『戊辰物語』


二十一 わしが初めて柔道と名付けた
 五十|年前《ねんぜん》、わしがまだ十八ごろのことだよ。しかし十八といふ年はわしには思い出の多い年さ。わしが柔道《じうだう》といふものを初めて稽古したのはこの年だからね。その頃のわしはこんな体ぢゃなかったよ、まるで骨と皮ばかりだった。
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 さう〳〵面白い話があるよ。わしがはじめて柔道の先生をさがしあてた時の嬉しさったらなかったね。何にしろ当時柔道なんてものは勿論《もちろん》なかった。維新のごた〳〵で世の中がすっかり変って、もうそんなものを考へる者もなかったよ。維新前までは、やはらとか体術とかと相当武家の間に行はれてゐたがね。その頃やってゐたのは山岡鉄舟ぐらゐのもので、さういっても矢はり腕っぷしの強い奴がはゞがきいたね。わしも頭だけは誰にも負けなかったが何にしろ体が貧弱だからどうも馬鹿にされてね。そこで考へたのが、体が貧弱でも勝てる方法はないかといふ事さ。
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 柔術《じうじゆつ》といふものゝあることを知ってゐたが、何処《どこ》に先生がゐるか皆目わからない始末、その頃わしの家は日本橋の蠣殻《かきがら》町、今の水天宮のそばにあったが何にしろ附近は商人ぱかりで、家に出入りする者でも誰一人柔術なんぞ知ってゐる人間はなかったし、親父《おやぢ》の治郎作も幕府の御船匠《おふねしやう》——今の技師長みたいなことをやってゐたが、わしの柔術には賛成してくれないので、先生を探すには随分骨を折ったよ。何んでも接骨医は、みんな柔術が出来るといふ事を聞いたので毎日、足をすりこぎにして接骨医の看板をさがし廻った。「今時なんだって柔術なんど稽古をするのだ」と何所《どこ》でも真面目に相手にしてくれる者のなかったには閉口した。
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 ところが、偶然探しあてたのが、人形町通りのせゝこましい路地内さ。接骨医の看板を発見したので飛込んで見ると、白髪を総髪にした如何《いか》にも柔術でもやりそうなお医者さん。早速「実はかう〳〵」と切り出すと「今時神妙な願ひである。自分はできないが友人を紹介してやらう」と添書《てんしよ》を書いてくれたのが、日本橋大工町に道場を開いてゐる天神真揚流《てんじんしんやうりう》の達人福田八之助先生だった。
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 福田先生は、当時四十歳位、幕府の講武所世話係をやってゐたが、なか〳〵しっかりした腕を持ってゐたね。こゝへ弟子入りしたわしは雨の日も風の日も毎日開成学校の寄宿舎から熱心に通ったよ。道場といったって八畳のお座敷で、しかも火鉢やら、つゞらやらが置いてあるので正味四畳位しかない狭さ、弟子といってはわしの外に青木某といふ青年が一人ゐるだけで、そこで締めや逆手《ぎやくて》を一生懸命に稽古したものだよ。真揚流といふのは締めと逆手の専門で、柔道着といへば今のやうな立派なものはなくて皆手製でわしは姉さんに縫ってもらったが、破れた時にはいつも凧《たこ》の麻糸で自分でつゞったものさ。その時の柔道着は、今でも記念に保存してあるよ。
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 併し間もなく福田先生は亡くなられたので、次は起倒流《きたうりう》の宗家|磯正智《いそまさとも》氏に、次は|飯久保恒年《いひくぼつねとし》氏についたが、これが投げが専門で今の柔道といふのは真揚流と起倒流とを|折衷《せつちう》したもので、わしが初めて柔道と名称《なづ》けて、この一派を開いたのさ。そんなわけでわしは誰からも免許といふものはもらってゐないが、真揚起倒二流の奥義を究めてその伝書は悉《こと〴〵》く譲りうけてゐる。柔道に初段とか二段とか段を設けたのも、わしの創案で、この頃は剣術でも弓術でも道の字を用ひて段をつけるのはわしの専売特許を侵すものだよ。しかし柔道の本当に盛んになったのは日露戦争後さ。考へると久しいもんだねえ。
(嘉納治五郎翁談)




(注)
松平定信「退閑雜記」に「柔道」あり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898547/67
乙卯十一月九日、柔道の本体の伝を得てけり。この柔道といふは、世にまれなるたとき事にて外にたぐひはあるまじ
最終更新:2019年06月17日 17:10