まずは情報の整理から、ということで。
用意させた資料と、署長が気を利かせて出してくれた熱い茶と練り切りとを前に、
厳徒と巴は署の小部屋を一室借り切って顔つき合わせることになった。
「まず、今回の事件の被害者が家を出たのが、月曜、二十一時ごろ」
巴が真っ白なメモ帳に線を引き、タイムテーブルを作成する。
「ご家族の証言で、視ていたテレビドラマが終了した直後、外出したことが判明して
います。被害者の自宅から現場までは徒歩で約一〇分。事件は二十一時一〇分から
三〇分の間に起こったものと推定されます」
巴がポールペンを走らせ、直線の上に二本の短い横線を引き、それぞれの隣に
“21ジ”“21ジ30プン”と書いた。
「ふーん。行きしか考えてないみたいだけど、帰宅時に事故に遭った可能性は?」
「所轄署からの報告書です。近辺のコンビニエンスストアの防犯カメラのデータを
チェックした結果、彼女らしい人物は確認できなかった、とあります」
「ナルホド。何処かに寄り道したんじゃなければそれでスジは通る」
厳徒の言葉に巴は頷き、タイムテーブルの長い直線の隣に、同じ長さの直線を書き
加える。二本、だ。
「――次に、事故を起こした人物の行動です」
ペンを持っていない方の手が、供述書のファイルを開く。
「月曜日。仕事を終えて退社したのが十八時四〇分。それから居酒屋に行き、食事。
この時点でアルコールを摂取。店を出たのが本人の証言では二〇時三〇分ごろ。
彼は車を運転し──適当な場所をドライブしていたそうです。その途中コンビニに
寄ってアルコール飲料を買って、車内で呑んで、明け方近くになってから自宅に
戻り、事故を起こし、自ら通報した」
かりかりと情報が書き込まれてゆく。
厳徒はメモ帳を覗きこみ、
「で」
「はい」
「こっちの線は何に使うの?」
「──今書いたのは、事故者の“証言”に基づいたものです。
ドライブしていた──というのは、彼の証言にしかありません」
そこで巴は一息つき。
「“もしも”彼が“犯人”ならば」
最後の直線に、横線を引いてゆく、
退社時刻の“18ジ40プン”。
居酒屋から出た“20ジ30プン”。
――被害者が事件に遭った推定時刻、“21ジ”“21ジ30プン”。
事故の通報時刻の“4ジ28プン”。
最後に。パトカーが現場に到着した“4ジ43プン”。
「居酒屋から、彼の自宅まで約四〇分──そして、通り道に現場があります」
帰宅途中に、夜道を歩く女性を引っ掛ける可能性は、ある。
「現場及び彼の自宅から、遺体の発見現場までは、車で約一時間──事故後、遺体を
回収し──傷つけ、遺棄する。それだけの時間はあります」
「トモエちゃんの想像では。ね」
ぬるくなった茶に口をつけつつ、さくりと釘を刺す。
「……やはり、私の思い過ごしでしょうか」
「そうでもないんじゃないかなー」
薄らと気弱を覗かせた巴の前に、一枚の資料を突きつける。
「……あの、主席捜査官、これは?」
「事故者の、血中アルコール濃度」
巴が手に取り、調べる──その顔に戸惑いが生まれる。
何かあるのかと思ったが、ごく普通の、規定以上のアルコールが検出されたという
飲酒運転の“証拠”だ。「低いでしょ、それ」
厳徒の言葉に巴は目をしばたかせた。
「低い……? 危険運転と認定するには充分高いですけれど」
「あれー。そう? 低くない? ──晩酌して、更に座席に散乱するほどビールと
ウィスキーを空けた人間にしちゃ、さ」
ぱちん、と巴が目を丸くする。
幼い、と思った。
可愛らしい、でも、情けない、でもなく。
「それはどういう意味でしょうか」
「さあね。今の時点じゃわかんないでしょ、意味なんて」
今、は。
不意に厳徒のジャケットから電子音が響いた。
「あ。デンワだ。ちょっとゴメンねー」
内ポケットから携帯電話を取り出し、通話ボタンを押す。「厳徒だけど」
巴は少々困ったように目を伏せ──電話の内容を聞いていてもいいものだろうか
と悩んでいるらしい──結果的に、彼女の取り越し苦労となったわけだが──トモエ
ちゃん、と呼びかけられて急いで返事をする。
「鑑識から連絡。遺体を調べたけど、タイヤのアトは見つからなかったって。残念
だけど、さっき撮ってくれたブレーキ痕との照合はムリっぽいね」
「え、あ、はい」
「ザンネンだよ、ホント。これで一致したら事件解決だったのに」
「……あの、主席捜査官」
ん、と携帯をしまう厳徒に、巴は、今までとは少し異なる視線を向けて。
「信じて、くださったのですか」
私の仮説を、と続けられてようやっと腑に落ちる。
――さあね。
――調べるだけなら、苦労するのはボクじゃないし。
本心は胸の中に置いておいて。
「やだなー。トモエちゃん、キミ、捜査官でしょ。もっと自信を持ちなって」
おだてておく。腹芸ならお手の物だ。
「──さて」
厳徒は席から立つ。
「資料はここまで。なら、次にやることは決まったね」
「次、ですか」
「“証言”してもらおうじゃない。我らが暫定容疑者ドノに、さ」
机の上を片付ける巴へ、そうそう、と、
「ワルいけど、この辺の地図もらってきてくれる? 迷うのイヤだし」
「署の方に案内を頼みましょうか」
「今日はさんざんコキ使っちゃったしね。少しはエンリョしようよ、トモエちゃん」
「そ、そうですね。分かりました」
巴の端正な顔に『貴方がそんなこと言うとは思わなかった』と、ありありと描いて
ある。さくっと無視する。
巴が地図を借りに行く間、現場まで案内してくれた警官を見つけた。厳徒は何事か
思いついたように手を打ち、警官を呼びつける。
「あー。キミ、キミ。ちょっとこっちへ」
何用でしょうか、と来る警官へ、
「例の事故なんだけど。アレのクルマって、どうしたか分かる?」
「あれ、ですか。確かもう事故車として業者に引き渡してるはずですよ。隣町の、
スクラップ工場です」
「そうなんだ。――ちょっと、キミ。頼まれてくれないかな」
暫定容疑者の家は、住宅街にありがちな建て売り一戸建て。ガレージとちょっと
した庭がついている。しかしガレージにはシャッターがきっちりと下ろされ、庭は
雑草で覆い隠されている。
なんとなく──先入観だろうが──人目を避けているようだ、と、巴は思った。
隣の厳徒はといえば、全く様子が変わらない。聞きこみの気負いもなければ緊張
もない、気楽なものだ。
玄関先まで行き、チャイムを鳴らす。
一度目。出ない。
待つ。体感時間で一分ほどだろうか。
二度目。鳴らす。今度は二回続けて。
扉の向こうで気配がして、ようやく細くドアが開いた。ドアチェーンに傾きかけた
太陽が反射し、鈍く光る。
「――なにか?」
瞬間。巴が感じたのは、相手の声の陰気さでもなく。ぎろぎろと怯えたように
せわしなく動く彼の眼球でもなく。微かに鼻をつく、刺激臭だった。
「あ。ドモドモ。ケーサツの者です」
墓石のセールスマンばりの朗らかさで、厳徒が警察手帳を見せる。巴も追従し、
上級捜査官としての身分を証明するべく手帳を出した。
扉の向こうの気配が、明らかに動揺した。
「な……なんですか。この前の事故なら、もう終わったでしょう? 捜査官の方が、
何か御用ですか」
ぽん、と大きな音がする。巴も扉の向こうの相手もびっくりした。落ち着いている
のは音の根源、手を打った厳徒だけだ。
「へえ。嬉しいなあ」
は? 疑問符が扉越しに洩れる。
「いやいや。“刑事”と“捜査官”の区別がつくなんて。ナカナカねー。分かって
くれるヒト、少なくて。刑事ドラマとか好きだったりします?」
にこにこ。朗らか。明朗快活。
──なのに何故だろう。
この、威圧感は。
「チョット、ね。この近所で亡くなった女性について、お話を伺いたいと思いまして。
家、上げてくれます? ご近所のメイワクになりますし」
沈黙。
沈黙──「こ、困ります」
「困る? そりゃまたどうして」
「きゅ、急に来られても、その、汚れてますし。お話でしたらここでも」
「――ああ。掃除中だったのですか。道理で」
ふと呟いた巴に、二対の視線が集中する。
「ナニが“道理で”?」
「これ──サンポールですよね」
厳徒の質問に、何故だが少々気押されつつ答える。なんだか覚えのあるにおいだと
思ったら、トイレや浴室の掃除に使う液剤だった。
「……ふーん」
「……」
沈黙が、痛い。
「……ニオイ、気になります?」
その痛みも、口を開いた厳徒の恐さ──巴には、そうとしか表現しようがなかった
のだ。恐らく、扉越しに相対する人物も──に比べれば微々たるものだった。
「なに、が」
扉が、かたかたと震えている。
閉じたくて仕方がない。恐いものから逃げたい。
でも、閉じられない。
恐いものから目を逸らした瞬間、どうなるか分からないから。──そんな風に。
「ドラマや本じゃあ伝わりませんもんねー。ニオイ。キツかったでしょ? クルマ
の中とか。染みついて取れなかったでしょ」
震えている。
震えている。
「だから酒のニオイでゴマカした? 頭いいねー、キミ。結局吐いたけど。アレ
でしょ。取れないからね。ニオイ。血とかじゃなくて、生臭さがね」
巴ははっと気づく。
これは、おかしい。
確かに扉の向こうの人物は、怪しい。容疑者として上げたいくらいに。
けれど、彼は疑わしい“だけ”だ。何も証拠はない。確証はない。それをこんな
追いつめるような尋問をして──。
「主席捜さ」
「失礼」
ぽん。と、厳徒がジャケットの内ポケットに手をやった。引きだした手には、
携帯電話が握られている。黒い手袋とメタリックシルバーの対比が、不吉なほどに
鮮やかだった。
携帯を耳に当てた厳徒が。笑う。
哀れむように。
蔑むように。
己れの絶対の勝利を、告げるように。
「クルマ、すぐにスクラップに回したでしょ。それって“証拠隠滅”になるんだよ。
バレないと思った? “わざわざ自分で事故の通報をしてきた人間が、別の事故を
起こしてるはずがない”って? それとも、“クルマ本体がなければ、事故は証明
できない”とか?
――それ、“クルマが即スクラップにされていたら”大丈夫だったのにねえ」
ザンネンだったね。厳徒は最後の仕上げとばかりに、ぽんぽん、と携帯を叩く
扉の向こうから、悲鳴が上がる。
くずおれる気配。
厳徒が笑う。
「来るよね。ケーサツ」
今や間違いなく事件の容疑者となった人物は泣きじゃくり。
巴は。自分のなかにある違和感の元を、必死で探していた。
取り調べ自体はひどく呆気なく進んだ。
事故を起こした経緯は、ほぼ巴の推測通り。呑んでの帰り、被害女性を撥ねた。
真っ青になった。それはそうだろう、飲酒運転の上、人を殺したのだから。
「違います!」
――轢き殺した、のところで、彼は悲鳴を上げた。
取り調べに同席していた巴が驚き、調書を取っていた警官がペンを取り落とす大声
だった。
唯一落ちついている厳徒が「違うって、何が」とどうでもよさげに先を促す。
「やっちゃって、河川敷に捨てるため死体をクルマに乗せた。それが?」
「ちがう、ちがっ、う、乗せ、のせたのは、病院、行こうとっ」
「病院? 死んでるのに?」
厳徒は嘲るように問う。
彼は果たして、がくがくと首肯した。
――バカじゃなかろうか。
それが厳徒の感想だ。シロウトが付け焼刃の知識で隠蔽工作して、今度は同情を
ひくために“ホントは助けようとしたんです!”なんてホザいてる。
「でもさー。結局連れてかなかったワケでしょ? 病院。連れてったのジブンの家
で、彼女のウデ、切っちゃったワケでしょ?」
「でも、でも」
「見殺しにしたんですか」
低い、声が、した。
それまで尋問に一切口を挟まなかった巴だった。
みごろし、と、容疑者──もう犯人か──が呟く。
「そんなつもりじゃ──本当に──」
「貴方が!」
怒鳴り声。ばん、と強くスチールの机を叩く音。がしゃん。これは折り畳みの椅子
が倒れる音。
ひぃ。
これは、身を乗り出した巴の前で、男が泣きながら呻く声。
「ちゃんと連れて行けば──いいえ! 事故の時点で通報していれば! そもそも
車さえ運転しなければ! 彼女は死なずに済んだのよ?!」
「あー。トモエちゃん」
「助けようとした? 貴方のやったことは──殺人よ!」
「宝月捜査官!」
胴間声。
鼓膜が、びりびりと震える。
「尋問のジャマ。
出ていけ」
拒否は許さない。疑問もだ。
巴はゆっくり深呼吸し、急に自分のやったことに気づいたように、恥じ入った顔
をする。
「申し訳──」
「謝れ、って何時言った? ボクは“出ていけ”と言ったんだよ」
もう、何が言えるはずもなかった。
巴は叩頭だけし、取り調べ室を出る。握りしめた拳が、白くなっていた。
「いやー。ゴメンね。ホント」
気まずい雰囲気をブチ壊し、厳徒が愛想よく笑う。
「ホラ、あのコまだ若いから。ユルしてあげてよ」
ひくっ、としゃくり上げる声。
「さ、最初は、ほんとうに助けようと……! でも、死、死んでて、恐くなってっ」
「あのね。彼女がそのとき生きてたか死んでたかはカンケーないの。彼女、もう、
死んでるんだから」
だからね、と厳徒は続ける。
「もうゼンブ話してラクになりなよ。大丈夫、ボクはキミが殺そうと思ってたなんて
考えてないから」
「ほ、ほんとうに?」
「ホント。ホント。だから、ホラ──最初から、話してくれる?」
巴は、所轄署のロビーに居た。据え付けのベンチに腰掛けたまま、身じろぎひとつ
しない。長い髪から透かし見る横顔は、有り体に言ってものすごく落ち込んでいた。
「尋問。終わったよ」
厳徒に声を掛けられて初めて気づいたらしく、肩をびくっとすくめて、それから
慌てて立ち上がる。
「あの、主席捜査官、先程は」
「あ。もういいよ。カレ、ゼンブ喋ったし」
あのあと。上っ面だけは優しい言葉を二三投げてやると、彼はあっさり“落ちた”。
結果的に、丁度好い飴と鞭になったわけだ。
「ま。今度から人目につかないトコでやることだね。調書係がドン引きしてたよ」
「……主席捜査官のように、ですか」
再びベンチに腰を下ろし、巴がかすかに笑う。
「あれ。ボク、何かしたっけ」
厳徒も巴の隣に座る。
「電話を」
「……。どの?」
「容疑者の自宅です。電話なんてかかっていなかったでしょう。着信音がありません
でした」
いい子だ。
見るべきところは見ている。
「ま。ちょっとした演出ってヤツ」
「それだけですか? ──ご冗談を」
巴の目には、非難が、無い、と言えば嘘になる。逆に称賛も、あるといえば在る。
しかしそれらを圧して余りあるのは、探るような──いわば値踏みの色。
生意気だった。
新人のくせに主席捜査官たる厳徒を評価しようなどと──全くもって出来た子だ。
「署の方に聞きました。容疑者のクルマは、とうに廃車にされているそうですね。
破損の酷かった本体は既にプレスされて鉄クズに。タイヤも取り外し、山と積まれた
他のタイヤに紛れて行方知れず。
そして、主席捜査官もそのことはご存じのはずだと。
あの時点では、容疑者を確定する“証拠”は何ひとつ無かった。
主席捜査官。貴方が引き出した“証言”以外には、何も」
「ボクは一度も“クルマが見つかった”とか“事故との関連が証明された”なんて
言ってないよ。カレが勝手にカン違いしただけだし」
「白か黒かで言えば、黒に近いグレーでしょう」
だから。巴はひとつ、息継ぎをし。
「私だけを連れていった。不正を目撃する人間は、少なければ少ない程いいから」
「不正とか、人聞きがワルいな。嘘でもなければ、脅迫でもない。──違うかな」
空気が、ぴん、と張り詰める。
確かに巴が厳徒を値踏みしていたのに、今度は厳徒が巴を試している。
「……弁護士次第では、メンドウになりますね」
「ま。そこはホラ、序審での検事の頑張りに期待するさ」
それに。「家宅捜査で証拠を揃えれば、問題ないワケだし」
くつくつと笑う。
「犯人自身の“証言”に、動かぬ“証拠”。このふたつをキッチリ揃えれば、多少の
無理もユルされる──そうだろ。宝月捜査官」
巴は。ちいさく、息を吐き。
微笑む。
なにか、納得したような。或いは自分を納得させるような笑い方。
「家宅捜査の令状ですが」
「あー、ソレソレ。どうなった?」
「本局の鑑識課が、一緒に持ってくるそうです。あと一時間ほど掛かる、と連絡が
ありました」
「一時間、ね。分かった」
どちらからともなく、ロビー脇の壁時計を見る。午後七時、結構な時刻だった。
「日付が変わる前に帰れるかどうか。ってトコかな。トモエちゃん、デートの約束
とか大丈夫?」
このご時世セクハラギリギリの質問に、巴はあっさりと。
「遅くなると、連絡しました」
「おやおや」
「……違います。家に、です」
「え。ボク、何も言ってないけど」
「……なら、良いのですが」
引き下がる巴を、厳徒はにこやかに眺めていた。
「トモエちゃん。ゴハン、食べに行こうか。署長さんが用意してくれるって」