『史談会速記録』十輯(明治廿六年三月十一日出版)

pp.23-40

                  吉木竹次郎速記

    明治二十五年十二月十二日午後一時着席 市來四郎君臨席

一文久二年の八月廿一日生麥に於て從士英人殺害の事實 附大原卿關東下向の所因

○久光公無謀攘夷を非とする建議を提出せられし事

○生麥英人斬殺の實况

○供方守衛を嚴にして追躡に備へし事

○幕吏の内意を承け空名の下手人を届けし事

○久光公始めて參内御劍拜領の事

○久光公攘夷説の強盛に苦心せられし事

○英佛兵東海道に迎撃せんとの軍議に渉りし事

○久光公の本意は齊彬公の趣旨繼紹にありし事

○久光公滯京三日にして歸國に就かれし事

○齊彬公の徳望克く人心を服せし事


市来君(四郎) 生麦村に於て英人を斬殺したることは、私には其場に居たるにありません。後日其時供方中に在て親しく見聞したる人々より承り、或は編輯に就て久光に親しく承りたる次第を御話致します。御承知の通り這の事は誠に面倒な話で、鹿児島でも十人が十人、其時の景況、或は翌年七月戦争になるまでのことは、皆な少しずつ話が違います。夫故筆を取るに困りましたから、久光に委しく其次第を聞きまして筆記致しました。先づ其大略を摘みて致します。御承知の通り文久二年の春、久光が初めて上京致されまして、寺田屋の変もござりますし、夫れから大原卿は特別に関東に勅使にて御下りになりまして、久光も差添と云ふ名義で、下向を命ぜられまして下りましたでござります。大原卿が御下りの前から続いて御話申さねば面倒なことでござりますから、其大略を摘んで御話致します。御承知の通り閣老久世大和守を御呼になりまして御受致しながら、上京遅々致しますから、久光はどうもさういふ遅々したことでは済まぬと云ふことよりして、朝廷に建言致しました。朝廷も勅使を御立てのことになりました。さふいふ運になりまして、大原重徳卿が勅使に特撰下向されることになりました。久光は大原卿と同日に京都を出発致しました。其時供方人員彼是五百人ばかりでござりました。当時久光が評判を受くるところは、覇業を為さむとするの説が余程紛々たることでござりました。それは尤も幕府の方には早くわかりまして、一方ならぬ心配になったさうでござります。其時の事情は春岳公より詳かに伺ったこともござりますが、それは長うござりますから後日の御話に致します。さうして関東に下りて幕府が勅命を循奉することになりましたは御承知どおりのことで、内輪の事情は長い話で、これも一段の話になるのであります。春岳公の御尽力に依りて、三ケ条の勅命も奉ぜらるゝことになって、首尾よく朝意の行われたと、一と先づ安心して、八月二十一日高輪の藩邸は出発致しまして、帰京でなく久光のところは帰国と云ふものでござりまして、直ぐに帰国する積りで出立致しました。復命は大原卿の御責任でござりますから、久光は直に帰国の積りでござりました。当時久光は種々な風説を受けて、全く覇権を握ふとの策略から此に至ったと言囃されましたのみならず、久光が初度上京致した建言に、無謀の攘夷は宜しくござりませぬと云ふ主義でござりました。けれども久光の心中と云ふものは、故斉彬は開港論者でござりますから、どこまでも其意を継紹致しまして、無謀の攘夷は宜しくない、後々は兎角開港せねばならぬと云ふ腹でござりましたけれども、時勢奈何せん攘夷説流行の時でござりますから、開港と云ふ説など云出しては人心を殞ひます。或は国中も攘夷家が沢山居りますから、彼此れ其辺を斟酌致し、中にも朝廷に建言致すに就ては、大勢奈何ともなしがたく、無謀攘夷は不可なりと云ふ文字を以て建言致したさうでござります。其含むところは到底開港論で時勢を俟って開港と云ふことを申す積りであったそうです。各藩共攘夷論の大勢であるから、攘夷不可なりとも言われぬ、言葉にも出されぬ程のことであったと申しました。此話が生麦の挙動、心ならぬことであったと申す序言でござります。

久光の話されますことに、高輪邸を出立致して、大原卿も同日にお立ちになりました。久光は生麦で昼休みを致す積りでござりましたさふです。生麦の立場近く行列を立てゝやって行く處に、供頭の奈良原喜左衛門と云ふ者が、駕籠側におりましたが、異人かと云ふ一と声掛けて先供の方に駈け出して行たから、定めて外国人がやって来るから行列を縮めるかどうかであらふと何心なく聞いて居た。然るに程なく駕籠の行くを止めた。さては外国人が行列に踏込みて来たかと思った。さうすると駕籠側供方の者が前後左右に集った様子で、如何さま失礼でも致したかと考へて、左右の者に、何事乎と尋ねたれども一向分らぬ。異国人が参るさうでござりますと云った。それで行列に障ったか知らず、喧嘩をせねばよいが、小事を以て大事を過る樣ではいけないと心配を致した。さうして駕籠を止めて居る間が余程の問であるから、何事か聞いて来いと、供方の者に云ったけれども、駕籠側の者は、どうも譯が分らぬ、畏りました〳〵と云ふ位で、兎角何事か仕出したと思ふて居た。暫くすると又駕籠を担ぎ行くことになった。其時駕籠より頭を出して行列先を見ると何か騒いで居るようである。何で喧嘩を致したと駕籠側の供頭に問うたところが、異国人を斬りましたさうですといった。夫れぎりでずん〳〵やって行くから駕籠の中から路傍に気をつけたところが死骸は見へぬ。唯路傍に血を流して居るまでゞあった。死骸はないから、定めて傷つけられてどこへか行ったであらふと思って、程なく生麦の立場に着いて、茶一盃飲んで居るところに、側役の谷川次郎兵衛と云ふ者が出て来て、誠に大変な事を致しました。異国人が御行列に障りましたから斬り棄ましたと、斯ふいうことを届けて出でた。偖ても困った事を致したと、小事を以て大事を惹き出したと心配を起した。さふいふことで小事を以て一両人殺して何にもならぬことである。天下の大変を惹き出し国難も惹き出した。と思ったけれども、そこでさふいふことを言えば、人心にも関するから黙して答へなかった。暫くすると中山忠左衛門出て来て、誠に愉快なことを致しましたと云った。何の愉快をしたと問ふたところが、異国人が御行列に踏込みましたから、奈良原喜左衛門等三、四名の者が斬棄てましたと云たから、拙者には返事もしなかった。夫れから大久保が出て言ふには、如何取計ひを致しましょうかと云った。如何取計らはうと云ふことが此場になりてあるものか、其方等評議せよと云った。拙者も考へが付かなかったからさう言った。それ丈け言ひ放った。大久保云ふには、御供頭の者一人江戸に御差返へしなされ。御家老・御留守居等に取計ひ御申付云々と申出したから、兎角、さうなくてはなるまいといった。夫れから家老方筆者を一人差添へ遣はさうと云ふことで、其通りで宜しかろう、また、横浜の方に一両人探偵に出さうと言った。高崎猪太郎(今の五六でござります)を横浜に遣した。程なく生麦を出立し、さうして程ケ谷泊りの積りであったが、道中で言ふには、

どうも横浜近くでは、彼此れ面倒でござりますから、戸塚まで踏越しを願ふと云ふことであるから、如何にもさうであらふ、近いところでは面倒であるから、其通りで宜しいこれだけ拙者には云った。さうして戸塚に一泊する樣な次第で、夫れぎりで一向譯が分らぬであった。夫れから其日の暮時分に、高崎よりの報知に、

横浜は大騒動である。外国人が馬で乗り出すもあり、或は公使館に馳せ付ける者もあり、大騒動。或は、追躡の説もあり、其準備をせよと云ふことであったから、準備と云ってもどうするかと云ふと、兎角防衛をなすより外ない、外国人は多人数出掛けむとせしを、幕役が百方説諭して途中で停たりと。

其報知を聞いて、供方の者は鉄砲とか火繩に火をつけるとか、槍薙刀の鞘を脱すとか、夜もすがらやって居た様子。外国人が襲ふて来ると云ふ気で居たさふだ。けれども何たることもなくして、翌朝は戸塚駅を立って、順々東海道に向った次第である。

さふすると名古屋に着いた夜、江戸よりの報知があった。幕府の届け向きは、豫ねて内用頼み入れになって居る。幕府の御右筆とか、御先手とか向々の役人の相談致したところが、幕府も狼狽して評議区々で、兎角仕方がないから、先づ殺した者は亡命したと云ふところに届けさせるが宜かろうと云ふ内示になって、夫れから留守居の名を以て、其下手人の姓名は足軽岡野新助と云ふ者にて拵へ名あるので、此者は前年江戸邸に居て故あって亡命致した。其者が此節久光の帰国を途中に拝まむと生麦の街上に出て居た所が、外国人が馬上で乗切りて行列に乗込んで来るから、直ちに斬り棄てたと云ふ届けでござります。さうして此岡野新助は踪跡が分らぬと云ふ届になって居ります。夫れは幕府の御右筆及び御先手、其他用頼みの方々が内評議で示しによりて届致したことである。

さふいふところで京都に着くまでは横浜の景況或は幕府の形勢は報知はあれども、別に達しの趣もなかったさうでござります。夫れから久光の考には幕府の内諭に依りて届けたことであるから、夫れに対して幕府の処分があらふと考へて居ったさうです。然して久光は草津駅に参ります時分に、粟田宮【久邇宮朝彦親王】近衛殿あるいは伝奏等の御方より帰国しては済まないから、復命の為め京都に出る樣にと云ふことを仰せ越された様子。其時久光が考には意外な種々の評判もあり、殊に勅意の貫きたるは全く大原卿の御力に在ることで、久光は御差添丈けであるから、復命などは恐れ入ることゝ云って御断り申上げたけれども、再三の御沙汰で止むを得ず上京の御請けを致したさうです。左もなければ、直ぐに帰国する積りでござりましたさうです。

夫れから京都に出ましたところが、出格の御懇命を蒙りまして、参内天拝も仰付けられ、加之、御剣拝領等も致したる次第でござります。其時朝廷では久光は陪臣だから御召出しになって位階を下さると云ふ御内意でござりましたけれども、固く御辞退申上げ早々に京都を御暇致しましてござります。

其間に朝廷よりの御内意には攘夷の策略、及び将来政務の方針の御下問、或は生麦に於て英人を斬り棄てたことの御賞誉がござりました。成程有難いことでござりますけれども、久光に於ては夫より一層心配が重くなって小事を以て大事を惹き起し、其上朝廷には外国人を殺したを御賞誉下されてからは直ぐに攘夷の世になった。これからは攘夷をせねばならぬと前後無量の心配を惹き起したさうです。

併しながら早致し方もない。殊に朝廷よりは御内々ながらも御褒賞も下され、此後時機に依りては攘夷せねばならぬ場合となりたりとはいえ、無闇な事を為してはならぬ。又朝廷よりは御褒賞も下されたるに依り、国中の攘夷家は皆勢を得て騒もありて内外心ならぬと云ふは此事であるが、然かれども此後一旦は戦はねばならぬと決心をしたそふであります。

夫れで久光の考へは、先代の遺志に(御先代と云ふは斉彬であります)皇威を海外に輝く樣にせねばならぬ。支那の覆轍を考へ、宇内に交際を厚くして、国威を輝かさねばならぬとの御趣意なりし故、一、二の外国人を斬る樣なことで国威を輝かすことの出来るものでないと、其辺は胸に畳んで居ったけれども、時勢の然らしむるところ実に仕方のないと云ふは此事でありしと。

夫れから外国人と幕府との押問答があって、江戸の報知は日々程もあり、或は其顛末を正さるゝ次第もあり、朝廷よりはそれを御賞与下され、或は各藩よりは内々潔きことをやりたりと祝儀を貰う様なことで、甚だ心ならぬと云ふは此事である。併しながら、致し方ない事であるから、最早決心と云ふは此時で、最も生麦でも稍決心した。そこで大久保抔は、兎に攘夷はせねば王政に返すことは出来ぬ、或は先代の志は継ぐことは出来ぬとも言った。然るに大久保、中山などは一向ら攘夷せねばならぬと云ふことで、以前は無謀な事はせぬ、皇威を輝かすには万国に交際せねばならぬといふことであったが、皆が攘夷々々と変じた。困ったは此事である。

幕府でも余程驚いたものと見へて、供頭即ち生麦より返した者を町奉行所に留め置いて其顛末を調べる様なことになって、幕府も表と内二つ、調べが表裏したもので、裏面よりは、是れは日本の大事である、徳川家の不都合になることであるから、無法に殺したを謝れといって内諭もあったさふで、けれども其理由があれば格別、江戸在勤の国老よりは決断致して色々喧く言った後の事で如何ともする事が出来ぬ。夫れから戦争の準備もせねばならぬと云ふ覚悟を致したさふです。

英艦と鹿児島海に戦を開いた原因と云ふは夫れ丈けのことでござります。其間枝葉話は沢山ござりますが大道筋は是丈けでござります。久光が下知致したことでは素よりござりません。中には下知致した様に云ふたものもござりますけれども、決してさうでござりません。表面の形ちに依りて言ふたもので、久光の心中は時機を察して、斉彬が趣旨通開国論を発する胸算でありたと申しました。実に行がゝりの小事より卒然に起ったことでござります。


竹中君(兼和) 御先供の間を乗り切ったのでござりますか。

市来君 先供方に居った者、今現存致して居りますが、其者に聞けば向うから乗込みて来たものでない。生麦は街道も狭いところであるから、外国人も猶予して道脇を通らふとしたそうです。然るに攘夷主張の輩、即ち奈良原などが無闇に切りつけたそうです。加之、一名はずた〳〵にやったぞうです。

岡谷君(繁実) 奈良原繁君でござりますか.

市来君 否、繁の兄でござります。今の繁は先供方でござります。兄なるものが切りつけたから助太刀した位なことに聞ひて居ります。外に三四名も楽み半分に切試したと云ふことでござります。さう云ふことで誰が斬るとも知れず、ずた〳〵にやったそうです。

寺師君(宗徳) 壮士の者は我も〳〵と争ひし様子で、又止めた者もあったと聞きます。或人の話に黒田清隆も止めた一人で、刀を抜き掛けし者を、馬鹿をするなと云って鐺を引いた様子、其時壮士輩はやらねば恥辱と云ふ様な心持であったと見へます。

岡谷君 総御供方は幾人ありましたか。

市来君 供方は後と先きまで五百人も居りますけれども、夫れは卒僕も居りまする。始め京都に参る時は千余人でござります。夫れを京都警衛に残して、行列は大抵でござりましたさうです。又後と先きにも警衛したそうです。

岡谷君 大原卿は同日に御立ちでありましたか。

市来君 さうです。大原さんは生麦の変後幕府より早打を以て、道を中仙道に御変へと云ふことを申上げたさうです。けれども道は御変へにならぬ。世上には中仙道に御変へといって居るが間違でござります。

寺師君 全く失礼も何も致さぬので、唯々攘夷説と云ふ説に犯かされて伐り付けたことゝ聞へます。

岡谷君 横浜から一小隊を以て出たところが、幕吏が差止めた様に聞きまするが。

市来君 さうでござりましゃう。夫れを差止めなければ大事に及んで居るので、高崎の話を聞くと凄い有様であって、騎馬で出る者もあり如何なることになるやと思って、実に凄ひ形勢であったそうです。

寺師君 内情を聞きますと英人が兵を以て後を追ふ積りであった様子。夫れが幕吏の止むるところとなり、夫れから仏国公使は軍艦で海岸を巡り、東海道に先廻りして、上陸して撃つと云ふ軍議もあった様子。英国公使が言ふには、曲は彼れに在り、直は我に在るから、さういふことを為すに及ばぬと云って止めた。日本政府が責任を帯びるから、其談判のつかぬ時に兵を以てするが宜しからうと云って止んだと聞きます。一旦は陸兵を以て撃ち及ばねば軍艦を以て撃つことに決した様子。然るに英公使の意見で止まったと云ふことです。

市来君 久光が申されましたに、軍は心ならぬと云ふても人が承知せぬが、さういふ譯でない。拙者が御先代の意を継ぎし開国論を初める積りであった。けれども亜米利加と約定の様なことではいけないから、先づ内政を整へ、人心を一にし、武備を厳にし、然して後のことでなければならぬといふ考へは固とより有ったけれども、世の風潮は攘夷説が盛んである處から、小松・大久保等が言にも兎角攘夷をせねばならぬ、人気も纏まらないといふことを毎度言った。其中に小松は開港もせねばならぬと云ふことが腹にあったけれども、大久保抔は各藩浪士抔の情実を酌みて、鎖港を以て目的として居った様で、故に拙者も攘夷は不可なりと云ったことはなく、無謀の攘夷は宜くないと云ふことを建言した。是れは一大事の文字である。夫れを今にしても聞誤られては当時の本旨にも違ふ大事である故、無謀の攘夷は宜くないと云ふことを言ったと云ふことでありました。

岡谷君 生麦のことの前でござりますが、外国人が途中で無礼をしたときのことを御届なさったことがござりますが、其事惰は、……

市来君 久光在江戸の時、今の供方の者即ち奈良原等の輩が毎々議するに、途中で外国人に対したる心得振りを協議致しました様子で、其時途中で外国人が無礼をした時はどうする、斯様にした時はどうすると云ふことを毎度問題と致して討議し、まして後幕府に届けるが宜い。皇族或は大名が通る時は御取締あらまほしと申立たるに、幕府は其辺の取締を付けると云ふことを申達がござります。故に生麦の変後、藩論は幕役の取締不行届にありて、曲は彼れに在り、幕府の手落ちであると云ふことでござりました。

岡谷君 幕府の質問はどういう處よりでござりましたか。

市来君 幕府は実に困難なことで、閣老方にも別して御心配なされたそうです。所謂板挾みともいふべきであったと承りました。就いて、謝りを云ったが宜かろう。相手の下手人を出すが宜かろう。然らば償ひを出せと云ふから、其時は幕府で御取計ひがあるから謝り丈けを申立よと云ったものである。然れども藩論は曲は幕府にありと意地になりて謝まらぬであります。其押問答に日を耗し其中にはつまらぬ過激な書面なども出しました。如此の意地になりて遂に文久三年の春は久光上京して、僅三日の滞京で攘夷の為めに下ると申して届け放にて帰国致しました。夫れは知恩院に三日居った時のことで、それが幕府との争ひから意地に出たものである。其時外国に遣る軍艦が有るでもなし。然るに外国征討云云の可笑な書面を出した。あの書面は久光の存ぜぬもので実は留守居共より差出したものでありますが、かく摺違ひしも固と〳〵幕府との悪感からでござります。

岡谷君 京都の留守居にはどこまでの権限を御任せか知らぬが、ヒドイものを出したものでござりますネー。

寺師君 あの時は、藩主の命を待つは間に合わぬ場合でありました。

市来君 私は斉彬に使はれましたは西洋流の砲術とか、大砲製造とか云ふ様なことに使はれましたから開港論の方であった。けれども開港と云へばなぐらるゝとか、殺さるゝとか云ふ様な世の形勢でござりましたから、表てには攘夷はせねばならぬと云って居りました。実に大勢と云は致し方ないものでござります。

寺師君 斉彬の徳望ならば藩中一人も非の字は言わぬ。如何に有志と雖もどうも反対は出来ませぬ故に藩主の意見の通りに行ったであらふ。斉彬は人を御することが手足を使ふ如くで、斉彬の時は鹿児島は冥々の中では開港である。あの人が生きて居れば、攘夷といふことは口に出させずして済むのであらうと考へます。

岡谷君 大勢の推すところは防ぐべからざるもので、一国にしてさうであるから、世界中さういふものと見へますネー。

寺師君 前年伊藤伯に久光の事歴を聞きに行ったことがありますが、其時伊藤伯の話に、先づ申して見れば慶応の始めまでと云ふものは、島津家に於ては藩主公の御意思と云ふものが筋を為して居る。慶応の年間になりてより以来は、即ち有志、所謂壮士の意見が多く、従って藩主公の御意見は届かなかった。ところが長州は始めから壮士の意思であって、藩主の意思は多く届かなかったと云ふことである。故に時々に過ちを致したものであると言はれたことがありましたが、成程大勢の趣く處は善悪倶に致方はないものと思れます。

市来君 今日は時限も迫りましたから是限りに致しましゃう。今日の御話は島津家に於ては重大の事柄で確正なる事実を後世に伝へねばなりませぬが、前に御話申した通り十人が十人少しつゝ話しが違ひますから、大体の事実は久光に承りました大要でござります。後日尚ほ此事より起りたる事柄もござりますから御話し申上げましゃう。或は戰爭になるまでの事實は舊邦秘録と申す書に詳に記してござります、後日御覽に入れましゃう、實に今日の御話は概畧の御話でござりますから、諸君其御心得を願ひます、(一同立禮)

最終更新:2017年08月05日 17:12