橘さんと午後
橘さんと午後 ※※注意:「涼宮ハルヒの驚愕」のネタバレを含みます※※
雨がきらいでした。 なぜといって、あたしが嫌だなあって思う日には、たいていいつだって雨が降っていたから。 あの最初の会合の日に、すべてうまく行かなくなってしまう気がしたのも、きっとそんなジンクスを繰り返したせい。 ねえ佐々木さん、あなたは本当にあの力を欲しいと思わなかった? 世界をどうにでもできる力。神様になれる力。
すべてが終わって一ヶ月が経っていました。 いいえ、すべてが終わったというのは違うかもしれない。 でも、わたしは少なくとも、あの時にすべてが終わってしまったような気がしました。 ほんのわずかな間の希望は、ほんとうにわずかな間の希望でしかなかったから。それもきっと雨のせいだったんだと思う。今も降っている、雨の。「お待たせ」 佐々木さんと久しぶりに会いました。 しとしとと雨が降る中を、彼女は例の制服姿で、放課後にあの場所に集まることを承知して、来てくれたのです。ビニール傘をさして、静かに微笑む彼女は、まるで何もなかったみたいに見えました。 いくつかのつらいことが誰にでもあるように、あたしや佐々木さんにも、例外なくそれらは降りかかってきました。初めて会って、すべてを打ち明けた日に、あたしたちは日頃の不満をそれとなく話し合ったから。暮らしている環境は似て非なるものだったけれど、そこで抱く思いは大差のないものなんだと感じたのです。 だから、あの力を佐々木さんが宿してくれるのなら、それらはみな解決して、雨が止むような気がしていました。 でも、うまくいかなかった。 この集合場所は、晴れているのと雨が降っているのとでは、ずいぶん違う景色に見えます。「佐々木さんもそう思いませんか?」「そうね。だけど、それは心情的なもので、本当は天気なんて関係ないんだと思う。たまたまそれらが合致している時に、わたしたちはジンクスや縁だと思い込む。人間はまったく、恣意的な範囲でしかものを見ることができないから。誰だってそうでしょう」 その通りだ。だけどあたしの場合、占いや予感といった、普通は説明をつけられないものに、どういうわけか惹かれてしまう。それが現実を超越してくれることを、いつも願ってしまう。「それじゃ行きましょう」 佐々木さんが言った。そっけないビニール傘の下で、彼女の笑顔は紫陽花のように花開く。 涼宮ハルヒさんがひまわりなのだとすれば、彼女はそんなイメージ。「ええ」 あたしは頷いた。このひと月のあいだ、ずっと塞いでいた気持ちが、少しでも晴らせるようにと願いながら……。
例の喫茶店には、さいわいにも誰もいませんでした。 もしかしたら、とあたしは思ったのです。たとえば彼と涼宮さんが来ているのではないか、とか。たとえば古泉さんがいるのではないか、とか。 もしかしたら藤原さんがいるのではないか、とか……。 そう考えると、また気が塞いでしまいます。どうしてもあの日の彼の表情が忘れられないから。直前まで、あの人がどうしてこの時代に来ているのか、なんてことをあたしに教えてくれたりはしませんでした。最後の会合が開かれる当日になって、急にあの人は秘密を明かしたのです。
朝比奈みくるこそ自分の姉であり、彼女の死を食い止めるために自分はここに来ているのだ――と。
あまりにも唐突な説明で、あれからしばらくたっても、いいえ、本当は今でも、心の整理がつかずにいます。あたしにしてみれば、四年間待った時間が、突然動き出して、急にすべてが一瞬で終わってしまったみたい。期待して火をつけた花火が、ずっと前にしけって使えなくなっていたことを知ったのかもしれません。 「コーヒーでいい?」 佐々木さんが尋ねて、あたしは慌てました。一瞬、あの会合が開かれていて、その途中でぼんやりしてしまったような錯覚に陥ったから。藤原さんに怒られると思ったから。 「あ、う。えっと。カフェモカにしたいです……ホットで」 甘くてあたたかいものが飲みたかった。たぶん、それで元に戻るということにはならないけど……。 佐々木さんは飄々――と言うよりは、何か興味の対象を探して、涼しそうに視線を泳がせていました。あたしにしてみれば、どうしてそんな風に超然としていられるのか、不思議でしかたありません。 「佐々木さん。この前はごめんなさい」 あたしは謝りました。佐々木さんとはあれ以来、一度も会っていなかったのです。「どうして謝るの?」佐々木さんは言いました。「だって、あたしのせいであんなことに」大失敗もいいところだったからです。セリフを覚えて、何度も何度も練習をして、夢見た舞台にやっと立ったと思ったら、頭が真っ白になって演技ができず、即日降板させられてしまった役者みたいなもの。 あまりにもたくさんのことが、予定外だった。 あれだったら、誰の助けも求めずに、はじめからこうして佐々木さんと二人きりでお話したほうがよかったのかも。 そんなあたしの後悔をよそに、佐々木さんはこう言いました。「別に気にしなくてかまいません。だって、あれは起きなくてはいけないことだったから。形はどうあれね」「でも……」 せめてもう少しましな方法があったはずだと、ずっと思っています。 あの瞬間、あまりにも多くのものが失われてしまったとあたしは感じました。それはもう戻らないとも思った。待ち焦がれた時間が、ほんのわずかな間に、取り返せない永遠になってしまったと。 「ねえ橘さん。わたしたちは時間を飛び越えることもできないし、止めることもできない」 佐々木さんは言った。間もなく、注文したブレンドコーヒーとカフェモカが運ばれてきて、向き合って座るあたしたちの間は、湯気で曇りました。 最初の会合がずいぶん遠い昔のことに思えます。ついこの間、ここでこうして、五人で顔を合わせて座っていたのに。 あの時は、そこからすべてが広がっていくような気がしていたのです。 新しい世界が開けて、日常にあるものがみんな虹色に輝いて、すべての人が幸福になるような。 でも、そんなことはなかった。
「佐々木さん。あたし、すごく短い間だったけど、とても楽しかったんです。まるで夢の中にいたようでした。たぶん、その夢が、すべての悪いことを消してくれるような気がしてたのかも。そして、その夢をあなたが叶えてくれるとあたしは思い込んでました……」 あたしは頭を下げました。 勝手な思い込み。 それはたぶん、あたしが思っていたよりもずっと子どもだったということに尽きるのかもしれません。この現実を、そう甘くはない場所を、結局は正しく認識できていなかったのだということ。 「藤原くんのことだけど」 あたしの言葉には直接答えずに、佐々木さんは言った。彼女はそんな風にしてコミュニケートを取ることがよくあるのです。 それは彼女の人柄だとあたしは思います。たぶん、あの空間のようにどこまでも繊細で、危ういところがこの人にはあるから。佐々木さんはこんなことを話しました。 「彼は何も悪いことをしていない。橘さん、あなたの話が本当なら、彼は最後に涼宮さんを殺そうとすらした。それはおそらく、彼自身が思いもしなかった状況に陥ってしまったことから生まれた、突発的な反応。そういうことはこの世界にありふれている。あまりにも多くて、目眩がしそうになるくらい。人は悪事が起きた時、それを起こした存在を裁こうとする。だけど、その制裁すべてが正しいと、果たして本当に言える? わたしたちには真実がどこにあるかということが解らない。それぞれがそれぞれの認識の中に生きていて、かつ、その認識はたえず変化していく。同じ時代にいるようで、実はまったく別々の場所に生きているのかもしれない。わたしはいつも理性的でありたいと思っているけれど、反対にこうも思う。理性的であることそれ自体が、結局は感情の一要素でしかないんだとね。そして、感情というものは思いもよらない瞬間に爆発する危険をたえず負っている。それはどんな人でも同じ。わたしもあなたも。キョンも涼宮さんも。そして藤原くんもね。彼は何も、初めからあの彼になろうと思ってあそこにいたわけではない。そう思わない? 無限の試行を生む時間の中で、たまたまあそこに居合わせただけ。そう考えるなら、彼自身に罪はないのではないかな」 佐々木さんが言ったことを解釈するのには、ずいぶん長い時間が必要だった。正しく理解できたかどうか、最後まで自信がありませんでした。佐々木さんはこう続けました。 「わたしたちはそうした不確定な場所に存在している。それは宇宙と同じ、あまりに広大で無作為な、暗い闇。そこには自ら光を発する星があれば、そうでないものもある。引力で他者を引きつけるものがあれば、斥力のように反発するものもある。作用と反作用。光と闇。プラスとマイナス。何でもいいけど、永遠に幸福でいられる場所、つまり片方だけを選んでいられる場所なんて、この世界のどこにもない。それなのに、人間というものは往々にしてそうした場所を求めたがる。あなたもそうだし、わたしもきっと。彼だってそうだったのかもしれない。わたしたちは似ていたのかもね。九曜さんは例外としても、わたしやあなた、そして藤原くんは……」 そうなんでしょうか。 だとすれば、彼らはどうだったんだろう? 明るい場所にいる彼ら。舞台を与えられ、役割を見事に演じ、周囲から好かれる彼ら。 あの人たちもやっぱり似たもの同士だったのでしょうか。佐々木さんは片方だけを選んでいられる場所などないと言ったけれど、本当はそんな風に、日のあたる場所とあたらない場所にいる人に分かれてしまうだけなのではないでしょうか? 佐々木さんはコーヒーに何も入れず、そっと口をつけました。とても穏やかな表情をしていた。どうしてそんなに落ちついていられるのだろう。あたしはそう思いました。 「わたしはあなたと会えてよかったと思う」佐々木さんはそう言いました。「とてもね。まともな日常とは別のつながりを、わたしたちは有している。それは時が経つほど貴重なものになりえる。それに、これはただそんな気がするということだけど、藤原くんにもう永遠に会えないとは思えない。どうしてか説明はできないけど、そう感じる」 佐々木さんが直感を口にすることは、あたしの記憶する限りでは初めてのことでした。 “親友”と呼んでいた彼と一緒にいない時、佐々木さんはあまりにも違う表情を見せるのです。……あの人はそれを知っているのでしょうか?「わたしたちに適切な場所は与えられなかった。それを拒んだから。それはわたしの意志。橘さんには申し訳ないことをしたけど、あれは少なくとも、わたしに必要な舞台ではなかった。ただそれだけのこと」 「佐々木さんがそう言うのなら、それでよかったんだと思います」 心から。 だって、今でもあの空間は存在しているから。 あの優しい、穏やかな世界は。 だったら、今がこんな風にあるのなら、それだけでも十分だと思いたい。
あたしはカフェモカを口にした。 そこにはずいぶん久しぶりの温かさがあった気がした。まるで梅雨の合間に広がる晴れ間のように。
<了>
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