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糸鋸刑事が成歩堂事務所を訪れたのは、彼が署で午前のデスクワークを終え昼休みに入るころだった。
昼食の時間であれば自分が顔を見せても仕事の邪魔にはなるまい、と考えてのことだったが、
よくよく考えてみると、あの事務所にはいつも閑古鳥が鳴いているので大した違いはないかもしれない。

「あ、刑事さん。こんにちは!」
春美はパタパタと駆けるようにして、この冴えない刑事の訪問を出迎えてくれる。
掃除中だったのか、彼女は霊媒師装束の袖を上げ、手には台拭きが握られていた。
「おひさしぶり。ハルミちゃんお手伝いッスか?偉いなぁ」
と言って彼女の小さな頭を撫でてやると、春美は「えへっ」と恥ずかしそうに笑った。
その笑顔が如何にも素直な子供らしくて良い。

「ナルホドー…先生はいるッスか?」
自分で言いながら、糸鋸は「先生」などとかしこまった呼び方に内心可笑しかったが、
実際のところ成歩堂が彼を助けてくれたのは一度や二度ではない。
若いのでさほど実績を積むには至ってないが、才気にあふれている。
いずれ名実ともに一流の弁護士先生になるのは疑いないように思われた。

「ナルホドくんなら」
そんな社会的な地位は、子供にはまるで関係ないようだ。
「たった今、マヨイさまとお仕事でお出かけになりました」
糸鋸はポリポリ頭を掻いて、
「ありゃ、一足違いスか…残念。
 この前の事件のお礼に、田舎の手作りソーメン持ってきたんスが、
 ハルミちゃん渡しておいてくれるッスか?」
持っていた箱を春美に手渡す。
「あ、わざわざありがとうございます!」
と、彼女はペコリと頭を下げた。
ちょっとオマセなお礼だったが、それもまたこの少女らしい。

「じゃ、ハルミちゃんはお留守番スか?」
「はい。学校も来週までお休みですし…暇なので、仕事場のお掃除してました」
糸鋸はウンウンと頷いて、
「やっぱり、偉いお子ッスねぇ」
としみじみ言うのだった。
春美は少し照れて、そんな時の癖で両手を頬に当てる。

「お昼は?」
「これから作るところでした。良かったら、刑事さんも一緒にどうですか?
 ナルホドくんは2時半頃に帰ってくるそうですから、お昼食べて待っていればすぐですよ」
糸鋸はちょっと考えてから、
「2時には仕事に戻らなきゃならないので、会うのはまた今度にするッス。
 でも、ご飯はありがたく一緒にご馳走になるッスよ」
と言った。

「ちょうどだから、このソウメン茹でましょうか。
 これでも上手く煮るコツがあるんスよ」
「よろしいんですか?」
「構わないッス。お互いひとりで食べるより、一緒の方が楽しいッス」
春美はパッと花のような笑顔を見せて、「そうですね!」と言った。

なぜかこの少女は、会った当初から自分になついているような気がする…
それは糸鋸の錯覚ではなく、事実だった。
最初から大人に対して抱きがちな警戒心も彼にはあまり感じられなかったし、その笑顔もよく見せてくれた気がする。
ただ、それが何故なのかは少々頭の回転の鈍い彼にはよく分からない。
知り合って早々から幾つか大変な事件を共に乗り越えたので、そういった連帯感もあるのかもしれないが、
子供とはいえ自分を好いてくれるのは悪い気はしないので、どうでも良いといえばどうでも良かった。
ただ、同情はしている。

こんな幼い時分から父親はなく、母は獄中の身ときているのだ。
悲惨と言う他はない。
ましてや、母親が投獄された事件の一端には刑事である自分も関わっていた。
あの女性はこの子を愛するあまり、取り返しの付かない過ちを犯してしまった。
自分は刑事として人間として決して間違ったことはしていないのだが、
それでもこの小さな女の子に対し、多少の後ろめたさを感じずにはいられない…
その感覚は恐らく、成歩堂や真宵にも少なからずあるに違いない。

けれど、この子自身は儚い自らの身の上を悲嘆しているふうには見せない。
決してツラそうな顔をしない。いつも可憐な笑顔で暮らしているのだ。
純朴な糸鋸にはその健気さが痛々しかった。

「美味しいです!」
ツルツルの麺をすすってから、春美は嬉しそうに声を上げた。
「どんどん食べるッス。足りなければ、また茹でるッス」
事務所の小さなキッチンで、冷蔵庫に大したものは無かったが、
それでも野菜炒めと漬物を付け合せにして食べる糸鋸自慢のソウメンは、確かに彼の好物だけあって美味かった。
「うふふ。でも、こんなにたくさん食べたら…ナルホドくんとマヨイさまの分無くなっちゃいそうですね」
デスクに置いた平皿には、茹で上がったソウメンが山盛りになっている。
「構わないッス。食べ盛りの内はドンドン食べた方が」

そんな話をしながら昼食を取っていると、ふと話題が事務所の壁に貼られているポスターのことに触れる。
「そういえば、今日はこの映画の監督作品が封切りッス」
「私、この映画大好きですよ!
 …生前、チヒロさまが連れて行ってくれたんです」
(綾里…千尋)
一年と半年前に殺された弁護士の名前だった。
そして、この事務所のかつての主…
綾里真宵の姉。春美の従姉にあたる。
その名を聞くと、糸鋸は彼女が殺害された事件について思い出す。
あの時この刑事は犯人を見誤ったばかりか、こともあろうにその妹である真宵に冤罪を着せるところだったのだ。
このことは今でも糸鋸の心の隅で小さなトゲになっている。

(それにしても)
糸鋸は考える。
春美や真宵を目にする限りまるでそうは見えないが、
もしや「呪われた家系」なのではないのか、と。
真宵の母は殺人事件に巻き込まれて行方不明。
千尋は殺害され、その妹は無実の罪で2度も投獄されている。
そして春美の母親は、とある殺人に加担した罪で服役中なのだ…
だいたい霊媒師という仕事自体が浮世離れしているが、それが人の世の不幸を引きつけているのだろうか?

糸鋸にはなおのこと目の前の少女の笑顔が不憫である。
「なら、これ食べたら映画館に行かないッスか?」
そう言うと、春美は糸鋸の意外な一言に、
「えっ!?
 だって、刑事さんお仕事は?」
「まあ、書類整理とか大した仕事じゃないから帰ったらやればいいッス」
「…」
春美はちょっと考えた後、
「ありがとう刑事さん。でも、お留守番してないと私…」
正直、糸鋸にはすぐ帰ってくるとはいえこんな小さな女の子にひとり留守番をさせる成歩堂達が腹立だしかった。
また、そう言う春美の目は、先ほどからチラチラとポスターの方に向いている。
行きたいのはヤマヤマ、と言ったところだろう。
「鍵閉めて、置き手紙していけば大丈夫ッスよ。
 もし怒られても…」
「?」
刑事は再び頭を掻いて、
「自分も御剣検事に怒られるので、おあいこッス」
そう言って彼はニッと笑った。
春美は熊のような風貌のこの刑事のこの笑顔が好きだった。
「あはっ!」
と笑ってから、「行きましょう」と言って小さく飛び跳ねた。
最終更新:2006年12月12日 20:45