惟然
蕉門の人々の中には、種々な意味で異色に富む作家が少くなかつた。其角にせよ、支考にせよ、許六にせよ、さうした作家として数へ上げるに躊躇されないだらう。けれどもその中でも特に異色のある作家といへば、やはり惟然を第一に挙げずには居られない。それほど彼は蕉門の中でも最も異風な作家と目された。
惟然は美濃国関の人である。広瀬氏安通の弟で、その生家は醸酒を業として相当に富裕であつた。支考も「昔は千金の家に育ち」(貧讃)と言つて居り、芭蕉はまた惟然が木枕に帯を巻いて頭に当てるのを見て、「彼は頭の奢りに家を失つた」と戯れたといふ。かうした富家に生れながら、自ら「貧讃」(『本朝文鑑』所収)に「古へより富める者は世のわざも多しとやらん」と言つて居るとほり、世間並に産を治めることもしないで、あへて貧に安んじたのであらう。さうして一生を殆ど漂浪の中に終へたのであつた。『惟然坊句集』の秋挙の序によれば、ある日庭前の梅花が時ならずして鳥の羽風に散るのを見て感動し、それから頻りに隠遁の志が起つて止まず、遂にある夜妻子を捨て、自ら薙髪して蕉門の吟徒となり、俳諧三昧の生活をするに至つたのだといふ。この伝説はどこまでが真であるか分らないが、彼に鳥落人の別号がある事を思へば、全くの作り話ではないのかも知れない。『惟然坊句集』に載する種々の奇行は事実以上に誇張されたものも多いと思はれるが、ともあれ彼はさうした逸話を持つに最もふさはしい人物であつた。
惟然が俳諧に志したのは、いつの頃からであるか明らかでないが、元来関には蕉門に帰した作家として芦文・角呂・箕十等があり、これらの人々の間に蕉風を慕ふ機運はかねて動いて居たのであらう。元禄元年六月、芭蕉が岐阜の己白亭に数日留つて居た頃、芦文の句を発句として荷兮・芭蕉・越人・落悟・己百・角呂等十数人で催された五十韻一巻がある(芦文撰『つはさ』所収)。その中に惟然の名も見えるので、その時初めて芭蕉に会つたわけである。当時のことについて、「貧讃」には、なほ、
今は十とせも先ならむ、芭蕉の翁の美濃行脚に、「見せばやな茄子をちぎる軒の畑」と招隠の心を申遣したるに、「その葉を笠に折らん夕顔」とその文の回答ながら、それを絵にかきてたびけるが、云々
と言つて居る。関の自亭に招く意があつたのであらう。その後元禄三、四年の交芭蕉が湖南に滞在して居た頃は屡〻訪ねて行つたらしく、四年仲秋にはかの「月見の賦」の遊びに加はつて、「惟然法師は酒に驚き茶に感じ、ほむるもそしるも空に風吹いて」と言はれて居る。元禄五年頃から一時京都に居を定め、陋屋の中に晏如として貧を楽しみつゝ湖南・難波の蕉門の人々と来往して居た。彼の作が蕉門の撰集に初めて見えるのも、元禄五、六年頃の撰になる『北の山』(句空撰)・『葛の松原』(支考撰)・『罌粟合』(嵐蘭撰)・『己が光』(車庸撰)・『柞原』(句空撰)・『鶴来酒』(友琴撰)・『薦獅子』(巴水撰)・『深川集』(酒堂撰)等からで、彼の俳人としての活動がこの頃から急に活溌となつた事が知られる。当時彼は素牛と号して居た。今それらの集に見える二、三の作をあげて見ると、
 蜻蛉や日は入りながら鳰の海 (北の山)
 山吹や水に浸せるゑまし麦 (葛の松原)
 石菖の朝露かろしほとゝぎす (己が光)
一とくくり草紙やしめる木槿垣 (同上)
等すべて穏健な句風で、しかも素質は決して凡でない事を思はしめるものがあつた。
かうして漸く同門の間に認められて来た彼は、遂に元禄七年自ら『藤の実』を撰んでこれを公にした。膳所の正秀の序に、


衣にもあらず羽織にもあらず、荒布の一重を肩にかけたるは、その操に引かれて目にも立たず、寅丸坊のほとりに家一つを三つに分けて、四畳半の座中に柱さへかど〳〵し。欠けたる鍋、煤けたる行燈をしめして、月花の為には朝暮の烟をだにかへりみず。そのよる所一方に落ちざれば、専ら風雲の友を得ることやすし。滑谷・小関の|捷径《チカミチ》をぬけて湖水の春に嗽ぎ、淀・樟葉をへて難波の月に嘯く。

と言ひ、又京の人西川親長の跋には、

余友素牛兄、家本赤貧釜中生v魚、然以2清苦1為v宝而未c甞見b攅v眉蹙v額之態a也、常寓2目書嚢1曲v肱自遣、専用2心於俳諧連歌1也、而京師豪姓聞v風造請、然非2其人1闔v戸而不v語、若得2其人1則犯v霜冒v雨、為2霏々之語1而自不v知v倦矣、

と言つて居る。当時彼の京都──意専宛の彼の手紙によれば高倉通松原上ルつゞら屋町笠屋仁兵衛店に住んで居た──に於ける生活のさまやその人と為りが知られる。巻頭に彼が大垣の旅店に芭蕉を訪うた時──元禄二年九月の事であらう──与へられた「藤の実は俳諧にせん花の跡」といふ師の句を掲げ、蕉門諸家の作を集めてあり、その内容から見ても優に蕉門撰集の代表的なものの一に数へる事が出来る。
『藤の実』にはまだ素牛の号を用ゐて居るが、同じ元禄七年の『其便』にはすでに惟然の名が見えるので、この頃改号したものであらう。この年芭蕉が洛に来た折は、もとより師に随従して各所の俳莚に列し、大阪では師の終焉の枕頭にも侍した。彼がその頃いかに芭蕉に誠を尽し、又芭蕉からも愛せられて居たかは、彼の師に対する追悼懐旧の句によつても知られるのである。
芭蕉の歿後翌元禄八年には遠く筑紫に遊んで長崎まで行き、豊後日田の朱拙を訪ねたりして九年の春洛に帰つた。旅中の句は風国撰の『初蟬』の中に多く散見し、なほ同書によれば惟然が出立の日稲荷神社に詣でて奉納した発句を初めとして、「もじの関」と題した紀行があつたといふが、今それは伝はらない。──『頭陀物語』にもこの紀行を許六が『天狗集』と題した話が見える。──九州から帰つた後も、なほ諸所に漂浪の旅をつゞけ、元禄九年頃には暫らく故郷に帰つて居たやうであるが、翌十年には又北陸から奥羽地方へ遊び、旅中仙台で十一年の春を迎へ、正月下旬頃には江戸に入つて深川に師の旧庵を訪ね、
 こゝらにはまだ〳〵梅の残れども
 鶯の鳴けば今朝なほ起きられず
等と詠んだ。『誹諧曾我』(元禄十二年)に、
 播磨より京にかへりのぼれば花もところ〴〵に咲残りて
 花もなうさかり少しは又なんぼ
と見えるので、それから播州に赴いて京に帰ったものと思はれる。その後元禄末年頃から歿するまで、故郷関の弁慶庵や京都岡崎の風羅坊に足をとゞめ、又屡〻姫路に赴いてこゝで元禄十五、十六年の頃『二葉集』が撰ばれた。姫路の千山・元灌等が、当時特異な句風に移つて来た惟然に共鳴して、惟然を中心とした一の俳風がこの地に形づくられたのである。宝永七年の冬は京の岡崎に在つたが、心まめならずとて偶〻美濃に帰り、
 年の雲故郷に居ても物ぞ旅 (年の雲)
とよんだが、翌八年二月九日弁慶庵で歿した。享年は明らかでないが、六十余歳であつたと思はれる。墓は弁慶庵の側にあつて碑面には鳥落人と刻まれてある。歿後姫路の寒瓜(千山の子)が二十回忌に『みのの雫』、二十五回忌に『年の雲』等の追善集を出した。惟然の撰としては前記の『藤の実』『二葉集』の外に、宝永四年に芭蕉の追善集『二千折』を撰んだといふが今知られない。なほ『花見車』には関の人太虚の撰になる『千句のあと』(元禄十一年)も惟然の撰としてあげてある。その句集には文化九年三河の曙庵秋挙の編した『惟然坊句集』がある。
惟然はその人物の飄逸なのと共に、句風の一種特異な事を以て知られて居る。しかしその異風は必ずしも彼が蕉門に帰した当初からのものではなかつた。元禄五、六年頃の作は前に二、三をあげたが、同七年に成つた『藤の実』にしても、その中から得るに随つて若干の彼の作を拾つて見ても、
 新壁や裏も返さぬ軒の梅
 燕や赤土道のはねあがり
 かるの子や首さし出して|浮萍《ひるも》草
 蓴菜や一鎌入るる浪の隙
 張り残す窓に鳴き入るいとど哉
 しがみつく岸の根笹の枯葉哉
 臘燭のうすき匂ひや窓の雪
等の如く、その客観にしても主観にしても極めて素直な態度が見られるのである。後年惟然を俳諧の賊とまで罵つた許六すら、『藤の実』の撰集としての価値は認めて居る(俳諧問答)。然るに師の歿後漸く一種の特異な風調を示すに至つた。一体惟然の句が異風を以て称せられるのは、専らその自由な口語調を用ゐた点にあつた。彼のかうした傾向は、発句の方では芭蕉生前にはあまり見られなかつたが、連句の方ではすでに、
 椙の木をすうすと風の吹き渡り (記念題)
 ごそり〳〵とそよぐ黍の葉 (となみ山)
等の如き附句が見え芭蕉も夙くこの特色を看破して居たのであらう。『去来抄』によれば、
先師遷化の歳の夏、惟然坊が俳諧を導き給ふに、その口質の所よりすゝめて、「磯際にざぶり〳〵と浪打ちて」、或は「杉の木にすら〳〵と風の吹渡り」(註、前掲『記念題』の附句の記憶違ひであらう)などといふを賞し給ふ。又俳諧は|気鋒《きさき》を以て無分別に作すべしとのたまひ、また此の後いよく風体軽からんなど宣ひける事を聞き迷ひ、我が得手に引きかけ、自らの集の歌仙に侍る「妻よぶ雉子」(註、『藤の実』中の去来の附句「妻よぶ雉子の身を細うする」をさす)、「あくるが如く」の雪の句(同じ集中の鳳仭の附句「ふるふが如く粉糠雪ふる」をさす)などに先師評し給ひける句勢・句姿などといふ事の物語どもは、みな〳〵忘却せらるゝと見えたり。
とある。──なほ『俳諧問答』に収むる去来の「答許子問難弁」参照──即ち芭蕉は弟子の得意とする所から入つて、これを風雅の正道に導かうとしたのである。しかも惟然は師の意を正しく受取ることが出来なかつた。その上惟然にとつて不幸な事は、彼が漸く師に認められようとするに至り、忽ちその師を失つたことであつた。
元禄八、九年九州行脚の頃までは、彼のかうした傾向もなほ甚しくはなかつた。尤も朱拙の『後れ馳』に見える惟然の附句には、
 こくり〳〵と死ぬる事かな
 わざ〳〵わせてついと去なるる
等の如き類がかなり見出されるが『初蝉』に載せられた発句には、特に異風といふ程のものはない。然るに元禄十年北越奥羽の旅に赴いた頃から、発句の方でも、
 玉江にて
 貰はうよ玉江の麦の刈りじまひ (泊船集)
 有磯にて
 夏さへも有磯行脚のうつけども (猿舞師)
 随分といひたい事を月夜かな (千句のあと)
といふやうな調子が著しく見えるやうになり、それは遂に同門たちの目に余るまでになつたのであらうか、元禄十年許六が去来に贈つた書中には、

惟然坊といふもの一派の俳諧を弘むるには益ありといへども、却つて衆盲を引くの罪のがれ難からん。あだ口をのみ吐き出して、一生真の俳諧をいふもの一句もなし。蕉門の内に入りて世上の人を迷はす大賊なり。故に近年以ての外の集を鏤め、世上に辱をさらすも専らこの惟然坊が罪なり。(俳諧問答)

とまでに罵つて居る。去来はこれに対して、

雅兄惟然坊が評、符節を合せたるが如し。その内一生真の俳諧一句なしと言はんは過ぎたりとせんか。又大賊といひ難からんか。彼は自ら迷ひ知らずして人に示すはこれを大害とせん。賊の字たる、阿兄の憤りの甚しきならん云々(同上)

と大体許六に賛意を表しながらも、流石に去来らしい着実な意見を述べて居る。以下去来の論ずる所は、前に引いた『去来抄』に言ふ所とほゞ同じであるが、要するに芭蕉が俳諧は平生に工夫を積み、句に臨んではたゞ気鋒を以て無分別に吐き出すがよいと教へ、偶〻惟然の句にさうした無分別によつて得た佳作があるのを賞したのを、惟然は師の真意を悟らずして、妄りに自分の好む所に走つて邪路に陥つたのだと言つて居る。去来の論は恐らく公正穏健とすべきものであつたらう。けれども惟然自身としては必ずしも邪路を歩いたのではなかつた。彼が異風と見られる如き句風に走るに至つたのは、言はば彼にとつて宿命的のものであつたのである。奇行に富んだ多くの逸話や生活の有様などから見て、彼は世間的な覊束から全く自由な、そして真率な、又我がまゝな、放浪性をもつた一箇の自然児であつた。さうした彼が芭蕉の無分別の説を聞いて、それをどのやうに受取つたであらう。師の歿後間もない頃の事と思はれるが、彼は風国に会つて「句は出るまゝなるをよしとす。これを斧正するは却つて低みに落つ」(去来「答許子問難弁」)と言つた。これが彼の俳諧に於ける最高理念となつたのである。
惟然が尊んだのは真情の流露と自然の発想であつた。彼は元禄九年風国の撰になる『初蟬』の序文に、

今思ひ行るゝ風躰はさら〳〵とそゝぎ立て、浅き砂川を見るが如しとぞ。諒に潔くこゝろよきこと何ごとか是にしかんや。されども尋常の人のさら〳〵とばかり言ひやすく軽く優しからんとせば、潦の浪あせて頓て泥見ゆる有様なるべし。ある琵琶法師の歌をうたふに、味をのみ謳はんとしけるを、傍なる人の申されけるは、その味を打捨ててたゞ胴より声を出して、功積りなば優しみはおのづから出でぬべしとぞ。奇特の教なるべし。

と言つて居る。彼は芭蕉の軽みを以て、専らさら〳〵と軽く滞らない句体として解したのである。而してそのやうな軽く優しい句境に達する為には、例へば琵琶法師が巧まない発声で練習するやうに、言はば言ひたいまゝを句にしたがよいといふのである。もとより当初はこゝにも述べて居るやうに、尋常の人がさら〳〵とばかり作らうとしてはいけないと、平素の稽古について十分の省察を持つては居たのであるが、その稽古に自然の発想を尊ぶあまり、所謂舌頭に千転する如き工夫はおのづから忘れられるに至つたのである。『二葉集』に収める播磨の儒者安積誠斎の「詼諧非v芸」と題した一文の中に、俳諧について惟然と問答した事が見えて、

惟然曰(中略)、夫詼諧者見焉而言思焉而作、各有2其志1、故観2其人志1者、莫v如2於詼諧1(中略)、言巧則非2詼諧1、言華亦非2詼諧1、但戯言俗諺無v飾無v巧、突然頓出而不v煩2思慮1、此之謂2詼諧1也、其於2法則格式1何設之有、(中略)故排v格破v例欲v導2蒙昧1矣。

といふ惟然の言を引いてある。この論の限りではもとより不可はない。しかし惟然はいつの間にか「戯言俗諺無v飾無v巧、突然頓出而不v煩2思慮1」この意を具体化するのに、一に口語調による易行道を選ぶに至つたのである。こゝに彼の破綻があつた。彼の異風は決して新奇を好む浮薄な心情に基いたのではない。少くとも彼が真情の巧まない流露を以て、俳諧の最高目標として進んだ事は認めねばならぬ。しかし彼のあまりに自然児的な性格は、詩人としての観照にも発想にも深みを与へる事が出来なかつた。而して単に結果から見た時、彼の句風が放恣な口語使用に終つたかの如く見られても仕方がなかつた。実際また例へば『二葉集』に収むる彼の作、
 何でやなう柿が大分なつたはさ
 味やりやるこれは千鳥か珍しい
 船よふねこちが早いか須磨の岡
 嬉しやな今朝はねぐさが生えて出た
等に対すれば、もはや弁護の余地はないと言つて宜い。
惟然の風調は同門の指弾を招くに至ったけれども、一面またこれを喜ぶものも少くなかつた。それは惟然の飄逸な人物が、人に愛せられた点もあつたかも知れない。彼は芭蕉の歿後風羅念仏といふことを始め、木魚に似た鳴物を風羅器と名づけてこれを叩きながら、
 古池や〳〵蛙とび込む水の音、ナムアミダ。いかめしき音や霰の檜木笠、雪の袋や投頭巾。
といつたやうな唱歌九首を歌ひ歩いたといふ。これには丈草なども呆れた体であるが(「丈草」の項参照)、実はかうした事も却つて田舎などでは彼の人気を呼んだものであらう。惟然の句風を学ぶ者があちこちに現はれたのである。中でも特に盛んなのは姫路地方であつた。この地には千山・元灌(一に元貫)・厚風等の人々が居て、元禄九年には千山の撰になる『印南野』が出たが、その後来杖した惟然を迎へるや、この人々は彼の風を喜んでこれに化せられ、元禄十五、十六の両年に亙り惟然の『二葉集』がこゝで撰ばれた。又千山も別に元禄十五年に『花の雲』、同十六年に『当座払』を公にした。十六年には盾山・菰洲共撰の『四山集』も成つた。更に宝永二年には千山が『又花の雲』を撰んで居る。これらの句集はすべて惟然の口語調の傾向を、最も甚しく示したものである。『二葉集』については彼の二、三の句を前にあげたが、他の集から若干の例を拾つて見ると、まつ『花の雲』は巻頭、
 |疾《と》う〳〵と言うてまだ来ぬのつぽりと 元灌
 めたくた風にそこら出てさて 千山
 ざんざつと汲み捨たを慰むぞ 惟然
 虚空世界か世界こくうか 厚風
に始まる連句を掲げ、それらの附句中には、
 ぬら〳〵是はこれはぬら〳〵
 これはかう〳〵かう〳〵の事
 によ〳〵むによがそこら〳〵に入る事は
 さうかさうハァ〳〵月がハァ月が
といふやうな類が頻出する。他の集に於ても同様である。又姫路のかうした情勢に呼応して、当時京都に住んで居た月尋──藤岡氏、もと大阪の人で契沖門の野田忠粛に師事し、壮年京都に住み、後ち伊丹に移り住んで正徳五年二月二十一日歿した──も元禄十六年『とてしも』を撰んだ。その中の惟然の句は、
 押へうそ盆があるならここな虫
 葉ならびの花の強さぞ朝顔が
の如きで、かうした一派の人々の作が集められてある。なほ又惟然は伊丹の鬼貫・百丸等とも親しかつたので、同地の俳人の間にも彼と同様の調が行はれた。元来伊丹の俳人は夙くから口語調を試みるものが多く、それは所謂伊丹風の一特色とされたので、実は惟然の方がむしろこれに影響されたとも見られるのである。しかし伊丹の口語調がたとひ年代的に早く行はれて居たとしても、一の異風としてこれを世に弘めさせたのはやはり惟然であつた。このやうに惟然の風調を喜ぶものは少くなかつたが、しかもこれらの模倣者は必ずしも惟然に於けると同じ弁護を受けるに値ひしないものであつた。彼等の多くはたゞ遊戯的な気分で口語調を弄んだにすぎない。例へば三河の白雪の撰になる『きれ〴〵』(元禄十四年)の中に、特に|惟然風《、、、》と称して白雪・路通等が惟然と共に一巻を興行して居る如き、言はば全く一時の興味本位な態度に外ならない。姫路を中心とした俳人たちの創作契機にもそれが多分にあつた。さうした俳風が所詮健全なそして高い境地に至り得る筈がない。それは却つて正しい俳諧の進展を妨げる結果となつた。その点で惟然が人を誤つた罪は又免れないであらう。
なほ惟然の主張について注意すべきは、かの安積誠斎の「詼諧非v芸」の中に引かれた惟然の説からも当然考へられるやうに、彼にとつて季語の約束の如きはむしろ無視されて然るべきであつた。実際また同じ誠斎が『花の雲』の序文の中に、「頃者渠魁惟然之徒、倡而誘v之以2諸雑発句1」と言つて居る如く、『二葉集』『花の雲』『当座払』等には、
 猫の居る木は何ぢややら〳〵
 どつかりと上から臼がこけました
 さあ〳〵〳〵爰でサアヽ盃を
 降らうかいの〳〵降るはいの
等の如き雑体の|発句《、、》が収められて居るのである。このやうに無季の句を盛んによんだのみならず、五七五のリズムもまた顧みられない事が屡〻であつた。これは惟然の立場から言へば必然的の帰結と言ふべく、その点ではむしろ彼の徹底的態度を多としてもよい。かの自由律の主張の如きは必ずしも明治以後に至つて初めて現はれたものでなく、さうした思想はすでにごゝに十分認められるのである。

 

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最終更新:2016年10月10日 01:00