに、僕はそれを聞き入れなかった。

 悔しかったんだろう。

 悲しかったんだろう。

 “僕とありすがこの部屋で快適に過ごすために施したコーディネイト”を頭から否定されて。

 僕に、わかってほしかったんだろう。自分の意図を。

「気づいてあげられなくて…ごめん。痛かっただろう?」

 そう言って、僕は自分が叩いたありすの頬にそっと手を当てた。ありすは、涙目のまま、

「…とかいはなありすは、これぐらいのことでないたりしないわっ!!」

 僕はありすの頬を伝う涙を人差し指でそっと拭うと、

「そうだね」

 微笑んで、もう一度だけありすを抱きしめた。ありすがどんな表情を浮かべているのか僕の位置からは見えない。

「おにいさん…ありすも…ごめんなさい…」

「…え?」

「かってに…“こーでぃねいと”してしまって…。 ありすも…すこしだけ、ほんのすこしだけ…とかいはじゃなかったわ…」

「いや、ありすは都会派だよ」

「…おにいさんも、その…とかいはよっ!」

「ありがとう…ありす」


 ありすがそう言ってくれたのは、嬉しい。けれど、やはり僕は田舎者だ。

 何かを変えようと思って都会に出てきたはいいけれど、結局“あの頃”から何も変わっていない…田舎者のまま。

 …僕は、僕を認めてくれなかった父から、逃げることしかできなかった。

 でも、ありすは違った。

 ありすは、逃げずに僕に立ち向かってきた。最後の最後まで。

 僕は、どうしたかったのだろうか。

 立ち向かうこともせずに…。向き合おうともせずに。

 僕も。

 なれるだろうか。…都会派な、僕に。



四、

 床には、押し入れの奥に眠っていた絨毯を敷いた。座布団のすぐ隣には、ありすの“おうち”が鎮座している。あれから新
たにゆっくり用のトイレシートを購入し、“おうち”の後ろに置いてやった。あまり、使うことはないようだが。

 “ゆっくりの飼い方”によると、食事も水も過剰摂取さえしなければ、うんうんもしーしーもすることはないらしい。あり
すはその辺りの見極めが上手いのか、性格上、暴飲暴食をしないからか。とにかく、トイレ関係で問題が起きることは一度も
なかった。

 餌皿にもでかでかと、“ありす”という文字を書いてやった。別に書かなくてもいいと言えばいいのだが…うん。親心、っ
てやつだと思ってもらえれば幸いだ。

 ゆっくりフードについてもありすから不満の声が漏れることはなかった。ペットショップでいつも食べていたものと同じだ
ったらしい。

 都会派なコーディネイトの一件のお詫びとして、ありすに好きなものを一つだけ食べさせてあげる約束をした。

「ゆゆっ! それじゃあ、ありすは…“おそばさん”がたべたいわっ!!!」

 初めて僕の家で食べた蕎麦の味が忘れられないらしい。僕はその日のうちに買ってきた市販の蕎麦と蕎麦つゆを使ってあり
すに与えたが、

「ゆ…? おにいさん…ありすがたべたい“おそばさん”はこれとはちがうわ…」

「え…?」

「この“おそばさん”もおいしいけれど…あのときたべた、とかいはなあじではないようなきがするの…」

 鋭い。

 あの蕎麦は、僕の実家から送られてきたものだ。僕の実家は、県内でも有名な手打ち蕎麦の店だ。父に弟子入りするために、
県外から蕎麦打ち職人を目指す若者がやってくるほどに。

 実家の宣伝をするわけではないが、そんじょそこらの蕎麦とはわけが違う。その味の違いは、ゆっくりであるありすにも、
はっきりとわかるものだったのだろうか。

 自家製栽培の蕎麦を使い、つなぎの小麦粉を一切せずに蕎麦粉のみで麺を打つ、いわゆる十割蕎麦。生粉打ち蕎麦とも言う。

 ちなみに蕎麦粉とつなぎに使用する小麦粉などの配合割合で名称が変わり、小麦粉二割と蕎麦粉八割で打たれた蕎麦を二八
蕎麦。他にも、九割蕎麦、七割蕎麦…と続いて行く。

 十割蕎麦はつなぎを用いた蕎麦よりも切れやすい。自家製栽培の蕎麦の味を百パーセント引き出すには、小麦粉などを配合
せずに蕎麦を打ったほうが良いのだ。

 しかし、つなぎを用いなかった場合、蕎麦粉を練るのが難しくなる。

 手打ち蕎麦の場合、蕎麦粉をこね鉢と呼ばれる木製の鉢に入れ、水を加えて練り上げる。つなぎの小麦粉がない分、練り上
げた蕎麦粉に形を保たせるのが困難になるのだ。

 練り上げた蕎麦粉は麺棒を使って薄く延ばされていく。このとき、しっかりと打ち粉(蕎麦粉と同じもの)をしなければ、
板の上に蕎麦粉がくっついてしまい、延ばして行く過程でちぎれてしまう。そうなれば失敗だ。十割蕎麦の場合、ちぎれてし
まう可能性が高まる。

 父は、自身の作り上げた蕎麦つゆと麺を絡ませて最高の味を引き出すためには十割蕎麦でなければならないと言っていた。

 ありすに食べさせた蕎麦つゆは市販のものであるから、あの麺本来の味を引き出すことはできなかったはずだ。

 僕も、小さな頃から食べつけていた“父の蕎麦”の味と重ねてしまうから、麺だけ送られてきても市販のつゆを使うのが嫌
で、あまり積極的に食べようとはしない。それは、父への冒涜のようにも思えた。

 僕は、何度か父の指導のもとで、蕎麦を打ったことがある。結果は散々だった。

 父の作る蕎麦の味が好きだったから、それに近づきたいと願っても、技術が気持ちに追い付かない。当たり前だ。蕎麦粉を
練るには三年の修行が必要と言う。それを延ばすのに三カ月…。延ばした蕎麦粉を切って麺を作るのに、三日。

 一朝一夕でできるようになるものではない、ということを十分理解してはいたのだが、僕は父の修行に耐えられずに周囲の
反対を押し切って都会に逃げ込んだのだ。

「…おにいさん?」

 考え込んでいた僕にありすが声をかける。現実に引き戻されるような感覚を覚えた。

「あ…ああ。あの蕎麦は、僕の父さんが作った蕎麦なんだ。ありすの言うとおり、店で買ってきた蕎麦とは確かに違うよ」

「ゆゆっ?! とかいはじゃないわねっ! ありすをごまかそうとするなんて…っ!!」

「そんなつもりはないんだ…。ただ…」

 あの蕎麦は母が、父には内緒で送ってきてくれているものだ。なんとなく、僕の方から送ってもらうようには言いづらい。
一度は自分の意思で“父の蕎麦”から逃げ出したくせに、自分からは歩み寄ろうとはせずに、蕎麦だけ送ってきてもらうなん
て都合のいい話はないように思う。

「それじゃあ、おにいさんがありすに“おそばさん”をつくってちょうだいっ!!!」

 ありすの言葉が僕の胸の深い場所を打ち付ける。

 僕が…作る?蕎麦を…?

「おにいさんのおとうさんにできて、おにいさんができないはずなんてないとおもうわっ!!」

 手の平が、一瞬熱くなるのを感じた。かすかに残る感覚が少しずつ手の平に、指に…湧き上がってくる。体は、忘れてはい
なかったのだろうか。蕎麦の…打ち方を。

 ありすが僕をじっと見つめている。

“お兄さんのお父さんにできて、お兄さんが出来ないはずなんてないと思うわ”

 忘れていた、あるいは閉じ込めていた感情が心の奥底から染み出してくるのを感じた。

 打ってみよう。もう一度、蕎麦を。

「…わかった」

「とかいはだわっ!! おにいさんっ!!」

「でも…味には期待するなよ?多分、この間ありすが食べた蕎麦の味とは…違う味になると思うから」

「ゆっくりりかいしたわっ!」

 僕はありすに留守番をするように言って、またデパートへと向かった。一歩、一歩と足を踏み出すたびに、これまで都会の
喧騒に飲み込まれて聞こえなかった、自分の胸の鼓動が今日は聞こえたような気がした。

 デパートの中で、“蕎麦打ちセット”なるものを発見した。家庭でも手軽に手打ち蕎麦を作ることができるのをコンセプト
にしているようだ。

(…蕎麦は道具で打つんじゃねぇ。気持ちで打つもんだ)

 子供の頃に、父に言われた言葉を胸の中でつぶやく。どうせ、今の僕の力では実家にあるような本格的な道具を使いこなす
ことなんてできない。

 蕎麦打ちセットを買ったあとは、食品売り場に移動して、蕎麦粉と小麦粉を買った。恐らく僕に十割蕎麦なんて打てない。
持てる力以上の物を出しても、二八蕎麦が限界だろう。その時点で、ありすの求めた蕎麦の味とは異なるかも知れないが、僕
は、僕の打った蕎麦をありすに食べてもらいたかった。

 気がつけば、僕は走っていた。

 デパートの袋と、蕎麦打ちセットの箱を抱えて。道行く人々が僕を見ては苦笑している。あまり、気にはならなかった。

 今から、三年ぶりに蕎麦を打つ。頭の中にはそれしかなかった。


 玄関のドアを勢いよく開けて、部屋の中に入っていく。

 ありすは、座布団の上でゆっくりしていたが、すぐに僕の元へとぴょんぴょん飛び跳ねてきた。

「おにいさんっ!!」

「もう少しだけ待ってくれないかい?今から、蕎麦を打つから」

「おにいさんが、“おそばさん”をつくるところ…。 ありすもみてていいかしら…?」

「うん、いいよ」

「ゆっくりありがとうっ!!」

 蕎麦打ちセットの箱の中から、道具を取り出す。

 こね鉢。木製の台。麺棒。小間板。蕎麦切り包丁。

 全体的にサイズは小さいが、実家に置いてある道具と同じものばかりだ。僕は、袖をまくりあげて手を洗うと、小麦粉と
蕎麦粉を二対八の割合でこね鉢に入れた。更にコップ一杯分の水を入れる。水の量は練る途中の蕎麦粉の状態を見て、随時
足していく。

 一呼吸置いて、僕は両手をこね鉢の中に突っ込んで、蕎麦粉と小麦粉を混ぜ合わせ始めた。感覚としては粘土遊びに近い。

 固くなりすぎず。柔らかくなりすぎず。力加減と水でそれを調整していく。目安は耳たぶと同じ柔らかさと言われる。

 全体重をかけて、蕎麦粉を練っていく。地味だが、この作業は本当に力がいる。手の平に伝わる感覚を頼りに、蕎麦粉を
練り上げる。一度に多くの蕎麦粉を打つことはできない。練り上げた蕎麦粉は硬式野球のボールぐらいの大きさにしかなら
なかった。

 今度は、木製の台を取り出し、蕎麦粉を軽く振りかける。打ち粉、だ。打ち粉を台の上に満遍なく広げてなじませ、その
上に練った蕎麦粉を置いて、麺棒を使い延ばして行く。

 父は、この蕎麦粉が薄く、しかも綺麗な四角になるように素早く延ばして行く。それに倣い、僕も、四角になるように延
ばそうとするがなかなか上手くいかない。

 引き延ばす方向を変える際にも、打ち粉を打たないと蕎麦粉の向きを変える過程でちぎれてしまう可能性がある。

 僕は、台の上の蕎麦粉と、打ち粉、麺棒にしか目が行ってなかった。

 すぐ横で僕の手の動きを楽しそうに見ているありすにも、気がつかないほどに集中していた。こんなに集中して何かをし
たことが、都会に出てきてからあっただろうか。

 引き延ばした蕎麦粉の上に更に打ち粉を打って、今度はそれを折り曲げて行く。やはり正方形に近い形にすることができ
なかったためか、少し不格好だ。客に出せるような綺麗な麺は、これでは切ることができないだろう。

 折り曲げ終わった蕎麦粉の上に左手で小間板を当てる。小間板とは定規のようなものだ。蕎麦をまっすぐに、一定の太さ
で切るための補助をする道具。右手には蕎麦切り包丁を持ち、小間板に沿って蕎麦粉を切る。切った際、蕎麦切り包丁を傾
けることで小間板をずらし、それによって太さを調節していくのだ。

 父はこれをすごい早さで行う。右手と左手が、まるで一本の手のように麺を切りだして行く。

 僕にそんな技術はない。一本、一本、正確に切っていくので精一杯だ。

 なんとか切り終えた。後は、これを茹で上げるだけだ。つなぎを用いて打っているためか、麺をざるに移す際にも麺がち
ぎれてしまうことはなかった。

 ありすは、ようやく自分がこの間食べた蕎麦と同じ形のものが出来上がったことが嬉しかったのか、

「ゆゆっ! おにーさんっ!! こんどはちゃんと“ふーふー”してからたべさせてねっ!!」

「任せといてくれ」

 鍋に火をかける。相変わらず市販の蕎麦つゆを加熱していく。同時に、鍋をもう一つ取り出して注いだ水を沸騰させてい
く。僕はその中に出来たての蕎麦の麺をぽちゃぽちゃと投げ込んでいった。

 頃合いを見て、茹であがった麺を取り出し、再びざるにうつす。それを手早く流水で洗い流す。その際に何本かの麺がち
ぎれてしまった。二八蕎麦でこのありさまでは、十割蕎麦を作るときには蕎麦と呼べるようなものではなくなってしまって
いるかも知れない。

 僕は熱した蕎麦つゆの中に茹であがったばかりの麺を加える。

 そして、ようやく完成した蕎麦をありすの餌皿に移し、十分に息を吹きかけて冷ました後、

「さぁ、ありす。食べてみてくれ」

「ゆゆっ!! とかいはなにおいがするわねっ!!」

 ありすの前に餌皿を置く。ほんのりと湯気が立っているが、熱いということはないだろう。ありすがあんよをずりずりと
餌皿の前へと這わせる。

 僕は少し緊張していた。冷や汗が背中を伝うのがわかった。ありすが餌皿に顔をつけて、

「ちゅーる…ちゅーる…っ! むーしゃ、むーしゃ…」

「……………」

 僕はありすを凝視するように見つめていた。美味しいと思ってくれるだろうか。僕の打った蕎麦は美味しいだろうか。あ
りす。それを僕に教えてほしい。

「しあわせええぇぇぇぇっ!!!」

 ありすが表情を輝かせて叫ぶ。途端に、僕は力が抜けてしまい、その場に膝をついてしまった。

「むーしゃ、むーしゃ…」

 美味しそうに僕の作った蕎麦を食べているありすを見ていると、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。子供の頃、父が言っ
ていた。

“俺たち蕎麦職人が毎日蕎麦を打てるのはな…客の美味そうな顔を見るのが嬉しくて仕方がねぇからなんだよ”

 今なら、少しだけ父の言葉の意味がわかる。美味しそうに僕の作った蕎麦を食べてくれるありすを見ていると胸の奥が熱
くなる、…こんなにも胸の奥が熱くなるものだろうか。

 僕が様々なことを考えている間に、ありすは完食してしまった。

「おにいさんっ!! とかいはな“おそばさん”だったわっ!! またつくってくれてもいいのよっ?」

 気が付いたら、僕は泣いていた。

「お…おにいさん…っ? ありす…なにかわるいことをいったかしら…っ?」

 無言で首を横に振る僕。

「違う…違うんだよ、ありす…。…ありがとう、本当に…ありがとう…」

「ゆ? ゆゆゆ…?」

 僕がどうしたいか、どうしたかったのか。その答えをありすが教えてくれた。

 帰ろう。実家に。森と畑と水田に囲まれた…あの田舎に。

 僕が本当に都会派な僕になるために。

 海底を、蹴った。目指すのは、光の差し込む水面の向こう側。水面から顔を出した時、違う世界が見えるだろうか。

 そんなことはわからない。わからないけれど。目指すべき場所だけははっきりした。

 行こう。その場所へ。

 向き合おう。僕自身の過去と。







 後編へ続く



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感想

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  • 虐待が多い中ですごい、感動できる -- 2016-01-10 21:53:03
  • ↓げすでいぶとげすまりさの番から善良な希少種が生まれるくらい珍しいことだな -- 2012-04-10 23:19:18
  • ↓何事にも例外はある。きっと例外中の例外なんだろう。 -- 2010-06-30 22:14:03
  • こんなアリスが200円で売っていたら世の中どうなるんだ -- 2010-06-20 02:23:50
最終更新:2010年03月14日 09:45
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