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「イトノコギリ刑事か?どこをほっつき歩いている!」
切れるような鋭い声が、携帯のスピーカを通して聞こえてきた。
「げっ!み、御剣検事!?」
よりによって、まずいタイミングでまずい相手が電話をかけてきた。
いや、これは…と言い訳をする前に、
「今すぐ駅に向かうんだ!私もすぐ行く。…信じられないことが起きた」
と、遮られる。
「事件ッスか?」
糸鋸には、御剣の興奮を聞いてもまだ事態の重さがよく分かっていない。
「女が電車に飛び込んだ。
男がそれを助けようとして…ふたりとも即死だ!」
イライラしつつ説明する御剣の言葉に、糸鋸はしかしあくまで呑気だった。
こう言っては不謹慎かもしれないが、列車事故など珍しいものではない。
女が飛び込んだのは自殺だろうし、男が助けようとして巻き添えを食ったのは事故だろう。
検事が血相を変えるほどのことだろうか。
それに、駅の名を聞くかぎり担当区域外ではないか。
「よく聞け!この事件を担当している刑事から連絡があった」
「なんだ。他の署が担当しているなら、わざわざ出向かなくても…」
糸鋸はヤレヤレといったふうに頭を掻く。
そもそも自分は殺人事件の初動捜査が担当なのだ。
所轄違いなだけでなく、事故・自殺疑いの事件は畑違いでもある。
「いいから黙って聞け!
列車に轢かれて死んだふたりは!」
顔こそ見えないが、御剣が我を失っているのは糸鋸にも理解できた。
「死んだのは…………」
ふいに御剣は口ごもる。
「よ、よく聞こえないッス」
糸鋸は電波の通りが悪いのかとディスプレイを見直すが、そういうことではないようだ。
「………死んだのはッ!」
御剣は震える声を絞り上げた。
「…成歩堂、龍一と……………綾里……真宵ッ」
語尾が消え入りそうなほど小さく弱々しいその言葉が、
しかし大きな衝撃になって糸鋸に襲い掛かった。
列車事故で死亡したのは、成歩堂龍一と綾里真宵!?
聞き間違うはずもない。確かに御剣はそう言ったのだ。
成歩堂と真宵が、死んだと!
携帯を耳に当てたまま、糸鋸は呆然自失となりながら春美の方を見た。
御剣の声は聞こえていないはずだったが、
しゃがみ込んだ足元のアスファルトは彼女の失禁で濡れている。
その目は虚空を見つめていた。
目撃証言は一致していた。
午後の決して混みあうような時間では無かったが、多くの証人が居た。
みな一様に言う。「あれは自殺と…事故だった」と。
最初、ホームの真ん中で少女が突然うずくまった。この様子を目にしていた人間もひとりふたりではない。
なにせ目を引く格好だったから、皆それを珍奇の目で観ていたのだろう。
かと思うと、その子は狂ったような声をあげて線路に飛び込んだ。
驚いた青年は少女の名を叫びながら、彼女を助けるために自分も飛び降りたが、
間に合わずその直後ホームに入ってきた電車に轢かれ…
糸鋸が駅に着いた頃には、ふたりの体は黒いポリ袋のようなもので回収された後だった。
それでも、死亡したのがいくつかの刑事事件を担当した弁護士と、
過去2回に渡り殺人事件に巻き込まれた経験のある少女であったため、
当初は「自殺」と「怨恨による殺人」の両方で捜査が進められた。
しかし、いま現在思い当たる犯人も居なければ狙われる理由も無い。
ふたりが駅に居たのも隣町にある依頼人の自宅から帰る途中であり、
その依頼人にも不審な点は無かった。
その上、「突き落とした者など居ない」という証人達の言葉も一致している。
殺人の線は早々と消えてしまった。
ただ、その依頼人の証言によれば綾里真宵にも別段おかしい様子は無かったという。
また、たしかに不幸な身の上であるものの自殺などするような少女ではない、という彼女を知る者の声も上がっていた。
で、あれば。
彼らは何の変哲もない日常の中で、自他ともになんの意識もなく突然この悲劇が起きたことになる。
…結局、少女が青年を驚かそうとふざけていたのか、
どこか体の調子が悪くフラフラと線路に落ちたのだろうということに落ち着いた。
さもなくばやはり自殺であろう、という程度の結果で謎を残したまま捜査は終わることとなる。
「そんな馬鹿な!」
御剣怜侍は叫ぶ。
「成歩堂が!あの男が、そんな馬鹿な理由で死ぬものか…ッ」
捜査打ち切りの報せを聞いた時。
いきり立ちのあまり、彼は唇を震わせ握り締めた拳からは血が滲んでいた。
「成歩堂…」
ワナワナ震える肩を押さえるようにして、御剣は叫ぶ。
「成歩堂ッ!」
何度も、何度も…彼は生涯のライバルであり親友だった男の名を呼んでいた。
だが、彼はもう帰ってはこない。
たとえ殺人だったとして、犯人を捕らえ、裁き、罰することが出来たとしても、
御剣の声は二度とあの男に届くことは無いのだ。
突如、巨大な空虚が胸に開いたようになった。
それまで張り詰めていたものが、プツリと切れたようだった。
3日後、この天才検事は再び姿を消した。
最終更新:2006年12月12日 20:46