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気まずい夕食を終え風呂に入った後、糸鋸はひとり布団に入って春美の言葉を思い出していた。
いつもはこのままグダグダとTVをつけたりビールを飲んだりするのだが、
何となくそんな気にもなれず、春美が風呂に入っている間、
横になってただボンヤリと考えている。

(嘘や隠し事が分かる…)
では、春美のついた嘘とは何だったのだろう?
あの時、糸鋸は尋ねかけて止めた。
問いかけようとしたその瞬間、春美の心がますます頑なになっていくのをこの目で見てしまったからだ。
…半透明の鎖には、実体こそ無いもののご丁寧に頑丈そうな錠前まで付けられていた。
皮肉にもこの勾玉が一番最初に力を発揮したのは、作り主に対してだったわけだ。

成歩堂と真宵の「証言」についてだろうか?
確かに彼らが述べたとする言葉の中には、要領を得ない点が多い…
ふたりが他にもまだ伝えたことがあったのか、全く別の内容だったのか、
糸鋸には見当も付きはしない。
むしろ春美が降霊を行ったこと自体が嘘だったのではないかとさえ思えてくる。

(…けれど)
糸鋸はかぶりを振ってその疑念を打ち消そうとした。
春美にそんな嘘を付く必要が、一体どこにあるというのか?
あるいは嘘と言っても、その事とは全く別の些細なものかもしれないではないか。
(過敏になっているッス…)
なまじ嘘が分かるというのも、あまり愉快なものではない。

なるほど、確かに真宵の勾玉は大したものだと糸鋸は改めて実感していた。
これから先どんなに技術や医学が発達して例え「嘘発見機」なるものが創られたとしても、
この不思議な力には到底およびはすまい。
これほどまでハッキリと、文字通り「目に見える」形で嘘を見抜いてしまうとは想像もしなかった。

だが、同時にこの勾玉がオカルトの産物とはいえやはり人間の道具に過ぎないのだということも、
糸鋸はしょっぱなから思い知らされる事になった。
(そこに嘘が『有る』のか『無い』のかが分かっても…自分にはどうする事もできないッス)
その話のどこに嘘があるのか、なぜ嘘をつく必要があるのか、当然ながらそこまで教えてくれるものではない。

春美には申し訳ないと思いつつ、成歩堂や御剣ならともかく、
肉体派の自分にはどうにも上手く使いこなせる自信は無かった。
むしろ、日常生活では余計な摩擦を生むだけのものにも感じる。
実際、今がそうだった。
(必要なとき以外は、手にするものではないッスね。
 …これは、ルール違反ッス)

ごく一部の断片とはいえ人の心を読み取ってしまうその力に、
多少なりとも恐れを感じずにはいられなかった。
人間、事実を追及するよりも心地よい嘘に騙されている時の方が、いくぶん幸せなのかもしれない。
普段、哲学や人生論など面倒くさいことはあまり考えるたちではないのだが、
糸鋸もこの時ばかりは深刻にならざるを得ないのだった。

ドライヤーの音が聞こえる。春美が風呂からあがって髪を乾かしているのだろう。
糸鋸は、もう一度さっきの事を問い正してみるか否か悩んだが、
悩んでいるうちにパジャマ姿の春美が戻ってきた。

「もう寝てしまうんですの?」
入浴の熱気にまだ頬をポッポと赤くしたままそんな風に言う少女の表情は、
いつもと何ら変わらないように見える。
「…あ、あぁ。今日は、少し疲れてるッス。
 春美ちゃんはTV観てていいッスよ」

(言いたくないものを無理に聞くことは無いか…)
彼はそう考えなおし、春美の意思に任せることに決めた。
色々と疑問は残るものの、
この娘があの事件の捜査に不利益になるような嘘を付くとは考えにくい。
何か他のことで思い悩んでいるかも知れなかった。
(…それはそれで、保護者としては相談して欲しいものだけど)
と思わなくもなかったが、何せよ無理に顔を突っ込むのはでしゃばりというものだ。

「私も今日はもう寝ます。…電気消しますね?」
春美はそう言うと、少し背伸びして部屋の明かりのヒモに手を伸ばした。


……
………
糸鋸は、しかし眠れなかった。
何かが気になるのだ。
重大なものを見落としているような感覚が心の内に芽生えている。
それは勘にすぎないのだが、
とてもとても頭の回るタイプとは言いがたい自分がどうにか刑事をやってこられたのは、
この直感に頼るところが度々あったからというのも事実だった。

(……)
糸鋸はもう考えるのを止めて眠ってしまおうと、むりやり目をつむった。
(…ん?)
何か暖かいものが背中に触れた。
「な、なんスか?」
その感触の正体を知って、糸鋸は思わず声を上げる。
いつの間にか春美が布団の中に入ってきて、自分の背中にすがりついているのだった。
子供とは言え、寝巻き越しに感じられる女の肌の柔らかさには何ら変わりが無いのだと、
糸鋸は初めて知った。

「…嫌わないで」
「えっ!?」
春美の押し殺すような声に、糸鋸は一瞬何のことだか分からない。

「勾玉の力で見えたのでしょう?
 わたくし、けいじさんに言ってないことがあるの」
(ああ、そのことか…)
糸鋸はようやく冷静になって、続く春美の言葉を聞いていた。

「だって、仕方ないんです。
 私どうしたらいいのか分からなくって…
 それがもし本当だったらどうしようって…」 
春美はますます強い力をしがみつく両の腕に込めながら、だんだん涙声になっていく。
「もしかしたら私、本当に何もかも失くしてしまうのかもしれない…
 でも、ひとりは嫌!嫌なんです、もう…」
糸鋸には少女の言う言葉の意味は今ひとつ掴み取れなかったが、
彼の知らないところで彼女は彼女にとって恐ろしく重大な決断を迫られていることだけは明白だった。

「この事はいつか…いずれきっとお話します。
 だから、今は。
 今だけは、どうかこのままそっとしておいて下さい。
 このまま私のお父さんでいてください……………………どうか」
そう言って自分の背中ですすり泣く春美の声に、糸鋸まで胸が張り裂けそうだった。

布団の中に入ったまま、ゆっくりと春美の方に向き直る。
「けいじさん」
目を潤ませたまま、少女は糸鋸の顔を見上げていた。
暗くて細かい表情は分からなかったが、いつも優しい眼差しだけは見て取れる。
「…けいじさんっ!」

春美は思わず糸鋸のふところにその身の全てを預けて来た。
こうまで全く無防備に飛び込んでくる少女を咎めることなど、糸鋸にできはしない。
ただその肩を抱き、腕枕をしてやりながらそっと囁いた。
「大丈夫ッス」
と。
「メシの時にも言ったけど…ハルミちゃんは何も心配することはねッス。
 ハルミちゃんが自分を信じてくれるように、自分もハルミちゃんを信じるッス…
 だから、泣かないで」
頬を撫でる手のひらは不器用だったが、この上なく温かい。春美は再び涙が溢れてきた。
糸鋸もまた指先に触れる春美の頬の柔らかさに、
キスのひとつでもしてやりたい衝動に駆られながら、
「おやすみ、ハルミちゃん…」
と言った。

「お休みなさい…」
男の腕の中で、春美も呟くように言った。
この温かさに抱かれたまま眠りにつくことに、何のためらいも無いようだった。

(お父サンだって、男なんスよ)
糸鋸は、やがて静かな寝息を立て始める春美の顔を眺めながらひとり思った。
(この先)
…そう。この先、綾里キミ子が刑期を終え出所した後は、春美は彼女の元へ帰さなければならない。
そして、いつしか父親代わりだった自分のことなどキレイに忘れて、
他の良い男と一緒になるのだろう。

(大丈夫、ハルミちゃんなら上手くやれるッス)
そんな悟りきった思いを馳せながらも、
糸鋸はどこかやり切れない寂しさのような感覚も同時に覚えていた。
最終更新:2006年12月12日 20:48