第7回 政策批判の過去と現在 野口旭の「ケイザイを斬る!」

『エコノミスト・ミシュラン』への反応とその意味


 前回に引き続き、まずは『エコノミスト・ミシュラン』(田中秀臣・野口旭・若田部昌澄編、太田出版)についてである。あらかじめ想定されていたことだが、本書に関してはこれまで、楽しく読んだという声と同時に、「一方の観点から他方をなで切りにする不公平な本」とか、「学者にあるまじき下品な物言い」といった否定的な反応も数多く寄せられた。出版社の編集部にも、いやがらせ的なメールが多数届いているようである。

 こうした反応は、本書の主要な目的の一つが、本書の執筆陣が依拠する「リフレ」という立場からの他派批判である以上、避けがたいことである。というのは、人が最も怒りを感じるのは、自らが固く信じ込んでいる考えを他人から否定された時だからである。ましてや本書は、すべての批判を名指しで行っているのである。

 十分に強調しておくべきであろうが、本書が批判の対象にしているのは、あくまでも各論者たちの「考え」であって、彼らの人格ではない。また、本書は少なくとも、ある論者の考えを理由もなくもの笑いの対象にはしていない。「日本はデフレではない」論にせよ、「デフレは今後百年続く」論にせよ、そのような考えがなぜ嘲笑されてしかるべきかについては、十分な説明が与えられているはずである。もしその説明に異議があるのなら、彼らは単にそれへの抗弁を行えばよい。それは、問題の正しい決着に大いに役立つであろう。「はじめに」に記しているように、本書はむしろ、そのような反論を強く期待しているのである。

 他方で、リフレ派の立場から見れば、本書もまた、多くの批判や嘲笑に対する異議申し立ての書である。『朝日新聞』に掲載された山形浩生氏による本書への卓越した書評の表現を借りれば、リフレ派はこれまで、マスメディア等において「曖昧(あいまい)で陰湿な罵倒(ばとう)」を受け続けてきた。本書は明確に、それへの抗弁を意図している。

 とはいえ、『エコノミスト・ミシュラン』はあくまでも政策論争のための本であって、やられたからやり返すというような論争それ自体を目的としたものではない。政策論争は、現実の政策に影響を与え、現実の改善に寄与することを最終的な目標とする点で、論理と証拠のみによって決着が付く学問的論争とは性質が異なる。つまり、政策論争の最終的な勝ち負けは、言論の場においてではなく、現実における政策実現、さらにはその政策が現実経済にもたらす結果の善し悪しによって明らかになるのである。

 たとえば、リフレ派はこれまで、「現在のデフレは貨幣的な現象ではなく構造的な現象であって、金融政策では克服できない」とか、「デフレは日本経済の高コスト構造を是正する望ましい現象であるから、それを促進すべきである」といった、多くのエコノミストによってマスメディア等で幅広く吹聴されてきた主張の誤りについて、十分すぎるほどの論理と証拠を提示してきた。それに対して、上記の主張を展開している側は、これらのリフレ派の批判を単に無視し、同じ話をオウムのように繰り返しているにすぎない。学問的な判断基準からすれば、どちらの主張がより確からしいかは明らかであろう。

 しかし、政策論争においては、そうした基準での決着は、必ずしも本質的ではない。というのは、仮に言論戦を完全に制したとしても、「構造デフレ」といったような考えに世間が納得し、それが現実の政策に多少とも影響を与え、多くの人々に無用な「痛み」を与え続けている限り、リフレ派は少しも勝ったことにはならないからである。そして、『エコノミスト・ミシュラン』が共感よりもむしろ反感を集めているとすれば、残念ながらそれは、真の「勝利」への道ははるかに遠いことを示唆しているのである。

経済学者たちの「敗北」の意味


 それでは、リフレ派はなぜ、多くの人々の反感を集めているという意味で、本来の勝利にとってはむしろ逆効果になりかねないような政策批判あるいは通説批判を続けるのだろうか。その心理を筆者が勝手に代弁すれば、それは最も端的には、無意味であることが明らかな考えが世間でまかり通っていることに、彼らが単純に我慢ができないからである。さらにいえば、仮に一時的には世間の反感を買ったとしても、長い時間の流れの中では結局はより正しい考え方が生き残っていく可能性が強いということについて、彼らが十分に楽観的だからである。その楽観の根拠は、経済学というものがこれまでどのようなかたちで社会に受け入れられ、現実に影響を与えてきたかについての、数多くの歴史的実例の中にある。

 それでは、経済学者たちの考えは、これまで社会にどのようにして受け入れられてきたのだろうか。その問題を最も鮮やかに解明した近年の業績は、『エコノミスト・ミシュラン』の編著者の一人である若田部昌澄氏による『経済学者たちの闘い—エコノミックスの考古学』(東洋経済新報社)であろう。この作品が読者にいかに強い印象を与えたかは、それが『週刊東洋経済』2003年ベスト経済書第一位、『週刊ダイヤモンド』2003年ベスト経済書第三位を獲得したことからもわかる。
 若田部氏はこの著書のエピローグにおいて、以下のように述べている。


経済学者たちが達成したものとは何か? ある意味では、経済学者の『勝利』は明らかだ。現在、人々が当然のように前提にしていることの多くは、経済学者が勝ち取ったものである。たとえば、市場経済の利益や自由貿易の利益がそれである(『経済学者たちの闘い』273ページ)。

 こうした総括にもかかわらず、若田部氏の著書が全体として示しているのは、その考えが後の社会に大いに影響を与えた経済学者たち自身の現実の「闘い」は、勝利よりもむしろ敗北によって彩られがちだったという事実である。それは、アダム・スミスにせよリカードウにせよ、あるいはケインズにせよ、彼らが自らの考えを社会に向けて明らかにすることそれ自体が、既存の世間知=人々が固く信じ込んでいる既得観念との闘いに他ならなかったからである。そしてそれは、彼らと社会との間での軋轢を必然的にもたらすものであったがゆえに、少なくとも現実の政策的成果の上では、ほぼ確実に敗北を運命付けられていた。彼らの考えが、知識層の中に広がり、一般社会に受け入れられ、現実社会に明確な痕跡を残すようになるまでには、場合によっては数世代にわたる時間の経過が必要だったのである。

既得観念との闘い


 若田部氏の『経済学者たちの闘い』が感動を呼ぶのは、こうした偉大な経済学者たちが、人々の既得観念との闘いにいかに苦闘せざるをえなかったかを、その生き生きとした描写の中につぶさに知ることができるからである。彼らは、その時代においてはもっぱら、人々に深く信じられ続けてきた支配的教義を口うるさく批判する嫌われ者であり、あるいは奇矯な主張を声高に論じる変わり者であった。

 その点で最も典型的だったのは、社会における既得観念の持つ圧倒的な影響力を以下の有名な言葉によって指摘したケインズである。


どのような知的影響とも無縁であると自ら信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通である。権力の座にあって天声を聞くと称する狂人たちも、数年前のある三文学者から彼らの気違いじみた考えを引き出しているのである(J. M. ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』東洋経済新報社、第24章「一般理論の導く社会哲学に関する結論的覚書」より)。

 もちろん、この「気違いじみた考え」というのはあくまでもケインズの立場からの見方であり、ケインズを疎ましく思っていた人々、たとえば旧平価での金本位制復帰を実行することでケインズからぼろ布のように批判され続けたウィンストン・チャーチルなどからみれば、ケインズの方こそ狂気じみた曲学阿世の徒に他ならなかったであろう。

 よく知られているように、ケインズは、その言論活動の集大成である『説得論集』(1931年)において、自らをギリシャ悲劇の聞かれざる予言者カッサンドラになぞらえた。要するに、ケインズの前半生は、少なくとも政策的主張の現実化という観点から見れば、まさに敗北につぐ敗北だったのである。それは裏返せば、ケインズほど現実の政策に強い関心を寄せ、それに積極的に関わり、既得観念に囚われた人々に対して倦まずたゆまず説得を試みようとしてきた経済学者は存在しなかったということを意味する。

 実は、『貨幣論』(1930年)や『一般理論』(1936年)といったもっぱら「学者向け」の本を書く以前のケインズは、単なる学者というよりは、ポリシー・インテレクチュアルズ(policy intellectuals)といったような存在であった。ちなみに、このポリシー・インテレクチュアルズとは、竹中平蔵氏がその著書『経世済民』(ダイヤモンド社、1999年)で用いている概念であり、「経済政策を高度に専門的な思考枠組みに基づいて論議および展開する専門人」といったような意味である。

 ケインズはまた、単に自らの政策論を展開するだけでなく、人々が政策の是非を判断するのに必要な情報を社会に提供することを本旨とする「経済ジャーナリスト」でもあった。その主要な舞台となったのは、イギリスのリベラリズムを代表する新聞『マンチェスター・ガーディアン』である。つまりケインズは、学者として政策を論じ、実務家として政策形成に関わるだけでなく、それを一般社会に広く啓蒙し広報するジャーナリストとしての役割をも担っていたのである。

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 ケインズのそうした驚くべき一人三役ぶりが最も顕著に発揮されたのは、第一次大戦によって崩壊した国際金本位制の再建問題の討議をその一つの目的とし、各国首脳および専門家を一同に集めて行われたジェノヴァ会議(1922年)においてである。ケインズはまず、この会議のために、国際金本位制再建についての自らの構想を示した小論「ヨーロッパの為替の安定—ジェノヴァに向けての一計画」を準備し、それを後述の『マンチェスター・ガーディアン』商業補遺において公表した。ジェノヴァ会議そのものにおいては、専門家としての立場から、当時の一大金融経済学者ラルフ・ホートリーおよびイギリス蔵相ロバート・ホーンらとともに、各国に新平価での金本位制復帰を求める内容を含む専門家提言の策定に関わった。そして、『マンチェスター・ガーディアン』誌の編集主幹としての立場から、その問題に関連する記事および論考を掲載した全12巻にもおよぶ商業補遺『マンチェスター・ガーディアン・コマーシャル—ヨーロッパの再建』(1922年4月から1923年1月まで発刊)を編集した。

 ちなみに、この『マンチェスター・ガーディアン・コマーシャル—ヨーロッパの再建』には、のちの『貨幣改革論』(1923年)の基になるケインズ自身の諸論考だけではなく、アーサー・ピグー、アーヴィング・フィッシャー、ピエロ・スラッファ、グスターフ・カッセルらの論考が掲載されている。もちろん、それらの内容の専門性はきわめて高い。しかし、その媒体は、体裁としては今日の読み捨て新聞そのものである(筆者はイェール大学の図書館書庫の奥深くでほとんど朽ち果てそうになっているその現物を確認した)。メディアでの啓蒙とはいっても、当時はごく一握りの知識層を相手にしていればよかったということなのだろう。

 この時期から、第一次大戦後の再建国際金本位制が世界大恐慌の中で最終的に崩壊する1930年代初頭までの、ケインズにとっての最大の政策的テーマは、国際金本位制という、為替レートの安定のために国内経済の安定を犠牲にせざるをえない通貨システムの「足かせ」をいかに緩めるかであった。とりわけ、各国に必然的にデフレをもたらすことになる「旧平価での金本位制復帰」をいかに阻止するかであった。ケインズはそのために、上記「ヨーロッパの為替の安定」では、新平価での金本位制復帰を提言した。しかしこれは、多分に現実との妥協の産物であって、ケインズの本来の考えはそのはるかに先にあった。それを提示したのが、ジェノヴァ会議の翌年に発表された『貨幣改革論』である。これは、金本位制の崩壊は必然であり、通貨システムの将来的な選択肢は管理通貨制度以外にはあり得ないことを示すことで、現実がその後に進んでいく道程を明らかにした、まさに預言者的な書物であった。

 こうした超人的な奮闘にもかかわらず、ケインズは敗北した。その後の各国は、管理通貨制度どころか、いくつかの国を例外として、先を争うように戦前での旧平価による金本位制復帰を実行した。その一つが、蔵相ウィンストン・チャーチルの主導によって1925年に旧平価金本位制復帰を果たした、ケインズの母国イギリスだったのである(この時期のケインズとチャーチルとのやりとりについては若田部氏の前掲書『経済学者たちの闘い』第11章に詳しいが、その描写は涙なくしては読めない本書の白眉である)。こうして各国は、自らを金本位制という拘束に委ねることで、世界大恐慌という破局への道を突き進んでいくのである。

 ケインズはなぜ負けたのだろうか。それは、ケインズが結局は、人々の既得観念=世間知を打ち破ることができなかったからである。その既得観念とは、バリー・アイケングリーン=ピーター・テミンによって金本位心性(Gold Standard Mentality)と呼ばれている、金本位制に対する人々の強い信仰心である(Eichengreen, Barry, and Peter Temin [2000] "The Gold Standard and the Great Depression," Contemporary European History, Vol.9, Issue 2.)。金本位制は、ケインズにとっては「未開社会の遺物」(『貨幣改革論』第4章)にすぎなかったが、当時の各国政治家や政策担当者たちにとってはそうではなかった。彼らは、その再建こそが戦後の混乱からの回復の道であると深く信じて疑うことがなかったのである。

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 現在、世界中の多くの国は、管理通貨制度のもとで、インフレ率の安定化を目標に金融政策を運営し、それを十分満足に達成している。その意味で、ケインズは結局は勝ったのである。しかし、その「勝利」には大きな例外がある。それが、長期デフレ不況に悩む現在の日本である。

 本連載第4回「清算主義=無作為主義の論理と現実」でも指摘したように、第一次世界大戦後の長期不況から昭和恐慌にいたる1920〜30年代の日本経済と、バブル崩壊後の1990年代から現在までの「日本の失われた十年」との間には、経済状況の上でも、そこでの政策論争の性質という点でも、驚くほどの類似点がある。20〜30年代当時の日本の経済論壇には、一方に元祖リフレ派ともいえる「新平価解禁四人組」(石橋湛山、高橋亀吉、小灯利得、山崎靖純)が存在し、他方には勝田貞次や堀江帰一やその他大勢の構造改革主義の先駆者たちがいた。その両派は、デフレや「財界整理」をめぐって、現在の日本でのそれに勝るとも劣らない熾烈な論争を繰り広げていた。

 ちなみに、小宮隆太郎教授の鮮やかな論考「ケインズと日本の経済政策—是清・湛山・亀吉の事績を通じて」(金森久雄・日本経済研究センター編『ケインズは本当に死んだのか』日本経済新聞社、1996年)が検証しているように、この日本の新平価解禁論は、『マンチェスター・ガーディアン・コマーシャル—ヨーロッパの再建』1922年4月20日号に掲載されたケインズの上記論考「ヨーロッパの為替の安定—ジェノヴァに向けての一計画」の内容が、当時は『東洋経済新報』の一記者であった高橋亀吉によって紹介されたことが一つの契機となって生まれたのである。その意味で、インフレ目標をめぐる現在の日本での論争におけるポール・クルーグマンのような役割を演じていたのが、この時期のケインズだったといえるだろう。

 結局、この時の日本の論争は、浜口雄幸と井上準之助のコンビが旧平価金解禁(すなわち戦前の平価での金本位制復帰)を遂行し、それが昭和恐慌という未曾有のデフレ危機を引き起こし、その破局が高橋是清による劇的な政策転換を導き出し、その高橋是清の政策が日本経済を破局の淵からからものの見事に救い出したことによって決着した。この高橋是清の政策とは、「国債の日銀引き受け」という手法による拡張的財政政策と拡張的金融政策の同時遂行、すなわち財政および金融政策のポリシーミックスであった。つまり、典型的なリフレ政策だったのである。その展開過程は、『エコノミスト・ミシュラン』の執筆メンバーである田中秀臣氏と安達誠司氏による近著『平成大停滞と昭和恐慌—プラクティカル経済学入門』(NHKブックス)において解明されているとおりである。

 今日、「国債の日銀引き受け」はしばしば、インフレ目標と同様、危険きわまりない禁断の政策であるかのように認識されている。しかし、そのような把握に留まっただけの思考停止は、固陋なる既得観念のなせる業であり、養老孟司氏の言うところの「バカの壁」に他ならない。実際には、高橋是清によるこの国債の日銀引き受け政策は、本質的に、現在のリフレ派の戦略の重要な一部を構成するシニョレッジ政策そのものであった。そして、事実そうしたものとして、昭和恐慌時のデフレ脱却において、きわめて大きな役割を果たしたのである。

 小宮隆太郎教授は、上記論考「ケインズと日本の経済政策—是清・湛山・亀吉の事績を通じて」において、この時の高橋是清の政策を、恐慌からの脱出という課題に対する「模範解答」であったと述べている。筆者も、その評価にはまったく賛成である。

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 上述のように、昭和恐慌時の政策論争は、結局のところ、論壇という言論の土俵においてではなく、旧平価金解禁による破局そしてリフレ政策の成功という「現実」によって決着を見た。それでは、今回の論争は果たしてどう決着がつくのであろうか。それもまた、何らかの意味での目に見える破局によってのみ決着が付くことになるのだろうか。

 この連載の読者にとっては意外かもしれないが、筆者自身は、昭和恐慌時のようなある意味ですっきりとした決着はおそらくないだろうと考えている。すなわち、政策転換は劇的にではなくなし崩し的に行われるであろうし、その結果として、経済的破局も何となく回避され、それと気付かないうちに終息していく可能性が高いのではないかと予想している。

 その理由は、これまでの政策および現実の展開が、まさしくそのようにだらだらとしたなし崩し的なものだったからである。それはある意味で、リフレ派の言論活動の意図せざる結果でもある。かつてのケインズや新平価解禁四人組がそうであったように、現代リフレ派も、論壇という場においてはきわめて少数派である。しかし、少数派だからといって、それが現実世界に何の影響も及ぼしていないとはいえないのである。

 前回の本連載第6回「リフレ派の栄光と苦闘」で分析したように、リフレ派は、学界周辺ではある程度の勢力を持っているものの、マスメディアでの露出度、一般社会への浸透度、各政治勢力への影響度等々という点では、構造改革派の足元にも及ばない。したがって、リフレ派が提唱するような政策が「積極的に」実現される可能性は、少なくとも現状ではほとんどない。しかしながらそのことは、リフレ派の政策批判が、より馬鹿げた政策的主張を退け、より馬鹿げた政策選択を抑制するという消極的な意味で影響力を持ってきた可能性を否定しないのである。

 たとえば、構造改革フィーバーに沸き上がっていた小泉政権誕生当時を思い起こしてみよう。当時、マスメディアの多くは、小泉政権のスローガン「構造改革なくして景気回復なし」を政権の広報誌のように連呼し続けていた。また、デフレこそが構造改革の現れであるとするような「良いデフレ」論がマスメディアを跳梁跋扈していた。そして、デフレの弊害を説き、積極的な金融政策の必要性を訴えるリフレ派は、あたかも抵抗勢力の一分派のような扱いを受けていた。

 しかし、その後のデフレ不況の深刻化の中で、マスメディアは次第に、デフレを克服すべき対象として取り扱い始めるようになる——未だに性懲りもなく良いデフレ論を吹聴し続ける『毎日新聞』のような例外も存在するが。そして、小泉政権それ自体も、「デフレ対策」を重要な政策課題として位置付けるようになる。小泉政権が、リフレ派が必要と考えるような政策を少しでも実行しているのかといえば、もちろんそれは違う。とはいえ、「構造改革なくして景気回復なし」の頃を思えば、デフレを克服すべき課題として認識したことそれ自体、この政権としては一つの大きな進歩であったともいえる。

 同じことは、日銀についてもいえる。本連載第3回「責任から逃走し続ける組織の病理」で指摘したように、速水優・前日銀総裁時代の日銀は、デフレは悪くないという良いデフレ論をふりまき、これ以上の金融緩和は悪性インフレにつながると煽り、デフレ下でのゼロ金利解除を最後まで正しかったと強弁するような存在であった。しかし、現在の日銀は、少なくとも、デフレを良きものと論じることはないし、インフレの恐怖をむやみに煽ることもないし、ゼロ金利解除の必要性を説くのに躍起になることもない。もちろん、日銀が現在、やれるだけのことを十分にやっているのかといえば、リフレ派の多くはそうは考えないであろう。量的緩和の拡大には相変わらず及び腰であるし、デフレ脱却がいつになるのかの見通しさえも示してはいないからである。とはいえ、現在の日銀を、ゼロ金利解除当時のあの頑迷な日銀とまったく同じと決めつけてしまうとすれば、それもまた現実の変化を十分に見ていないように思われる。いかに微細であれ、その変化はやはり一つの進歩なのである。

 ここで、仮にリフレ派の政策批判がまったく存在しなかったと仮定して、何が起きたかを考えてみよう。その場合でも、政府や日銀は、こうした政策の変更を行っただろうか。マスメディアは、その論調を改めただろうか。彼らは、そのような批判がなくても、自らが自らを省みることで、その行動原理を改善したであろうか。少なくとも筆者は、その可能性は限りなく低かったであろうと考える。なぜなら、組織にせよ個人にせよ、外部からの批判がなければ、誤りを誤りと認識することさえしばしば困難だからである。

(了)
最終更新:2015年02月21日 12:36