「あのさ。聞きたいんだけど」
会議室で夕飯(といっても仕出し弁当だが)をつつきつつ、厳徒が巴に訊ねた。
「キミ、副局長にキラわれてるけど。何したのさ」
弁当の塩じゃけから骨を取っていた巴が「どこまで直球なんですか」とでも言い
たげに眉をしかめ。
「私が、将来的には検事局へ異動したい、と言ったからだと思います」
「検事局?」
「はい。検事を、目指しておりますので」
これは厳徒にとっても意外な返答だった。何しろ、今の彼女は捜査官だ。
「検事になる前に、現場の状況を把握するべきだと考えました」
就任式の晩、副局長が言った“コシカケ”――“腰掛け”の意味を理解した。
自分が四十年勤めてきた場所を、長年の努力実りようやっと頂点に立てる場所を
“通過点”扱いされれば腹も立つ。
「副局長は随分とご立腹でした」
巴は箸を置き、自分と厳徒の湯呑みに新しい茶を注ぐ。
「ですので、現在の警察局と検事局との関係──連絡網、協調の薄さ、それによる
意志疎通上の弊害を指摘して、現行制度を生かすならもっと互いに協力し合うべき
だと」
「言っちゃったの?」
「…………言うべきでは無かった、と思います」
「全くだね。今の副局長、検事局に知り合いいないし。出来ないコト言われるのは
イヤでしょ」
ダメだよ、と。
諭す、というには軽い口調だった。
「オトコのプライドは脆いんだから。優しく扱ってくれないと」
巴はしばし急須を持ったまま黙り込み。
「どうしたのかな」
「……そのような諭され方をされるとは、思わなかったので、つい」
「何。ボクも“捜査官ナメてるのか”って怒った方が良かったかな」
「……ふふ。ご遠慮します」
軽口には、軽口で。
些か不穏当ではあるが和やかな空気が漂う。
「そーいうセリフは、検事局に繋がりのある人間に言っておきなよ。うまくすれば
異動、出来るかもね」
「主席捜査官のような方にでしょうか」
「――さあ?」
会話の見た目は穏やかなものだ。
見えない底で、どのようなモノが渦巻いているのか、部外者は知らない方がいい
のだろう。
「ボク。見返りもなしに他人のために労力使うとか、キライだから」
「見返りがあれば?」
「モノによるね。法に触れるようなヤツはカンベンして欲しいな――そんな下らない
コトで。職、失いたくないし」
「主席捜査官。貴方を満足させるのは難しそうですね」
「そうかな」
「そう──そう思えます」
くつくつと。
くすくすと。
笑声と、声にならない笑いが、絡まった。
容疑者宅の家宅捜査が始まったのは、午後八時。
「や。や。主任さん、ゴクローさん。待ってたよー」
「どうもどうも。それじゃ、始めますか」
青いビニールシートで隔離した一軒家へ踏み込む。
玄関先で厳徒らを出迎えたのは、微かな刺激臭だった。
「ああ。コレね」
たたきに、トイレ等で見かける緑のプラスチックボトルが転がっている。二本。
ここから液剤がこぼれたらしい。
「新しいものですね」
「みたいだね。中、見ようか」
厳徒は巴に返事しつつ、家内へ入る。玄関から真直ぐ伸びた廊下、向かって右側
に洗面所と浴室に続くドアがあり、左はリビングと台所になっているようだ。廊下
の奥には階段が見えた。
「主席捜査官、まずは何処から」
「んー。おフロかな。証言によると、腕切ったのそこで、らしいし」
その前に、と、後ろの鑑識主任へ振り返り。
「そこの血痕。反応見といて」
「あいよー」
「……血痕?」
気づいていないのは巴だけだったらしい。指差されて観察してみれば、廊下と壁に
確かに黒っぽい痕が残っていた。
「引きずったのかねえ」
「だろうね」
「相変わらず目が良いな。ガンさん、鑑識来ればよかったのに」
「ヤダなー。おだててもゴハンくらいしか出ないよ? ……ホラ、ボク、悪いヤツ
追いかけてる方が好きだから。
――トモエちゃん。おフロ行くよ」
「分かりました」
浴室は塵ひとつなく、しん、と乾いていた。
「何も、ありませんね」
巴が予想していたのとは違う。もっとこう、血の痕とか──遺体損壊の痕跡がある
かと思っていた。
ぴっと厳徒が指を挙げる。
「トモエちゃん。写真、撮っておいてよ」
示す先は──「ここにも? 玄関にもあったから──」「計四本。多いねー」
緑のボトルには、まだ中身が残っていて、一本は未開封だった。
「ちゃんと記録、取っておいてよ。ソレ、犯行現場を必死になって掃除した。証拠
インメツの動かぬ証拠、ってヤツだから」
──ぴかぴかに磨き上げられた、清潔な──偏執的にまで清潔な、浴室。
あまりにもキレイ過ぎる、空間。
その隅、に。隠すようにして。
「腕切った理由、もう教えたっけ」
「……いいえ、まだ、です」
「ここでさ。犯人、被害者を解体して捨てようとしたんだけど。まあゲンジツと
ドラマは違うからねー。草刈り用のナタを使ったけど、これがナカナカ」
「切れなかった、んですか」
巴の視界に、鈍く光るものがある。
刃物。鉈、だ。
磨いたように──掃除用の液剤でもかけたかのようにぴかぴか輝いている。
「いや。逆。よく切れたって。皮膚も肉も骨も血管も、キレーに」
キレイに、切れて。
色んなものが、飛び散って。
「もうダメだって思ったんだって。さ。これ以上出来ないって」
厳徒は笑声を洩らす。完全に、カンペキに蔑む調子だった。
「で。とにかく死体と一緒にいるのが怖くなって遠くに捨ててきて、アトは知って
の通りの隠蔽工作。と」
イヤ、ホント。
「バカバカしい」
ゆっくりと。そこに、嘲笑以外のものが混じる。
「ホントに被害者と接点がなかったのかな。あれば。“過失”じゃなくて“故意”
なら、死体損壊と遺棄と証拠隠滅と合わせて」冷え冷えとした、なにか。「死刑台
に送れるのに」
巴がひとつ、息を呑む。
「過失だと……取り調べでは、そう仰っていたと」
「飴だよ、アメ。“ツミにキビしく、ヒトにキビしく”がモットーだから。ボク」
手袋を打ち合わす乾いた音が、水気のないタイルに反響する。
「さて。トモエちゃん、次、行こうか」
巴が返答する。
そこには。確かに、なにかを決めた色があった。
──XX月XX日、二十二時八分、容疑者宅捜査、終了。
──同月翌々日、序審法廷開廷。
お疲れ様です。と。証言台から降りた男に、彼女は言った。
ご苦労サマ。と。共に仕事をした女に、彼は言った。
――判決、有罪。
意外だった。と。男が呟いて。
そうですか。と。女が返した。
「こーいうコトしない、マジメなコに見えたから。ね」
“こういう事”が何を指しているのかは明白だ。夜。ホテルの一室。肉親ではない
男女が、まだ服は身につけているものの、ベッドに並んで腰掛け、二人きり。彼らは
恋人でも夫婦でもないが、そこはそれ、よくある話。
「おめでとうございます。厳徒主席捜査官」
脈絡のない祝辞に、厳徒は手を止める。厳徒と巴、彼我の距離はほど近い。手を
伸ばさずとも彼女の襟元を玩べるくらいに。
「ああ。今日の法廷。ま、あんなモンじゃないかな」
くだんの人身事故及び死体遺棄事件の犯人は、あっさりと有罪になった。厳徒も
証言台に立ちはしたが、特に苦労をした覚えもない。
被告の自宅から発見された被害者の血液、死体損壊に使用した凶器という“証拠”。
被告本人の犯行に関する“証言”。
それら全てが彼の犯行を立証した。
何処ぞの検事ではないが、カンペキな裁判だった。
最初から結末の見えたレース。担当の弁護士は、黙ってカカシになるか、無駄と
分かって反論し検察のサンドバックになるかの二択を迫られ、殆ど泣きそうになって
いた。運が悪い、としか言いようがない。
「それもありますが」
しかし。巴は、自分の胸元で遊ぶ黒手袋を眺めつつ。
「地方警察局副局長、就任決定、おめでとうございます」
「――。耳が早いねー。正式な発表は明日なんだけど」
手袋に包まれた指が、女物のジャケットのボタンに掛かる。まだ外さない。
「ああ。だから、ボクの誘いに乗ったワケ」
返答は。
「そうです」
思わず──笑う。
「あのさー。スナオが過ぎるのもどうかと思うよ」
普通に考えれば駄目な回答だ。これから同衾する相手に、お前本人になんか興味
ない、お前の地位と権力だけが目当てだ、と宣言したに近しいのだから。
普通なら。
普通の、恋人同士なら。
「トモエちゃん、検事を目指してるんだっけ」
「はい」
「そんなに検事になりたいんだねえ」
好きでもない相手に身を任せてまで。
ボタンは、まだ、外さない。
「検事局への口利きが欲しいのではありません」
巴が、厳徒を見据える。座ってだと、二人の身長差が少しだけ緩和される。
「貴方の元で、捜査官として学ばせてください」
主席捜査官。
薄くルージュを引いた唇が。警察局上級捜査官、その中でも最も優れた捜査官に
のみ許される呼称を、紡ぐ。
「例え今検事になれたとしても、それでは私は“唯の”検事です。私はそれ以上の
検事になりたい。現場を誰よりも知り、より正しい判断の可能な検事に」
だから。
「厳徒主席捜査官。貴方の元で、最高の、捜査官としての全てを学ばせてください」
――つまりは。
厳徒の技術を、知識を、経験を、人脈を、厳徒の培ってきたモノを自分のモノに
したいと。こういうわけだ。
(ああ。いいな)
その貪欲さはキライではない。有能な人間に限るが。
「で。見返りがコレってワケ?」
「優秀な捜査官は、局に大勢います。……貴方を、慕う女性も、多いのでしょう。
けれど、優秀な捜査官且つ貴方とこういうことの出来る女性というのは、私だけだと
思います」
特に。自分に従いたがっている人間は、その目的がどうであろうと、使える限り
キライ、ではない。
厳徒は愉快さを示すように口角を上げ、巴のジャケットのボタンを外す。
ジャケットの内側で、強張る身体が微かに震えるのを感じた。彼女が慣れない台詞
で緊張していたのは明白だ。この為に何度練習したのかは──まあ別に訊かなくても
構わないだろう。
こういう努力も。ケナゲさも。
自分でやろうとはカケラも思わないが、されて気分の悪いものでもなかった。
ジャケットに続き、ブラウスのボタンをひとつふたつ外したところで、腕を細い
腰に回し拘束する。
「え、まだ……んっ」
セオリー通り、まずはキスから。唇を浅くはみ、おとがいへと移る。乱れた呼吸が
すぐ耳元で聞こえる。顔を上向かせ、顎の裏側、薄い皮膚と肉へとくちづける。日に
晒すことのない肌は、白い。顎と首の境界線に沿って、耳へ。髪から洗髪料のにおい
がした。
「あの、ちょっとっ」
腕の中、巴がちいさく身をよじる。
羞恥というより、座ったまま腰をひねるという体勢を取らせたことへの抗議が多分
にある。
「どうしたのかな。もう横になる?」
「そうじゃなくて、いえ、そうではなくて! 服、を、まだ」
服。着けたままだ。
巴は申し訳程度に上着を綻ばせただけだし、厳徒に至ってはタイを緩めただけ。
一切脱いでいない。
「トモエちゃんはせっかちだなー」
「そういう問題では……!」
これはこれで楽しいんだけど、などと言いつつ、巴のブラウスを軽くはだける。
ボタンの外された箇所から下着らしきレースが覗く。落ち着いた色合いだった。
指をひっかけるようにして押し込むと、手袋越しにまだやわらかい突起に触れる。
巴の肩がひくんっと跳ねる。
押し潰すように指を乳首の下に移動させ、指先で、持ち上げる。感触が、手袋越し
でも分かるくらいに変化する。
告げるまでもなく。巴も、自身の変化に気づいている。俯いた頬が朱い。上半身
を支えるためベッドに突いた手が、強くシーツを握りしめていた。
「服、を」
囁きは上擦っていた。緊張と興奮が半々──いや、七三か。
「まさか、着けたまま、とかでは」
「あ。そっちのが好き?」
思いっきり否定される。「シワになりますし」
「そっか。ボクはキライじゃないけどね。ま、最終的には脱ぐけど。脱がなきゃ
デキないし」
手を離す。と、巴は素早く襟をかき合せた。そして上目遣いに探ってくる。
何が原因かは分かる。
見た目からして予想はしていたし、怜悧な彼女のイメージにも合ってはいるが、
ふくらみは少々控えめだった。ない、と正面切って言えば文句が出るが、ある、と
言うと完全にウソになる。そんな半端な具合だった。
厳徒にとっても残念なことではあったが、そこらへんは腹にしまっておく。
まだ時期尚早だ。
厳徒はわざとらしく咳払いをし。
「トモエちゃん。自分で脱ぐ? ボクが脱がす?」
「っ、そんな、自分で」
そこで巴はひた、と口を噤み、
「――どちらが宜しいでしょうか」
生真面目な口調で問いかけてきた。間があったのは、やはり恥ずかしいからだろう。
目が泳いでいる。
巴はこの行為を“見返り”と呼んだ。
厳徒からそれ相応の対価を得るための布石だと。
だから、厳徒の嗜好になるべく合わせて動こうとの心積もり、なのだろう。
思惑に厳徒が気づかぬはずもなく。
「あ。リクエストしてもいいの? じゃあさ」「申し訳ありません自分で脱ぎます」
くっくっ、と、噛み殺したはずの笑いが洩れる。
「やだなー。ナニ想像したの」
巴は答えず、厳徒のやたらめったら朗らかなツラを流し見、
「なにも」
礼儀正しく背中を向ける。ジャケットから腕が抜かれ、ブラウス生地が晒される。
汗で僅かに湿り気を帯び、その下の肩甲骨と背骨のラインを浮き立たせていた。
「貴方は脱がないのですか」
背中越しの問い。
「脱ぐよ」
少しずつ露わになる肌。
やわらかな室内灯に照らされたそれは、ほの赤く色づいている。
そんなものが、無防備にも、手の届く範囲にあったものだから。つい。
「――っ」
背が仰け反り、長い髪が揺れる。
慌てて振り向いた顔は今度こそ咎めだてするもので、逆立てた柳眉がなかなかに
色っぽい。
「あ。いーよ。続けて」
背筋をなぞって邪魔した当人は悪びれた風もなく手袋付きの手をひらひらさせる。
その笑顔が余計に警戒心を煽ったらしく、「おやおや」巴はベッドの端にまで移動
してしまった。
ここまでされると流石にちょっかいはかけられない。
厳徒はあっさり諦め、手袋のホックを外した。
確認して判った。
宝月巴は経験が薄い。
例えば。先程の悪戯に対する反応とか。
「ん…ふっ、……っ」キスの際、相手の舌の動きを必死でトレースしようとして息を
詰まらせるところとか。
「……っは! 、っ」溜まった唾液を零してしまい「あ、ごめんなさ……けほっ」
うろたえる様子だとか。
「……」ひとつシーツを共有する厳徒の身体──特に下の方から意識して目を逸らす
仕草、だとか。
仰向けになった巴へ、厳徒が覆いかぶさってきたとき、覚悟を決めるように強く
目を瞑るさまだとか──喉元のくぼみにキスされて、驚き目を開けるところとか。
「あれ。イキナリ挿れると思ったの」
酷いな、信用してよと厳徒は笑う。
「だってさ。ホラ」
白い肢体がいちど跳ね、当人の意志の力で抑え込まれる。
足の付け根、翳りの奥へと無遠慮に差し込まれた指から逃げるまい、と、躍起に
なっている。
「――濡れてないし。ね」
微かな湿り気しか感じられないソコを、中指一本でなぞる。刺激に応え熱い体液
がじわりと染み出してきたが、まだだ。愉しむにはまだ足りない。
再び鎖骨の中間へと口づけて、今度は触れるだけでなく、舐める。汗の味。厳徒
の下で、女の身体が震えた。
ゆっくりと、身体の中心線に沿って舌を這わす。女の息遣いに時折くすぐったい
感じが混じるのは、触れる顎鬚のせいだろう。構わず唾液をすりつける。肋の感触。
胸と、ささやかな谷間。引き締まった、けれど線が浮くほどではない腹筋。臍。舌先
をねじりこむと、微かな悲鳴と共に腹がのたうった。
皮膚の特に薄い場所をまさぐられるのは、快感には程遠い感覚だろう。
だが。
指が。潤いの足りない場所をかきわける。さっきとは打って変わって、丁寧に浅い
部分を刺激し、僅かな体液を絡め取り、擦りつける。
その指を、熱と量を増した蜜が濡らす。
不快感と、確かな快さ。巴の身体はどちらの感覚を優先するかの選択を迫られ、
後者を選んだらしい。
押し殺した甘ったるい呼吸。
指を進ませる。ぐずるような抵抗。御当人は息を詰めて受け入れようとしている
のだが、経験の薄い身体はそう簡単にいかないようだ。