美学(Aesthetics)

 「美学」は、音楽を含む芸術の哲学的省察を説明するための一般的用語である。したがって音楽美学は、主題に関する根本的な設問、例えば、本質とは何か、音楽は何を意味するのか、といった問いを提起する。美学は個人的態度や信念とも言えよう。また、ある特定の信念が特定の美的反応と解釈(例えば、マルクス主義Marxismの項参照)を導くことがあるために、美学はイデオロギーと関連しており、音楽に関する問いの本質を語るであろう。
 音楽の哲学的省察は、プラトン、アリストテレスに端を発するが(Barker 1989)、概して「美学」という用語の起源はバウムガルテン(Baumgarten)に由来がある。彼は、1735年の『詩に関する幾つかの哲学的省察(Meditationes philosophicae de nonnullis ad poema pertinentibus)』 (バウムガルテン le Huray and Day1981, 214頁;1954)で「美学」という語を創出した。彼は知性と感性の機能を区別し、おのおのを上位・下位の能力として考察した。 

「思惟されたもの」は上位能力として知られ、知性のもとに存在している。「知覚されたもの」は感性のうちに存在し、下位能力に属するものである。これこそ「感性学/美学aesthetic」と命名することができよう(le Huray and Day1981, 214頁)。

つまり、美学とは、我々がどのように絵画を見て、文学を読み、音楽を聴くか、といった知覚に関連している。我々は、これらの諸行為において、見たもの、読んだもの、聞いたものを解釈することを余儀なくされるが、それゆえ美学は、「解釈」との関連性の上で理解されることができる(解釈学hermeneuticsの項参照)。また、思惟されたものと知覚されたものの区別は、当時、頻繁に取り上げられていた合理主義と経験主義の対立とも連動している(啓蒙Enlightenmentの項参照)。
 美学に関する代表的な一著作は、ドイツ人哲学者の主要な一人とも言うべきエマヌエル・カントによる『判断力批判』(Kritik der Urteilskraft, 1790;カント1987)であろう。当然のことながら、彼の思想が卓越と見なされてきたことには、納得が行く。カントは、経験主義と合理主義との対立を思想の中心に据え、両者を統合した。これこそが彼独自の貢献であった。著作中において、彼は、例えば「美」のような美的質がどのように知覚され、合理化されるのかに関心を注いだ。音楽学者Wayne Bowmanは『Philosophical Perspectives』(Bowman 1998)で、カントの思想について次のように的確な概要を与えている:

カントは、美の質、量、関係、様態といった4つの観点、つまり4つの「契機」から美的判断の特性とその根拠を探究した。美的判断の質は、「無関心」であると言う。美的判断の量は「概念を用いずして普遍的」であり、関係は目的なき「合目的」である。そしてそれらの様態は「範例的」である(Bowman 1998, 77頁)。

質に「無関心」である判断とは何を意味するのだろうか。カントを理解するためには、ある種の超然とした感覚、すなわち私たちが予め想定された結果を立証しようとか、確立しようとする誘惑を回避する美的純粋性が要求される。かりに美しいと予め期待した上で一枚の絵画を見るならば、その期待が実現することは大いにあり得るわけで、これはカントにおける美的判断ではない。むしろ、我々が無関心であればあるほど、芸術作品が美しいか否かを真に知覚することが出来るわけだが、それが判断として成立するためには、単なる個人的な嗜好以上の何かに基底されていなければならない。暗に超然を意味するこの「無関心性」は、美的純粋性にとどまらず、現実世界と芸術作品の実体への不関与に至ることもあろう。また、往々にして我々の知覚に影響を与えるコンテクストや状況、信念を顧みないことになるかもしれない。
 このような普遍性の概念に関するカントの考察は、各個人の知覚から、多くの人との共通理解へと導くステップを与える。いうなれば、「美しい」と知覚される芸術作品は、あらゆる人に例外なく、等質的に経験されなければならない。普遍性の獲得によって判断行為が純粋な主観の側から取り払われる点で、カントの思想はバルムガルテンの「下位能力」と異なっている。Bowmanによってまとめられた4つの観点のうちの第3番目で既に述べられたように、カントは芸術作品の「目的性」の問題を提起したわけだが、これこそが形式主義へと繋がる視座でもあった。カントの美的判断とは、作品それ自体、様式、構造とならんで、彼が「最終的な形相(formal finality)」と定義したものに基づいている。換言すれば、いかにして作品の完全な実体、つまり統一物として認識されるかには、判断過程が反映されている。最後に、Bowmanは範例としての様相について述べる。美的判断が、模範として想定された状況を定義付けると、それは他の諸状況の範例、つまり、価値の条件を確立しようとする見識となる(規範canonの項参照)。カント思想のこの概要は、美学史上を通じて繰り返されてきた一連の問題を鳥瞰していよう。
 またカントは、音楽を始めとした諸芸術の形式の比較に関心を持ち、それらの相互の美的価値も考察した:

魅力と刺激に関する限り、人に訴えかけるあらゆる諸芸術のどれよりも詩に近く、きわめて自然に詩と結ばれる芸術として、私は、音楽を挙げるだろう。音楽は、概念を持たない単なる知覚を手段としてコミュニケーションを図る。それゆえ、詩と同様に、我々に何か影響を残すものではない。音楽の影響はたとえ一過性であっても、詩よりもあらゆる意味で強烈に、感動を与える(le Huray and Day 1981, 221頁)。

カントは、詩に較べて、とりわけ音楽は我々により強い感動を与えることができると考えていた。音楽はその特質上、「一過性」のものではあるが、それゆえ時間を超えて、認識可能な概念を明晰に表現することはなく、(「単なる感覚mere sensation」を)ただ示唆するだけだ。このため、正確な意味を明示できないことが音楽の弱点と捉えることも可能であるが、翻って長所として、連想性と多義性と捉えることも出来よう。
 後に、きわめて影響力の強かったドイツ哲学者G.W.F.ヘーゲルも、音楽の本質をほかの諸芸術と論証的方法から比較し、思考した。カントとは対照的に、ヘーゲルにとって音楽の持つ「一過性」は、むしろ「カントが信じたような障害ではなく、自己実現の貴重な手段である」(Bowman1998, 104頁)。つまりヘーゲルは、カントとは異なる方法で美的判断の過程を省察したのだった。芸術作品は美の本質的かつ客観的な質を表現することもできるとヘーゲルは唱えた。なお一般に、ヘーゲルは、音楽と芸術に特別の重要性を与え、「人類で最も深い関心と精神の最も包括的真実を与え、人間の最も深遠な直観と観念は、まさに芸術作品の中で表現される」とした(前掲書, 97頁)。

 19世紀の間、音楽への哲学的影響と美化は一層強まった。ポスト・ヘーゲル派のドイツ哲学者、ニーチェとショーペンハウアーは、それこそ方向性は異なってはいたが、当時の音楽の中に顕著に現れている高度な主観性と意味の深まりを看取した。例えば、ショーペンハウアーは1819年、『意志と表象としての世界(Die Welt als Wille und Vorstellung)』(ショーペンハウアー, 1995)において、音楽こそが彼自身の哲学的概念「意志Will」を表象する最も近接した形態であり、きわめて重要な芸術であると見なした。

音楽は、他のあらゆる芸術とは異なる別格のものである。音楽は、世界に存在している何らかのイデアの模倣や再現とは認められない。それでも音楽は偉大できわめて見事な芸術であり、人間の奥深いところに力強く働きかける。そして音楽は、普遍言語として、実に現象界自体の明瞭さをも超越するかのように、全面的にまた奥深く解釈されるのである。(le Huray and Day 1981, 324頁)

音楽の特質とその重要性についての議論は、20世紀にはいっても続き、モダニズムの衝撃を受け、さらに強まった。批評理論の出現も、音楽の美学的理解と密接なかかわりがあった。
 近年の新音楽学も、音楽の形式主義理解の批評を通じて、美学と定義することが可能な問題とその展望をさらに拡張させた。例えば、ローレンス・クレイマー(Lawrence Kramer)は、近年の著作において、音楽とは何か、といった音楽の意味に関する美学的問題を再度取り上げた。『Musical Meaning' Toward a Critical History』(Kramer 2002)において、彼はこの議論を繰り返しつつも、さらに現代的局面を付加している。なお、この本で言及されている音楽の範囲も重要であろう。当然、起点としての19世紀ロマン派はもちろん、マルクス・ブラザーズ(Marx Brothers)、ジョン・コルトレーン(John Coltrane)、およびショスタコーヴィッチ(Shostakovich)もならんでそのレパートリーに含まれている。こうした音楽レパートリーの多様性は、同時代の音楽美学への挑戦でもある。広範囲にわたる音楽コンテクストに共通する基盤を探求する解釈のための戦略を構築することはできるのか。あるいは、異なる音楽には、異なる美的応答が要請される問いが付されるのだろうか。

参照すべき項目:自律性、天才、言語、ポストモダニズム、崇高


  • 「最終的な形相(formal finality)」の、termとしての適切な訳語が分からないままでした。また本文の最後の文(Or do different types..)の訳を再考したいと思っています。 -- ono (2007-11-26 14:49:24)
  • 細かい点いくつか:19世紀についての段落「美化」→「美学化」;ショーペンハウアーについての引用中のideaは「イデア」とすべきなのか?;「ショスタコーヴィチ」・「マルクス兄弟」の方が多分一般的; -- Nemoto (2007-11-28 02:21:55)
  • イデアについては、最初は「着想」と訳したのだけれども、日本語訳本(中公クラシックス)を参照したところ、イデアとなっており<Idea>としました。ちなみに、ショーペンハウアーのこの文の前後では、何もイデアについて触れられていないため、突如イデアの話が出てくるは違和感があると言えばあります。 -- ono (2007-11-28 08:50:34)
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最終更新:2007年11月28日 08:50
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