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須々木マコ。
警察学校の研修中、糸鋸の指導を受けた後輩のひとりである。
去年とある殺人事件に巻き込まれ、容疑者として告訴されたが、
成歩堂龍一の弁護によって救われたのだ。
無罪は勝ち取ったものの、被害者は個人的に親しい同僚だった。
そのことが彼女の心理にどう作用したのか糸鋸には分からないが、
ともかく彼女は警察を辞め、今はここでウェイトレスとして働いている。

「彼女、学生時代は『堕天使』と呼ばれてたッス」
奥の席に着きながら、糸鋸は春美にこっそり囁いた。
すると何を思ったのか、この少女はちょっと怒ったような顔になって、
「まあ。
 …それで、刑事さんは…刑事さんも堕落させられたのですかっ?」
「は!?」
「いやらしい!」
テーブルの向こうに座っている春美が身を乗り出して、
小さな両手で糸鋸の頬を挟んでピシャリと打った。

「?…??」
何か大変な誤解をしているようだった。
この歳で知ってる言葉にしては、えらく生々しい上に曲解している。
「そ、そういう堕天使じゃないッス。
 図らずも、自分も他人も不幸にしてしまう女ってことッス!」
おそらく成人向けのTVドラマ何かでそういうのが出てきて憶えたのだろう。
どうやら「堕天使」という言葉に随分と飛躍したイメージを持っているようだった。
まったく、最近の番組ときたら…!
「そうッス!自分は不幸ッス!
 そんでもって自分の不幸は、周りのひとにも感染るッス!」
いつの間にか注文を取りに来ていた須々木マコが、
テーブルの傍らで口をへの字にむすんで目をウルウルさせている。
「言うなれば、…そう、薄幸の美少女ッス!」

「びっ」
可愛いタイプには違いないが、自分でそう言い切ってしまう勢いに春美は再び圧倒された。
「少女って歳でもなかろうに…」
ボソッ、と言った糸鋸の不用意な発言に、
「せ、先輩!それは、女にはあんまりと言えばあんまりな…お言葉ッス!
 先輩でなきゃ、『マコ・キック』ッス!」
ふたりの会話を聞いているうちに、春美は頭がクラクラしてくるのを感じていた。

注文したケーキ2つにコーヒーとオレンジジュースが運んできてからも、
このウェイトレスはよほど暇なのかずっと糸鋸のテーブルにつきっきりで話をしていた。
もっとも、食事時ではないとはいえ客が彼らの他に居なかった。
「ところで…さっきから気になってたッス。
 こちらのお子さんは、先輩の?」
糸鋸はブッと少しコーヒーを吹き出して、
「自分はまだ独身ッス!」
と言った。

「そ、そうですよね!去年まで彼女も居なかった先輩に、こんな大きなお子さんが居るわけ…」
アハハと空笑いするマコを尻目に、
「…『彼女が居ない』だけ余計ッス」
と呟きながら、糸鋸はコーヒーを一口すすった。
意識してのことでは無かろうが、
簡単にやり返されてしまう糸鋸のションボリした姿が春美には妙に可笑しかった。

「彼女さん、居ないんですの?」
マコが奥に呼ばれて行ってからホッとしていたのに、蒸し返されるとは思わなかった。
「…ッス」
小さな声で答える糸鋸。
春美はそんな大男をさらにつつきたくなるような、子供らしいややサディスティックな感情を覚え、
「うふふ…」
と嬉しそうに笑った。
実際、糸鋸に付き合っている女性が居ないことを知ったのが嬉しかったのかもしれない。
「な、何ッスか…?」
色恋沙汰には縁遠いこの男。どうしてかこの類のからかいを受けることが多いのだが、
まさかこんな小さな女の子にまで手玉に取られるのでは、我ながらつくづくお先真っ暗である。

再び戻ってきたマコに、糸鋸は、
「それにしても…飯どきでないのは分かるけど、ずいぶん空いてるッスねぇ」
と言った。
空いている、どころか先述のとおり彼らのほかに客など居ない。
「ハァ、実は…」
マコの話はこうだった。

このレストランは、小洒落れた店内の雰囲気と料理の味で若いOLなどに人気の店である。
しかしマコが警察を辞めここのウェイトレスに転職してからは、まさに転落の一途を辿っているのだという。
去年の暮れのボヤ騒ぎを皮切りに、仕入先のミスによる食中毒で営業停止。
シェフとオーナーの対立。そのシェフは突然辞めると言い出し、店を飛び出していった。
現在のは臨時雇いの料理人だが、腕はイマイチで先の食中毒事件とあわせて客足は遠のき、
今は閑古鳥が鳴くばかりであった。

「たった数ヶ月で、それッスか…」
「…」
どの話もマコ自身が関与しているわけではないようだったが、なおのことタチが悪い。
糸鋸と春美はそのあまりの転落劇にあんぐりと口を開けて顔を見合わせた。
「でも、でも須々木は負けないッス!オーナーも店主もそんな不幸を呼ぶ自分にも良くしてくれるッス!
 私はここで『不幸の銀河系チャンピオン』から『地球一の不幸女』になるのが夢ッス」
直立不動の敬礼姿勢で、須々木マコは半ば自分に言い聞かせるように言い放つ。

去年警察を辞める時は、確か「不幸の女神」から「不幸な人」になってやるとか言ってなかったか…?
何だかレベルアップしてるのか、それともダウンと言うべきか糸鋸には分からなかった。
「そ、そうッスか。…まぁ、頑張るッス」
と言うほかはない。
このままでは彼女がより大きな不幸に見舞われるのは、時間の問題に思われる。
複雑な気分を残したまま、ふたりは店を後にした。

「まあ、世の中には色んな人間がいるってことッスな…。
 ん?」
一体どうしたのか、店を出てからこっち糸鋸と手をつないで歩きながら春美は黙ってしまっている。
「どうしたッスか?ハルミちゃん」
が、少女はその問いには答えない。心配になって立ち止まると、彼女も物言わぬまま足を止めた。
その瞳は前を向いているようでいて、どこも見えてはいないようだった。

「いや…」
「えっ?」
「そんなの、イヤッ!」
歩道の真ん中で、春美は両耳をふさいでへたり込んだ。むろん突然のことで、糸鋸には何が起きたのかサッパリ分からない。
「は、腹が痛いんすか?大丈夫ッスか?」
先ほどのレストランの食中毒事件が頭をよぎった。

その時、糸鋸刑事の携帯電話の呼び出し音が、けたたましく鳴り響いた。
最終更新:2006年12月12日 20:46