〔日本永代蔵〕【刻梓の年号なしといへども、按に貞享の時代なるべし。】四之巻に、江戸の事をいへる条に、或人船つきの自由さする行水船といふものを仕始て、利を得たる事をしるせり。〔義理桜〕【刻板の年号なし。画風を見るに、宝永正徳の比ならん。】一之巻に、和泉の堺の事をいへる条に、「六左衛門もと商人の子なれば、何がな身すぎになる事をと工夫せしに、万事元手なければ取つく島もなき小舟に、居風呂〈すゑふろ〉をこしらへ碇をおろしたる大船のあたりを漕ありき、一人三銭の極め、これは心安き事かな。舟宿まであがりて湯ばかりにも入れず、出来合を喰ば相応のとゞけ入事にて、おのづから堪忍して船中にくらす所へ、仕出し居風呂こそ重宝なれと、もと船一般より五人十人づゝ此銭湯に入つもりて、あまたの銭をまうく云々。」とあれば、行水船よりおもひつきて居風呂船をこしらへ、居風呂船より今の湯船〈ゆぶね〉といふものいできしなるべし。




〔十三〕江戸銭湯風呂の始
寛永十八年印本〔そゞろ物語〕【杏花園蔵本。】に云、「見しはむかし江戸はんじやうのはじめ天正十九卯年の夏の比かとよ。伊勢与市といひしもの銭瓶橋のほとりに、せんたう風呂を一ツ立る。風呂銭は永楽一銭なり。皆人めづらしき物哉とて入給ひぬ。されども其比は風呂ふたんれんの人あまた有て、あらあつの湯の雫や。息がつまりて物もいはれずゝ煙にて目もあかれぬなどゝ云て、風呂の口に立ふさがりぬる風呂をこのみしが、今は町毎に風呂あり。びた十五銭廿銭づゝにて入也云々。」【これにて江戸の銭湯の始り古きことをしるべし。】

〔十四〕風呂犢鼻褌
左にあらはす寛永正保の比の銭湯風呂の古図を見るに、犢鼻揮をむすびたるまゝ風呂入する体をゑがけり。こは画工の心を用たる絵そらごとにやと疑おもひしにしからず。昔は民家のいやしき者も風呂に入に、かならずふどしをはなつことなし。〔一代男〕【天和二年板。】〔三代男〕【貞享三年板。】等のうちにある銭湯風呂の図を見るに、皆ふどしをむすびて風呂入する体をゑがけり。〔棠大門屋敷〕【宝永二年印本。】一之巻に、下帯して風呂入する事をいへり。〔御前独狂言〕【宝永二年印本。】五之巻に、或人酒に酔、風呂犢鼻揮をときて、風呂入せしをあるまじきことゝて笑たることをしるせり。これ宝永の比まで風呂ふどしといふものありて、常のふどしにむすびかへて風呂いりしたる証なり。【按るに、ふどしを湯具といふもさるゆゑにやあらん。湯具といふより女は湯もじともいひしなるべし。湯巻といふはふどしのたぐひにあらず。うちあがりたる御方の湯殿に仕ふる者の身におほふ物なり。】

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最終更新:2020年02月15日 18:28