何が節目だったのか
本連載が開始されたのは2002年11月であるから、ほぼ一年半が経過したことになる。この間、日本経済およびそれを取り巻く状況は大いに変わった。もちろん、最大の障害であるデフレは未だ克服されてはいない。しかし、もう一つの難問であった資産デフレには、明らかに下げ止まりの徴候が見られる。そのことによって、恒例であった金融機関の三月危機、九月危機も、もはや過去のものになりつつある。
一年半前といえば、いわゆる竹中・木村ショックと呼ばれる株価暴落が生じた直後であって、日本中にパニック的な空気が蔓延していた時期である。その発端は、2002年9月末に行われた小泉政権初の内閣改造において、柳沢伯夫・前金融相が解任され、竹中平蔵・経済財政担当相の金融相兼任が決定されたことである。竹中新金融相は、その後ただちに「金融分野緊急対応戦略プロジェクトチーム」を発足させ、そのメンバーとして不良債権処理の断行を持論とする木村剛氏を登用した。しかし、この人選は、政府による強引な企業選別と、それによる一層の破綻企業増加やデフレ進行への懸念をもたらした。そして、株価は急落し、日経平均はバブル経済崩壊後初めての9000円割れとなった。その後も、いわゆる「税効果会計」のルール変更をめぐる竹中金融相周辺と銀行との対立などもあり、日本経済の先行きに対する不安感は強まった。そうした中で、日経平均株価は下落し続け、2003年3月にはついに、ほぼ20年前の水準である7000円台に突入した。
結局のところ、銀行の即時一斉国有化を目的としていたとされる、この不良債権処理プロジェクトによる金融再生プログラム、いわゆる「竹中プラン」は、税効果会計の自己資本算入制限が先送りされたことなどもあって、実態としてはほぼ骨抜きにされた。つまり、世間を大いに騒がせただけであって、実質的な意味はほとんどなかったのである。
しかしながら、筆者は現在、この数年を振り返ってみたとき、その後の成り行きに大きな影響を与えた節目とは、あるいはこの一連の騒動であったかもしれないと考えて始めている。その「節目」の意味は、これを契機に銀行の不良債権処理が本格化したとか、構造改革への取組みが進展したなどということではもちろんない。そうではなく、そこで引き起こされたパニックが、結果としては、小泉政権の誕生を頂点として盛り上がった日本の構造改革主義あるいは清算主義的な政策潮流を決定的に後退させる契機になったという、きわめて逆説的な意味においてである。
事実、その後の政策展開の方向は、これを契機に明らかに変化した。中でも重要だったのは、「デフレ克服」が政府の最重要の政策課題として位置付けられるようになったことである。本連載前回の一節「政策的主題としての「構造改革」vs「デフレ対策」」で示したように、「デフレ対策」というキーワードのメディアでの露出度は、2002年10月に突然急増している。これが、竹中・木村ショックによる株価下落によってもたらされたパニック的状況を背景とするものであったことはいうまでもない。前回も述べたように、2002年10月に政府が公表した「総合デフレ対策」それ自体は、ほとんど意味のないものであった。にもかかわらず、このときに掲げられた「デフレ克服」というスローガンは、その後の成り行きにきわめて大きな影響を与えることになったのである。
竹中・木村ショックのもう一つの逆説的帰結は、それが結果としては、「ハードランディング」と称されるような清算主義的政策措置の実現を完全に封印してしまったことである。それを象徴的に示したのが、2003年5月に決定された、約2兆円の公的資金投入による、りそな銀行の救済である。これは、既存株主の株主責任を問わなかったという点で、清算とは対極的な政府による銀行救済であった。本連載第四回「清算主義=無作為主義の論理と現実」で指摘したように、清算主義はしばしば、それが引き起こしたパニックそのものによって、結局はその貫徹を阻まれ、個別銀行や企業の救済に奔走するプチ清算主義に堕していく。このときに起きたのも、まさしくそれであった。
確かに、この政府によるりそな銀行の救済措置は、「政府はやはり銀行株主を守る」という安心感を市場に与えることに成功した。というのは、その後は、銀行株やその関連企業などの株が大いにに買われ、株価は急速に上昇したからである。しかしこれは、明らかに政府の救済をあてにした株の買い戻しであり、その意味でモラルハザードそのものだったのである。
竹中・木村ショック後の二つの流れ
このように、竹中・木村ショックによって、日本における構造改革主義あるいは清算主義は、根本的な転換をみた。そしてその後の展開は、プチ清算主義的な救済政策と、「なし崩しのリフレ政策」の二つの流れのせめぎ合いという様相を呈することになる。前者の実例は、産業再生機構による企業救済である。そして後者の具体例は、財務省による巨額為替介入と、それに追随した日銀の金融緩和である。
筆者自身は、この二つの流れのうち、プチ清算主義には肯定的な要素をまったく見出すことはできない。プチ清算主義は、マクロ安定化の意義を完全に否定する点では、間違いなく清算主義の一種である。両者の相違は、企業の淘汰をそのまま放置するのか、それともそれを放置せずに政府による個別救済を許容するのかという一点にある。プチ清算主義がある意味では真性清算主義以上に問題なのは、それが状況の悪化を表面的に取り繕うことで、政府による企業の個別救済の結果として生じる社会的コスト、すなわちモラルハザードや市場の歪みを隠蔽してしまうからである。りそな銀行の救済は、確かに株価の上昇をもたらした。しかし、それが単に政府の救済をあてにしたものであるとすれば、それは国民負担による特定企業の株主優遇の結果にほかならない。そのような救済政策は、非効率であるだけでなく、不公正である。
評論家の宮崎哲弥氏は、猪瀬直樹氏の主催するメール・マガジン『日本国の研究 不安との訣別/再生のカルテ』(2004年04月28日発行 第291号 座談)において、「現在の株価回復の起爆剤になった」ことを根拠に政府のりそな処理を正当化し、「株主責任を厳しく問わなかったことを針小棒大に取り上げた」として植草一秀氏を批判している。しかし、りそなの処理が問題なのは、株主責任を問わなかったことで、まさにそうした株式市場への歪んだ資金流入が生じたからなのである。たとえその経営がいかに非効率であっても、政府が支えてくれることが明らかになった企業の株が買われないはずはないであろう。政府の個別企業救済は、競争市場の持つ効率化へのインセンティブを確実に阻害する。筆者は、報道されている植草一秀氏の手鏡を使った行為がいかに批判されるべきであろうとも、少なくともこの論点に関しては、植草氏の主張はまったく正しいと考える。
それに対して、清算主義からリフレ政策への転換は、それが場当たり的でなし崩しのものであったとしても、それなりに肯定的な意味を持っている。筆者はもちろん、なし崩しリフレ政策ではなく、デフレ脱却を明確な目標とした積極的リフレ政策への転換が必要であったし、現在でもそれが必要だと考えている。しかし他方で、この間に生じた大きな変化の意義を否定してしまうとすれば、それもまた一方的であろうと考えるのである。
この点に関して、筆者はここで、本連載において筆者が示した展望には、一つの大きな誤算があったことを率直に認めておきたい。ただし、その誤算は、筆者の悲観的展望がそのまま現実化はしなかったという点で、日本経済にとってはきわめて幸いなことであった。それは、昨年3月に福井俊彦・元日銀副総が新たに日銀総裁に就任して以降の、日銀の金融政策運営についてである。
筆者は、本連載第三回「責任から逃走し続ける組織の病理」において、デフレに対する責任をまったく認めようとせず、物価下落を無為に放置し続けた速水優・前日銀総裁時代の日銀の政策運営について、それが物価安定に責任を持つ唯一の主体である中央銀行の行動としては途方もなく無責任なものであることを指摘した。さらに、政府が速水優氏の後任として、これまでの日銀審議委員の中で唯一正しい見通しを示し続けてきた中原伸之氏ではなく、過去の日銀の政策運営に最も責任を負う一人であった福井俊彦氏を選んだことを批判した。
筆者は現在でも、政府のこの人選は誤りであったと考えている。というのは、もしこのとき中原伸之氏が新日銀総裁に任命されていれば、劇的なレジーム転換が実現され、日本経済のデフレ脱却への見通しは、より確実なものになったであろうと思われるからである。従来の日銀の政策運営の最大の問題点とは、日銀が本当にデフレ脱却を望んでいるのかについて、誰も確証が持てないというところにあった。良いデフレ論やゼロ金利弊害論をあれだけ吹聴して倦むことがなかった日銀が、デフレ脱却を突然いってみても、誰も信用できるはずはなかったのである。しかし、もし日銀総裁が中原伸之氏であったとすれば、話はまったく異なる。その場合には逆に、日銀のデフレ脱却へのコミットメントに疑念が生じることなどは、ほぼあり得ないであろう。その意味で、政府はこの人選によって、デフレ脱却への千載一遇のチャンスを逃してしまったのである。
しかしながら、幸いなことに、福井就任後の金融政策の方向性は、筆者の悲観的な予想をかなりの程度まで覆すものであった。要するに、筆者の予想は外れたのである。筆者はこれまで、こうした予想の誤りは、自分自身の認識に何が欠けていたために生じたのかを考え続けてきた。そして、ごく最近になって、ようやく一つの結論に達した。筆者に欠けていたのは、政策を担う組織内部の諸利害についての、より洗練された考察だったのである。
速水路線の否定か継承か
毎日新聞政治部の古賀攻氏によるレポート「日銀新総裁をめぐるドキュメント100日」(『大論争!ニッポン経済再生』洋泉社)によれば、日銀新総裁人事問題が政府内部で検討されるようになったのは、竹中・木村ショック直後のことである。それ以降、メディアでは、新総裁候補の名前が浮かんでは消えていった。そうした中で、小泉首相は、2002年12月21日に行われた海外メディアによるインタビューにおいて、新日銀総裁の選考基準について、「デフレを克服するために積極的な意向を持っている人が望ましい」という発言を行った。政府周辺はそれ以降も、「政府と日銀が一体となったデフレ克服の必要性」を訴え続けた。これはまさに、竹中・木村ショックというパニックによってはからずも浮かび上がってきた「デフレ克服」という課題に対応するものであった。そして、その流れの中で最有力候補として位置付けられることになったのが、インフレ目標論者として知られた中原伸之氏だったのである。
しかし、財界および自民党「抵抗勢力」は、それに対抗して、それ以前から有力候補の一人と目されていた福井俊彦氏を強力に後押しした。上の古賀レポートが明らかにしているように、「抵抗勢力」が中原氏に反対して福井氏を推したのは、金融政策が積極化すれば、彼らが求める財政出動が封じ込まれてしまうと考えたからである。こうして、新総裁選定レースは、中原氏と福井氏の一騎打ちという構図に収斂していった。
筆者自身もまさにそうだったのであるが、人々はこの時、この両者の対立を、中原=積極的金融政策=速水路線の否定、福井=消極的金融政策=速水路線の継承という単純な図式で捉えていた。だからこそ、筆者のような日銀批判派は中原日銀の誕生を期待し、逆に速水日銀の強力なシンパであった一部メディアやエコノミストたちは、福井氏の日銀総裁就任に向けての気運を高めようとやっきになっていたのである。
福井氏が当時こうした見方をされていたのは、まったく無理からぬところであった。本連載第二回「「構造」という思考の罠」でも引用したのだが、総裁に就任する以前の富士通総研理事長であった時代に、福井氏は、「いまのデフレは、単なる貨幣的な現象を超えた根深いものだ。国際競争の激化により、物価は世界的に下がっており、円高が加わる日本では高コスト構造の是正や産業の整理が避けられない。だから金融政策だけでデフレが解消できると考えるのは間違いだ」(「構造の限界、放置したツケ」『朝日新聞』朝刊、2002年11月8日)と発言している。まさしく、絵に描いたような構造的デフレ論者だったのである。それはある意味で、速水前総裁よりもさらに徹底した金融政策無効論といえるものであった。こうした発言を目の当たりにする限り、福井氏は速水氏と同様な消極的金融政策に終始するだろうという以外の予想は、まったく不可能だったのである。
覆された福井日銀への予断
福井就任から一年以上が経過した現在、メディアその他においては、福井日銀の政策運営を速水時代と同列のものとして論じる見方はほとんど存在しない。最も極端なのは、海外メディアである。古くから日銀シンパが少なくない国内メディアとは異なり、海外メディアの多くは、速水時代の日銀に対してはきわめて批判的であった。したがって当然ながら、その路線を継承すると考えられていた福井氏の新総裁就任にも、冷淡な目を向けていた。
例えば、英エコノミスト誌は、2001年8月4日の記事「Japan's great hope」において、デフレに対して無策を決め込む速水日銀総裁を小泉首相は解任すべきだと論じていた。また、2003年2月27日の記事「Muddleheart Koizumi」では、小泉政権の福井氏任命について、「小泉は真に日本を変えたいとの考えを示すチャンスを逃した」と厳しく論評していた。
しかし、その同じ英エコノミスト誌が、2004年2月12日の記事「The Bank of Japan Toshihiko Goldilocks」では、福井日銀総裁を「世界で最も優れた中央銀行総裁」とまで持ち上げたのである。その記事によれば、前任の速水優氏は、金利がゼロである以上は日銀にできることは何もないと公言してはばからない、おそらく世界で最悪の中央銀行総裁(possibly the world's worst central banker)であった。それに対して、福井氏は量的緩和政策を積極的に推進し、それをインフレが実際に実現されるまで続けることに明確にコミットしている。その点で、福井氏は就任からわずか約11カ月で「日銀の金融政策を正しい方向に修正した」のであり、その手腕はグリーンスパン米連邦準備理事会議長やトリシェ欧州中央銀行総裁をも凌ぐというのが、英エコノミスト誌の評価であった。
それとは対照的に、日本国内では、かつては強固な日銀シンパであったエコノミストやジャーナリストの多くが、現在は福井日銀への批判派に転じている。最も典型的なのは、速水時代の日銀が喧伝していたゼロ金利弊害論、金融政策無効論を、短期金融市場の視点から根拠付けたとされる書である『日銀は死んだのか?』(日本経済新聞社)によって、日銀擁護派=反リフレ派の旗手として目されてきた、加藤出・東短リサーチ・チーフエコノミストである。この3月には、多くのメディアが、福井日銀の一年を総括した記事を出したが、その一つに、12人の専門家が福井日銀を点数で評価した「市場参加者および有識者12人による採点」(『日経金融新聞』2004年3月17日)がある。その中で際だって厳しい点数を付けたのは、古くから日銀の政策運営を批判し続けてきた岩田規久男・学習院大学教授のほかには、「積極的な緩和が海外投資家の日本株買いを促した面もあるが、誤解や幻想を利用したにすぎない」という辛辣なコメントを福井日銀に浴びせかける、この加藤出氏だったのである。
もう一人の顕著な例は、中原対福井という日銀総裁レースの最中に、福井総裁誕生を後押しすることが目的であったようなインタビュー集『論争・デフレを超える』(中公新書ラクレ)を出版した、ブルームバーグ記者の日高正裕氏である。日高氏はその後も、ブルームバーグにおいて日銀関連のニュースを定期的に発信しているが、興味深いのは、そこに示される日高の日銀への言及のニュアンスの、微妙な変化である。かつては日銀擁護派の最右翼であった日高氏が、2004年2月3日に配信されたニュースでは、追加緩和を繰り返す福井日銀に業を煮やしたのか、「日銀への市場の信認が「静かな崩壊の危機」に直面している」とまで言い切っているのである。
日銀の何が変わったのか
筆者がこうしたことに言及するのは、これらメディアおよびエコノミストの見通しのなさや「変節」を揶揄したいがためではまったくない。なによりも筆者自身、この点に関してはまったく同罪なのである。筆者の知る限り、福井日銀は速水日銀と違うだろうという見通しを事前に示していたのは、かつては日銀批判派の急先鋒であった森永卓郎氏による論考「V字回復を呼ぶ福井新総裁」(『Voice』2003年5月号)くらいのものである。筆者もそうであるが、それ以外のほとんどの論者は、日銀批判派にせよ擁護派にせよ、福井日銀がここまで路線転換をするとは考えもしていなかったのである。
筆者はもちろん、福井日銀の現行の政策を全面的に肯定しているわけではない。むしろ、不満を言い出せば切りがないほどである。にもかかわらず、筆者は、福井日銀は速水日銀とは本質的に異なると考えている。というのは、総裁講演などに垣間見えるさまざまなメッセージから判断する限り、現在の日銀がデフレ脱却を本気で望んでいることと、実際にデフレから脱却するまでは量的緩和を解除しないことについては、ほぼ百%信じてよいと思われるからである。良いデフレ論やゼロ金利弊害論を振りかざしてきた速水日銀に何よりも欠けていたのは、日銀に対するこの点についての「信認」だったのである。
さらにいえば、福井日銀は、状況に応じて金融緩和措置を実際に実行する意思を持っていることを示した点においても、速水日銀とは異なる。それは具体的には、昨年から今年にかけて実行された財務省による巨額市場介入に同調する形で、昨年10月と今年1月の二回にわたって行われた、日銀当座預金残高目標の引き上げである。
為替介入に同調した金融緩和措置は、専門的には「介入の非不胎化」と呼ばれている。ジャーナリストである軽部謙介氏の著書『ドキュメント ゼロ金利—日銀vs政府 なぜ対立するのか—』(岩波書店)が描き出しているように、速水時代の日銀は、速水前総裁自身が円高論者であったこともあり、この非不胎化を拒み続けてきた。そしてそれは、速水時代に日銀と政府あるいは財務省が対立を繰り返す原因の一つとなってきた。
本来、急激な円高は、デフレ脱却にとっての大きな障害となる。にもかかわらず、速水時代の日銀は、「強い円」に対する総裁の個人的な思い込みもあって、為替についてはきわめて頑なであった。当時の日銀は、円高に配慮して金融緩和を行うことを、政府・財務省への屈服であり、日銀の独立性の放棄であるかのごとく捉えていたのである。
もちろん、中央銀行の独立性は、とりわけインフレ抑制のためには、きわめて重要である。しかし、独立性への過剰なこだわりは、デフレ脱却にとってはむしろ足かせとなる。速水日銀はまさに、それによって自縄自縛の状態に陥ったのである。それに対して、福井日銀は、デフレ脱却にはある程度まで政府との協力が必要だということを、速水時代よりははるかによく理解しているように思われる。
君子豹変の理論
ところで、筆者がこれまで考えあぐねていたのは、あの構造デフレ論者であり金融政策無効論者であった福井氏が、ここまで変貌したのはなぜなのかということであった。筆者がたどりついた結論は単純である。それは、速水路線を継承することは、福井氏にとって少しも利益になるものではなかったということである。確かに、日銀の内部でも、速水氏およびその路線に深くコミットしてきた人々にとっては、自らが敷いた路線を踏み外さないように行動することが、自らの利益にもかなっていた。しかし、福井氏については、まったくそうではなかったのである。
このことを一般的に説明しよう。例えば、AとBという二つの政策方針があったとしよう。そして、執行部は方針Aを採用したが、その結果は望ましくなかったとしよう。仮に方針Aの失敗が明らかになったとしても、この執行部にとっては、方針Bに変更するのが有利であるわけではない。というのは、もし方針Bに変更して成功した場合には、むしろ最初に方針Aを採用した誤りの責任を問われる可能性が生じてくるからである。その場合、執行部としては、方針Aにあくまで固執し続けると同時に、それが唯一の選択肢であるとか、方針Bは非現実的であるというプロパガンダを行うことの方が合理的である。これは、会社を潰してしまうような身勝手な経営者たちにきわめてありがちな行動原理である。
しかし、ここで執行部の人事が一新されたとしよう。この新執行部にとっては、明らかに方針Bを採用する強いインセンティブがある。逆に、既に失敗が明らかになっている方針Aを採用し続ける理由はほとんどない。というのは、方針Aを採用した責任は自分たちにはまったくないからである。
微妙なのは、執行部の一部のみが変更されるケースである。この場合には、執行部内の新メンバーと旧メンバーの利害は対立する。すなわち、新メンバーは方針Aから方針Bに変更することを望むであろうが、旧メンバーは方針Aに固執して方針Bの採用に反対するであろう。その場合、どちらの方針が採用されるかは、両者の力関係に依存することになろう。
今回の日銀の体制変更は、まさしくこのケースに相当する。というのは、日銀の最高意志決定機関である政策委員会メンバー九人のうち、審議委員であった六人は速水時代からの居残りであったからである。とはいえ、新メンバーの三人が正副総裁だったのだから、新メンバーと旧メンバーとの力関係は、当初から前者に圧倒的に有利であった。もちろん、新メンバーの権限が制度上いかに強力であっても、組織内部の抵抗によって方針変更が難しいということもありうる。しかし、もともと日銀内部に強い基盤を持っていた福井氏にとって、速水路線に深くコミットしすぎていた一部の審議委員や幹部を別にすれば、組織内部の統率はきわめて容易であったはずである。結局、福井氏にとっては、速水路線に忠誠を誓う必要性などは、もとより存在しなかったのである。
以上のような仮説を裏付けるように思われる証拠を、一つ提示しておこう。現在の福井執行部の方針案に反対しがちな政策委員会メンバーは誰なのかを調べてみると、興味深い事実が浮かび上がってくる。既述のように、日銀は、昨年10月と今年1月の二回、財務省の為替介入に同調して日銀当座預金残高目標の引き上げを行った。その議案に対して、最初は植田和男、田谷禎三、須田美矢子の三人の審議委員が、そして二回目には田谷、須田の二人の委員が反対を表明している。実は、この三人の審議委員は、現在の政策委員会メンバーの中でも、最も古株な三人なのである。彼らは当然ながら、速水時代の政策決定に対して、相対的に最も大きな責任を負っている。彼らが旧路線からの逸脱に最も強く抵抗しがちなのは、その利害を考慮すれば当然だったのである。
皮肉なる現実の展開
こうしてこの一年半の動きを振り返ると、筆者はつくづく、現実展開の皮肉さを感じざるを得ない。というのは、あらゆる事柄が、その当初の意図や思惑とはまったく逆の結果をもたらしているからである。
竹中平蔵氏が金融相に就任し、木村剛氏が金融分野緊急対応戦略プロジェクトチームに加わったとき、その背後に存在した意図は、明らかに清算主義であった。しかし皮肉にも、それによってもたらされた竹中・木村ショックは、清算主義を完全に封印するように作用した。それはさらに、「デフレ克服」という大きなうねりをも作り出した。その結果、おりしもその時期が近づいていた新日銀総裁の選定問題は、かつてない国民的関心を呼ぶ一大事となった。しかしながら、実際に日銀総裁に就任したのは、その「デフレ克服」を担うはずであった中原伸之氏ではなく、旧来の日銀の路線を継承すると考えられていた福井俊彦氏であった。しかし、その福井氏によって行われたのは、速水路線の継承ではなく、その否定だったのである。
正直のところ、ここに至る流れは、きわめて理解し難い。しかし、一つだけ単純な真理がある。それは、政策がもたらす利害得失についての正しい認識こそが重要だということである。肯定的にいえば、清算主義が否定され、デフレ克服の重要性が認識されるようになったのは、無意味な清算は利益ではなく、デフレ克服こそが利益だということに、多くの人々が気付き始めたからであろう。福井俊彦氏が君子豹変したのは、それが日本にとっても日銀にとっても、そして氏自身にとっても利益になるということを、氏が十分に認識していたからであろう。そうだとすれば、正しい政策への障害は、それに抵抗する特定の人々の利害にあるというよりも、利害についての不正確な認識にあるといえるかもしれない。
(了)
最終更新:2015年02月21日 12:51