文化産業とは、ドイツの批判理論家テオドール・アドルノ(批判理論の項参照)によって、文化の生産・普及そして受容を巡り形成される工業的・商業的な結び付きを、描写し且つ批判するために作られた概念であるが(Adorno 1991c)、この語は文化をその包含する自然と芸術と共に、工業化という、言ってみれば文化のアンチテーゼでもあり得る現実に反するものとして設定する事により、故意にパラドックスに陥っている。
文化産業についての彼の主要なテクストの一つは、彼がマックス・ホルクハイマーと共同執筆し、1944年に出版された『啓蒙の弁証法(Adorno and Horkheimer 1979)』の中の長い一章である。この「文化産業:Enlightenment as Mass Deception」と題された章で、彼らは大衆文化の生産を工業における規格化の過程を通じて特徴付け、映画の製作は自動車のそれと同一の性質を持つ事を示唆している(前掲書123頁)。アドルノとホルクハイマーにとって、この規格化はまた、当時のポップ・ミュージックの性質を定義するものでもあった:
「流行歌・スター・メロドラマなどが繰り返し立ち現れると共に、全くと言って代わり映えしないだけではなく、娯楽における特定の内容そのものが、それ自体に由来し、変化しているような見せかけを取るだけであって、実際の所、細部は相互に交換可能である。(前掲書125頁)」
大衆文化の生産と受容についてのこの様な見方はかなりペシミスティックでもあるが、幾許かの真実を含んでもいる。多くのポップ・ミュージックは、産業の側で特定の市場向けに意図され、年齢層・性別・社会的背景などによって規定されたある種の類型とジャンル分けに帰結する(階層の項参照)。しかしながら人間の文化への反応が、アドルノの見立て通り資本主義のイデオロギー的効果によって盲目にされているとする理解は問題を孕んでもいる(イデオロギーの項参照)。
留意すべきなのは、アドルノの大衆文化と文化産業についての記述は1940年代を中心としており、これらの問題についての彼の幾らか硬直的な見方は、大衆文化が1969年の彼の死までに経験した変化に照らして再考はされていない。アドルノの示すモデルの中の例外を、批判的な回答として用いるべく焦点を当てようと試みた学者もいる。例えば、マックス・パディソン(Max Paddison)はアドルノの規格化に抵抗するような「革新的(radical)ポップ・ミュージック」というジャンルを提示している。この種の音楽は、アドルノ流の観点からも共感し得る様な、批判的な方向性を採る革新的ポテンシャルを保持している。パディソンはフランク・ザッパの折衷的な実験や、ヘンリー・カウ(Henry Cow)やアート・ベアーズ(Art Bears)の様なイギリスのグループを挙げて、一般的にポップ・ミュージックと定義されるが、文化産業に対し批判的な関係を持つものとしても聴き得る音楽の例としている(Paddison 1996, 101頁)。しかし、我々はヘンリー・カウのCDの再販盤を、物神崇拝(commodity fetishism)や他のより明確に定義された商業的文脈における消費擁護論の一部を成すか、反映している様な経済的な構造(CD屋やインターネット)で購入しているわけで、結局これも文化産業の存在と影響を受けていると論じ得るだろう。だがこの様な音楽の例外的な性質は、アドルノの「偽の個人主義(pseudo-individualism, Adorno 1994)」という術語によって、差異を装っているだけで(他者性の項参照)大衆文化の詐欺的な性質をより反映しているとして黙殺されてきたかも知れない。
クラシック音楽のマーケティングも、文化産業の作用の反映がその受容に影響を及ぼすようになったが、この事は何人かの文化・批判理論家にとっては(Strinati 1995, 225-6頁参照)、現代のポストモダニズムの文脈の中で、芸術と大衆文化の間の境界がぼやけてきた証左と捉えられている。
参照すべき項目:カルチュラル・スタディーズ
更に詳しく:Gendron 1986; Mulhern 2000; Negus 1999; Paddison 1993
- 啓蒙の弁証法中の章題は邦訳を参照すべきと思い、訳さず残してあります。また、「物神崇拝」「偽の個人主義」も要参照ですね。 -- Nemoto (2007-12-10 21:43:50)
最終更新:2007年12月10日 21:43