鶴屋さんに隷属 ~お姉さんには逆らえない~
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世の中には思い切りがいい奴ってのは確かに居る。 毎日一緒に遊んでいたはずなのに気がつけばバイクの免許を持ってたり、いつの間にか彼女が出来てたりとかな。 そんな奴に心当たりが無いかと聞かれれば、俺は迷う事無くハルヒの名前をあげるだろう。設計段階でブレーキの存在を失念していた車とでも言うべきか、あいつを見ている限り、前に進む事だけを考えているようにしか見えない。 そんなあいつのブレーキ役、それが俺なんだと勝手に思っていたわけだが……。 どうやら、あいつのエンジンにはニトロでも積んであったらしい。
「あれ、涼宮さん休みなの?」 ……そうらしいな。 国木田が見つめる俺の後ろの席は、HRが終わっても不在のままだった。 何となく覗いてみた携帯には着信の表示もメールもなく……まあいいか、俺はそのままポケットの中にそれをしまった。 その日、何故か学校に来なかったハルヒの事を不審に思いつつも俺は何事もない課業時間を過ごさせてもらっていた。 ま、毎日あいつに付き合わされてたら体が持たないんだし、たまにはこんな日があってもいいだろう。 別に風邪やインフルエンザが流行っていた訳でもないせいか、岡部曰く無断欠席だったらしいのに――触らぬ何とかにって奴なのかもしれんが――誰一人ハルヒの事を話題にする奴は居なかった。 何かあったのなら古泉なり誰かから連絡があるだろうしな……と、高をくくっていたんだが――放課後、俺が部室で見たのは黒板に殴り書かれた白いチョークによるメッセージだった。 内容は1行『SОS団は今、宇宙人を探しに行っています 期間未定』 ……これって……笑えねー……。 読んだ瞬間思わず窓際を確認してしまったが、そこにはいつもの文芸部員の姿どころか椅子すら置かれていなかった。 って事は、長門は昼休みもここに来てないのか。
――ハルヒの携帯電話は電源が入っていないらしい。
あいつが暴走するのは、まあいつもの事だろう。
――何となくそうだとは思ったが、古泉も電話が繋がらない。
宇宙人を捕まえるなんてのも、あいつにとってはごく普通の発想だ。
――朝比奈さんも同じく、そして長門も。
無人の部室に足を踏み入れた俺は、何となくいつもの自分のパイプ椅子に座っていた。 あいつらが居ないこの場所に、何の用もないのにな。 ――あれから数時間がたったが、冷たいテーブルに片肘をついたまま何となく俺はその場に留まっている。 ……何してるんだろうな、本当。 正直、ハルヒがもしかして戻ってくるのでは? なんて思いが全く無かったといえば嘘になる。 しかし日が落ちかけて夕方になっても携帯の着信は無し、ついでに誰も部室に姿を現す事はなかった。 そろそろ帰る……か。 無理矢理に力を入れて立ち上がった俺は――ああ、そういえば今日はまだお茶を飲んでなかったな――一度は出口へ向けかけていた足を、再び部屋の奥へと向けた。 茶器棚の前に立ち、朝比奈さんが普段やってくれていた手順を真似て俺はお茶を……あ、お湯がない。 すかすかと抵抗なく下がる給湯ボタンは、まるで今の俺みた――バタンッ! 突然部室に響いた遠慮の感じられないドアを開ける音、そして「やー! みんな居るー……あ、あれ?」 その音に、思わず俺が振り向いたのは仕方ないだろう。 そこに居たのはハルヒではなく、たまに部室に顔を見せる非常勤団員の鶴屋さんだった。「キョン君だけなのかい? ……わわっ! 足元足元!」 え? ……うおっ蓋を開けたままだったか! 急に向きを変えた俺の手元からは、勢いよく乾いた茶葉が散乱していた。「あ~らら~……これは掃除しなきゃだね、箒持って来るよ!」 跳ねるような足取りで動き回る鶴屋さんの姿に、俺は多分、今日始めて笑っていた。
「じゃあ、キョン君は聞いてないのかぁ」 聞くって、何をですか?「ハルにゃんの渡米の事っさ」 渡……米――えええええええ?! ――帰り道、実に丁寧に説明してくれた鶴屋さんの話によれば……だ。「昨日、ハルにゃんがテレビの宇宙人特集を見てたら外国でついに宇宙人を捕獲とか言ってたらしくてね? それを聞いたら我慢できなくなったみたいで海外旅行に必要な物とか色々聞かれたのさ~。それで、パスポートとかの準備の仕方を教えてあげたんだけど、まっさか今日いきなり行っちゃうとは思わなかったよ~」 誰か、あいつに娯楽番組の信憑性について教えてやってください。「その日の内にみくるや長門っちからも同じ事を聞かれてさ~これはもう、絶対みんなで行くんだとばっかり思ってたのさ。ちょうど明日から3連休だし」 そっか、そういえば3連休だったな……どうせハルヒに付き合わされる事になるだろうって、何も考えてなかったぜ。「部室にキョン君しか居なかったって事は、もしかしてみくるや長門っちや古泉君も?」 どうやらそうらしいです。 やれやれ。今の状況を、俺はどう取ればいいんだろうな? ハルヒに振り回されずに済んだ事を喜ぶべきなのか、それとも……。「そっかぁ、じゃあ今は2人っきりなのかぁ……ふ~ん」 そんなどうでもいい事に悩んでいた俺の隣で、鶴屋さんは何やら独り言を言っていた。
「じゃあまた明日ねっ!」 そう元気に言い残し去っていった上級生の声を、「おっはよーキョン君! 朝だよ!」 翌朝、俺はベットの上で携帯電話越しに再び聞く事になった。 携帯電話に表示されている時間は……おお、もう9時なのか。 いつもの俺なら、今頃無駄な抵抗としりつつも駅前に自転車を走らせてる頃だな。「ほらほらっ! 起きてよ起きて!」 あ、すみません。おはようございます。 相変わらず元気ですね。「じゃあ駅前に10時! 待ってるからね!」 はい、わかりました。……? ……あ、あれ? 鶴屋さ――切れてる。 俺、寝ぼけてる間に何か言ってしまったんだろうか? まあいい、取りあえずここは行くしかないだろ。 えっと、今から着替えて駅まで行くとすると……ぎりぎりじゃねーか!
「遅刻~」 す、すみません。 奮戦虚しく、駅前にあるいつもの俺達が使っていた公園に俺が到着したのは10時を少し過ぎた頃だった。 鶴屋さんは楽しくてしかたない顔で俺を指差しながら、「じゃあ罰金だねっ!」 そう言って俺の腕を取りご機嫌で歩き始めた。 鶴屋さん、あの。「キョン君は朝ご飯食べてきたかい?」 あ、まだです。「実はあたしもまだなのさ。朝は結構食べる方?」 まあ普通には。「それじゃあ……あそこ! あの喫茶店はどうかな? いいよね! 行こー!」 おわっ! う、腕を掴んだまま走らないでください! ――あの、鶴屋さん。「ん、なになに?」 えっと……これって1人分、ですか? 2人掛けの丸いテーブルの上には文字通り所狭しとばかりに軽食やケーキが並び、その中で狭苦しそうに俺のモーニングセットが置かれている。 まるでメニューの写真をそのまま具現化したような状態を前に、「あ~ちょろっと多かったかもね」 これで、ちょろっと……ですか。 俺の食事一日分より多いよな、これ。「男の子とデートなんて久しぶりで舞い上がっちゃってついついね。あ! でもちゃ~んと残さず食べるから安心して?」 いえ、手伝いますよ。 いくらなんでもこれは食べきれないだろう……ん、今デートって言いませんでしたか?「いただきますっ!」 ――前言撤回、文字にすればちょろ~んとでも表現する程の手軽さで鶴屋さんは食欲を発揮し、十数分後テーブルの上は空になっていた。 こ、この細い体のどこに入ったんだ? 朝食のカテゴリーにはどう考えても入らない量の食事を終えたばかりのはずなのに、鶴屋さんの腹部からはそれらしい痕跡を見つける事はできない。「おやおや~? キョン君のえっちぃ視線を感じるなぁ」 ええっ? いや、その……すみません。 そんなつもりじゃなかったんですが。「あははっ。見てもらえるのは嬉しいけど、食後のお腹は見ちゃだめさ~。見るなら胸か顔か胸にしてね」 そう言いながら立ち上がった鶴屋さんは胸元を強調したポーズを決めると、そのまま伝票を持ってレジへと歩いて行ってしまった。 ……なんていうか、ハルヒとは違う方向で自由な人だよな。 結局、「いいよいいよ! 殆どあたしの分なんだから」と押し切られ、支払いは俺の分も含めて鶴屋さんがもってくれた。 ご馳走様でした、お昼か何かでお返ししますね。 店を出た所で俺がそう申し出ると、「本当? うっれしいなぁ~」 跳ねるように喜ぶ、というか実際に跳ねて喜ぶ鶴屋さんの姿は1つ年上の先輩とはどうしても思えない。「じゃ~今日はどこから行こうか? 映画? 遊園地?」 えっと、その前に聞いてもいいですか?「いいよ~何でも聞いちゃって!」 なんていうか、今更なんですが……。 今日は、どんな趣旨で集まったんですか? まさか本当にデートって事もないだろうし。「あれれ、情報の伝達に齟齬が発生してるねぇ。みくるから聞いてた市内探索ってこんな感じだったんだけど違うのかな」 朝比奈さんから、ですか?「そうそう。みくるによるとね、休日はみんなで集まって色んな所に出かけたりして~、キョン君と2人っきりでデートみたいでどきどきしちゃった事もあるって言ってたよ」 ……まあ、大筋で言えばあってますね。 そこに「不思議な何かを探してきなさい!」なんていうアバウトで無茶な命令さえなければそんな感じです。朝比奈さんと2人っきりになれたのは偶然ですけど。「じゃあいいよね! さ~今日は色々付き合ってもらっちゃうよ~! 覚悟はいいかな?ダメかな?」 ……その笑顔を前に、首を横に振る男なんていませんよ。 お手柔らかに。 そう言って頷いた俺の手を両手で掴み、まるで飼い主を引っ張る小型犬の様に鶴屋さんは俺の手を引いて行くのだった。
アーケード沿いで目に付いた服屋の中、きょろきょろと視線を彷徨わせていた鶴屋さんの動きが止まる。「ん~キョン君って可愛い系の帽子とか似合うと思うんだけどね」 そうですか? あんまり帽子を被らないのでよくわからないですけど。「ほら、これとかいいかも。被ってみ~せて」 そう言って手渡されたのは……本気ですか? 両端から毛糸の玉がぶら下がった暖かそうな色の毛糸の帽子だった。「見たいな~見たいな~」 そんな期待した目で見られてもちょっとこれは……。 なんていうかもう、朝比奈さんが被る様なデザインだと思いますよ?「……見たいにょろ」 そんな上目使いで見ても駄目で……はぁ……わかりました。 確認しても無駄なんだが一応回りを確認しつつ、俺はその暖かそうな毛糸の集合体を頭皮を覆うように被せてみた。「わわ! 思った通りやっぱり似合うよ、か~わい~! ほらほら自分でも見て見て!」 そうはしゃぎながら鶴屋さんが指差す先では……小さな鏡の中に、意外にも違和感の無い自分の姿があった。 ……これは……予想外だな。 その帽子は妹や朝比奈さんに似合いそうなデザインなのに、被ってみれば男の俺でもそれなりに見えるじゃないか。「これはいい物を見つけちゃったね。じゃあ、それに合う上着も見つけなきゃ」 ええ?! そ、そんなに予算は無いですよ?「だ~いじょ~ぶだ~いじょ~ぶ。後で体で払ってくれればいいからさっ!」 怖い事を言わないでください。 ――結局、なんとか鶴屋さんの購入意欲を抑える事に成功し、店を出た俺の手には例の毛糸の帽子が入った小さな紙袋が1つあるだけだった。 当たり前だが、ちゃんと自分で買ったぞ。「いい買い物だったねっ! じゃ~次はあそこ!」 そう言って指差すのは――また男性物の服を扱うお店ですか。 ――着せ替え人形ってのはこんな気持ちなんだろうか?「う~んそれもいいねぇ……はいっ! じゃ~次はこれっ」 差し出される新たな服を前に、俺は抵抗する事をいつしか止めていた。 鶴屋さんが持ってくる服は一見すると俺には似合いそうにないデザインばかりなのだが、着替えてみれば……なるほどしっくりくる。といった物ばかりで驚かされる。 ん、そろそろだな。手早く着替えを済ませて、俺がカーテンへと向き直ると「そろそろいいよねっ! ……あ、もう着てたのかぁ」 声と同時にカーテンをあけられるのにも――3回目だという事もあり――慣れました。 ……それと、その言い方だとまだ着ていて欲しくなかったみたいに聞こえるんですが。「うんうん。カチッとした服も似合うじゃないか~……そうだ写真撮ろうよ!」 写真、ですか。「うんっ!」 それはいいんですけど、流石にこの服は買えませんよ? さっき見たのが見間違いでなければ、この服のタグには俺の年間の小遣いと殆ど変わらない金額が書かれているはずだ。「じゃーここでいいやっ。ちょおっと詰めてね」 え、ちょっと! 鶴屋さん? 鶴屋さんは俺がまだ中に居る試着室に嬉しそうに入ってくる。そもそも試着室なんて人が2人入れる程広い訳もなく、殆ど密着するような状態の中で俺は固まっていた。「よいしょっとぉ」 鶴屋さんの手が当たり前の様にカーテンを閉めて……な、何で閉めるんですか? 写真を撮るんですよね?「え? ……あ、ごめんごめん! ついいつもの癖で」 いつもこんな事してるんですね。 苦笑いを浮かべる俺のすぐ隣で、鶴屋さんは携帯を持って手を伸ばしている。「じゃ~撮るよ! 笑って笑って~……」 自然と腕に絡んできた鶴屋さんの手が気になっていた俺の顔は、 ピロリロリー! きっと間抜けな顔に写っているはずだろう。「もう一枚! 次はもっとくっついちゃおっか」 鶴屋さん? すでに密着してるんですから、これ以上くっつくなんて無茶ですよ?! 抵抗しようにも狭すぎる試着室ではそれも叶わず、殆ど抱き合うような状態だった俺達の姿を「あの、お客様……」 騒いでいるのに気づいたらしい、困った顔の店員が見ていた。 ピロリロリー! ……それでも撮るんですね。
さて……鶴屋さんの今日の行動はいったい何なのか? まあ、ここまでしてもらえれば俺でもわかるさ。カマドウマ以下だと自覚したあの日以来、少しは進歩したつもりだからな。 つまり、鶴屋さんは1人取り残されて凹んでいた俺を励まそうと、いつもハルヒがやってる事を代わりにやってくれているだろうな。「どうしたの? なんだか嬉しそうな顔してるねぇ」 そう考えてみると、見上る鶴屋さんの視線にある気遣う様なニュアンスにも気づく事ができた。 ……俺なんかの為にここまでしてくれるこんなに優しい先輩が傍にいるのに、自分が不幸だなんて思ってたら罰が当たるよな。「何かいいことあったのかなぁ~。教えて欲しいなっ」 今、楽しいですから。 俺の言葉に目を丸くして、鶴屋さんは何故か小声になり「……これって、おね~さん口説かれてるんだよね」 そう耳元で囁くのだった……迫真の演技ですが、残念ながら目が笑ってますよ。それも含めての演技なんでしょうけど。 からかわないでください。 疲れた声でそう答える俺を見て、「こわ~い、キョン君がおこっちゃったー!」 鶴屋さんは嬉しそうに俺の回りをくるくると逃げ回るのだった。 やれやれ……。 ――この後、俺の認識レベルは未だにカマドウマ以下なのだと思い知る事になるのを、この時の俺は夢にも思っていなかった。
「じゃー次はここ! とその隣も行こう!」 当初、火災を起こした油田の様だった鶴屋さんのテンションは「ここも見ていこ?」 時間の経過によって徐々にその勢いを衰えさせていき……「美味しいね、ここの料理」 夕飯を食べる頃には口数も少なくなってきて「そっかぁ……もう、こんな時間なんだね」 空が暗くなる頃には、寂しげな表情になってしまっていた。 腕時計を見て溜息をつく鶴屋さんの顔は哀愁に満ちていて、ついさっきまで俺を振り回していた姿とは重ならない。 はじめて見た鶴屋さんのそんな表情を前に俺は何を言えばいいのかわからなくて、俺の少し前を歩く彼女もずっと無言のままだった。 俺の中の鶴屋さんと言えば、いつも笑顔の気のいい先輩だ。そんな彼女の背中は、今はとても小さく見える。「あ~あ……着いちゃった」 鶴屋さんがそう呟いた時、俺は自分が居る場所が待ち合わせをした駅前の公園なんだと気がついた。 今日はここまでだな。 そう俺が思ったのも無理はなく、公園の時計は既に20時を指している。 つまんなそうな顔でぐるぐるとその場を歩く鶴屋さんは、公園の時計と俺の顔を交互に見比べていた。 その姿は以前、うちの妹が遊園地の出口でしていた無駄な抵抗と酷似していて……つまり、鶴屋さんはまだ遊び足りないんだろうな。 今日は楽しかったですね。「うん、すっごく楽しかったよ」 泣きそうな笑顔で答える鶴屋さんに、俺は準備しておいた言葉を繋ぐ。 よかったら、明日も一緒に遊びませんか? それは彼女の寂しさを止める特効薬、そう思っていたんだが……俺の予想って奴は基本的に当たらない様にできているのかもしれない。「……やだ」 短く響く否定の言葉。そして――「帰っちゃ、やだ」 そっと伸びてきた鶴屋さんの手が、俺の服を掴んだ。
まるで地面に根が生えたかの様に動かなくなってしまった鶴屋さんを前に、俺はどうしていいのかわからずうろたえるだけだった。 帰っちゃやだって……ここにずっと居る訳にはいかないですよ? それは、今日は帰りましょうという意味で言ったつもりだったんだが、「タクシー!」 鶴屋さんは自由な方の手で、通りを走るタクシーへと合図を送るのだった。 道路沿いに一台のタクシーが止まり、鶴屋さんは俺の服を掴んだまま歩いて行く。 あの、俺は自転車で来て……鶴屋さん? 後部座席に乗り込んで行く間もその手は離される事はなくて、どうしたらわからないでいると、「……乗って欲しいな」 鶴屋さんは俺から視線を逸らしてそう言った。 乗ってって……。 その言葉は、ちょうど通り道だから乗せていってあげるとかそんな雰囲気ではなく、それが分かってしまった俺は正直躊躇していたんだが。「……」 人を引き止める力は、実際の力とは比例しないらしい。 いつになく弱気な鶴屋さんを前に、俺はその手を振り解くことは出来なかった。
夜の街を抜けてタクシーが辿り着いたのは、見覚えのない高そうなマンションだった。 成り行きでここまできてしまったが、本当にこのままついていっていいのか? なんていうかその……色々とまずいだろ? そう焦る気持ちの中に、何一つ邪な思いが無かったか? と聞かれれば……正直、真実の口に手を入れる勇気は無い。 そうこうしている間に、鶴屋さんはマンションの部屋の1つの前で足を止めた。 ここが……その。 鶴屋さんが右手を壁のパネルにかざすと、小さな機械音と一緒に部屋のドアが開く。 引き返すなら今しかない、部屋に入ってしまったらきっと戻れなくなる。そう自分でも思っているんだが、体はそこから動こうとしてくれない。 ドアが開くのにあわせて玄関の電気が自動で点灯する中、鶴屋さんは1つも靴が置かれていない玄関の床をじっと見つめている。 しばらく彼女はそうしていたが、やがて溜息をついて「……さ、あがって」 妙に静かだった鶴屋さんの声は、俺に拒否する選択肢など忘れさせてしまった。 ――リビングに案内された俺が見たのは……これって「やっぱり気づくよね」 そこで俺が見たのはリビングから繋がる二つの部屋の扉。1つには「鶴屋」と妙に達筆な字が書かれた札がかかっていて、もう1つの部屋には控えめな字で「朝比奈」と書かれた札が下がっている。 もしかしてこの部屋は、「そ、みくるの部屋だよ」 鶴屋さんはそう言って――あ、あの?! いいんですか?――何の躊躇いも無く朝比奈さんの部屋のドアを開けてしまった。 ドアの隙間からは、いかにも朝比奈さんらしい可愛らしい家具やベットが見え隠れしている。「みくるにはこの事は秘密にしててって言われてるから、内緒にしててね?」 えっと、はい。わかりました。 ……朝比奈さんがこの時代でどうやって生活しているのか謎だったが、まさか鶴屋さんと同棲してるとはね。 ある意味、あのそそっかしいお方にとってしっかり者の鶴屋さんは、最適な同居人かもしれない。「口止め料。いるかな」 どきっとする様な甘い声に思わず固まる俺を見て、鶴屋さんの顔にようやく笑顔が戻っていた。「今、どきどきだったでしょ~」 ……今のはやばかった、本当に。 時折見せる鶴屋さんの切なそうな視線に、俺の心拍数はさっきから乱れっぱなしだ。「じゃあ、キョン君はみくるの部屋を使って。みくるもキョン君なら嬉しいだろうし」 えええ?! そ、それはちょっと。 決して不満はありませんというかむしろ有難いくらいなんですが、色々と問題ありますよね? 「それとも、あたしと一緒に寝ちゃう?」 ……鶴屋さん。「はいはーい」 あんまりからかわないでください。 一応、俺も男なんですよ? こんな簡単に部屋に入れてくれる所からして、そうは思われてないんでしょうけど。 憮然とする俺に一言、「からかってなんかいないよ」 鶴屋さんは真剣な声でそう言い残し、バスルームと札が下がった部屋へと歩いていった。 ――お、おい。どうするんだ俺! リビングにはバスルームから聞こえるシャワーの音が静かに響いていて、俺はソファーの上で状況の整理に追われていた。 まず間違いないのは、このままここに居れば遠からず鶴屋さんが戻ってくるって事だ。 どうする、逃げるか? といっても逃げるとしたら朝比奈さんの部屋か外しかないよな。 朝比奈さんの部屋は論外――本当は行きたいが――だ。 となれば、後は帰るって選択肢しかないんだが……えっと……その……つまり……。 ……ええい! はっきり言おう。 俺は期待していたわけだ。色々と……な。
「お待たせしちゃってごめんね」 数分後、バスルームから出てきた鶴屋さんは……何でバスタオルしか巻いてないんですか?! 薄赤く火照った鶴屋さんの体を包んでいるのは、たった一枚の白いバスタオルだけだった。「着替えを持っていくの忘れちゃってさ~」 そう言いながら、鶴屋さんは何事も無いかのように俺が座っているソファーへと真っ直ぐリビングを横断してくる。 ちょ、ちょっとあの! 逃げる余裕も無く無様に転がる俺を見て、「え? なになに」 鶴屋さんは不思議そうな顔をしていた。 そ、それ以上近づいたら色々とまずいんです! 鶴屋さんの体から直接ボディーソープの匂いがするとか、肌に残った水滴がやけに色っぽいとか、ボリュームに負けて胸元がタオルからはみ出そうになってるとか色々もうぎりぎりですってば!「やだなぁ~タオル取るだけだよ~」 ……へ。タオル?「そうそうタオル。キョン君の座ってるソファーの下に引出しがあるから、そこから一枚取ってく~ださい」 見れば確かにソファーの下段は引き出しになっていて、言われるままにそっと引いて見る……ん、これタオルにしては小さいよな、というか可愛い……素材はシルクってえ! 思わず俺が壊れる程の勢いで引出しを閉めたのは仕方ないだろう。「あ?! ご、ごめんこっちだった!」 慌てた鶴屋さんが別のソファーの前にしゃがみ、それ程きつく縛っていなかった――と、いうよりもそもそもバスタオルの面積では足りていなかった――バスタオルが解けてしまい、鶴屋さんの素肌が見――シャワーお借りします! ……思わず、俺がシャワーに逃げ込んだのは仕方ない事だよな。
――コンコン 流石高級マンションって所か、脱衣所だけでなくシャワーの中までゆったりとした作りだった事に俺は驚きつつ、 ――コンコンコン もしも1人暮らしをするならこんな部屋に住んでみたいなんて事を ――コンコンコンコン のんびりと考えてはいられないらしい。 ――コンコンコンコンコン ついさっき、事故とはいえあられもないお姿をほんの少しだけ見てしまった鶴屋さんは、今は脱衣所でバスルームへ侵入しようとドアをノックしている。「キョンく~ん……怒ってる~?」 怒ってませんよ? 鶴屋さんが怒るのならわかりますが。「じゃあ、何でここ開けてくれないのさ~」 俺が入ってて、今裸だからです。「みくるは鍵なんかかけないよ?」 それは同姓だからでしょうね。 ……朝比奈さんと鶴屋さんが一緒にシャワーって、天国って割と身近にあったんだな。「男女差別はいけないと思います」 では、朝比奈さんにも鍵をかけるように進言してみますよ。 あのお方には鍵をかける事をもっと真剣に考えて欲しいですからね。「そんなのやだ~! さっきの事は謝るからあけてよ~」 ――コンコンコンコンコンコン いや、謝るとかそ~ゆ~事じゃなくて……あ、俺ここからどうやって出ればいいんだ? 服は脱衣所で鶴屋さんが居るし、他に出口はなんて……ある訳ないか。「開けてくれないと電気消しちゃうよ?」 うちの妹みたいないたずらしないでください。 ……まいったな、鶴屋さんが諦めてくれるのを待つしかないのか? シャワーを出しっぱなしじゃのぼせてしまうし、止めてたら風邪を引いてしまう。 何とか説得するしかないよな。声が届き易いようにシャワーを止めた俺は、曇りガラスの向こう側に張り付いている先輩に交渉を試みた。 あの、鶴屋さん。「なになに!」 その期待する様な返事に……さっき公園に居た時と比べると元気になってくれたみたいだなと俺は思っていた。ちょっと元気良すぎだけど。 そろそろ出たいので、脱衣所から出てもらえませんか?「うん、わかった~。じゃあまずここ開けて?」 意味がわかりません。「だから~。キョン君は脱衣所に行きたいんでしょ?」 はい、そうです。「そしてあたしはシャワーに行きたい。お互いに入れ替わればいいと思わないっかな」 思いません。「どうしてさ~!」 どうしてって……俺が裸だからです。「あたしは気にしないよ?」 そこは気にしてください。「じゃあ気にするから開けて!」 ……どうすりゃいいんだよ……これ? 早くも冷え始めてきた浴室内が俺を焦らせるが、これといっていい手は思いつかない。 ええい面倒だ、もう開けてしまおうか? いやまてまて、それこそが鶴屋さんの狙いなんだろうし……鶴屋さん! そこから出てくれないと俺、帰りますよ?! 勢い任せで言ったその言葉は、「……ごめんなさい」 え? あ、あの……。 あれ程手ごわかった鶴屋さんを、あっさりと引き下がらせてしまったのだった。
脱衣所にあったはずの俺の服は何故か姿を消していて、代わりに残されていたのは男物のワイシャツと大き目のパジャマのズボンだった。 ……これを着ろって事だよな。っていうか、このワイシャツって誰のだ? ――色々と疑問を残しながらも着替えを終えた俺がリビングに戻ると、そこに鶴屋さんの姿は無かった。 代わりにテーブルの上に置いてある一枚の紙。 そこに書かれていたのは『帰らないでね』――以上。 何で鶴屋さんはそこまでして俺を引き止めたいんだろう? 俺しか居ないリビングにはその問いに答えられる者は存在せず、その答えを知っているはずの彼女が居る部屋の扉を俺はじっと見つめていた。 ……ま、考えても仕方ないか。 一日の疲れがようやく襲ってきた事もあり、俺はとりあえず考えるのは止めて眠る事にした。 流石に朝比奈さんの部屋を本当に借りるわけにはいかないよな……別の意味で寝られそうにないし。 幸い、リビングはエアコンが効いていて暖かかった事もあり、俺はバスタオルを数枚準備してソファーを借りて寝る事にした。 明らかに自分のベットよりも寝心地がいいソファーに複雑な思いを抱きつつ、迫ってくる睡魔に心地よく身を任せ……――
いつの間にか眠っていた俺は、暖かい何かが胸元に居る事に気がついた。 シャミセン……? ずいぶん毛並みが良くなったじゃないか。まめにブラッシングをした成果だな。 手に触れる滑らかな感触はとても心地よくて俺は飽きる事無くその毛を撫でていた。「……ん……んん……」 ん? ……シャミセンはいつも、俺の布団の上に寝てるはずだよな……。 寝ぼけた頭に浮かんだ疑問は。 ああ、今日は寒いからか。 頭を動かすのが面倒だったのもあり、あっさりと消えていった。 俺も寒いし、どうせならもっと引き寄せよう。そう考えた俺はそっと手を伸ばし、暖かなその体を……ん、シャミセンお前大きくなったな…………違う! 俺は鶴屋さんの部屋に居るはずだし、シャミセンはこんなにつるつるとした肌じゃない!「……すう……すう……」 即座に眠気なんか吹っ飛んだよ。 そこに居たのは毛むくじゃらのシャミセンなどではなく、俺と同じ物であろうワイシャツに身を包んでいる鶴屋さんだったんだ。 何で俺の隣に鶴屋さんが寝てるんだ? ここはリビング……だ。よかった。どうやら俺が鶴屋さんに夜這いをかけたんじゃないらしい。 俺が体を起こした事で隙間が出来たのか、鶴屋さんは温もりを求めて俺の体に擦り寄ってくる。胸元でワイシャツ越しに感じる彼女の肌の感触は……な、中に何も着て……? 一旦走り出した欲望は、そう簡単にはとまってはくれない。 ――お、おい、どうするつもりだ? そっと彼女の髪に触れ、そのまま優しく撫でる。 ――後先考えずに動いていいのか? 後で後悔するぞ?「……ん……ぅん……」 心地良さそうな吐息、そして更に擦り寄ってくる鶴屋さんの体。 ――ここまでされて止めろなんて言えないが、ちょっと冷静になってみろ? な? 彼女の手が俺の背に回されて、何かを求めるように指先が背中を這う。 ――……。 もう、理性の声も聞こえてこない。 世の中には思い切りがいい奴ってのは確かに居る。俺がその仲間入りをするのは今だ! 全身に感じる柔らかな彼女の感触の前に、俺は我慢する事を「……みくる」 え? 静かな室内に悲しげに響いた鶴屋さんの声、そして――「どこにも行かないで……みくる……」 俺の体を痛いほどに抱きしめながら、彼女は泣いていた。
「……あ……」 おはようございます。「お、おはよ~う」 照れくさそうに、彼女は俺の胸の中で微笑んだ。 というか、結局鶴屋さんは眠ったまま俺を離してくれず、俺たちは抱き合ったまま一夜を明かしてしまったわけだ。 ……腕枕ってしんどいんだな、勉強になったよ。「キョン君…………えっと…………うん、なんでもない」 鶴屋さんが嬉しそうで……どこか寂しそうな顔をしていたのは、やはりここに居たのが朝比奈さんではなかったからなのだろう。 それだとしても……何かの足しにはなれるかもしれないよな。 鶴屋さん。「ん?」 朝比奈さんが帰って来るまで、俺でよければ代わりになりますよ。 俺じゃ役不足ですけどね。「ほ、本当? いいの」 ええ。俺の為にハルヒの代わりまでやってもらったんですから、それくらいお安い御用ですよ。「……キョン君、気づいてたんだ」 はい。なんとなくですけど。 そもそも、貴女が俺を休日に呼び出すなんて今までに一度も無かった事ですからね。そんな強引な事をする奴は、1人しか心当たりがありません。「そっか。じゃ~あたしもハルにゃんの代わりを続けたらいい?」 いや、鶴屋さんは鶴屋さんのままでいいですよ。「え?」 あいつの代わりなんて疲れるでしょうからね。 色々と。「……キョン君って……本当に……」 本当に……なんですか?「……なんでもないっ!」 言いながら抱きついてくる鶴屋さんの重みを受け止めながら、俺はどうしていいのかわからなくて彼女の髪を撫で続けていた。
ワイシャツ姿の鶴屋さんは俺の向かいのソファーに座り、さっき淹れてきてくれたコーヒーを飲みながら楽しそうに話を続けいる――実は鶴屋さんは朝弱いらしく、昨日の喫茶店ではかなり無理をしていたらしい、なんで無理をしていたのかは謎だ。「それでね? 急にみくるは飛び出して行っちゃってもう本当にびっくりだったよ」 鶴屋さんに何か言って行かなかったんですか?「ぜ~んぜん何も。ただ、こ~ゆ~事は今までにも何度かあったから、またハルにゃん関係なんだって事はわかってたんだけどね。電話も無いのは初めてだから不安なんだ~」 ハルヒ関係……ですか。 朝日奈さんは鶴屋さんに、いったいどこまで話しているんだろう? そう俺が思ったのを感じ取ったのか、鶴屋さんは首を横に振り「みくるは何も教えてくれないけどさ、あの子の行動を見てればそれしかないって誰だってすぐにわかっちゃうって。特に、今回はハルにゃんと話をした直後だったからね~」 まあ、確かに。 態度でも嘘をつけない人だからなぁ……あの人。「……昔ね、あたしの家のマンションに同学年の女の子が部屋を使ってるって話を聞いたんだ。で、どんな子かな~って思って見に行ってみたら、それがみくるだったの」 そうだったんですか。「はじめて見たみくるはもう本当に不思議な子でね? なんだか一般常識とかまるで知らない世界から来たんじゃないかってくらい挙動不審でさ~。思わず放ってはおけなくなっちゃって、広い部屋に引っ越して2人で暮らし始めたの」 ……あの、その引越しの辺りは素直にそうですかって言えないんですが。「まあ……うん。……コーヒーのおかわり、いるかな?」 頂きます。 続きを言いにくそうにしていた鶴屋さんの提案に、俺は頷いた。 カップにコーヒーを注ぐまでの僅かな時間に何かを思い出したのか、「はい、どうぞ」 次に顔をあげた時、鶴屋さんは幸せそうな顔をしていた。「……本当はね? 心配だったとかは全部言い訳で、みくるがあんまりにも可愛かっただけなのさ。そんなみくるとあたしが勝手に一緒に居たいって思っただけなの。みくるは初対面だったあたしのそんな我侭を許してくれただけ。でも、本当に凄く嬉しかったんだぁ」 ……鶴屋さんって本当にハルヒと似た人だな。「殆ど無理やり同棲を決めちゃったし、家賃もタダでいいって言ったんだけどみくるはせめて半額だけでも払わせてって聞かなくってさ~。あ、でもみくるって意外と衝動買いとかしちゃう癖があってね? 厳しい月は待ってくださいってお願いされたりとかさ~。もうめがっさ可愛いんだよ~? 他にもね、みくるが朝起きた時に寝ぼけて……――」 朝比奈さんとの思い出を本当に幸せそうに話していた鶴屋さんは、やがて言葉に力を無くしていき――「でも……いつか居なくなっちゃうんだよ……ね」 そう言って、口を閉ざした。 居なくなるって……それっていったい。「みくるが……同棲を始めた日に言ったの。しばらくの間お世話になりますって。高校を出るまでとかそんな理由なのかなって思って聞いたけど、どうしても教えてくれなかった。それから……ハルにゃん達と付き合いだして、みくるは時々家に帰らなかったりするようになったんだ。そのたびに、もう二度とみくると会えないんじゃないかって不安で仕方なかった。理由を聞いてもみくるは教えられないって言うし、そのたびに凄く辛そうな顔をするから……」 ……そうですか。 俺のその返事に鶴屋さんは何かを聞きたそうにしていたが、「……ダメなんだよ……ね。うん、ごめん」 たとえ聞かれても、俺には答えられないという事を彼女は気づいているようだ。 察しのいい鶴屋さんだけに、何も言わないで行ってしまった朝比奈さんへの不安は人一倍なのだろう。携帯電話も不通のままだし、今の所帰ってくる気配も無いんだからな。 ……やれやれ、そんな状態の鶴屋さんに俺は気を使ってもらってたのかよ。カマドウマを超えるってのは何とも難しい事だぜ。 今俺がすべき事は溜息をつく事なんかじゃない、それくらい俺でもわかるさ。 なるべく明るい声になるよう意識して、俺は口を開いた。 いつもなら、朝比奈さんとはどうやって過ごしてるんですか?「え? ……いつもなら……うん、こうやって午前中はのんびりお喋りしてるね。そしてお昼はあたしが作って、あ! キョン君知ってる? ああ見えてみくるって意外と料理が苦手だったりするんだよ~……あれ、その顔は知ってた?」 ええまあ。 正直、俺も意外でした。「おやおや、これはもしかして2人はどきどきな関係とかなのかな?」 勘ぐるような視線を向ける鶴屋さんには悪いが、残念ながら違います。 前にイベントで手を貸してもらった事があるんですよ。ほら、秋頃の……「ああ! あのハロウィンの時のだねっ! あの時のキョン君が作ったクッキー美味しかったよ~」 ありがとうございます。 なんていうか、鶴屋さんに褒められるとやけに嬉しいです。「ねえねえ、昼から材料買ってくるからまた作ってもらっていいかな?」 もちろんいいですよ。「やったー! あ、じゃあ、夜は今度こそ一緒にお風呂も……」 それはないです。「……ぶ~……へへっ」 ようやく戻った鶴屋さんの笑顔に……ああ、俺はもう朝比奈さんが戻ってくるまで、この人の傍から離れる事はできないんだろうな……なんて事をぼんやりと考えていた。 それは決して不満なんかじゃなく、むしろ――
――それから二日後、成田空港のロビーに俺と鶴屋さんの姿があった。 2人の手には外国へのチケットが……ある訳はなく、鶴屋さんは携帯電話を両手でしっかりと握り締めている。 そこには、朝比奈さんからの一通のメールが届いていた。『あしたの11じのびんでなりたくうこうにかえります』 余程慌てて作ったメールなのか、本文は漢字すらない内容で「これ見て! み、みくるが帰ってくるって! あうわあわわ……キョ、キョン君急がないと?!」 メールを受け取った鶴屋さんは、1秒を惜しむような顔つきで車の手配をするのだった。 そして今、俺の手をしっかりと握った鶴屋さんはじっと帰国ゲートの人の流れを見つめている。 朝比奈さんからのメールにあった11時の便ってのが23時という意味でなければ、この人波のどこかに彼女は居るはずだ。 俺と鶴屋さんの視線よりも早く――「あ!!」 ……何で俺は笑ってるんだろうな? ロビーに響いた、聞きなれたあいつの声。 でかい鞄をカートに載せたハルヒが、俺達をの姿を見てでかい口を開けて立っていた。「な、なんであんた達が……手……」 そう呟くハルヒの後方に懐かしい栗色の長い髪が見えたと思うと、その瞬間俺の隣に居た鶴屋さんは繋いでいた手を離し、人波を掻き分けながらゲートに向かって走っていった。「みくるーーー!!!」 鶴屋さんの大声に朝比奈さんが気づき、そして自分の下へ走ってくる鶴屋さんを見つけて何とか前へと進もうとする。しかしゲートを進む人波に阻まれてそれは殆どもがいているだけだった。「と、通してください……通してくださ~い!」 珍しく大きな声をあげた朝比奈さんの元に、進入禁止のゲートを飛び越えた鶴屋さんが降り立つ。「みくるっ!」「うう……黙って出て行ってごめんなさいっ。ごめんなさい~」「本当に心配したよ~」 泣きながら抱き合う二人に、すでに離れた場所に居たハルヒも、回りの旅行客も、ついでに近くに居た警備員までもただ苦笑いを浮かべていた。 ――俺の出番はこれで終わり、だな。 人の波に逆らうように立ちながら、俺はそんな事を思い……そうだな、少しだけ寂しかった気もする。「お久しぶりです、お元気でしたか?」 数日振りに聞いたその声は懐かしかったんだが、今ははっきりと邪魔だ。 今、感動のシーンを見てるんだ。後にしろ。「これは手厳しい」 そう言いながら俺の隣で苦笑いを浮かべているのは古泉だった。「何の連絡もしないまま不在にして申し訳ありません」 そうか、じゃあ何も申し訳するな。 正直聞きたいとも思わん。「……どうやら、酷く機嫌を損ねてしまったようですね。ここはひとまず長門さんにお任せしましょう」 人込みの中、古泉と入れ替えて目の前に立った長門は、何も言わないまま俺の手を取って一言。「会いたかった」 ……え? あ、おい、長門。それっていったい。 突然すぎる長門の言葉に俺が動揺する中、長門は後ろを向いて去っていってしまった。 い、今のはいったいどんな意味なんだ?「流石は長門さんですね。素晴らしいコメントでした」 何故かにやついている古泉を睨めつけてやると、古泉はその視線を避けるように逃げつつロビーの一角、じっと動かずにこちらを見ているハルヒを指し示した。「今、貴方の抱えている疑問の答えは、全て涼宮さんが知っているはずですよ。長門さんの事も含めてね」 それで十分とでも言いたげな顔で、自称超能力者はその場を足早に去っていく。 ……ハルヒが答えを知ってるだって? 単にあいつの相手が面倒だから押し付けただけじゃないのか? そう不満を思い浮かべながらも、何故か俺の足はハルヒの方へと向かっていた。 だいたいだ。別に俺はハルヒと常に一緒にいなきゃいけない理由なんてないんだし、たまにはこんな事があったって別に問題なんて無い。 むしろ、いい休暇だったって思うくらいのもんだぜ……ええいくそっ! 何であいつを見ると俺の顔は笑おうとするんだよ? 思い浮かぶ愚痴とは裏腹に、何故か俺の顔は笑おうと動くのだった。「ただいま」 ようやく目の前に辿り着いた俺に、ハルヒが呟いた声。 ……なんで俺はこいつの声でそんなに落ち着くんだろうな?「なんか……言いなさいよ」 何も言わずに立っている俺に、ハルヒは不満げな視線を向ける。 だが答えてはやらないぜ? ……理由は全くわからんが、俺はお前の声が聞きたいって、ここ数日ずっと思ってたんだからな。ずいぶん我慢させられたんだ、少しくらいはお前も我慢しろ。「……怒ってるの?」 わかりやすく言えばそうだろうな。分かりにくく言えば……俺にもわかんねーよ。 黙ったまま何も言い返さない俺の顔を、ハルヒの不安そうな顔が見ている。 でもま、このままにらめっこしてても仕方ないよな……。 ハルヒ。「な、なに?」 お前にそんな顔は似合わないぞ……なんてセリフは、俺には似合わないよな。 おかえり。 久しぶりに見たハルヒの向日葵の様な笑顔は……やっぱりなんでもない。
「それでね? 何とかうまくNASAって所まで忍び込んだんだけど、途中で見つかっちゃうし、みくるちゃんは迷子になるしでもう散々だった訳よ」 そうかい。 今俺がついてる溜息はあきれて出た物じゃない、安堵だ。 ったく無茶しやがったな、本当に。「凄く怖かったです。もう、帰れないかと思いました」 朝比奈さんの正体がばれたら違う意味で帰れなくなる所でしたね。「そいつは凄いね~。それで、結局宇宙人は見つかったのかな?」「だ~め。探し回ったけどどこにも見つからなかったわ。……何よキョン、あんたなんで笑ってんのよ」 なあハルヒ、お前幸せの青い鳥って知ってるか?「知ってるけど……それが何よ」 いや、なんでもない。「何よそれ」 古泉と長門はすでに予約していたらしい高速バスで、俺を含めた残りの4人は鶴屋さんの家の車に乗って帰途についていた。 空港に来る時は思いつめた顔をしていた鶴屋さんも、今は朝比奈さんの隣で嬉しそうに笑っている。 これぞまさに大団円って感じだな。「それにしてもさ! いくら急いでたからって、携帯に電話くらいしてくれてもいいじゃないか~。本当に心配したんだよ?」「ごめんなさい。それは……その」 申し訳無さそうに朝比奈さんが口ごもるのを見て、「それは全部あたしのせい。みんなが誰にも連絡を取らないように、昨日の夜まで携帯を取り上げてたの」 なんでそんな事をする必要があったんだ? ……ついでに言えば、何故俺だけ連れて行かなかったんだって疑問もあるが。「それは……その。えっと」 妙に歯切れの悪いハルヒを見て、今度は朝比奈さんが笑っている。 なあ、そろそろネタばらしをしてもいいんじゃないのか? そう俺が言ってもハルヒは赤い顔で俺を睨むだけで……言い出せないハルヒを見かねてなのか、代わりに朝比奈さんが口を開いた。「えっと。……涼宮さんは宇宙人を見つけて、キョン君を驚かしたかったから秘密にしてたんです」 …………そ、それだけ? 頷く朝比奈さんを前に、ハルヒはますます顔を赤くしている。「悪い? 悪いの? 毎日退屈そうにしてるあんたを驚かせてやろうって思っただけじゃないの!」 そうかい。 ……別に悪くはないが、宇宙人なら毎日見てるんだけどな。「宇宙人は見つけられなかったけど、はいこれ。あんたに」 そう言ってハルヒが差し出したのは小さなポストカードで、それを見た俺は思わず体を硬直させていた。「あれれ? この女の子ってどこかで見た事あるな~……1年の子だよね?」「はい。偶然、街で会ったんです」「キョン、あんたも覚えてるでしょ?」 誰が忘れるもんかよ――ポストカードの中でハルヒと長門の間で冷や汗を浮かべて立っていたのは……消えてしまったはずのクラス委員、朝倉涼子に間違いなかった。「カナダに留学したって事は聞いてたし、近くまで来てるんだからどこかで会うこともあるかなって思ってたら本当に会っちゃったのよ。何だか知らないけど、あんたによろしくって」 なるほどな、一瞬で謎は解決したよ。 お前は宇宙人を探してて、ついでに朝倉にも会えるかもしれないと思っていた。 その両方の条件に朝倉は一致してしまったって事か。 ハルヒのせいで朝倉が復活してしまったのかなんて事はわからないが、空港で見た長門の様子からしてもう朝倉に危険はないって事なんだろうな。多分。 ん、まてよ。 ってことはつまり……ハルヒが望んだ「宇宙人を探して俺を驚かす」ってのは全部達成されたって事か。「……あっれぇ、キョン君やけに真剣にその子の写真を見てるねぇ……これは新たな恋のライバル出現なのかな?」 え? あ、いや。く、くすぐったいです! 鶴屋さん脇腹を触るの止めてください!「……ふ~ん、あんた随分鶴屋さんと仲がいいのね」 無駄に冷たいハルヒの言葉に、「そりゃあ、ず~っと一緒に居れば……親しくもなっちゃう。よね」 な、何を言い出すんですか? しかもそこで俺に振らないでくださいよ!「ちょっとキョン! あんたあたしが居ない間何をしてたのよ!」 ハルヒ、いいから落ち着け。高速道路では後部座席でもシートベルトを外すな、投げられそうな物を探すな。「……キョン君……酷いです」 朝比奈さんまで!? ――逃げ場の無い車内の中で、俺はハルヒとの日常が戻ってきた事を実感していた。なんてセリフで終わらせられる様な状況じゃないだろ! 下手をすればこのまま世界まで終わってしまうんじゃないのか? ふてくされたハルヒが窓の外を睨みつけている間に、俺は鶴屋さんに小声で頼み込んでみた。 鶴屋さん、さっきの発言は……その。「あれって嘘じゃないでしょ?」 ……そりゃあ、まあ。えっと……それは重々わかってはいるんですがそこを何とか!「ん~……どうしても誤魔化さないとダメ?」 はい。その、色々とまずいんです。「じゃあ、お姉さんと約束して欲しいなぁ……」 な……何をですか?「あのね? 欲しくなっちゃったの」 ――脅える俺に向けられた視線は、鶴屋さんが朝比奈さんを始めて見た時と同じだったんだろうか?「ハルにゃんはキョン君の物でいいけど、キョン君はあたしの物。これって約束できるっかな?」 俺に向けられる無邪気な笑顔と、魅惑的な視線。 そして、欲しい物を絶対に手に入れるというハルヒにも似た強い意志。 そんな鶴屋さんを前に、俺は――
鶴屋さんに隷属 ~お姉さんには逆らえない~ ~終わり~
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