【呪縛の紅糸】
その日、私はとても疲れていた。連日の激務に体は悲鳴をあげ、心はすでに折れかかっていた。
ようやく残業が終わり、帰路に着こうとして職場をあとにして外へ踏み出したその瞬間。
「おじさん、ごはんちょうだいね!」
街路樹の陰から、なにやら珍妙な物体が飛び出てきた。それは奇妙な鳴き声を発していた。
「れいむはおなかがすいてるんだよ! だからごはんくれないとだめだよ!」
人間の言語、らしかった。幸いにも――いや、この場合は不幸と言うべきなのか――この言葉は私の遠くなりだした耳膜に響き、日本語として伝わる音を持っていた。
しかし、これはなんなのだろう。巨大な饅頭に、顔が付いている。不細工な造形だが、見ようによってはかわいい……かもしれない。
「おじさん、れいむのことじろじろみないでね! あんまりみつめられるとてれちゃうよ! でもれいむはみんなのあいどるだからしょうがないね!」
この生物は「れいむ」というらしい。言動から察するに、少々自信過剰なようだ。
私の心の内に、ふつふつと何かが湧いてきた。もともと動物は好きだし、学生時代に動物研究などをしていたせいもあるだろう。
とりあえず、この喋る饅頭を家に連れ帰って飼育してみることにした。
―――――
「ほら、これでいいか」
私がれいむに差し出したのは、キャットフードだ。
以前飼っていた猫のものだが、残念ながらその猫はこの家にはいない。
死んでしまったわけではなく、どこかへ行ってしまったのだ。いつものように飄々とした面持ちで出ていって、そのまま帰らなかった。
首輪の代わりに巻いた紅いリボンだけが、私とその猫の唯一の繋がりだった。もっとも、そんなものは見知らぬ新たな飼い主に付け替えられているのかもしれないが。
そんなことを考えていると、
「むーしゃむーしゃ、しあわせー!」
歓喜の声が響いた。どうやらお気に召したようだ。れいむの喜ぶ姿を見ながら、猫を撫でていたようにその頭を撫でる。がさがさの髪から、ぶわりと埃が舞った。
「れいむ、ごはんを食べ終わったらお風呂に入れてあげよう」
―――――
れいむの肌は饅頭の皮と餅の中間くらいのものだから、あまり水に浸けておくと溶けてしまいそうだった。髪はシャンプーとリンスをして、全身――と言っても全身が頭部なのだが――は軽くお湯で流してやった。
湯舟に浸かると、一日の疲れがじわりと染み出していった。明日は休日だから、れいむを連れて公園にでも行こうか。猫用に買っておいた遊び道具もあることだし、たまには野外で食事をするのもいいだろう。
そんなことを思い、洗面器の風呂のなかでくつろぐれいむを見ると、その髪に何かが引っ掛かっていた。
それは――見覚えのある紅い糸だった。れいむの頭に着いた飾りがほつれたものでは、決してなかった。
「れいむ、頭に糸が付いてたぞ」
「ゆゆっ! ありがとね! ……ゆ?」
「どうした?」
「そのあかいいとさん、れいむしってるよ! ずっとまえにやっつけたねこさんがくびにまいてたやつだよ!」
嫌な予感がした。
あたたかな湯に浸かっているはずなのに、寒気がした。
「わるいねこさんだったよ! れいむはまりさといっしょにげきったいっ! したよ!」
「……どうやって?」
「ゆっふん! えささんをばらまいてのこのこきたところにでっかいいしさんをおとしたんだよ! しんだからぐちゃぐちゃにしてあそんだよ!」
そのときに、紅い糸が絡まったのか。れいむの飾りも赤いから今まで気付かなかったが……私は運命というか、宿命を感じた。
「れいむ、その猫さんはどんなふうに『悪かった』んだい?」
「れいむたちのなわばりにはいったんだよ! すーぱーかりすませんしのれいむのなわばりだったんだよ! おもいだしてもわらえるよ、ゆぷぷ……ゆぎゅえ!?」
「もういい。もう……喋るな」
「ゆぐ……ぐるじ……」
そうか、あいつは死んだのか。殺されたのか。こんなやつに、石を落とされて……あまつさえ、その死骸を弄ばれた。
れいむが悪いとも、猫が悪いとも言わない。生きるために、そして何かを守るために外敵を排除するのは、全ての生物の行動原理だ。
だから――私は、れいむを排除することにした。ある意味では慈悲的な、あっさりとした死ではなく、間断なく続けられる無慈悲な生の苦痛を与えることによって。
―――――
「ごろじで……もうごろじでぐだざい……ごろじで……」
あれから五年の歳月が過ぎた。終わりなく続く痛みにぎりぎりのところで耐えられるように調合された栄養剤を投与されながら、今日もれいむは死を望みながら生きている。
れいむを緊縛しているのは、新品の紅いリボン。これが本当の意味で外れるのは、ずっとずっと先のことだろう。
完
最終更新:2010年10月17日 02:24