『史談会速記録』第3輯(明治25年12月7日) pp.75-112
明治二十五年九月二日午前九時三十分着席 市來四郎君講演
吉木竹次郎速記
○島津久光公の修史に關する意見 附 島津家史料編録の順序
○同家舊記保存の顛末
○藩廳公簿燒棄の顛末
○齊彬公世繼の顛末
丁野君(遠影) 此内より願ひ置きました、久光公御在世中修史の事に御熱心にて、夫れをアナタに御命しになりました御次第は、誠に貴重な御事と存しますれば、今日は其御咄を伺ひとう存します、
磯野君(佐一郎) 前頃伺ひましたる久光公修史の事に付思召の次第は、實に皇室の御爲め必用にして、又國家將來の龜鑑と仰くべき尤も貴重の御事なれば、願くは詳細に御咄あらんことを希望致します、
市來君 ナルホド久光の、修史の貴重なることと、
先帝の御事蹟の、遺漏なく後世に傳へさせられんことに熱心なるは、少し許り承り置きたる次第もござります、今日は御望にまかせ、記臆せる丈けを一と通り御咄し致しましう、然るに私は御存しの如く、昨年中風症に罹り、其後口もつれいたしまして、十分に御咄か出來兼まするのみならす、元來不辯、殊に薩言は御分り兼でござりましやうが、其邊は御用捨の上御遠慮なく御質問を願ひます、扨て島津家編集より始ます、久光の、忠義と相談致しまして、編修事業に取掛りましたは、明治十五年の春からでござります、其時先つ先代齊彬の言行録を調べよと申付けました、御存し通りの不識なる私に申付けたる所以は、鹿兒島にも老年輩や、又は齊彬と同時世の者も澤山居りますけれど、夫々顯要の官職に就き、在麑のものは至て寡ふござりますから、實に鳥なき里の蝙蝠とやらで、私か少しく事蹟を記臆せるとか、或は若年の時分より考證學か物數寄て、筆記した書類がござりましたからのことで、私の口よりは甚た申し兼ねますれども、俗吏は俗事に多忙で、時事の筆記などは致し得ませぬから、別に記したものも少ふござります、夫等のことよりして私に命したことゝ考へます、尤も私は壯年の頃より、庭方役を勤め、齊彬か嘉永四年、家督後歸國致しました夏、城内の外庭に製藥館を創設して、製煉分析術等を致させました、此外庭と申すは、本城休息所より、僅に一丁足らすの所で、齊彬は夕方より散歩旁に、毎日程此所に參りまして、色々な事を下知致しまして、是を樂に致しました、夫れが爲めに私は研究した事が澤山でござります、ケ樣に私は其方に使はれて居りました故に、齊彬とは直接に話しも致しました、之れか則ち私が齊彬の事蹟を少し許り、記臆致し居る原因でござります、又製藥分析等に關する洋書の調方は、松木弘安乃ち今の寺島宗則、八木稱平なと申す輩て、實業を執りしは、私共の三四名でござりました、
丁野君 醫藥製煉でありましたか、
市來君 サヨウ、それに砲術に關する事業、又は製鐵大砲製造則ち反射竈の建築等も兼ねました、私はソウイフ所から、齊彬と直接に話も致し又間には色々機密の用向も申付られました、或は琉球に遣して、外國接待應接等の事にも使われました、此れは多端の事柄でござりますから、外國事件に付て、後日の御話に致しましう、ソンナ續きよりして、齊彬の言行録を調べよと云ふ事を、久光、忠義より申付られました、
丁野君 イヅレの藩でも、一体正面の役目の重ひ方は、却て機密の事柄には關係せざるもので、既に西郷隆盛君の機密を、照國公より御命しになりましたると同じことで、唯事柄の替りたる迄のことでありましたろふ、
市來君 サヨウ、西郷も始め江戸に出る時分迄は、齊彬に目通りはせぬ役目で、中小姓と云つく供方でござりましたけれども、御承知の西郷でござりますから、齊彬も西郷が人物使ふに足る事を聞きもし、或は書面等にても人となりは知り居りたりと見へ、ソコデ直接の用向を申付ねばなりませぬから、庭方役を申付けた譯と心得ます、以前は御承知の通り、何事も幕府の仕向きに習ひまして、御庭番の仕向きと存しますか、庭方役は庭より出て、椽側から直接に話をする樣になつて居る故に、小姓や小納戸など丶同じく能く話しが出來ました、ソウイフ都合で、庭方役を申付られ、私も其同し役目でござりましたけれども、素より西郷と同一の私ではござりませぬが、庭方の役名を以て、製煉館の事を執り、ソウイフ所から、齊彬の事蹟を少しく記臆致しましたから、言行録の編輯をも請合ひました、乍併言行録は、現今に至りても未だ全く脱稿は致しませぬが、已に百三十卷ばかりになッて居ります、又時々久光、忠義にも質問しまして、私一己の記臆ばかりで、編輯したものではござりませぬ、其上近頃は、水戸家、越前家、宇和島家、池田家等より、澤山の書類を借り蒐めまして、右の冊數になりました、猶折角探して居ります、然して明治十八年でありましたか、久光の申されまするには、拙者は維新前後に御先代(を云ふ齊彬)の遺命を繼き、聊か國事に盡したことで、夫れを書き遺したいと思ふけれども、一向ソウモイカズ、是迄段々申付けた人もあッたけれども、頓着なく已に拙者も老年で、何日死ぬかも知れぬ事なれば、子孫にも其事實を傳へたいと思ふて居ると、私に申聞けましたから、夫れは固より私も希望致す事で、言行録を終りました上に、其編輯方を御願ひいだす心得でござりましたと答へましたが、夫れでは骨折れと申付ましたから、不束の私恐入りますれど、御沙汰にまかせ、御請け致しますと答へました、ソウシテ二三日を經て、忠義の家令東郷重持と申す者と、一緒に久光の目通をしまして、編輯に付て色々の事を申陳べ、一局を鹿兒島下町の別邸内に取り立、言行録は勿論維新前後の事實の調に取掛りました、書名は則ち舊邦秘録と、久光の自から名付け、書き付けて私に渡されました、其時久光の申されまするに、秘録と言ヘば大層な様であるが、他に憚る事もあり、或は内外國事の機密に罹り、世上に知れぬ事も記さねば、後世の爲めにならぬと云ふことで秘録と名付けた、又拙者も老年になッて、何日何時死ぬかも知れす、是迄親子の間にても企ッて、過きし事柄等を咄しすることも調わす、適々咄し聞かせるにも一口咄して續けた咄を致す事も出來けない、依てどんな事も遠慮なく尋ねて筆を取る樣に致せ、若しも自分か今日ボツタイ(ボツタイとは死する方言)すると、事實の分らぬことになるから、今の内に注意して充分質問するがよいと申聞けました、故に夫れは如何にも御尤ものことで、貴賤共無常の風は免かれぬもので、仰せの趣きは誡に後世の爲め格別の思召、國家の爲め朝廷の御爲めに貴重なる思召でござります、委細畏りましたと答へました、又久光は維新前後の事を書きてある書籍は、澤山出版にもなツて居るか、其中には誤りが多く、則ち拙者か事に就ても、或は褒め過ぎた事もあり、間には失敬な事もあるが、必竟當時秘密に屬して、世上に現はれぬ事で尤なれども、凡そ歴史は當時の事實を眞直ぐに記すこそ肝要であるから、若し此儘に後世に傳はりては、誠に遺憾な事である、拙者は島津家の末子で、一門の列に加り居るも、今日斯く難有身分になりしも、御先代の御遺志を繼ぎて、聊か盡した譯で、全く御先代の遊されたものと思ふから、詳に事實を記して置ねば相濟ぬことであるから、遺漏なく調ぶるがよい、ソウスルト夫れが、後世の歴史の材料になるであろう、維新の御事業は、開闢以來未曾有の沿革であるから、其事業を遺漏なく記して置ねば、後世に至りて誠に遺憾な事で、事實が瞹眛、糢稜、錯誤に渉う、後世に疑惑を抱く樣にありては、第一文明に御誘導の陛下の御精帥に反く故、其邊にも注意して毀譽褒販を顧みす、取調るが肝要である、自分も辞職以來閑散無聊に苦む位であるから、眼の明いて居る間は、朝廷の御爲め、國家の爲め盡さねばならぬが、頑愚の身で今日の世に用立つことは出來す、唯修史の事を後世に傳ふれば、
先帝の艱苦を甞めさせられ、維新の大業を遂げさせられし御事蹟も千歳に傳はり、恐れながら御歴代の御規鑑、御追孝の御一端にもならう、决して私の爲でない、其上歴史は政務の龜鑑である、尊王の説我が薩摩で起りしは、水戸の大日本史或は山陽が外史などで、夫れから追々盛んになッたので、大日本史などは、維新の基ひと申しても宜しひと思ふ、今日拙者が莫大の朝恩を蒙り、位も人臣の分を極めたるも、全く齊彬公の賜と考へる、此賜は齊彬公か密かに、
先帝の御眷顧を蒙らせられたるからの事で、誠に難有譯で、尸位素餐で眠むるは遺憾であるから、維新前後聊か國事に鞅掌したる事を修纂して朝廷に献したらば、必す御參考になるであろうと思ふ、之れは今日の思ひ立ちでなく、明治七年に、修史の大事なる事を奏上したこともあり、其後書付を以て申上けたこともあり、
先帝の御艱難遊はされた次第、歴史の必要なる事を言上したる事もあり、又岩倉、三條などへも談したこともあり、夫れから修史局も立派になりしものと思ふ、且つ其修史局の掛は、重野厚之亟などにて大に手を付くると聞て喜むだ、
丁野君 今の安繹氏のことでござりますか、
市來君 サヨウ、然るに久光の申されまするに、ドウイフものか、其取調べた書は今に見たことはない、且つ安心にならぬ事がある、何んとなれば拙者が書類も澤山ある、其書類は未だどこにも出さぬ故に、拙者が聊か盡力した事に就て考證を得るものがあるから、修史局の調は實を得たるものか得ぬか、未だ見ぬうちは何とも言はれぬと申しました、私申しまするには文躰は、漢文体に致しましうか、東鑑樣に致しましうか、如何なる文体に致しましうかと尋ねました所が、久光の申されまするに、成程ソウデある、漢文体でも東鑑風でも、宜しからうが、一体歴史と云ふものは治國平天下の大龜鑑なるは云ふ迄もなし、今囘の取調方は、先つ史料にして事實の遺脱、誤謬なきを本旨とし、婦女子も分り易ひ樣にせねばならぬから、漢文体や、東鑑風や、或は四角な文字を用ふれば、文字の遣ひ方等にも時日を費し、又は飜譯せねばならぬ事になるから、先つ第一に事實を確かに擧げて置けば、漢文でも、和文でも、洋文でも、後世に學者が出てやるだらうから、事實を一日も早く確めるを第一とするがよい、今申す通り自分がボツタイすると、自分か知つて居る分は消へる。既に小松、西郷、大久保もなくなり、今殘り居るは岩下、吉井其他四五人位で、其外は第二流、第三流の人で、本途の事實は知らぬと思ふ故に、文章は後にして事實を先きにし、事實さへ取り置ひて、後世に傳ふれば宜ひではないか、今の新聞体の文章は、俗語も漢文も交り、事實を能く書き盡さると思ふから、其体に認め置くがよからうと思ふが、如何であろうと申されました、如何にも御尤の事で、私が下手な漢文の眞似でも致しましうが、仰の通り事實を第一にして、文躰を平易に致しまするは、誠に仕合の次第にて、特に仰の通り事實を主としますれば、後世學者が出て、ドノヨウの文体にても作りませうから、御沙汰の趣畏りましたと答へました。又久光の申されまするには、今日流行の假名交り文体は、元來漢文体より出たるものにて、今では國文と云ふても宜ろしひかと思はる、婦女子にも能く意義が分り易ひから、史料の記事には至極適當なりと思ふ、先づ今日の話しは大体の事で、是れから何日何時でも厭わないから、問題を設けて質問致せ、問題がないと話しが致し惡い、又其當坐考へ付ぬ事は、夜分なり、寢覺なり考へ、追々咄しをするから遠慮なく質問せよ、拙者が生きて居る中に、大体の事を調へ骨組みを拵へて、そうして外々の人に聞糺して、添削せよと申しました、其日の話しは右通りにて、追々と手許の書類を出して呉れましたから、段々取調に掛りました、何分御承知の通り、鹿兒島は明治十年の戰爭の際、城下は丸で燒野原になりましたから、家々に保存して居るものも過半燒けますし、藩廳の書類は、故縣令大山綱良が、在職中に燒き棄ましたから、公書と云ふ者は大概なくなりました、唯僅に遺りたものは、舊時城中の式臺の次の間を、御番所と唱へまして、道具なども一緒に格護しまして、何時でも擔き出す樣備へてござりました、侍四五人、足輕二三十人づ丶、畫夜詰切りにて不寢番を致す所がござりましたが、其處にあツた書類丈殘りまして、他は皆燒けました、此書類は系圖其他貴重なる書類でござりました、又久光の手許保存の書類は殘りました、又大山綱良が縣令の時は、一種特別の縣制で、舊習が脱けぬと云ふ所から、藩廳の家老坐、大監察局、其他公用帳簿類、土藏に詰めて有りましたのも、悉く綱良が指揮で燒き棄てました、夫故今日取調べまするにも考證の書類はござりません、又江戸藩邸の帳簿類は、丁夘十二月廿五日、酒井家其他の兵で、邸内に浪士を圍ひ置くとのことで、燒き拂ひになりましたとき、悉皆燒かれました、夫れで今殘りて居るものは、久光、忠義の手許の分丈けで、久光の手許の書類は、十年の爭乱には、土中に填めました込ので、六十余日間も土中に填めて在りましたから、文字の磨滅したるもござります、
丁野君 夫れは御庭内の土中に、埋めてありましたか、
市來君 庭を堀りて、箱に容れながら、填めたのでござります、
丁野君 アノ時に、御殿は燒けましたネー、
市來君 左樣、燒けました、本城は明治六年に燒けまして、久光住居の二の丸は、同十年九月に燒けまして、其後今の伊敷村、字玉里邸に移住いだされました、
丁野君 山内家は、一代毎に手許の書類は、死後に燒捨る例と申して、蓉堂が死後も露通り燒ひたソウデズ、其時燒捨に掛りのものが、拔き取りて匿したことが、後に露れて罪したそうでござります、
市來君 島津家は、右様度々の災に逢ひまして、公書類は全くないと申す譯で、寔に遺憾でござります、則ち天保十五年の春、琉球國に佛國軍艦が參りまして、國人を在留せしめ、夫より外國の騷ぎが起りましたは、御承知の通りで、其時の公書類は、過半なくなりましたが、一昨年水戸家に御保存書を、服部君より借用いたして、寫取りました、ケ樣のことで御互に御取遣りしますると、何れかに傳り居りまして、大幸なことでござります、其書冊は烈公に、齊彬が御貸し申しましたもので、御往復書も御保存になりて、誡に確だるものでござります、又私か今確かに考證に致しまするは、舊藩内では鎌田出雲が日記、大久保利道が日記、桂久武が日記、伊地知正治が日記、小松帶刀が日記、道島正亮家記、樺山資之日記等の數部にて、其他にも少しは益になる書もござりますけれども、皆多くは表面に顯はれたる事柄のみを記したもの勝ちにて、事の源因始末を記したるものは、甚だ寡ふござります、御承知通り歴史の眼目は、其事の源因よりして、初中後の事實が肝要なことで、兎角日記の如く當時日々の事情顛末を知り、而して發表に至るの事情を專要に調べるを肝要と存じます、久光も其邊の事を肝要にしらべよと申聞けました、又御互に今日の如く有功の御方々を御招待致しまして、現實のことを御質問致しまして、誤謬遺脱を正し、又は速記して後日の考證に供へまするは、實に必要で、久光在世で聞かれましたらば、嘸そ滿足せらる丶であらうと存じます、或る日久光の目通を致しまして編輯事件の話に、拙者在職中、維新歴史編輯の肝要なることを、三條、岩倉に、上奏あらんことを談せしこと三四回もあつたが、兩人共に同意と申された故、多分上奏に及びしならん、中にも岩倉は、至極肝要なこと丶申されたから、御互に聊か盡力したる事蹟を記して、後世に自謾しようと思ふてゞはない、
御上の一視同仁の思召を以て、功を賞し、罪を罸せらる丶は政務の要、殊に維新の大業は、
先帝の叡慮を煩させられしと、御徳澤に依ることなれば、今日之を表頌せらる丶は、恐ながら御孝道の一端、御國務の第一義なるべく、又大義名分と云ふことの、國人の腹に浸みたるは、則ち大日本史の如き、日本外史の如き、國史纂論の如き、新論の如く、全く歴史の功能と云ふべきなれば、殊に此樣日に増し、外國學か盛なる時世になれば、勿論正確なる國史に善惡正邪の分を明にし、善正を賞揚し、邪悪を筆誅して、後世を規誡せらる丶が肝要であるから、古今内外國史を勅撰せられし例に、傚わせられんことこぞ望ましけれど申したことがあツた、岩倉は殊に同意てあツた、拙者も上奏したこともあツたと申されました、私申すに有名なる岡某が尊攘紀事は立派な文章で、重野などが序跋なども見へますから、事實に於ても遣脱誤謬はなきかと能く〳〵閲まするに、照國公安政の始、天拜密勅を奉せられしことを、大に賞賛してござりますが、是れは至極結搆の説ではござりますけれども、事實は全く誤りで、素人は之れを信じましやうが、當時の形勢、時態を知りだる人は誤謬とか、杜撰とか附會緊とか申して、卷を投つかも知れませぬ、重野や、伊知地などが序跋も、全く無用に屬すべしと考へます、且つ後世の人は有名なる岡が著書に、重野などが序跋もあれば、本途の事ぢゃと異説が起りて、累をなすかも知れませぬ、ケ様のものでござりますから、能く事實を討究せねばならぬこと丶存じますと申しました所が、久光の申されまするには過日も云ふた通り、則はち拙者がことに就ても賞め過ぎた事もあり、間には迷惑の事もあう、之れを今のうちに訂正せずしては、後世に害を流すから、能く心を付けねばならぬ、重野が楠公高徳の咄の如く、後世に疑惑を生じ、人心を煩す樣なことになるから、能く氣を付けねばならぬと申されました、私の答には、御尤の御言葉、重野などの博識なるに、楠公や、高徳の説には、大に人心を惑し、中には尊王家の怒に觸れますることでござります、殊に修史局の職員として、アノ樣な説を出しますると、歴史も反古紙同樣に相成る譯で、折角官幤社迄御取建になりしものなれば、大に信仰上に關する一大事になりますから、學者は其邊をも厚く考へて貰ひ度きこと丶存じます、畢竟之れも討究が足らぬと、文獻の乏しき故と存じますれば、私共には能き誡めでござりますと答へました、又或時久光の咄しに、昔と違ひ日々飜譯書など多く出來、我日本は世界無比の國柄である、天子は百王連綿、千万歳に榮へ玉ひ氣候温和五穀も良品を産し、人心純艮にして茅出度國で、已に數千年の今日迄も他姓を交へたる王位あることなく、随ッて革命など丶云へる恐るべき心の起らぬ國柄なれば、人心輕薄になり行くも、至尊に對し奉りては敢て、何の彼の云ふ者なきは、外國に例なきことならむ、徳川氏の失政より、人心紊亂せしも、今日の盛世と成りしは、全く至尊の御恩徳と數千年來の歴史上薫育の功で、御維新の功業史は世界に誇るべきことであると、力を盡し精を究めて、詳密に記述して千歳の模範としたきものである、則ち此歴史は西洋人より見れば幾十万の甲兵、幾十の軍艦、何程堅固の砲臺より丈夫に思ふならん、地理人和に若かずと云ふに庶幾らん、万里の長城も一朝無用に屬したるも、人心の和不和に基ひした事など、其他色々の話しを致しました、私には元來歴史の必要なるは、國家の安危存亡に罹る大事と存じますから、不肖無識の分を顧みす、只管從事致しまして、殆んど十年許になりますが、是非目の明ひて居る内に脱稿したいと存じますから、最初より家事向等には一切關しませぬ、乍併未だ御覽に入れる程の草稿も出來ませぬ、實に恥入る次第でござります、已に御話し致しました通り、公書類が丸でなくなりましたから、編輯には餘程困りましたけれども、私は若年の時分より色々な事を書き集めまして、石室秘稿と名付近頃迄五六百冊になりてあります、又二十歳の頃より今日まで日記を記しますが、家事などの事は置きにして、重に世上の事柄を書き留めました、又私の實兄は宗道と申まます、則ち寺師が父でござります、同人も色々筆記致しまして、夫れも三百餘冊になりて居りますが、編輯には之れ等の書類に付て骨組みを立置き、そうして門閥家等の書類は、固より縣内中を探し、又は諸家様よりも拜借し或は御互に質問等致し、補缺致しました、實に度々の災厄で、島津家の編輯は、本當の考證書はないと云ふ位でござります、已に取調べました分は、久光が申聞けました通り、新聞体の文章で、久光が存命中は、自から添削しましたものは、數百冊に及んで居ります、ソウして久光が添削した上は、忠義に廻わし、忠義は又自分の考へや覺への程を書き入れます、未た舊邦秘録も完全にはなりませんけれども、大凡三千六七百冊になりて居ります、私は筆者で、久光、忠義父子の著書でござります、久光が死後は忠義、忠濟の兄弟で添削します、之れが先づ舊邦秘録の成立の概畧の御咄しでござります、
久光に質問に出ましては、假令少々不快な時も、床の中でも話して聞かせました、或時家令東郷重持と倶に目通しまして、文久二年に始ての上洛、則ち伏見寺田屋事件を質問致しましたが、久光は病中でござりましたけれども、此事は肝要な事柄であるから、之れをスツカリ語ると、中々今日中には話し盡されぬから、夜に入ると申されました、故に御病中のことなれば、他日に伺ひませうと申ましたけれども、久光はイヤサヨウデナイ、决して苦しからず、此事丈は今日話して置くと申しました、丁度其時は午後二時頃でござりました、夫れから原因より委しく話して聞せましたが、私共も初めて聞た事が澤山ござりました、丁度暮方に及びました、私は質問しながら筆記致し、又編輯の事に付色々下知も加へました、其日は夫れで引取りて、翌々日先きの話の續きを聞ふと思ひ參りました所が、家人等の申しまするには、一昨日貴殿方の帰りになると御震ひつきなされて、御苦みで醫者よ何よと心配致しましたとの事にて、私には大に驚き、夫れは甚だ不都合な事で、御病中餘り長坐を致し恐縮でござります、其節御病中故、他日伺ひませうと申上ましたけれども、何に苦しからぬとの仰にて長坐仕りました次第何共恐れ入ります、今日伺へとの御沙汰でござりましたけれども、差控へませうと申しました、家人も今日はおやめの方が宜しからう、併し御快氣ではあると申しました、私には此日は目通りはせぬ心得にて居りましたが、
丁野君 御家人は御側の御婦人でござりましたか、
市來君 家令家扶でござります、ソウして話を致して居る中に、婦人共が出て参りまして、家人共と何か用を談する樣で、其ものが私が出邸して居る事を、久光に告げたと見へ程なく呼びに參りました、然るに震ひ付れた末でござりますかへから、辞退しましたけれども、家人共も御呼ひだから御出でなさいと申しましたから、目通りに出まして、私申しまするに、唯今承りますれば、先日はあまり長坐致しまして御震ひ付きの御樣子、畢竟御話が御ヒタスラデ、退出の時間も忘れまして,今更恐れ入りますると詫び申しました所が、久光申されまするに夫れで愁あらうが覺へす話しを致した、之れは兼て能く記して置ねばならぬと考へて居ッた事で、前からの不快で、引續き震ひ出しだが、翌朝になりて直ッたから、今日は出るだらうと心待して居ッた故に、今日は先日の續きを話さうと申されましたから恐れ入ります、今日は御止めを願ひますとことはりましたけれども、久光申されまするには考へ付たこともあるからと申して、先日の話し續きに掛りました、私は先日の如く、筆記しました、之を親話記と名け置きました、是も數冊になりて居鴨ります、然れどもマダ々々聞き殘した事が澤山で、今になりて實に遺憾でござります、又久光の兼て申されまするには、拙者も老年であるし、又往時盡した方々には、近衛殿始め嵯峨殿、中山殿、大名には伊達殿、越前殿などで、いつれも今は老年の事で、無常の風は避けることは出來ぬから、元氣な中に聞糾して置くがよい、水戸殿や春嶽殿などは、齊彬公と御懇意の間であッだから、予の知らぬ事も貫ぬかれてあらう、老年の御事であるから、其方の都合次第にて、上京して尋ぬるが宜ひ、齊彬公御時代の事がよく分るであらうと思ふ、拙者には能く知らぬ、春嶽殿や伊達殿に就て尋ぬれば、能く分るであらう、維新前の事もソウデある、此兩人は御互に盡したことがあるから、能く、取調べて事實の齟齬ゼせぬ様に調べるが第一なり、堂上方では久邇宮殿下、近衛殿、嵯峨殿は勿論或は中山殿にも、元氣にして居らるゝから、此方々に就て聞けば分らぬ事はあるまい、我一家の事で置くでなく、全國又は宇内にも渉ることであるから、一冢の事と思ふと、本當の事實は分らぬ、拙者は拙者丈けの咄しするから、春嶽殿其他の人にも聞き、先づ一家の事から、基を立て置きて、そうして後他家に連帶した事に渉るがよい、今出版になりて居るものは、表面上の事のみで、一ツの詔の發するには、數日の朝議或は諸侯其他の議論も六ケ數きことであッたから、ソウイフ事實をも明記せざれば、眞正の歴史ではない、思ふに古の歴史は、能く事實を盡したものとは云われなひ、假令は幾万の軍兵を、何處に出すと云ふにも、兵粮の運搬は、どうした、弓矢はどうして拵へた、甲冑はどうした、斯く々々の命今になツた、夫等に付てはケ樣々々と、種々の議論があツたなど丶云ふ事を第一に記し置ねば、今日文明を唱ふる世になッたから、後世に笑はるゝことになる、又後世の歴史家が、其方や拙者か奇特な物を遺し呉れたと云ふかも知れぬから、其邊も能く心得ねばならぬと申聞けました、久光が病氣は、明治廿年の舊暦五月五日【雨天に付翌六日】に忠義の長男の初幟祝とて、織旗を立てます、其時久光は、忠義の邸に參り、夜に入りて歸邸の際、駕籠の中で風氣に感じまして、夫れが初めでござりました、
丁野君 忠義公の御邸は磯村【吉野村字磯】でござりますか、
市來君 ソウデあります、其翌日から煩ひ付きまして、八九月頃には稍快方でござりましたから、私は又も質問に出ました、九月の末方より病が重く、下痢症になりて、段々危篤に赴きましたから、高崎正風と吉井友實の兩人が見舞に態々帰りまして久光にも面會致しました、其時までは種々の話しも致しましたそうでござります、ソウして其時分兩人は、編輯所にも參りましたから、
先帝より久光に賜はりました宸翰の寫など拜見致させましたが、兩人も始めて拜見したことで、殊更吉井は驚きまして、成程宸翰御頂戴になツたと云ふことは、當時密に聞ひて居りました、今日始めて拜見しましたと申しました、夫れから久光も病が怠りまして、兩人共歸京致しましたが、吉井が陛下に申上げたと見へ、彼の宸翰を携へて上京せよ、實はケ樣々々と御沙汰があツたと照會致しました、然るに其後久光は病癒へませず薨去になりました、誠に殘念でありました、就ては朝廷よりは、鄭重な國祭を賜はりましたに依て、翌年春忠義、忠濟兄弟一緒に御禮旁々上京致しまして、其折簷翰を携へ、御直に御覽に入れました次第でござります、そうして明治廿一年の七月に至り、國事鞅掌の始末を取調べ、奉呈致すべき旨の御沙汰がありまして、御互に今日此樣に取調べる有樣になツたてござります、固より久光在生中申されました、此取調は决して一已一家の爲めでなく、皇室の御爲め、後世の爲めと口癖の如く申して居りました、殊に開國以來未曾有の沿革の事であるから、此様文明に御導きになる世であるから、錯雜不明なる材料を遺しては
陛下の思召にも相適はぬことであるから、極めて精密に調べて、後世に傳へなければならぬと、毎々申付けました、今日は大畧の話で未だ存生の年齢でござりまするに、質問も行届きませぬは、寔に遺憾の至りでござります、今申上げました通り、歴史編輯の貴重なことは云ふ迄もなく、御追孝の第一にて國家の爲めと云ふ事は、毎々申聞けました、之れは久光が平素の誠心てござりました、故に忠義、忠濟も其志を紹述致しまして、私共に督勵致す譯でござります、
岡谷君(繁實) 誠に格別な思召にて、皇室の爲め、我々も其御志を體認せねばなりませぬ、あの島津國史の編輯はイツ頃でありますか、
市來君 アレは、安永頃に出來たものてあります、
岡谷君 其頃は、編輯局が立て居りましたか、
市來君 其編輯は、學舘長の山本正誼と云ふ人で、學舘内で編輯したものでござります、
岡谷君 修史局に、島津家からの古文書が出て居りますが、鎌倉頃のものを其儘出したものでありますが、アレは御文庫の中より出されたものでござりますか、
市來君 島津家秘書中の三分一位も、普通のもの丶みを寫したものでござります、其他神社、佛閣に在るもの、又は家々にある古文書を寫して出しだもので、完全なものではござりません、
岡谷君 考證には、恰好なものであります、
市來君 古い神社、佛閣などに納めてありましたものには、參考になるものが澤山ござります、
岡谷君 中國筋より、美濃あたりには、軍が度々ありて神社仏閣にも、古文書はござりませぬ、日向大隅邊は古國、其上遠國で軍も少ふござりましたから、殘りて居るでござりましふ、
市來君 慶應二年の頃から、神佛混合を匡し、其時寺院は廢しましたから、寺院にあつた古文書類は、皆藩廳に引上げてしまいましたから、十年の兵燹に丸で燒け失せました、
丁野君 アナタの方は大山君が、書類を燒かれたと云ふことであるが、私の國は夫に裏腹で、藩主一代毎に手元の書類は、死後に燒棄るの例て、容堂か死後も、皆な燒捨てました、夫れで城下の南河原と云ふ所で、三日程燒きました、昔の事を知ると、御一新の御政治に害をなすといつて燒いたものもありました、私は其時アチラに參りては居りませんから委しくは知らぬが、後に聞きました、參事と權參事で、縣治をやッて居りました、皆燒いて仕舞ひましたそふです、
岡谷君 舊藩の(舊舘林藩)方でも、栃木縣へ引繼ぎまして縣廳より、舊藩時代の書類は、皆燒く樣にと、三度程も嚴達がありました故燒捨ました、
市來君 御承知の通り、去る十年戰爭の時分、貴重なる文書類は、舊城の北手に時鐘の樓がござ今ました、其後に文書庫がありました、其庫も燒けました、其文庫の内に貴重なるものは納めてありました、是を取り出して今に保存してござります、其文書は藩制中は城中式臺の二の間に、目見以上の侍が番をする所で御番所と唱へました、晝夜不寢番で大事に致した書類でござりましたが、十年の兵乱に久光、忠義には櫻島に避乱しまして、則ち九月一日西郷等が、再び鹿兒島に襲ひ參りました、急遽の事で、遂に西郷などは岩崎谷と申す所に立籠り、官軍は幾重にも取園みて、或は堀を堀り、或は竹垣を設けて、猫も犬も通れぬ樣に取巻きましタ、ソウして官軍は晝夜大小砲を撃込みましたが、文庫もはや燒けると云ふ危ひ塲合でありましたが、今の家令東郷重持が、其文庫にある文書類を出さねばならぬと申しまして、官軍に切に取り出し方を乞ひましたけれども、軍法上ドウシテも許されぬと申します故、東郷は其塲て身命を投じて、其請を允されざるに於ては、自决する所あらんとせしに、其精神に感して官軍も取出し方を許しましたから、自分は固より他の人々にも擔せて取出しました、其時若し東郷か夫程の决心の働きがござりませんければ、島津家殆んと七百年來の系譜、文書の貴重なるものは、悉皆烏有に歸するでありました、寔に同人の功と存します、
丁野君 實に其通りのことて、家財器物は金圓さへあれば、イクラも買はれますか、古文書類は决して其通りにはなりませぬ、寔に感心の事であります、
市來君 此文庫は、西郷などか立籠りて居りました所より凡そ二町ばかり手前で、ソコ迄參りまして、東郷は兵隊に護衞せられまして、系圖や、家譜や、其他貴重の文書類の入つて居る長持など數十個を出して、久光、忠義の避所、則ち櫻島に移したでござります、之れは全く同人の働で、其功は詳に記し置かねばならぬことであります、又久光が先帝より頂戴の御劒、御宸翰類も、九月の再襲に、久光も忠義も同樣櫻島に避けましたから、邸内の藏に仕舞てありまして、家扶家從の輩家族の者まて、邸内に居りましたが、男女共七八十人位でござりました、官軍は城山を攻撃し、晝夜大小砲を打掛け、邸中にも頻りに丸か落ち來りて、誠に危い事でありましたけれども、邸中より出ることが出來けす、家從共が段々官軍の方に訴へましたけれども、ドウシテも出しませぬ、然るに家扶の法元《ホウガ》太郎左衛門と申すもの、河村純義の親戚であります故、法元の妻なるものが、一同へ申しまするには、私か河村さんの許に參りまして、願ひましよふと、官軍の峭兵線に參りました所が、峭兵等は間牒と疑つて、線内に入れませぬから、左樣に御疑ひならば、アナタ方の手に掛けて下さいと决心を見せた所が、兵隊もそれに感しまして、河村の居る營所まで護邊してつれ行たそうであります、河村が所迄護邊の途中は、軍法ぢやと云て白布て眼をシバツテ、十人計りで護送したそうです、其女は河村に面會して、御邸内には七八十人の男女が居るのみならす、天朝より御戴きになつた大切の御品物がござりますから、夫れを出して戴きたいと訴へますと、河村も評議に渉りて、翌日に出して遣るから、軍法通りにせねばならぬと云て、時限を究めて送り返しました、則ち翌日は七八十人の男女と、久光が拜戴の品も悉く出ました、今日殘つて居るも全く其女の功であります、寔に此法元の妻の働は、島津家においては貴重な事でござりますから、私は今回の取しらべには、事實を詳記して參考の部類に入れる下稿迄して置きました、法元が妻は六七年前に死しましたから、其墓碑を書きて呉れと、其夫か申しましたから、可笑な文を作りてやりました、
岡谷君 御咄の如く、歴史の保護上大切なことてござりますネー、西郷か城山に立籠るには、女も逃けすに御邸内に居りましたか、
市來君 逃げることは出來ぬ、直ぐ城山下でござりましたから、
丁野君 西郷などが籠りて居る所は、城山の穴であると聞きましたが、
市來君 ソウであります、法元の息子は、現今分家の島津家に仕われて居るものでござります、東郷が働きと法元が妻の働きとは、島津家に於て貴重な品物の火災を免れましたことで、能其事實を記して置かねばならぬ事と考へます、
蒲君(義質) 御婦人の其働きは、後世の龜鑑になる事でありますネー、
岡谷君 軍は、殺風景でも、間にはソウイフ事がなければ面白くない、誡に美談の一ツであります、
市來君 大山綱良が、県廳の帳簿を燒いた時の事、お話し申しませふ、其燒いた書庫は、藩治の比は、記録舘の書庫で、此庫は齊彬の代に、近衛家の御文庫の構造に依りまして、堅固なる土藏を拵へたもので、廢藩後は縣廳を、其構内に建ました、然るに御承知の通、一種特別の縣制でござりましたから、縣令が、其文庫を統轄になつて居りましたか、御一新になつても鹿兒島は頑固で、時勢に順ふことはせぬ、文庫の書類は燒いて仕舞へと申したと云ふ事で、實は或る要路の人も申したと、其頃聞て居りました、私は其時分大山に用がありて出廳して見ました所が、藏の前の庭で燒いて居りますから、大に驚いて其藏に立寄て見ますると、人足共か擔き出して散々に燒いて居る、其藏に踏込んて見ると、松本武雄と云屬吏か下知を致して居りました、其中に御筆入りと云ふ小サナ箱があるから、之れはどうするかと尋ねました所が、焼くのであると申しましたから、サヨウなれば之れは自分が貰度と申しました所が、勝手にせよと申しましたから、私は喜んで箱を提けて出まして大山に面會して、お前さんはドウいふものかと申しました所が、ドブイフ事もあるものか、今日になりて此類の書か何になるものかと申しましたから、其儘持歸りて保存して、明治十一年に忠義が家令内田政風を以て献しました、私は臨寫して置きました、其文意は文武奬勵等、其他士氣振作等の事を令したものでござります、此の如き始末でありますから先刻もお話し申した通、維新前後の事實を考證する書類は、多くはなくなりて夫を蒐集するには骨が折れました、
丁野君 私の方で、安政の末に紙幤を拵へ、御維新の少し前に、再ひ大黒樣の像を畫ける紙幤を拵へ、又鯨漁幤をも拵へて、藩内に發布いたしました、御維新後夫を引換ねばならぬことになりまして、引替所を立ました、其時の人で、今生きて居るもござります、其鯨札と云ふが、凡二百万圓程と云ふ届出で、其札取扱したもの過半、其罪を負ふて皆罪せられました、夫等の事に關した書類は皆燒きましたことがあります、それとは、違ひ公簿を燒ては惜しきものであります、
市來君 齊彬が臨終の遺言に、貴重な書類は皆燒せましたが、之れには久光も遺憾だと毎々申して居りました、齊彬が病氣は、安政五年七月八日からで、其前方より、兵隊の操練に余程勉強して、炎暑も厭はす時々出張して下知しました、此日天保山と申す所で調練を催し、齊彬は例の通り出張しましたが、前晩から下痢に罹りて居りましたけれども、厭はすに出張いたして、歸りには小船に乘つて、釣を垂れよふと云ふ事でござりましたけれども、翌日は琉球人が態々鹿兒島に參りまして、對面の儀式を受けました樣子で、此の琉球人は八月には召し連れて、江戸に赴きまする筈でござりました、然かるに其儀式を受けますると、益々病が悪くなりて、十六日の曉方には最早自分にもいけない事を知りて、久光を呼ひまして遺言を申し聞せたソウデござります、其遣言は先帝より御内勅を蒙りしことで、志を繼ひで叡慮を安んし奉らねばならぬ、夫れから忠義を順養子にせよと云ふ事であつたそふでござります、
丁野君 齊彬公の御養子の事でござりますか、
市來君 忠義が、相續の事でござります、其前年の九月九日に哲丸と申す子が生れましたけれども、時勢と云ひ、御内勅と云ひ、幼少ではいけないと思つて、忠義を養子にして、哲丸を順養子にしよふと云ふ事を、久光に遺言したそふでござります、
丁野君 其の時御幾歳でありましたか、
市來君 十九才でありました、久光の答には京都の事は委細承知致しました、御安心くだされ、不省ながら盡します、乍併長男又次郎(忠義幼名)の相續は、御免を蒙り度存じますと辭退致しましたけれども、齊彬は承知しませなんだそふでござります、其時は、余程衰弱して居りました樣子でござります、尤も久光が出まする前に、山田壯右衛門と云ふ側役と、妾か枕邊に居りまして、細かに遺言を受け、美濃守殿には、ケ樣に申せ、或は城内製藥舘にある器械、書冊等も澤山あるから、是れは悉皆美濃守殿に贈れ、又某には何をやれと申付け、誰某には斯うしてやれと云付けましたそふでござります、又齊彬の子哲丸は、安政六年の春死ました、齊彬の子で今生きて居らる丶は島津珍彦の家内一人であります、其妹は忠義の妻でありましたが夫も死ました、妾と山田に遺言を爲す時に、枕邊にある貴重な書類がござりまして、自分か眼を塞ぎたらば、直樣燒け追命したそふで、其翌日右側役山田と、妾の計らひにて、城内浩然亭と申す所で燒いたそふです、密宸翰も數通あつたと申す事でありました、其中に
懸物に致した御製のみ殘りて居ります、其歌は確か、
武士も心合わして秋津洲の。國はうこかす共に治めむ
と云御製でござります、是れは掛物に致して貴重に保存してござります、安政五年の正月(死去の年正月)元日一門、家老の年始の式を受けまして、後に奥の書院で御製と、宸翰を拜見致させましたソウです、
岡谷君 御宸翰の御文意は、
市來君 幕府の失政を擧けられて、見込を附けて過を改めさせ、國威を輝すの策を樹てよとの御旨意てあつたと申傳てござります、其他水戸、越前、伊達、尾張樣などの御書翰類も、澤山ござりましたそふです、
丁野君 國家の爲め一大貴重なる御書類で、寔に遺憾な事でござりましたネー、
市來君 齊彬は四十二才の時、家督致し、若い時から心配の多ひ人でござりました、安樂なことは少しもない人でござりました、然れども今にては其徳望は犬打つ童子まて殘りて居ます、實に諺に申す如く、人は一代、名は末代迄と申すこと能く申したものでござります、若年より徳望ありて、國中一般早く家督して貰ひたひと希望でござりましたけれども、奸吏共が居て四十二才迄部屋住みで置きました、剰へ廢立を謀りまして、正論黨の巨魁には、高崎正風が親などて、邪黨の家老共を除かんことを謀りました所が、遂に發覺して屠腹を命しました、之れには南部、黒田、伊達、越前樣なとが、非常に御盡力下され、齊彬も大に心配致しましたが、諸侯方の御盡力で、お茶入れ拜領となり、却て多年の功勞を賞せられ、お茶入れを拜領しました、水戸、伊達、越前樣抔の御盡力て、齊彬は四十二才て家督致しました、是の事に關する書類なども、久光に告げすして側役と妾で燒ひたものであるから、私共か編輯に付きましては大に歎息して居りました、そこで貴重な物は皆手許に置きましたものと見へ、ケ樣に度々の災に、貴重なる材料は、過半はなくなりて、多くは諸家樣の御蔭で漸く蒐集しました、
丁野君 齊興公の御隱れは、
市來君 安政七年の秋でござります、
丁野君 齊興公の御隱れの後は、久光公は全く御國政に御關係でござりましたか、
市來君 表向に政事に預りましたは、文久二年の春からで、其内忠義を内輔いたしたてござります、齊彬は注意の厚き人で孝道を盡した、又奸吏の所爲は、齊興は全く知らすに、親子の間は隔りは、毫髪もなかつた樣子でござります、
丁野君 齊彬公を出さねばならぬと云ふた人は、誠忠の人々で、何人許りでござりましたか、
市來君 輕重罪、又は譴責せられたる人々まで、凡五十人許りてす、此事柄は、齊興は丸で知らす、家老や側役寺隆の所爲であツたと云ふことでござりました、明治十八年の冬、久光が鹿兒島名士傳を作ろうではないかと私に申付けました、久光が申しまするには、昔より鹿兒島には隨分名士が出たけれども、文事に拙ひ所だから、現れぬである、近頃には大久保や、西郷などは、世上に知れて居るが、其以前にも人物は澤山あるから、拙者も加勢するから、やらぬかと申しましたから畏りました、下稿して御檢閲を願ひますと答へ置きました、其の時久光の言に、文化五年に家老、側役、馬廻等か屠腹した事があるが、之れは内訌と云ふ程てはないが、然れとも幕府の忌諱に觸れての事と聞く、此輩は人物だと思へりと申聞けました、當時の藩主は齊宣と申しまして、重豪の長男でござります、則齊彬の曾祖父に當ります、黒田長溥公南部信順公の親で、膸分聰明な人で、開化好きの人でござりましたが、之れは則ち家齊將軍の御臺所の親である、ソコデ齊宣の家老樺山相馬、秩父伊賀と申す兩人か、巨魁で、國政の改革を初めました、則財政困難になりたから、夫れではいけないと云ツて、改革企てを致したが、早くも御臺所の耳に這入りて、重豪に告けられまして、屠腹を申付けました、其人數凡三十人位で、其外押込めになッたものを合せて八十人位の人數て、秩父伊賀と云ふ人と樺山相馬と云ふ家老と兩人で、秩父黨、樺山黨とまて云ひ囃しました、久光は之れ等のものともの事をも、今日迄逆人の樣な名を蒙りて居るが、其心は面自い輩であるから、此の言行をしらべやうではないかと申しましたから、私の答には、ソレは結構な思召で、私は友達中と申合せた事もござりましたが、左樣の思召でござりますれば、嘸ぞ靈魂も喜びませう、書類も少々ござりまするから、追々着手致しませうと返答しました、久光重ねて申しまするには、山田、高崎などの一件であるが、之れは拙者の事に關係した事と聞て居るが、其後側に仕ふ者などに聞くけれども、明らかに言ッて聞かせぬから、一向譯が分らぬが、仄かに聞くに本當の事と思ふが、誠に遺憾の事で、皆齊彬公御召し仕になッたものであるから、精しくしらべて人物傳に載せて置きたい、齊彬公より少しく伺ッた事もあるが、其時は心配したことがあッたりと、今日は申すに及ばぬことであるとの仰でありたから、恐入てお尋は出來なかッた、私答へには其時死ましたもの丶中に、私の友達もござりました、内輪の事を可なり心得ても居りましたが、仰せがなければ私よりも言上の出來兼ぬることで、今日は難有存します、其者共の子孫に仰の趣を申聞けましたならば、嘸ぞ難有存じませう又靈魂もさぞ難有存するでござりませうと答へました、
岡谷君 誡に結搆な御咄しでござりましたネー、久光公は寔に公明な御方でござりましたネー、
市來君 此の咄は、十九年の春の事で、吉井、高崎が歸縣致しました時、高崎に其事を咄しましたが、高崎は返詞も出來すに暫時は落涙して居りました、
岡谷君 ドウもサウは參らぬもので、久光公は實に御公明でござりましたネー、
市來君 サウして、久光が薨去後、翌年忠義、忠濟は御禮旁上京致しました時分、刀劍其他親の遺物及正風を誡めました書付、又は畫像などがござりまして、夫を一覽に供へまして、死後宥免と申す樣な事を致しました、其時正風夫婦子とも目通り致させまして、私にも供して參りましたから、則ち實况の御咄でござります、
今日は時限も迫りますし、又クダラヌ長話を致しまして、嘸御退屈でござりましたらう、
丁野君 今日は貴重なる御話を伺ひました、尚ほ後日齊彬公、久光公の御行状並に尊王に御盡しの始末を委しく伺ひませう、中にも編輯御熟心の事柄は實に万世に傅へねばならぬことでござります(一同立禮)
最終更新:2019年08月29日 10:30