第二十一課 おしん物語(上)
おしんといふ少女は、或町の商家のむすめで、十歳の時、實の母に死別れた。運わるくも、後の母は、善くない人であった。おこまといふつれ子と二人で、おしんを惡み、父が留守になると、色色の無理を言って、いぢめる。裁ち縫ひから、拭き掃除、流し元の仕事、走り使ひまで、おしんに言ひつけ、髪も結ってやらず、粗末な着物を着せて、下女も同じ樣に逐ひ使ふ。おこまは、それに引きかへて、常不斷、絹物ぐるみで、我儘勝手に遊び暮してゐる。それでも、心だてのよいおしんは、少しも怨まず、すなほに、いふ事をきいて、仕へてゐた。
或時、或華族の別邸で、園遊會があって、おしんの家へも、案内状が來た。母親は、大悦びで、おこまが晴着にとて、新に、反物を買ひ入れ、是非とも、三日の間に仕立てあげよと、おしんにいひつけた。
これは、おしんが、裁縫上手であるからでもあれど、一つは、例の難題をいひかけて、いぢめるのであった。おしんは、三日の間、殆ど寢ずに裁ち縫ひして、ちゃんと、其の日にまにあはせた。その日になると、おこまは、朝早く起きて、|化粧《ケシヨー》をして、晴着を着飾って、母と一しょに、園遊會へ行った。おしんは、臺處に、只ひとり、しょんぼりとして、|雜巾《ゾーキン》をさしてゐると、どこからともなく、一尺程の、小さな|辨天《ベンテン》樣がはいって來て、可愛らしい聲で「おしんや、お前、園遊會へ行きたくはないかえ。」といった。おしんは、「行きたい事は行きたいけれど、行かれませぬもの。」と云ふと、「何の、お前、行かれますよ。」といって、側の炭取を取って、「馬車になれ、馬車になれ。」と、扇で、ぽん〳〵と叩く、すると、炭取が、すぐ、黒塗の馬車になった。それから又、「鼠よ、來い〳〵。」といふと、鼠が二疋來た。「馬になれ、馬になれ。」と、又、扇でうつと、鼠が、すぐ、馬になった。「猫よ〳〵。」と呼ぶと、猫が來た。「御者になれ、御者になれ。」と、又、うつと、猫が、見るまに、御者になった。
おしんは、不思議がって、見てゐると、今度は、おしんの着物を叩いて、「帶よ〳〵、|緞子《ドンス》になれ。着物よ〳〵、絹になれ。」と、やはり二度づつ言ふと、見る〳〵、帶は緞子に、着物は、上下とも絹物になった。「さー、よい〳〵、すぐに、此の馬車でお出掛。しかし、どの樣に面白うても、夕方の六時には、お歸りよ、きっと忘れまいぞ。」といって、おしんに、扇を渡して、馬車に乘せて、「御者よ氣をつけて。」と言ふや否や、馬は、一散に駈け出した。
第二十二課 おしん物語(下)
華族の別邸では、りっぱな人達が、けふを晴れと、着飾って、澤山に集ってゐる。しかし、おしんの姿が、一番立ち優って見えた。立ち居、振舞、言葉づかひまでが上品ゆゑ、皆が褒め、殊に、この家の若殿までが、大層感心して、特別にもてなした。
おこまは、とうに來てゐたが、おしんの身なりが、あまりりっぱゆゑ、おしんとは、氣がつかず、どこのお孃樣かと、羨しさうにながめてゐた。
兎角するうちに、日が傾いて、もう六時に近い。辯天樣と約束の時刻は、今、と思って、おしんは急ぎ歸らうとした。主人方も、客方も、おしんに歸られては、あとが、火の消えた樣になるから、と言って、留める。これから、色々面白い餘興があるから、と、皆が留めるを振り切って歸るとて、つい、扇をばおき忘れた。
家へ歸ると、不思議や、馬車も、馬も、御者も、炭取になり、鼠になり、猫になった。着物も、もとの逋りの、ぼろになってしまった。
二三時間たつと、おこまも歸って來た。おこまは、「けふの園遊會は、にぎやかで面白かったけれど、一人、どこからか、奇麗なお孃樣が見えて、若殿にまで褒められ、大切にもてなされてゐたので、わたしは、羨しくて、くやしくて、泣きたい樣であった。」といふ。おしんは、氣の毒に思った。
さて又、華族の邸では、おしんの早く歸ったのが殘り惜しいので、翌日も、つゞいて、園遊會を開き、おこま親子をも、又、招いた。
おしんは、昨日の通り、臺處に、雜巾がけをしてゐると、きのふの通り、辨天樣が現れて、「おしんや、今日も行きたくはないかえ。」と云ふ。「はい、行きたいけれど、今日は參りますまい。なぜなら、おこまさんがくやしがるのが、氣の毒であります。それに又、けふは、きっと留められて、六時に歸ることが出來ますまいから。」といふ。
辨天樣は感心して、「それは、善い心がけ、それでは、けふはおやめなさい。その代り、今に、褒美をやりませう。」といふうちに見えなくなった。
園遊會では、昨日の令孃が見えぬので、客方も主人方も失望であった。しかし、どうかして、今一度逢ひたいといふので、置き忘れの扇をしるしに、町じゅーを尋ねた。「この扇の繪を御ぞんじの令孃があらば、當家の若奥樣に貰ひうけたい。」といって、一軒一軒に聞いて廻ったが、知ってゐる娘は無い。とう〳〵、おしんの家まで來た。やはり、知ってゐるものは無い。
すると、臺處から、おしんが、きたない身なりのまゝで、出て來て、「それは、波に白菊の模樣でありませう。」といった。その逋りであるから、びっくりして、おしんを見ると、着物は、いかにもきたない。しかし、品格といひ、樣子といひ、先日の令孃に相違ないから、早速立ち返って、その由を傳へると、すぐに、縁談がまとまって、おしんは、華族方へ嫁入することになった。
おしんは、昨日のぼろに引きかへて、けふからは、|綾《アヤ》錦を着る身となった。しかも、その錦は、六時過ぎても、翌日になっても、ぼろにかへらぬ綾錦。これが、日ごろの心懸けのよい報いであった。