12
少し奇妙な土曜日だった。
予定よりもだいぶ早く仕事を終え、さて帰ろうかという矢先。
「もうお帰り?」
と、狩魔冥が声をかけてきた。
彼女も帰宅するところのようだった。
「いつになく早いわね」
ふだん帰りの遅くなる原因は、どちらかといえば彼女のせいである。
糸鋸は、何かまた面倒な仕事を回されるのではと警戒しつつ、
「…はぁ、検事が先に資料をまとめていてくれたおかげッス」
礼を言ってコートを羽織った。
そろそろ初夏だというのにそれは如何にも暑苦しいが、
これが無いといまひとつ糸鋸という感じがしないでもない。
「狩魔検事も今お帰りッスか?」
「ええ」
糸鋸は彼女がタクシー通いなのを思い出し、
「良ければ、クルマで送って行くッスけど?」
と言った。
これまたいつになく気を回す糸鋸が可笑しくて、冥は笑った。
「お願いするわ」
「ボロボロね…あなたのコートみたいだわ」
糸鋸のビートルを見るなり言う冥の言葉に、
「…それ、前にも誰かに言われたッス」
糸鋸は苦笑しながら鍵を開ける。
それにしてもどういうわけか、冥の言葉にはいつもの険が感じられない。
妙なほど穏やかだと、糸鋸は思った。
バタ臭いエンジン音を響かせながら地下駐車場の出入り口を抜けたところで、
糸鋸は何とはなしに聞いてみることにした。
「何かあったスか?」
「…えっ?」
冥は一瞬、何を言われたのか分からず聞き返す。
「いや…」
糸鋸は夜のイルミネーションに彩られ始めたフロントガラスの向こうに目を向けたまま、
「何となく、元気ないみたいッスから」
いつもは余るほど元気なのに、という言葉を飲み込んで言うと、
冥はふいに黙ってしまった。
(怒ったかな?)
ふと糸鋸は心配になったが、怒ったにしてもいつもと反応が異なるには違いない。
「…」
なんにせよ黙りこくってしまうなど、彼女にはもっとも似つかわしくない答え方である。
そういえば、ここ2~3日は鞭で引っぱたかれた憶えがない。
それまで1日に1回は必ずと言って良いほど手痛い一撃を喰らっていたのに、
ふいにそういうことが無くなると、それはそれで「見捨てられでもしたのか」と不安になってくる。
確かに、別段マゾヒスティクな趣味があるわけでもない糸鋸にとって、
冥の鞭を浴びせられるたびに「いっそのこと見捨ててくれ」と思うことはしばしばだった。
だが、彼女の今の態度を見る限りそういうことでもなさそうである。
やはり、彼女自身がどこかおかしい。
「自分も…」
「…?」
糸鋸はこんな話が今この場に相応しいのかどうか一瞬躊躇したが、心を決めて言葉を続けた。
「自分も18の時、大学通うのに初めて親元を離れて一人暮らしをしたッス。
うるさい家族から解放されて嬉しかったけど、ある日ちょっと落ち込むことがあって…
その時は、何だか世界で自分だけがひとり取り残された感じがして、
この上なく心細かったりしたものッスよ」
「何があったの?」
「…」
私は別に心細いわけではない、という答えを勝手に予想していたのだが、
冥は意外にも話題に乗ってきた。
糸鋸は少し照れ笑いを浮かべながら、思い切った声で言う。
「女の子にフラれたッス!」
冥は思わずプッと吹き出してしまった。
「あはは…、あ、あなたが…女の子にフラれて、ホームシック!?……く…ふ、ふふふっ…ハハハ…」
助手席で遠慮も何も無く笑い転げる冥に、糸鋸はちょっとホッとして(内心、いくらか複雑な気分を覚えながら)、
「でも、そんなのもすぐ慣れっこッスよ。 …それだけ、言いたかったッス」
「…ふふふ、女の子にフラれるのが?」
楽しげに笑いながら切り返す冥の言葉に、糸鋸は半ば本気になって答える。
「ち、違うッス!一人暮らしのことッス!
何度フラれたって、あんなの慣れたりしないッス!」
むろん、冥の場合は大学に通うために上京してきたのとはわけが違うことはじゅうじゅう承知のうえだった。
冥はまだクスクス笑いながら、笑いすぎてこぼれ落ちた涙を指で拭いながら「冗談よ」と言った。
「…ありがとう、刑事」
そんな風に答える言葉はしかし、全くもって彼女らしくない。
無理もないことなのは、糸鋸にはよく分かっていた。
如何に「天才」と呼ばれる人種でも、若さゆえの未成熟さだけはどうなるものでもない。
最初の2ヶ月こそガムシャラな(糸鋸が辟易するほどの)働きぶりでそんなもの微塵も感じさせなかったが、
考えてみれば冥が不安でないはずがないだろう。
若干18という歳から遠い異国の地で一人暮らす少女の胸の内など、糸鋸には想像もつかなかった。
ましてや、彼女の父親は服役中の犯罪者である。
周囲からどのような目を向けられ、また裏でどのような言葉でなじられているのかも知っていたし、
しかし彼にはどうすることも出来なかった。
(…せめて、御剣検事が居てくれれば)
つくづく糸鋸はそう思わなければならなかった。
もともと兄妹のように育ってきたと聞いている。彼女の支えになってやれる人間といえば、
糸鋸には彼以外に思い浮かばなかった。
御剣の消息は未だ不明だが、冥は彼を探し当てた後はどうする気なのだろうか?
「復讐の相手」
そう彼女は言った。
だが、それがこの少女特有の強がりであることを見抜けないほど糸鋸も馬鹿ではない。
おそらくは自分の国へ連れ帰るために、はるばるアメリカからやってきたのは間違いなかった。
見つけ次第、彼女は御剣の首根っこに縄(いや、鞭か)をかけてでも引っ張って行くつもりだろうか。
いずれにせよ、とにかく御剣のそばに居たいというのが本音なのだろう。
…どうもその願いが叶うまでは、彼女は頑として日本に留まる気でいるようだった。
それは一見して強さのように思えるが、反面彼女のこの上ない弱さでもあるのだと糸鋸は考える。
彼女が(おそらく)心のよりどころである御剣を取り戻そうとする。…それは分からない話ではないが、
そのために今現在この娘が独りぼっちでいなければならないのは矛盾のように思えてならなかった。
…だが、糸鋸はそう思いはしてもそれを上手く伝えられるほど多弁な男ではない。
何より、その言葉を同情に取られかねないし、それは冥にとって面白くはないだろう。
だから彼にはどうしようもないのだが、
触れれば折れてしまいそうな体と小さな肩にのしかかる重圧がいつか彼女を押しつぶしはしないかと、
この男にはただそればかりが気がかりだった。
「ここで結構だわ。ありがとう」
狩魔冥にふさわしい豪奢な大マンションの前で、糸鋸はビートルを停めた。
周囲も高級住宅地には違いないが、
その西洋風(ロココ調とでも言うのか)の趣味に彩られた建物は、ひときわ異彩を放っている。
(…はぁ、すごいもんッスね)
自分の住むボロアパートとは無論比べるべくもない。
「明日は非番ね。…良い休日を」
冥はシートベルトを外してそう言うと、ドアを開けた。
「また月曜に。狩魔検事」
「…」
クルマを出てドアを閉めようとして、冥はふと動きを止めた。
「?」
糸鋸がどうしたのかと口を開こうとするのを遮り、冥は一言、小さく漏らすように言った。
「…ひとつだけ間違っているわ。私、もう19になったのよ」
そしてビートルのドアを閉めた。バン、という金属的な音が鳴り響く。
(えっ…)
糸鋸は彼女の言葉にどう答えるべきか、その一瞬では判断できなかった。
「誕生日おめでとう」などという言葉が浮かんでくるころには、冥の後ろ姿は既に大玄関のむこうである。
この時ばかりは、糸鋸はどうしても上手い機転を利かせられない自分の性分が恨めしかった。
(…)
口調や顔色こそ普段となんら変わりなかったが、糸鋸は彼女の今の一言に、
気を張るばかりで素直に寂しさを表現することを知らない冥の悲しさを垣間見るのだった。
最終更新:2006年12月12日 20:49