数日前になるか。
珍しいメールが届いた。
うちへ就職しないか……という、言ってみればスカウトだろうか? いや、スカウト
なんてのは、言い過ぎか。それでも平凡に暮らしている限りは、早々お目にかかれない
類の、珍しい内容だと思う。
特に知り合いでもない人から、コネがあるわけでもない職場へと、面接に来てみない
かという誘いなんて、いくら願ったところで有りはしないだろう。
無職のまま、ずいぶんと長い日を送っていた私にとっては、こちらから頼んででも雇
ってもらうべきなのかもしれないが……
未だ、返事は出せないままだ。
理由は、私が“虐待お兄さん”と呼ばれるような類の人間だからだ。
メールは東京特定生物研究所というところからのもので、そこに務める所員が個人的
に送ってきたものらしい。
東京特定生物研究所は、大昔には別の名称で、関東平野の野生生物の分布状況を観測
ことなどを目的とした施設だったそうだが、現在は“ゆっくり”という、生物なのかも
定かではないモノを研究しているところだ。
どうやら「特定生物研究所」は、全国にいくつか点在しているらしい。
動く饅頭を弄くり回す所という意味でなのか、「加工所」と呼ぶ者もいる。
驚いたのは、その研究所は自治体……つまり、東京都が運営と管理に関わっていると
いうことだ。
今時珍しい半官半民の施設だけあって存続はしてこられたが、昨今は予算が削減され、
他のスポンサーからの出資額も減り、結果として給料も安くなって、辞める人間も多い
らしい。
そして、解雇される人間も少なからずいる……と、聞いた。研究する場所、そのため
に管理し育成すべきモノを無為に殺傷すれば、当然責任を取らされるし、適任ではない
とクビにもされる。
あくまで聞いた話なのだが、解雇される者は、いわゆる“虐待お兄さん”と呼ばれる
手合いが多いのだとか。
簡単に言ってしまえば、ゆっくりを虐めることを好む男。可愛いからこそという者も
いれば、嫌いだからという者もいる。理由などないと断言する者もいる。
この“虐待お兄さん”という呼称は、しばらく前から言われ始め、あっという間に広
まった。
私自身には別段、ゆっくりに対して好悪の感情は無かった。ただ、さんざん虐待お兄
さんではないかと、ある時はからかわれたり、ある時は本当に疑われたりを繰り返して
いたので、「だったら本当になってやろう」と思ったのだ。
虐待お兄さんではないか、と言われる理由は、シンプルかつ馬鹿馬鹿しいものだ。
『逆代(さかしろ)』という姓であり、弟が一人いる。
姓を音読すれば『ぎゃくたい』となり、弟がいるので私は『おにいさん』なわけだ。
ただ、それだけのこと。
私自身は養子であり、戸籍上は弟こそが嫡男であるのだが、その辺りの細かいことは
どうでもいいらしい。ごくごく単純な、印象だけから来る偏見。それが始まりだ。
「なってやろう」と思ったところで、単純に虐待をしても私には面白味が感じられな
かった。そこで、不思議の塊のようなゆっくりに対して、実験まがいのことを続けてき
たのだ。
そして知り得たことをレポートに纏め、せっかく纏めたのだから誰かに見て欲しいと
いう欲求も湧いてきて、レポートを研究所へと一方的に郵送していた。
迷惑な話だったろうに、どうやら私が提出していたレポートに目を通してくれていた
らしい。
かなりの量のレポートを送り続けた。そのことを、まるで嫌がらせのようだと自分で
も思い、そろそろやめるべきかと反省していたところで、メールが届いたのである。
いい加減、職に就きたい。我が侭を言わなければ、就職先が一つあるのだが……そこ
は、出来れば避けたい。
早く定職を得て、育ててくれた義父義母を安心させるべきなのだ。気を遣う種が一つ
減れば、今は楽隠居の身の二人も、いよいよ気楽に過ごしていけるだろう。
渡りに船なのだ。
それでも、迷っている。
虐待お兄さんが、加工所──特定生物研究所に勤めたところで、早々にクビとなるに
決まっている。
そういう、世間の噂を信じていたからだ。
「ゆひぃ~っ! ゆひぃ~っ! ゆひぃ~っ!」
レポートを纏め終え、研究所へ送ろうかというところで、手が止まる。
新しい疑問点が生じた以上は、このレポートは未完成なままだ。人に見せるような物
じゃない。
いや。
そもそもが、せっかく送ってくれたメールに対して、返信もしていないのだ。
呼びかけに対する返答もまともに出来ないようでは、ゆっくり並ではないか。
「ゆへ~え……ゆへ~え……ゆへ~え……」
見れば、追いかけっこは終了したようだ。結果は、苦しさに耐えて逃げ続けたまりさ
が生き残り、ありすはグズグズに自壊していた。
「ゆっ……ゆぐっ……ず……ずっぎりぃ……!」
「ゆひぃいいいいっ!?」
ホットケーキミックスの皮だけでなく、自身本来の皮もグズグズになりかけている状
態でも、ありすはまだ生きているらしい。そして、まだ高まった性欲も冷めてはいない
ようだ。
よく見れば、最初にホットケーキミックスをかぶせる際に傷つけた部分を中心にして、
ふやけて崩れかけている。自身の粘液でも、多すぎればふやけて皮が脆くなることは間
違いなさそうだが、傷がなければ崩れるほどでもなかったのだろうか。
金属トレイを手に、グズグズになったありす、そのありすから剥がれ落ちたホットケ
ーキミックスの皮、一緒に外れ落ちたらしいカチューシャ、と順に取り上げ、トレイに
乗せていく。
「よく頑張ったな、まりさ」
「お……おにいさぁあぁあぁん……!」
「私の方も、やるべきことが一段落付いた。この気持ち悪いのは……」
「ゆっ……! ずっ……ぎり……ざぜろぉおお……!」
「これから私が、処分しよう」
一通り回収するとテーブルを拭き清め、まりさに寛いでいるように言い置いて、剥が
れ落ちた皮から確認していく。突き崩し、念入りに観察すると、あちこちに半生のまま
らしい生地が散見された。どうやら、リボンヒーターによる加熱だけでは、火が通りき
っていなかったようだ。
しかし、あれ以上の温度だと、それこそ焼け死ぬか蒸し殺すことになるか、いずれに
しろ死なせてしまうだろう。まりさの時のように、多少は熱を通した状態で貼り付けて
いった方がよかっただろうか。
続いて、ありす自身を調べていく。
鋭利なメスを手に取り、ありすの後頭部へと突き入れ、上から下へと切り下ろす。
「ゅぎゃぁああああああ!?」
「ゆびぁあああああああ!?」
ありすが悲鳴を上げると、その悲鳴に驚いて驚いたまりさが、泣き叫びながらテーブ
ルの隅まで後ずさる。
縦に走った切れ目のすぐ横に、もう一度メスを滑り込ませて、ありすの後頭部から皮
を切り取る。ちょうど林檎のくし切りを、極薄にしたような感じだ。
「ゆぐぁあぁあぁあ!? いだいぃいい!? ひぎゃっ! ひぎゃうぅううん!」
「ゆわぁああ!! おにいさん!? おにいさぁん!? なにしてるのぉお!?」
「静かにしていろ」
「ゆっ……!」
「な゛に゛い゛って゛る゛の゛ぉ゛お゛お゛!? ありすに ひどいことする じじいは
じねばいぃだだだだだだだだだ! じぬぅう! あでぃずじんじゃうぅう!」
私の一言で、まりさはすぐに静かになったが、ありすの方はますます騒がしくなった。
自壊し、死にかけていたようにしか見えなかったが、声を張り上げる元気はあったらし
い。
これで暴れ回られると、すぐに後頭部の傷口が大きく裂けて中身を溢れさせて死なれ
てしまうのだが……それだけの体力は残っていないのか、叫び、震えるばかりで、大き
く動こうとはしなかった。
「ジッとしていることだ。動けば、死ぬことになる」
「しぬのはあんだのぼぅあいだだだぁああっ! いだいのぉおお! だずげでぇええ!」
「おにいさんの いうことは、ほんとうなんだよ! しぬって ゆったら、しぬんだよ!
おまえなんかしんじゃえ!」
「まりさぁああ! なんてことを いうぃあはああ! いっ、いだいぃぃ……!」
叫ぶほどに、皮を切り取られ閉じることもない後頭部の傷が痛むだろうに、そのこと
を一向に理解せず、何度も怒鳴り声をあげ、何度も苦痛の悲鳴を上げる。
試したかったことは一段落したし、新たな疑問は別の個体で一から試していくべきだ
ろうから、今ここでありすに死なれても、こちらとしては全く問題ない。
「じねぇえええ! あでぃずに ごんなごどずる じじいは、じんでしまえぇえええ!」
「忠告を無視して死ぬ気なら、勝手にすればいい」
「じぬのは あんだのぅほぁいだだだだだだだ!」
ねとねととした粘液に汚れたカチューシャを、ありすの頭の上へと返してやる。大切
な飾りが戻ってくれば落ち着くかと思ったのだが、どうも逆効果だったらしく余計に騒
ぎ出した。
「あ、ありすの“とかいは”な かちゅーしゃ! あんたが とってたのね、このどろぼ
ぅいづだだだだだ!」
「ゆ……ゆゆゆ?」
とりあえず放っておくことにして、観察を再開する。ありすから切り取った皮の断面
を確認すると、うっすらとではあるが層が出来上がっているのが見て取れた。
外面に近い方が細かな気泡も多く、色もいくらかくすんでいるが、内面に出来ている
層はしっとりと滑らかであり、色も鮮やかだ。ちょうど、古い皮膚の下で産まれた、新
しい皮膚のようにも見えるが……
「粘液による外皮の自壊は、通常でも起こっているということか? その分を、新しい
皮を作り出すことによって補っていると……」
「はやぐ ありすの けが、なおしなさいよぉおお! いだいっでいっでるでしょぉお!」
「ゆぁ……? も、もしかして……」
ゆっくりの交尾には、大きく分けて二種類がある。
一体が前下部の穴を外部へと隆起させて生殖体勢としたものを、もう一体の前下部の
穴へと──ゆっくり達が呼称するところの、“ぺにぺに”を“まむまむ”へと──挿入
する、人間を初めとする複数の動物で見られる交尾と似た方式が一つ。
もう一つは、それよりもずっとシンプルで、粘液に塗れたお互いの体を擦り合わせる
というものだ。
生殖器のようなものを使う方式での交尾でも、その体表全体が粘液に塗れているし、
ぺにぺにとゆっくり達が呼称する器官はあまりに小さいので、必然的に体全体を擦り合
わせるような運動にもなるから、器官を使用する場合も、擦り合わせる方式の延長線、
あるいは発展形と考えられなくもない。
「も……もしかして……あ、ありす おねえちゃん……なの……?」
「なに いっでるのぉおお!? さいしょから、ありすだってぁはいだぁああああ!」
だが、子を為す形も、大きく分ければ二つの形態がある。
主流とされ、比較的多く確認されているのは、前頭部に茎を生やして実のように子を
為す『植物型』と呼ばれるものだ。
だが、体内で子を一定期間育成する『胎生型』と呼ばれる形態も、実際に確認されて
いる。
この、それぞれ二種類ある交尾の方式と妊娠の形態に関連があるのかどうかは、少な
くとも自分が知る限りでは情報がないはずだ。
饅頭のような存在が子を為す、と言う段階でデタラメだから、誰も突き詰めて考えな
かったのだろうか。仮に調べようとしても、どちらの方式も粘液に濡れた体表が擦れ合
う以上は、判別もなかなかに難しそうだ。
しかし、因果関係があるのだとしたら……
「お、おにいさん!? おにいさぁあああん!!」
「うるさいぞ、静かにしていろ」
「ゆっ……!」
ゆっくりも、観測する限りで言えば親の形質を何らかの形で受け継ぐのだ。
たとえば、粘液で外皮を脆くし、柔らかくなった交尾相手のそれを取り込むことで、
双方の形質を子へと受け継がせているのだとしたら。
その場合、外皮表面からの因子吸収の結果、外皮側での子の生成がなされ、植物型の
次世代形成へと繋がると考えられないだろうか。
ならば胎生型の次世代形成は、因子が体内で吸収・配合されるものが大きい場合──
つまり、生殖器型の交尾によるものであり、かつ、外皮による因子吸収が少ない場合に
行われると考えられる。
それならば、ゆっくりが子を為す場合の主流が植物型だと思われていること、植物型
の方が多く確認されていることにも説明がつくが……
「仮定にすぎないな。これも、いずれ確かめてみるべきか」
「ぶつぶつ いってないでぃだいぃいいい! いだいのよぉおおお! はやく ありすを
なんとかしなさいよぉおおお!」
「ああ、そうだったな。さっさと処分した方が良いか」
「しょぶん? しょぶぅはいたぁああ! それで いいがら! はやく ありすの けがを
なおじでぇえええ!! もとの“とかいは”な び ゆっくりに もどしでぇえ!」
「お、おにいさん……もしかして、この ありすは……ありす おねえちゃん なの?」
ホットケーキミックスによる“作られた外皮”が剥がれ落ち、粘液に塗れてはいるが
元のサイズへと戻り、カチューシャも付け……
そこでようやく、まりさは姉のことを真実『姉である』と認識できたようだ。
テーブルの隅から、ありすの側へ駆け寄り、右に左にと移動しながら確認を繰り返し
ている。
「最初から、そう言っているだろう」
「そうよぉおお! さいしょから、ありすは ありすだって いってたでしょぉお!」
「だ、だって! いってたのは ぶくぶくの ぼこぼこで、きもちわるいやつだったよ!」
「私も、最初から言っていたはずだが」
「ゆ……?」
「今日は、ずっと離れ離れだったお姉さんに会わせてやろう……と」
「ゆ……? ゆぁあっ! そ、そうだった……! ……かも?」
「じじいが なんて いってたか なんて、どうでも いいわよ! それよりも、ゆっくり
しないで、さっさと ありすを……!」
「それに、こうも言ったな。この気持ち悪いのは、私が処分する……と」
「ゆ……!」
「しょぶん とか どうでもいいから! はやく ありすの けがを……!」
「まりさも言ったはずだな、こいつに。お前なんか、死んでしまえと」
「ゆあっ! だ、だって、それは……それは、きもちわるいのに ゆっただけで……」
「まりさは、知っているはずだな。処分とは何か……お前の親達が、姉達が、どうなっ
たのか」
「ゆぁああ……ま、まってね! それは おねえちゃんだよ! まりさの おねえちゃん
なんだよ! ありす おねえちゃんなんだよ! まりさ、まちがってたんだよ!」
「私は、最初からそう言っていた」
「そ、そうだけど……しょぶん、やめてね! やめてあげてね!」
「駄目だ。こいつは私の言うことを、何一つ聞かなかったのだから」
「おねえちゃん、あやまってねっ! ゆっくりしないで、おにいさんに あやまってね!
はやく あやまらないと、ゆっくりできなくなるよ!」
「あやまるのは じじいの ほうでしょう! ありすは けがが いたくて、ゆっくりでき
ないわよ! ありすを ゆっくりできなくした じじいは、しになさいっ!」
「ゆぁああ! やめてね! あやまってね! そ、そんなこと ゆったら、おにいさんに
ころされちゃうよ! しょぶんって、ころしちゃうってことなんだよ!」
「こんな じじいは、あとで ありすが すぐに ころしてあげるわ! だから じじいは、
ゆっくりしないで さっさと ありすの けがを なおして、“とかいは”な び ゆっくり
に もどしなさい!」
再びメスを取り、ありすのすぐ後ろ……まりさからよく見える位置で、ゆらゆらと揺
らしてみせる。
キラキラと光を反射しながら揺れる鋭利な刃物を見て、まりさが悲鳴を上げながら元
いたテーブルの隅まで後ずさった。
「まりさは、知っているはずだな。私は、嘘をつくか。私は、間違ったことを言うか」
「じじいなんて うそつきで、まちがいだらけの“いなかもの”に きまっているわ!」
「ち、ちがうよぉ……おにいさんの ゆったことは……ぜんぶ ほんとうだよぉ……」
「な、なにをいってるの、まりさ?」
「おにいさんが、しぬって ゆったら……しぬんだよぉ……ころすって ゆったら、ころ
されちゃうんだよぉ……おかあさんたちも、おねえちゃんたちも……みんな……おにい
さんが ゆったとおりに……」
「や……いやよ! やめなさい! ありすをころしたら、ころすわよ! そんなことを
する じじいなんて、せいさいしちゃうんだからね!」
「死んだ後で、どう制裁するというのか……楽しみだな、是非やってみてくれ」
「まりさ!? まりさぁああ! うそよね!? ありす、しなないわよね!?」
「おにいさん……? お、おにいさぁん……?」
「私の言うことを聞かなければ、死ぬ。人間に酷いことを言ったら、痛い目に合わされ
る。悪いことをすれば、潰される。そうだったな、まりさ?」
「う、うん……! うん! ま、まりさ、いいこにしてるよ? わるいこと、してない
よ? いうこと、ちゃんときいてるよ?」
「そうだな。じゃあ……この汚いのは?」
「ありすは“とかいは”よぉおお! ゆっくりした ゆっくりよ! まりさの すてきな
おねえさんよぉおおお!」
「ゆぁ……! ゆ、ゆぁあ……!」
「答えろ、まりさ」
「おにいさんの……ゆうとおりに、ころされちゃうよぉ……」
「……だ、そうだ」
「まりさぁあああああああああ!?」
*** *** *** ***
さらに一週間が経ち、その間に、新たに捕まえた野生のゆっくりを8匹ほど潰し、よ
うやくにレポートを纏めて……
そして今、私は非常に居心地の悪い想いをしている。
思わず、溜め息と共に自虐的な台詞が零れ出た。
「……やはり、無理でしょう。私には勤まりませんよ」
「そうでしょうか?」
「そうですよ。私は……“虐待お兄さん”ってヤツですから」
私の正面には、どこまでも落ち着いた雰囲気を崩さない女性が座っている。
髪は肩のあたりで綺麗に切りそろえ、縁なしの眼鏡を掛けている。折り目正しいスー
ツ姿で、装いや纏っている雰囲気はいかにも研究者然とした『女史』そのものだ。
しかもその容姿は、見た者が十人中七人は美人と評するだろう。ほんの少し、服装か
漂わせている雰囲気を別のものにすることが出来れば、もっと違う印象を与えるはずだ。
その、座る姿勢も綺麗な女史が、くすくすと控えめに笑う。
彼女も、私に向けられ続けた偏見のことを察していたのだろうか。それとも、簡単に
推察できただけか。
私は結局、メールの誘いに応じ、人生で二度目という慣れない履歴書を書いて、東京
特定生物研究所へと面接にやってきた。
20代も半ばという年齢で履歴書を書いた経験がたったの二度というのは、圧倒的に
少ないだろう。大学を出る際の就職活動だけでも、二~三度どころか、その十数倍書い
ている人もいるはずだ。
一枚の履歴書で就職が決まったのは、なんのことはない、育ててくれた養父の威光で
あり、私を通じてコネクションを形成できると勘違いした企業からの引き合いだったの
だ。そして、私がその会社を辞めた理由も、同じ。下らんしがらみで養父の築いたもの
にケチを付ける気は毛頭無いし、早々と跡を継がされた義弟に迷惑を掛けるのも論外だ。
「念のために言っておきますが、義弟との繋がりは期待しないでください。私は、妙な
仲立ちを引き受けるつもりはありません」
「弟さん……? ああ……そのことですか。それなら、ご心配なく。すでに、ずいぶん
と融資していただいていますわ」
「……は?」
初耳だった。
まぁ、義弟の仕事には一切関わらないようにしているから、情報も入ってこないのだ
が……それにしても、義弟はゆっくりが嫌い──というより、怖いはずなのに、どうい
うわけだろう?
私の、先回りな上に見当違いの牽制がおかしかったのか、目の前の女史がまた控えめ
に笑っている。
どうも、落ち着かない。
「やはり、お互いに妙なものですわね」
「……と、言いますと?」
「面接と言えば、志望動機を聞いてみたり、仕事に対する思いや熱意を語って貰うので
しょうけれど……」
「ああ……」
私は、雇ってくれと頼みに来たのではない。仕事を斡旋されて、引き受けに来たので
もない。せっかくメールを頂いたから、失礼がないようご挨拶に来た……というのが、
正しいところだろう。
いくらか、気が楽になった。
ここでの発言で家族に迷惑がかかることもないし、これが面接ではないことも、彼女
が今保証してくれたようなものだ。形ばかりに履歴書を書いたことも、思えば間が抜け
ているが……それも、気にするほどのことではないだろう。
「それにしても、物好きですね」
言ってしまっていた。
それに対して女史は、私のようにレポートを送ってくる人間は他にもいると言うこと
を、そういう在野の研究家の報告も、決して馬鹿には出来ないと言うことを、丁寧な口
調で説明してくれた。その上で、妙なことを言ってくる。
「中でもあなたのレポートは、研究者然としていましたから」
「……どういうことです?」
「冷たい視点を崩さない、観察者……とでも言いますか……一言で説明するのは、難し
いですわね」
他の者のレポートには、熱を感じるものばかりなのだという。研究に対する熱、ゆっ
くりに対する熱、自分がしている行為に対する熱。
そういうものがないからこそ、研究者として勤まるのではないか……と、彼女は考え
たらしい。
「最新のレポートも、拝見しましたわ。そのまりさが、そうなのですね」
「え、ええ……まぁ」
彼女の言う最新のレポートは、まりさの皮の張り替えのものと、ゆっくりが生殖の際
に行う外皮の代謝についてのものの、二件を合わせたもののはずだ。それほど軽い分量
でもないし、送ったのは二日ほど前のはずだが……案外、暇な職場なのだろうか?
まりさも、ついでのことに見てみたいと返信メールに書き添えてあったので、小さな
ケージに入れて持ってきていた。家に置いたまま留守にするのは気が引けたので、都合
も良かった。
そのまりさは、ここへと来る前に何度も私から脅されたことが効いているのか、辺り
をきょろきょろと見回したりはするものの、言葉を発することも動き回ることもせずに
大人しくしている。
「失礼します」
ノックの後、声を掛けて若い女性が入ってきた。たぶん、自分より年下だろう。十代
に見えるほど幼い容姿だが、さすがに高校生のアルバイトが、こういうところに勤めて
いるとも思えない。
コーヒーが三つ乗ったトレイを手にして、後ろ手にドアを閉めるとしずしずと近づい
てくる様子も、なんだか子供が無理をして大人ぶっているようにも見える。
面接の経験は一度しかないが、お茶なんて出るものなのだろうか? 確かに、前の会
社でもお茶は出たが、あれは面接というよりもお愛想ばかりだったし……いや、今日の
これだって、面接とは言えないのだったか。
「所長は、もうすぐに来るそうですから」
「そう、ありがとう」
どうやら、三つのコーヒーの内に、持ってきた彼女の分はないらしい。
「わぁ……! その子、綺麗ですねぇ!」
「ゆ……?」
「ゆっくりしていってね?」
「お……おねえさんも、ゆっくりしていってね?」
お茶を持ってきた少女が、まりさへと顔を近づけて挨拶をし、まりさの頬を優しく撫
でる。まりさの方も、優しく話しかけられて緊張がほぐれたのか、それとも私の言いつ
けをそろそろ忘れ始めたのか、ここはどこなのかとか、自分も喉が渇いたとか、お腹が
空いたとか言い始めた。
そして……向かいに座っている女史が、溜め息をついた。
「すみません。お話の邪魔になるようでしたら、このまりさちゃん、お預かりしてもよ
ろしいですか?」
「さぁ……どうしましょうか、逆代さん?」
そう聞かれても、今はちょうどこのまりさに関するレポートの話題だったのだ。それ
に「あなたが来なければ、特に邪魔にもならなかった」とは、いくらなんでも私からは
言えないだろう。
私が見ると、まりさはビクッと震えて、愛想笑いをし始めた。
「お、おにいさん? まりさ、おとなしくしてるよ? わるいこと、してないよ?」
「そう……だな。それじゃ、お願いしましょうか」
「はい、お任せください!」
丁寧な……と言うより、丁重と言っていいほどの手つきでまりさを持ち上げると、両
手で掲げるように顔の側まで上げて、ニコニコと話しかけながらドアへと向かう。心な
しか、足取りも軽やかだ。
「あっちで、お姉さんとお菓子を食べましょうね?」
「おかし!? まりさ、あまあまさんは だいすきだよ!」
「お姉さんも大好きよぉ♪ た~くさんあるから……」
声を断ち切るようにして、ドアが閉まる。
トレイは、テーブルの上に置きっぱなしだ。
「もうしわけありません、騒がしくて」
「いえ……まぁ、あのまりさは、もう駄目でしょうね」
「え……?」
また、つい言ってしまった。
時計を見て、今の時間を確認する。
あの少女は、きっとゆっくりが好きなのだろう。そのことは、別に構わない。ただ、
甘やかすことしか出来ないように思える。まりさは、きっと行儀良くしているはずだ。
少なくとも、最初の内は。だとすれば、ますます甘やかすだろう。
ゆっくりは、なんであれすぐに忘れると言われている。都合の良いことだけは憶えて
いたり、自分の都合の良いように記憶を改竄して、それ以外を忘れたり。
どの程度の時間、たっぷりと甘やかされると、厳しく言い聞かせられたことを忘れて
しまうのか。
こういう、物質的なものでは計れない事柄は、とにかく数が必要なのだ。
そのデータの足しになるのなら、それはそれで構わない。一つの実験が終わった個体
なのだから、それほどの執着もない。
私が考え、後々に実行するつもりのことを説明すると、女史は呆れたような溜め息を
ついた。
「……やっぱり、おかしいですか?」
「いいえ、感心いたしましたわ」
「はぁ……」
やはり、熱を感じないのだという。ことさら冷静に振る舞っているつもりはないから、
感心したと言われても正直ピンと来ない。
まだしも、冷酷だ薄情だと罵られたほうが、納得も行くが……
「元々から、無感動な人間に生まれついているのかもしれません」
「そうなのですか?」
「わかりませんけどね。ただ、ある人から……学者が眼鏡越しに見ているようだと言わ
れました」
「まぁ。それでは、私の眼鏡に狂いはなかったと言うことですわね?」
「どう……なのでしょうね……」
確かにこの女史は、きっとそれなりの目をもっているのだろう。あの少女が、まりさ
を甘やかすところを見て、溜め息もついたのだ。私と同じようなことは、考えたに違い
ない。
あのまりさは……短時間で、駄目になる。
「いやいやいや、見たよ、見ましたよ。いや、たいしたものだ!」
騒々しくドアを開け、賑やかな声を撒き散らして、人の良さそうな中年男性が入って
きた。おそらくは、所長と呼ばれていた人物だろう。
「あれだね、あっちで見ましたよ。皮の張り替えだけじゃなく、教育も行き届いてる」
「は、はぁ……」
「大変じゃなかったかね? ゆっくりの躾というのは、いやなかなかどうして、私達も
苦労をしているんですよ」
「まぁ……確かに難しいと思いますが……」
「でも、出来ている! うん! レポートもね、読みましたよ。彼女がね、読め読めと
煩かったから」
「あ、ありがとうございます」
「いやいや、毎度毎度、面白いことを考えるものだ。それに私達では実のところ、他聞
を憚って出来ないことも多かったですよ、ええ」
「はぁ……いろいろと、大変なようで……」
「なぁに、仕事だからね。ははは! まぁ、それも仕方ないというわけです」
鷹揚な口の利き方の中に、時折ですます調が混じる。恰幅も良く、ニコニコと機嫌の
良さそうな表情を絶やさないので、人当たりも良さそうだ。とってつけたような「です
ます」は、他人への気遣いゆえだろうか。
好人物のようだが……その勢いが、なかなか言葉を差し挟ませてくれない。
「それで早速なんだがね、頼みたいことがあるんですよ」
「は? はぁ……」
「一緒にお風呂へ入れるゆっくりというのは、作れますかね?」
「…………は?」
「所長」
「ん? なにかね?」
「まだ、なにも決まっていないのですが」
「…………あれ?」
せっかちなのか、早合点なのか……まぁ、それでも好人物という評価は覆らずに済み
そうだが。
*** *** *** ***
「まりささまの きれいな おはだに、さわってもいいんだぜ? おれいは、あまあまを
ちょうだいね! たくさんでいいんだぜ!」
「え、え~と、その……」
「…………はぁ」
「んむむ? どうなっているんだね、これは?」
まりさの言い草に、少女は誤魔化すような笑みを浮かべて頭をかき、女史は頭を抱え
て溜め息をつき、所長は訳がわからないというようにキョロキョロとみんなの顔を見回
している。
所長がやってきてから、三時間ほど話し込んだだろうか。今日のところは帰って、よ
く考えてみたいと……なんのことはない、私はこの期に及んでも、まだ決断できずに答
えを先送りにしているだけなのだ。
研究所と名乗り、半官半民という性質も否定はできないが、歴とした株式の会社法人
らしい。そんな会社に、こんな簡単に就職が叶ってしまっても良いのだろうかという、
後ろめたい気分がどうしても拭えない。
だが、やはりこんな機会は滅多にないだろうし、喜んで雇っていただくべきなのだろ
う。次に職を得る機会が、いつ巡ってくるかもわからないのだ。今現在、職を得るため
に真っ当な努力をしている人達に対しても、断るなんて申し訳ない。
それでも、早く帰りたかった。どうにも落ち着かないこの状況から、逃げたかった。
辞去を申し出て、まりさを持ってきてもらって……
少女が両手で捧げ持ってきた“まりささま”が、テーブルへと降り立つなり発した言
葉が、先ほどのものだ。
「帰るぞ、まりさ」
「いやなんだぜ! まりささまは とくべつな ゆっくりだから、ここで ゆっくり くら
してやることに きめたんだぜ!」
「……そうか」
やや前傾姿勢になり、まりさへと顔を近づける。右手の人差し指と中指を合わせて出
して、まりさへと見せるようにかざした。
私が考えていたことを口にするより早く、女史がイライラとした口調で少女に詰問し
始めた。一度も崩れなかった女史の落ち着きが、初めて崩れたので、私も少し驚いた。
「あれだけ行き届いていた躾を、3時間と25分で駄目にしたの?」
「ええっ!? あ、あの、時間を計っていたんですか?」
「はぁ~あ。三時間半で、こうも変わるもんかね。あんなにお利口だったのにねぇ」
「まりささまは おりこうなんだぜ! とくべつな ゆっくりなんだぜ?」
「おやおや、だぜ口調にまでなっちゃって。どうしたら、ここまで変わるんだね?」
「あ、あの……私、別に何もしてないです。ゆっくり達の映像を一緒に見たり、館内の
様子を一緒に見たり……それだけで、だから、その……」
「十分にしているじゃない。だからこそ当然の結果として、こうなっているんでしょう」
「当然って……だって私、何も……」
責められている理由が、さっぱりわからないのだろう。おそらくは、本来なら咎めら
れるほどのことをしていないはずだ。ただ褒めて、あれこれ話して、お菓子でも一緒に
食べたのだろう。少女の感覚では、ただ可愛がっただけ。だから、詰問に対して不満げ
な表情も浮かべるし、何も悪いことはしていないと考えている。無理もないし、ある意
味では当然の反応だ。
もっとも、少女の擁護をするつもりもなければ、女史に同調して責めるつもりもない。
端から駄目になることがわかっていたものが、駄目になって戻って来たのだから、予定
通りというだけだ。
問題なのは、戻すことが出来るかどうか。
つまり、ゆっくりはすぐに躾けたことも忘れてしまう……というその忘却が、人間の
健忘と同じように『思い出せる可能性のあるもの』なのか、『完全なる記憶の消失』な
のかを確かめたいのだ。
ゆっくりからは、体組織的に“脳”と断言できる器官や部位は見つかっていない。だ
から内部組織である餡が、消化器官であり循環器系であると同時に、記憶媒体でもあり、
それらは全て渾然一体となっているという説が有力だ。
一時期は『中枢餡』と言って、重要器官を集約した役割を持つ餡の存在も仮定され、
様々な試みが行われたようだが、確認も生成実験も失敗に終わっている。私自身も、生
成を試みて失敗した一人だ。成功例の存在は、噂レベルなら存在するが、残念なことに
お目にはかかれていない。
餡が流動し、循環し、その入れ替えが行われなければ、やがては劣化し、腐敗し、体
内で毒を放ち、ゆっくりはその心身に異常を来す。
ゆっくりが、どこに記憶を保持し続けているかは、謎なのだ。どうやって、摂取した
ものを消化吸収しているのかが謎であるように。中身はまだまだ、謎の塊である。
記憶を蓄えている部分も、劣化した餡と一緒に糞として排泄され、だからこそ物忘れ
が激しいのだと言われている。甘味を初めとする食物を多く摂取することで体内の餡は
新しく作られ、古い餡を排泄することで一緒に古い記憶を吐き出し、抹消する。だとす
れば、忘却は完全なる記憶の消去だ。
「糞は、しましたか?」
「……え?」
「糞ですよ。このまりさは、たくさん糞をしましたか?」
「え、ええ……お菓子を喜んで食べてくれたので、つい……たくさん、あげ過ぎちゃっ
たかもしれません。それで、その……うんうんも、たくさん……」
「まりささまの うんうん、みたいの? とんだ へんたい おにいさんなんだぜ。まぁ、
まりささまは こころが ひろいから、とくべつに みせてやるんだぜ! まりささまの、
すーぱーうんうんたいむ、はじまるん……」
「聞け、まりさ」
「ゆぎゃっ!?」
得意げに喋り散らすまりさを指で弾き、その言葉を止める。我慢のがの字も忘れたよ
うに、まりさが怒鳴り散らしてきた。
「なんてこと するんだぜ!? とくべつな まりささまに、ひどいことをするなんて、
ゆるされないんだぜ!」
「“特別なゆっくり”というのは、彼女から教えてもらったのか?」
まりさの前にかざした指だけで、少女を指し示す。私は顔を向けていないから見えた
わけではないが、少女はビクリと二~三歩ほど後ろへと下がったようだ。女史に睨まれ
でもしたのだろう。
「ゆ……? お、おしえてもらわなくったって、まりささまは しっていたんだぜ!」
「その“まりささま”と言うのを、やめろ」
「まりささまは、まりささまなんだぜ!」
「やめないと、その舌が引きちぎれるぞ」
「なんで そんなことを いわれなくちゃ ならないんだぜ!? まりささまは とくべつ
な ゆっくりだから、まりささまゅあがっ!?」
「言ったはずだな。やめないと、その舌が引きちぎれると」
「ひゅゆゆぐぐぐ……!? ぃゆぶぅううっ!!!!」
目の前にかざしていた人差し指と中指を、まりさの口の中へと突っ込み、舌を摘むと
そのまま力任せに引きちぎった。引きちぎると言うより、引っこ抜いたという感じか。
「ひゅぁあわあああわわわああ!? はひゅひゃははほぉおおお!? ひゅあああ!?」
「なっ、なんてことするんですか!?」
「黙っていていただけますか?」
取り乱した声を上げて駆け寄ってきた少女に、人差し指と中指を突きつけるようにし
て差し出す。引っこ抜いて、摘んだままにしたまりさの舌から、ぼとぼとと餡が零れ落
ちた。
「そっ、そんな……そんな、酷いことをしなくても……」
「黙っていていただけますか?」
ただ、繰り返す。それで十分に伝わったらしく、少女は黙り込んで……ただ、下を向
いてしまった。気分を害してしまったようだが、それもこの際は仕方ないだろう。
摘んでいたまりさの舌を、そのまりさ自身の目の前に、叩き付ける。飛び散った餡の
飛沫が、まりさの顔にもピシピシと小さく当たり、へばりついた。
「ひゅひゅふぁああ……!? ふぁひひゃふぁふぁふぉぉおお!?」
「まりさ、思い出すんだ。お前は、特別なんかじゃない。お前の親は、姉妹は、どんな
連中だった? そして、どうなった?」
「ふひゅっ……!? ひゅ……ひゅあふっ……!」
「私の質問に答えないと、今度は左目が潰れるぞ。答えろ、お前は特別なんかじゃない
だろう?」
「ひゅ……! ふひひゅひゅ……!」
「む、無理ですよ! 舌を抜かれちゃってるんですよ! 喋れないんですから! それ
よりも、早く治療を……!」
「ひゅ……! ひゅぅうん! ひゅふうぅ! ひゅ、ふゆはひゅ~!」
黙り込んだはずの少女が、再び騒ぎ出した。少女を自分の味方だと思い込んでいるの
か、まりさが彼女の方へと向き直り、体をくねらせ哀れっぽく泣いてみせる。
私から見て左を向いているまりさの、その左側頭に右手を当てる。右親指をまりさの
左目の前にかざし、よく見えるように、ゆっくりと親指をまりさの左目へと近づけてい
く。逃げないように、側頭部を鷲掴みにしながら。
「私の質問に答えないと、左目が潰れる……そう言ったな?」
「なっ、なにを……やめてください!!」
「ひゅひぃい!? ひゅあっ! びゅぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
ずぶずぶと、まりさの左目を押し潰すようにしながら、親指を眼窩へと侵入させてい
く。侵入させた指先を何度か動かし、強引にまりさの大きな眼球を抉り出した。
「ぁぶぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!! あびゅ! ぁぎゅひゅびゅひゅううう!!!」
「ひぃっ……!」
家での実験とは違い、ここでは悲鳴が二種類上がるようだ。一つはゆっくりのもの、
もう一つは観客の……今ならば、少女のもの。女史は淡々と、静かな表情で私のやるこ
とを見守っている。所長は目を丸くして、それでも興味深そうに私のやり方を注視して
いる。
悲鳴は、それほど気にならない。自分が一般的に言う“残酷なマネ”をしているのだ
と……多少は、なろうとしていた虐待お兄さんらしいことが出来ているようだと、確認
できる程度の、BGMでしかない。
ただ、視線は気になる。人に見せるようなものでもない。見せ物として通用するほど
のことはしていないのだから。
抉りだした眼球を、まりさの右目の前にかざしてみせる。涙を溢れさせているが、右
目に損傷はないのだから、よく見えているはずだ。
「私は、確かに言ったはずだな。質問に答えないと、左目が潰れる……と」
「あ゛……あ゛あ゛、あ゛……!」
「やめてくださ……! あ、ああ……」
ぐしゃりと音を立てて、眼球を潰す。まりさが見ていることを確認して、まりさに良
く見えるようにして。
「私の言う通りになったな。さぁ、次の質問だ」
「ひゅへぇふううう……!」
「答えろ。答えなければ……今度は右目が潰れる」
「だからっ! 答えられるわけがないでしょう!? 舌がないんですよ! 喋ることが
出来ないんだから……!」
「お前の親達は、姉達は、どうなった? 答えろ」
「いい加減にしてください!!」
「おはあひゃんはひほ! ほへーひゃんはひも! おひぃひゃんほふひゅほほぉ、ひは
はっはぁあは、ひゅひはひはっ!!」
少女の言葉を無視し続ける私に、まりさも少女に頼ることをやめて、発声できない口
を懸命に動かして何かを言ってくる。
「ほ……ほら! 面白いんですか!? 楽しいんですか!? こんな酷いことを……」
「良く出来たな、まりさ」
「ひゅ……! ひゅ……!」
「……え?」
「舌が無くて喋ることが出来ないとしても、答えようとすることは出来る。答えようと
努力することは、出来る」
「ひゃ、はふっ……! はひはは……!」
「まりさは、ちゃんと思い出した……そうだな?」
「ほほひっ……! ほほひはひはひょ! はひひゃ……!」
「ああ、思い出した。ちゃんと答えた。だから……右目が潰れたりはしない」
「はひっ……ふひぃぃ……ひゅひぃぃいん……」
安堵の溜め息を大きく漏らして、まりさは無事な右目から大粒の涙を流し、抉られた
左眼窩からドロリとした餡を零した。
その様子を見た少女が、口元を抑えて息を飲み込む。
「お待たせしました。私も、質問にお答えしましょうか」
「え……?」
「楽しいか、と聞かれましたよね? 楽しいですよ。確認したかったことが、確認でき
たのだから」
「た、楽しい……んですか?」
「ええ。試そうと思っていたことが、きちんと試せた時も、やはり楽しいですね。たと
えば、このまりさの皮の張り替えもそうです」
「ひ……酷い……!」
「そうでしょうね。まりさは、意識があるまま……苦痛を感じる状態で、生皮を剥がさ
れた。自分の体とはまるで別物の素材を、傷口に張り付けられた。激痛だったでしょう。
良く生きていてくれたものです」
「あ、あなたは……! それでも……!」
「そして、その結果であるまりさを見て、ただ綺麗だと褒めた人がいる」
「うっ……そ、それは……」
「事情を知らないまま甘やかし、特別な存在だと持ち上げ、勘違いさせた結果として、
再教育の必要性が生じてしまった」
「だ、だって……私は……」
「知らなかった、だから仕方がない……その通りです。責めるつもりは、ありません。
なにより、期待していた通りでもあります」
「え……?」
「あなたがまりさを駄目にすることは、予想がついていたんですよ。そして予想通りに、
私は試したかったことが試せた。だから、楽しいですよ。考えていた通りなんですから」
「…………!」
睨んでくる。少女が、穢らわしいものでも見るかのように、見下してくる。
ようやく、実感できた。私は“虐待お兄さん”になれているらしい。
「糞を、持ってきてもらえますか」
「え……?」
「それと、何を、どれくらいの量を食べたのかも、記録しておきたいんですが」
「な、なんの……話ですか?」
「ですから、記憶ですよ。ゆっくりの」
私が考えていたことを、一から説明する。ゆっくりは忘れるが、その忘却がいかなる
ものかを知るための、データの一つであることを。そのために、出来るだけ詳細な数値
があるといい。排泄した糞の重さ、摂取した食物の量と種類。
「皮の張り替え以来、まりさの体重は朝晩きちんと計測し続けています。今日も、こち
らへ伺う前に測ってきました。だから……」
「そ、そんなことより、今はまりさちゃんの治療を……!」
「データが取れなければ、まりさが痛い思いをした甲斐もなくなります」
「…………!」
「私に仕返しするなら、全てを台無しにすればいいんです。簡単ですよ。糞を回収でき
ないように捨てる。食べたものがなんなのか、どの程度の量なのか、推し量ることも出
来ないように……たとえば、菓子なら包み紙を全て焼却するとか」
「ど……どうして……説明してくれなかったんですか!」
「私がこんなことをすると知っていたら、あなたはここへ、まりさを戻しましたか?」
「…………」
「どちらにしても、まりさは駄目になることが見えていました。だから多少は、後々の
参考になる何かを残してもらいたかったんですよ」
「そ、それじゃ……! あなたは最初から……!」
「ええ。そして思っていた以上に、あなたはまりさを駄目にしてくれました」
「くっ…………」
「ま、まぁまぁ。とりあえず、そのデータというのを取ってこようじゃないか。糞と、
何を食べたか……だったかな。でしたよね?」
「ええ、お願いします」
「さぁ、行こう。なぁに、データが取れて、役に立つとなれば、あのまりさだって治療
してもらえるだろうから、ほら」
所長に促されて、少女が部屋を出て行く。またも女史と二人きりに……いや、激痛に
身を震わせているまりさがいるから、二人きりではないが、それでも部屋がシンと静ま
ったように感じられた。
急に、照れ臭くなる。
「やはり、このまりさはもう駄目なのですか?」
「さぁ……思いついたことがあるので、治療はしてみますよ。この状態から、目や舌を
作り直して、付けてやることが出来るかどうか……ちょうど良いので、試してみます」
「楽しみですわ、次のレポートが」
また、落ち着かなくなってきた。まりさを相手に試している間は、この落ち着かない
気分は忘れていられたのに。
いや、あの少女を相手に話していた間も……忘れていたか。
「私は、自分で思っていた以上に……なんと言うか、サディスティックだったようです」
「くすくす……そのようですわね」
そう言って笑った女史の顔も、やはりサディスティックで、妖艶と言っても良いほど
のものだった。
答えを先送りにしたところで、結局はここに勤めさせていただくことになるのだろう
と……その笑顔を見て、ハッキリと予感できた。
─ 学者、風変わりな定職にありつくのこと 了 ─
挿絵 byゆんあき
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このSSへの感想
※他人が不快になる発言はゆっくりできないよ!よく考えて投稿してね!
- でもあのガキはいらんよね。将来ヒステリ妻になって旦那に離婚されるタイプだよ -- 2016-08-30 17:01:02
- 結論
このお兄さん虐待家の鑑だなぁヒィャッホゥ -- 2016-08-30 17:00:04
- いずれにしても、れいぱーありすは糞だということがよくわかる。 -- 2016-01-08 16:28:41
- ↓↓そういうことじゃないだろ。
あくまで研究員でありながらゆっくりに対してあんなあまっちょろい接し方をしてるあの女は研究員として必要ない、というか邪魔な人材だからクビにすべきだ、って言ってるんだよ。 -- 2011-02-09 18:28:19
- むぅ、こういう人を研究者って言うんだなぁと感じだぜ。
嘘はつかない、失敗は活かす、素晴らしいなこのお兄さんは。 -- 2011-01-04 23:19:38
- ↓研究所には純正テクニシャンもいれば一般事務員も清掃ののおばちゃんも警備員もいるよ
というか研究者だけ寄せ集めたところで何もできないに等しいよ -- 2010-12-16 03:40:52
- ゆっくりを猫可愛がりすることしか考えてなくて他の研究者(持ち込みとはいえ)に対して自分が及ぼす実害にも一切想像力を働かせないような脳の足りない研究者適性ゼロのガキがなんで研究施設なんかにいるんだ?大福まりさが実験対象であることぐらいTPOわきまえてれば分からなきゃおかしい。愛護家ぶって自分の嗜好を一方的に押し付けて相手が従わないとヒステリー起こすような奴は研究の邪魔でしかないだろ。さっさと追い出すべき。 -- 2010-08-16 22:19:48
- 華麗なドリフトだ…さすがレイパーはポテンシャルが違う -- 2010-08-13 22:42:30
- 徹底したプロフェッショナルぶりが渋くてかっこいいですね
彼に比べたら夢見るオンナノコチャンなんて、ただの道化ですよ -- 2010-06-15 23:46:30
- >「糞を、持ってきてもらえますか」
なぜか分からないがかっこいい台詞にきこえてしまった -- 2010-05-25 01:03:46
最終更新:2010年05月15日 14:35