解釈学の概念的本質は、解釈の理論(単数又は複数)を提示する事である。この語の起源が神学や法学の領域にあるのに対し、その哲学的な開始点は通常、ドイツの哲学者フリードリヒ・シュライエルマッハー(Friedrich Schleiermacher)の著作に求められる。19世紀初頭において彼は解釈学を「他者の言説を正しく理解する技術(Schleiermacher 1998, xx頁)」と定義している。ここで重要なのは、シュライエルマッハーが解釈学を「技術」と称する事で、規則によっては必ずしも束縛・定義され得ない主体性を許容している事である。明らかに、正しい理解を構築しようという欲求は解釈学の過程における不可避の目標であるが、何が正しい理解を構成するかという事自体が解釈の問題であり得る。この事がある種の循環性を示すのだとすれば、それは解釈学的循環と呼ばれるものを通して発現する:「全体を通して部分を、部分を通して全体を理解する試み(Bowie 1993, 157頁)」言い方を変えれば、テクストの様々な部分はその意味が明らかになる為に全体に依存しており、全体は明らかに各部分のもたらす帰結である。シュライエルマッハーにとって、正しい解釈への欲求と、部分と全体の間の関係を通した意味の認識は未だ著者の意図性に存しており、それは後年の哲学者や理論家によって疑義に付される事になる。
シュライエルマッハーの解釈学は、ハンス=ゲオルグ・ガダマー(Hans-Georg Gadamer)によって最も良く伝えられているが、彼は1960年初版の記念碑的な『Truth and Method(Gadamer 2003)』で、一つの活動としての解釈に基づいて解釈学的理論を構築しようと試みた。シュライエルマッハーが著者の意図へと焦点を当てたのに対し、ガダマーにとって意味とその解釈は、特定のテクストが置かれ得る文脈と伝統によってこそ、より正確に構築されるものであった(伝統の項参照)。しかしながら、解釈学的解釈の流動性はアンドリュー・ボーウィによる「ガダマーの『Truth and Method』内でのシュライエルマッハーの評価は抜本的な再検討を要する(Bowie 1993, 146頁)」との指摘に表れている。
もしシュライエルマッハーとガダマーが解釈学を解釈の技術と描き出したのであれば、我々が如何に解釈という行為(もしくは技術)を理論化するかは、音楽と音楽学にとって深い意味を持つ。音楽作品に対する我々の音楽学的反応は、音楽学や他のテクストの読解同様、解釈学的過程と経験を反映し得る。双方の文脈において理論は理解に必須の要素であるが、理論を正当化する為に求められているのはその場合の解釈の質である。ローレンス・クレイマー(Lawrence Kramer)が言う様に、「解釈学的理論化により解釈の実践が多くの利益を被っているにせよ、解釈学的理論の善し悪しは、それが裏書きする解釈(の質)次第である。(Kramer 1993b, 2頁)」19世紀の多くの音楽についての著作が解釈学的見方の影響を受けており(Bent 1994, 1996bを参照)、この時期の音楽とそれについての記述の双方が、クレイマーによる理論と実践の間の関係についての遡及的仮説を反映している。
彼の著作は解釈学のモデルと過程を取り巻く問いを再び取り上げている(新音楽学の項参照)。クレイマーは作品の潜在的な解釈の為の「解釈学的窓(hermeneutic window)」の構築を提案している:
「解釈学的窓は解釈の対象が明らかに問題を孕んだものに見える、もしくはそう見え得る所に現れる傾向がある。解釈はブレイキング・ポイント(breaking points)において飛躍するが、これは通常、限定が不完全または過剰な点の事を指す:即ち一方では断絶、不足、欠けている接続などで、もう一方はパターンの過剰、余分な反復、行き過ぎた接続などを指す(Kramer 1993b, 12頁)」
この観点からすると、音楽作品はその構造や自己同一性の裂け目を通じての解釈を許す事になり、解釈学的反応は脱構築という、テクストと言語の解釈を巡り形成される知的な文脈へと変化するよう促される。クレイマーの「解釈学的窓」は音楽学が解釈へと接近し、暗に「事実」から遠ざかるという、近年の傾向の一部を成している(実証主義の項参照)。ジェンダーやセクシュアリティの様な問題への昨今の関心は、解釈と新たなレヴェルにおける主体性の包含を通した解釈学的視点を反映している。
参照すべき項目:美学、オーセンティシティ、伝記
更に詳しく:Bent 1996a; Dahlhaus 1983a; Hoeckner 2002; Tomlinson 1993b; Whittall 1991
最終更新:2008年01月18日 06:17