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…不足している分も含め、ここでこの殺人事件の概要を改めて説明したい。
事件の被害者は飲食店の雇われ店長・神楽イサオ(32歳)。
勤務するレストラン「ルージュ」(経営者・紅木コウイチ)のキッチン内で、遺体となって発見された。
その日の朝出勤した店員2名が、血の海に沈んでいる姿を見てすぐに通報したという。
解剖の結果、死因は刺殺。抵抗した痕跡など無いことから、不意打ちに急所を一突きされ即死した可能性が高く、
死亡推定時刻は閉店後の午前2時から3時半にかけてであった。
事件現場の裏口から出てすぐの場所で凶器と思われる包丁も発見され、
形状と付着した血液の鑑定結果から殺害に使用されたと断定される。
包丁はキッチンにあった調理用のもので、指紋は拭き取られていた。
容疑者として逮捕されたのは、ウェイトレスとして働いていた須々木マコ(24歳)で、
事件当時店に居た可能性が高いことと、
被害者の血液が付着したバンダナを持っていたことから捜査本部は彼女の犯行とみて間違いないとしている。
容疑者は逮捕されて以来なぜか黙秘を続けているが、糸鋸にだけ語ったところによれば、
①殺害したのは自分ではない。
②仕事を終えて一度店を出たが、死亡推定時刻前後に忘れ物のバンダナを取りに店に戻っていた。
③店に戻り更衣室でバンダナを探している間、特に変わったところはなかった。
④バンダナを見つけ、2時ごろ再度店を出るまでキッチンには入らなかった。
―――ということである。
…が、春美の勾玉の力により、これらの証言のうち④は偽りであることが判明した。
勾玉の力と感度を100%信用するものとすれば、
須々木マコは殺害に関与していないにも関わらず事件前後にキッチンに入り何かを目にした、ということになる。
それが神楽イサオの殺害される前なのか後なのか、死亡推定時刻からすると非常に微妙な点ではあるが、
いずれにせよ彼女が頑なに黙秘を続けている原因はその目撃した「何か」にあるのは明白だった。
…しかし、何度も糸鋸が首を傾げるとおり、それだけでは納得できない多くの疑問点が残されている。
とりわけ糸鋸が不思議に思ったのは―――
「バンダナのことね」
冥が、目覚めのコーヒー片手に呟いた。
昨夜飽きるほど味わったハズであるのに、ガウンの隙間から覗く白い柔肌はやはり美しく、
糸鋸は一瞬その少しはだけた胸元に目がいってしまった。
「そッス…」
彼は慌てて目線を戻し、ベッドに座って手渡されたカップをすすりながら頷いた。
月曜のモーニングコーヒーを、こんな場所で飲むことになるとは思わなかったが、
それはさておき、
「血がベッタリついてるものを洗ってまた使おうなんて思うものッスかね…
須々木くんが犯人なら、なおのこと変ッス。そもそもあれは本当に須々木くんのものッスか?」
「彼女にとって、大事なモノには違いないでしょうね」
「?」
冥によれば、そのバンダナはH&Dという有名ブランドの一級品で、
去年の暮れごろちょっとした流行になったこともあるという。
ファッションに疎い刑事には、そもそもバンダナなぞに品質の良し悪しがあることさえ初耳だった。
「それに、刺繍がされてあったわ。
これも一時期流行ったけど、名前入りバンダナというやつね。スーツなどでも店でネーミングしてくれるでしょ?
…『Mako My Love!!』なんて恥ずかしい文字」
糸鋸は目をパチクリさせる。このあたりの回転の鈍さはやはり彼らしい。
冥はその表情を見るなり溜息を一つついて言った。
「恋人から貰った思い出の品、といった所かしら」
「な…こ、恋人ぉ!?」
素っ頓狂な声をあげる刑事を、検事は冷たく無視して言葉をつなげる。
「要するに、付いた血を洗い落とそうとするくらい大事なものというわけね。
…けれど、やはりそんな大事なもので包丁の指紋を拭おうなんて考えるかしら?」
昨日、既に別班が初動捜査に動いていたにも関わらず冥が糸鋸を呼んだ理由のひとつにはそれがあった。
「…ま、これで『彼女が犯人ではない』と断定するには弱いけど」
冥は少し皮肉を込めて言った。
…無論、神楽を殺害した直後の須々木マコがそれだけ動転していたとも考えられるのだ。
糸鋸はどこか釈然としない眼差しのまま、残ったコーヒーをグイと一気に飲み干し、
「とにかく」と言った。
「もっと事件の背後関係を調べる必要があるッスね。あまりのんびりしていられないッス」
他に犯人が存在するとして、被害者を恨んでいる人間は居なかったのか、
本当に店の関係者でなければあの包丁は使えなかったのか―――
須々木マコを犯人と断定してしまった本部の捜査では、そのあたりがおざなりになる可能性は高かった。
ベッドから降り、あたりに脱ぎ散らかした服を瞬く間に着終わると、
「それじゃ、また」
と、いとまの挨拶を告げつつコートを羽織る。
事件は足で拾え、というセオリーに従って、今日も歩き回ってみるつもりだった。
…が、彼は部屋を出て行こうとしてまたすぐ何かを思い出し、「検事…」と言った。
「―――何?」
冥は一瞬、何かを期待する目で刑事の方を見るが、その内容は彼女の期待に応えるものではなかった。
「…人が嘘の証言をする理由って、何だと思うッス?」
「…」
冥は少し考えてから、最も模範的な回答を述べる。
「…ふたつ考えられるわ。
一つは、本人にやましいことがある場合。事件の真犯人である場合も含まれるし、
仮に直接犯行に関わりないとしても、他人に知られると都合の悪い
二つ目は、誰かをかばっている場合。…大体そんなところかしら」
「なるほど」
糸鋸は頷いて、
「よく分かったッス。いずれ何か分かったら連絡するッス。それじゃ、また…」
と言って、部屋を出て行った。
ひとり残された冥は、
「馬鹿…」
と小さく呟いた。
最終更新:2006年12月12日 20:51