『ニッポノホン音譜文句全集』による。

 

【五一〇】諸君、ただ今より大隈伯の御演説があります。其御演題は「憲政に於ける輿論の勢力」と云ふのであります。(拍手)
帝国議会は解散されました。今将に、旬日の後に選挙が行はれて、今全国は選挙の競争が盛んに起こってをる時でありますんであります。此時に方って、憲政に於ける輿論の勢力を論ずるのは、最も必要なりと信じますんであります。憲政其ものは頗る複雑の政治にして、人文の発達によって起った事は、諸君の御承知の事であります。人文の発達に伴へば、自ら輿論が此所へ成立つのである。此輿論其ものが盛んにならなければ、憲政其ものが、充分に運用されぬと信じますのであります。已に此選挙に於て、帝国議会開けて以来二十有五年、選挙を繰り返す事十回以上に経験を積んだに拘らず、未だ選挙の状態が、遺憾ながら不完全なりと云ふ事を思ひまして、甚だ憂慮に堪へぬ次第であります。斯の如き国家の重大なる選挙に於て、盛んに輿論の起る事を望むに拘らず、未だ公平なる輿論が、凡て選挙を動かす如き勢力が未だ顕はれぬのを遺憾と致すんであります。凡そ物の善悪、邪正、順逆は、実質的に道徳的に発達するものである。国民が善政を望まんとすればだ、これに対する自ら輿論が起らなくては成ぬと思ひまするんである。

 

【五一一】輿論の勢力を、歴史的に聊か茲に述ぶる必要を感じますのであります。独裁政治の時代に於ても、輿論の勢力は大なるものである。王政維新は何に依って起ったか。七百年の武断政治を廃する全く輿論の勢力である。四百年の封建政治を廃して郡県制を起し、四民平等の状態に変化したのは、これまた大なる輿論の勢力である。而して法律の編纂、地方の自治、遂に憲法が発布さるゝに至ったのも、これまた輿論の勢力に過ぎぬ訳でありますのであります。斯の如く輿論の勢力は大なるものであってだ、殊に憲政の下に全くこの憲政の運用発達は、輿論に支配さるゝものであると云ふ事は、信じて疑はぬのである。輿論は凡て知識ある階級によって導かるゝものである。
茲に於いて政事家は、国民の指導者となって国民を導く、輿論を導く、ある場合には、輿論を制すると云ふ力が無てはならぬのである。然るに憲政の下に、政党の人は輿論を指導する可の働きが起ったか、近来未だ斯の如き政治家を見ないのである。然るに此度の解散によって、初めて憲法実施以来、解散の理由を明らかにして、反対党の論ずる所と政府の論ずる所を対照して、聡明なる国民の前に訴へたと云ふ事は此度が始めてである。是に於て、翕然として輿論は今起りつゝあると信じ升のである。是は憲政の発達の為に、甚だ悦ぶべき事であると思ひます。

 

【五一二】憲法によって与へられた所の、国民の権利と義務は重大なるものである。憲法其者は国家を組み立つる所の根本組織である。其根本組織によって、国民に与へられたる所の臣民権、言ひ換へれば国民の義務は頗る重大なるものである。而して其最も大切なるものは、選挙である。全体国民が、今、税が高い、或ひは政府は非常の悪政を行ふと云ふ怨嗟の声を放つのは、卑屈なる専制時代の国民の声であります。憲法の下には、税を取るのも、或ひは金を使ふのも、国民の権利義務を規定する所の凡ての法律も、帝国議会の協賛なくして行はるゝものではないんである。然らば税も国民が承知したものである、法律も協賛を与へたものである、而して行政其者は、帝国議会は充分に監督権を持ってをるのである。若し法律其ものが不完全であればだ、帝国議会は発議の権を以て、法律を改正する事も、或ひは廃する事も、或ひは新たに法律を拵へることも、随意に出来るのである。斯の如き大なる権利を国民に授けられたものであるのである。然らば之れを平易に説き明せば、陛下は、明治大帝は、国民に大切なる鍵を御渡しになったと云うて宜しいのである。而して貴重なる国家を左右する、法律を左右する鍵をだ、卑劣なる、野卑なる、陰険なる輩に渡してだ、而して禍を受けて、而して禍に苦しんで種々の不平を唱へるとは何事ぞ。恰も之れは自ら過てる其報いであるんである。畢竟、是れ卑屈なる精神である。何故に、此権利を重んぜざるぞ。


【五一三】国家の目的は、常に国運の隆盛、多数国民の福利を捗らす事に勉めて居るのである。国家の意志は、国民の意志である。国民の意志の集合したものが、国家の意志である。国民の是なりと認むる事が、国是である。これが多数政治の原則である。然れば国民の国家に対し、憲法に対する責任の大なる事は、恰も貴重なる 陛下の賜わった所の鍵を、大切に之を保つと云ふ事が必要である。是に於て投票の、一票も自由の精神が之に宿らなくてはならぬのである。個人の独立、個人の自由と云ふものが集合して、遂に自治となる。帝国憲法は、国家の自治である。国民が集合して而して国民的勢力が議会に集注さるゝのである。国家的勢力は、何によりて導かるゝかと云ふと、即ち輿論である。此輿論の勢力が、議会に集中されて、始めて帝国議会の威厳、帝国議会の信用が茲に成立つのである。此の如き憲政は、輿論によって導かるゝものである。而して輿論其ものは、知識ある階級によって支配せらるゝのである。然るに、往々世の俗人は過ってだ、政治は俗なるものである、自己は学者である、自己は実業家である、一は宗教家である、一は何の職業を持っているのであると云ふて如く、国民の中等階級、知識ある階級が政治から退けば、到頭劣悪なる一種の政治的商売が起るのである。従来の党派は、往々其弊に今陥りつゝあるのを遺憾とするのである。此度の解散によりて、此度の改選によって、国民は稍々自覚を始めた事を喜ぶのである。

 

【五一四】社会学上より観察致しますると、社会の統制力の最も大なるものは法制禁令。法制禁令は社会の表面に現れたる行為を支配するものである。其の精神界に働く所の統制力は、宗教に於て、或は学者の議論に於て、殊に著しく統制力の盛んなるものは、新聞に於て現はるゝのである。斯くの如き統制力がだ、政治上にも、社会上にも、風俗の上にも、大なる力を持つと信じますんである。精神が麻痺するとだ、悪を悪とせず、遂に廉恥の風が段々衰へると云ふ事を惧るゝのである。是に於て、官吏も過が多いんである。議会も過が多いんである。社会も亦過つんである。之れは社会の統制力が、薄弱なる証拠である。吾輩の内閣組織以来、昨年の五月に発表した所の政綱の一つに、先づ人を治めんとする者は、自ら始めなくてはならぬ、是に於て官吏の厳粛なる規律を論じたのである。是に於て廉恥の風と云ふ文字を表はしたのである。此廉恥が社会を統制するに、非常に大なる威厳を持ったのである。此威厳がなくなれば、此道徳の制裁がなくなるのである。法律はだ、三百代言的に行けばだ、どうかすると法律は免るゝ事も出来るか知れん。然し乍ら、社会の制裁は之を許さぬのである。社会の制裁が之を許せば、民免れて恥なしと云ふ有様に陥るんである。社会は堕落する、社会が堕落すれば政治も凡ての国家の進運は、茲で止まるんである。甚だ恐るべき危機に臨んで居るんである。然るに此忠良なる、啓発なる国民はだ、議会の大権に遭遇して、国民の愛国心が勃興して、而して静かに顧みて、現在の政治の状態を満足しないと云ふ状態は起ったのであります。其時に、此選挙が現れたのであります。

 

【五一五】今、世界の強大なる独逸と、英国、仏蘭西、露西亜と聯合して、今方に戦ひつゝあるんである。帝国の地位は世界に大なる、今変化をなしつゝあるんである。帝国の地位は疑ひなく、世界の最も進んだ文明国と共同の地位に達せんとしつゝ在のである。此の如き時に於て、些々たる国内の外交、財政、或は国防、其他の政治上に於て、党派的観察を以て争ふとは何事ぞ。斯の如き者に向っては、自ら輿論の大なる勢力は、之を破ると云ふ必要に逼って居るんである。又凡て今日までの党派の弊はだ、如何に強弁せんとしても、覆ふ可らざる弊は、到る処に存在して居るのである。是が此選挙に臨んで国民の覚醒を促す所以である。茲に於て輿論の大なる勢力は、茲へ現るゝことを望むんである。国民が自覚して、自己の貴重なる国家に対する義務を、充分に自覚すれば、此選挙の効は、実に大なりと信じますんである。斯の如き日本は過渡期に立ってをるのである。日本帝国の地位は、此一歩を誤まれば、国の運命、国の安危栄辱の係かる、大切なる時機であると云ふ事は、国民も大に自覚しなくては成ぬと私は信ずるのである。是に於てだ、愈々此輿論の勢力の大なる事を、私は認むるのであります。此輿論の勢力がだ、帝国の将来の運命を支配すると信じますんである。(大喝采)

最終更新:2017年08月05日 19:28