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糸鋸が不思議でならなかったのは、
自分のような男が娘を保護することに綾里キミ子が承諾してくれたことだった。
列車事故のあった日から数日後、糸鋸が彼女にその旨を伝えるために面会に赴いた時の事である。
少し怪訝そうな顔を糸鋸に向けた後、しかしキミ子は言った。
「ようござんす」
と。
「えっ…」
あまりにあっさりと話が通ることが予想外だったので、糸鋸はつい聞き返してしまった。
「刑事さんを信頼しましょう。娘をお願いいたします」
と言って、キミ子は深々と頭を下げる。
刑務所での生活によるものか、以前の彼女からは想像も出来ないほどしおらしく、
糸鋸にはそれが痛々しくも思われる。
「…それにしても、あれですわね」
「は?」
キミ子は口を押さえ少し目を背けるようにして、
「ああた、相変わらず小汚い格好ですわねぇ…
春美の保護者として、
あまり薄みっともない格好をされないことも併せてよしなに…」
と言って、再び頭を下げる。
甚だ慇懃無礼もいい所だが、その方が綾里キミ子らしい。
苦い笑いを浮かべながら、糸鋸はそう思うのだった。
ある夜夕食の時にその話をすると、春美は頷いて、
「お母様には嘘が分かりますの」
と言った。
「綾里霊媒道の技のひとつですわ。
お母様は霊力こそ少ないけど、その技の数は歴代どの家元にも引けを取りませんの。
そのくらい容易い事ですわ!」
少し誇らしげにそう言う春美に、糸鋸は「綾里家にはそんな力もあるんッスね」と素直に驚いた。
オカルトの事はよく分からないが、要するにその「霊力」とかいうものさえ備わっていれば、
綾里舞子ではなくキミ子が家元になっていたということらしい。
生来の才能が足りないばかりに長女である自分が継承するはずだったその座を妹に奪われ、
彼女の胸中にどのような暗部が潜み始めたのかは知る由も無い。
むろん、だからといってキミ子が犯した罪に同情する気にはなれないのだが、
それにしても神の気まぐれというヤツは甚だ皮肉なものだと糸鋸は思う。
「そうだ!」
春美は箸を置いて立ち上がると、そばのタンスの引き出しから何かを手に取り持って来た。
「行儀悪でごめんなさい。
でも、今でないと忘れると思ったから…」
と言って彼女が手渡してくれたのは、オレンジ色に輝く勾玉だった。
「けいじさん、これを持っていてください。
相手が嘘をついていたり隠し事をしていたりするかどうかが『見える』ようになるはずです」
「これは…」
春美が胸に下げているのと同じ物のようだったが、色が違う。
「…真宵さまの、形見ですわ」
「…」
「これに私の霊力を込めましたの。お仕事の助けになればと思って」
ふいに胸が熱くなったが、しかし糸鋸は首を振って、
「受け取れねッス」
と言った。
「大事な形見じゃないッスか。
こんなに大事な物…」
「いいの」
春美はニコリと笑って、糸鋸の言葉を遮った。
「きっと…真宵さまもその方が喜ばれます!
それに」
春美はちょっとはにかみながらうつむいて、
「私には、けいじさんが居てくれますから」
と、呟くような声で言う。
「少しでもお役に立てられれば嬉しいの」
どこまでもいじらしい娘だと、糸鋸は思った。
こういう娘のために、キミ子が取り返しのつかない過ちを犯したのは、今の糸鋸には分かる気がする。
「この子の未来のためならば、全てを失ったって構いはしない」
キミ子の犯した罪は、そんな思いに駆られ…なりふり構わず取った愚かしい行為だった。
それはむろん赦されざる出来事だったし、同情の余地はない。
何よりも春美自身そんな事は望んでいなかったのだ。
救われないのは、そんな母親のために孤独へ追いやられる娘の方だろう。
(それでも)
と、糸鋸は考える。
(それでも、この子を守りたいという気持ちは痛いほどよく分かるッス)
だから、自分が守る。
再び心に決めた糸鋸の手の中で、真宵の勾玉が鈍く光を放っている。
それにしても、霊媒というものにはよくよく感嘆させられる。
(嘘の存在が、分かる…)
最初は遠慮しようとしたものの、
冷静になって考えてみれば、刑事の自分にとって勾玉の力はこの上ない助けとなるだろう。
超常の力を借りることにいささか不安が無いわけでもなかったが、
成歩堂もこの力を借りていたことがあったと聞けば、それも納得できた。
けれど、これほどの力をもっていながら…
いや、こんな力を持って生まれたがために
綾里一族があらゆる運命の濁流に呑み込まれなければならないのは、どうにも皮肉というほかはない。
(…霊媒………?)
ふと、糸鋸は閃いた。
「春美ちゃん」
糸鋸は勾玉を握り締めて春美の顔を見る。
一瞬、糸鋸は言葉に出すのを躊躇した。
再び春美を傷つけることになるかもしれないが、
さりとてもしあの事件に「犯人」が存在するのなら、一刻も無駄にはできまい。
刑事は心を鬼にしたつもりになって、尋ねてみることにした。
「なるほどくん達の霊を…呼び出せるッスか?」
もしかしたら、彼らの言葉にあの事件の手がかりがあるかもしれない。
死者の声を聞いて捜査するなど、実際に彼女たちの技を目にしていなければ笑い飛ばすところだが、
実を言えば糸鋸の捜査など、とっくの昔に行き詰ってしまっているのだ。
…藁にもすがる思いだった。
が、
「…だめ、なんです」
糸鋸の期待とは裏腹に、春美は目を伏せたった一言そう答えた。
「…呼び出せないッスか?」
しかし、法廷で知る限りこの子は綾里千尋の魂を呼び寄せ、
その体に憑依させていたと聞く。
ふたりの魂に限って呼び出せないなどということがあるだろうか?
糸鋸のいぶかしげな表情を見てとったのか、春美はしぶしぶ口を開いた。
「実は、一度…なるほどくんと真宵さまをお呼びしたことがありますの…」
「えっ!?」
初耳だったので驚いたが、よくよく考えてみれば不思議なことではない。
むしろ今日までこの方法を思いつかなかった糸鋸が迂闊なのだが、
それは置いておくことにする。
「そ、それで…どうだったッスか?」
テーブルから身を乗り出すようにして尋ねてくる刑事に、
春美はしばらく口をつぐんでいたが、やがて重々しく呟くように言った。
「おふたりは無事呼び出せましたわ…
それで、わたくしあの時の事をお聞きしましたの。…でも」
春美はかぶりをふって、
「あの時のことは分からないって…おっしゃってるんです」
「?……ど、どういう事ッスか?
何も分からないって…
ふたりは、殺されたんじゃないって事ッスか?本当に事故だったんスか?
それとも、まさか自殺…」
矢継ぎ早に質問してから、糸鋸は春美の気持ちが沈んでいくのを見て「しまった」と思った。
いくらなんでも、ふたりの死からやっと立ち直ったばかりの少女に対してそれは配慮の足りぬ態度だろう。
だが、ここはハッキリしておかなければならなかった。
そもそも糸鋸が春美を保護しているのは、万が一の事を考えてのことである。
実際にコロシだったとすれば、刑事として犯人を追うのみではなく、
ますますもって春美の安全を考えなければならない。
この子の、安全を…
彼女の細腕に伸ばした糸鋸の手に、無意識に力が込められた。
「…痛……ッ」
「あ!す、すまねッス…」
慌ててパッと手を放す。
ただでさえ白い春美の柔肌が、糸鋸の握っていた部分だけさらに白くなってしまっている。
「…」
(怒ったかな?)
糸鋸は自分の乱暴を少し後悔したが、
それでも「聞いておかなければ」という気持ちの方が先にたつ。
普段気の抜けた彼の表情とは異なる、刑事の顔だった。
「なるほどくんは」
春美は、腕を押さえゆっくりと確かめるように言葉を紡いだ。
「真宵さまが線路に飛び込んでしまわれたのを助けに行ったそうですわ。
…………。
それが、間に合わず…」
「…」
ふいに涙混じりになる春美の声に、
今度は糸鋸の方が彼女の方をまともに見られなかった。
(残酷なことをしてるッス)
今さらながら彼は思う。
霊媒のできる人間がこの少女しか存在しない今となっては仕方の無いこととはいえ、
十にも満たぬ女の子につい数ヶ月前の身内の死を思い起こさせなければならないとは…
糸鋸はそんな自分の立場を恨めしく感じた。
「真宵さまは…。ホームで、急な眠気に襲われた、と仰ってました。
いきなり意識を失って………
線路に降りたことなんて知らないって……………。知らないまま……
自分が死んだことも気づかないまま………
………、可哀そうな、真宵さま………」
春美のこぼした涙が、ボロボロとうつむいた先に落ちた。
「…」
糸鋸は黙って春美の肩を抱き寄せて、2度3度頭を撫でてやる。
そんなふうにしてやりながら、しかし頭の中では別のことを考えていた。
(急な、眠気?)
そんな証言は、長くこの仕事をやっていてついぞ聞いたことがない。
居眠り運転ではあるまいし、
そんなことでホームに入ってくる列車に「飛び込む」ことなどあるだろうか?
足を滑らせて落ちたのとはわけが違う。
自ら吸い込まれるように迫り来る列車に突っ込んで行ったのは、
多くの目撃証言からも明らかなのだ。
「見当もつかないっス…」
思わず、言葉が口をついて出た。
犯人どころか、事故なのか殺人なのかすらまるで分からない。
「ごめんなさい」
「ん?」
春美は抱き寄せられた糸鋸の腕の中で嗚咽を上げながら、何事か謝った。
「役に立たなくて、ごめんなさい…」
そう言って胸元で自分を見上げる少女の顔は、涙でくしゃくしゃになっている。
糸鋸は胸が締め付けられる思いだった。
「だいじょうぶッス」
糸鋸はニッと微笑んで、
「自分がついてるッス。春美ちゃんは、なにも心配することはないッスよ。
それに…」
人差し指で自分の鼻下をこするようにしながら言った。
「春美ちゃんのおかげでひとつだけ分かったことがあるッス」
「えっ?」
そのゴツゴツした指先で春美の暖かい頬の涙を拭ってやりながら、糸鋸はさらに言葉を続けた。
「やっぱり自殺ではなかったッス」
つまりあの事件が事故であれ殺人であれ、少なくとも本人の望んだ死ではない。
それだけは心に留めておかなければならないのだと、糸鋸刑事は考える。
「そこから真実をつきとめるのが、自分の仕事ッス……!」
安アパートの天井を見上げ、自分で言い聞かせるかのように強い調子でそう言い放った。
「だから、春美ちゃんは安心してていいんスよ。
もう怖い思いも寂しい思いもさせないッス!」
「……ッ!」
春美は言葉では答えず、代わりにこの上なく強い抱擁で返してくる。
抱擁と言っても、彼女の小さな体では糸鋸の太い首にしがみついているだけなのだが、
今はこの体温と触れ合う頬の感触がこの上なく心地よかった。
「もし悪い奴がふたりを死なせたのなら…刑事の誇りにかけて、絶対捕まえてやるッスよ」
手のひらに収まるような春美の肩を抱きながら、糸鋸は呟いた。
「…」
「!?」
糸鋸は、はたと目を疑った。
いつの間にか半透明の鉄鎖が春美の体に巻きついている…
手に触れようとして、透けた。
「これは…」
思わず声にあげる糸鋸を、春美はハッとした表情で見上げるのだった
最終更新:2006年12月12日 20:48