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須々木マコとの面会を申し出たものの、聴取を取り終えるまでいくぶん時間がかかるということもあり、
糸鋸はまず個人的に捜査を進めることに決めた。
休日返上で、さらに授業参観も中途半端に打ち切ってしまったことが春美に対していささか申し訳なさもあったが、
こういう事情では仕方あるまい。…そう思うことにする。

検事室を出て殺人現場であるレストラン「ルージュ」に足を運びながら、糸鋸はため息をついた。
(つくづく運のない子ッス…)
綾里家の女達にせよ冥にせよ、自分の周囲(…と言っても、自分のものではないが)の女性はみな不幸に陥ってしまうのか。

現場はあらかた検証を終えた後で、
キッチンの片隅で人がたに貼られたテープと床・壁に付着した血痕が生々しかった。
すでに固まってしまっているが、
血痕というよりは血の海に被害者の体がうずもれていたと言うのが正しい。大変な出血量である。

犯人はここで神楽イサオの腹部に深々と包丁を刺した。
包丁はこのキッチンにあるものだったらしい。

後にあがった報告書の司法解剖結果によれば創傷は腹部大動脈まで達しており、瞬く間に失血死したはずだという。
刺されるまでの間に抵抗した形跡もなく、不意を突かれて即死したと見るのが正しい。それは検死を待たなくても明白だった。
被害者の神楽イサオは、まさか目の前の人間が自分を刺すつもりだったなどとは夢にも思わなかったのだろう。
…だとすれば、なるほど顔見知りの犯行ということになる。
少なくともこの建物に出入りしている関係者には違いない。犯行時に包丁がどこにしまってあったにせよ、
物盗りなどによる突発的な犯行とは考えにくかった。

そして犯人は包丁を被害者の体から抜いて、裏口から出た。
むろんその手は血まみれだったはずだ。

なぜ包丁を持って裏口を出たのかは分からない。
分からないが、尋常な精神状態ではなかっただろうからそう留意する点ではないだろう。
ただ、血に濡れた包丁を手にしたまま表通りには出られない。
そこで犯人は自分の指紋を持っていたバンダナで拭った。

むろん、その際バンダナに血液も付着しただろう。
しかしその時その場で犯人がそれに気づいていたか否かは分からない。
なにせ、容疑者である須々木マコはそのバンダナを持っていたのだから。
(…?)
糸鋸は、どこか釈然としない。

バンダナは紛れもなく須々木マコのものらしい。
先に聴取をとったレストランの同僚の話によると、その日の彼女はそのバンダナをして出勤していたらしい。
(そして家に帰り着き、そのバンダナに血が付いてたことに気づい、慌てて洗い落とそうとした…と)
捜査班は大方のところでそう目しているようだが、
実際のところ須々木マコの取調べが終わらない限り分かるまい。

(…しかし)
それだけがこの言い知れぬ不快感のもとだろうか?
糸鋸には、分からなかった。

「この店も、もう終わりですかね」

不意に声をかけられ、糸鋸は驚いて振り向いた。
その人物はやや疲れた表情はしているものの、ガッチリした体格の中年だった。糸鋸と良い勝負かもしれない。
ついさっき目を通した資料に写真が載っていた、
このレストランのオーナー紅木(あかぎ)コウイチである。

資料では42歳の厄年ということだが、写真で見るよりもいくぶん若く感じられた。
落ち着いた物腰ではあるが、もともと童顔なのか自分と同じか或いは2~3年上という程度にしか見えぬ。
今しがた関係者の聴取を終えて来たのだろう。
もちろん現場を荒らされるわけにはいかないので、警官と同行している。

「ああ、キッチンがこんなになってしまっては…改装したってお客さんはもう寄り付かないだろうな」

そう言って嘆息つく男の顔は、しかし身内に死人が出てしまったことに対してあらわす表情とはとても思えず、
糸鋸はいぶかしげな顔をしながら「お気の毒ッス」とだけ言った。
こういう男は、あまり好きではない。
むろん平気に見えるというだけで、実際のところ心穏やかであるはずがないのだが、
(それにしても…)
と糸鋸は思う。

開口一番に店の行く末のことが出てくるあたり、尋常な精神のもちぬしとは言いがたい。
シロウトさんであればその日くらい少しは沈痛な面持ちをしてみせるのも死者に対する礼儀ではなかろうか?

糸鋸のそんな表情を見て取ったのか、紅木は別段慌てるふうでもなく言葉を付け足した。
「いや、前々からおかしなコだとは思っていたんですがね、まさかこんなことしでかす女だとはつゆ知りませなんだ。
 …今日初めてお聞きしたんですが、なんでもそちらの署をクビになった婦警だったと言うじゃありませんか。
 まったく、世の中色々な人間がいるものです。殺された店長は気の毒でしたがな」

自己の人間性を弁護したつもりなのかもしれないが、それこそ語るに落ちるというものだった。
「彼女は研修時代の後輩ッス」
糸鋸はにべもなくそう言って、被害者の位置から点々と落ちている血痕を追いつつ裏口を出た。

(ここで包丁が見つかった、と…)
バツ印に貼られたテープの場所から、ふと顔を上げると、そこはすぐ表通りだった。
(なんだ、人通りのある場所まで目と鼻の先ッス)
「包丁が捨てられていた」と聞いていたので、もっと人の目につかなさそうな裏路地を想像していたが、
実際はそういうわけではなく、かなり人間の目に触れるはずだった。

…無論そこは魔都・東京である。
例えそこに被害者の死体そのものがあったとて関心を示す人間など居なかったやもしれない。
だが、そうであったにせよわざわざこんな目に付くところに凶器を捨てていったのはなぜか?
糸鋸にはそれがどうにも不思議でならなかった。
いずれ須々木マコの話を直接聞いてみなければなるまい…
決して頭脳派とは言いがたい糸鋸も、この時ばかりは順序良く勘の冴えた仕事をしていたと言ってよい。

この野暮ったい刑事の抱いている疑問ひとつひとつが真実に結びつく小さな糸口であることは、まだ彼自身知る由もなかった。

須々木マコと面会をするのは、思いの他手間取るものだった。

ひとつには、糸鋸の上司の小言があった。
「…糸鋸くん。キミもねぇ」
夕方になって署に帰るなり署長に呼び出しを喰らい、
そんな出だしで1時間もの間クドクドと取り留めの無い説教を聴かされたが、
要するに「自分の担当以外の仕事に口を挟むな」ということらしい。

「警察というのはひとつの組織だからねぇ…人と人の和を崩すような行為は慎んでくれんとなァ。
 いまの担当班だって皆頑張って捜査しとる。
 それに…なんというか、キミは須々木くんの個人的な知り合いだというじゃないか。
 元婦警の犯行ということで、マスコミも躍起になっていることだし…
 キミも一応は大学出のキャリアつきなんだ。こんなところでつまづきたくはないだろう?」

「…」
この署長は、御剣検事が逮捕された時も(そして、以前の事件で須々木マコが逮捕された時も)同様の事を言っている。
そして、彼らが無実の罪であったことが証明された今でもぬけぬけとこんな事を言ってのける。
言うことはもっともらしいが、物事の解決を第一に考える人物の行為ではなかった。
もともと糸鋸は、事なかれ主義でお上の機嫌伺いしかできないこの無能な上司があまり好きではなく、、
反論こそしないもののただ黙ってその言葉を聞いている。
そんな気持ちが先方にも伝わるのだろう。いっそうダラダラとした無駄な時間ばかりが費やされていった。

「…署長、もうそのくらいで良いでしょう?」
署長室に入ってそう言ってきたのは、何食わぬ顔をした冥だった。
「聞けば、容疑者は刑事のかわいい後輩だったとか。
 プライベートな時間をつぶしてまで捜査に協力するなんて、けなげではなくて?」
(げっ…)
糸鋸は顔をしかめた。
もともとこの事件に引っぱりこんだのは冥ではないか。いけしゃあしゃあと、よくもまぁ…

「む…しかしだね、狩魔検事」
署長も、冥にはどうも頭のあがらないところがあった。

「糸鋸刑事は以前彼女を冤罪で逮捕してしまったことを気にしているのでしょう?
 気の済むようにすればいいのよ。もっとも…」
冥はそう言いながらフフ、と笑みを浮かべ、
「実際に須々木マコが殺人を犯してしまったとなっては、かつての事件が本当に冤罪だったのかどうかも怪しいけど」
と、意地悪く言った。

「そ、それはそれで困る…たしかに」

成歩堂龍一が弁護士として腕を振るった伝説の2年間、それは警察の権威が最も失墜した時期である。
犯人が二転・三転するたびに世間から糾弾されるのは彼らだった。
そのうえ、その時法廷で無罪を勝ち取った須々木マコが実は殺人犯だったとすれば、
今度はその時逮捕された浪人生が冤罪だったということになる。
再び「警察の捜査ミスだ」とマスコミが騒ぎ立てるのは目に見えていた。

…そんなこんなで渋る署長になんとか了解を取り付けて、糸鋸と冥は署長室を出た。
「助かったッス」
糸鋸はムスッとした顔でつっけんどんにそう言って、苦笑する冥を後に取調室へとむかうのだった。
最終更新:2006年12月12日 20:50