―――――――
辺りに広がるのは、散らかった今まで部屋に飾ってあったであろう何か。
母が好きだった薔薇も、乱暴に割られた花瓶の破片と水でぐしゃぐしゃになっていた。
目の前には、真っ黒な髪が乱れては血で濡れている。
手の平は震える首を捕らえていた。
このまま体重をかけてしまおう。そしたらこいつは死ぬ。
喉から出た声は、自分でも驚くほど低かった。
「お前なんて、死ねばいい――」
……――
―――――――
「…あ……さ…!」
体が揺さ振られる。
頭はまだはっきりと意識を掴んでおらず、まだ眠りの淵に足をかけていた。
「あ…とさ……い…!」
「ん…」
それでも止まない振動に体は苛立ちを訴える。
ほんの少しだけ、目を開けた。
「…蒼斗さん、大丈夫ですか!?」
「…レベッカさん…?」
「あ、良かった、起きてくれた…」
眼前には、丸々とした瞳がいた。
あれ、でもなんで。
「レベッカさん!? ――ッ!」
「はぐぅっ!」
ガタッ、と。
驚いて、立ち上がろうとしたら頭がレベッカさんの顎に見事に当たってしまった。
俺はというと、膝の上に何か板のようなものが邪魔して立てず、それに思い切りぶつけた。
「あいたた…」
「す、すみません…」
そういえば、泊まってたんだっけか。
口を押さえている彼女の手の隙間から、血がゆっくりと滴り落ちていた。
「レベッカさん、血が」
「あぅ…噛んで切っちゃったのかもです」
痛そうに目を潤ませる。
ティッシュがすぐそばになかったので、とりあえず指で血を掬う。
(あ…)
魔がさしたのか、そのままそれを口に運びたくなった。
鉄のような、独特な味が口に広がる。
レベッカさんが驚いたような瞳で見てくる。びっくりしたのは俺も同じだ。
「ぼ、僕口漱いできますっ!」
髪みたいに赤くした顔で、ぱたぱたとかけて行く。
頭の処理が全て追い付いていないまま、また誰かに話しかけられた。
「テーブルに突っ伏して寝るからそうなるんだよ」
「あ…貴彰」
「おはよ、蒼斗」
そう言われて、頭が覚めたような気がした。
見れば、髪を束ね片手にフライ返しを持った貴彰がそこにいた。
テーブルで寝てたというのも、布団は貴彰、ソファーはレベッカさんと、空いている寝床がそこしかなかったからだ。
変な体制で寝てたからか、体中の節々が痛い。
さっき足をぶつけたのも、椅子を引く前に立とうとしたからだろう。
「そんなドジしてないで、朝ご飯できたから顔でも洗ってきなよ」
くるくると指先でフライ返しを回しながら、冷ややかに俺を見てくる。
適当に返事を返してから、テーブルにある眼鏡を無造作に掴んだ。
それから、ふと思い出す。
「なあ、貴彰」
「ん? 朝飯ならトーストとサラダだけど」
「いや、そうじゃなくて。今日、暇か?」
「何だよいきなり。デートのお誘い?」
口角をきゅっと上げ、にやにやしながらこっちを見てくる。正直イライラするなその顔。
ただ、それもすぐに取り消されたのだけれども。
「今日、父さんのとこ行くから、お前も来いよ」
「……は? 蒼斗、今何て言ったの」
ピタリ。フライ返しをいじくる指先が止まる。
まるで聞く耳も持たないというように眉間に皺を寄せ、そっぽを向いた。
「ほら、誉さん小説家だろ? 父さんが書いた本を読んでみたいって言ってたから届けに行くんだけど」
「あいつの名前出さないでって前にも言ったでしょ。というか、今更そいつなんなの」
「…きっと、後悔してるんじゃ――」
「――あいつが後悔なんてするわけないだろ!」
まるで鼓膜が震えるほど。
バンッ、と貴彰の掌がテーブルを叩き大きな音を立てた。
酷い剣幕でこっちを睨む。
「蒼斗が何と言おうと、俺は行かないから」
そう吐き捨て、踵を返しキッチンへ向かって行った。
――――――
「じゃあ、行ってきます」
「はい、戸締まりお掃除任せて下さい!」
朝食を食べ終え、父さんの所へ行こうと玄関で靴を履いた。
レベッカさんは泊めてくれたお礼に、と留守番を受け入れてくれ、先程の台詞に胸を叩いた。
貴彰もレベッカさんと一緒に家にいてくれるらしい。
「蒼斗、帰りに何か甘いの買ってきてほしい」
「ん、わかった。あ、俺の箪笥の一番下、空いてるから服とか詰めとけよ」
「うん、ありがとう」
ドアノブを捻り、外に一歩出て振り返ればレベッカさんが手を振っていた。
――――――
「…いっちゃいましたね」
俺の隣にいる赤髪がそう呟いた。
この人は蒼斗といる時本当に幸せそうな顔をする。
「…あ、あの」
「ん?」
俺より背の低い彼女が上目でこっちを見る。
小首を傾げて俺に話し掛けてきた。
「さっき、朝ご飯作る時はすみませんでした」
「まさか貴方の手の付けた材料全てが煮物になるなんて思いませんでしたよ」
「あはは…気付いたらそうなってました…」
そう言って、恥ずかしそうに彼女は後頭部を掻いた。
卵焼きを頼んだらおでんを作ろうとしていたし、大根をわたせばいつのまにか醤油やら砂糖やらを持って酒を探していた。
彼女曰く無意識らしい。
「それじゃあ、私お皿洗いしてきますね」
「あ、うん、ありがとう。よろしくお願いします」
腕まくりをして、キッチンに二、三歩歩んだところでまた俺に視線をぶつけた。
「そういえば、蒼斗さんはどちらにお出かけになったんですか?」
「気になるの?」
「すみません…朝の会話少し聞こえちゃいまして」
バツが悪そうに眉尻を下げ、少し目線を逸らした。まあ、俺がでかい声出したわけだし、狭い部屋の中じゃ嫌でも聞こえるだろう。
何も秘密にすることはない。まあ蒼斗がそうしたいと思ってるなら別だけど、今はいないししょうがない。
返答した後彼女はどんな反応するんだろうなぁなんて考えていたら、無意識に言葉を放っていた。
「…刑務所だよ」
――――――
父への面会は勿論予約をしていた。祝日となっては安売りしているスーパーも休みになってしまう。…なんてことを考えていた。
それから、俺は未だに連絡のつかない京へメールを道中送った。
それにしても、家の中にあの二人だけというのも不安でしょうがない。
駅に着き、電車に揺られて昔のことを思い出した。
俺達は、父と母を恨んではいなかった。確かにあの二人は愛し合っていたし、俺達を愛してくれていた。
祖父母から受ける虐待にもかばってくれていた。
貴彰が産まれてからは、俺からそれへと虐待の対象が変わった。それから――。
「いっ…て」
ずきり、と頭痛が走る。また、それに重なるように降りる駅を告げるアナウンスが流れた。
慌てて席を立ち、目眩がかかったような頭を押さえて電車を降りた。
――――――
「え…?」
ほら、想像通りの表情だ。いや、それ以上か。
レベッカさんは聞かないほうが良かったという顔で俺を見る。
「聞こえなかった? 刑務所だよ」
「え、あ、いや、そうじゃなくて…」
「何、まどろっこしく言わないでさ、ストレートに質問したら? “どーしてあなたのお父さんは刑務所にいるんですか?”ってね」
瞬間、とても嫌そうに目元を歪める。
とてもわかりやすい人で助かるんだかなんだか。
「そ、そんなプライベートなこと聞けません!」
「へーえ、ホントにそう思ってるの? 本心はそうじゃないくせに。どうせ、蒼斗のことは全部知っておきたいんじゃない」
「そんなこと…」
「…顔に書いてあるよ? “私は蒼斗さんが好きだから、彼のことは全て把握したい”って具合に」
面白いくらい真っ赤になった表情と、こっちを睨む瞳。まあ、全然怖くないんだけれども。
「いいじゃん、どうせ中途半端に首つっこんでるんだから。ほらほら、皿洗いしてる傍で話してあげるから」
顎でキッチンを指せば、彼女は不機嫌そうに振り返り、歩みを再開した。
自然と口角が上がる。そして、聞こえないように呟いた。
「…俺は、君の味方だから」
――――――
父さんの顔はやつれていた。整いすぎた生活が肌に合わないのか、それとも精神的にくるものなのか。ガラス越しにガラスを見ている気分だ。
「誉さんの本、持ってきたからちゃんと読んでよ。デビュー作らしいから。俺読んでないからわからないけど、面白かったら続き買って持ってくるから」
「ああ…、ありがとう」
身の籠っていない返事、というか。本当に抜け殻のようで、最低限の感情しか残っていないように感じた。
父の髪は白髪が増えているようで、昔よく一緒に遊んでくれた父とはまるで別人のように思える。
「もう、面会する人はいないの?」
「…なあ、蒼斗」
「何、父さん」
「司は…来てくれるかな」
「……」
俯く父。旋毛が見えるくらい項垂れている。それから、嗚咽。
俺は見ていられなくなって、席を立った。
「…それじゃ、父さん。また来るから」
振り返らなかった。返事もどうせない。今の父では、まともに話すこともできないだろう。
ただ、「悪かった、悪かった」と繰り返す呪文が背中に反響していた。
―――――
「昨日の君達の会話は全て聞かせていただきました」
彼女は皿洗いにキッチン、俺は側にある椅子に座っていた。
わざとらしく携帯を見せ付け、決定ボタンを押す。
すると、蒼斗と彼女の会話が流れた。赤毛さんはまるでいつの間に、といった表情で俺を見つめた。
「それにしても、蒼斗も本当口軽いねー。こんなこと、他人が知ってどうこうなるもんでもないのに」
「違います、僕が無理矢理聞き出しちゃったんです」
「あ、そ。まあいいや」
もう一度ボタンを押し、音声を止める。
無駄に流れる静寂が重苦しい。
彼女は躊躇いを見せた後、食器を洗う手を動かした。
「じゃあ、君は何で俺達の父親が刑務所にいると思う?」
「えっと…」
答え難そうに指先を見詰めている。
不意に、この人は本当に何も知らないのかという疑問が生まれた。
足を組み、浅く座り直してから口を開いた。
「蒼斗が前通ってた学校じゃ噂にならなかったの? あんた、同じとこ行ってんじゃなかったっけ」
「それはそうですが…。…あれ、私たかあきさんに通ってる学校のこと話しましたっけ」
小首を傾げ、横目で俺を見る。
読めない表情に、思わず口角が上がった。
「俺が知らないと思ってたの? 俺は蒼斗の弟だよ、兄の周りのことくらい知ってるに決まってるでしょ」
「そっか、そうでしたね。でも、私本当に知らないです」
「へぇ、蒼斗のストーカーさんでも知らないことはあるのか」
ぴたり、と。彼女の手が止まった。
水を打った様に静かになった気がした。
彼女は流れる水を止め、手を拭きながら言った。
「たちの悪い冗談言わないでくださいよ、私がストーカーなんて…そんなことあるはずがないです」
俺の顔は見ない。だからレベッカさんの表情も見えないが、声は少し震えていた。
「じゃあ、お皿洗いも終わったので、お掃除させていただこうと――」
「――蒼斗の引っ越しの手伝いの時、落ちた蒼斗の髪を拾ったことは?」
顔を見せた彼女は、明らかに戸惑いを見せた。
顔色が段々悪くなっていき、唇の端を噛む。
「しかもそれをまだとっておいてる。…ああ、あと、蒼斗の彼女からの手紙開けたの、アンタでしょ」
「ち、ちがっ…私そんなこと…」
「俺が開けるより前に、あの封筒は開封されていた。しかも、あいつは写真とかを折りたたんだ便せんに挟む癖がある。なのに、俺が見たときはそうされてなかった。つまり、誰かが先に開けたってことだろ?」
「だからって、僕がした証拠にはなりませんよ、何言ってるんですかっ」
「証拠ねえ…手紙があったその場に落ちてた、レベッカさんのながぁい髪の毛じゃ駄目?」
ポケットの中から、一本の赤毛を出す。
息を飲み、彼女は俺から視線を外した。
ひっきりなしに手をさすり、不安を隠そうとする。
「それから、アンタ蒼斗のことで一回退学になってるでしょ」
「…言わないでください」
「原因があれじゃ笑っちゃうよね。まさか――」
「それ以上は、言わないでくださいっ!」
行き成り怒鳴り声をあげたと思ったら、涙を目にいっぱい溜めていた。
思わず溜息が洩れる。彼女の肩は震えていた。
「お願いです…蒼斗さんには言わないでください」
最後のほうは、泣き声混じりでまるで虫が鳴いているようだった。
「…なんか、俺が苛めてるみたいだな。…さっきの髪の毛は、手紙の時に拾ったもんじゃないよ、安心しな。ちょっと揺さぶりにソファにくっついてたの取っただけなんだって」
――蒼斗以外の髪の毛なんて、誰もとっとくわけないだろ。
足を組み直し、床に彼女の髪を放った。
それから、再び口を開く。
「――俺らの父親、人殺しで刑務所にいんだよ」
驚いたような顔で、俺をはっと見つめた。
唇に人差し指を当て、ウインクして答えた。
「レベッカさんのしたこと黙っておくから、俺らのこのことも内緒にしてね」
こくこくと頷き、服の袖で目の端を拭うレベッカさん。
「俺らの父さんは、母さんを殺したんだよ。…両親が別居してから、母さんは知らない人と結婚したんだ。俺は母さんについてったから、そいつと母さんと暮らしてた。再婚の相手は小説家、趣味はビデオ撮影。喧嘩とか、そんなこともなく過ごしてたんだけど、ある日母さんが妊娠してるってわかったんだ…女の子だったみたい」
ぷらぷらと揺らす自分の足先に視線を落とす。
ああ、蒼斗も話す時こんな気持ちだったのかなぁ、と思いを巡らせる。
「お腹もおっきくなってきた頃、俺は母さんと家にいたんだ。妹早く産まれないかな、とか話してた。…そしたら、父さんが俺達のことを訪ねたんだ。どうやら、復縁したくてきたらしくて。でも、父さん再婚したこと知らなかったみたいなんだ。だから、妊娠した母さん見て、びっくりしたみたいで、それで」
一呼吸置く。自分でも胸が苦しくなる。あの時の血生臭さを思い出す。
「父さん、母さんのこと襲って、台所にある包丁掴んで、殺したんだ。腹切って、義妹のことも引きずり出して、めった刺しにしてた」
あの時の不快感、悲しみ、焦燥感はとてもじゃないが伝わりきれなかった。
それでも、感じた憎しみだけはわかるように。
「父さんにとって、母さんは母さんのままだったみたいで、離れるってことが実感できないままだったんだ」
「…蒼斗さんは、どう受け止められたんですか?」
「蒼斗は…そうだね、あの時の蒼斗は俺に冷たかったから、あまり話してないんだよ。だから、よくわかんないや」
玄関にそっと目を移し、蒼斗の背中姿を思い出す。
今でも思い出す、蒼斗に首を絞められ、殺されかけたこと。
「蒼斗は、昔のことをよく忘れてるんだと思う」
「昔のこと…ですか」
「…蒼斗は、きっと異常な俺を憎んでる」
自然と目を細める。
俺は少し勢いを付けて立ち、それから彼女の瞳を見た。
「今度はアンタの番だ、レベッカさんのこと、ちょっと聞かせてよ、掃除しながらでいいから」
「あ、はいっ」
彼女は元気よく返事してから、また涙を拭った。
――――――
「――あ」
「あ」
スーパーの今日の特売品、卵のラスト一パックに手を伸ばしたら、見覚えのある女の子と指先がぶつかった。
「奇遇ですね」
「そう…ですね」
椿の髪飾りをした女の子は、恥ずかしそうにしながら視線をそらした。
それから、そっと手を下ろす。
それにしても、この間とは別のスーパーでまたこの子と出会うとは思っていなかった。
「えっと、アロエの方ですよね…」
「アロエ、アロエ…ああ、そういえば取ってもらったのはアロエでしたね」
「あと、ナタデココでしたっけ」
「はい…あの節ではお世話になりました」
深々と頭を下げ、女の子は垂れた髪を耳にかける。
俺はパックを取って、彼女に差し出す。
「え…」
「どうぞ」
「いいんですか?」
「勿論ですよ。俺は違うとこで買いますから」
そう微笑んだら、頬を桜色にして、俯き気味に受け取った。
「すみません…ありがとうございます」
「いえ、どういたしまして」
「…あ、そうだ」
卵をカゴに入れた後、左手首に下げた巾着に右手を入れた。
何をするかと思えば、名刺サイズの紙を出して、俺に差し出した。
「これ、私の家が経営してる和菓子屋なんですけど、お暇な時にでも来て下さい。私の名前はつばきと言います、お店で私のこと呼んで下されば、サービスしますから」
俺がそれを受け取ったあと、彼女は手を引いてカゴを持ち直した。
「…それじゃあ、私はこれで」
「あ、はい。じゃあ、明日か明後日にでも行かせていただきます」
頭を下げ、ゆっくりとつばきさんは歩いて行った。
俺も別のスーパーに行く事にして、彼女と真反対の方向に足を向けた。
―――――
「レベッカさんは、何で蒼斗と知り合ったの?」
「蒼斗さんとですか? 学校の試験会場ですよ」
窓を濡れた新聞紙で楽しそうに拭くレベッカさんは、俺をちらりとも見ずにそう答えた。
「実は、私消しゴム忘れてきちゃったんですけど、後ろの席だった蒼斗さんが声かけてくれて」
「うんうん」
「帰りに返そうとしたら、蒼斗さん急いでたみたいで、消しゴムわたせなかったんです」
「あ、今はもう返してますよ」と笑いながら言う。
ツインテールがふわりと震えた。
「私も蒼斗さんも学校に合格してたんです。クラスは違いましたけどね。大袈裟ですけど…もう運命だと思いましたよ」
俺が両手を上げて、やれやれとわざとらしく仕種するものの、前を向いている所為か彼女の声は弾んだままだ。
「あの試験の時から、僕は蒼斗さんに一目惚れしてたみたいで」
「話し掛けたりはしなかったの?」
「なかなか、そんな勇気出せなくてできませんでした。…それに」
一呼吸置いて、ため息混じりに言った。
「たまに、校門の所に女の人がいて、蒼斗さんその人と帰ってたんですよ」
「なるほど…多分その女が前の蒼斗の彼女だろうね」
「はい…」
しゅんとした後ろ姿だった。
声色も暗くなり、窓を拭く手も先程よりゆっくりと動いていた。
不本意なのだろうが明らかに気分が落ちこんているように頭をうなだれる。
「レベッカさんは今の蒼斗の彼女のこといつ知ったの?」
「あ…恥ずかしながら、あの手紙でです」
「ああ、あののぞき見した」
「なっ、たかあきさんもやったんじゃないんですかっ」
振り向き、頬を膨らませ俺を睨む。
案の定全く怖く感じず、失笑すればレベッカさんもクスクスと笑っていた。
―――――
「あっ」
「…あ」
通勤ラッシュに捕まってしまった俺は缶詰にでも入れられたようだった。
そこで、一息ついて前を見たところ。
「あ、おとくん」
「乃人先輩…」
「偶然だな」
今日はたまたま誰かと会うことが多いな、と思った。
満員電車だからか、ポニーテールを解いた先輩はそっと俺の方に体の向きを変える。
「何でこんなとこに?」
「あ、俺は用事の帰りなんですよ。先輩は?」
「私? 私も同じようなものかな」
あまり多くは言わず、携帯をひらく先輩。
しかめっつらをしてからそれを閉じ、俺を見る。
「どうかしたんですか?」
「この間からバイトの人に、しつこく食事に誘われてて」
「行かないんですか?」
「うん、お金もそんなないし。それに…」
「それに? ――わっ」
ガタンッ、と音をたてて電車が大きく揺れる。
人の波が大きく片側に寄り掛かった。
乃人さんも、人に巻き込まれて俺のほうに流れ込んだ。
「び、びっくりした…大丈夫ですか?」
「あ、ご、ごめん…カーブにでも差し掛かったのかな」
背中を押す軋みが苦しいのか、片目をきゅっとつぶっていた。
「先輩、大丈夫ですか?」
「ん、平気」
とは言っているものの、次の駅に到着するというアナウンスが流れた。
その駅は違う線とも連絡しており、必然的に人は多く乗り降りする。
着いて扉が開いてから十秒もしない間に、人混みが押し寄せた。
「ふわっ」
小動物みたいな声を上げて、文字通り俺の胸に先輩が飛び込んできた。
ごめんっ、と先輩は慌てて離れようとするものの、右も左も囲まれててちっとも動けそうになかった。
やっと扉が閉まる音を聞きながら、俺は苦笑いして大丈夫ですよ、とだけ伝えた。
とき、ときと、少し速い心音が胸ごしに感じる。
「この人ですから、ちゃんと降りられたらいいんですけど」
「はは…そうだね」
若い女の人の話し声をバックに、乃人さんは笑った。
「あ、そういえば先輩からわたされた手紙のお礼、言いましたっけ」
「え? どうだったけ…」
「忘れていたらすみません、ともかくありがとうございました」
「ああ、大丈夫だよ。それにしても、弟がいるとは知らなかった」
弟がいることを黙っているつもりはなかったが、なんだか申し訳ない気持ちがふつふつとする。
頭を下げようにも身動きが取れず、ごちゃごちゃとした波が背中をうごめいていた。
と、俺の方に体重が押し寄せてきた。
反対側のドアが開いたのかと頭の中で思うものの、側の座席の手摺りに体重をかけるほどその力は強かった。
「あ、蒼斗くん」
「先輩、苦しくないですか」
大丈夫だと答えた先輩は、前に持って来た腕の手を口元に運んでいた。
少し、乃人先輩と距離ができる。
彼女はちょっとずつこっちに近付いてから言った。
「そういえば、蒼斗くんの家族との話しとか、あまり聞いたことないな」
「うーん、そう言われれば、俺はそんな他人に話したことないですね」
「私なんかは、妹と喧嘩ばかりしてたよ。ショートケーキの苺の取り合いとかでさ。蒼斗くんは?」
「俺は…そうですね、両親が共働きだったんで、祖父母に殆ど育てられてました。弟とは、あ、名前は貴彰っていうんですけど…一緒に何やってたっけかな…」
思い出そうとするものの、引きだしから出てくるのは親といたこと、祖父母とのこと。貴彰とのことは見つかる様子がなかった。
「うーん、実はあまり覚えてないんですよ」
「そっか、そうなんだ」
「家庭でちょっと色々ありまして、構ってあげられなかったのかもしれないです」
「それじゃ、今はべたべたなんじゃないか?」
「ははは…かもしれません」
俺の言葉が終ると同時に、なんだか気まずくなってしまった。お互い視線を逸らし、下を向く。
それから、小さな手が俺の服の端をつまんだ。俺は驚いてその手の持ち主を見ると、顔を少し赤くした先輩が寄り添ってきた。
「せ、せんぱ…!」
「ごめんね、ちょっときついんだ、蒼斗君のほう寄らせてほしい」
ふにゃ、と軟らかいものが二つ当たる。なんとなく何だかはわかるのだが、見てはいけないような気がしてぎりぎり見える窓の外に目を向けた。
この時は、変な例え方をすれば、深夜電子レンジを使ったときくらい。もっと例えれば、静まり返ったホールの中でコンサートが始まったときのような。先輩の心臓の鼓動一つ一つが俺の腹に響いては沈んでいった。
「あ、あの、先輩」
「何、蒼斗君」
「この間、taさんの所に、何しに行ったんですか? 先輩を館まで送った昨日、taさんお勉強会でいなかったって知ってたんじゃ」
苦し紛れに出た言葉がこれだった。先輩の顔を見るのも何故か恥ずかしくて、表情を見ることができない。
「…蒼斗君に送ってもらった後、そうだったって気づいたの」
「そうでしたか」
「蒼斗君、あの子元気?」
「taさんのことですか? 勿論、元気なようでしたよ」
「そっか…ならいいんだけど。離れて暮らしてると、色々と不安もでてきちゃって」
照れか、不思議そうにか、分かりづらい声色で先輩はそう言って笑った。
がたんがたんと揺れる電車は、俺の心音を置いていきながら降りる駅へと近づいていった。
――――――
「蒼斗さん、いつ頃帰られますかね」
ぽつりと赤毛さんが言った。
時計を見ると夕飯を今から作るにはちょうどいいくらいの時間だった。
「さあ…いつだろうね。メールしてみようか?」
「あ、いえ、大丈夫です。そろそろお暇させていただこうと思って、挨拶出来ればよかったなってだけですから」
「あれ、もう帰るんだ」
「はい…流石にこれ以上長くいたら迷惑でしょうから」
彼女は頬を掻きながら申し訳なさそうに笑っていた。
「蒼斗さんから借りたパジャマは洗って返しますね」とそれを抱える。
玄関で靴を履こうとする彼女を、俺は一度引き止めた。
「あのさ、Lv.57さん」
「はい、なんでしょうか」
「都合のいいときでいいからさ、買い物頼みたいんだけど、いいかな。お金は今度返すから」
そう言ってメモをわたす。
白い紙に書かれた文字を見て、彼女は大層驚いた顔をした。
「た、たかあきさん、これって」
「できれば、Lv.57さんの家に置いておいてほしいんだ」
「は、はい」
納得できない、と言ったような顔で彼女は頷く。
人差し指を口に当てて、俺は続けた。
「蒼斗には絶対内緒だよ。俺もあの事は黙っておくから、おあいこでしょ」
今度こそ、わかったという目で彼女は頷いた。
じゃあ、とメモをしまおうとした時、赤毛さんの後ろのドアが開いた。
――――――
買い物が案外長引いて、家に着くのが遅れてしまった。
それにしても、八百屋のおじさんと目玉焼きにはタルタルソース派というところで意見が合致してしまい、長時間話し込んでしまったのだ。
館の俺の部屋のドアノブを捻れば、レベッカさんと思わしき髪が見えた。
「あ、蒼斗さん」
くしゃ、と音をたてて無造作にポケットの中に何かをしまうレベッカさん。
それがなんだかはわからなかったが、彼女の奥にいた貴彰が俺をじっと見据えていた。
「お帰りなさい蒼斗、Lv.57さん、帰るんだって」
「はい、お世話になりました」
「あ、そうなんですか。じゃあ、また遊びにきて下さいね」
「ありがとうございます…」
ドアを大きく開け、歩きやすいように道を開ける。
レベッカさんは頭を下げてから、急いだように自身の部屋の鍵穴に鍵を捩込んでいた。
扉を開け、完全にツインテールが見えなくなる前にまた会釈をした。
「…さようなら」
そう言って、彼女は俺と同じシャンプーの匂いを残して去って行った。
「じゃあ、夕飯にするか。貴彰、なんか食べたいのないか」
レベッカさんが部屋に戻るのを見届けたあと、ドアを閉めてそう言った。
「キノコが入ってなかったらなんでも」
「はいはい、久しぶりに会っても嫌いな食べ物は変わってないんだな」
応えにそう返せば、ぷうと頬を膨らませてそっぽを向かれた。
頭をくしゃくしゃと撫でれば半ば驚いた目でこっちに視線を戻した。
それもまた長い睫毛が下りて、何も解らなくなるのだが。
「あのさ、今日バイト先の先輩に会ったんだよ。お前が手紙預けた先輩だけど、わかるか?」
目の前で、「うん」と短く返事をする。
俺はそのまま続けた。
「その人とちょっと話してて思ったんだけどさ、俺、お前との小さい頃の時の思い出とか、なくないか」
「…ん、まあ、ね」
貴彰は目を逸らす。
「蒼斗が覚えてないだけだよ」
「そうなのか?」
「まあ」
「あまり」と貴彰が呟いたところで、俺の携帯が鳴った。
貴彰は顎でそれを指す。
態度に甘えて携帯を開くと、taさんからのメールだった。
「大浴場に一緒に行くかってtaさん…先輩の妹さんからメールきたけど、お前行くか?」
そう聞くと、目の前のそれは首を横に振って、「行かない」とだけ言った。
「俺は部屋のシャワーで充分だ。Lv.57さんが折角お風呂洗ってくれたんだし」
「そうか、わかった」
taさんからのメールを最後まで見ると、大浴場の入口前で待ち合わせということだった。
どこあるかの説明と、それでもわからなかったら迎えに行くともあった。
とりあえず、大体の道筋の想像はできたから、大浴場前で一時間後に直接待ち合わせと返信をした。
「じゃあ、軽く飯でも作るか」
「簡単なのでいいよ。待ち合わせに間に合わなくなるからね」
「そっか、悪いな」
冷蔵庫に引っ掛けたエプロンを掴んで、苦笑した。
「猫柄の、エプロン…」
―――――
私は閉めた扉に背を預け、そのままずるずると尻をついた。
彼はきっと私が最後に言った「さよなら」を理解してない。
目の奥がジン、と熱くなる。
taさんの言った、恋人がいるのに私といていいのか、という問い。まるで頭を抉られるような痛みがした。
だからこそのさよならなのだ。
「さて、お夕飯の準備しなきゃ」
そう立ち上がって、ポケットに入れた折り畳んだエプロンを取り出そうと、そこで。
「あ…ない…?」
―――――
「…で、俺に忘れてきたエプロンをわたしてほしいと」
「は、はい…」
「こういうのは、あんたの大好きな蒼斗に頼めばいいじゃん」
「あ、だ、ダメなんです。僕、その…」
「……」
溜息が漏れた。
電話越しでも、相手が少し息を詰まらせたのがわかった。
片恋相手の蒼斗に会いたくない、というからにはよっぽどの理由があるんだろう。まあ、彼に直接じゃなくて俺の携帯に電話をかけてきた時点で何となくはわかってたことだが。
「蒼斗さんは今何をしてるんですか?」
「知り合いと大浴場らしいけど。」
「そ、そうなんですか」
「…じゃあ今からきなよ、忘れ物わたすから」
「わっ、わかりました、ありがとうございます」
「じゃあ、切るから」
彼女の返事を聞いてから電源ボタンを押した。
―――――
「すみませんtaさん、お待たせしましたっ」
「あ、蒼斗さん。私もさっききたばっかですよー。水着、ちゃんともってきましたか?」
「はい、勿論です。…それにしても、大浴場があるなんて凄いですね」
「中、かなり広いんですよ。じゃあ、着替えたら壁の右側で待ち合わせでお願いしますっ」
胸の前で手を振り、脱衣所へと入って行った。
そして、着替えて中で合流する時には、広さと綺麗さに驚嘆していた。
「す、すごいですね」
「えへへ、今日の大浴場の掃除当番のメンバーの中には私も含まれてるんですよ!」
「本当ですか、大変なんじゃ」
「掃除は皆当番で回りますし、自分も入ると思えば自然と力が入るのですよ」
そう言って、ガッツポーズをとるtaさん。
俺の手をとって、入りましょうと笑った。
先ずは爪先から。お湯は少し熱め、浸かれば足を掻いてごまかしたくなるくらいだった。
端に二人並んで底に尻をつけると、大浴場の全体が見渡せた。
「ここからだと、色んな人が話してるのとかよく見えて丁度いいんですよ。あ、何か気になること話してる人いたら、そっちに行きますよ」
「そうですね…じゃあ、ちょっと様子見させて下さい。先ずは温まってからで」
「はいっ、勿論ですっ」
波の奥でパレオが揺れる。
ふと、taさんの水着姿に改めて気が付いた。ビキニとは、これはまた。
「あ、そ、そういえば」
「はい」
何か会話を切り出さないと、変な所を見てしまう。何とも憎たらしい目だ。
とっさに何か言ったものの、実際どんなことを話せばいいかわからず詰まる。
考えた結果として、「先輩は元気ですか?」に落ち着いた。
「お姉ちゃんですか? うーん、お姉ちゃんのことなら蒼斗さんのほうが詳しいと思いますよ。バイト先同じでしたよね。私は最近メールしてないから…」
「あ、そ、そうでしたか」
また沈黙。
taさんとの間に静けさが一瞬流れたかと思えば、遠くで誰かの大声が聞こえた。
「――言いたいことがあるなら、面と言え!」
その方を見てみると、何やら顔文字柄の水着を着た人が、銀髪の人にむかって喚いているようだった。多分、その一方的に話し掛けられてる人は神 長門さんだ。
「ちょ…今の聞いたか。面と言えって…」
「これは酷いにゃ」
怒鳴る人をクスクスと笑う声が聞こえてきた。
変な顔文字さんは顔を真っ赤にして唇を噛んでいる。
長門さんは黒猫さんに問う。
「黒猫さん、点数は?」
「…おー、丁度アウトだにゃ。てことで、退場だにゃ」
「な、な、なんの」
「話だ」と、その人が言った瞬間、二人の女性に軽々と持ち上げられていたようだった。
片方はショートヘアの人で、もう片方はロングヘアーの持ち主だ。
「残念、点数オーバーだ」
「てことで、強制退去してもらいますよ」
「な、な、なっ!?」
ショートヘアーの人がウインクしてそう言うと、怪しい水着を着た人を引きずるように二人は歩いて行った。
長門さんは横目でそれを見て、黒猫さんに一つ頭を下げていた。
「えっとですね、館で皆の迷惑になることをすると、点数追加されちゃうんです」
taさんが横でそう言う。
続ける唇はほんの少し弧を描いているようだった。
「だから、蒼斗さんも気をつけなきゃだめですよ?」
「ははは…ああはなりたくないですからね、気をつけます…」
そう呟いた言葉の先には、宇宙人が連行されてる状態を連想させるような三人組がいた。
――――――
「いらっしゃい。はい、これエプロン」
「す、すみません…ありがとうございます」
赤毛さんは頭を下げる。
暫くは蒼斗が帰ってくることはないだろうが、その顔には焦りが見えていた。
「じゃあ、僕これで失礼しますね」
「ああ、ちょっと待って。さっき頼んだやつなんだけど、いつわたせそう?」
「あ、ああ。えっとですね、さっき家の確認したら全然なかったので明日買いに行きます」
顔を少し赤らめて彼女は言う。
そんなぼそぼそと喋らなくてもいいのではと思うが、まあ仕方ないのか。
「なるべく早くだと嬉しいけど、代わりに買いに行ってもらえるだけ有り難いからね」
「ま、まあ、蒼斗さんには頼めなさそうですしね…」
ぎゅっと猫柄エプロンを握って、Lv.57さんは言った。
「で、でも、何に使うんですか? その、……」
「…聞かないって約束じゃなかった?」
「あ、ご、ごめんなさい…」
「まあいいよ。今日はもう帰って、用は済んだんだし」
「はい…、じゃあ、お邪魔しました」
名残惜しさが残るように手を口元へ運び、それから一礼して出て行った。
部屋にはつまびいたような静けさが残る。
とりあえず、蒼斗が帰ってくる前に風呂に入らなくては。
――――――
「ただいまー」
大浴場はあの変な人の後、何事もなかったような状態に戻った。ゆっくり浸かり、taさんと別れ、ちょうど今帰ってきたということになる。
部屋の中はしんとしていて、人の気配がしなかった。
「…貴彰ー、帰ったぞー」
もう寝たのだろうか。それにしては居間の電気が付いている。
「トイレか? …まあいいや、とりあえず歯磨きしよう」
洗面台は風呂のすぐ側にある。歯ブラシが置いてあるのはそこだ。
戸のひっかけに指をかけ、左にスライドさせようとするところで、一瞬動きを止めた。
なにか音が聞こえる。貴彰がそこにいるんだろうか。
ぴちゃり、とした水を交えた足音も聞こえることから、きっと風呂にでも入ってたんだろう。
まあだからなんだという話でもあるのだが、心の奥底にあった心配の気持ちが薄れたのはあった。
そもそも、貴彰がここに転がり込んだ事情もまだ詳しくは聞いていない。後で、時間はかかってでもいいから聞き出そうと思う。
とりあえず、戸を二回ほどノックしてから、もう一度開けようとした、ら。
「ただいまー、帰ったぞたかあべっ!?」
「うわぁああああ!! っんの、バカ蒼斗! 許可もなしにいきなり入ってくんな!」
「ちゃ、ちゃんとノックしただろ!」
「煩い!」
今の出来事を順序追って話すと、戸を開けた途端に背中が見えて、それから銀髪が見えたかと思ったら外に追い出されて、現在に至る、という。
それにしても、今の背中は。
「なあ、貴彰」
「…何」
「もしかして包茎で、それを隠したくてそんな慌て――」
「くたばれ!」
戸がドンッと跳ねた。多分、貴彰が内側から蹴ったんだろう。
俺はため息を一つ吐いて、目の前のそれに触れた。
「…なあ、貴彰」
「何」
「その背中…」
「……」
無言の空白しか返ってこない。
もう一度だけ、返事を促すようノックをした。
「…蒼斗はいいよね、何もわからなくて。…いや、違うか」
「何のことだ? …もしかしてとは思うが、それ、誉さんに――」
「蒼斗」
強い口調で制された。
「気が向いたら話すよ。だから、今はどこか行ってくれないか」
「うん…わかった」
シャワーの水滴が落ちる音だけが響き、それがただ砂時計のように思えた。
――――――
「あがったよ」
だぼだぼのスウェットを着て、がしがしと髪をかきながら貴彰が歩いてきた。
「それ、俺のスウェット」
「いいじゃん。あ、あの赤毛さんが着てた蒼斗のスウェット捨てたから」
「赤毛さんって、レベッカさんのこと? え、というか何で」
「そりゃ他人が、しかも女が着た蒼斗の服だなんてうちに置きたくないからね」
「女って…レベッカさんはただのお隣さんだぞ」
盛大にため息を吐かれた。しかも、冷たい水滴の塗れた手でのデコピン付きだ。
「蒼斗にとっちゃそうだろうね。本当、無責任。天然タラシまき散らしやがって」
「ん…?」
「まあいいや。前ちょっと空けてよ。座るから」
少し痛みの残る額をさすっていると、くるくると髪をいじりながら貴彰が俺のことを見つめて、いや見下していた。
言葉の意味は全て理解できないが、理解しないほうがいいんだろうとも思う。
俺の目の前に座ったそれは、着てる服の所為かいつもより幼く見えた。
「よっと…やっぱ畳はいいねえ」
「ん、ほま…あの人の家には畳がなかったのか?」
「あー、うん、まあね」
あぐらをかきながら、また頭をがしがしと掻いている。
銀色の髪先を眺めては手で梳かして、冷水をはじかせた。
「髪、さ」
「ん?」
「あ、いや…綺麗だとは思うけど、どうしたんだよ、行き成りそんな色にして」
「てっきり背中のこと聞くのかと思ったのに、そっち質問すんだ」
「気が向いたら話すって言ってくれたからな」
「あ、そ」
少しつまらなさそうに貴彰は目を細めた。メガネを手に取り、スウェットでレンズを拭く。
それから、「まあ」と切り出して、話し始めた。
「これは友達の家でやらせてもらったんだよ。まあ、端折って話すと、あいつの家から逃げ出したんだけど、おっかけてくるもんだから、外でパッと見られてもばれないようにこうしたんだよ」
「逃げ出したって…どういうわけかわからないけど、まあそりゃあ追いかけるだろうよ」
「俺はあいつが大嫌いなの。追いかけてしてほしくないし、むしろくたばってほしいね」
「…その背中の傷が原因か」
「……」
メガネをいじる手を止めた。茶色い目がまっすぐと俺を見る。
肯定も否定もせず、また手を動かし始めた。
「なあ、なんか言えよ」
「……」
「背中、見せろよ」
「……」
「貴彰」
ため息の後、後ろを向いた。手を背中のほうへ運び、スウェットをたくし上げる。
体育座りになり、胸と膝の間に服を挟んで、背を露わにした。
そこにあったのは、大量の傷、傷、傷痕。
痣、打撲の痕、切り傷、火傷。
見てるだけでも痛々しいものだった。
「…触っていいか」
「…蒼斗になら、いいよ」
ゆっくりと指を這わせると、貴彰は擽ったそうに身を捩った。
シャンプーの香りが鼻腔を刺激する。
「……大変だったな」
「…ホントにそう見える?」
「ここで嘘ついてどうすんだよ」
今日父親の面会に行ったこともあってなのか、これが残されたたった一人の肉親なのかと思考が回転する。
それは息が詰まりそうなくらい胸が苦しくなって、けれども貴彰はきっとそれ以上だったんだ。
祖母と祖父の側にいられただけでも俺はありがたかったんだ、そう温かくも冷たくもない体温が告げているように感じた。
「ねえ、もう服着ていい? 風邪ひいちゃう」
「あ、ごめん」
振り向かずにそう伝えて、足をもじもじと動かす。
俺は慌ててそれとは反対の方を向き、「着替えてもいいぞ」とだけ伝える。
衣擦れの音、立ち上がったり、伸びをする声の後、肩を軽い力で叩かれた。
「蒼斗、寝ねるね」
「ん、そうか。じゃあ、布団敷くから待ってろよ」
「あれ、布団っていくつある?」
「一式だけど」
「…一緒のお布団で寝る?」
「バカかお前は」と笑って返したら貴彰も「冗談」と笑ってた。
結局俺がソファで寝ることになるんだろうし、でもテーブルに突っ伏すより幾分かマシだとか考えた。
最終更新:2012年01月18日 21:40