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小学校の廊下をひた走りに走りながら、冥の怒声が糸鋸の耳に響く。
「糸鋸刑事、何をしているの?携帯の電源切れてたわよ!」
電話がつながるなり浴びせられた言葉がそれだった。
「娘の授業参観だったッス」
来客用の下駄箱に腰を下ろし、携帯電話片手に靴を履きながら答える。
…やはりリモート・ベルを持ってきたのは正解だった。
「事件ッスか?今日の担当はどうしたッス?」
「○○区のXX番地のレストランで起きた殺人事件よ。
既にB班が出動して容疑者を逮捕したわ」
「?」
捜査の担当者が人手不足で自分が借り出される、というのならともかく、
それでは非番をつぶす意味が無いではないか。
疑問に思いながらも、しかし冥が意味の無いコールをするなど考えられなかった。
玄関を飛び出しながら、「…それはどういう……」
と尋ねようとしたところで、
わぁっ!!
…と歓声が聞こえ、糸鋸は思わず振り向いた。
2階にある春美の教室の窓から子供達が顔を出し、玄関を出た糸鋸の背中へ一斉に「刑事さん頑張ってー!」
「はみちゃんのお父さーん!」「かっこいいー」と口々に声を上げているのだった。
悪い気はしなかったが、今はそれどころではない。
小さく手を振りつつ、再び身を翻して校庭脇の駐車場に停めたビートルに向かう。
「…どういうことッスか?」
次の瞬間、電話口で聞かされた冥の言葉は糸鋸が予想だにしないものだった。
「…容疑者の名は須々木マコ。ここの元婦警だったわ」
「なっ」
糸鋸は驚きのあまり言葉も出ない。
「とにかく、署に来れば分かる…いそぎなさい!」
そして通話が切れた。
所轄署の地下駐車場にビートルを飛び込ませ、刑事は息切らせながら冥のもとへと走った。
「成歩堂龍一の法廷記録で見覚えのある名前だったから調べてみたのよ…。
あなたの後輩だとも聞いているわ」
そんな前置きは、糸鋸にはどうでも良い。ただ情報が欲しかった。
「どうして須々木くんが…?」
冥の話によると、事件の概要は以下の通りである。
今朝未明、須々木マコのがウェイトレスとして働いているレストラン「ルージュ」のキッチンで、
店長の神楽イサオ(32歳)が刃物で刺されて死亡しているのが発見された。
死亡推定時刻は午前2時から3時半にかけてと思われる。
昨夜、1時30分まで閉店後の片付けをしていたという須々木マコが、容疑者として逮捕された。
本人は「片付けが済んだ後、まっすぐ帰宅した」と供述しているが、はっきりとしたアリバイがなく、
また関係者の言より被害者が須々木容疑者にしつこく交際を迫っていた事実が明らかになり、
捜査当局はそのトラブルによって起きた犯行として捜査を進めている。
「そんなバカなっ!」
糸鋸は、いつになく声を荒げて言った。
「そんな事するようなコじゃないッス!
だ、だいたいB班のやつらも…もとは同僚の須々木くんを……」
そこで、はたと詰まった。
…自分も、もとは同僚で後輩である彼女を自らの捜査ミスで窮地に追いやったことがあったからだ。
あの時は成歩堂龍一が居てくれたからこそ助かった。
だがもしあの時彼の弁護がなければ、真犯人が明らかになることもなく、
彼女は無実の罪で服役するはめになっていたであろう。…その後も殺人犯としての一生を過ごさなければならなかったはずである。
しかし。
…だからこそ、同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
「…ちょっと文句言ってくるッス」
そう言って検事室を出ようとする糸鋸に、冥はやや眉をひそめて言った。
「証拠があるのよ」
「…えっ!?」
糸鋸は驚いて振り向いた。
「犯行現場には何も残されてはいなかったの。…凶器の刃物も、ね」
「それじゃ、やっぱり須々木くんが犯人かどうかなんて…」
「黙って聞きなさいっ」
――――バシンッ!!
「ぎゃっ」
ひさびさに鋭い鞭が一閃した。
「凶器は調理用の包丁。現場にはなかったけど、すぐそばの裏通りに捨てられていたわ。
『ルージュ』のキッチンにあるものと断定した。…でも、犯人の指紋は拭き取られていて
検出できなかったの」
「拭き取られていた…?」
引っぱたかれた箇所を涙目になってさすりながら、冥の言葉を繰り返す。
「そう、犯人はまず被害者である神楽イサオを刺殺したあと、あわてて裏口を出た。
でも血のついた凶器を持ったままオモテ通りを歩くわけにはいかない。
そこで持っていたバンダナで包丁をひととおり拭いたあと、
適当な場所に刃物を捨ててその場を去った…ということね」
「バンダナ…ッスか?」
糸鋸はその具体的な名称を聞き、いぶかしげな眼差しで冥の顔を見た。
「そう。…被害者の血が付着したバンダナが、須々木容疑者の部屋から発見されたわ」
「―――まさか!?」
「嘘じゃない。しかも、なんとかして血を落とそうとしていたみたいね。洗濯した後があったの」
「…」
「どう?これでもまだ須々木マコが犯人じゃない、って言えるかしら?」
「……」
糸鋸には何も言うことはできない。
あの娘が殺人を犯すことなど想像することもできないが、
とはいえそれだけの証拠品を覆す術など果たしてあるのだろうか?
須々木マコがななぜそんなものを大事に持っていたのかは理解に苦しむが、
誰の目から見ても決定的と言わざるをえない。
「…ひとつ聞いていいッスか?」
糸鋸は、おずおずと冥府に尋ねた。
「この事件を担当しているのは別班ッス。そして、これだけの証拠が揃ってるッス。
…それなのに、どうして自分を呼ぶ必要があったッスか?」
質問に質問を返すカタチになってしまったが、実際糸鋸にはそれだけが解せなかった。
聞く限り決定的な証拠が出揃っているではないか?
冥の好きな「カンペキな」証拠というやつだ。何を疑うことがあろう?
しかし冥は目を伏して、「さぁ?どうしてかしら」というばかりであった。
最終更新:2006年12月12日 20:49