京都三本木揚屋の中の間。舞台上手二重、座敷の心、上手より打廻して腰襖の障子。続いて一段低く板敷上より八間を釣下げ、中央に囲炉裏《ゐろり》。正面壁添に膳棚、欄間に定め書き。続いて繩暖簾の通ひ、台所へ続く心。舞台前よと下手へ打廻して土間。ずっと下手に格子戸の出入。続いて奥へ障子の嵌った出格子、この繊格子と二重下手とは小壁で絡《つな》ぐ。壁はすべて赤壁。
二重座敷には小蔦籠、鼓、縮緬手拭なぞ置き、舞妓四人呼ばれてきてゐる心にて二人は綾取をし、一人はお手玉を取って遊んでゐる。別に一人少し離れてつくねんと物案じ顔でゐる。
板敷には仲居二人赤前垂にて膳立をしてゐる。下手の框に廻しの男、ぶら提灯を格子へ下げ腰を伸して囲炉裏《ゐろり》で煙草を吸ひ附けてゐる。始終縫って騒ぎ唄。
廻しの男 おきのはん〳〵。家の岸野はんはまだ貰はれやへんのかいな。
仲居甲 さ、さっきもいうてぢゃけど承知々々とばかりで、いつもの通りの大酔ぢゃわいな。
廻しの男 あきやへんな。あの妓も酔はんとえゝ気質《きだて》やけど、いつもこれで弱らせられるなあ。まことに済まんこっちゃが、もう一度云うておくれんか。あと口がやい〳〵いうてぢゃ程に。
仲居甲 まあ、待ちいな。今|忙《せは》しいによって……
廻しの男 そないなこといはんと一寸頼みます。
仲居甲 そないにいうても今仕懸けた用があるがな。ま、も一服して待ちい。
廻しの男 あゝ仕様《しよ》ことがない。
(とまた一服する。こゝへ奥より仲居丙出てきて、舞妓《まいこ》達をみて。)
仲居丙 あれこの子達はまだこゝかいな。お客|様方《はんがた》はもう見えたがな。早う行きんかいな。(と物案じ顔の一をみて)おや雛勇はん、どないしやはった。気合でもわるいのかえ。
舞妓 いゝえ、さうやおへん。
仲居丙 ではどないしたの。
(雛勇黙って俯首《うつむ》く、舞妓の一人口を出して。)
舞妓甲 雛勇はんはな。襟かへが近々だんな。
舞妓乙 それで沈んでまんがな。私等《わしえら》が何かいふと直《じき》泣きまんがな。
(雛男顔へ袖を当てる。)
仲居丙 まあこの子は、襟かへとはお目出度いことやないか。御赤飯|炊《た》いて祝ふほどの事やないか。泣くといふことがあるものかいな。……さあ、早ういきんか。
舞妓甲 座敷へ往くは面白いけれど此の頃はお武家はんのお客はみんなお刀を傍へ引つけてゐやはるによって怖うてなあ。
舞妓乙 それで酔うてなあ昨日《きんによう》も菱屋はんのお座敷で剣の舞を舞うてみせうてなあ、長いお刀を抜きやはったので私等《わてえら》はきゃアって逃げたがなあ、岸野姉はんは酔うて居やはって空力味から肱をはって見て居やはったらお武士はんがすうと振りなはる拍子にあぶなく首が落ちる所《とこ》やったってなあ。
舞妓丙 あの怖《こは》。……姉はん、今日のお客はんもお武家はんやないか。
仲居丙 此頃のお座敷はお武家はんばかりで持ってゐるのやないか。お武家が怖うてはお座敷がありやへん。……
それに今日のお武家はん方は御年輩の立派な方ばかりやによって少とも心配なことはありやへん。早う往きい。
舞妓等 あい〳〵。
(と舞妓等打連れて奥へ入る。)
仲居甲 おとははん。お玉はんはどないしてゐやはる。
仲居丙 お玉はんはたゞ気合が悪いというてまだあの小座敷に俯伏《うつぶ》してぢゃがな。
仲居甲 ほんにまあ、西郷はんが少とも見えなうなってから、あんな気象なお玉はんやけれど、めっきり元気が無うなって変った人の様になったなあ。あんなものかいな。
仲居乙 ほんに他《はた》からは分らんもんやな。何ぼ自分が肥えてゐやはる云うたかてあんな太いだぶ〳〵した西郷はんが何処がいゝのやろ。
仲居丙 ほんにお玉〳〵ってお客衆に可愛がられ此処の名物になってゐるお玉はん、どないな浮気かて出来やはるに選《え》りに選って西郷はんとは可笑《をかし》いな。
仲居甲 おゝ先刻《さつき》もその話で大笑ひやがな。いかに豚姫さんやて、あんまり食《しよく》好みが無さすぎるてゝ。
仲居等一同 おほゝゝゝほ。
廻しの男 これおきのはんも、おさわはんもそないな事いうてゐる手間があったら一寸あの妓に知らしておくれんか。ほんに矢の催促ぢゃがな。
仲居甲 あい〳〵、もう一寸ぢゃがな。……だがまあ、お玉はんも余程突き詰めてゐやはる。眼付が据ってゐやはるな。
仲居丙 さうやなあ、誰しも男に凝ってくると争はれんもんや、みなあれや。だがまあ、それがあの、わてえ等に意見の一つもいふお玉はんとおもうとほんに可笑《をかし》いやうなお気の毒なやうな。
仲居乙 ほんに全くさうやなあ。
仲居甲 それにこりゃ内密《ないしよ》の話やがなあ、西郷はんの為にはな、あの慎《たしなみ》のよかったお玉はんが、着る物も頭のものもみななくして葛籠は空《から》ぢゃといの。この移り代りもどうしやはるやろう。
廻しの男 (忍耐《がまん》しかねて)もし早う頼みますに、これ、おきのはん。
仲居甲 あい〳〵。
(この途端台所にて。)
声 お吸ひ物が上ったがな。
仲居等 あい〳〵。
(と答へて膳を持って立つ。)
廻しの男 では頼んますぜ。
仲居等 あい〳〵。
(と繩暖簾の口へ入る。)
廻しの男 何のこっちゃ仲居等まで意地悪な。此頃は更けては往来はうか〳〵と歩かれやへん。ほんに物騒な。昨夜も橋詰で斬られた奴があるがな。岸野はんも困りもんやなあ。早うしてくれんかいな。え、いっそ自分でいてよんでこうか。
(とこれも上へあがり暖簾口へ入る。此時踊地の三味線の止り。拍子の音一しきりして、奥より仲居お玉|太《ふと》り肉《じし》の色白、愛くるしい顔つき、二十四五の扮《つくり》、頭痛のする心にて物憂さうに出る。)
お玉 おや、誰もゐやはらんの。
(と云ひながら囲炉裏《ゐろり》へゆき、湯呑へ罐子の湯を汲み、帯の間から合薬を出してぐっと呑む。この時奥より以前の雛勇|竊《そつ》と出て小葛籠へ倚りかゝりしく〳〵泣き出す。お玉気がつき、ふっとみて。)
お玉 おゝお前は雛勇はんやないか。どないしなはった。
雛勇 おゝ姉《ねえ》はん。私《わてえ》姉はんを捜してゐたんのや。
お玉 お玉、どうしやはった。
雛勇 私《わてえ》な、私《わてえ》な。(と泣き)明後日《あさって》な襟かへで、あの嫌ひな夢はんの世話になる様に、家の姉はんが約束しやしたの。私《わてえ》何《ど》うしよう。
お玉 おゝ、お前、あの夢はんの世話で、襟かへしやはるのか。まあ〳〵あのさんもよい年をしてこないな者を捉《つかま》えて……あゝ厭々。ま。見る事も聴くことも……(と額を押へる)
雛勇 あれ姉はん、何うしやはった。(と立寄る)
お玉 (隔てゝ)いや、何うもしやへん〳〵。
(此時奥には廻しの男の声。)
声 あれ、あぶない。姉はん。さ、河徳はんが矢の催促ぢゃわいな。
女の声 あれ、そないに引張っては衣服《べゝ》が切れるよう。引張らずとも往くわいな。
(と岸野酔ひどれた芸子の扮り、先刻の廻し男に介抱されて出る。)
岸野 (お玉を見て)あれ、姉はん、こゝにか。ま、先刻《さつき》にから何処にゐやはった。私《わてえ》姉はんに是非きいて貰はにゃならんことがあるのや。(と坐り込む)
廻しの男 あれ、又かいな。
お玉 お、岸野はん、なんや知らんけれど。今頭痛がしてどもならん。今度にしい。
岸野 その頭痛知ってゐる。誰《たあ》れも知らん姉はんの胸の中、私はよう知ってゐる。ま、姉はんもあの西はんのことでは大《いか》い苦労しやはるの。
お玉 ほゝ、私《わてえ》のやうな不恰好のものが、色の恋のと、他人《ひと》が笑ふにえ。
岸野 ほゝ、恰好が何うなとあろうと思う心に変りはあらへん。殊に姉はんの一図な気象では嘸ぞ辛いことやろうと察せられて私《わてえ》も涙が零《こぼ》れるにえ。(と泣く)
お玉 ほゝ、お前、酔うてぢゃな。
岸野 ま、私が酔うてたてゝ、何もそないに隠しだてなはることはありやへん。では私《わてえ》がみんな云うて上げうかいな。西郷はんは此頃、殿様の御首尾が悪うて蟄居してゐやはるのやろ。
お玉 え、西郷はんは蟄居してゐなはる。
岸野 え、知りやはらんのか。
お玉 何にも。……みなが私《わてえ》のことを西郷はんと大層訳のある様にいはんすけれど、そりゃ西郷はんがお可哀相や。あのお方はほんに蒙《えら》い方や。今の世に二人とない人や。そないな方が私の事など、何うなと思やはろうか。ま、でも蟄居などしてゐやはるなら、手紙なと下されたら好いに、いかにさっぱりしやはった御人ぢゃとてあんまりぢゃ。もうあれきりに見えぬことかと、大抵案じたこっちゃない。あんまりや。
岸野 ほう、ほんにさうや、何とか直ぐ怨んで上げんかいな。
お玉 いや〳〵さうで無い。西郷はんには色々の外に大事な御苦労がある。私《わてえ》らが事なぞは……。
岸野 ま、姉はんもめっきりと気の弱い、こゝらがほんの恋ぢゃな。
お玉 何の、私《わてえ》ももうちっと女らしい恰好もしてゐたら、云ひたい事もあるのやけれど……(ヂッとなる)
岸野 ま、また姉はんはあないな事を……肥えてゐやはるによって皆が、悪い名をつけて言囃すけれど、私にいはせりゃ、色白で柔和な所は白象《びやくざう》はんや。それでお腹の中は普賢菩薩はんというてもえゝ。私《わてえ》はしみ〴〵姉さんが好《すき》や。随分男さん達も姉はんを好きやはる人々はそりゃ多い。
お玉 ほゝ、岸野はんは相変らずやなあ。あゝ、私《わてえ》も岸野はんの様に飲めたらまた気の移ることもあるやろ。因果と酒の臭《かざ》も厭でなあ……(と顔を顰める)
岸野 ま姉はん。私《わてえ》もかうみえても此胸《こゝ》は楽ぢゃありやへんの。お、然う〳〵その事で姉はんに聴いて貰はんならんこと、あの半の字な……
(廻しの男仕方なく後向いて囲炉裏《ゐろり》で煙草を呑んでゐたが此時。)
廻しの男 姉はん、もうえい加減にしやはれ、さ、もう往にまほ。(引立にかゝる)
岸野 (振り放して)えゝ、これからが大事な話や、まあ待ちんか。姉はん、聴いとくれなあ。又あの人は何時まで私に苦を懸けるのやろ。もう自棄《やけ》や、それで呑む酒《さゝ》や、一寸も酔やへん。
廻しの男 でもこないに酔うてゐて……
岸野 えゝ、黙りんか。でもなあ、姉はん、わてえ余り気にかゝるによって先刻な祗園はんへ往て御籤を頂いてみたらなあ、末を頼めといなう。今は苦労をしたとても先に楽みがあればなあ。で急に胸が開いたやうで心嬉しさについこないに酔うた。はゝゝゝは。
廻しの男 ま、姉さん、さ、もう往にませよ。さ。
岸野 お玉、これをいうたら最往《もうい》ぬ。最往《もうい》ぬ。……姉はん、また、明日。
廻しの男 さ、さ、では姉はん、大けに。
(と仆れさうにする岸野を介抱して一寸お玉に挨拶してぶら提灯を持って格子戸より出て行く。)
お玉 (悩さし相に見送り)あゝ、苦労するというても笑ふてすまして置ける苦労。……
(と胸を押へる)
雛勇 (此時まで一寸離れて案じ顔でゐたが)もし、姉はん私《わてえ》何《ど》うしょう。
お玉 おゝ、お前は雛勇はん、堪忍しておくれ。岸野はんに捉《つか》まへられてお前の話を途中にして……(とヂッと雛勇の顔を覗き)お前はたしか両親《ふたおや》とも無いのぢゃな。
雛勇 えゝ。(と涙を拭く)
お玉 たよる者は誰もない。何を当ての楽みもない。(と俯伏した顔を勃然《むっくり》と上げ)お前、お死にんか。
雛勇 えゝ。(と逃げかゝる)
お玉 (捉へて)ほゝ、恐いかえ。さうも命は惜しいかえ。ほゝ、まだお前は命の惜しいのも知らぬ。たゞ死ぬるといふのが怖いのや。堪忍しい。わてえが悪かった。……だが、なあ、姉はんも何うぞして救うて上げたいが此頃は仔細《わけ》があってそれもならん。
雛勇 でも姉はんから家の姉はんに話してくれたら。
お玉 さあ、それは先の私《わてえ》なら、お前の知らんこって姉はんが私《わてえ》のいふことを聞く法もあったのやけれど。今の私《わてえ》にはもう出来《でけ》んこっちゃ。
雛勇 えゝ、では姉はんにも……何《ど》うせう。(と泣く)
お玉 もうお泣きでない。あゝ、私はもう泣かれると堪らん〳〵。あ、も一層《いツつ》此様《こんな》厭な世界に生きてゐたとて何になる。死ぬるならお前方の年のうち、厭な苦労もしずに死ぬるが増しや。
雛勇 あれ、姉はん、免《ゆる》して!
お玉 ほゝ、仰山な。私《わてえ》が殺すといやしまいし。
雛勇 でもいつもの姉はんと違うて怖《こは》らしい。
お玉 (我に返ったやうに)おゝ、何にも知らぬお前にこんな事。堪忍しい。いゝわ、私《わてえ》が味《あん》じょうしてやる。明日にもお前とこの姉はんに会うてよう云うてやる。夢はんの方は断りいうてやるやうにいうてやる。
雛勇 え、ほんまに? ま、嬉しい、……姉はん、頭痛は何うぢゃわいな。
お玉 ほゝ、現金やな。
雛勇 ほゝ、でも姉さんが請合《うけあ》うて呉れやはったので嬉しうて〳〵……姉はん、私《わてえ》あちへ往《い》ていゝ?
お玉 ほゝ、往きい。
雛勇 あちで今、小六はんが面白い事してゐやはるよって見たうて。え。
お玉 おゝ、往きい。
雛勇 お玉、嬉しい。
(とばた〳〵奥へ入る。あと。)
お玉 (せぐり来る涙を押へて)あゝ、この恰好《なり》で人を思ふのなんのてゝ、恥かしいけれど、西郷はんの事ばかりは思ひ切れん。何卒《どうぞ》してま一度逢ひたい。ま一度……この儘では諦めうにも諦められん。……あゝ私の様な者が、西郷はんを慕うたてゝ、迚も末の遂げらるゝこっちゃ無いとしれてゐて、何うしてこないな心が附いたんぢゃ。……というて諦めて何を楽みに生きてゐよう。……親も兄弟もない唯《たつた》一人の因果な身に産れて、もう何もかも厭はしうて死なうと思ひ切った、迚ものことにもう一度西郷はんに逢うて死にたい。たった一目でも逢へたなら夫を名残に死んでしまふのぢゃ。たゞ此儘では死切れん。死切れん。ま、せめて有所《ありしよ》なと知れてゐたら、せめては心頼みがあるに、私のこの苦を知りやはん方の、知らせて来よう訳もなし。思ひ遣りないとて恨まれぬ。所詮はこの身の拙《つた》なうて、分に余った人を思ひつめたが過誤《あやまり》ぢゃ……というて〳〵諦められん。ま一度逢うて……逢うて……(と伏し沈む。この途端グワラリと音して頬冠りの太った男、無恰好な尻端折《しりぱしおり》して飛びこむ。お玉ワッと驚いて飛び退くのを見て)
男 おゝお玉か。己《おれ》ぢゃ。
お玉 えツ。(と見て)あれ西郷はん。
(と土間へ飛下り、獅噛ついて)逢ひたかった。 逢ひたかった。(と泣く)
西郷 お、久しかったなう。いつも無事で結構ぢゃ。
お玉 え、無事で? ま、(と泣き)私極りの悪いこっちゃけれど、見えなうなられてからといふもの、毎日夢の様に暮した。――でもまあ、よう尋ねて来て下された。さ、上らんせ。
(此時一寸外にて人の気勢する。)
お、誰やら外に……お連様があるのかいな。
西郷 いんや、ありゃ己《おい》を斬らうとしてゐる奴等ぢゃ。
お玉 えッ。(と驚いて戸口を鎖す)
西郷 いや〳〵あいつ等はかういふ明るい所へは入《はひ》って来ん。出るのを待って斬らうとしてゐるんぢゃ。
お玉 まあ一体|何《ど》ないしやはった?
西郷 (框へ掛けて)おゝ、今日大久保の所まで所用で忍んでいて、その帰途《かへり》から跟けられた。たゞ危険《けんのん》とおもうたのは三条の橋の上ぢゃ。あの上で掛かられたら逃場がないとおもうて急いでくると仕合せと斬懸けをらん。あれから此通へ曲ってくると不意と走り懸って来をった。
お玉 まあ……
西郷 すると不斗《ふと》こゝの行燈《あんどん》が見えたによって飛びこんで来た。
お玉 ま、それで何《ど》うしなはる。
西郷 何うするとて別に法はない。こゝを須臾《しばらく》借りてゐるのじや。
お玉 ま、でもそいつ等が入って来たら……
西郷 なに入っては来はせん。実は二日ばかり寝んのぢゃ。睡うてたまらん。何処ぞ貸してくれんか。寝て往《い》なう。
お玉 ま、そないな事いうて表の奴等が何時までも待ってゐたら何ないしなはる?
西郷 うむ、それはまたその時の思案にする。
お玉 でもま、お刀を持ってゐやはらんで無用心な……此頃は御武家衆は廓でもお刀を預けやはらいで手許に引つけてゐやはるに……
西郷 でもおいは剣術は空下手《からぺた》ぢゃからな。用のない時にこそ武士の表道具大小は差してゐれ、大事の場合には何時も空手《からて》ぢゃ。
お玉 でも……斬りかけられなされたら……
西郷 逃げる。
お玉 でも……
西郷 はて逃げられなんだら、斬られて死ぬるばかりぢゃ。
お玉 まあ。
西郷 あゝ、こゝへ掛けたら一時に睡うなってきた……何処ぞ一寸貸してくれ。
お玉 あい〳〵、ま上らんせ。
(この時表にて「えい」「やっ」と気合、チャリ〳〵と二太刀三太刀太刀音、バッサリ二人ほど斬らるゝ音、呻り声。舞台の二人耳を澄ます。やがて格子戸を叩く音。)
声 先生、先生、己共《おいども》でごわす、中村でごわす。
西郷 おゝ、中村か、お玉、開けてやれ。
お玉 え、よいのかえ?
西郷 おゝ、同藩の者だ。大丈夫ぢゃ。
(お玉開ける。中村半次郎(後の桐野利秋)飛白の着附に小倉袴を短かく穿き、赤毛布をマントの様に着し血刀を下げてぬっと出る。)
中村 おゝ、先生、危険《あぶな》い所でごわしたな。
西郷 おゝ、中村か。何うして来た。
中村 先刻から先生の跡を追掛けて歩いてゐました。大久保どんの所《とこ》へ行くと一|歩《あし》違い、そいからまた跡を追うてくると先生の影をみかけた。そいで声を掛けうとして不図《ふと》みると、怪しい奴が二人先生を附けてゐる。で、これはならんと身をひそめてくると先生はこゝへ入られた。で、二人の奴等囁き合って家の中を窺ひ、抜き居らうとしたから、走り懸って声をかけて斬った。二人ともえい気持に斬れた。
西郷 さうか。だがさう無闇と人を斬ってはいけん。
中村 でも己《おい》が斬らなんだら、先生は斬られてゐなさろ。
西郷 (一寸返答に困って)ふむ。
中村 先生はよく己《おい》が人を斬ると叱りなさるが、斬ろか、斬るまいかと考へては人を斬れん。斬るとおもうたら直ぐ斬らんと斬れん。
西郷 中村、用件といふのは何だ。
中村 その事でこわす。殿様の御決心がまだ附かん。佐幕とも、勤王とも確《しか》とした仰せがなく、唯西郷は憎い奴だとばかり、繰り返し〳〵お憤りぢゃさうな。今日も午前《ひるまへ》から大久保どんが懇々と利害を述べ、再び先生を御採用あって藩論を一決するが最上策と声を嗄して申上げたのぢゃさうなが、矢張り只憎い奴ぢゃ〳〵の一点張りの御返答なさうな、畢竟《つまり》西郷切腹と仰せ出されたいのであるが御先代の愛臣といふ所から御遠慮があって、重役共に察しろと許りのお仕向けなのぢゃ。で、大久保どんも到頭あぐねて座を立たれたやうな訳ぢゃ。それで先生の所へ使が向いた。先生も大久保どんに逢ひなされたら大略《あらまし》聞かれたで、ごわせう。
西郷 おゝ、聴いた。
申村 それから跡ぢゃ。後は藩老の頑固党の分らずやばかりお側で、到頭西郷切腹と仰せ出された。
(お玉えっと驚く。西郷が軽くうなづいて。)
西郷 ふむ。
中村 すると今まで何にもいはれなかった新納《にいろ》どんが、「西郷切腹とはその意を得ん。謹慎といふならばまだ聞えてゐる。腹を切る罪はない」と論じられて有繋の殿様も返される言葉もなく、切腹の御沙汰だけは一時中止となったが、何せい殿様は赤間が関の事以来、自分の指揮を待たず、越権の計ひをする。今の中に仕置をせんと謀叛をする奴ぢゃといふのぢゃ。それといふも余り先生に衆望が集まるからの御嫉みぢゃ。御先代と違うて狭量で何事も先生に任せておけんからぢゃ。
西郷 ふむ。それで……
中村 それで? (一寸拍子抜けして)それで大久保どんは今、もう一度最後の嘆願をするとて支度を改めて出てゆかれた。
西郷 うむ、大久保がもう一度……さうか。
中村 大久保どんも余程の覚悟のやうぢゃ。ぢゃ先生、其が万一叶はんやうなら。何うしなさる。
西郷 (それに答へず)中村、今|汝《おはん》が斬ったのは、ありゃ矢っ張り幕府の者か。
中村 慥に幕府の奴等でごわす。
西郷 おゝ己《おい》も幕府からは憎まれて附狙はれる、殿様からは御勘当、もう何処へも往く処のない身になたな。あはゝゝは。(と淋しく笑ふ)
中村 (膝を進めて)先生もかうなっては非常手段ぢゃ。薩藩の為にも天下の為にも藩論を一決させんけりゃいかん。若し大久保どんの嘆願が届かんやうなら、同志を集めて御旅館へ嗷訴する積ぢゃ。
西郷 いかん。そんな乱暴な事はせんと、己にはまだ考へがある。
中村 えゝ考へが?
西郷 うむ、まあ、落着いてゐなされ、まだ〳〵切羽《せつぱ》にはなってをらん。それより汝《おはん》幕吏を二人まで斬って此処等にゐてはいかん。早く帰りなされ。
中村 でも先生一人置いて……
西郷 己《おい》は二日起され通しなので睡うてたまらん。少し寝てゆく。……よし町方の者がこゝまで取調べに来たとて己《おい》は大丈夫ぢゃが、汝がゐると面倒ぢゃ。早く帰りなされ、えゝ早く帰りなされ。
中村 (不承々々)では帰ります。
西郷 待ちなされ。(と呼び止め)だが返す〳〵も嗷訴なぞしちゃならん。
中村 は、はい。
西郷 (お玉に)おゝお玉。この人を目立たんやうに外の出口から帰してやりなはれ。
お玉 あい、あんた、此方《こっち》へ。
(と心得て中村をつれて上手の奥へ入る。中村西郷に黙礼して履物をもってのそ〳〵と入る。あと西郷腕組して眼を閉ぢてゐる。やがてお玉引返してきて。)
お玉 もし、お帰し申しました。
西郷 おう、さうか。
お玉 今のお方の話の様子ではえらい事になりましたな。
西郷 うむ。
お玉 それで何ぞよい御工夫でもありやすの。
西郷 無い。
お玉 えッ……でも今まだ切羽《せっぱ》ではない。考へがあるといやはったぢゃありまへんか。
西郷 いや、ありゃ若い者は押へておかんと何んな事を仕出すか知れんから、それで云うたのぢゃ。
お玉 (おろ〳〵声を出し)ではま、何《ど》ないしやはる〳〵。
西郷 ま、心配せんといゝ。何うかなる。ま、少《ちつ》との間寐るかしてもらはう。
お玉 (顔を見て)まあ。
(と呆れる。此時表の方物騒しくなり、口々に罵る声きこえる。お玉ははっとして。)
お玉 お取調べが来たと見えます。さ一寸こゝへお隠れなさりませ。私が工合ようやりますから……
西郷 さうか。
(と西郷立って無造作に衝立の蔭へかくれる。お玉急いで西郷の履物をかくす。)
声甲 慥に斬手はこの家へ逃げこんだやうだ。
声乙 左様で、一応取調べましょう。
(と声して戸口をぐわらりと開けて出役の同心二人。手先を連れて入ってくる。)
同心甲 これ、唯今これへ何者か参りはせんか。隠すと為にならんぞ。有体にいえ。
同心乙 其奴は上役人を二人まで斬った重罪人ぢゃ。どれへ往った。早く申せ。
お玉 (落着いて)これはようお出で……(と挨拶して)唯今これへ何方もお見えなさりはしまへん。
同心甲 やあ、偽りを申せ。この方には確な証拠があるぞ。隠し立てして後で後悔するな。
お玉 でも何とお云やはってもお出でにならんものはお出でにならん。
同心甲 よし、其方にはもう問はん。これ誰ぞ居らんか。これへ出い。これへ出い。
(と高声あげて呼ぶ。暖簾口から料理番の六。洗ひ方の平など出る。)
六 (同心をみて恐れ)へ、これはお出で。なに御用でござりまする。
同心甲 こりゃ其方共はこれへ唯今まゐった奴を存じてをらぬか。
六 (平と顔見合せて)へ、一向知らん。なあ平公。
平 おゝ、私《わたい》も知らん。
同心乙 然らばこの女は最前よりこゝにおったか。何うぢゃ。
六 (平と顔見合せ)へ、それは……
同心甲 こりゃ、偽ると為にならんぞ。
六 へ、へい。確に居りましたやうにございます。
同心乙 左様か。(と同心甲とうなづき合ひ、お玉に向い)其方最前からこれに居ったと申し、外の者共は知らんといふ。然らば其方一人で何処ぞへか、その者を逃がしたな。
お玉 いえ、私《わてえ》は全く知らんがな。
同心甲 やあ知らんと申しても最前からこれに居ったら、二人まで人の斬られたを知らんといふことはあるまい。
お玉 はい、そりゃ知ってまんがな……
同心乙 然らば何者が斬った?
お玉 そりゃ知りまへんがな。私《わてえ》は女子《をなご》のことぢゃし、ここで慄へてゐました。
同心甲 やあ、それで知らんとは言抜けさせぬぞ。さ、真直に申せ。何処へ逃がした。
お玉 そりゃお前、無理ぢゃがな。こゝで斬合ふ音をきいた許り、誰がきったか、誰がきられたか知りやへん。多分お互いに斬合はしゃんしたが誰も好んで斬られる人もなし、やっぱり強い方が勝って弱い方が斬られやんしたのやろ。
同心甲 こりゃ何を云ふ。斬られたは御上の御用を勤むる新徴組の人達ぢゃ。
お玉 では相手が強すぎやしたのやろ。お前《ま》はんもまあ、こゝで私のやうな昧《つま》らん訳の分らん女子を捉えてわや〳〵いうて居やはる手間で、早う外を捜したらよござんしょ。
同心甲 やあ、此奴、無礼な奴、一筋縄ではいかん。番屋へ引立てゝ詮議しよう。
お玉 えゝ、どうなとさんせ女《をなご》ぢゃとて命をすてたら強いもの。知らんものは知らんまでぢゃ。
同心乙 こいつ強情な奴。では番所へ引立てろ。
(手先等はっとお玉の傍へ行かうとする。料理番、洗ひ方なぞ驚いておど〳〵してゐる。此時。)
西郷 待て。
(と衝立を押退ける。お玉「アレ」と是非なき思入)
同心甲 やあ貴公は何者《なんもん》ぢゃ。
西郷 己《おい》は薩藩の西郷吉之助ぢゃ。
同心甲 えっ、西郷ッ。(同心乙と顔見合せる)
西郷 いやその女は己《おい》が馴染の者ぢゃが、まことに癇持でならん、そいで御無礼申したやうぢゃが、何うかお免《ゆる》しが願ひたい。
同心甲 あゝ左様でござるか。それでお手前には最前から其処にお出でゝございましたか。
西郷 左様。
同心甲 ではこの門口での変事を御存じかな。
西郷 いや知らん。
同心甲 いや御存じないと云はれても下手人がこれへ入ったやうな形跡でござれば、居合はされたる不祥、番所まで御同行を願ひたい。
西郷 いや、それは断る。
同心乙 では後日の為め、御名刺《おなふだ》が頂戴したい。
西郷 左様なものは持合さん。
同心甲 では強《た》って番所まで御同行を願はう。
西郷 ふむ、行かんというたら……
同心甲 (擬勢して)強ひても御同行申す。
西郷 (嚇と怒りて)やあ、己《おい》を強ひて同行する。強ひてとは繩かくるといふのか。薩藩の西郷吉之助と名乗った者に繩かくるといふのか。馬鹿者《ばかもん》が!!(と大喝して) 幕府が表向きにこの西郷に繩打って引かるゝものなら、何故《なぜ》刺客などを使って闇打になぞしようとするのぢゃ。……門口で斬られた奴は新徴組の奴等というたな。彼等《あいつら》は己《おい》を斬らうとしをった。但し彼等《あいら》新徴組の奴等は内職に物取りを働くかッ。
同心等 (気を呑まれてゐる)
西郷 物取りならば斬らるゝが当然ぢゃ。一体幕府の遣り口がすべて堂々としてをらん。当路の役人共に誠意がない。だから己《おい》共のやうな芋を掘ってをりゃよい者《もん》にまで世話かけさせるのぢゃ。おのれ等小役人には分らん。帰って上役の者に云へ。西郷を縛るなら、堂々と縛れ。卑怯な暗殺なぞせんとおけといへ、えゝ、もう帰れッ。
同心等 (身体を固くして息を切ってゐる)
西郷 但し、おのれ等、立派に薩藩の西郷吉之助縛って牽くかッ。
同心甲 むゝ。(と詰る)
同心乙 (口を出して)いや、強ひて御同行申すと申したは同僚の申しあやまり。御身分柄のこと、帰って一応相談を遂げ、重ねて、御藩の方へ御照会申さう。では失礼。
(と一同そこ〳〵にして出る。六と平も西郷とお玉の様子をみてこそ〳〵と暖簾口へ入る、お玉土間へ下り戸口を鎖し。)
お玉 ま、私《わてえ》、待てえと衝立を開けて出てきやはった時には何ないしょうとおもった。
西郷 あはゝ。彼等《あいら》何奴《どいつ》も、己《おい》を斬って返す刀で腹を斬らうといふ気魄のある奴は一人もない。おのが命を庇ふから踏込んだ事が出来ぬ。彼等に限らず、幕府の奴はみなあれぢゃ。だから幕府は衰へるのぢゃ。
お玉 だがまあ、大夫《たいふ》はんは何時もに似気なく大きな声を出しなはれて私《わてえ》も吃驚《びつくり》した。それにあないな者を相手にしやはる方やないとおもうてゐたに。
西郷 (長大息して)あゝ、お玉、汝《おはん》にそれが気が附いたか。さういはるゝと己《おい》も恥入った。あんな小役人共を相手に大声を上げたとおもふと己《おい》ももう終《しまひ》ぢゃ。……有繋の今度の事には己《おい》も思案に余った。永らくの謹慎が免《ゆ》りてやっとお目見得が叶うたと思うと、又勘気ぢゃ。もう今度は駄目ぢゃ。迚も大久保がいかに申上げたとて御免はあるまい。……あゝ己《おい》の仕事も中途挫折ぢゃ。まだ時節が来んのぢゃ。勤王の大業も、竹内式部先生に始まった。山県大弐先生と、いずれも時が来んで中途挫折ぢゃ。今度こそは時節到来と己《おい》も幸ひな時に生れあはしてこの曠古の大業の雑兵位は勤めらる玉とおもうて喜んだが、矢張|己《おい》の妄想ぢゃった。まだ時節がこん。あとは次の時代ぢゃ。もう己《おい》の仕事はしまひぢゃ。(とぢっとなる)
お玉 (はら〳〵と涙を滾して)ま、大夫《たいふ》はんがさういやはるのは余っ程なことぢゃ。
西郷 (顔を上げて)ま、えい。この成行は翌日までぢゃ。睡うてならん。ま、寝てまたう。
お玉 えっ、寝やはる? おゝ、嘸ぞお疲れたやろ。少とお横になって手足を伸しなさるもよかろ。あちの小座敷へ一寸床をしませう。
西郷 いや、こゝでよい〳〵。
(とごろりと横になり、衝立を引寄せ、身体をかくす、お玉取支えかねて。)
お玉 おゝ、さぞお腹も空いてゐやはろう。一寸|飯《まゝ》をして持ってこよう。(と立つ)
西郷 おゝ一寸|握飯《むすび》でもしてくれ。
お玉 あい〳〵。
(囲炉裏の側にあった煙草の筥を取って懐紙を当て、枕にあてがひ、涙を拭いて暖簾口へ入る。あと奥より幕明きの舞妓達出る。一人は三味線を持つ。)
舞妓甲 さ、愈々わてえ等の番や。さ、こゝで当っておかん。
舞妓乙 なにしやはる。
舞妓甲 椀久やないか。雛勇はん。さ、お立ちんか。
雛勇 (以前とはかわり、にこ〳〵してゐて)あい。(と小葛籠から杖と面を出す。舞妓等鼓、三味線など合はせることよろしく)
舞妓甲 さ、よいか。
(と雛勇一寸椀久の振になる。どっと風の音、雛勇止めて。)
雛勇 おゝ怖《こは》。
(一同も三味線、鼓の手を止める。と何処ともなく鼾の声、舞妓等おびえて。)
雛勇 ありゃ何や。
舞妓甲 ま、鼾の様やが、何処にも誰もゐやへん。ま、気味わる。
舞妓乙 もしや、怖《こは》いもんやないか。あれ又……
舞妓甲 おゝ怖《こは》。……もしやすると蝮蛇《うはばみ》やないか。
(一同えっとおびえる。この途端風の音、一同わっと我先に逃げようとする。出会頭にお玉握り飯に箸をそへ盆にのせ、土瓶をもって出る。)
お玉 まあ、びっくりした、お前方はどないしたのや。
舞妓甲 でも姉はん、あれ蝮蛇《うはばみ》が鼾をかいて……
お玉 えっ。(と聴耳たて、呆れ)ま。あれ程の苦労の中でもうあないに……(舞妓達に)これ、お前方そないなこといふもんぢゃありやへん。ありゃ私《わてえ》の知ったお方が其処に寐てゐやはるのや、だが彼方《あち》へいては云うてはならんぞえ。
舞妓等 あい〳〵。
(と点頭いて入る。お玉、盆を下へ置き衝立を掻いやり、西郷の寐姿をみて。)
お玉 ま、このよくお寐《よ》ったこと。全く私等《わてえら》なぞには底の知れんお方や。……此お方の御苦労に比べたら、私の苦労なぞ、馬鹿らしうて話にもならん。……というて、かうして御傍にゐりゃ、何事も忘れてゐるけれど、また離れたら……あゝ、此お別離《わかれ》がもう名残ぢゃ。(と声を呑んで泣き。やがて涙を拭ひ)もし、大夫はん。おにぎりが出来ました。起きてお上りんか。もし〳〵。この儘ではお風召します。さ、お起きんか。もし〳〵。(と揺り起す)
西郷 あゝゝゝあ。(と目覚し、お玉をみて)おゝお玉か。(腹匍いになりて顔を上げ)お、握飯《むすび》か一つくれ。
お玉 ま、起きてお上りんか。
西郷 おゝ。
(と起きかけて握り飯を取ろうとしてふとお玉の顔を見て熟とみつめる。お玉見詰められて顔を反《そむ》けるやがて。)
西郷 お玉、汝《おはん》は死ぬ気ぢゃな。
お玉 (極端に驚く)ひえッ、……(漸く気を取直したやうに)いゝえ。
西郷 嘘をいえ。死ぬ気ぢゃ。相《さう》に出てゐる。
お玉 えっ、相に? (と顔へ手をやる)
西郷 いや、己《おい》は人相見ぢゃないが、今までいくらも死を決した男に出会ってゐる。そいで分る。何うしたんぢゃ。
お玉 (胸迫って泣き出す)
西郷 これ泣いてゐちゃ分らん。いへ。
お玉 (泣きながら点頭き)では私《わてえ》いふ。私はな、九つの時から親に別れてかういふ茶屋へ奉公にやられた。母親はもうずっと小さい時に無くなられて、父《とう》やんは私《わてえ》が九つの時、都の世帯が張りきれず。私を奉公に出されて田舎へ引込まれた。それから十、十一、十二、十三と五年、随分悲しい目にもあった。それで忘れもせん十三の冬、丁度、ちら〳〵と雪のふる朝、不意と父《とう》やんが私を尋ねて杖に縋って来やはれた。久し振りで遇うた嬉しさに種々《いろ〳〵》聴くと、父《とう》やんは田舎へ行《い》て農業《ひやくしやう》をしていやはれたが、もう年を老って出来やはらんので私《わてえ》を便《たよ》ってきやはれたとの事、何をいふにも私《わてえ》はその時まだ十三、父《とう》やんを過すこともならず。家《うち》の無くなられたお家《いへ》はんは禄《ごく》にも立たん者、来たと白い眼で睨みやはる。でやっと貯めた三分のお金を父やんに渡してどうぞもう一度国へ帰ってくれなはれと泣いて頼んだら聴分けて出てゆかれた。やがてその翌日の午頃にまた、飄然《ひよつこり》と帰ってこられた。私ははっと肚胸を突いて何うせうかとおもうてゐると、「これお玉よ。もうわれ心配するな、おれはな、今国の檀那寺の和尚さんに遇うた。それでかう〳〵いふ訳と話したらな。よし〳〵飾りを下したなら、国へ連れていておれが世話してやらう、おれはもう金はいらんことになったから返すというてな。私《わてえ》の顔をぢっとみてな、これが別れにならうもしれん、達者で居ろよというて出てゆかれた。その姿が今でも眼にあり〳〵。……それっきりに今に音沙汰なく。今考へれば多分その時何処ぞ遠くの河淵なと往《い》て身を投げて死なしゃれたと見える。……それからは私は一人ぼち。努めて元気にしてみせて、やれ玉は面白いの、苦がなさゝうなのとお客衆に云はれても、時々一人になると何ともいへず寂しうて〳〵……(と云ひ差して少し顔を上げ)それがふと大夫はんに逢うてから始めの中は済まんこっちゃが、取り止めもないやうなお方ぢゃとおもうてゐたが、日増しにお目に懸るにつれて、大様で底の分らん、それで懐かしい、世の中にもこんな蒙いお方があるかとおもふと、お傍にゐると、物に喩へていへば、かう大きな〳〵お日さんの一杯さした野辺にでもゐる様な、酔うたやうな気持ちになり、夫から今までの我身が顧みられて今まで賢うみえたお人も、豪うみえた客衆もみな下らん人になって、座敷で浮いたこというてゐるのが馬鹿らしうなり、何やら、かう心に大穴でもあいた様、それでその隙《すき》が塞《ふさが》らんでゐるやうな気持がして、何もかもみな厭になって、というて大夫はんの奥|様《はん》にはどうあがいたてならるゝ身やなし。もう何の執着もなし。もう一度お目に懸かれたら、夫れを仕舞に死んでしまはうと覚悟をきめた。……というてそりゃ、みんな私《わてえ》の心の勝手、大夫《たいふ》はんのお知りやしたことではない。ついみな云うて仕舞うたれ、怒らんとおくれやす。(と胸迫って泣き出す)
西郷 (ぢっと聴いてゐた首を抬げて)今まで己《おい》は何にも云はなかったが、汝《おはん》が己《おい》に蔭に日向にいろ〳〵尽してくれたのもよう知ってゐる。いつか己《おい》も礼の出来る時がくるだらうと黙ってゐた。
お玉 おゝ。(とたゞ泣いてゐる)
西郷 汝《おはん》が身の廻りのものや、何もかも無くして己《おい》や同志のもんの為にしてくれたこともよく知ってゐる。
お玉 (驚いて)えっ。……
西郷 しかも己《おい》にそれを隠して少しも知らせまい〳〵と骨折ってゐる事もよく知ってゐる。
お玉 えっ、それまでも……私、う、うれしい。
(と感極まって西郷の膝に打伏し、咽び泣く。西郷その肩へ手をかけ。)
西郷 己の様な昧《つま》らん者を、よくこんなにまで面倒をみてくれた。……その上に命まで……己は、う、う、うれしい〳〵。(と泣き出す)
お玉 (首振り上げて)あれ、ま、大夫《たいふ》はんが私《わてえ》の様なもんに涙を……
西郷 汝《おはん》は、汝《おはん》は、己《おい》に、己《おい》に、たうたう、たうたう、涙を出させてしまった。涙を出させてしまった。
(こみ上げておい〳〵と泣き出す)
お玉 あれ、大夫《たいふ》はん。そんな大きな声をして……ま、人がきく。見ともない〳〵。
(といひながら、これもしゃくり上げて泣く。この時奥の間より仲居甲何の気なしに出てこの体を見て笑ひを忍び、こそ〳〵と出てゆく。やがて一同を呼んできた心にて仲居二三人、料理番、洗ひ方の男など押重なってそっと覗き指さし、囁いて腹を抱へ、笑ひを堪へる心。とゞ弾みを打って衝立を押倒し、どっと逃げて行く。二人気が附いて見送り、心にも懸けぬ様子。台所の方にて一人の男の声堪へかねたやうに。)
声 でも肥えたのと肥えたのとが握飯《むすび》を前へおいて手放しでおい〳〵泣いてゐては、いっかな金仏でも笑はずにゃ……
他の声 しっ。(といって笑ひを堪へる様子、とゞ堪へかねてどっと笑ひ崩るゝ声)
西郷 (居住居を直してふいと)お玉、己《おい》も一緒に死なう。
お玉 えっ、ま、大夫はんとしたことが、そないな冗談いうて……
西郷 いや冗談ではない。己《おい》も死ぬる。己《おい》ももう世に用のない身体《からだ》ぢゃ。今まではどんな難事も忍んで大業を成就しようといふ煩悩があったが、それもふっつり絶えたれば、もう何にもない。己《おい》はよく首を斬られる奴をみたが、切られるまでは眦を釣上げ、歯を喰ひしばって有りたけの力をみせてゐるが、太刀風と共にばったりと何にもなくなってしまふ。己《おい》の望の絲も切れたら、もう持扱ふほど隙な身になった。迚も死ぬなら汝《おはん》と死ぬ。
お玉 でも滅相な、私のやうな者《もん》と死にやはったら、それこそ取り返しのならんお名の汚れぢゃ。
西郷 あはゝ死後の名なぞいふものは己《おい》に取ってはなんでもない。……それにつけても思ひ出すはあの月照上人のことぢゃ。あゝお気の毒なことをした。元来|己《おい》はあの時死ぬべき筈ぢゃった。国家の為に死ぬるのも、汝《おはん》と一緒に死ぬるのも事に軽重はあれ、己《おい》に取っては一つぢゃ。たゞ情に酬いるのぢゃ。あの月照どんと一緒に薩摩潟の水へ入ったのも同じ覚悟ぢゃった。あの時月照どんの歌は「大君の為には何か惜しからむ、さつまの瀬戸に身は沈むとも」己《おい》のは「ふたつなき道に此身を捨小舟、波たゝばとて、風ふかばとて」己《おい》の心はいつも変らん。なんで死なうが道一つぢゃ。波がたゝうが風が吹かうが。さあ往《い》こ。
(とお玉の手を取って立たうとする。)
お玉 (手を執られたまゝ)往《い》ことは何処へ。
西郷 死にゝぢゃ。鴨川の深みを尋ねて川伝ひにいかう。
お玉 でもまだ宵で人通りが……
(とつか〳〵と下手へゆき出窓の障子を明けて見渡す。どっと風の音、八間の燈火《あかり》、瞬いて消える、十日頃の月の光、流れ入り、一面窓外には黒く流るゝ鴨川と北山みえる。お玉その景色に見入りながら立戻ってきて。)
お玉 もしあの鴨川の黒い流れを……三途の川とやらもあの様であろ……(とあたりを見廻し)まあ静ぢゃ。死んだといふもこんな気持やろか。
西郷 さうぢゃろ。
お玉 まあ、うれしい。いゝ気持やろ。幸ひ人通りもない。さ、往《い》にませよ。
西郷 おゝ、往《い》こ。
(と戸口へかゝる。この途端、けたゝましく戸口を叩く。二人一寸慌てゝ土間の隅の雑具の陰へ小隠れする。)
声 これ、明けんか。これ明けんか。急用ぢゃ。たれも居らんか。これ。
(これにて奥より仲居甲出て。)
仲居甲 おやまあ、真暗《まつくら》や。これ、平はん。ちゃと燈《あかし》がきえてる。来ておくれか。おや、お玉はんもあのお方も居やはらん様や……
声 これ、開けんか、これ。
仲居甲 はい〳〵どなたです。これ平はん、早う燈《あかり》を持ってこんか。
(この中、窓口より中村半次郎覗き。)
中村 これ、早くあけんか。先生に急用ぢゃ。
仲居甲 はい〳〵。
(とこの中、平|燈《あかり》を持ってきて、八間に点ずる、仲居甲は土間へ下り、戸を開ける。中村半次郎、羽織袴装の大久保市助(後の利通)と共につか〳〵と入ってくる。)
中村 これ先生は何処ぢゃ、急用ぢゃ。喜ばしいお知らせを持ってきたのぢゃ。早く知らせう。
仲居甲 へ、でも何処においでやら。
西郷 いやこゝだ〳〵。
(と前へ出てくる。あとよりお玉おず〳〵出る。)
中村 お、先生、何でそんな処に居られた。……ま、それより大吉事でごわすぞ。大久保さんが御尽力で遂に復職されて藩論一決(とやゝ声をひそめて)勤王にきまりましたぞ。
西郷 え、勤王に……
大久保 さうぢゃ、西郷どん、喜びなされい。直ぐに西郷どんは密使として水戸と打合せの為め江戸へ下されることゝ決《きま》りましたぞ。
西郷 えっ、では殿様の御思召が急に変って……あゝ有難い。大久保どん。みんな君の御厚志ぢゃ。
(と大久保の手を執る、大久保もその手を執って。)
大久保 あゝ、先刻《さつき》はあれまでに言葉を尽してもお聴き入れがない。もうこれまでと己《おい》を信頼してこの大事を任せた汝《おはん》にも済まんと刺違へて死なうとおもったが今一度と決死で上って望みが叶うた。思へば先刻《さつき》よう死なゝんだぞ……おゝこれは殿様からのお手許金、旅費として下さった。
(と懐より百両包を出して西郷に渡す。)
西郷 おゝ、では直ぐ立とう。
(この時おず〳〵とお玉側へゆき。)
お玉 も、もし、もし。
西郷 (振向き)お、お玉、情死《しんぢう》はもう変更《へんがへ》だ。
一同 えっ、情死《しんぢう》!
(と驚く、お玉極り悪く顔を隠す。)
西郷 (百両包の中から一両だけ抜出し、あとをお玉の手に持たせ)さ、これは帰って来る迄の手当だ。
(と一両兵児帯の間へ挾んで出ようとする。)
中村 ま、先生一両持って何処へ行きなさる。
西郷 何処へゆくて、二分あれば東海道は上り下り往返《わうへん》が出来る。……では大久保どん往《い》てくる。あとを頼んますぞ。……おゝ、お玉ッ。
(とつか〳〵と側へゆき手をかけようとして中村と大久保をみて極まり悪さうにして、こそ〳〵と出て行ってしまふ。お玉呆っ気に取られたやうに二足三足出て大久保や中村に顔見合せ、これも極り悪く、框へ後向きに俯伏してしまふ。大久保と中村とは顔見合せて、「何んだ」といふ顔。仲居甲も居合せてたゞ呆れてゐる。)
ー幕ー
最終更新:2019年09月13日 22:06