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「あっ、先輩…」
結局、面会ではなく「取調べに参加」という形で糸鋸が取調室に入るなり目に入ったのは、
今にも泣き出しそうな顔をあげる須々木マコの姿だった。
「須々木くん、一体どうしたッスか?何でこんなことに」
「…」
しかし須々木マコは俯いてしまい、それっきり自分から口を開こうとはしなかった。
疲れているのだろうか?
取調べを受けているのだから当然といえば当然だが、それだけではなさそうである。
「…確認するッス」
向かいの椅子に腰掛けながら、刑事は言った。
「キミがやったわけでは、ないッスね?」
先ほどそれまでの報告書を読んだが、「依然、黙秘」という他は何の記載もなかった。
そのことに糸鋸は一抹の不安を覚えずにはいられなかったが、
(…それでも)
このコは違う。
人を殺すような人間ではない。
警察官としては失格かもしれないが、糸鋸にはそう信じているつもりだった。
だが。
(…ここで来て、なんで何も話さないッスか?)
口を閉ざしたまま俯いている彼女の小さな姿を見ながら、
糸鋸は不意に足元がグラつくような感覚を覚えてしまう。
「…」
須々木は黙ったままである。
「須々木くん」
糸鋸がそう促して、初めてやっと「…はい」と答えた。
それを聞くやそばに居た若い書記係が、冷たい顔のまま何事か手元の用紙に書き始めた。
侮蔑の表情とも取れる。
糸鋸は不愉快さをあらわにしながら、彼に少しの間席をはずすよう言った。
おそらくは、今の今まで取り調べに関わった人間は大小あれこういう目でしか須々木マコを見てはいまい。
「しかし…規則ですから」
まるで糸鋸が犯罪人の仲間であるかのような態度を取るのが癪にさわったが、
糸鋸はあえて穏やかな声で、
「5分間、部屋の前で待機」
と言って出ていかせた。
「…私じゃないッス」
ふたりきりになってようやく、須々木は小さく、しかし悲鳴のような声を上げた。
「私がやったんじゃないッス…先輩っ」
堪えていたものが急に堰を切ったように、大粒の涙がボロボロと机の上にこぼれて落ちた。
…須々木マコは嬉しかった。
それまでの誰もが自分を最初から殺人犯と決めてかかる者ばかりであった。
確たるアリバイもなく、また状況や証拠から疑われる余地は充分にあることを彼女は分かっている。
だが、それだけに糸鋸が朴訥なまでに自分を信じてくれていたのが(それが賢いことか否かは別として)
人間として純粋に嬉しかったのだ。
「キミ自身が『やっていない』と認めてくれたのだから、
それを証明してみせるのは自分の仕事ッス」
キミを救うためにも、知っていることを話してもらいたいッス。…いいッスね?」
須々木は、溢れてくる涙を拭いながら黙って頷いた。
「まず、昨夜仕事が終わった後のことを話して欲しいッス」
「…」
須々木は少し考えてから、口を開いた。
「昨日は…店じまいの後、いつもどおり片付けをして…たぶん1時半くらいに帰ったッス…」
「まっすぐ?」
彼女は首を振り、
「それが」
と言ってやや躊躇ったあと、
「実は…そのバンダナを忘れたのに気づいて、一度店に戻ったッス」
(ふぅん…)
確かに、最初から疑ってかかる者にはしたくない証言であっただろう。
「それは例の、血が付いていたバンダナっスね?」
「…はい」
彼女の証言によれば、一度店を出てから5分くらいで朝来るとき頭に巻いていたバンダナが無いのに気づいて戻ったので、
再び店に着いたのは1時45分くらいだということだった。
表の入り口から入り(最後に店を出る人間が鍵をかけることになっていたらしい。
この場合は、被害者の神楽イサオが鍵当番のはずだった)、更衣室ですぐバンダナを見つけ再び帰路に着いた。
おそらく2時前だったであろう、ということだった。
(2時…)
死亡推定時刻とほぼ一致する。
「バンダナを見つけるまで、誰かと会ったッスか?」
須々木は首を振り、
「誰とも…」
と言った。
「昨日は棚卸があったので、もともと店に残ってたのが店長…神楽さんと、私だけだったんです。
店長はコンピュータの入力処理や発注の仕事が残ってたので、わたし先に帰ったッス…」
「でも、バンダナを取りに行った時は神楽さんとも会ってない―――?」
「…はい。その時はキッチンの方にも明かりが入っているのが見えたので、
そっちで備品の確認でもしてるのかな?としか思いませんでした」
「キッチンの方から怪しい物音や人影は?」
須々木は少し考えてから、「―――いや、特には」と言った。
糸鋸はそこでふと疑問に思い、尋ねてみる。
「その時、バンダナに血が付いてるのは気づいたッスか?」
被害者の創傷部位は腹部のみであった。…であれば、須々木が店に戻ってくるまでに
神楽は殺害されていたことが確定する(無論、須々木が事件に関与していない事を前提とする)。
「いや…暗かったので、その時はよく見えなかったッス。
部屋に帰ってから赤いのが付いてるのを見て、驚いてしまって―――
どこで着いたのか分からなかったけど、とにかくその時は汚れを落とそうと思っただけッス」
…しかし、布地に付着した血液はそう洗い流せるものではない。
それを証拠品として押収されてしまった、というわけだ。
そのバンダナをどこかに捨てずに洗濯しようとしたあたり、
須々木が殺害したものではないという信憑性がでてくるような気もする。
(誰かが須々木くんを故意に陥れるために仕組んだ罠…ってことッスか?)
だが、それにしては腑に落ちない点が多すぎた。
「それじゃ、店に戻ってバンダナを取って出てくるまでのあいだ―――」
糸鋸は、確認の意味でもう一度尋ねる。
「―――キッチンの方へは、足を踏み入れてはいないッスね?」
須々木はまた少し考えたあと、「…はい」と答えた。
「………………ッ!?」
そこで、糸鋸の見開かれた両目が須々木マコの顔を凝視したままはたと動きを止めてしまった。
「先輩?」
「…」
糸鋸はわが目を疑った。
信じたくはなかったが、しかし紛れもなく目の前には幻の鉄鎖が須々木の身体を取り囲んでおり、
同様に半透明の巨大な錠前が彼の目の前に立ちはだかっているのだ。
(…勾玉の、ちから)
ひとのつく嘘や偽りを視覚的に映し出す、まさに奇跡の結晶。
それが、彼が信頼を置く後輩に対して力を発揮している…
「5分です」
そう憮然と言い放ちながら入ってきた書記係の男が見たものは、
絶句して立ち尽くしている刑事の後姿と、
それを見て再び泣き出しそうになっている容疑者の表情であった。
(ああ…)
地下駐車場の愛車に乗り込みながら、糸鋸は嘆息ついた。
(また次の一手が見えなくなってしまったッス)
結局、その後須々木マコは再び黙り込んでしまったのだ。
糸鋸はさすがに疲れてしまって、一度帰宅して休むことに決めた。
父兄懇談会をほっぽりだしたまま来てしまい、アパートでひとり待つ春美の事も気がかりだった。
エンジンをかける。
「何をそんなに落ち込んでるの?」
「わっ!」
後部座席から不意に声をかけられて、糸鋸は文字通り飛び上がるほど驚いた。
「な、何してるッスか?狩魔検事…っ!?」
予想だにしなかった所へ予想だにしなかった人物が現れて、糸鋸はしどろもどろになりながらそう言うと、
「待ってたのよ」
そう答えるが早いが、冥はそのスリムな脚を座席と座席の間に滑り込ませてきた。
目の前のスカートからのぞく脚線美に糸鋸が思わずドキリとして目を逸らしている間に、
彼女は器用に身を割り込ませて隠れていた後部座席から助手席へと腰を降ろすのだった。
「話したいこともあったから」
「そ、そうッスか…じゃ送って行くッス」
未だバクバクと言い続けている心臓のまま、糸鋸はギアをローに入れた。
最終更新:2006年12月12日 20:50