影響力ある文化理論家であるレイモンド・ウィリアムズ(Raymond Williams)によれば、文化とは「英語における最も複雑な2、3の語の一つである(Williams 1988, 87頁)」が、彼がこの言明を行っている『Keywords』と題された本自体も、重要な文化的テクストである。彼の示唆する複雑さは、この語が用いられる多様な文脈と、この語に与えられる様々な意味付けによるものである。一般的に文化は、創作、教育そして芸術的な活動全般を包括する語として用いられるが、テリー・イーグルトン(Terry Eagleton)はこの語の身体性と、自然との結びつきを強調する:「今日、自然を文化の派生物と見なす事が一種の流行になっているが、文化とは語源的に考えれば、自然からは制した概念である。」この語の古い使用法についての更なる考察が加えられた上で、彼は「我々は人間活動の粋を指し示す語を、労働と農業、収穫と耕作から導き出した(Eagleton 2000, 1頁)」と結論付ける。この「耕作」は進歩と成長という、自然についての記述であると同時に人間活動、特に教育と結び付いた語のイメージを伝える。文化についてのこの様な理解は、共に教育という過程と文脈に不可避的に関係する、音楽それ自体及び音楽学の双方に対し明らかに適用可能である。
文化はしばしば、文脈及びその文脈を規定する慣習の一群のどちらとも見なされているが、この事は文化が、集団活動として存在する事を指し示している。この様な見方はT. S. エリオットの『Notes Towards the Definition of Culture』と題された本の中で示されており、ここでエリオットは文化の個人、集団または階層、そして社会全体という3つのレヴェルの相互関係を探究している(階層の項参照)。これらのレヴェルは互いに依存しており、結果「生の全体(the whole way of life)」としての文化の理解が生まれる(Eliot 1975, 297頁)とされるが、この視点は彼の宗教観から発しているが故に、幾らかの根本的な問題をも抱えてもいる。あらゆる個人が彼の/彼女の文化的繋がりによってアイデンティティを主張するのは自明な事だし、社会的且つ/または経済的に規定された集団も、その共有する関心事によってアイデンティティを形成し得るわけだが、果たしてどの様にしてそれら全てが「社会全体」である所の文化的総体の中に包括され得るのかは疑問が残る。更に注目すべきなのは、彼が文化の定義(definition of culture)に対し不定冠詞aではなく、定冠詞theを付ける事によって、複数ではなく単数形を意図している点である。我々の今日的なマルチ・カルチュラルな視点からすれば(エスニシティの項参照)、エリオットによる文化の定義は些か時代遅れに感じられなくもないが、彼の生きた時代の文脈の中でさえも、多様性と差異についての問題は存在したわけで(他者性の項参照)、それが彼の文化の解釈への抵抗を形成し得たろうとも考えられる。
レイモンド・ウィリアムズは文化への洞察力に富んだ議論と研究を産み出し続けているが(カルチュラル・スタディーズの項参照)、彼はまたエリオットの「生の全体」についても、極めて異なった結論を導き出している(Williams 1958)。彼は文化を流動的なプロセスと見ており、「『段階(stages)と『変種(variations)』だけではなく、あらゆる進行中の過程の内側の動的な関係について認識する(Williams 1977, 121頁)」必要が有ると論じている。この変化(「段階」及び「変種」)と内部の原動力との間の関係性から、彼は次の様に導く:
「既に我々は間違いなく、『支配的(dominant)』で『実効的(effective)』なもの、及びこの覇権の感覚について語らければばなるまい。しかし我々はまた、『再放送的(residual)』で『新興の(emergent)』ものについても語らねばならない事を見出した。なぜならそれらはその実際の過程、またその過程のあらゆる時点で、それ自体において、且つそこで『支配的』なるものの特徴が露になるという意味で重要だからである。(前掲書121-2頁)」
これらの術語(支配的、再放送的、新興の)は、ウィリアムズにとって重要であり、文化の過程としての動的な性質を意味深長にも反映している。「剰余的」という概念は過去の文化に関連付けられている:「『再放送的』という語において私は『古めかしい(archaic)』ものとはとても違う何かを意味している。……あらゆる文化は過去に準備された要素を内包するが、それが現在の文化的過程に占める位置は様々(variable)である。」即ち、あらゆる文化、文化的文脈は過去を相続するわけだが、それが現在において再構成される仕方は変化に開かれている(様々である)。この再放送的な文化は彼が「新興の」と呼ぶ文化活動と共存している:「『新興の』という語で私が第一に意味するのは、新たな意味と価値、新たな実践、新たな種々の関係性は絶えず創られつつあるという事である。(前掲書122-3頁)」
換言すれば、背景として認識し得る文化(「支配的な」もの)に対して、我々は過去の文化(「再放送的」)の反映を投影し、新たな(「新興の」)文化的構造をトレースする事が出来る。この理論的概説は、音楽がどの様に文化として機能するかを良く反映している。音楽は必ず何らかの過去の反映を伴って発展する芸術である(伝統の項参照)。しかし、ウィリアムズの言う文化における「支配的」なるものを今日の文脈に如何にして位置付けるかは大きな問題を孕む。音楽は様々な文化的文脈ーー特に国家、地域、人種的なーー中に存在し、多様な音楽が多様な文化を反映している。この文化的多様性は音楽学にも反映されており、多くの学者が異なる文化的文脈と音楽の類型に焦点を当て得る。そしてこの多様性の感覚は音楽人類学を通して拡大され、そこではそれぞれの音楽人類学者が異なる文化とその各々の音楽的レパートリーに特化している。この様な多様性への焦点は、ウィリアムズの「支配的」な文化の可能性に疑義を付し、エリオットの単一・統合的な視点を否定する(ポストモダニズムの項参照)。とは言え、音楽学が文化的営みであり、文化への参加の仕方の一つである反面、それはしばしば懐古的で、問題としている文化を時間的・位置的に形式化する故に、ウィリアムズの言う「新興の」ものより「再放送的」なるものの方をより頻繁に扱い、反映する。
参照すべき項目:カルチュラル・スタディーズ、ナショナリズム、場、ポップ・ミュージック
更に詳しく:Denning 2004; Kramer 1993b; Mulhern 2000; Tomlinson 1984
最終更新:2007年12月04日 06:04