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トントン…

戸を叩く音が聞こえる。
どうせ新聞の勧誘か何かだろう。
糸鋸は居留守を決め込んで掛け布団にくるまった。
(イトノコギリは、留守ですよぉ…)
大きなあくびをひとつして、心の中で返事する。

ドンドンドン!

今度はずいぶんと乱暴な叩き方だ。
(しつこいッスね…)
だが、起き上がって怒鳴り返してやるほど、眠気から立ち直っているわけではない。
放っておくことにする。
ふたたびまどろみの中に意識が埋もれようとしたその時。

「こらっ。開けなさい、ヒゲ!
 居るのは分かってるのよ!!今あくびしたでしょう!?」
という忘れもしない女の声に、糸鋸は布団の中から飛び上がった。

(え…ま、まさかこの声!なんでここに!?)
反射的に布団からは起き上がったものの、糸鋸は混乱のあまり動けなかった。
(そんなはずはないッス!…彼女はたしか、日本を離れて………)
半年前アメリカに帰ったはずだ。

狩魔 冥。

弱冠18歳でありながら、去年成歩堂に敗れるまでは無敗を誇った天才検事である。
二度に渡る成歩堂との戦いの後、
検事という仕事を見つめ直すために一時帰国(冥はアメリカ育ちである)したはずだった。
やはり同じ狩魔ファミリーと言うべきか、このあたりの事情は御剣とよく似ている。

糸鋸がまごまごしているうちに、ふいに静かになった。
(か、帰ったんスかね?)
それならその方が、糸鋸にとっては助かった。
なにしろ彼女と来たら、糸鋸が何かヘマをするたびに比喩ではなく本物の鞭を振るうので、
一緒に仕事をしている間は体からミミズ腫れが消えなかった。
「叩かれたくなければ、自分のミスを減らしなさい」
それはもっともな冥の言葉だったが、
糸鋸もまたヘマをしないようにすればするほどドツボにはまるタイプである。
おかげで冥がアメリカが帰ってからも、数週間はみっともなくて銭湯に行けない体にされたのだった。

何十回、いや何百回鞭を振るわれたか分からない。
一度、気絶するまで引っぱたかれたこともあったのだが、
自分の一生の内であれほど生命の危険を感じたことは無かった。
糸鋸が「帰ってくれた方が」などと思うのも、もっともな話である。
(いや、諦めたふりをして外で見張ってるかもしれないッス!)
そう思い始めると、今度はこの静寂が恐怖以外の何者でも無くなってくる。
(か、確認した方が…。い、いいや、それじゃ向こうの思うつぼッス!)
ドアを開け顔を出した瞬間、鞭が襲ってくるに違いない。
自分自身の妄想に、糸鋸は震えが止まらなかった。
(ここは、黙ってやりすごすッス!)
ただの居留守が、たちまち命がけのものになってしまった。

糸鋸はしばらく頭から布団をかぶっていたが、体はちっとも休まらなかった。
むしろ緊張で動悸は激しく、体がこわばってくる。
どのくらい時間がたっただろう?2分…3分……。実際は数秒しか経ってないかもしれない。
たったそれだけの間に、彼は何時間もこうしているような錯覚さえ覚えていた。

…トン、トン。

その末に、ドアが優しくノックされた。絶妙のタイミングである。
糸鋸にはもう我慢の限界だった。
「あ・あ・ああぁっ…か、狩魔検事!た、ただいま開けるッス!今すぐ開けるッス!」
布団から跳ね起きると、惨めなほど慌てふためきながら糸鋸はドアに駆け寄って鍵を開けた。

「遅いっ!」
バシンッ!
「ぎゃん!」
案の定、ドアを開けるが早いが鞭の一閃が糸鋸の鼻っ面を襲う。
気のせいか去年よりもいくぶん鋭い一撃だった。
痛みのあまり、糸鋸は部屋の中でもんどり打った。

「私が『開けろ』と言ったらグズグズしないで5秒以内に開けなさい。
 …まったく、相変わらずね。糸鋸刑事!」
「す、すまないッス!」
涙目で鼻先を押さえながら、冥のムチャな注文に反論することもできず糸鋸は謝った。
相変わらずなのは、冥も同じようだった。

「お邪魔するわよ」
冥は部屋へ押し入ってくる。
へたなことを言ってまた痛い目をみるのはこりごりだったので、
糸鋸は黙って彼女の無遠慮な訪問を受け入れるしかなかった。
「意外と…片付いてるじゃない」
LDKの小さな部屋だが、春美がいるだけあってキチンと整頓されている。

冥は部屋の中をひととおり眺めた後、
糸鋸が先ほど横になっていた布団とは別の、たたまれた布団一組を見て「ふぅん…」と言った。
「久しぶりね。やはりココに来て正解だったわ…御剣怜侍はどこ?」
「?」
「隠すと為にならないわよ」
冥はゆっくりと鞭を構えた。
「ちょ、ちょっと待つッス!御剣検事は一ヶ月前から行方不明で…」
糸鋸には何の事だか分からなかったが、冥からは殺気すら漂っている。
本能がそれを察知して、足がガクガク言い出した。
「それを聞いて、わざわざアメリカから来たのよ!
 以前行方を眩ましていた時も、アナタにだけは連絡をいれてたらしいじゃない。
 そこの布団には誰が寝てたの?」
冥は当然知る由もないが、春美である。

どうも,、彼女は御剣がここに居ると誤解しているらしかった。
…天才検事の狩魔冥も、この時ばかりは冷静でなかったのかもしれない。
御剣がどこかに消えたとして、ここで暮らす理由など無いではないか。
だいたい、独身とはいえ男の部屋にいきなりやって来ておきながら、
余分にある布団が彼のオンナのものだとは夢にも思わないとは失礼な話である。
まあ、実際に違うと言えばそれまでだが。

「あ、あれは娘の布団ッス」
慌てて口をついて出た言葉に、冥はこめかみをピクリとさせた。
「…いい度胸じゃない」
ビシッ!
「あふぅ!」
この狭い部屋の中で、よく自在に鞭を振るえるものだ…。
痛みの余りうずくまって悶えながら、糸鋸は冥の鞭さばきの恐ろしさに舌を巻いた。
「嘘じゃないッス…娘と言っても、義理の…最近引き取った子なんス。
 み、御剣検事は本当にここには居ないし、行方だって今回は自分も知らんッス…うぅ」
必死に弁明しながら、糸鋸はだんだん自分が情けなくなってきた。
なんだって自分はいつもこんな扱いばかり受けるのだろう…。

「そうだったの…?悪かったわね」
「えっ」
冥の謝罪の言葉に、糸鋸は我が耳を疑った。
常識で考えれば誤解で(誤解でなくとも)人様に鞭を振るうなど言語道断である。
謝っても決して赦されることではないが、なにせ相手は「あの」狩魔冥なのだ。
自分に謝る事など、少なくとも去年までの彼女には有りえない。
むしろ糸鋸は驚いてしまって、
「い、いや…狩魔検事が御剣検事を心配する気持ちも分かるッスから」
と、余計な事を言った。

スパンッ!
「はごぉっ!?」
駄目押しの一撃が糸鋸の肩口を叩く。
「だ、誰が!誰を心配してるって?
 まったく、バカのバカバカしい想像ね!私はただ復讐の相手を逃がしたくないだけよ!」
「わ、分かったッス!分かったッス!」

(やれやれ…)
糸鋸は、やはり何も変わってないのだと思い直すことにした。

「とんだ無駄足だったわ…邪魔したわね」
冥は「もう用はない」とばかりに踵を返して戸口に出ようとする。
案の定散々だったが、彼女が帰ると聞いて糸鋸は内心ホッと胸を撫で下ろした。

「あ、そうそう」
冥はそんな糸鋸の心を見透かしたかのようにクルリと振り向いて、
「明日からは行方不明の御剣検事に代わって、この私が配属されることになったから…
 よろしくね、イトノコギリ刑事」
という、糸鋸にとってあまりにも衝撃的な宣告を残して去って行く。
…言葉とともに優雅なお辞儀をしながらも、
その表情は明らかに「覚悟なさい」とでも言いたげだった。

糸鋸は、彼女の竜巻のような訪問から解放された後もしばらく呆然と立ち尽くすしかなかった。
最終更新:2006年12月12日 20:47